野坂昭如

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野坂 昭如
(のさか あきゆき)
ペンネーム 阿木 由紀夫(あき ゆきお)
クロード 野坂(くろーど のさか)
立川 天皇(たてかわ てんのう)
誕生 野坂 昭如(のさか あきゆき)
1930年10月10日(83歳)
日本の旗 日本 神奈川県鎌倉市
職業 作家作詞家歌手政治家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 早稲田大学仏文科中退
ジャンル 小説随筆評論作詞脚本
文学活動 焼跡闇市派
代表作 おもちゃのチャチャチャ』(作詞、吉岡治と共作)(1963年)
アメリカひじき』(1967年)
火垂るの墓』(1967年)
主な受賞歴 日本レコード大賞作詞賞(1963年)
直木三十五賞(1967年)
講談社エッセイ賞(1985年)
吉川英治文学賞(1997年)
泉鏡花文学賞(2002年)
安吾賞新潟市特別賞(2009年)
処女作 エロ事師たち』(1963年)
(小説としての処女作)
配偶者 野坂暘子
子供 花景美妃長女
愛耀子二女
親族 野坂相如
十三代目田中傳左衛門娘婿
公式サイト 野坂昭如オフィシャルホームページ
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クロード 野坂
(くろーど のさか)
基本情報
出生名 野坂 昭如(のさか あきゆき)
別名 阿木 由紀夫(あき ゆきお)
立川 天皇(たてかわ てんのう)
出生 1930年10月10日(83歳)
日本の旗 神奈川県鎌倉市
出身地 日本の旗 日本
学歴 新潟大学中途退学
早稲田大学文学部中途退学
ジャンル シャンソン
職業 作家作詞家歌手政治家
担当楽器 作詞
公式サイト 野坂昭如オフィシャルホームページ
日本の旗 日本の政治家
野坂 昭如
のさか あきゆき
生年月日 1930年10月10日(83歳)
出生地 神奈川県鎌倉市
出身校 新潟大学中退
早稲田大学文学部中退
前職 作家歌手作詞家
現職 作家、歌手、作詞家
所属政党 第二院クラブ→)
自由連合
親族 野坂相如
配偶者 野坂暘子
公式サイト 野坂昭如オフィシャルホームページ

選挙区 比例代表
当選回数 1回
任期 1983年7月10日 - 1983年12月3日
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野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年昭和5年)10月10日 - )は日本作家歌手作詞家タレント政治家

放送作家としての別名は「阿木 由紀夫」(あき ゆきお)、シャンソン歌手としての別名は「クロード 野坂」(くろーど のさか)、落語家としての高座名は「立川 天皇[1](たてかわ てんのう)、漫才師としての野末陳平とのコンビ名は「ワセダ中退・落第」(わせだちゅうたい・らくだい)。

現在は脳梗塞リハビリを続けながら執筆活動を行なっており、テレビ・ラジオには出演していないが、TBSラジオ土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』の「野坂昭如さんからの手紙」という9時半台のコーナー[2]で毎週近況を報告し、月刊誌新潮45に「だまし庵日記」、毎日新聞に隔週で「七転び八起き」、週刊プレイボーイに「ニッポンへの遺言」を執筆中。妻が撮影した写真が連載に掲載されている。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

父は土木技師戦後新潟県副知事を務めた野坂相如(すけゆき)[3]。当時野坂家の住いは東京市麹町区隼町だったが、産み月近くなって両親が別居。昭如は神奈川県鎌倉市小町で誕生した。実母ぬいは昭如を産んだ二月後に亡くなった。生後半年で神戸の張満谷(はりまや)家へ養子に出される。

なお、この時代の友人は現在でも当時のあだ名「ハリマン」と呼んでいる。11歳の時、戸籍謄本を偶然に見て、自分が養子であることを知り、後には妹2人も別々に養子として入る。

その後、上の妹を病気で、1945年神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くした。後に福井県で妹を亡くした経験を贖罪のつもりで『火垂るの墓』を記した。つまり清太のモデルが彼自身で、節子のモデルは妹ということである。終戦時から大阪府守口市などを2年間転々とする。

学生時代[編集]

17歳の時、下宿先の親戚の家で窃盗を働いて多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、旧制新潟高校に編入。なお、高校の上級生に丸谷才一がいた。

旧制高校在学中に学制改革が起き、1949年に新制新潟大学に入学するも3日で退学。「多くの同級生が東京の大学へ入り、夏休みに戻って来ても、相手にしてもらえない、後で知ったのだが、酒に溺れて気が狂ったという噂が立っていた」(『赫奕たる逆光』)。上京し果物屋でアルバイトをするが、1950年、シャンソン歌手を志して早稲田大学仏文科に入学。早稲田大学時代の友人には中島敏行(詩人皆生温泉の旅宿「海潮園」主人)、斎藤保(のち新聞記者)らがいた。新潟の禅寺・大栄寺で修行した後、父の参議院出馬にスタッフとして参加。

1955年に再上京し、友人の紹介で写譜屋を開始。暮れに三木鶏郎音楽事務所の事務員となる[4]。寺での修行もあり、掃除が得意だったことが鶏郎に気に入られたという[5]

