野茂英雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野茂 英雄
タンパベイ・デビルレイズ時代(2005年)
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市港区
生年月日 1968年8月31日(40歳)
身長
体重
188cm
104kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1989年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1990年4月10日
MLB / 1995年5月2日
最終出場 NPB / 1994年
MLB / 2008年4月18日
経歴(括弧内は在籍年)
オリンピック
男子 野球
1988 野球

野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、元プロ野球選手投手)。

1995年ロサンゼルス・ドジャースに移籍し、日本人メジャーリーガーのパイオニアとして活躍した。大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、ノビのあるストレートと2種類のフォークボールが大きな武器である。

現役時代は奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった。引退前になると、カーブ、スライダー、ツーシームなども投げ、技巧派となった。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 所属

成城工高 - 新日鐵堺 - 近鉄バファローズ - ロサンゼルス・ドジャース - ニューヨーク・メッツ - シカゴ・カブス(マイナー契約) - ミルウォーキー・ブルワーズ - デトロイト・タイガース - ボストン・レッドソックス - ロサンゼルス・ドジャース - タンパベイ・デビルレイズ - ニューヨーク・ヤンキース(マイナー契約) - シカゴ・ホワイトソックス(マイナー契約) - カンザスシティ・ロイヤルズ

[編集] プロ入り以前

小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であった。この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、後のトルネード投法の原型となる投法で投げていた。(野茂がプロ入り後、トルネード投法で脚光を浴びた後、高校時代の監督は高校時代の野茂の投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味でつむじ風投法と名付けた)名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格に終わり、高校野球全国大会とは縁の無い公立高校に進む(当時、セレクションを受けた野球部の監督は『そんな体を捻る投球フォームじゃ、絶対大成しない』と言って野茂に目をかけなかった[要出典])。

成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)進出等の成績を残す。

高校卒業時には既に近鉄から誘いがあったが、ノンプロ・新日鐵堺への入社を選ぶ。当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万ほど。新日鐵堺での1年目には「伝家の宝刀」フォークボール「決め球」を習得(スライダーを習得できなかったため)している。2年目はエースとしてチームを都市対抗に導き、日本代表にも選ばれた。1988年ソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。名実共にアマNo.1投手となった野茂の進路が注目されたが、1989年のドラフト会議前、野茂はどの球団から指名されても入団することを明言する。

[編集] 日本プロ野球時代

1989年のドラフト会議では史上最多の8球団(阪神ロッテヤクルト大洋ダイエー日本ハムオリックス近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、推定年俸は1000万円であった。契約時、投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。

1990年4月10日、対西武戦でプロ初登板(藤井寺球場)。その後先発するも白星の付かない試合が続いたが、4月29日、対オリックス戦(西宮)に先発し初勝利した(プロ4試合目)。完投で17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けを飾るにふさわしい勝利を飾った。

結局この年、新人ながら最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率と投手タイトル四冠を独占する活躍を見せた。またベストナイン新人王沢村賞、そしてMVPにも輝いた。パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。現在までに権藤博堀内恒夫上原浩治が新人王と沢村賞、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂のみである(但し木田は沢村賞の受賞対象者ではなかった)。

1990年1993年にかけ、最多勝利最多奪三振のタイトルを4年連続で獲得する。新人年から4年連続最多奪三振はもちろん、4年連続最多勝利のタイトルを獲得した投手は野茂のみである。

プロ5年目の1994年、西武との開幕戦で8回までノーヒットノーランに抑えた(4回までに11奪三振を記録)が敗戦。この年は右肩痛のため年間通じて目立った活躍が出来なかった。またこの年の西武戦では個人1試合16与四球の日本記録を作っている(試合は189球投げて3失点完投勝利)。

[編集] 近鉄の退団

[編集] 球団との確執

1994年オフの契約更改で、野茂は複数年契約と代理人制度(代理人は団野村)を希望したが、フロントは肩を故障してシーズン後半を棒に振った事を理由に拒否した。この時フロントは「君はもう近鉄の顔ではない」と野茂に言い放ったと言われている。球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、野茂の要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。野茂は「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対しては、マスコミも近鉄の意見に同調し、野茂は孤立していた。

