白仁天

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白 仁天
Paik In-chon
基本情報
国籍 韓国の旗 韓国
出身地 中華民国の旗 中華民国
江蘇省無錫県
生年月日 1943年11月27日(70歳)
身長
体重
174 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手外野手
プロ入り 1962年
初出場 NPB / 1963年6月26日
KBO / 1982年3月27日
最終出場 NPB / 1981年10月4日
KBO / 1984年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

白 仁天(はく じんてん、ペク・インチョン、백인천1943年11月27日 - )は、韓国出身のプロ野球選手捕手外野手)・監督

韓国人プロ野球選手の草分けであり、韓国プロ野球界の重鎮。

来歴[編集]

現役時代[編集]

韓国の京東(キョンドン)高校から韓国農業銀行を経て、1962年東映フライヤーズに捕手として入団。当時の野球協約では、入団時に外国籍でも出生時に日本国籍を持っていた選手を外国人扱いとしない規定だった事から、日本人扱いとなる。日本で野球の勉強をするというつもりだったが、入団時の触れ込みは『韓国球界が生んだ最強捕手』。韓国側では外国在勤者として兵役を免除した(のちに方針変更、詳細は後述)。

1963年に初出場。翌年からレギュラーに定着し、三振の少ないシュアな打撃で活躍。1966年からは外野手に転向した。

1970年5月23日の対近鉄戦で、ルーキーの太田幸司との対戦に際どい球で三振と判定されたことに激高、元ボクサーでアクションジャッジで有名だった露崎元弥球審と大立ち回りを演じ暴行で退場となる。2日後に同球審より暴行傷害の罪で刑事告訴されたが、これはプロ野球史上初の出来事であった(28日に和解成立・白事件)。

チームが日本ハムになった翌年の1975年東田正義との交換トレードで、太平洋クラブライオンズに移籍。同年は打率.319で首位打者を獲得(日本プロ野球史上初となる「規定打席ちょうどの首位打者」でもある)し、ベストナインにも選出された。1977年安木祥二と共に、長谷川一夫倉持明と交換トレードでロッテオリオンズに移籍。1981年近鉄バファローズに移籍し、同年限りで退団。20年の長きにわたり日本球界で活躍した。

1982年に発足した韓国プロ野球のMBC青龍に入団。同年に選手兼任監督指名打者)として打率.412をマークし、初代首位打者を獲得。この記録は現在まで韓国プロ野球史上シーズン最高打率で、また彼は韓国プロ野球史上唯一の4割打者である。

1983年に、韓国で姦通罪逮捕された。このため、シーズン途中でMBCの監督職を解任、選手としては同球団から放出された。釈放された後は、三美スーパースターズに移籍。選手兼任打撃コーチを務め、1984年に現役引退。

引退後[編集]

現役引退後、5年間現場を離れていたが、1990年から1991年までLGツインズの監督として復帰。1990年にはリーグ優勝に導いた。

1995年から1997年まで三星ライオンズの監督を務めるが、1997年シーズン中に脳出血で倒れた。一時休養の後、復帰したが、体調が戻らずシーズン途中で監督職から退いた。

2002年から2003年までロッテ・ジャイアンツの監督を務めるが、成績不振で2003年シーズン途中解任され、再び現場に復帰することはなくなった。

ロッテの監督を辞任した後は、個人事業を営みながら、解説者の活動を並行するが、2007年に突如健康が悪化、休養した。2008年より、読売ジャイアンツのホームゲーム韓国放送権を確保したSBSスポーツチャンネルと3年間の専属解説委員契約を結ぶ。李承燁の視察の為、毎年巨人の春季キャンプを訪れている。

2009年、日本の外務省の外郭団体である日韓文化交流基金よりプロ野球を通じた日韓交流と友好親善への功績が評価され、同団体より日韓の文化交流に貢献のあった韓国人に贈られる「日韓文化交流基金賞」を受賞した。

兵役回避問題[編集]

