赤堀元之

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赤堀 元之
新潟アルビレックスBC 監督 #89
Akahori motoyuki.jpg
2012年9月30日、西武ドームにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県藤枝市
生年月日 1970年4月7日(44歳)
身長
体重
181 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト4位
初出場 1989年5月3日
最終出場 2004年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

赤堀 元之(あかほり もとゆき、1970年4月7日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロ野球選手投手)。現役時代は大阪近鉄バファローズ守護神としてチームを支えた。

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

静岡県藤枝市下青島で生まれ、小学校4年生で野球を始めた[1]青島中学では県大会で4試合に登板して37イニング無失点で優勝し[2]、強豪校である静岡高校に進学。野球部の同級生には梶山義彦天野義明らがいた。高校から硬式野球を始め、2年生の夏にはエースナンバーを付けて夏の選手権大会に出場している。関西高校戦では5回から救援で登板し、6安打を浴びて4失点の内容で、チームは4対6で試合に敗れた[3]

なお2年時は球速が124km/h程度にとどまり、カーブスラーブを中心に投球を組み立てる軟投派だった[1]。秋には野手転向も検討されて内野手捕手を務めたが、冬期に初めて本格的なウエイトトレーニングを行うと筋肉が急激に成長し、3年の夏には140km/h近くまで球速が増した[1]。ビデオで見た北別府学の投球フォームも参考になったという[1]。夏の静岡県大会は初戦で静岡西高校に4対5で敗れたものの、1年生の時から腕の振りを小田義人スカウトが評価していた事もあり、1988年のドラフト会議近鉄バファローズに4位指名され、入団した。契約金と年俸はそれぞれ3,000万円、400万円(金額はいずれも推定)だった[4]

現役時代[編集]

1989年、開幕は二軍だったものの5月3日の対ロッテオリオンズ戦で一軍初登板[5]6月7日の対福岡ダイエーホークス戦でプロ入り初登板も1回持たずにわずか14球で降板したが、この経験をバネに練習を積んだ[6]1990年はオールスターゲーム明けから一軍に定着し、シュートを多用する山下和彦の強気のリードもあって21試合で4勝を挙げ中継ぎとして一定の成果を残した[5]

1991年、開幕から吉井理人とともにストッパーを任された[7]6月16日の対西武ライオンズ戦で石毛宏典の打球が当たって右手の甲を骨折したが、立花龍司コーチとともにリハビリを行い、9月に一軍に復帰してシーズンで9セーブを上げた[8]。なお、5月29日の対オリックスブルーウェーブ戦(日生球場)では延長11回表にドン・シュルジーに本塁打を浴びて敗戦投手となっている。これはパ・リーグDH制を採用して以降、初の投手による本塁打だった。

1992年、前年の故障の影響もあり、先発と抑えのどちらで起用するか首脳陣が迷い、開幕まで本人にも明言しなかったという[9]。結局は吉井の故障で抜けたこともあり抑えとして登板し、4月は7試合で1勝4セーブと順調な滑り出しを見せた[9]。西武と優勝争いをした近鉄にあって登板機会が増え、初出場したオールスターゲームでは第3戦で3イニングを無走者に抑え、優秀選手賞を受賞[10]。シーズン通算では50試合に登板して11勝4敗22セーブの成績で投球回数も100回を超え、10月には規定投球回まで残り15回、3失点以下なら最優秀防御率のタイトルを狙える状況になった[8]10月5日の対ダイエー戦にシーズン初先発しプロ初の完封勝利を挙げると、10月11日の対ダイエー戦でも6回を3失点に抑えている。最終的に鈴木啓示のチーム記録2.02を更新する[11]防御率1.80の成績で最優秀救援投手に加えて最優秀防御率のタイトルを獲得した。この年の活躍でパ・リーグを代表する抑え投手となったが、赤堀の中では初完封を機に先発転向の気持ちが強くなっていたという[12]。しかし、チーム事情から以後5シーズンに渡って抑えを務める。

1993年、2年連続の最優秀救援投手のタイトルを獲得。

1994年、西武との開幕戦で3点リードの9回に伊東勤に史上初の開幕戦逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれる波乱のスタートとなった。この試合は前日に鈴木啓示監督が語った「開幕戦は野茂と心中する」という言葉に応えて野茂が9回一死までノーヒットノーランという好投を見せていたため、一死一、二塁となった場面で登板を告げられても心の準備ができていなかったという[8]。さらに次の試合でも鈴木健に安打を打たれて集中力を書いた状態で佐々木誠に逆転3ラン本塁打を打たれて敗れた[13]。しかしその後は調子を取り戻し、当時のNPB新記録となる21試合連続セーブポイントを樹立するなど、最大15の借金から巻き返したチームを支えた[14]。最終的には3年連続となる最優秀救援投手に輝き、当時のパ・リーグ新記録を樹立した。オフには4000万円増の年俸1億2000万円(推定)で契約を更改している[15]