1956年、鶏郎が有限会社冗談工房を発足(社長・永六輔)。専務職に就くが実質業務は鶏郎のマネージャーだった。経理ミスが発覚し、マネージャーをクビとなる。この年、大学を中退する[4][6]

1957年、27歳でテレビ工房の責任者になり、阿木由紀夫の筆名で放送作家としてコントを量産。いずみたくと組んでCMソング作詞家として活躍[4]小林信彦編集の雑誌「ヒッチコックマガジン」の表紙のモデルもつとめた。この作家デビュー前の時期、雑誌『奇譚クラブ』に「戸山一彦」名義で寄稿していたことが、元編集者・飯田豊一により証言されている[7]

作家、歌手、作詞家、タレント、政治家として[編集]

一方、雑誌等でコラムも発表し、1962年に刊行した「プレイボーイ入門」で「元祖プレイボーイ」として脚光を浴びる。また、ブルーフィルムを集めて自宅で上映することも、趣味兼アルバイトとして行っており、その体験から書いた小説『エロ事師たち』で1963年に作家デビューする。

1967年には、『火垂るの墓』『アメリカひじき』で直木賞受賞。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市」を名乗り、その体験から既存の右翼左翼それぞれを批判していく評論活動を行う。

また、講談社の編集者・大村彦次郎と「酔狂連」というグループを結成。メンバーは、当時の若手作家である筒井康隆田中小実昌長部日出雄小中陽太郎泉大八滝田ゆう後藤明生佐木隆三阿部牧郎、華房良輔、黒田征太郎、吉村平吉、揚野浩、村松博雄、安達瞳子(華道家)、金井美恵子ら。「中華そばの屋台の引き方」や「チャルメラの吹き方」を習うなど、まさに酔狂な遊びをした。

作家としてはその後、、1985年「我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ」で講談社エッセイ賞受賞、1997年に「同心円」で吉川英治文学賞受賞2002年に「文壇」およびそれに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞。

作詞家としては「おもちゃのチャチャチャ」の第5回日本レコード大賞童謡賞の受賞、放送局初のPRソング「OBCソング」を作詞している。

1973年2月21日、編集長を務めていた月刊誌「面白半分」に掲載した「四畳半襖の下張」(永井荷風著)について、刑法175条「猥褻文書の販売」違反に問われ起訴される。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定している。

この頃、今東光を会長とする無頼派作家の集まり「野良犬会」のメンバーとなる。副会長柴田錬三郎、メンバー吉行淳之介黒岩重吾など。

1983年6月の第13回参議院議員通常選挙に、第二院クラブの比例代表名簿1位として出馬し[8]、同党が1議席を得たことで参議院議員に当選した。しかし当選から約半年後に、田中角栄ロッキード事件の1審公判において実刑判決を受けたことをきっかけとしておこなわれた12月の第37回衆議院議員総選挙に出馬するために議員を辞職[9]
この間、野坂が国会で発言した会議は内閣委員会が1度、災害対策特別委員会が2度である[10]。このうち、8月11日の災害対策特別委員会では、質問の順番が最後だったこと[11]と、そこまでの質問に対する政府答弁への不満(「天才的要領を得ないお返事」と表現している)から、「いまさら僕が質問を重複してみても、新しい見解とか具体的な方策を引き出すことはとても無理だと思いますので、僕自身は質問を取りやめます」と質問をしなかった。また、10月19日の同委員会では国土庁長官の加藤六月の答弁中に「建設省に伺いたい」と発言、答弁が終わるまで待つように委員長から求められると「延々とあんなこと聞いていたってしようがない。だから僕は建設省に伺いたいわけです」と答えた。この質問では、野坂は火山噴火のあった三宅島の議員視察に同行したことに言及し、視察が形式的なものだったことを批判して「やめた方がいい」と述べている。

総選挙では野坂は田中角栄に挑む形で同じ新潟3区から立候補し、全国的な注目を集めたが、遊説中に暴漢に斬りつけられるアクシデントにも見舞われ、22万票余りを獲得した田中を脅かすには至らず、他の改選候補の議席も奪えずに落選した。

2009年新潟市が主催する安吾賞の新潟市特別賞を受賞した[12]

政治活動[編集]

  • 1974年7月 第10回参院選に東京地方区から無所属で出馬、落選。
  • 1983年6月 第13回参院選に比例代表区から出馬(第二院クラブ)、初当選。
  • 1983年12月 参議院議員を辞職し、第37回衆院選に金権政治を批判する意味で田中角栄元首相と同じ新潟3区から出馬。選挙運動中に暴漢に刃物で斬りつけられ、以後の選挙運動を見送らざるを得ない状態に。次点で落選。
  • 2001年7月 第19回参院選に比例代表区から出馬(自由連合・落選)。
  • 野坂の政治活動を西部邁(評論家)は次のように評価している。「政治参加を際立った形で示したことのある知識人として野坂昭如氏の名前を挙げるべきであろう。私の結論は、大まかにいって、氏の文学と政治には相同性が保たれているということである。一言でいう失礼をふたたびなすと、いわば『真剣な戯作』の態度が氏の文章と政治の双方をつらぬいていると思われる。わかりやすくいうと、野坂氏は、何らかの価値に関与してはすぐさま逃亡するという往復運動を繰り返しているということだ。そしてそれは、たしかに、価値の必要と空虚をともども炙(あぶ)り出す一つの有効な方法たりえているといってよい。」[13]

