野茂英雄

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野茂 英雄
HideoNomo.png
タンパベイ・デビルレイズ時代(2005年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市港区
生年月日 1968年8月31日(43歳)
身長
体重
6' 2" =約188cm
220 lb =約99.8kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1989年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1990年4月10日
MLB / 1995年5月2日
最終出場 NPB / 1994年8月24日
MLB / 2008年4月18日
経歴(括弧内は在籍年)
オリンピック
男子 野球
1988 野球

野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、日本の元プロ野球選手投手)。

大阪府大阪市港区出身。「トルネード投法」を武器に日本プロ野球時代は近鉄バファローズで活躍。1995年ロサンゼルス・ドジャースに移籍し、メジャーリーグでも活躍。日本人メジャーリーガーの実質的なパイオニアである。

奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった。生涯成績の3122奪三振は歴代の日本人投手で第4位。また、通算3000イニング以上投げた日本人投手の中で唯一、投球回数を上回る奪三振を挙げた。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

小・中学時代の野茂は全くの無名選手であったが、この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、後のトルネード投法の原型となる投法で投げていた。高校時代の監督はその投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味で「つむじ風投法」と名付けた。名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格に終わり、高校野球全国大会とは縁の無い公立高校に進む。

大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)では2年生からエース投手となり、1985年7月19日に全国高等学校野球選手権大阪大会完全試合(2回戦、大阪府立生野高等学校戦)を達成。3年はベスト16(5回戦)進出などの成績を残す。

高校卒業時には既に近鉄から誘いがあったが、新日本製鐵堺への入団を選ぶ。なお、入団先は新日本製鐵傘下のチームであったが、勤務先は、子会社の新日鐵化学だった。新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、後に野茂にとって最大の武器となるフォークボールを習得。2年目はチームを都市対抗野球大会に導き、日本代表に選出。1988年ソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。名実共にアマNo.1投手となった野茂の進路が注目されたが、野茂はドラフト会議前、どの球団から指名されても入団することを明言する。

その中で行われたドラフト会議では、史上最多の8球団(阪神タイガースロッテオリオンズヤクルトスワローズ横浜大洋ホエールズ福岡ダイエーホークス日本ハムファイターズオリックス・ブレーブス近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。

推定契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォーム(トルネード投法)を変更しないという条項が付け加えられた。

[編集] 日本プロ野球時代

[編集] 近鉄時代

1990年4月10日西武ライオンズ戦(藤井寺球場)でプロ初登板。その後も先発するが白星の付かない試合が続き、4月29日のオリックス・ブレーブス戦(阪急西宮スタジアム)で初勝利を挙げた。この試合は完投し、17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立した。

結局この年、新人ながら最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン新人王沢村栄治賞MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博堀内恒夫上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。ただし木田は、当時の沢村賞の選定がセ・リーグのみだったため受賞対象者ではなかった)。奪三振に関しての記録はシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、一試合三振奪取率10.99(当時)などの記録を続々に更新し、新人から「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。

1990年には5試合連続2ケタ奪三振を記録し、江夏豊の持つ4試合連続2桁奪三振を19年ぶりに塗り替えた。1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した他、1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成(新人からの4年連続最多奪三振は他に江夏豊がいるが、当時はタイトルではなかった)。

1991年のオールスターゲームは第1戦(東京ドーム)に全パの先発投手としてマウンドに上がり、先頭打者の立浪和義をはじめ奪三振6を記録(1990年代の球宴では最多)する。第2戦(広島市民球場)では秋山幸二が自打球で負傷退場し、他に野手がいなかったため、代打でも出場。結果は見逃し三振だったが、秋山が既に2ストライクだったため、記録上は秋山の三振。この時、野茂はオリックス・ブルーウェーブのヘルメットで打席に立った。

1994年、対西武ライオンズ戦(開幕戦)で8回までノーヒットノーランに抑えた(4回までに11奪三振を記録)が敗戦。この年は右肩痛のため、年間通じて目立った活躍が出来なかった。またこの年の7月1日の対西武戦では個人1試合につき16与四球の日本記録を作っている(試合は191球投げて3失点完投勝利)。