1995年、右肩痛や背筋痛のため夏前に一軍登録を抹消され[16]、7月31日には左足ふくらはぎ痛で再び登録抹消される[17]など繰り返し戦列を離れ、28試合に登板して1勝8敗13セーブと成績を落とした。なお、鈴木啓示が監督だった同年までの3年間は、チームが「ドン底に暗い期間」だったと後に語っている[18]

1996年6月1日の対西武戦で26歳と55日で日本プロ野球史上最年少での100セーブを達成[19]し、通算4度目の最優秀救援投手となった。

1997年、開幕戦でこの年開場した大阪ドーム初のセーブを記録。8月24日の対千葉ロッテマリーンズ戦では8回表から登板して5イニングを無失点に抑え、プロ野球史上3度目となる10点差逆転試合の勝利投手となった。またシーズン終盤にはNPBタイ記録となるダブルヘッダー2試合でのセーブを挙げるなどの活躍をし、2年連続5度目の最優秀救援投手となっている。 一方で依然として先発転向の願望は強く、1997年オフにはハワイウィンターリーグに先発として参加している[20]。球団の要請で大塚晶文が一人立ちするまでという条件でリリーフを務めることになり、年明けにパ・リーグの投手最高額となる1億8500万円(推定)で近鉄では初の複数年となる2年契約を結んでいる[21]

1998年、右肩の故障と腰の張りで一軍登録は6月27日と同年は出遅れた[20]。その間に大塚が当時のパ・リーグのセーブ記録を塗り替える活躍もあり、1軍復帰後はロングリリーフを中心に中継ぎを務めてシーズン終盤には先発転向し、9月19日の対オリックス戦では自身2度目となる完封勝利を挙げている[20]

1999年はキャンプの紅白戦、そしてオープン戦でも開幕投手を務めるなど順調な仕上がりを見せ、自身の競馬好きに掛けて「10勝できなければ天皇賞馬券は買わない」と目標をあげた[3]。4月の開幕から先発ローテーション入りして2戦で2勝を挙げた[20]。しかし開幕前後から縦スライダーを投げる時に痛みを感じるようになり、さらにフォークボールを投げてヒジから肩に電気が流れるような激痛が走ったため診察を受け、4月21日に右ヒジ関節周囲炎と右足首捻挫を理由に一軍登録を抹消された[22]。炎症が収まってからMRIにより精密検査を行い、6月8日に右ヒジ靱帯の断裂が発覚した。同僚の佐野重樹が靭帯の再建手術後に復帰に苦しんだ事もあり悩んだが、早期回復のため手術を決断し、同じく靭帯を断裂した酒井弘樹と共に7月に渡米してボストンで再腱手術を受けている[22]

術後は早く投げたいという焦りを抑えながら、フロリダ州リハビリに専念した[12]2000年は8月9日のウエスタン・リーグでの対サーパス戦で1年4ヶ月ぶりに実戦に登板した[23]が、一軍では3試合の登板に終わった。オフには年俸1億円(推定)で契約を更改している[24]。翌2001年4月8日の対オリックス戦に先発して723日ぶりの勝利[12]を挙げるも、5月18日の対ロッテ戦で敗戦投手となると右肩の違和感から再び長期離脱を余儀なくされている。ヒジの痛みは解消していたが焦りから右肩に負担がかかっていたといい[12]、以後は右肩痛が引退まで続いた。そのため、1989年に続いて2001年の近鉄リーグ優勝時にも、日本シリーズに登板せず、シリーズ未登板のまま現役を引退することになる。

2004年はウエスタン・リーグで二軍の前期優勝の胴上げ投手となったが、球団から戦力外通告を受けた。9月24日の大阪ドーム最終戦では9回2死からベンチでチームメイトが作った花道を通って登板し、野田浩輔を中飛に打ちとって大歓声に応えた[6]。当初は現役続行の意志を表明してトライアウトに向けた調整を行っていたがオリックスの監督となる仰木彬からコーチ就任の打診を受け、肩の調子が良くならなかったこともあり引退を決めた[25]

引退後[編集]

