李承ヨプ (野球)

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李 承燁 (イ・スンヨプ)
Lee Seung-Yeop
三星ライオンズ #36
Lee Seung-Yeop.jpg
オリックス時代(2011年8月6日、QVCマリンフィールドにて)
基本情報
国籍 韓国の旗 韓国
出身地 大邱広域市
生年月日 1976年8月18日(35歳)
身長
体重
183cm
85kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手
プロ入り 1995年 地域優先ドラフト
初出場 KBO / 1995年4月15日
NPB / 2004年3月27日
年俸 8億ウォン(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 韓国の旗 大韓民国
五輪 2000年2008年
WBC 2006年
イ・スンヨプ
各種表記
ハングル 이승엽
漢字 李 承燁
片仮名
(現地語読み仮名)
イ・スンヨプ
2000年式
MR式
本人表記:
I Seung-Yeop
Yi Sŭng-Yŏp
Lee, Seung-Yeop
オリンピック
男子 野球
2008 野球
2000 野球

李 承燁(イ・スンヨプ、1976年8月18日 - )は、韓国大邱広域市出身のプロ野球選手内野手)。三星ライオンズ所属。

日本での愛称は「スンちゃん」など。

目次

[編集] 概説

韓国球界を代表する国民的打者であり、韓国メディアからは「野球に関しては神の域に到達した」などとすら言われることがある[1]。韓国プロ野球において在籍9年間で通算324本塁打を記録し(韓国プロ野球で通算300本塁打以上は梁埈赫張鍾薫沈正洙を含む4人)、MVP5回・本塁打王5回・打点王4回を獲得。2004年から2011年まで、三星ライオンズ時代につけていた背番号36は同球団の永久欠番扱いだった。国際大会では約10年間に渡り、韓国代表の主軸打者として活躍した。韓国野球を世界屈指の強豪に押し上げた立役者とされ、その土壇場での一振りで試合を決める威力と勝負強さから、韓国マスコミからは「解決者」と表現されている[2]

愛称は韓国では「アジアの大砲」「国民的打者」「球帝」「ライオン・キング(エピソードの項参照)」「56発男」、日本プロ野球移籍以降は「スンちゃん」「スン様ペ・ヨンジュンになぞらえて)」。

「ヨプ」の文字が表記出来ない環境があるため、ネット上の記事などでは「李承〓(〓は火へんに華)」などと記載されることが多い。また、NHKでの中継では漢字表記でなく「イ・スンヨプ」とカタカナで表記されている。

[編集] 経歴

[編集] 三星ライオンズ時代

韓国・大邱広域市出身、1995年に慶北高等学校卒業後、三星ライオンズに投手として入団したが、高校時代に傷めた左肘が完治せず、白仁天の勧めで打者に転向し、王貞治を真似た一本足打法にフォームを改造。

1997年に初の本塁打王、1999年にシーズン54本塁打の韓国記録をマークし、日韓プロ野球スーパーゲームにも出場。また、シドニーオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権にも出場し、日本戦で本塁打を放った。この年から「ライオンキング」や「国民的打者」の愛称が定着し始めた。

2000年にはシドニーオリンピックに韓国代表として出場。3位決定戦の日本戦で松坂大輔から決勝タイムリーを放ち、五輪韓国代表初のメダルに貢献した。予選リーグの日本戦では松坂から本塁打を記録している[3]

2003年は、26歳10か月で通算300本塁打に到達(世界最年少記録)するなど序盤から本塁打を量産し、56本塁打を放った。アジアのプロ野球において最多記録となる56本目の本塁打は「2億ウォンの価値がある」とされた[4]ほか、「(ファンが55号を虫取り網で取ったことから)本拠地の大邱市民運動場野球場では虫取り網が飛ぶように売れる」「李が敬遠されるとグラウンドにゴミが投げ入れられる」など熱狂が拡がった[5]。しかし、55号を放ってから最終戦になるまで本塁打が出ず、李も「(56本は)難しいかもしれない」と弱音を吐いていたが、最終戦に56号本塁打を放った。このボールは満員のスタンドに入らず、当時設置されていたラッキーゾーンに落ち、そこで記念イベントの準備をしていた関係者に拾われて球団に寄贈された[6]アテネオリンピック野球予選を兼ねたアジア選手権大会では来日して日本戦で4打数1安打を記録している。なお、このとき韓国代表は台湾に敗れて予選敗退に終わっている[7]