野茂は仰木監督時代からフロントには様々な不満があったことを語っている。

  • 先発日に自分の車で藤井寺球場に行き駐車場に止めると、球団関係者に本社の人間が来るので車を動かすよう要求された。
  • 契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた(観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため)。また最多勝を獲得したのに年俸が上がらなかった年もあった。

フロントは野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、野茂をトレードや自由契約ではなく任意引退として扱おうとした(自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ない)。これは野茂がメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となる。

[編集] 監督との確執

もう1つの理由は監督である鈴木啓示との確執だった。野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督・仰木彬はこれを快諾し、調整方法も野茂に任せたため、野茂は仰木を信頼するようになった。これに関して後に野茂は、メジャー在籍時の晩年に、「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが近鉄監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。

さらに、1993年に監督に就任した鈴木はフォームや調整法など様々なことに関して野茂に干渉した。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。

また野茂は立花コーチとのマンツーマンの指導形態で、遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し、野茂が「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと、「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と根性論を押し通した。一度、「鈴木の要求する走りこみ」と「立花が指導するメニュー」の運動量を科学的に比較する検証が行われたことがあったが、立花のメニューの方が多かった、という結果が出たということもある。近鉄投手陣は立花龍司トレーニングコーチに絶大な信頼を寄せていたが、鈴木の冷遇により1993年オフに近鉄を退団したため、投手陣の反発を買った(これに怒った一人が吉井理人で、トレードで放出される一因になったとされる)。

監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「三振は取るが、フォアボールが多すぎる。フォームを改造しなければ」と現役当時屈指のコントロールを誇った鈴木は野茂のコントロールの悪さに不満を持っており、「今のフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と述べ、完全に野茂のフォームを否定していた。しかし、これらの発言から、鈴木は野茂の飛躍によって指導者としての評価を著しく下げてしまう結果となった。

こうした指導法が元で野茂は次第に鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。当時のチームメイト金村義明は著書『勝てる監督負けるボス』で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の元ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。

交渉が不調に終わった野茂は近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。任意引退する前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、メジャー球団と契約することが可能になった。2005年以降に保有権を継承したのは近鉄と合併したオリックスである。

[編集] メジャーリーグ時代

1995年ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。5月2日にジャイアンツ戦で先発投手としてキャンドルスティック・パークのマウンドに立ち、村上雅則以来31年ぶり、2人目の日本人メジャーリーガーとなった。6月2日にメッツ戦でメジャー初勝利をあげた。オールスターでは、先発で出場した。13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得する。日米両国で新人王を受賞したのは現在野茂ただ1人である。

1996年9月17日ロッキーズ戦でノーヒットノーランを達成した。クアーズ・フィールドでの達成者は野茂1人である。高地で空気が薄いためスタミナの消耗が早く、またボールが飛びやすいため(現在はボールを湿らせることで飛ばないようにしているが、野茂の快挙の際、雨でボールが湿っていたことにヒントを得ているという)難易度はかなり高い記録であり「不可能を可能にしたノーヒッター」といわれこの球場ではノーヒッターは今後出ないだろうと言われている[要出典]1998年4月28日に、日本人メジャー1号本塁打を記録。しかし、シーズン途中でニューヨーク・メッツトレードされた。1999年、開幕直前にメッツから解雇され、シカゴ・カブスとマイナー契約。さらに、カブスからミルウォーキー・ブルワーズにトレード。2000年、ブルワーズからデトロイト・タイガースにトレード。日本人初の開幕投手になり勝利した。

2001年、タイガースからボストン・レッドソックスにトレード。4月4日オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズでの対ボルチモア・オリオールズ戦で1996年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。20世紀、21世紀と世紀を跨いで記録したのはメジャーの歴史で野茂とランディ・ジョンソンだけ(ランディ・ジョンソンの場合は完全試合)である。2002年、レッドソックスからロサンゼルス・ドジャースに復帰した。 この年はチームメイトであった石井一久と与四球数において、メジャー全体で1-2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。2004年、11月初めにフリーエージェントを申請している。