人物像[編集]

文壇界きっての犬猫好き、酒好きである。酒に関しては、高校時代に酔っ払って真っ裸で深夜の街を歩いたり、また大学時代に酔っ払って教室の窓から入ったり、などの逸話を残している。その後、1952年に自主的に精神病院に入院して治療をしてからは、酒乱の癖はおさまったという。また、「趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号」の付録「文壇酒徒番附」において、東方横綱に立原正秋と共に列せられている。ちなみに、東方大関三浦哲郎池波正太郎、西方横綱梶山季之黒岩重吾、大関吉行淳之介瀬戸内晴美などがいる。

映画監督大島渚の真珠婚式パーティーで挨拶を行う予定であったが、当初の進行予定時間より遅れてしまい、待ち時間に大量に飲酒し酩酊してしまった。その後、挨拶を終えると左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島にパンチを食らわすが、大島も負けじとマイクで野坂の顔面を2発殴った。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪して和解した。

農業の重要さを訴え、自身でを作る活動も実施。「ゴルフのような軟弱なスポーツは嫌いだ」と、中年になってからラグビーキックボクシングを始めている。

2000年から東京・阿佐ヶ谷で「野坂塾」を開塾し、戦争体験などを語っていた。だが、2003年脳梗塞で倒れて以来、闘病生活を送っている。

麺類、特に蕎麦が好きで、鴨南蛮が好物である。宝島の「VOW」に投稿経験あり。

吉永小百合山口百恵の大ファンとしても知られている。

放送作家・野坂昭如[編集]

本邦のテレビ黎明期(1950年代から1960年代)において放送作家として活躍していた。 放送作家としての筆名は阿木由紀夫。一度だけ『シャボン玉ホリデー』の台本を書いたが、いくつかの歌の曲名と「板がズラッと並んでいる。これがホントのイタズラ」といったつまらない駄洒落を3つ4つ並べただけで全く使い物にならないため、仕方なく青島幸男が書き直したという。

歌手・野坂昭如[編集]

作家・野坂昭如は1950年代から歌手活動もしている。歌手名はクロード野坂。歌手名の「クロード」は「玄人」をもじったものであり、「シロウトではないという意味」[14]だとされる。1969年にレコードデビュー。「黒の舟唄」、「マリリン モンロー ノーリターン」、本人出演のCM曲「サントリーゴールド」が代表曲。

「黒の舟唄」は元はヴァージン・レコードから3000枚限定でプレスされた自主制作盤『鬱と躁』の収録曲で、その後1971年2月10日、日本コロムビアからシングルとして発売されヒットした[15]。後に多くの歌手にカバーされており、中でも長谷川きよしのカバーがよく知られている[15]

「バージンブルース」は戸川純のカバーでも知られる。また「バージンブルース」はその曲をモチーフに、藤田敏八監督により同題の映画化がされており、野坂もゲスト出演して歌を歌っている。また、野坂と同じく作家・音楽家として活動する中原昌也も暴力温泉芸者名義のアルバムで「黒の舟唄」と「サメに喰われた娘」の二曲をカバーしている。

1970年代には大学の学園祭の人気ゲストであり、女子大で四文字言葉を連発するなど挑発的なステージであった。その模様は大森一樹監督の自主映画『暗くなるまで待てない!』(1975年)にも収録されている。永六輔小沢昭一と「中年御三家」を名乗り、1974年には日本武道館でコンサートをするなど不定期で舞台に立った。クレイジーケンバンドのライヴにもゲスト出演し共演を果たしている。その様子はライヴ盤『CKBライヴ 青山246深夜族の夜 ~ Special Guest 野坂昭如』にも収録されている。

また、時折ちりばめられる冗談なのか本気なのか紙一重の野坂独特のユーモアは、時にシュールなものとして、90年代以降、珍曲マニアなどの好事家に注目・支持された。その最たる物がCMソング「ダニアースの唄」である。CM中の衝撃的な野坂本人による畳のコスプレもさることながら、極めてインパクトの強烈な歌詞と歌唱がカルト的な人気を呼んだ。オリジナルバージョンとリミックスバージョンの二種類がリリースされたが、今では既に廃盤となったこれらのCDシングル盤は、ネットオークションに出品された際には数千~数万円程度のプレミアム価格で取り引きされている。西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が大ヒットした時、それに対抗して「Y.W.C.A.」なるカバー曲を発表。しかしライブ版にもかかわらず泥酔状態で歌詞を間違えるわ、歌を女性コーラスに任せっぱなしにするわ、本人はただ喚いているだけなどやりたい放題。その上歌詞の途中「Y.M.C.A.」に対抗した曲にもかかわらず合いの手として「わい、えむ、しー、えい!(YMCA)」と発言している。後にこの歌がラジオ番組『コサキンDEワァオ!』(TBSラジオ)で紹介され、リスナーの爆笑を誘う。

作詞家・野坂昭如[編集]