[編集] メジャー移籍断念と来日

2003年にFA権を取得。メジャーリーグベースボール志向を明らかにしていたため、韓国マスコミではメジャーに移籍すること自体は前提となっており、どこに入団するかが語られていたほどで[8]、本人も「希望はDHのあるア・リーグ」「松井秀喜を2年以内にあらゆる面で越えてみせる」とインタビューで語り[9]、さらにシーズン後の松井稼頭央とのテレビ対談などでも「私はすでにメジャー級」と自信のほどを語っていた。しかし、40人ロースターを確約することとなるメジャー契約を希望する球団が現れず、わずかにロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約を提示したに過ぎなかった[10]。これは韓国球界そのものへの評価の低さ[11]や、李の所属していた三星の本拠地である大邱市民運動場野球場は、韓国でも指折りの狭さの上に、前述の56号本塁打を放った2006年までラッキーゾーンが存在していたことなどからの個人記録に対する認識、メジャーリーグが外部に求める人材(一塁しか守れないため、起用法が限定される選手をリスクを犯してまで獲得しない)も影響していると見られている。

李は「最悪の場合は日本で1年間プレーすることを考えている」とメジャー球団から好条件のオファーがない場合でもメジャーを目指すため、韓国を離れて日本移籍も示唆。結局、アメリカ移籍を断念し、日本の千葉ロッテマリーンズと契約した。背番号は(自身と同い年大村三郎が高卒新人時代付けた)36。李は千葉ロッテの入団会見で日本球界を選んだことについて「2年間在籍すれば無条件でメジャーリーグ行きをバックアップするという条件に心がひかれた」と語った。韓国では活躍への期待が大きかったものの、日本の評論家は多くが「パワーはあるものの、それ以上でもそれ以下でもない打者」と評するなど冷ややかな見方が多かった。

[編集] 千葉ロッテ時代

2004年
復帰間もないボビー・バレンタインのもと、開幕を4番で迎える。開幕戦である対西武ライオンズ戦(西武ドーム)で、松坂大輔から初打席初安打初打点を放つなど好調だったものの、縦の変化球に対応できない弱点が露呈。インコース高めで身体を起こされ、外への変化球で空振りするというパターンが確立され、日本野球への適応に苦戦。開幕からわずか1か月で韓国では経験したことのない降格となり、調整を余儀なくされた。9月21日の西武戦(西武ドーム)ではベニー・アグバヤニマット・フランコと共に張誌家から史上初となる外国人3者連続本塁打を放った。結局、シーズンは来日前に目標としていた「打率.290、30本塁打、100打点」[12]には遠く届かず、規定打席も満たせずに打率.240・本塁打14・打点50という期待外れの成績に終わった。
2005年
オープン戦において打率.050の大不振のまま開幕2軍スタート。しかし、昇格と同時にロッテの下位打線に定着し、このシーズンは打率.260・本塁打30・打点82とプレーオフ進出に貢献。プレーオフは7試合で16打数3安打と鳴りを潜めたが、日本シリーズ(対阪神タイガース戦)では井川慶から本塁打を放った。第3戦ではスタメンを外れたものの、第4戦は先制本塁打を放つなどシリーズ計3本塁打を放って日本一に貢献し、優秀選手賞を受賞した(MVPは今江敏晃)。続くアジアシリーズでは古巣・サムスンとの対決となり、第1戦では5番、決勝戦では3番と主軸を任されたものの、2戦で無安打に終わった。「シーズンを通じて調子の波が大きい」「左投手に弱い」との理由で、相手先発が左投手のときはスタメンを外されるなど、ロッテ時代は最後まで固定レギュラーを任せられなかった。守備位置も、李は本来一塁手だが、ロッテの一塁には福浦和也がおり、DHや左翼手でも出場するなど守備機会は安定しなかった。ロッテに残留との合意報道も出ていたが、ロッテでの起用法に不満があったため、自由契約となる。

