タイロン・ウッズ
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1969年8月19日(39歳) |
| 身長 体重 |
185cm 102kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 内野手 |
| プロ入り | 1988年 |
| 初出場 | 2003年3月28日(NPB) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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タイロン・ウッズ(Tyrone Woods, 1969年8月19日 - ) はアメリカ・フロリダ州出身のプロ野球選手(内野手)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] アメリカ時代
1988年、メジャー・エクスポズに入団。その後、オリオールズ、レッドソックスと移籍するが、メジャー昇格はならなかった。
[編集] 韓国時代
1998年、韓国・OBベアーズ(1999年より斗山ベアーズ)に入団。同年本塁打王獲得。その時のシーズン42本は韓国記録だった(翌年李承燁が54本で更新、2006年終了時の韓国記録は李承燁の56本)。韓国時代はファンから「黒熊」というニックネームで親しまれていた。
2001年、韓国プロ野球で打点王、韓国シリーズMVPなどのタイトルを獲得し、斗山ベアーズの韓国シリーズ優勝に貢献。この時、1度中日と入団交渉を行っている。この時の交渉は不調に終わったが、当時の打撃コーチだった佐々木恭介はウッズの打撃を高く評価していた。
2002年、この年限りで斗山ベアーズを退団。韓国時代の5年間で通算165本塁打、510打点という成績を残した。
[編集] 日本時代
[編集] 横浜時代
2003年、横浜ベイスターズに入団、40本塁打を放ち本塁打王を獲得(ヤクルトのラミレスと分け合う)。2004年、45本塁打で2年連続の本塁打王を獲得(巨人のローズと分け合う)。しかし、オフの契約更改の席にて複数年契約を申し出るが、高齢やチャンスに弱いことなどから合意に至らず退団(横浜が佐々木主浩獲得のための資金を必要とした事情も関係していた)。その後長距離打者を求める中日ドラゴンズ・阪神タイガースなどからオファーがあり、2年契約で中日へ移籍。
[編集] 中日時代
2005年5月、胸元付近の投球に激怒しヤクルトの藤井秀悟の顔面を殴り退場処分。出場停止10試合と制裁金50万円の処分を科された。8月6日の対横浜戦(横浜スタジアム)で観客席から「Money、Kaese!(金返せ)」のプラカードを出された事に奮起して来日初の1試合3本塁打を放つ。4番打者として、チーム1位の本塁打を放ち、初の打率3割も記録。
2006年、「俺って黒いだろ?」を自身のスローガンとしてタイトル獲得を目指し、来日当初から指摘され続けていた勝負弱さを克服。2年ぶりの本塁打王と初の打点王を獲得し、リーグ優勝に大きく貢献(球団としては、本塁打王は1996年の山崎武司、打点王は1994年の大豊泰昭以来で、両タイトルとも本拠地がナゴヤドームに移転後初)。特に、古巣の横浜相手には打率.372、本塁打12本を記録。マジック1で迎えた10月10日の巨人戦では46号先制3ラン、47号満塁本塁打(2試合連続)を放ち7打点を挙げ、西沢道夫の持つ球団記録(46本)を更新し優勝を決めた。144打点は球団新記録でプロ野球史上歴代6位の記録。日本シリーズでも全試合4番を務め、打率は.267(15打数4安打)と悪くはなかったものの本塁打0、打点は0で、日本一にはなれなかった。
2007年、交流戦前まで打率.320など三冠王も狙えるペースだったが、持病の腰痛の影響もあり、打率は徐々に下降。8月16日の対阪神戦で、下柳剛から来日通算200号本塁打を放つなど、本塁打と打点では終盤までタイトルを争ったものの、9月14日の対阪神戦で藤川球児から勝ち越し安打を放って以降は18試合で本塁打1、打点7と精彩を欠き、無冠に終わった。巨人、阪神との三つ巴の優勝争いの時期、ウッズの不振は中日がリーグ優勝を逃した一因にも挙げられた。
2008年、交流戦前から調子が上がり始めたが、交流戦後に再び不振に陥り4番を森野将彦や西武から移籍した和田一浩に譲り、時にはスタメンを外れた。来日以降6年連続35本塁打以上をマークするものの、打点は来日以降最低の数字に終わる。クライマックスシリーズではチームトップの5本塁打を放ち活躍したが、高額な年俸と下降した成績もあり、自由契約となり退団。