2005年タンパベイ・デビルレイズマイナー契約。6月15日のブルワーズ戦で日米通算200勝を達成するが、7月16日に戦力外通告を受け、10日後に解雇。7月27日ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。

2006年3月3日シカゴ・ホワイトソックスとのマイナー契約。4月17日、3Aシャーロット・ナイツの先発として初登板したが、右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録される。6月8日に契約解除される。同月下旬には右ひじを手術した。

2007年ドミニカ共和国でのウインターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた。その後、ベネズエラカラカス・ライオンズに入団。ベネズエラでのウインターリーグへの参加が認められる。10月20日のグアイラ戦で、1年半ぶりの登板を果たす。

2008年1月4日カンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約[1]。手術した右肘への負担を軽減するため、トルネードの大きな特徴であったワインドアップ・モーションをやめ、セットポジションに投法を統一する。オープン戦で防御率は思わしくなかったものの、16イニングを投げ16奪三振、四死球は4つに留めるなど比較的安定して三振が取れていると評価され、4月5日にメジャー昇格[2]の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した[3]。しかしその後結果は残せず、4月20日にロイヤルズから戦力外通告を受けた[4]

2008年5月11日、東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得への交渉意思を示すも、不調に終わる。

2008年7月17日、共同通信インタビューに対し、「リタイアすることにした。プロ野球選手としてお客さんに見せるパフォーマンスは出せないと思うし、同じように思っている球団も多いと思う。自分の中ではまだまだやりたい気持ちが強いが、自分の気持ちだけで中途半端にしていても周りに迷惑をかけるだけだと思った。」とコメントし現役引退を表明した。メジャーリーグ生活の大半を過ごしたドジャースから勝ち星を挙げれば、「メジャー全30球団から勝利」を達成していたが、とうとう達成はされなかった。

[編集] 引退後

帰国後の2008年11月12日から3日間限定で、臨時コーチとしてオリックス・バファローズの秋季キャンプに招かれた。主にフォークボールの投げ方を指導し、選手からは好評だった。

2009年2月1日、オリックスのテクニカル・アドバイザーに就任した[1]。同年3月10日、入会を保留していた名球会へ正式に入会。

[編集] 年度別投手成績































1990 近鉄 11 29 21 2 18 8 0 .692 235.0 167 109 4 287 87 76 10.99 2.91
1991 31 22 4 17 11 1 .607 242.1 183 128 5 287 92 82 10.67 3.05
1992 30 17 5 18 8 0 .692 216.2 150 117 1 228 73 64 9.49 2.66
1993 32 14 2 17 12 0 .586 243.1 201 148 7 276 106 100 10.22 3.70
1994 17 6 0 8 7 0 .533 114.0 96 86 2 126 55 46 9.95 3.63
1995 LAD 16 28 4 3 13 6 0 .684 191.1 124 78 5 236 63 54 11.11 2.54
1996 33 3 2 16 11 0 .593 228.1 180 85 2 234 93 81 9.23 3.19
1997 33 1 0 14 12 0 .538 207.1 193 92 9 233 104 98 10.13 4.25
1998 12 2 0 2 7 0 .222 67.2 57 38 3 73 39 38 9.78 5.05
NYM 17 1 0 4 5 0 .444 89.2 73 56 1 94 49 48 9.48 4.82
1998計 29 3 0 6 12 0 .333 157.1 130 94 4 167 88 86 9.55 4.92
1999 MIL 11 28 0 0 12 8 0 .600 176.1 173 78 3 161 96 89 8.23 4.54
2000 DET 23 32 1 0 8 12 0 .400 190.0 191 89 3 181 102 100 8.57 4.74
2001 BOS 11 33 2 2 13 10 0 .565 198.0 171 96 3 220 105 99 10.00 4.50
2002 LAD 10 34 0 0 16 6 0 .727 220.1 189 101 2 193 92 83 7.89 3.39
2003 33 2 2 16 13 0 .552 218.1 175 98 1 177 82 75 7.30 3.09
2004 18 0 0 4 11 0 .267 84.0 105 42 4 54 77 77 5.79 8.25
2005 TB 11 19 0 0 5 8 0 .385 100.2 127 51 2 59 82 81 5.30 7.24
2008 KC 91 3 0 0 0 0 0 .000 4.1 10 4 0 3 9 9 6.59 18.69
NPB:5年 139 80 13 78 46 1 .629 1051.1 797 588 19 1204 413 368 10.31 3.15
MLB:12年 323 16 9 123 109 0 .530 1976.1 1768 908 38 1918 993 932 8.74 4.24
日米通算:17年 462 96 22 201 155 1 .593 3027.2 2565 1496 57 3122 1406 1300 9.28 3.86
  • 表中の太字はリーグ最高