[編集] 近鉄退団

[編集] 球団との確執

1994年の契約更改で、野茂は複数年契約と代理人交渉制度(代理人は団野村)を希望したが、フロントは野茂が肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。この時フロントは「君はもう近鉄の顔ではない」と野茂に言い放ったとされている。球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、野茂の要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。野茂は「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、野茂は孤立していった。更に野茂は、仰木彬の監督時代からフロントには様々な不満があったことを語っている。

  • 先発日に自分の車を藤井寺球場駐車場に止めると、球団関係者に本社の人間が来るので車を動かすよう要求された。
  • 観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた。

フロントは野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、野茂をトレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。自由契約にならない限り、他球団でのプレーは出来ないためであるが、野茂がメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となる。

[編集] 監督との確執

もう1つの理由は、同じ投手出身の監督・鈴木啓示との確執だった。野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督の仰木彬(仰木は内野手出身)はこれを快諾し、調整方法も野茂に任せたため、野茂は仰木を信頼して尊敬するようになった。これに関して後に野茂は、メジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが近鉄監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。更に、1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝と言う実績を挙げた投手出身と言うこともあってか、フォームや調整法など様々な事に関して野茂に干渉した。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。

また野茂は、立花龍司とのマンツーマン指導で遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し、野茂が「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと鈴木は「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんだ」と持論を押し通した。近鉄投手陣は立花に信頼を寄せていたが、立花が鈴木の冷遇によって1993年に近鉄を退団したため、投手陣の反発を買った。

監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「三振は取るが四球が多すぎる。(投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた。しかし、これらの発言から鈴木は野茂の飛躍によって指導者としての評価を著しく下げる結果を招いてしまい、近鉄監督辞任以降の監督・コーチ要請がなくなり、加えてオリックス・バファローズでの監督・コーチの要請もなくなっている。

こうした指導法が元で野茂は鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。当時のチームメイトだった金村義明は著書「勝てる監督 負けるボス」で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。

交渉が不調に終わった野茂は近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、メジャー球団と契約することが可能になった。なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。

[編集] メジャーリーグ時代

[編集] ロサンゼルス・ドジャース

1995年ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャー先発を果たし、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月は月間MVPは逃すものの、50回1/3を投げ、2完封を含む6勝0敗、防御率0.89、WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗、防御率1.99、WHIP1.07の好成績で折り返し、1995年のMLBオールスターゲームに同い年のシカゴ・カブスの主砲サミー・ソーサと共に初選出され先発投手を務めた。後半戦も15試合の登板で7勝5敗、防御率3.03、WHIP1.03の成績を残し、チームの地区優勝に貢献。最終的に13勝6敗、236奪三振、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54の成績で新人王・奪三振王を獲得し、日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。

1996年スプリングトレーニング中に3年430万ドルで契約を延長。4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではサンディ・コーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利をあげた。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球で日米通算100勝を達成。9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。17日のロッキーズ戦では雨で試合開始が2時間遅れたが、トルネードを封印しセットポジションに終始した投球でノーヒットノーランを達成した。高地で空気が薄いためスタミナの消耗が早く、球場が広くない上にボールも飛びやすい「打者天国」として知られるクアーズ・フィールドでの達成者は、2010年時点で野茂のみ(現在はボールを湿らせることで飛ばないようにしているが、野茂は雨でボールが湿っていたことにヒントを得たという)であり、「完全試合より価値がある」と報道したメディアもあった。後半戦は15試合の登板で7勝4敗、防御率2.84、WHIP1.10と好調を続け、最終的にチーム最多の16勝をマークした。

1997年4月25日のマーリンズ戦では、ドワイト・グッデンの記録を更新してメジャー史上最速となる444回2/3での500奪三振を達成。8月28日のオークランド・アスレチックス戦でもグッデンに続きメジャー史上2人目となる新人時代から3年連続での200奪三振を達成した。前半戦は18試合の登板で8勝7敗、防御率3.81、WHIP1.27の成績で折り返すが、7月26日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で打球を右ひじに受けて退場。打撲と診断され、故障者リスト入りすることなく復帰したが、後半戦は15試合の登板で6勝5敗、防御率4.81、WHIP1.50と不調に陥る。9月14日のヒューストン・アストロズ戦以降はトルネード投法を封印し、前年のノーヒットノーラン達成試合以来となる終始セットポジションからの投球に切り替えた。最終的にリーグ4位の奪三振数を記録するも、チームはプレーオフ出場を逃す。オフには6月から張りがあったという右ひじの遊離軟骨除去手術を受けた。