作詞活動の実績もある。特に50年代後半から60年代前半にかけてCMソングを多く作詞した。

タレント・野坂昭如[編集]

EXテレビ木曜日』(よみうりテレビ)、『ビートたけしのTVタックル』、『朝まで生テレビ』(共にテレビ朝日系)などにテレビ出演。しばしば酩酊した状態で出演することもあった。

NHK人間講座 終戦日記を読む』に出演。

1986年、『オールナイトフジ』(フジテレビ)の生放送中のスタジオに突然現れ(正規のゲスト出演ではない)、レギュラー出演していたとんねるずら若年世代の出演者に「浮かれた気分でいると世相が悪化する」などと説教をしたあげく、とんねるずのメンバーである石橋貴明を軽く平手打ちしたことがある。石橋ら出演者は野坂の言動に黙って耐えていた。後にとんねるずは「先生(野坂)の得意なラグビーで勝負しましょう」と野坂に挑戦状を叩き付けたが、野坂が「あのときは酒に酔っていた。君たちのような若者(当時野坂は50代半ば、とんねるずは20代半ば)とやりあって勝てるはずもない」と陳謝する形になり騒動は終結した。一説には、とんねるずのブレーンとして知られた秋元康らが間に入り、両方の顔が立つ形で手打ちになったと言われる。挑戦状は一種のジョークという説が根強い。

ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ)内で、「野坂昭如が人生を語る」という主旨のコーナーに出演したが、実際は、「チキチキ野坂昭如たたいてさぁ何点!?」というダウンタウンが野坂に対して何発つっこみ等を入れられるかという企画であった。これを知らされていない野坂は、頭を叩くなどした浜田雅功を睨みつけ、頭を叩き返し、頭の叩き合いに発展した。この番組の収録直後も、浜田と野坂の間に不穏な空気がながれていたことを松本人志が後に自身のラジオで語っている。

鶴瓶上岡パペポTV』の構成作家である疋田哲夫によれば、当初の案では笑福亭鶴瓶と野坂のコンビを考えていた。詳細は番組の「概要・エピソード」、「ルーツ」を参照。

家族・親族[編集]

野坂家[編集]

野坂の福井県に発するという[16]
曽祖父越前福井藩主松平慶永家臣だった[16]身分は不明だが、御一新以後、東京で逼塞[16]
祖父警視庁邏卒(後の巡査)だったが、で失敗して中年以後は骨董を扱った[16]
野坂相如明治32年(1899年)1月生 - 昭和53年(1978年)没)は男四人女一人の末[16]。父は一中、一高東大を出た典型的秀才だったが、父のすぐ上のはさらに秀才だったという[16]。次兄は陸大出身[16]。父の兄弟は画家軍人実業家役人になった[16]。女は軍人に嫁いでいる[16]
生母は男二人、女一人を生み、昭如とほぼ入れ違いで亡くなった[17]。母方の祖父明治末年熊本から台湾へ渡った山師である[16]植民地で金貸しを営み、かたわら興行を手がけて、たいへん羽振りが良かった[16]
継母の父は漫談家、母は小唄の師匠[18]。継母は、娘時代、天才的三味線の演奏者といわれ、稀音家浄観の息子六四郎の嫁に望まれていた[18]
妻はシャンソン歌手の野坂暘子(芸名:藍葉子)、長女は作家、エッセイストの野坂麻央(芸名:花景美妃)、次女は女優の愛耀子と、そろって元宝塚歌劇団娘役。次女の夫は歌舞伎囃子方の十三代目田中傳左衛門
兄の野坂恒如はジャズ評論家。父相如の後妻笑子は活動弁士西村楽天の長女。

張満谷家[編集]

養父善三もまた養子だった。善三は、明治32年(1899年)東京に生まれ、母とよの次妹ことの嫁ぎ先張満谷家の養子となった[19]。善三は、金貸しの未亡人かねの次女愛子と結婚、かねの長女ぬいの次男つまり昭如を養子とした[19]
なお、作家三島由紀夫(平岡公威)の5代前の太左衛門まで平岡家は印南郡神吉村に住んでいた[20]。その南四キロ弱の地点が善三の養父の生家だった[20]。善三は石油製品を扱った貿易商だった。張満谷家は昭如 が野坂家へ戻ったことによって断絶した。

親戚[編集]

叔母久子は、一生日陰の身、つまりだった[17]。面倒をみたのは著名な弁護士[17]。久子は、八王子の精神病院で死んだ[21]。俳優の伊藤雄之助は父の後妻の従弟。

系譜[編集]

               藍葉子━┓
                   ┃
                   ┣━┳花景美妃
野坂豁━━野坂相如━┓        ┃ ┃
          ┃ ┏━野坂昭如━┛ ┗愛耀子
          ┣━┫
          ┃ ┗━野坂恒如
      ┏ぬい━┛
      ┃ 
      ┣久子
      ┃
      ┗愛子━┓
          ┃
          ┣………野坂昭如
          ┃
    張満谷善三━┛

 

著書[編集]

小説[編集]