[編集] 獲得タイトル・記録

[編集] 日本プロ野球

[編集] MLB

[編集] NOMO ベースボールクラブ

[編集] エピソード

[編集] 野球に関して

  • 高校2年生で達成した完全試合の投球内容は内野ゴロ13、内野フライ2、外野フライ2、三振10、104球。どちらかといえば「打たせて取る」投球だった。
  • 名門野球部に進んでいたら、フォーム矯正によりトルネード投法をやめさせられた可能性があるため、今の野茂はなかったと言われる。
  • プロ初奪三振は初登板・初先発の1990年4月10日西武戦(藤井寺)。1回表、4番・清原和博から。1番・辻発彦が四球、2番・平野謙のバント処理を誤り一・二塁、3番・秋山幸二も四球で無死満塁の大ピンチだった。
  • 1991年のオールスターゲームで、全パの秋山幸二が自打球により負傷退場し、他に野手が残っていなかったため、代打で出場したことがある。結果は見逃し三振だった(既に秋山が2ストライクを取られていたために記録上は秋山の三振である)。この時、オリックス・ブルーウェーブのヘルメットをかぶって打席に立った。
  • 近鉄時代に、同期入団の石井浩郎や、金村義明以外の野手とは基本的に仲が良くなかったと言われる。フォームが通常とは違うため守備側もタイミングが取りづらいこと、コントロールが悪く球数が多いために守っている時間が長く、四球を連発する野茂に野手が反感を持っていたためだとされる[要出典]。実際、野茂がランナーを出した際に、間合いを取ったり、アドバイスを送ろうとマウンドに駆け寄る者は捕手以外では石井浩郎しかおらず、スタンドのファンから見ても野茂はチーム内で孤立していた。また、金村も現役時代、三塁の守備についてて野茂に四球を連発された際「こんなにフォアボールが多くては…守っている人間のことも考えてくれないと…」と苦言を評したこともある。
  • ドジャース入団1年目に大リーグの伝統「新人への洗礼」を受けている。チームメイトが新人歓迎の意味でちょっとした悪戯を仕掛けるものだが、野茂も夏場ロッカーにしまったスーツを毛皮の服にすり替えられたり(結局その格好で移動の飛行機に乗った)、シカゴにある南北戦争の英雄リー将軍の銅像の馬の急所に、先輩選手に誘われチームカラーの青のペンキを塗りに行き、後日警察に検挙されそうになったり(実はこれもチームメイトが仕組んだ)、少々手荒い、しかし温かい歓迎を受けた。野茂は後に「あれでチームの一員になったと実感した」と語っている。
  • 古巣近鉄がヤクルトと対戦した2001年の日本シリーズ第5戦の中継でゲストとして出演したが、たびたび配球を読み当てるなど的確な発言で「さすが野茂」と見る者を唸らせた。実況に「野茂さんから見てローズ選手や中村紀洋選手の2001年版いてまえ打線の印象はどうですか?」と聞かれ、「僕がいた時はブライアント石井さん、鈴木さん、金村さんがいましたけど、あの時と、まぁメンバーはもう全然変わってますけど、構成も似てますし、近鉄は変わってないですね」と笑ってコメントした。
  • メジャーリーグで最初のノーヒットノーランロッキーズ戦)では試合前の雨のせいでマウンドがぬかるんだため、試合の途中からランナーがいなくてもセットポジションで投げ、制球安定につながった。
  • ゲイリー・シェフィールドに対して、天敵といっていいほど相性が悪く、カモにされていた(対戦成績は35打数17安打、対戦打率.486、4本塁打、13打点、9四球、6盗塁)。反面、チッパー・ジョーンズには相性がよく、天敵としてカモにしていた(対戦成績35打数2安打、打率.057、0本塁打、1打点、6四球、9三振)。
  • 2005年に日米通算200勝を達成し名球会入りの権利を得たが、この時は「今は返事をする必要がないと思う」として態度を保留。その後、現役を引退した2009年3月に正式に入会した。
  • アメリカのアマ野球チーム・エルマイラ・パイオニアーズを元近鉄の佐野重樹らと運営している。
  • 1998年4月28日、対ミルウォーキー・ブルワーズ戦でホームランを打っている。このホームランはメジャーリーグにおける日本人初のホームランである。このホームランバットはフジテレビ系列テレビ番組『とんねるずのハンマープライス』でオークションにかけられた。野茂はこのホームランを含め、メジャー時代に4本のホームランを打った。