1998年は例年よりも1ヶ月早くロサンゼルス入りし、トレーニングを開始。スプリングトレーニングでは球速が91mph(約146km/h)まで回復して球威に問題ないことが確認されたが、制球に不安を残し、計21回を投げ自責点19と開幕に不安を残した。4月3日のシンシナティ・レッズ戦ではメジャー自己最多となる7者連続奪三振を記録したが、18日のシカゴ・カブス戦では2/3回を8失点で降板。メジャー通算100先発となった28日のミルウォーキー・ブルワーズ戦の7回には日本人メジャーリーガー初本塁打を記録し通算45勝目をマークするも、5月9日のマーリンズ戦では右手中指のフェイクネイルの圧迫による痛みを訴え、途中降板。5月まで12試合の登板で2勝7敗、防御率5.05、WHIP1.40の成績を喫する。6月1日に退団の意思を示し、4日にトレードでニューヨーク・メッツに移籍。メッツでは7月に3連勝も記録したものの、1試合のリリーフ登板を含む17試合に登板し4勝5敗、防御率4.82、WHIP1.44の成績に終わった。

[編集] ミルウォーキー・ブルワーズ

1999年1月18日に1年292万5000ドルでメッツと再契約。しかし3月24日に40人枠から外れ、30日に解雇。4月1日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結ぶが、3登板で解雇され、4月29日にミルウォーキー・ブルワーズと1年25万ドルで契約。5月9日にメジャー復帰。前半戦を13試合の登板で7勝2敗、防御率3.95、WHIP1.37の成績で折り返す。8月2日のメッツ戦ではドジャースとメッツでバッテリーを組んだマイク・ピアッツァと対戦。第3打席に本塁打を打たれ、5回9安打6失点で敗戦し、試合後には「ずっとピアッツァを相手に投げたいと思っていた。彼にはもう少し良い球を投げたかった」と語った。9月8日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロジャー・クレメンス、ドワイト・グッデンに次ぎメジャー史上3番目のスピード記録となる147試合目でのメジャー通算1000奪三振を達成。後半戦は15試合の登板で5勝6敗、防御率5.06、WHIP1.46と調子を落としたものの、最終的にチーム最多の12勝を挙げた。

[編集] デトロイト・タイガース

2000年1月22日にデトロイト・タイガースと年俸125万ドル+出来高225万ドルの1年契約(2年目は年俸550万ドルの球団オプション)を結ぶ。この年からツーシームスライダーを習得した他、セットポジションでのフォームを改良し、クイックのタイムを1.5秒台から1.3秒台に縮めた[1]。4月3日のオークランド・アスレチックス戦では日本人初の開幕投手を務め、最速95mph(約153km/h)を記録する投球を見せ、7回3安打3本塁打3失点で勝利投手となった。7月2日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦ではマック鈴木と投げ合い、7回0/3を無失点7奪三振で勝利。9日のブルワーズ戦ではイタリアンソーセージの着ぐるみで観客に牛肉を配り、ソーセージ・レースにも参加し優勝。観客にはレース後にアナウンスでこのことが知らされた。しかし前半戦は20試合の登板で3勝7敗、防御率4.74、WHIP1.48の成績で折り返し、8月に右手中指の炎症で初の故障者リスト入り。18日のアスレチックス戦で復帰し、最速93mph(約150km/h)を記録する投球で5勝目を挙げる。12月15日にはボストン・レッドソックスと年俸325万ドル+出来高75万ドルの1年契約を結んだ。