  • エロ事師たち 講談社 1966年 のち新潮文庫
  • とむらい師たち 講談社 1967年 のち文庫、岩波現代文庫
  • 受胎旅行 新潮社 1967年 のち文庫
  • アメリカひじき・火垂るの墓 文藝春秋 1968年 のち新潮文庫
  • 好色の魂 新潮社 1968年 のち文庫、岩波現代文庫
  • 八方やぶれ 桃源社 1968年 〈ポピュラー・ブックス〉
  • 軍歌・猥歌 講談社 1968年
  • ゲリラの群れ 光文社〈カッパ・ノベルス〉 1968年 のち角川文庫
  • 真夜中のマリア 新潮社 1969年 のち文庫
  • 骨餓身峠死人葛 中央公論社 1969年 のち文庫、岩波現代文庫
  • 色即回帰 講談社 1969年 のち文庫
  • 騒動師たち 光文社〈カッパ・ノベルス〉 1969年 のち角川文庫、集英社文庫、岩波現代文庫 
  • 水虫魂 朝日新聞社 1970年 のち新潮文庫、岩波現代文庫 
  • インポテンツ 講談社 1970年
  • 好色覚え帳 新潮社 1970年 のち文庫
  • エロスの妖精たち 中央公論社 1971年 のち文庫
  • てろてろ 新潮社 1971年 のち文庫
  • 死屍河原水子草 文藝春秋 1971年 のち文庫
  • エロトピア 1-2 文藝春秋 1971年 のち文庫
  • 俺はNOSAKAだ 文藝春秋 1972年
  • 砂絵呪縛後日怪談 講談社 1972年 のち文庫
  • ともえ 講談社 1972年 のち文庫【県・市】
  • マリリン・モンロー・ノー・リターン 文藝春秋 1972年 のち文庫(オリジナル編集)、岩波現代文庫(文庫版準拠)
  • 浮世一代女 新潮社 1973年
  • 錬姦作法 文藝春秋 1973年 のち文庫 
  • 童女入水 中央公論社 1973年 のち文庫
  • 本朝淫学事始 講談社 1973年
  • 死の器 読売新聞社 1973年 のち徳間文庫
  • 執念夫婦添い節 講談社 1974年 のち文庫
  • ああ軟派全落連 番町書房 1974年
  • 戦争童話集 中央公論社 1975年 のち文庫
  • ぼくの余罪 筑摩書房 1975年
  • 生誕の時を求めて 中央公論社 1975年 のち文庫
  • フレンチ・コネクション八百 講談社 1976年
  • 姦 新潮社 1976年
  • 一九四五・夏・神戸 中央公論社 1976年 のち文庫 
  • マッチ売りの少女(画・米倉斉加年) 大和書房 1977年
  • 戯作 四畳半色の濡衣 文藝春秋 1977年 のち文庫 
  • あやふや 河出書房新社 1978年
  • 自弔の鐘 毎日新聞社 1978年
  • アルファベット 集英社 1979年
  • 死小説 中央公論社 1979年
  • 新宿海溝 文藝春秋 1979年 のち文庫
  • 処女の時間 講談社 1980年
  • オペレーション・ノア 文藝春秋 1981年 のち文庫
  • 東京十二契 文藝春秋 1982年 のち文庫 
  • 酒呑童子―お伽草子 集英社 1982年※絵本
  • 背徳ごっこ 講談社ノベルス 1983年
  • 三味線殺人事件 お多加師匠推理帖 講談社ノベルス 1984年
  • 乱離骨灰鬼胎草 福武書店 1984年 のち文庫
  • 行き暮れて雪 中央公論社 1984年 のち文庫
  • 人称代名詞 講談社 1985年 のち文庫、文芸文庫
  • 好色の家 実業之日本社 1986年
  • 東京小説 講談社 1990年 のち文芸文庫
  • 名前のない名刺 講談社 1991年
  • わが桎梏の碑 光文社〈カッパ・ホームス〉 1992年
  • 妄想依存症 河出書房新社 1992年
  • 同心円 講談社 1996年【県・市】
  • ひとでなし 中央公論社 1997年 のち文庫
  • 少女M 講談社 2000年
  • 野坂昭如コレクション 1-3 国書刊行会 2000-2001年
    • 1 ベトナム姐ちゃん【県・市】
      • 初稿・エロ事師たち/浣腸とマリア/あゝ水銀大軟膏/銀座のタイコ/マッチ売りの少女/とむらい師たち/四面凶妻/受胎旅行/ベトナム姐ちゃん/娼婦焼身/子供は神の子/殺さないで/焼土層/プアボーイ/八方やぶれ/死児を育てる
    • 2 骨餓身峠死人葛
      • 色即回帰/ああ日本大疥癬/軍歌/ああ水中大回天/猥歌/色指南/同行二人/花のお遍路/人情ふいなーれ/骨餓身峠死人葛/弱気眼鏡/おっぱんぱん/垂乳根心中/酎友無双/浮世一代女/万有淫欲
    • 3 エストリールの夏
      • 紅あかり/娼婦三代/姦/エストリールの夏/砂絵呪縛後日怪談/母紅梅/至福三秒/恋車蓮華地獄/童女入水/本朝淫学事始/姦ながらの道/死の器/執念夫婦添い節/MY ROSEBUD/素股のオロチ/処女の時間/衆魂の地/サムボディ・インサイド/東京小説・純愛篇/東京小説・友情篇
  • 文壇 文藝春秋 2002年 のち文庫
  • 野坂昭如リターンズ 1-4 国書刊行会 2002-2003年
    • 1 真夜中のマリア・てろてろ
    • 2 エロトピア
    • 3 騒動師たち・水虫魂
    • 4 一九四五・夏・神戸、東京十二契
  • 死刑長寿 文藝春秋 2004年 のち文庫
  • 野坂昭如ルネサンス 岩波現代文庫 2007-8年
    • 1 好色の魂
    • 2 水虫魂
    • 3 マリリン・モンロー・ノー・リターン(旧文春文庫版)
    • 4 騒動師たち
    • 5 とむらい師たち
    • 6 骨餓身峠死人葛
    • 7 童女入水
  • ひとり連句春秋--脳力アップのための言葉遊び ランダムハウス講談社 2009
  • 20世紀断層 野坂昭如単行本未収録小説集成 幻戯書房 2010
    • 1 生き残りの闘争―餓鬼と修羅の原風景(1969年-77年)
    • 2 繁栄の廃墟―世紀末幻想を嗤う(1978年-90年)
    • 3 焼跡回帰―幸福のどん底を唄う(1964年-74年)
    • 4 闘争指南―あえて、ドン・キホーテ(1975年-84年)
    • 5 漂白する伝説―絶望からの世直し(1985年-2003年)
    • 補 戦無世代への挑発―文学を舐めるな(1970年-95年)
  • 終末処分 幻戯書房 2012

