後藤孝志

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後藤 孝志
基本情報
国籍 日本
出身地 愛知県一宮市
生年月日 1969年5月14日(40歳)
身長
体重
185cm
85kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 内野手
プロ入り 1987年 ドラフト2位
初出場 1991年4月7日対中日戦
最終出場 2005年10月5日対広島戦(引退試合)
経歴(括弧内は在籍年)

後藤 孝志(ごとう こうじ、1969年5月14日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手。本名及び1992年までの登録名後藤 孝次(-こうじ)。守備位置は内野手三塁手一塁手)及び外野手で、現役時代は内外野どこでも守れるユーティリティープレイヤーとして重宝された。兄は元愛知豊田大谷高校野球部監督で現在は山梨富士学苑高等学校野球部監督の後藤篤

目次

[編集] 来歴・人物

小学校では捕手として近藤真市バッテリーを組んだ。中京高校1987年に甲子園大会に出場。高校通算33本塁打。同年のドラフト2位で読売ジャイアンツに入団。しばらくは二軍生活が続いたが、1991年に一軍初出場。1995年からは吉村禎章福王昭仁に次ぐ左の代打として起用される様になり、一軍に定着した。1999年には自己最多の112試合に出場し、ガッツ溢れる勝負強い打撃以外にも守備も定評があり、内外野どこでも守れたため重宝された。2002年には、西武ライオンズとの日本シリーズ第4戦で松坂大輔からダメ押しとなるタイムリー三塁打を放ち、チームの日本一に大きく貢献した。松坂からはオープン戦でホームランを打っており、相性が良かった。2003年は9回に数多く起用され決勝本塁打や同点タイムリーを放つなど活躍し、「ミスター9回」または「9回の男」の異名が付いた。2005年には堀内恒夫監督の構想から完全に外れて戦力外通告を受け現役引退。最終戦の引退試合出場に留まった。復帰したばかりの原辰徳監督の勧めもあり、2006年にはニューヨーク・ヤンキース、ヤンキース傘下1Aのタンパ・ヤンキースにコーチ留学した。

2007年北信越BCリーグの新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの初代監督に就任したが、チームは最下位に終わる。いったんは来年も続投と伝えられたが、11月8日に「球団運営方針についての考え方の相違」を理由に来季の契約を結ばないことが球団から発表された。

2008年からは、J SPORTS野球解説者かたわら、幼児を中心とした野球スクール「TOKYO GUTS」を設立し子供達に野球を伝えている。コーチ陣には巨人時代の同僚である原俊介(2006年引退)や十川孝富(2007年引退)らがいる。

[編集] エピソード

  • 地元が愛知県なので、子供向けファンクラブ「少年ドラゴンズ」の会員だったほどの大の中日ファン。子供の頃からよくナゴヤ球場に観戦に行っていた。高校生の時、巨人に入団した槙原寛己に「名古屋の裏切り者」と大声でヤジを飛ばし、自身が巨人に入団した際、槙原が後藤の声を聞いた時「よくもナゴヤ球場で、裏切り者!とヤジを飛ばしやがって」といういきさつを『関口宏の東京フレンドパークII』で公表した。中日の応援歌である「燃えよドラゴンズ!」は最新版まで歌えるが、巨人の応援歌『闘魂こめて』は「全く歌えない」と、『東京フレンドパークII』で槙原に暴露されている。ドラゴンズの選手の呼び方はたとえ年下であっても「…選手」と丁寧。
  • 自打球の多い選手として有名である。それは内角の球に反応している証なのだが、1999年7月10日東京ドームでの広島東洋カープ戦で3球連続して自打球を当てたことがある。実況をしていた日本テレビ今井伊佐男アナウンサー野球解説者中畑清、ベンチの味方選手にも笑われてしまい、その年の珍プレーに取り上げられた。
  • 入団当時の背番号は50。名字の(ごとう)に掛かっていていたこともあり気に入っていた。
  • 入団当時の目標は「原選手と一緒にスタメンに入ること」であり、この目標は原引退の年に達成されている。原は後藤の仲人でもある。
  • 2000年の日本一を決めた後のビールかけで、インタビュアーの平川健太郎日本テレビアナウンサー)に「俺と同級生なんだよね」と問いかけ、それに対して平川も「昭和44年生まれです…」と恥ずかしそうに返していた(出身高校が違うので、本当なら同い年と言うところを興奮していたために間違えて言ってしまったものと思われる)。ちなみにそのときに平川が着ていたスーツは後藤の話によると6万円したという。
  • 序盤から大きく点差が離れていた2003年4月11日阪神タイガース東京ドーム、9回裏ツーアウトの場面から代打で登場し、7-4のスコアからスリーランホームランを藤川球児から放って7-7にした。試合は延長12回引き分けとなった。
  • ファンサービス旺盛な明るいキャラクターであった。甲子園では三塁側スタンドにいる阪神ファンとも笑顔で冗談を言い合うなど、巨人の選手としては異例な親近感を持たれていた。また、幼稚園児にメロンパンにサインをせがまれたことがある(別のものにサインした)。
  • サインをする際「サインください」と言わない子には言うまで待ったり、「くださいと言うんだぞ」と諭したりと、物事の筋を大切にしていた。また、バットやグラブにサインをせがまれると「用具は使うものだ」と必ず断っていた。
  • 実家が蕎麦屋のため、シーズンオフに帰省した際に、実家の手伝いで蕎麦の出前を運んでいた。
  • 引退した2005年のみスコアボードの表記は「後藤孝」。同シーズン開幕直前に西武から移籍してきた後藤光貴がいたためである。後藤光貴はシーズン終了後に西武に復帰したため、ジャイアンツの後藤姓が存在しなくなった。
  • 引退後、1Aタンパヤンキースでコーチを務めていながらもブログ内でドーピングに関して容認とも取れる発言を行ってしまい、多くの読者・ファンから反感を買った。その直後ブログは閉鎖となってしまう。
  • 実兄は高校野球の監督を務め、豊田大谷高校監督時代には甲子園出場経験がある。その時の主力選手に古木克明横浜ベイスターズ→現在オリックスバファローズ)がいた。