[編集] 巨人時代

巨人時代(2009年8月27日・読売ジャイアンツ球場
2006年
1月19日読売ジャイアンツへの入団が発表された。単年契約を結び、背番号は33第1回WBC韓国代表に選出され、一次リーグの日本戦では石井弘寿から逆転2点本塁打、二次リーグのメキシコ戦、アメリカ戦でも先制本塁打を放つなど、4試合連発を含む大会最多の5本塁打・10打点を記録する大活躍で韓国代表を4強に導き、記者投票による優秀選手(ベストナイン)に一塁手として選出された。レギュラーシーズンではWBCでの活躍や、高橋由伸小久保裕紀(現・福岡ソフトバンクホークス)などの主軸が毎年のように故障していたこともあり、原辰徳は李を開幕から4番打者として起用。6月11日の千葉ロッテ戦(千葉マリン)では渡辺俊介から勝ち越し2点本塁打を放ったが、走者の小関竜也が三塁を空過したため、この打席の記録は単打として記録された。8月1日には日韓通算400本塁打を達成、故障者続出の中でフル出場を続け、打率.323・本塁打41・打点108と来日以降最高の成績をマークした。前年まで苦しんでいた左投手に対してもこの年は打率.338をマークするなど、完全克服を印象付ける。シーズン終了後に再びメジャー移籍を目指すと思われたが終盤に膝を痛め、オフシーズンに内視鏡手術を受け、オフをリハビリに費やすことになる。巨人の熱心な説得もあり、2007年から4年総額30億円(推定年俸6億5千万円)と朝鮮日報が報じたが[13]、ロイターは年俸2億2千万円と報じている[14]
2007年
この年から背番号を25に変える。前年に手術した左膝のほかに左肩や左手親指にも炎症を起こすなど故障が多く、2軍降格や7番打者での出場も経験するなど苦しいシーズンとなった。7月には日本通算100本塁打を達成したことを記念して、起亜自動車からニューオピラスが贈呈された[15]。終盤に4番に復帰したものの成績は打率.274・本塁打30・打点74に終わる。巨人は5年ぶりにリーグ優勝し、迎えたクライマックスシリーズ第2ステージでは、3試合で3安打を放つも0打点、巨人も敗れて日本シリーズ進出はならず、同じ3安打でありながら2本塁打・5打点を記録したタイロン・ウッズとの差が際立った。
この年、メジャーからの誘いが依然として無いことと、成績不振、左手親指付け根の手術を理由に翌年のメジャー挑戦を諦めることを決意したとされている[16]。またこの手術(10月に実施)を理由に北京オリンピック野球アジア地区予選韓国代表入りを辞退した。
2008年
手術明けであったが、宮崎春季キャンプを2月半ばで早々に切り上げ、3月からの北京オリンピック野球世界最終予選に韓国代表として出場し、打率.478・本塁打2・打点12という成績で韓国代表を2大会ぶりの本戦出場に導いた。[17]。しかし、その余波でオープン戦には2試合しか出場できず、調整の遅れが生じて開幕から14試合で打率.135・本塁打0・打点2と低迷し、4月14日には早々に降格した。北京オリンピック派遣直前の7月25日に再昇格したものの成績は振るわず、打率.141のまま北京五輪に参加した。五輪では韓国代表として出場したが、シーズンの不調を引きずった形で打率1割台となり、予選最終戦ではスタメンを外されるほどの不振に陥った。しかし、準決勝の日本戦では勝ち越し本塁打、決勝のキューバ戦でも先制本塁打を放ち、韓国野球初の金メダル獲得に貢献した。チームに復帰後は8月28日に昇格したが、エイドリアン・バーンサイドの登板予定があるほか、外国人枠(ほか3人はアレックス・ラミレスマーク・クルーンセス・グライシンガー)の関係で9月4日に最降格。9月14日に再昇格してからは復調して最終戦まで5番で起用された。結局、45試合で打率.248・本塁打8・打点27。
阪神との最大13ゲーム差を逆転してリーグ連覇(メークレジェンド)し、クライマックスシリーズでは16打数・4安打・2本塁打・4打点の活躍を見せた。しかし、日本シリーズでは18打数・2安打・12三振の大不振に陥り、チームも日本一を逃した。12三振はジャック・ハウエルが1992年に記録した16三振に次ぐ記録で、巨人選手としてはチーム新記録であった。その後、来日以来最低の成績に終わった今季を「野球人生で最悪の1年だった」と振り返り、翌年に集中するとして2009 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表を辞退することを表明した[18]
2009年
WBC出場を辞退。体調を整え、オープン戦では打率.302・本塁打8本・17打点と好調を維持したが、開幕と同時に絶不調となり、エドガルド・アルフォンゾとの併用で右投手登板時を中心に出場となった。16本塁打を記録するもチャンスに結果が残せず、打率.300を超える時期があったものの無安打が続き、打率を大幅に落としたほか、一塁守備もミスが目立ったため、昇格と降格を繰り返す、さらに腰痛も発症して抹消され、そのままシーズンを終えた。ファーム日本選手権李炳圭とともに先発出場した[19]。しかし、日本シリーズでは好調で適時打や本塁打を放つなどして巨人の優勝に貢献し、更に日韓クラブチャンピオンシップでも活躍して巨人の日韓クラブチャンピオンシップ制覇に貢献した。一軍成績は出場77試合、打率.229・本塁打16本・打点36点。前年と同様、不振の続いたシーズンとなった。
2010年
開幕一軍入りを果たしたが、打撃は絶不調で一軍成績は出場56試合、打率.163・本塁打5本・打点11点と自己最低の成績に終わった。これについて「渡邉恒雄が巨額の複数年契約に見合う成績を李が残さなかったことを遠まわしに批判したような内容のコメントを発した」という一部報道もあった[20]
11月16日、巨人は翌年の契約を結ばないと通告。李本人は「このままでは地元(韓国)に帰れない。日本のチームで現役を続けたい」と公言し、その後オリックスと契約した。天地日報とのインタビューで「私を捨てた読売、後悔するだろう」とコメントした[21]