エッセイ・対談・雑纂他[編集]

  • プレイボーイ入門(編)荒地出版社 1962年
  • 現代野郎入門 これがプレイ・ボーイだ 久保書店 1962年
  • いじわる読本(編)新書館〈マイ・ブックス〉 1964年
  • 弱者の悪知恵 イヤな奴をけっとばそう 青春出版社〈プレイブックス〉 1965年
  • わるい本‐黒メガネ流ホラー・ジョークのすすめ‐ 芳賀書店 1966年
  • 立ち読み厳禁の書 青春出版社〈プレイブックス〉 1966年
  • いじわる紳士 講談社 1966年
  • 道楽のすすめ 桃源社〈ポピュラー・ブックス〉 1966年
  • 男の狂化書 荒地出版社 1967年
  • 新戦後派(寺山修司・野平陳・永六輔と共著) 毎日新聞社 1969年
  • 野坂昭如の本 KKベストセラーズ 1969年
  • 洋酒天国32 ポーノトピア サントリー 1969年
  • 野坂昭如エッセイ集 1 日本土人の思想 中央公論社 1969年 のち文庫
  • 野坂昭如エッセイ集 2 卑怯者の思想 中央公論社 1969年 のち文庫 
  • 野坂昭如エッセイ集 3 風狂の思想 中央公論社 1970年 のち文庫 
  • 風来めがね 文藝春秋 1970年
  • 野坂昭如戯れ唄道中 日本交通公社 1971年 「にっぽん春歌紀行」ちくま文庫
  • 欣求穢土(小品小説併収) 徳間書店 1971年
  • 野坂昭如雑文の目(1・2) 勁文社 1972年
  • 野坂昭如エッセイ集 4 漂泊の思想 中央公論社 1973年 のち文庫
  • 野坂昭如エッセイ集 5 修羅の思想 中央公論社 1973年
  • 野坂昭如エッセイ集 6 かさぶた喰いの思想 中央公論社 1974年
  • 野坂昭如エッセイ集 7 おたがいの思想 中央公論社 1974年
  • 子噛み孫喰(小説「それぞれの断崖」併収)筑摩書房 1974年
  • 清談俗語 対談集 週刊朝日編 朝日新聞社 1974年
  • 闘論 君は日本をどうするか 石原慎太郎 文藝春秋 1975年
  • 乱世に語る 事前対談 羽仁五郎 現代評論社 1975年
  • 窮鼠の散歩 朝日新聞社 1975年
  • 《不安者》の予言 文藝春秋 1975年
  • 売舌流転 現代史出版会 1975年
  • 親はあっても子は育つ 講談社 1975年
  • 色釈歳時記 華房良輔共著 風媒社 1975年
  • 行動と妄想(小説「ボクちゃんの玩具」併収) 筑摩書房 1975年
  • 敵陣深く 朝日新聞社 1976年
  • 四畳半襖の下張・裁判 面白半分 1976年
  • 堕ち滅びよ驕奢の時代 家の光協会 1976年
  • 生きかたの流儀 対談集成 筑摩書房 1976年
  • 日本飢餓列島 連続対談 文藝春秋 1976年
  • 敵陣さらに深く 朝日新聞社 1977年
  • 女わざ・男わざ エッセイ集 実業之日本社 1977年
  • 野坂昭如写真帖 山本和夫撮影 講談社 1977年
  • アメリカ型録 終戦・進駐軍・焼跡・闇市・特需・繁栄 平凡社カラー新書 1977年
  • 妄想の軌跡 実業之日本社 1978年 のち旺文社文庫
  • 日日の疾走 朝日新聞社 1978年
  • マルクスを読む 資本論講義 大内秀明対談 朝日出版社 1979年 (Lecture books)
  • 風を蹴る 朝日新聞社 1979年
  • もっとゲリラ風に生きてみないか 悪い世の中に負けない知恵 ベストセラーズ〈ワニの本〉 1979年
  • アドリブ自叙伝 筑摩書房 1980年
  • 右も左も蹴っとばせ! 文藝春秋 1980年
  • 我が闘争・虚仮のこだわり 朝日新聞社 1980年
  • 我が闘争・虚仮のうわぬり 朝日新聞社 1981年
  • 国家非武装 されど我、愛するもののために戦わん 光文社〈カッパ・ブックス〉1981年
  • 三禁四乱 実業之日本社 1981年
  • 我が闘争・球を抱いて横走り 朝日新聞社 1982年
  • ノーサイドの笛を聞くまえに 374のアフォリズム 文化出版局 1982年
  • 科学文明に未来はあるか(編著)岩波新書 1983年