[編集] 退団後
福岡ソフトバンクホークスがウッズの獲得を検討しているという報道も出たが、高額な年俸を理由に獲得を断念。中日スポーツの電話取材で「まだ日本でやりたいという気持ちが強い。他球団からのオファーを待つ」と語っている。
[編集] プレースタイル
[編集] 打撃
ミスター場外と横浜時代に言われるくらい、パワーはセ・リーグでトップクラス。内角、特に高目のボールは比較的苦手だが、逆に真ん中から外角に来た甘いボールは、かなり体勢が崩されても本塁打にしてしまうことが多い。またレフト方向に引っ張るだけでなく、ライト側へ流しての本塁打も積極的に狙って打てる打者である。ただ、力が入って一発を狙うことが多いため三振も非常に多い。
しかし、やはり本塁打を警戒されるため敬遠を含めて四球が多く、2007年は、2位のアーロン・ガイエル(ヤクルト)の88を大きく引き離す121を与えられている。
巨人戦に特に強く、本塁打の多くを稼いでいる。これについては、「巨人の投手は逃げずに勝負してくれるので好き」とのこと。(東京ドームはホームランが出やすいということもある)
打撃練習での打球の飛距離も驚異的で、ナゴヤドームや阪神甲子園球場でも中段に当たり前のように飛ばす。冗談交じりに「ここ(東京ドーム)なら50%の力で(本塁打を)打てる」と発言している。
鈍足のイメージがあるが、走塁のトップスピードは意外と速く(加速が遅い)、思いがけない場面で盗塁を試みる場合がある。来日してから2007年まで、毎年盗塁を記録した。また、韓国時代の2001年にはシーズン12盗塁を記録している。
[編集] 守備
守備に関してはあまりいい成績が残っていない。失策が多く、守りの堅い中日のなかで唯一の「穴」といわれ、試合の後半になると渡邉博幸が守備固めとして出場したり、中村紀洋が一塁に回って(サードには外野から森野将彦が回ったり、トマス・デラロサが入る)交代させられることが多く、チームがリードした状態で試合に最後まで出場した事は殆ど無いが、接戦になりそうな時や1点差リードのときは最後まで守備に就いていた。
守備範囲が狭く、荒木雅博・井端弘和の2人の失策も、多くはウッズの取り損ないが原因だという指摘もなされている。そのためか中日はウッズが移籍してきてから、内野手の送球エラーが倍増したといわれる(前年の一塁手はゴールデングラブ賞を獲得した渡邉博幸)。また平凡なバウンド送球の処理ができないなど記録に残らないミスも多い。ただ、肩は平均レベル。
米球界・韓国時代や横浜在籍時は外野の守備につくことも多かった(横浜では2003年のみ)が、一塁同様に難があるようだ。ただし、一塁守備については落合博満監督に春季キャンプ中にノックを受けており、横浜時代よりは若干進歩している面も見せる。2006年の日本シリーズでは打撃こそは振るわなかったものの、普段のシーズンでは見られない様な中々の好守備を見せた。守備につく際にスタンドにボールを投げ入れるが、一度に複数投げる場合がある。1投で3球投げ入れるために1回で終わることもある。
阪神タイガース戦では、一塁に出塁した金本知憲とじゃれ合うシーンがたびたび見られ、一部のファンの間では名物となっていた。
[編集] 人物
本名「ウィリアム・タイロン・ウッズ」(William Tyrone Woods)。スコアボードには「T・ウッズ」と表記される。アメリカ合衆国フロリダ州出身。所属する各球団で不動の4番として活躍するホームランバッター。
高校時代はアメリカンフットボールをやっていたといい、がっしりとした体つきをしている。身長は公称185cmだが、実際はそれよりも低いとされる。
アレックス・カブレラとはメキシカン・リーグ時代からの旧知の仲である。また、巨人の李承燁とは韓国時代本塁打王を争っていた。
同じアフリカ系アメリカ人のシェリル夫人と一人の息子がいる。
ホームランを打った後、ホームベース付近で右手拳で胸を2回叩き、顔を上に向け右手人差し指に口づけをする。これは神に感謝するという意味を込めているといわれている。
同じアフリカ系アメリカ人のタイガー・ウッズと名前が似ているため、一時期は野球選手版「タイガー・ウッズ」と呼ばれていた。誤解を招かないよう、最近から球場のアナウンス、テレビでの呼称ともに単に「ウッズ」ではなく「タイロン・ウッズ」とフルネームで呼んでいる。本塁打を打った時は、その「タイガー・ウッズ」にかけられて、「ナイスショット!!」といわれたこともある。