[編集] オリックス時代

2011年
2010年12月2日、1年推定年俸1億5000万円プラス出来高払いの契約でオリックス・バファローズに移籍。背番号は3に決まった。2005年まで在籍していたロッテ時代以来、6年ぶりのパシフィック・リーグ復帰となった。中軸として期待され、開幕第2戦では移籍後初本塁打となる3ランを京セラドーム大阪の上段席に運ぶ活躍を見せたが、春先から三振が目立つなどの極度の不振に喘ぎ、5月8日に一旦登録抹消。5月22日に再登録され、その日の古巣・巨人戦で4番スタメンで先発出場。9月16日の千葉ロッテ戦(QVCマリンフィールド)では前夜にユニフォームの入った荷物を提出し忘れて試合までにユニフォームが届かなかったため、鴨志田貴司のユニフォームを着て試合出場する珍事があった[22]。この年は主に6番でスタメン起用されたが、打率は伸び悩み、打撃成績は122試合で打率.201、15本塁打、51打点にとどまった。得点圏打率は.265を記録し、8月14日の西武戦では10回裏に牧田和久から自身5年ぶりのサヨナラ2ラン本塁打を放つ等、随所では勝負強さも披露したが、この年限りで退団したい旨を球団に申し出て受理された[23]

[編集] 韓国プロ野球復帰

2011年12月5日、古巣の三星ライオンズと契約期間1年、契約金3億ウォン、年俸8億ウォンで契約し、2012年は9年ぶりに韓国プロ野球に復帰することとなった。背番号は永久欠番だった「36」に決定。

[編集] プレースタイル

大きな弧を描く本塁打を放つ技術を持つ他[24]、ライト方向、レフト方向へと広角に打てる技術を持ち味とする。一方で、選球眼とコンタクトツール、打席内でのバッティングアプローチに難があり、中軸打者としては四球が少なく三振が多い。敬遠も少なく、巨人時代は小笠原ラミレスら前打者を敬遠され、李との勝負を選ばれることもあった。チャンス時に犠牲フライや内野ゴロで打点を稼ぐ器用さに欠ける。だが、韓国では本塁打王を何回も取ったことがあり、シーズン最多本塁打は56本で、日本球界の最高、王貞治の55本を上回っている。通算では現在483本の本塁打を放っている。

2005年まで左投手を苦手としていたが、2006年に対左打率.338を記録して以降は対右打率.280に対して対左打率.285と左右の違いを苦にしなくなった。コース別では外角を得意とするが[25]、内角と落ちる球に弱く[26][27]不調の時にはストライク判定される球すら腰を引いて逃げてしまうことも多い[要出典]

一塁到達まで4.51秒と走塁能力は高くはないが[28]、併殺打は少なく、不振時にはセーフティバントも試みる。

一塁守備ではセ・リーグの一塁手での連続無失策記録1225を保持しているなど失策は少ないが、悪送球を止めようとしないという悪癖や、ボールに触れない後逸(そのためエラーは記録されない)などの不満もある。反面、守備範囲内に飛ぶ速いライナー性の当たりへの反応はよく、たまに巨体を飛ばしてのダイビングキャッチも試み、ショートバウンドの捕球も上手い。巨人時代の同僚の阿部慎之助は、守備、特にショートバウンドの捕球は「メジャーも含めて世界一じゃないかな?」と答えている。[29] 韓国時代から外野守備の経験はなかった(学生時代は投手、プロ入り後はファースト)が、千葉ロッテ時代には左翼手も守った。