[編集] ボストン・レッドソックス

2001年4月4日のボルチモア・オリオールズ戦(オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ)では電気系統の故障で試合開始が遅れた中、2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはサイ・ヤングジム・バニングノーラン・ライアンに次いでメジャー史上4人目となった。レッドソックス通算100周年の試合となった26日のミネソタ・ツインズ戦でも7回まで無安打の投球を見せた。5月2日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対決し、第1打席と第2打席を二ゴロ、中飛に抑え、第3打席には死球を与えた。25日のトロント・ブルージェイズ戦では7者連続を含む14奪三振1安打で完封勝利を挙げ、6年ぶりの無四球を記録。6月16日のアトランタ・ブレーブス戦では3回に日米通算2500奪三振を達成。前半戦を18試合の登板で8勝4敗、防御率3.83、WHIP1.21で折り返し、7月20日のシカゴ・ホワイトソックス戦で2年ぶり5度目の10勝に到達した。7月は敗けなしの5連勝、防御率3.00、WHIP1.50の成績で、月間MVP投票ではマーク・マルダーに次ぐ2位となった。8月からは2勝6敗、防御率6.07、WHIP1.49と調子を落とした。しかしシーズンを通して奪三振率が9.00を切ることなくリーグ1位の奪三振率10.00を記録し、4年ぶりに200奪三振を越えて二度目の最多奪三振を獲得。12月19日に2年1375万ドル(3年目は年俸900万ドルの球団オプション)でドジャースに復帰する。

[編集] ドジャース復帰

2002年、4月2日のジャイアンツ戦では4回まで1安打に抑え、5回には2死満塁の場面で新庄剛志を迎えるが、95mph(約153km/h)の速球で二ゴロに抑え、ドジャース復帰後初勝利を挙げた。その後は打線と噛み合わなかったが、5月17日からは14勝1敗の活躍で、6月21日のレッドソックス戦でメジャー通算1500奪三振を記録。7月1日のダイヤモンドバックス戦ではランディ・ジョンソンと投げ合い、打撃では5回にジョンソンの97mph(約156km/h)の速球を先制適時二塁打とし、投球でも8回5安打無四球無失点7奪三振の好投で自己最長タイの7連勝を記録。前半戦を18試合の登板で9勝5敗、防御率3.16、WHIP1.32の成績で折り返した。8月22日のマーリンズ戦では3回に突如制球を乱して敗戦投手となるも、初回に自己最速となる97mph(約156km/h)を記録した。この年チームメイトだった石井一久とは与四球数において、メジャー全体で1-2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。

2003年は自身3年ぶりの開幕投手に指名され、開幕戦となった3月31日のダイヤモンドバックス戦で完封勝利。4月20日のジャイアンツ戦でメジャー通算100勝を達成。前半戦を20試合の登板で9勝8敗、防御率2.97、WHIP1.12の成績で折り返す。9月に右肩回旋筋の炎症が見つかるも、故障者リスト入りはせずに療養し、14日に復帰。最終的に防御率はリーグ6位の3.09、得点援護率がリーグワースト3位ながらもリーグ5位の16勝を挙げ、チームメイトのショーン・グリーンが「ウチにはブラウニー(ケビン・ブラウン)とエースが二人いる」と絶賛する活躍を見せた。オフには肩の内視鏡手術を受けた。

2004年は球団がオプションを行使して残留。前年に続いて開幕投手を務めるも、オフに受けた肩の手術からの回復が遅れて球速が戻らず、2度の故障者リスト入りを挟み、4月17日から9月1日にかけて自己ワーストの10連敗を喫した。

[編集] ドジャース退団後

2005年タンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日に日米通算200勝を達成するが、7月26日に解雇。27日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。日米通算200勝を達成したことで日本プロ野球名球会入りの権利を得たが、この時は「今は返事をする必要がないと思う」として態度を保留した。

2006年3月3日にシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約。4月17日にAAA級シャーロットの先発として初登板したが、右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録され、6月8日に契約解除。同月下旬には右ひじを手術した。

2007年ドミニカ共和国でのウィンターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた。その後、ベネズエラカラカス・ライオンズに入団し、ベネズエラでのウィンターリーグへの参加が認められる。10月20日のグアイラ戦では1年半ぶりの登板を果たした。

2008年1月4日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結ぶ[2]。手術した右肘への負担を軽減するため、トルネードの大きな特徴であったワインドアップ・モーションをやめ、セットポジションに投法を統一する。オープン戦で防御率は思わしくなかったものの、16イニングを投げ16奪三振、四死球は4つにとどめるなど比較的安定して三振が取れていると評価され、4月5日にメジャー昇格[3]の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した[4]。しかしその後結果は残せず、4月20日にDFAとなった[5]