[編集] 年度別打撃成績

年度 球団


























1988年 読売 50 一軍出場なし
1989年
1990年
1991年 17 23 22 3 3 0 0 0 3 1 2 1 0 0 1 0 5 1 .136 3
1992年 一軍出場なし
1993年 4 5 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 0 0 .000 0
1994年 20 7 6 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 2 0 .000 0
1995年 51 81 67 19 23 3 0 4 38 9 8 3 0 0 10 4 11 0 .343 2
1996年 59 138 123 18 35 9 0 2 50 16 1 2 0 2 11 2 14 3 .285 4
1997年 80 203 180 23 49 14 1 3 74 13 1 5 1 1 19 2 31 3 .272 1
1998年 104 204 178 28 44 7 1 2 59 11 3 1 5 1 19 1 33 2 .247 5
1999年 00 112 217 198 24 54 7 0 7 82 16 3 1 7 1 9 2 27 1 .273 5
2000年 94 127 108 20 29 3 0 6 50 17 0 1 5 1 12 1 25 3 .269 1
2001年 66 80 66 9 18 2 0 1 23 4 0 0 2 1 10 1 13 0 .273 0
2002年 86 132 120 12 28 3 0 1 34 8 1 1 2 0 8 2 18 3 .233 3
2003年 73 134 120 12 34 4 0 4 50 19 1 0 1 2 9 2 23 4 .283 0
2004年 68 77 72 8 15 2 0 0 17 5 0 1 0 1 4 0 19 2 .208 0
2005年 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 -
通算成績 835 1429 1264 178 332 54 2 30 480 119 20 16 24 10 114 17 221 22 .263 24

[編集] 年度別守備成績

年度 一塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1993 - - 1 1 0 0 0 1.000
1994 10 17 1 0 1 1.000 - 2 0 0 0 0 -
1995 5 5 0 0 1 1.000 8 8 8 2 0 .889 16 17 0 0 0 1.000
1996 9 37 3 1 6 .976 23 13 33 3 4 .939 15 24 2 0 1 1.000
1997 1 6 0 0 2 1.000 47 17 55 1 2 .986 26 35 0 0 0 1.000
1998 15 23 1 0 1 1.000 55 24 55 5 5 .940 22 27 1 0 0 1.000
1999 20 37 2 0 2 1.000 45 36 62 5 5 .951 33 22 0 0 0 1.000
2000 21 53 1 1 4 .982 4 1 3 0 0 1.000 22 25 0 0 0 1.000
2001 5 7 0 0 1 1.000 8 3 9 0 2 1.000 18 9 1 0 0 1.000
2002 32 87 3 1 3 .989 19 7 17 2 2 .923 11 5 1 0 0 1.000
2003 16 51 5 0 4 1.000 11 5 13 0 1 1.000 23 19 0 0 0 1.000
2004 18 16 3 0 2 1.000 7 2 8 0 1 1.000 5 0 1 0 0 1.000
年度 二塁
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2000 1 1 2 0 0 1.000

[編集] 個人記録

  • 初出場・初打席 1991年4月7日中日戦(東京D) 8回川相の代打、西本の前に投ゴロ
  • 初安打・初打点 1991年4月27日大洋戦(横浜) 4回田辺から中前安打・5回岡本透から右前適時打
  • 初本塁打 1995年4月9日ヤクルト戦(東京D) 5回木田の代打、ブロスから右越ソロ

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2007年 平成19年 新潟 50 4位 72 18 52 2 .257 39 .254 5.71 38歳

[編集] 監督通算成績

  • 72試合 18勝52敗2分 .257

[編集] 関連項目

[編集] 外部サイト

先代:
-
新潟アルビレックスBC監督
2007年
次代:
芦沢真矢2008年~)
読売ジャイアンツ
1987年ドラフト指名選手
1位:橋本清 / 2位:後藤孝次 / 3位:磯貝公伸 / 4位:小沢浩一 / 5位:益田明典 / 6位:杉山直樹