[編集] 人物

韓国プロ野球在籍時代のニックネームは当時の所属チームが三星ライオンズのため、映画『ライオン・キング』にちなんで「ライオンキング」。韓国のスポーツ紙の一つである「スポーツソウル」は、勝手に「スナイパー」という別名をつけて、それを推そうと事あるたびに「スナイパー」を強調したが、他紙ではあまり使用されなかった。

カツ丼が好物で、来日当初は毎日のように食べていた。その他、肉類が好きで韓国では「肉王」という渾名で呼ばれたこともあった。

非常に日本語に堪能で、流暢に話す事ができ、リスニングもほぼ完璧である。試合中はベンチで他の選手と談笑している事も多く、ズームイン!!サタデー(ズムサタ)のコーナー「プロ野球熱ケツ情報」やビールかけでのインタビューの際にも披露しているが、メディアやヒーローインタビュー等の正式な場を設けたインタビューの際は韓国語のみを使う。公の場で韓国語のみを使用する理由は「外国人選手通訳を介してコメントする事」という球団の方針も関わっていると思われる。

巨人に移籍後、打席に入る際のBGMは2008年まではジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『I Love Rock n'Roll』を使用していたが、2009年はユン・ドヒョンの『ママの歌』になっている。オリックスではDrunken Tigerの『Monster』を使用していた。

[編集] エピソード

慶北高校時代、韓国の4大高校野球全国大会の一つである「青龍旗大会」で優勝投手になっている。投打両方で才能を見せたため、その後プロ入りして投手として育てようとする投手コーチと打者として育てようとする打撃コーチの間で口論を呼んだ。しかし、当時監督だった白仁天は彼の打者としての才能が投手としての才能を上回ると見込んで、打者の道を進むことを勧告。その後、打者に専念させられ、ホームラン打者としての才能を開花させた過程は、奇しくも憧れだった王貞治と同じである。国際試合の際に王貞治と撮ってもらったツーショットの写真を自宅に飾っている。

NHKが日本での成功からメジャー入りまでを描いたドキュメントを製作する予定があったというが、現在のところ放映はされていない[30]

巨人時代の2006年、阿部慎之助が不振に苦しむ李を韓国語のメッセージで励まし、それから李が不振を脱出したというエピソードがある。

2007年から代表チームでの背番号を25に変更した。三星時代の親しい後輩である裵英洙の背番号で(WBCで25番を付けたのも彼と背番号を交換したため。裵はこの大会で李の背番号だった36をつけていた)、25番は選手として目標としている選手の1人であるバリー・ボンズの番号でもある。韓国時代に36番をつけたのは、打者に定着する時、それまで韓国プロ野球で個人通算および年間最多本塁打を記録していた張鍾薫を超えろという意味で、彼の背番号である35より一つ大きい36を与えられたからである。高校時代の背番号は27であった。

リュ・シウォンと交流があり、これが縁で2007年の東京ドーム開幕戦でリュ・シウォンは始球式を務めた。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 三星 121 411 365 55 104 29 1 13 174 73 0 3 2 7 33 1 4 54 4 .285 .345 .477 .821
1996 122 504 459 57 139 32 6 9 210 76 4 1 1 5 34 4 5 42 10 .303 .354 .458 .811
1997 126 577 517 96 170 37 3 32 309 114 5 2 1 4 49 4 6 79 10 .329 .391 .598 .988
1998 126 568 477 100 146 32 2 38 296 102 0 2 1 7 78 10 5 97 4 .306 .404 .621 1.024
1999 132 614 486 128 157 33 2 54 356 123 10 2 0 4 112 6 12 114 7 .323 .458 .733 1.190
2000 125 544 454 108 133 33 0 36 274 95 4 5 0 3 80 7 7 113 5 .293 .404 .604 1.008
2001 127 574 463 101 128 31 2 39 280 95 4 2 1 2 96 11 12 130 6 .276 .412 .605 1.017
2002 133 617 511 123 165 42 2 47 352 126 1 2 0 2 89 5 15 109 11 .323 .436 .689 1.125
2003 131 596 479 115 144 23 0 56 335 144 7 0 0 6 101 9 10 89 11 .301 .428 .699 1.127
2004 ロッテ 100 382 333 50 80 20 4 14 150 50 1 2 1 3 42 0 3 88 6 .240 .328 .450 .779
2005 117 445 408 64 106 25 2 30 225 82 5 4 0 3 33 3 1 79 9 .260 .315 .551 .866
2006 巨人 143 592 524 101 169 30 0 41 322 108 5 1 0 7 56 3 5 126 5 .323 .389 .615 1.003
2007 137 583 541 84 148 29 2 30 271 74 4 3 2 1 38 0 1 119 8 .274 .322 .501 .823
2008 45 170 153 21 38 4 0 8 66 27 1 0 0 0 11 0 6 37 3 .248 .324 .431 .755
2009 77 257 223 33 51 9 0 16 108 36 1 2 0 1 28 4 5 65 1 .229 .327 .484 .811
2010 56 108 92 13 15 1 0 5 31 11 1 0 1 0 12 0 3 26 0 .163 .280 .337 .617
2011 オリックス 122 432 394 28 79 20 0 15 144 51 0 0 0 6 32 1 0 121 8 .201 .257 .365 .622
KBO:9年 1143 5005 4211 883 1286 292 18 324 2586 948 35 19 6 40 672 57 76 827 68 .305 .407 .614 -
NPB:8年 797 2969 2668 394 686 138 8 159 1317 439 18 12 4 21 252 11 24 661 40 .257 .324 .494 .818
通算:17年 1940 7974 6879 1277 1972 430 26 483 3903 1387 53 31 10 61 924 68 100 1488 128 .275 .359 .542 .869
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はKBOにおける歴代最高。