2003年発売の『週刊ベースボール』の選手名鑑号によると、初めて覚えた日本語は「ミズ、クダサイ」。 日本にいる年数が長くなるにつれて日本語も上達してきて、報道陣に会うと「う~す」と挨拶したり、「日本語に直すと私の名前は森ね、筋肉モリモリよ」と冗談を言ったり、ヒーローインタビューで「ソウデスネェ、アノー・・・」と日本語で答えようすることがあった。
中日に移籍後、その長打力から、「巨人の星」に出てくるアームストロング・オズマに例えられることがある。ただしオズマは左打ちで、ウッズは右打ちである。
中日入団決定時に中日スポーツ紙で「タイガー・ウッズ選手が中日入団決定」と、名前を間違えて報じられた。その後もテレビやラジオの野球中継で、解説者に間違えられることがある。
『東海ラジオ ガッツナイター』には、2005年はタイトルコールとジングル、2007年からはジングル・ガッツナイタースペシャル(デーゲーム中継など)時のタイトルコールに登場している。
スコアボードの「T.ウッズ」という表記は、中日移籍後もそのまま引き継がれた。応援時のコールも「タイロン」が引き継がれた形だが、これは「ウッズ」がコールしづらいからということもある。
中日のウッズの応援では、応援歌に入る前に私設応援団による入場テーマが演奏され、それのリズムに合わせメガホンダンス(メガホンを振り回した後、レフトとライト方向へ振り向ける。これを2回)、Tコール(3回メガホンを打ち鳴らし、メガホンをT字型に垂直に合わせ"T!"と言う。これを8回。応援によっては最初からここまでを何度も繰り返す)をする応援がある。ちなみに「T」はウッズが中日入団の際、インタビューで「ファンには(ウッズを)何と呼んで欲しい?」との問いに答えたものである。原曲はエミネムの『Without Me』。打席に立っている間は、現在の本塁打数だけ背番号と背ネームを模したボードが外野応援席に立てられる。(ちなみに入場テーマは愛知県内高校野球の応援でも使われることがある。)
中日移籍後の2005年4月の試合ではユニフォームを忘れたためにブルペンキャッチャーの藤井優志のユニフォームを借りて背番号「97」で試合に臨んだこともあった。
2005年5月5日、対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)、5回裏の打席で顔付近への投球に怒り、さらに藤井秀悟(現日本ハム)が舌を出して挑発をされたと受け取り、同投手の右頬を殴って退場処分になり、10試合の出場停止と50万円の罰金処分を受けた。これに関しては、2005年4月6日のヤクルト戦(神宮)で3番手投手の五十嵐亮太の投球を左手小指に受け、骨折(亀裂骨折で全治6週間と診断)させられていた中でもチームのために出場を続けていた状況化で、同じように前日のヤクルト戦で死球を省みない内角高めのコースを攻め続けられた配球に対して怒りを示しており、その変化の無い危険な配球も伏線に繋がったと考えられる(捕手は五十嵐投手の時と同じ古田敦也選手)。この時は二塁ベース上の立浪和義らグランドに居た選手が止めたので事なきを得た。出場停止の影響で、その時点で首位を走っていた中日が直後に始まった交流戦で大きく負け越し、この年の優勝を逃す結果となった。ウッズの抜けた穴は大きく、交流戦で連敗している間スポーツ紙には「ウッズ・ショック」の見出しが躍った。
2006年6月4日の楽天戦でフルキャストスタジアム宮城(現在はクリネックススタジアム宮城)初のエンタイトルツーベースを放った。
2006年のオールスターゲーム中に、ナゴヤ球場での練習中スキンヘッドを披露した。これは残って一緒に練習していたチームメイトから驚かれた。
2007年から東海地区の宅配ピザチェーンアオキーズ・ピザの夏のイメージキャラクターに起用される。2007年は限定メニュー「ドラマヨ」のTVCMに落合監督の息子・福嗣と、翌2008年は同じく「でらうま」のCMで元中日選手の大豊泰昭、ドアラと共演。タイロン自身が名古屋弁で「とても美味い」を意味する「でらうめぇがや!!」とセリフを言うシーンもあった。
2007年のアジアシリーズと優勝パレード、ファン感謝デーはアメリカへ一時帰国したため参加していない。
背番号の44は、少年時代の憧れの選手だったレジー・ジャクソンにちなんだものとされている。一説には1944年に締結されたブレトン・ウッズ協定にちなんで、という説もあるが詳細は不明。また、横浜~中日時代を経て、退団後の背番号44は小池正晃がいずれも継承している。
2006年は3、4番を組んでた福留孝介と共に「FW砲」と中日スポーツで名づけられた事があった。また、和田一浩が移籍してきた2008年は「WW砲」と名づけられた。