  • 日本は、まだ大丈夫か、もう駄目か、それが問題だ 防衛・食糧・原子力発電 野坂昭如30
  • 我が闘争・虚仮のむすまで 朝日新聞社 1983年
  • 僕自身のためのスポーツ 中経出版 1983年
  • 時間討論 朝日新聞社 1983年
  • 右も左も蹴っとばせ! part 2 文藝春秋 1984年
  • 闘いかたの流儀 野坂昭如政治白書 室謙二編 筑摩書房 1984年
  • 野坂昭如、新潟三区の闘い 青弓社 1984年
  • 愉しみかたの流儀 野坂昭如猥褻白書 室謙二編 筑摩書房 1984年
  • ア・ドリブ問答 親切なやみ相談 青人社・学研 1984年
  • 我が闘争・こけつまろびつ闇を撃つ 朝日新聞社 1984年
  • あえてわれらドン・キホーテ 水沢周との共著 築地書館 1985年
  • ゴシップは不滅です(エッセイ・大人の時間) 新潮社 1985年
  • タックル右往左往 1 文藝春秋 1986年
  • 人間もどき 実業之日本社 1985年
  • 我が闘争・さはさりながら大奮戦 朝日新聞社 1986年
  • 天皇制にこだわる 天皇依存症の研究 菅孝行共著 明石書店 1986年
  • 職人百づくし 晩声社 1986年
  • 茶断ち酒断ち女断ち 朝日新聞社 1987年
  • 超過激対談 長部日出雄 文藝春秋 1987年
  • 赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫 文藝春秋 1987年 のち文庫
  • 天皇とコメと エッセイ・ワン 朝日新聞社 1988年
  • 君が代なれば―タックル右往左往2 文藝春秋 1988年
  • 姦の研究 講談社 1988年
  • ぼくの死の準備 読売新聞社 1988年
  • わが心の天皇 エッセイ・ワン 朝日新聞社 1989年
  • 生キ残レ少年少女。 家の光協会 1989年 のち岩波現代文庫 
  • 還暦まで千人斬り 文藝春秋 1989年
  • もういくつねると 文藝春秋 1991年
  • 御臨終の若者へ 生きろ、生きてみろ 講談社 1992年
  • わが世の春が来る 文藝春秋 1993年
  • おれたちがホームレスになる日 大槻義彦共著 悠飛社 1994年
  • 人間通になれ 生きかたの特効薬 青春出版社 1994年
  • 感傷的男性論 悠飛社 1994年
  • ニホンを挑発する 文藝春秋 1996年
  • 幸福のどん底 ユーモアエッセイ集 番町書房 1996年
  • この国のなくしもの 何がわれらを去勢したのか PHP研究所 1997年
  • 大養生 あれこれ思うこと 東京新聞出版局 1997年
  • 吾輩は猫が好き 廣済堂出版 1998年 のち中公文庫
  • 「日本を救おう!」大発想 テリー伊藤共著 PHP研究所 1998年
  • 少年Hと少年A 妹尾河童共著 PHP研究所 1998年 のち講談社文庫 
  • 後藤田正晴における責任のとりかた 毎日新聞社 1998年
  • 絶望的楽観主義ニッポン 戦争を知らない大人たちへ PHP研究所 1999年
  • かくて日本人は飢死する PHP研究所 2000年
  • 忘れてはイケナイ物語り(編)光文社 2000年
  • 妄想老人日記 新潮社〈ラッコブックス〉 2000年
  • 世なおし直訴状 永六輔,小林亜星共著 文藝春秋 2001年
  • 亡国の輩 昭和ヒトケタと団塊の世代の責任を問う 村上玄一共著 同朋舎 2001年
  • 「終戦日記」を読む 日本放送出版協会〈NHK人間講座〉 2002年
  • ナマ麦、ナマ米、ナンマイダ 上田裕雄との共著 四谷ラウンド 2002年
  • 週刊日本の古典を見る 宇治拾遺物語 世界文化社 2002年
  • 野坂昭如エッセイ・コレクション 1-3 ちくま文庫、2004年
  • 最後の林檎 阪急コミュニケーションズ 2005年
  • けむりの居場所(編)幻戯書房 2006年
  • 野荒れ 荒木経惟写真 講談社 2008年
  • しぶとく生きろ 毎日新聞社 2010
  • 終末の思想 NHK出版 2013

