無法松の一生

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無法松の一生』(むほうまつのいっしょう)は小倉生まれの小説家・岩下俊作の小説『富島松五郎伝』を原作とした映画・演劇での題名であり、同小説の世間的に知られている題名でもある。

解説[編集]

福岡県小倉(現在の北九州市)を舞台に、荒くれ者の人力車夫・富島松五郎(通称無法松)と、よき友人となった矢先に急病死した陸軍大尉・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流を描く。

か弱い吉岡母子の将来を思い、身分差による己の分を弁えながらも無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい大団円などが描かれている。

当初、原作者岩下俊作が発表した『富島松五郎伝』の題で「九州文学」昭和14年10月号に掲載、中央文壇の目にとまり、「オール讀物」昭和15年6月号に掲載され、第10回直木賞候補作となった(本賞受賞できず)。

それを原題のまま獅子文六が「自己犠牲の物語だから、今の社会に十分通用する」と舞台化。

1943年(昭和18年)に大映が『無法松の一生』と改題して映画化を決め、伊丹万作が原作を忠実に脚色し、稲垣浩が監督し、宮川一夫が撮影を担当した。この映画が大人気となったほか、1958年(昭和33年)のリメイク版はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)を受賞した。

映画[編集]

映画は4度製作されたが、特に名高いのは伊丹万作が脚本、稲垣浩が監督を担当した戦前、戦後の2作品である。

大映・1943年版[編集]

昭和18年(1943年10月28日公開。製作は大映京都撮影所。

伊丹万作は病臥によって東宝との契約が解除となって日活多摩川に移り、再起の作として直木賞候補となった『富島松五郎伝』のシナリオ化に熱中していた。はじめ『いい奴』と題を着けたが、健康がすぐれぬため企画は見送られた。世が戦争一色に塗りつぶされるなか、日活は新興キネマ大都映画と合流し、大映となった。そうしたとき伊丹の書いた『いい奴』は時代劇を専門とする京都の企画として取り上げられた。『無法松の一生』という題は、このとき伊丹が改めたもので、病身だった伊丹に代わって、稲垣浩が監督を務めた。

岩下は映画にならいこれを『無法松の一生』と改題したが、岩下本人は終生このタイトルを嫌っていた。

臨戦体制下の映画としてはシナリオ検閲のあいだから問題があり、「無法者が主人公であること」、「賭博場面」、「喧嘩場面」、「軍人の未亡人に対する一方的な恋情」などが内務省から「好ましからず」との注意事項の付箋がつき、「賭博場面は全面的に削除」、「他は演出上の要注」ということで通検した。

稲垣は「この作品は尋常ならば通検しないところであるが、伊丹万作と私の実績によって通検したといえる」と語っている。撮入は昭和18年2月、完成は8月だった。しかし完成作品はまたも検閲保留処分に付され、未亡人に恋情する後半部分の数ヵ所をカットしての封切りとなり、稲垣曰く「悲運な目に遭遇」することとなった[1]

全長は99分あったが、内務省による検閲日本における検閲参照)で松五郎が未亡人に想いを打ち明けるシーンが10分カットされた(このシーンのフィルムは失われており、スチール写真のみが現存する)。さらに戦後占領軍による検閲で封建的だとされたシーン(吉岡敏雄が学芸会で唱歌「青葉の笛」を歌うシーン)が8分カットされた。

なお、最近になって後者のカットされたシーンが宮川一夫の遺品の中から発見され、2007年9月28日にカットされたシーンが特典映像として収録されたDVD角川エンタテインメントから発売された。

エピソード[編集]

2度検閲を受けたことが知られる。戦前の内務省によるものと、戦後の進駐軍によるものである。前者は無法松が「帝国軍人」の未亡人である吉岡夫人に「おれの心はきたない。奥さんにすまん」と言って去る場面や、死ぬ直前夫人の顔が大写しになる場面など10分ほどある。後者は学生が軍歌を歌う場面、小学生が唱歌「青葉の笛」を披露する場面など8分ほどだった。カットされたシナリオ部分を俳優が朗読することで復元する運動を評論家の白井芳夫は続けている[2]