2007年に日本一になった際、メジャーリーグでは一般的だったチャンピオンリングを作って欲しいと報道陣に語ったことがある。当初は製作予定はなかったが後に球団が製作することとなった。日本では他に2005年に千葉ロッテマリーンズが日本一になったのを記念して製作し、選手やスタッフに贈られたことがある。
ヒーローインタビューは「You know」で話し始めることが非常に多い。
ドラゴンズでは、4年間での活躍ぶりや、数々の打撃記録の更新を果たした事等から「球団至上最強助っ人」と言われている。
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | 球団 | 背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2003 | 横浜 | 44 | 136 | 551 | 479 | 73 | 131 | 17 | 0 | 40 | 268 | 87 | 2 | 3 | 0 | 4 | 66 | 2 | 132 | 14 | 6 | .273 | .361 | .559 | .921 |
| 2004 | 130 | 551 | 476 | 84 | 142 | 15 | 0 | 45 | 292 | 103 | 2 | 1 | 0 | 0 | 74 | 1 | 142 | 16 | 10 | .298 | .394 | .613 | 1.007 | ||
| 2005 | 中日 | 135 | 584 | 506 | 92 | 155 | 20 | 0 | 38 | 289 | 103 | 3 | 0 | 0 | 4 | 67 | 7 | 139 | 24 | 9 | .306 | .392 | .571 | .963 | |
| 2006 | 144 | 614 | 523 | 85 | 162 | 29 | 0 | 47 | 332 | 144 | 1 | 2 | 0 | 6 | 84 | 1 | 151 | 22 | 13 | .310 | .402 | .635 | 1.037 | ||
| 2007 | 139 | 593 | 466 | 85 | 126 | 16 | 0 | 35 | 247 | 102 | 3 | 1 | 0 | 5 | 121 | 1 | 153 | 15 | 12 | .270 | .418 | .530 | .948 | ||
| 2008 | 140 | 573 | 490 | 77 | 135 | 18 | 0 | 35 | 258 | 77 | 0 | 1 | 0 | 2 | 78 | 3 | 138 | 18 | 6 | .276 | .377 | .527 | .904 | ||
| 通算成績 | 824 | 3466 | 2940 | 496 | 851 | 115 | 0 | 240 | 1686 | 616 | 11 | 8 | 0 | 21 | 490 | 15 | 855 | 109 | 62 | .289 | .391 | .573 | .964 | ||
- 表中の太字はリーグ最高
- 2008年終了時
[編集] タイトル・記録
[編集] タイトル
[編集] 記録
- 初出場:2003年3月28日、対阪神タイガース1回戦(横浜スタジアム)、4番・一塁手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、3回裏に井川慶から左前適時打
- 初本塁打:同上、8回裏に金澤健人から左翼へソロ
- 初盗塁:2003年4月2日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、6回表にニ盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助)
- 100本塁打:2005年6月16日、対オリックス・バファローズ5回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に加藤大輔から中越3ラン
- 150本塁打:2006年8月3日、対横浜ベイスターズ10回戦(横浜スタジアム)、9回表に加藤武治から左翼へ2ラン
- 200本塁打:2007年8月16日、対阪神タイガース16回戦(京セラドーム大阪)、6回表に下柳剛から左中間へ2ラン
[編集] 関連項目
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