翻訳[編集]

  • 日本の古典9 今昔物語(福永武彦共編・「宇治拾遺物語」翻訳) 河出書房新社 1971
  • カメレオンのための音楽 トルーマン・カポーティ 早川書房 1983年 のち文庫
  • 絵画の魔術師ヘンリー・ミラー 久保貞次郎共編 講談社 1990年

音楽作品[編集]

  • 『躁と鬱』1972年
  • 『不条理の唄』1973年
  • 『分裂唄草紙』1974年
  • 『辻説法』1974年
  • 『武道館の野坂昭如』1974年
  • 『野坂昭如のザ・平成唱歌集・巻之一』2000年
  • 『野坂昭如のザ・平成唱歌集・巻之二』2001年

など多数。

映画[編集]

原作[編集]

  • エロ事師たち 人類学入門(1966年)
  • スクラップ集団(1968年)
  • とむらい師たち(1968年)
  • 極道ペテン師(1969年) - 原作「ゲリラの群れ」
  • 喜劇 負けてたまるか!(1970年)
  • 頑張れ! 日本男児(1970年) - 原作『アメリカひじき』
  • 遊び(1971年) - 原作『心中弁天島』
  • 四畳半色の濡衣(1983年)
  • 火垂るの墓(1988年)
  • 忘れてはイケナイ物語り オキナワ(2001年) - 原作「戦争童話集」

出演[編集]

  • 頑張れ! 日本男児(1970年)
  • 花は花よめ 第1シリーズ 第4話(1971年)アフリカ帰りの探検家
  • 恐怖劇場アンバランス 第9話「死体置場(モルグ)の殺人者」(1973年)板野
  • バージンブルース(1974年) 本人役 
  • 日本の首領 野望篇(1977年) - 蓑輪良行役
  • 日本の仁義(1977年)
  • 塀の中のプレイ・ボール(1987年)
  • 桜の樹の下で(1989年) - 作家役

監督[編集]

  • 幻の女(ファントム・レディ)(1982年) - ポルノビデオ。出演も。

CM出演[編集]

関連人物[編集]

[編集]

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  1. ^ 景山民夫『食わせろ!!』(講談社文庫1990年)p.136
  2. ^ 土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界
  3. ^ 野坂昭如著『赫奕たる逆光』165-166頁に「僕の父は、工学部出身で、役人としては筋違いながら、戦後の混乱期にまぎれ副知事に成り上った。1947年である。養家である張満谷(はりまや)から、野坂の次男にもどったぼくは、1948年、新潟高校一年の時、料飲店禁止令のさなか、土地の名だたる料理屋、待合で遊ぶというより、ひたすら酔払って、このツケはすべて父の公的交際費でおとせた」とある
  4. ^ a b c 【特集】 イマコソ、野坂昭如|HMV ONLINE
  5. ^ 通販生活 2013秋冬号、p.127 「昭和ヒトケタからの詫び状」往復書簡編30
  6. ^ 村松友視『ヤスケンの海』p.93(幻冬舎、2003年)によると「本当は卒業しているのに、仲間たちがみんな中退なので、卒業じゃ恰好つかないと、ずっと中退で通してきてるんです。そういうダンディズム、お洒落もあるんですよ」という。
  7. ^ 「『奇譚クラブ』から『裏窓』へ (出版人に聞く)」飯田豊一著、論創社(2013年)。P.128
  8. ^ 参議院議員選挙ではこの選挙から従来の全国区に代わって拘束名簿式比例代表制が導入された。
  9. ^ 野坂の辞職に伴い、名簿2位だったコロムビア・トップが繰り上げ当選となった。
  10. ^ 国立国会図書館の国会会議録検索システム[1]による。以下の発言内容も同じ。
  11. ^ 「用意してきた質問は午前中からの委員の諸先生がみんな御質問なさったんで、まことに困っている」と述べている。
  12. ^ 新潟市-安吾賞-AngoAwards-第4回安吾賞の受賞者が決まりました
  13. ^ 西部邁 『人間論』 PHP研究所〈PHP文庫〉、1996年、129頁。
  14. ^ 小山明子野坂暘子「『介護』は第二のハネムーン――大島渚、野坂昭如との日々を支える夫婦の年輪」『文藝春秋』87巻7号、文藝春秋2009年6月1日、326頁。
  15. ^ a b 富澤一誠『フォーク名曲事典300曲〜「バラが咲いた」から「悪女」まで誕生秘話〜』ヤマハミュージックメディア、2007年、120-121頁。ISBN 978-4-636-82548-0
  16. ^ a b c d e f g h i j k 野坂昭如著『赫奕たる逆光』94頁
  17. ^ a b c 野坂昭如著『赫奕たる逆光』95頁
  18. ^ a b 野坂昭如著『赫奕たる逆光』65頁
  19. ^ a b 野坂昭如著『赫奕たる逆光』96頁
  20. ^ a b 野坂昭如著『赫奕たる逆光』117頁
  21. ^ 野坂昭如著『赫奕たる逆光』97頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]