[編集] プライベート

  • マスコミに対する態度やインタビュー、鈴木監督との確執、メジャーリーグ移籍騒動というイメージから無口で無愛想に見られがちだが、実は明るくよく喋る性格である。友人である木田優夫を通じて出演する明石家さんまの番組でも知ることができる。「さんまのまんま」出演時、野球教室にさんまがノーギャラで駆けつけることを約束したが、未だに果たせていないことを木田を通じて何度もさんまにアプローチしている。佐野重樹吉井理人赤堀元之金村義明など近鉄時代のチームメイトとは今も交流が続いており、チャリティーなど野茂が主催する会合には電話1本、ノーギャラで駆けつける間柄である。
  • アマチュア時代には潮崎哲也と親交が深かった。ソウル五輪に出場した際には、選手村でどこで何をするのも2人一緒であったという。
  • 石橋貴明との友情も有名で、野茂が作詞した「nothing around」はとんねるずのアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』に収録されている。とんねるずがメインを務めた人気テレビ番組とんねるずのみなさんのおかげです内の人気コーナー「モジモジ君」にもゲストとして出演したことがある(コーナー内の役名は「モジ茂」。コーナーの主旨どおり全身タイツ姿で登場している)。とんねるずのみなさんのおかげでしたでは「食わず嫌い王」内で石橋が「俺の年収を超えたら奢らせてやる」と昔から約束しているものの、メジャーに行っても奢らせていないことを明かした。
  • 近鉄時代は試合で投げてホテルに帰った後、ファミコンで野球ゲームを良くしていた。チームメイトの金村はある日突然野茂にお礼を言われた。金村はその前日打てなくてエラーもしていたのに何で礼など言うんだと問い詰めると、それはファミコンでサヨナラホームランを打ってくれたことに対してのお礼であった。その後金村はバラエティ番組でそのエピソードを引き合いに出しこいつは本物の野球好きだと評した。
  • 大食いでも有名で好物は寿司である。新人時代、当時解説者だった佐々木恭介に連れられて高級すし屋に行き、一人で寿司100カンを食べて佐々木を仰天させたことがある。新人王を獲得した1990年、仰木彬監督とすし屋に行った際には、トロとウニを際限なく注文したという話も残っている。
  • 近鉄時代の同僚・金村義明が「野茂の趣味はファミコン」と言っていた。競馬も趣味の一つであるため、ダービースタリオンが大好きで、徹夜で馬を育てて妻に怒られたこともある。彼に競馬を教えたのは吉井理人で、野茂はその見返りにフォークを教えたという。
  • セガサターンのゲームソフト『プロ野球チームをつくろう!』(1998年2月19日)の監修を手がけている。この作品ではFAの資格が3年でとれるようになっているが、野茂の発案である。なお、同作の前々年に発売された『野茂英雄ワールドシリーズ ベースボール』(セガサターン、1995年11月17日発売)『野茂英雄のワールドシリーズベースボール』(ゲームギア、1995年12月1日発売)は、名前が冠されただけで製作及び監修に一切関わっていない。
  • 日本野球時代に選手たちとハワイへ旅行に行くたび、体格が大きいので警備に止められる。「僕は投手です」と答えると、「では投げる真似をしてみろ」と言われ、トルネード投法を披露すると、「お前、嘘だろ!」と言われたことが何度かあったという。
  • 「英雄」という名は父が村田英雄の大ファンであったことから付けられた。
  • シンガーソングライターである井上陽水は、自らが作詞作曲歌唱した『英雄』という楽曲について、野茂をイメージして制作したと発言している。歌詞を見ても「アメリカンサマー 夢のブルー」「きっとあなたはロビンソン」など、メジャーリーグという未知の舞台で活躍した野茂への賛辞が読み取れる。
  • 佐野元春のファンである。佐野元春は、自らのライブで客席にいた野茂を紹介し、野茂もそれに立ち上がって応えた(しかし佐野は野茂を紹介する時に「野茂ヒデキくんです!」と名前を間違ってしまった)。また出演した住友生命のCMでは佐野の曲である「経験の唄」を使用している。
  • 引退後近鉄時代の同僚・金村義明らとの対談番組で、野茂はプロ入りする前にアマチュアでもう一年やって優勝したかったと語っている。またチームのみんなとの優勝には強いこだわりがあり、近鉄時代に一度も優勝できなかったことを悔やんでいるという旨の発言をしている。このような野茂の姿勢から当時の近鉄のチームメイトに野茂を嫌う選手は一人もいなかったと金村は断言している。