2005年からオリックス・バファローズの投手コーチに就任した。以降、中継ぎ投手陣は2008年までは安定していた。また現役時代から長らく独身であったものの、2008年12月に結婚式を挙げた[26]

2009年は一軍投手コーチ(ベンチ)を担当していたが、投手陣の不振のため6月9日からは一軍投手コーチ(ブルペン)に配置転換となりシーズン終了後退団となった。2010年韓国プロ野球SKワイバーンズの二軍投手コーチを務めた。

2011年からは再びオリックスに戻り管理部育成担当を務め[27]、同年8月3日付で育成担当コーチから一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格した[28]。 2012年からは一軍投手コーチ(ベンチ)に就任したがシーズン途中から再びブルペン担当に配置転換になったがチーム防御率がリーグワーストと低迷した。2013年と2014年は育成担当インストラクターを務める。

2014年10月1日に球団から退団が発表された[29]。同年12月4日に新潟アルビレックスBCの監督に就任する事が発表された[30]

プレースタイルなど[編集]

ストッパー時代は外角低めに集める150km/h近い速球を軸に、そこから出し入れする縦・横のスライダーを武器に[8][31]直球並みの球速があるシュートも投げていた[5][8]フォークボールを投げないストッパーとして活躍した。直球、変化球を同じところに投げ分けられる優れた制球力を持ち、抑えの1イニングであればこのような力で押す投球が非常に有効だったという[32]的山哲也は、現役時代の中で一番印象に残っている投手として赤堀を挙げている。「ストレートもスライダーなどの変化球も、口で説明するのは難しいが本当に素晴らしかった。それが最多セーブの複数回獲得に繋がっていると思った。」と語っている[33]イチローには相性が良く1994年からの4年間で25打数4安打(打率.160)に抑えていた[34]

ストッパーの仕事はルーチン的に感じる面もあったといい、「1点差なら緊張感もあるが、2点差なら1点取られても問題ないし同点で延長に入ってもいい」と冷静に投げていたと語っている[31]。一方で他の選手が勝ち試合を作った場面で送り出されるため、働きや信頼に応えようという気持ちになっていたという[8]。抑えの時は展開によって6回裏か7回表にウォームアップを行い、その内容は直球8球、カーブ2球、スライダー3球、内角の直球を3球、シュートを2球、外角への直球を2球という合計20球に必ず決めており、登板直前に直球2球とスライダー1球を投げていた[35]。赤堀が記録した139セーブは近鉄の球団記録である[36]。登板過多による故障を避けるため、リリーフ時代は立花龍司が近鉄在籍時に作成したトレーニングメニューをこなしていた[13]

先発転向を強く望んだ理由としては、毎日肩を作る負担が大きかったこと[37]、役割やスタイルを変えてモチベーションを高めること[20]や打者との駆け引きを楽しみたかったこと[38]を挙げている。転向の際には、同じくストッパーから先発になった吉井理人に調整法などを相談し、野茂英雄からは打たれても気持ちを切らさず試合を壊すな、と助言を受けた[32]。また転向時にフォークボールを習得した吉井を見習い、カーブチェンジアップなどをマスターして球種を増やし、緩急をつけた幅広いピッチングを心がけた[32]