高校卒業後、明治大学島岡吉郎監督に誘われて、留学を希望していたが、当時の日韓間の関係[1]や兵役を終えていないことが理由でかなわなかった。

東映は日本の韓国大使館などに働きかけ免除を継続してもらうよう要請したが、結局帰国命令が出たため12月に日本に妻子を置いたまま帰国、翌1971年5月1日に復帰した。実際兵役に就いたのかについては再来日直後に口ごもりながら「軍隊には行かなかった。兵役検査も受けなかった」と述べ、約5カ月間、父親が経営を始めた牧場の手伝いと体調を崩していた母親の看病をしていたとし、日本へ戻るのが開幕1ヶ月後になったのは期限切れのビザの再発行手続きを韓国側がなかなかしてくれなかったためと説明した。韓国政府が「軍隊に行かず日本で野球をしている」という韓国内の批判をかわすために白を一時帰国させて表向きは軍にいたように見せかけ、日本へ戻すにしても開幕に合わせて戻したのではあまりにも露骨なため、時期をわざと遅らせたのが真相といわれている。なお同年の成績は前年からは大きく下落したが、「事情が事情だけに今回は特例」という球団側の情状酌量で年俸は現状維持に据え置かれた。

人物像[編集]

1967年7月19日の対近鉄戦で逆転サヨナラスリーランを打つも前のランナーを追い越してしまいホームランを取り消され、おまけに延長戦の末、チームは負けてしまった。また白をよく可愛がっていた張本勲が守備練習中にお世辞にも上手いと言えない白の一塁守備を褒めたところ、三塁手から送球が来たにもかかわらず白はクルリと回ってお礼を言ってしまい、顔にボールが直撃してしまったと言われている。

東映時代、ある試合で南海野村克也の囁き戦術への対抗策として、耳栓をして打席に入った。しかしそれを見た野村から、投手との勝負が二の次になって勝機ありと見られ、結局内野フライに打ち取られた。

日本プロ野球では日本人扱いとなっているが、韓国籍で韓国の学校を卒業しているため通算成績を外国人扱いにしてほしいと2009年に『野球小僧』のインタビューで語っている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1963 東映
日拓
日本ハム
20 19 19 0 3 0 1 0 5 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .158 .158 .263 .421
1964 92 264 250 25 63 12 1 6 95 23 9 4 3 0 8 0 3 34 5 .252 .284 .380 .664
1965 116 378 356 43 95 14 2 14 155 44 9 9 4 3 11 0 4 28 14 .267 .294 .435 .730
1966 126 382 363 42 95 13 1 4 122 23 18 5 3 0 12 0 4 30 16 .262 .293 .336 .629
1967 128 431 396 43 111 17 4 10 166 51 13 4 12 3 15 0 5 24 13 .280 .313 .419 .732
1968 117 397 382 52 113 13 3 15 177 51 9 4 2 1 9 0 3 21 8 .296 .316 .463 .780
1969 109 472 454 68 132 17 9 12 203 46 13 5 0 2 13 1 3 31 18 .291 .314 .447 .761
1970 127 540 496 67 137 30 2 18 225 64 28 10 2 4 36 1 2 39 13 .276 .325 .454 .779
1971 107 448 421 47 100 11 4 11 152 38 17 9 0 0 26 2 1 37 16 .238 .283 .361 .645
1972 126 529 486 67 153 33 3 19 249 80 20 13 4 2 35 3 2 32 16 .315 .362 .512 .874
1973 96 312 291 27 72 13 0 6 103 20 8 6 2 1 16 2 2 22 5 .247 .290 .354 .644
1974 114 457 418 63 109 20 1 15 176 42 24 5 5 3 22 1 9 19 18 .261 .310 .421 .731
1975 太平洋 102 403 379 57 121 18 2 16 191 53 13 6 2 3 17 0 2 18 11 .319 .349 .504 .853
1976 121 498 469 54 135 17 2 17 207 59 15 10 3 2 23 1 1 33 22 .288 .321 .441 .763
1977 ロッテ 126 490 452 50 127 11 2 16 190 56 6 6 1 4 30 2 3 33 11 .281 .327 .420 .748
1978 58 181 171 19 44 7 0 3 60 11 5 0 1 1 7 1 1 12 9 .257 .289 .351 .640
1979 124 443 415 47 141 25 4 18 228 71 3 5 1 1 21 2 5 25 20 .340 .378 .549 .927
1980 76 182 167 11 36 1 2 5 56 21 0 1 0 5 7 1 3 17 4 .216 .253 .335 .588
1981 近鉄 84 214 194 19 44 11 0 4 67 23 2 2 2 0 14 0 4 12 6 .227 .292 .345 .638
1982 MBC 72 298 250 55 103 23 1 19 185 64 11 3 0 3 42 10 3 17 5 .412 .497 .740 1.237
1983 三美 35 135 121 6 23 6 1 1 34 17 1 0 1 1 11 0 1 9 4 .190 .261 .281 .542
1984 10 35 32 6 9 2 0 3 20 10 1 0 0 0 3 0 0 3 2 .281 .343 .625 .968
NPB:19年 1969 7040 6579 801 1831 283 43 209 2827 776 212 104 47 35 322 17 57 471 225 .278 .316 .430 .746
KBO:3年 117 468 403 67 135 31 2 23 239 91 13 3 1 4 56 10 4 29 11 .335 .418 .593 1.011
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はKBOにおける歴代最高
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
  • 表中の太平洋(1975年 - 1976年在籍)は、NPBの太平洋クラブライオンズ
  • 表中のロッテ(1977年 - 1980年在籍)は、NPBのロッテオリオンズ