稲垣監督が九州小倉の宿に泊まった時、宿の女中が気を利かせて宿下の浜辺の松林を指し、「ここで武蔵とお通さんが涙の別れを惜しんだのでございますよ」と説明してきた。ちょうど小倉の浜辺には村上元三原作の映画『佐々木小次郎』の完成記念に小次郎の碑が建てられて名所になっていて、女中は村上の小次郎と、吉川英治の武蔵を混同して思わぬ「実話」をつくっていたのである。

稲垣はこのときちょうど本作原作者の岩下俊作と一緒だったので、「今に無法松も実在の人物になってしまうでしょう」と言うと、岩下は「もう、すでにそうなっとるんですよ」と苦笑した。

岩下が昔の祇園太鼓の打ち方を知っているという古老に会うと、その人はこう言った。「わしゃ、無法松のけんかを子供のころよう見たが、ありゃものすごかもンじゃった・・・」 市の観光課の人に案内されて町を見物すると、「ここが松ツぁんのいた宿屋のあった通りだ」、「ここが吉岡大尉の住居跡です」、「この堀端で学生のけんかがあって、無法松はあっちのほうから・・・」と熱心に説明してくれる。あげくに無法松の墓や碑が建立されていたのである[3]

劇中の祇園太鼓は稲垣の依頼を受けて、太鼓打ちの田中伝次が創作したもので、本当の祇園太鼓とは違う。祇園太鼓の特徴は「裏打ち」といい、太鼓の裏でリズムをとり、表でメロディを打つのだが、裏打ちを早くすれば自然とリズムに乗って表うちが早くなり、それが「祇園太鼓の暴れ打ち」となる訳で、この映画によって、諸国でいろいろな太鼓が生まれ始めることとなった。太鼓打ちの田中伝次でさえ「太鼓の裏打ちは初めてだ」と言っていて、現在諸国で見られる裏打ち太鼓は、すべてこの映画『無法松』にヒントを得たものであり、「小倉太鼓」の亜流である[4][5]

無法松の碑が北九州市小倉区旦過駅近くの古船場町に立てられている。

佐藤忠男がさまざまなところで言及しているが、「二枚目」は恋愛するが、「立役」は恋愛しないという、日本文化の伝統を継承している。

影響[編集]

  • 無法松が祇園太鼓を連打する場面は現代の和太鼓ブームにつながったという[6]
  • 山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズは、実らぬ愛のために苦戦し、引き下がっていく男を描いたという意味でこの映画の影響が強い。無法松の職業が俥引きということから「車寅次郎」という名が採られたとも言われる。
  • 同じ山田洋次監督の『遥かなる山の呼び声』もアメリカ映画シェーン』とともに、この映画の影響があり、未亡人(倍賞千恵子)が「この子が、あんなに大きな声を出したの、初めて見たわ」という台詞があるが、『無法松』の未亡人の言葉から採られたもの。

スタッフ[編集]

この映画のラスト近くで、無法松が夢うつつの中で過去を振り返るシーンが出てくる。映像としては、無法松の顔や、人力車の走行シーンや、祭りの情景などが、カット割りせずに画面上に現れては消えるものである。ここでカメラマンの宮川一夫は、カメラからフィルムを取り出さずに「撮影→巻き戻し→再撮影……」を繰り返す「多重露光」を行うことで、この幻想的な映像を撮影した。撮影時の露出調整やタイミングが合っているかは、撮影がすべて終わって現像するまでわからない。撮影中のスタッフのストレスは相当なものであったという。

キャスト[編集]