5月11日には東北楽天ゴールデンイーグルスが交渉意思を示すも、入団には至らなかった。7月17日、共同通信のインタビューに対して「リタイアすることにした。プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った」とコメントして現役引退を表明。メジャーリーグでの大半を過ごしたドジャースを除く29球団との試合で勝ち星を記録していたため、MLB全30球団からの勝利が達成間近での引退となった。

[編集] 引退後

帰国後の11月12日から3日間限定で、臨時コーチとしてオリックス・バファローズの秋季キャンプに招かれた。

2009年2月1日、オリックスのテクニカル・アドバイザーに就任した[6]が、同年オフ、月1回の試合観戦というノルマが成されていなかった事と、大石大二郎監督の退任に伴い契約解除となった。3月10日、入会を保留していた日本プロ野球名球会へ正式に入会。

2010年広島東洋カープ春季キャンプにて臨時コーチを務めた[7]。11月6日に行われた中日ドラゴンズ千葉ロッテマリーンズ(日本シリーズ第6戦・ナゴヤドーム)のテレビ中継(東海テレビ・フジテレビ系)にて、引退後初めて「野球解説者」として出演し、投手出身の面から試合を分析した。この試合の中継ではソウル五輪でバッテリーを組んだ古田敦也と共演している。第6戦は日本シリーズ史上初となる延長15回、2-2の引き分け、史上最長の5時間43分を記録しているが、中継終了の際には古田とともに「お疲れ様でした」と声を掛け合った[8]

2011年も広島の臨時コーチを務め、7月には日米親善少年野球大会で日本選抜の監督を務め、長谷川滋利が監督を務めるオレンジカウンティー選抜と対戦した。

[編集] 選手としての特徴

大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、平均86~90mph(約138~145km/h)、最速97mph(約156km/h、日本での最速は151km/h)の伸びのある速球と77~82mph(約124~132km/h)のフォークボールを武器とした[9]。速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた[9]。2000年代に入るとカーブスライダーツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。

通算奪三振率9.28。通算奪三振率が9.00を上回っている(=通算で、1イニング1つ以上の三振を取った)投手(通算投球回数2000イニング以上)は日本では野茂ただ一人である(メジャーを含めてもノーラン・ライアンランディ・ジョンソンペドロ・マルティネスサンディー・コーファックス、野茂の5人だけ)。

オレステス・デストラーデは「野茂が日本球界最高の投手」と評している[10]

[編集] 社会現象

  • 1995年にディアマンテスが野茂の応援歌「野茂英雄のテーマ・HIDE〜O」(バナナ・ボートの替え歌)をシングルCDで発売。当時、「Nomo(野茂)が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。2005年にマキシシングルで再発売された。
  • 1998年、3社の高校英語教科書に登場。うち1社はトルネード投法を分解写真付きで紹介した。