[編集] タイトル

KBO
  • 本塁打王:5回 (1997年、1999年、2001-2003年)
  • 打点王:4回 (1997年、1999年、2002-2003年)
  • 最多安打:1回 (1997年)

[編集] 表彰

KBO
NPB
WBC

[編集] 記録

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録

[編集] 背番号

  • 36 (1995年 - 2005年、2012年 -)
  • 33 (2006年)
  • 25 (2007年 - 2010年)
  • 3 (2011年)

[編集] 脚注

  1. ^ http://www.chosunonline.com/article/20080301000046
  2. ^ [1][リンク切れ]
  3. ^ 2000년 야구 본선 한국 vs 일본 하이라이트youtube動画
  4. ^ chosunonline.com
  5. ^ chosunonline.com
  6. ^ chosunonline.com
  7. ^ chosunonline.com - 韓国、五輪出場ならず。
  8. ^ 李スンヨプにメジャーから身分照会朝鮮日報
  9. ^ 李スンヨプ「アリーグでプレーしたい」朝鮮日報
  10. ^ メジャー「李スンヨプはベンチ要員」(朝鮮日報)
  11. ^ 李スンヨプ、大リーグ移籍へ長期戦(朝鮮日報)
  12. ^ イ・スンヨプ「今年の目標は打率2割9分に30本塁打100打点」(朝鮮日報)
  13. ^ 朝鮮日報
  14. ^ 巨人でプレーの李が日本に謝罪
  15. ^ chosunonline.com
  16. ^ メジャー封印!李スンヨプ来季残留へ
  17. ^ 北京五輪野球:イ・スンヨプ「最後だけに参加したい」(朝鮮日報)
  18. ^ 巨人イ・スンヨプが帰国「野球人生で最悪の1年」
  19. ^ 2009年プロ野球ファーム日本選手権 先発メンバー
  20. ^ “渡辺会長「大金払って役立たず」…李承ヨプを批判”. 中央日報. (2010年10月28日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=134376 2010年12月2日閲覧。 
  21. ^ '오릭스 이적' 이승엽 "날 버린 요미우리, 후회할 것"『NAVER NEWS』기사입력 2010-12-10 04:04
  22. ^ “「野球人生で初めて」の失態 李承ヨプ、ユニホーム忘れても先制打”. msn産経ニュース. (2011年9月16日). http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110916/bbl11091623580018-n1.htm 2012年2月10日閲覧。 
  23. ^ 李スンヨプ選手 退団のお知らせ - オリックス・バファローズ 2011年10月20日
  24. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』 白夜書房、2009年、87頁。ISBN 978-4-86191-508-6
  25. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2007』 アスペクトムック、2007年、358-359頁。ISBN 978-4-7572-1338-8
  26. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、44頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  27. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』 白夜書房、2011年、66頁。ISBN 978-4-86191-710-3
  28. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、44頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  29. ^ 『プロ野球選手100人が選ぶ!現役最強ベストナイン 全選手のアンケート回答をすべて公開!』 宝島社、2011年、41頁、46頁。ISBN 978-4-7966-8666-2
  30. ^ NHKがイ・スンヨプのドキュメンタリー制作へ(朝鮮日報)

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