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 公式戦順位(※1) 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差(※2)
1982年 MBC青龍
LGツインズ
3 3 / 3 80 46 34 0 .575 10.0
1983年 3 3 / - 16(※3) 7 9 0 .438 -
1990年 1 1 120 71 49 0 .571 -
1991年 6 6 126 53 71 2 .425 28.0
1996年 三星ライオンズ 6 6 126 54 67 5 .448 17.5
1997年 4 4 85(※4) 44 36 5 .550 -
2002年 ロッテ・ジャイアンツ 8 8 71(※5) 18 53 0 .254 48.5
2003年 8 8 92(※6) 23 66 3 .258 -
通算:8年 716 316 386 14 .450
  • MBC青龍は、1990年にLGツインズに球団名を変更
※1 1982年、1983年は前後期リーグ制での各期の順位。
※2 公式戦1位とのゲーム差。
※3 開幕から16試合消化時点で、上述の家庭内の不祥事で逮捕され、これを理由に解任。
※4 開幕から56試合消化時点の6月23日、上述の脳出血で休養。その後、同年8月1日復帰するが体調が回復せず、29試合消化後、9月23日正式に辞任。
※5 開幕から62試合消化時点で、成績不振で解任された前任監督の禹龍得(ウ・ヨンドゥク)の後を継いで就任。
※6 開幕から92試合消化時点で、成績不振で解任。
ポストシーズン
年度 球団 ステージ 対戦相手 結果 星取表
1990年 LGツインズ 韓国シリーズ 三星ライオンズ 4勝 ○○○○
  • 太字は勝利したシリーズ

タイトル[編集]

NPB
KBO

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB
NPB初記録
  • 初出場:1963年6月26日、対南海ホークス12回戦(明治神宮野球場)、7回表に捕手として出場
  • 初先発出場:1963年6月27日、対南海ホークス13回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手として先発出場
  • 初安打:同上、6回裏に三浦清弘から内野安打
  • 初盗塁:1964年3月28日、対東京オリオンズ1回戦(後楽園球場)、8回裏に二盗(投手:中西勝己、捕手:醍醐猛夫
  • 初打点:1964年3月31日、対南海ホークス4回戦(大阪球場)、8回表に高橋栄一郎から適時打
  • 初本塁打:1964年8月2日、対南海ホークス21回戦(後楽園球場)、2回裏に高橋栄一郎から左越2ラン
節目の記録
  • 1000試合出場:1972年6月30日、対ロッテオリオンズ11回戦(後楽園球場)、1番・中堅手として先発出場 ※史上159人目
  • 100本塁打:1972年7月2日、対ロッテオリオンズ14回戦(後楽園球場)、8回裏に木樽正明から左越ソロ ※史上67人目
  • 1000本安打:1972年10月10日、対阪急ブレーブス26回戦(平和台球場)、2回表に石井茂雄から中前安打 ※史上81人目
  • 150本塁打:1976年5月29日、対近鉄バファローズ前期10回戦(藤井寺球場)、1回裏に井本隆から先制ソロ ※史上43人目
  • 1500試合出場:1976年10月6日、対南海ホークス後期13回戦(大阪球場)、5番・中堅手として先発出場 ※史上52人目
  • 1500本安打:1977年7月13日、対日本ハムファイターズ後期2回戦(川崎球場)、6回表に野村収から左前安打 ※史上32人目
  • 200本塁打:1979年10月4日、対阪急ブレーブス後期10回戦(西京極球場)、3回表に佐藤義則から左越2ラン ※史上32人目

背番号[編集]

  • 68 (1962年)
  • 41 (1963年 - 1966年)
  • 7 (1967年 - 1974年)
  • 6 (1975年 - 1976年)
  • 9 (1977年 - 1978年)
  • 2 (1979年 - 1980年)
  • 22 (1981年)

脚注[編集]

  1. ^ 当時は日韓基本条約が未締結で、日本と韓国の間には正式な国交がなかった。

関連項目[編集]