[編集] 社会現象

  • 1995年にディアマンテスが野茂の応援歌『野茂英雄のテーマ・HIDE〜O』(『バナナ・ボート』の替え歌)をシングルCDで発売。当時、「野茂が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。2005年にマキシシングルで再発売された。
  • 1998年、3社の高校英語教科書に登場。うち1社はトルネード投法を分解写真付きで紹介した。

[編集] 関連項目

[編集] テレビCM出演

[編集] 脚注

  1. ^ "Nomo not ready to retire yet Japanese trendsetter taking another stab at Majors with Royals". The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日 閲覧。
  2. ^ "Nomo yet to write final chapter Starter turned reliever rejoins Royals after groin injury". The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日 閲覧。
  3. ^ "Pettitte remains a Royals nemesis Left-hander stays solid vs. KC as New York salvages finale". The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日 閲覧。
  4. ^ "In tough decision, Royals set Nomo free Career may be over for Japanese hurler attempting comeback". The Official Site of The Kansas City Royals. 2008年4月21日 閲覧。

[編集] 外部リンク

先代:
R.ブライアント
パ・リーグMVP
1990年
次代:
郭泰源
先代:
酒井勉
パ・リーグ新人王
1990年
次代:
長谷川滋利
先代:
斎藤雅樹
沢村賞
1990年
次代:
佐々岡真司
先代:
阿波野秀幸
パ・リーグ最多勝投手
1990年-93年
渡辺久信(1990)
野田浩司(1993)
次代:
伊良部秀輝
先代:
村田兆治
パ・リーグ防御率1位
1990年
次代:
渡辺智男
先代:
阿波野秀幸
パ・リーグ最多奪三振
1990年-93年
次代:
伊良部秀輝
先代:
アンディ・ベーネス
ナ・リーグ最多奪三振
1995年
次代:
ジョン・スモルツ
先代:
ペドロ・マルティネス
ア・リーグ最多奪三振
2001年
次代:
ペドロ・マルティネス
先代:
ラウル・モンデシー
ナ・リーグ新人王
1995年
次代:
トッド・ホランズワース
先代:
千代の富士貢
日本プロスポーツ大賞受賞者
1990年
次代:
辰吉丈一郎