当初、「吉岡夫人」役は入江たか子水谷八重子の二人が候補に挙がった。稲垣監督は両者に交渉したが会社から断られ断念。続いて結婚後宝塚歌劇団を退団した小夜福子に出演依頼をしたが、折悪しく小夜は妊娠中で、かなりお腹が大きくなっていて出演を辞退した。しかし小夜は「もし、ほかに候補の方がなかったらと思ってこの人を連れてきたのです、私よりもピッタリだと思いますけど」と、園井恵子を稲垣らに紹介してくれた。園井はアスピリン中毒で口の周りに湿疹ができていてマスクをどうしても外してくれなかったが、稲垣は小夜の言葉を信じて園井の起用を決めた。結局園井は稲垣の予想以上に吉岡夫人を演じて見せてくれ、非常に親しい仲となった。稲垣は園井について、「まるでこの役をやるために生まれてきたような人だった」と評している[7]

松五郎が雪の中に倒れるシーンの撮影で、阪妻が中耳炎で倒れてしまった。ロケ地の赤倉は雪国だが、4月を前にそう雪も残るまいと、稲垣浩監督は仕方なく殺陣師の久世竜を替え玉(吹替え)に立てて撮影を終えた。この場面が吹替えと分かったものはいなかったが、阪妻本人は悔しがり、「いい仕事ができて良かったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっともっと良かったでしょう」と稲垣に語ったという[8]

東宝・1958年版[編集]

昭和33年(1958年4月22日公開。製作は東宝。全長104分。カラー、シネマスコープ

昭和18年の大映版『無法松の一生』のリバイバル。稲垣監督は「私としてはリバイバルした『無法松』がヴェネツィアで大賞を受賞できて、思い出が残った」、「『無法松』を戦後に作ったのは、戦前のものが二度、三度と検閲禍に遭ったため、伊丹のシナリオの原型を残そうと思っただけであるが、それが大賞となったことで、やはり作ってよかったと思った」と語っている[9]

昭和33年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)受賞。稲垣浩監督は同年9月、羽織袴の正装でヴェネツィアでの授賞式に出席。稲垣がこの時の受賞を伝えて日本に送った電報の文言は「トリマシタナキマシタ」だった。

稲垣監督は本作でベネツア(原文ママ)のグランプリをもらったが、稲垣があとで話を聞くと、「大賞はきっと『楢山節考』(木下惠介監督)だろう」と予測して、通信社の自動車は松竹のある大船のほうをむいて待機していたという。稲垣は「こっちがもらってわるいことをした」と照れている。

稲垣によると、外地にいると「東宝」だの「松竹」だのといった意識はなくなってしまい、日本の映画の受賞を願う気持ちでいっぱいになるそうで、「だから私の作品でなかったとしても、私の日本に打った電文は『トリマシタナキマシタ』であったろう」と、この現地での受賞式を振り返っている[10]

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

東映・1963年版[編集]

昭和38年(1963年4月28日公開。製作は東映京都。

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

大映・1965年版[編集]

1965年7月14日公開。製作は大映京都撮影所。全長96分。

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

テレビドラマ[編集]

舞台[編集]

昭和17年5月(1942年)、文学座で原題のまま初演、これがヒットしたため映画が「無法松の一生」の題で製作され、舞台もこの題に変え、以来幾度となく演じられ、新国劇では辰巳柳太郎の当たり役となった他、宝塚歌劇団、歌手の座長公演など多岐の団体で演じられている。

文学座

潤色を森本薫、演出里見弴、無法松:丸山定夫(※『苦楽座』より客演、文学座男性メンバーの多くが出征して手薄による)、良子:杉村春子,吉岡大尉:森雅之で上演。

新国劇

辰巳柳太郎が当たり役として戦前戦後を通じて幾度となく公演している。

移動慰問劇団・桜隊

1945年に全国を巡回公演。8月6日、広島市で原爆に会い、出演者全員が被爆死する。無法松:丸山定夫、吉岡良子:園井恵子、吉岡小太郎:高山象三他の配役であった - 江津萩枝の小説『櫻隊全滅』(未来社)、新藤兼人監督の映画『さくら隊散る』、井上ひさしの戯曲『紙屋町さくらホテル』として作品化。