[編集] NOMO ベースボールクラブ

2003年、日本の社会人野球チームが次々に廃部となっていく現状に対し、野球を志す若者に少しでも受け皿を作りたいという理由で、野茂の所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市で社会人野球クラブチームNOMO ベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任した。2004年に社会人野球の全国統括組織「日本野球連盟」に加盟。2005年には結成2年目で都市対抗野球大会に初出場し、全日本クラブ選手権ではクラブチーム日本一に輝いた。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1990 近鉄 29 27 21 2 1 18 8 0 -- .692 975 235.0 167 18 109 2 4 287 12 0 87 76 2.91 1.17
1991 31 29 22 4 0 17 11 1 -- .607 1024 242.1 183 21 128 1 5 287 15 1 92 82 3.05 1.28
1992 30 29 17 5 1 18 8 0 -- .692 900 216.2 150 13 117 0 1 228 4 0 73 64 2.66 1.23
1993 32 32 14 2 0 17 12 0 -- .586 1064 243.1 201 22 148 1 7 276 13 1 106 100 3.70 1.43
1994 17 17 6 0 0 8 7 0 -- .533 512 114.0 96 9 86 0 2 126 7 0 55 46 3.63 1.60
1995 LAD 28 28 4 3 1 13 6 0 -- .684 780 191.1 124 14 78 2 5 236 19 5 63 54 2.54 1.06
1996 33 33 3 2 0 16 11 0 -- .593 932 228.1 180 23 85 6 2 234 11 3 93 81 3.19 1.16
1997 33 33 1 0 0 14 12 0 -- .538 904 207.1 193 23 92 2 9 233 10 4 104 98 4.25 1.37
1998 12 12 2 0 0 2 7 0 -- .222 295 67.2 57 8 38 0 3 73 4 1 39 38 5.05 1.40
NYM 17 16 1 0 0 4 5 0 -- .444 392 89.2 73 11 56 2 1 94 9 3 49 48 4.82 1.44
'98計 29 28 3 0 0 6 12 0 -- .333 687 157.1 130 19 94 2 4 167 13 4 88 86 4.92 1.42
1999 MIL 28 28 0 0 0 12 8 0 0 .600 767 176.1 173 27 78 2 3 161 10 1 96 89 4.54 1.42
2000 DET 32 31 1 0 0 8 12 0 0 .400 828 190.0 191 31 89 1 3 181 16 0 102 100 4.74 1.47
2001 BOS 33 33 2 2 1 13 10 0 0 .565 849 198.0 171 26 96 2 3 220 6 0 105 99 4.50 1.35
2002 LAD 34 34 0 0 0 16 6 0 0 .727 926 220.1 189 26 101 5 2 193 6 0 92 83 3.39 1.32
2003 33 33 2 2 0 16 13 0 0 .552 897 218.1 175 24 98 6 1 177 11 0 82 75 3.09 1.25
2004 18 18 0 0 0 4 11 0 0 .267 393 84.0 105 19 42 1 4 54 3 0 77 77 8.25 1.75
2005 TB 19 19 0 0 0 5 8 0 0 .385 472 100.2 127 16 51 2 2 59 3 0 82 81 7.24 1.77
2008 KC 3 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 27 4.1 10 3 4 0 0 3 1 0 9 9 18.69 3.23
NPB:5年 139 134 80 13 2 78 46 1 -- .629 4475 1051.1 797 83 588 4 19 1204 51 2 413 368 3.15 1.32
MLB:12年 323 318 16 9 2 123 109 0 0 .530 8462 1976.1 1768 251 908 31 38 1918 109 17 993 932 4.24 1.35
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

NPB
MLB
  • 最多奪三振:2回 (1995年、2001年)

[編集] 表彰

NPB
MLB

[編集] 記録

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 1000奪三振:1993年8月27日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回裏に高橋智から ※史上90人目(史上最速)
  • 1000投球回数:1994年5月31日、対西武ライオンズ9回戦(藤井寺球場) ※史上253人目
NPBその他の記録
  • オールスターゲーム出場:5回 (1990年 - 1994年)
  • 1試合奪三振:17(1990年4月29日) 対オリックス・ブレーブス5回戦(阪急西宮球場) ※達成当時新記録
  • 1試合個人最多与四球:16(1994年7月1日) 対西武ライオンズ12回戦(西武ライオンズ球場) ※新記録
  • シーズン奪三振率:10.99(1990年) ※プロ野球新記録 (達成当時)
  • 6試合連続2桁奪三振:1991年4月7日 - 5月9日
MLB

[編集] 背番号

  • 11 (1990年 - 1994年、1999年、2001年、2005年)
  • 16 (1995年 - 1998年)
  • 23 (2000年)
  • 10 (2002年 - 2004年)
  • 91 (2008年)

[編集] テレビCM出演

[編集] 脚注

  1. ^ 野茂英雄 in DETROIT『月刊スラッガー』2000年6月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌05456-6、18-25頁。
  2. ^ Nomo not ready to retire yet Japanese trendsetter taking another stab at Majors with Royals”. The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日閲覧。
  3. ^ Nomo yet to write final chapter Starter turned reliever rejoins Royals after groin injury”. The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日閲覧。
  4. ^ Pettitte remains a Royals nemesis Left-hander stays solid vs. KC as New York salvages finale”. The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日閲覧。
  5. ^ In tough decision, Royals set Nomo free Career may be over for Japanese hurler attempting comeback”. The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日閲覧。
  6. ^ 野茂英雄氏がテクニカル・アドバイザーに就任
  7. ^ 【広島】野茂臨時コーチが指導開始
  8. ^ 野茂氏が初解説 古田氏と息ピッタリ
  9. ^ a b メジャーリーグ某球団スカウト部長による"リアル"スカウティング・レポート!『月刊スラッガー』2002年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-3、30-33頁。
  10. ^ ベースボールマガジン 2011年9月号 P28

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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