また、現役時代は山下和彦光山英和古久保健二の3人が捕手として併用されていた。それぞれの持ち味について、光山は強気のリード、古久保は外角中心のオーソドックスなスタイル、山下は両方を兼ね備えて臨機応変だったと述べている[12]。それぞれ学ぶ点があり、いずれも投げやすかったという[1]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1989 近鉄 9 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 35 7.0 9 0 6 0 0 2 1 0 4 3 3.86 2.14
1990 21 1 0 0 0 4 0 1 -- 1.000 219 51.1 50 6 24 0 1 38 1 0 23 17 2.98 1.44
1991 26 0 0 0 0 1 3 9 -- .250 218 53.1 43 3 16 3 2 38 2 0 23 21 3.54 1.11
1992 50 2 1 1 0 11 4 22 -- .733 499 130.0 91 5 29 3 5 88 2 0 29 26 1.80 0.92
1993 46 0 0 0 0 6 6 26 -- .500 331 82.2 57 6 36 3 1 60 3 0 19 14 1.52 1.12
1994 45 0 0 0 0 9 4 24 -- .692 369 94.0 66 5 24 4 2 73 2 0 20 19 1.82 0.96
1995 28 1 0 0 0 1 8 13 -- .111 233 52.0 56 8 21 0 0 49 7 0 30 19 3.29 1.48
1996 44 0 0 0 0 9 4 21 -- .692 311 73.1 67 5 25 4 3 67 5 0 19 17 2.09 1.25
1997 57 0 0 0 0 10 7 23 -- .588 428 97.1 90 5 44 9 5 100 4 0 42 33 3.05 1.38
1998 24 4 1 1 0 3 3 0 -- .500 291 66.1 70 3 27 2 6 31 0 0 34 31 4.21 1.46
1999 2 2 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 60 13.1 13 1 8 0 2 6 0 0 5 5 3.38 1.58
2000 3 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 40 9.0 6 1 7 0 1 5 1 0 5 5 5.00 1.44
2001 9 8 0 0 0 1 3 0 -- .250 223 48.2 61 6 18 1 0 27 1 0 31 29 5.36 1.62
2002 11 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 59 12.1 18 1 4 2 0 3 1 0 9 9 6.57 1.78
2003 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 6 1.0 2 1 1 0 0 0 1 0 1 1 9.00 3.00
2004 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 16 2.2 4 0 4 0 0 3 0 0 5 5 16.88 3.00
通算:16年 380 20 2 2 0 58 45 139 -- .563 3338 794.1 703 56 294 31 28 590 31 0 299 254 2.88 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 40 (1989年 - 1991年)
  • 19 (1992年 - 2004年)
  • 87 (2005年 - 2009年、2012年 - 2014年)
  • 74 (2010年)
  • 98 (2011年)
  • 89 (2015年 - )

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2001年6月18日号、P.40
  2. ^ 朝日新聞、1996年2月10日付朝刊、静岡地方面
  3. ^ a b 週刊ベースボール、2001年6月18日号、P.38
  4. ^ 読売新聞、1988年12月4日付朝刊、P.19
  5. ^ a b c Number、1993年1月20日号、P.50
  6. ^ a b 週刊ベースボール、2004年12月13日号、P.105
  7. ^ 週刊ベースボール、1997年3月31日号、P.120
  8. ^ a b c d e f 週刊ベースボール、2004年12月13日号、P.106
  9. ^ a b 週刊ベースボール、1992年11月23日号、P.114
  10. ^ 読売新聞、1992年7月22日付朝刊、P.21
  11. ^ 週刊ベースボール、1992年11月23日号、P.116
  12. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2004年12月13日号、P.107
  13. ^ a b 週刊ベースボール、1994年9月19日号、P.110
  14. ^ 週刊ベースボール、1994年9月19日号、P.111
  15. ^ 読売新聞、1994年12月16日付朝刊、P.23
  16. ^ 週刊ベースボール、1996年6月17日号、P.6
  17. ^ 毎日新聞、1995年8月1日付朝刊、P.13
  18. ^ 週刊ベースボール、1997年3月31日号、P.121
  19. ^ それまでの記録は牛島和彦の26歳と174日。2012年山口俊が記録を更新した(25歳と53日)
  20. ^ a b c d e 週刊ベースボール、1999年3月8日号、P.30
  21. ^ 朝日新聞、1998年1月18日付朝刊、P.23
  22. ^ a b 週刊ベースボール、2001年6月18日号、P.39
  23. ^ 朝日新聞、2000年8月10日付朝刊、P.21
  24. ^ 読売新聞、2001年1月25日付夕刊、P.3
  25. ^ 週刊ベースボール、2004年12月13日号、P.104
  26. ^ 久しぶり(^^)/ - 古久保健二オフィシャルブログ(2008年12月13日)
  27. ^ 【オリックス】球団内人事を発表 - 日刊スポーツ(2010年12月29日)
  28. ^ オリックス4年連続投手コーチ途中交代 - 日刊スポーツ(2011年8月4日)
  29. ^ オリックス 西本コーチら4コーチと契約結ばず 4選手に戦力外通告スポーツニッポン2014年10月1日配信
  30. ^ 新監督決定のお知らせ”. 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ. 2014年12月4日閲覧。
  31. ^ a b 週刊ベースボール、2001年6月18日号、P.41
  32. ^ a b c 週刊ベースボール、1999年3月8日号、P.28
  33. ^ 週刊ベースボール、「惜別球人」
  34. ^ 週刊ベースボール、1998年4月6日号、P.136
  35. ^ Number、1994年9月1日号、P.5
  36. ^ 週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ
  37. ^ 週刊ベースボール、1999年3月8日号、P.29
  38. ^ 週刊ベースボール、2001年6月18日号、P.37

関連項目[編集]