劇団中芸

1957年に薄田研二主演・演出で全国を巡回公演。

阪東妻三郎二十三回忌追善公演

1976年、映画で阪東妻三郎が演じたガサツな松五郎役を阪妻(バンツマ)の長男の田村高廣が好演し、『二代目阪東妻三郎襲名』が周囲から持ち上がったが高廣は固辞した。

宝塚歌劇団

永遠物語」(とわものがたり)のタイトルで脚本・演出を草野旦が担当、1982年3月初演、再演は1988年7月、三演が1998年7月といずれも場所・宝塚バウホール、松五郎を榛名由梨[11]が演じた。

劇団青年座

1998年津嘉山正種主演で上演。

その他

商業演劇では村田英雄小林旭北島三郎杉良太郎五木ひろしらが、演劇と歌謡ショーの2本立てで公演。

村田英雄の楽曲[編集]

無法松の一生
村田英雄シングル
リリース 1958年7月
録音 日本の旗 日本
ジャンル 演歌
レーベル 日本コロムビア
作詞・作曲 吉野夫二郎(作詞)
古賀政男(作曲)
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無法松の一生」は1958年7月に発売された村田英雄のデビューシングル。

一般的にはオリジナル版の「無法松の一生」よりも、同じく1958年7月に発売された「度胸千両」と併せた「無法松の一生〈度胸千両入り〉」として知られており、現在も多くの歌手にカバーされている。1981年には、村田の歌唱によって「無法松の一生〈度胸千両入り〉」が発売されている。

概要[編集]

たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男が村田を見出し、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲である本楽曲を歌謡曲化し、村田は歌手デビューを果たした。

従来、舞台と映画で知られていた「無法松の一生」を取り上げたのは、村田の師匠である酒井雲が浪曲界屈指の読書家であり『文芸浪曲』(文字の読み書きの出来ない人々にも文学に親しんでもらおうと考えだした芸題群の事)という浪曲のジャンルを確立し、この事を見習って村田も北九州の代表的な文学であった同作を取り上げた事と、文学界きっての偏屈者と噂された原作者の岩下俊作が浪曲ファンで浪曲化を承諾したといわれる。しかし、同年にセルフリバイバルと言える三船敏郎&高峰秀子主演の映画公開があったものの、ヒットに恵まれず(わずかに「人生劇場」のリバイバルヒットがあったのみ)NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。

しかし、1962年に村田の「王将」がミリオンセラーの大ヒットとなると本楽曲も相乗効果でヒットし、村田の代表曲の一つになった。

また、1975年の「第26回NHK紅白歌合戦」では、村田によって本楽曲が歌唱された。

作詞の吉野夫二郎は浪曲作家として著名な人物で、村田他が出演していた『ラジオ連続浪曲』(文化放送)の構成を担当し、数多くの浪曲台本を手掛けた。

製作者[編集]

  1. 無法松の一生
  2. 度胸千両
    • 作詞:吉野夫二郎、作曲・編曲:古賀政男

その他楽曲[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ここまで『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  2. ^ 「映画の旅人」(朝日新聞2014年9月6日)。
  3. ^ ここまで『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  4. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  5. ^ 「祇園太鼓は本来、同じリズムで両面打ちで…『勇み駒』『流れ打ち』といった派手なたたき方は、実は父の創作なんです」と岩下の三男、八田昴(ひろし)は苦笑したという。同じ小倉出身の松本清張の『黒地の絵』でも遠くに執拗に鳴り続ける祇園太鼓の単調な音色がなって平常心を失わせ、米兵に暴動、強姦事件を起こす(「映画の旅人」朝日新聞2014年9月6日)。
  6. ^ 「映画の旅人」(朝日新聞2014年9月6日)。
  7. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  8. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社)
  9. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社)
  10. ^ ここまで『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  11. ^ 榛名は1988年で退団しているため1998年の三演は“客演”である

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 西川のりお - 松五郎(阪妻)の物真似台詞「ぼん、ぼんじゃございやせんか!」が持ちギャグ。