東田正義

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東田 正義
基本情報
出身地 日本の旗 日本 奈良県
生年月日 1945年8月1日(68歳)
身長
体重
183 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1967年 ドラフト2位
初出場 1968年6月13日
最終出場 1977年8月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

東田 正義(ひがしだ まさよし、1945年8月1日 - )は奈良県出身の元プロ野球選手

来歴・人物[編集]

御所工では、1963年春の選抜に出場。準々決勝に進むが、池永正明を擁する下関商に敗退。高校同期に元田昌義がいる。卒業後は三重交通に勤務し、1967年都市対抗野球では西濃運輸に補強され出場、本塁打や適時打を放ち活躍した。

同年のドラフト2位で西鉄に入団。1年目から59試合に出場し、8本塁打を記録した。翌年から外野手のレギュラーになり、17本塁打を記録した。その後、1973年まで外野手のレギュラーを守った。特に、1971年は23本塁打を含む自己最高の成績を挙げ、弱体化するライオンズの中で、中西太豊田泰光を中心とした野武士野球の後継者として期待された。特に竹之内雅史とのコンビは「トンタケコンビ」と呼ばれ、ファンに親しまれた。

1974年オフに、白仁天とのトレードで、日本ハムに移籍。翌1975年には打ち合いを目的として指名打者制度がパ・リーグに導入されたが、3月8日長崎県佐世保市で行われた太平洋クラブとのオープン戦で日本プロ野球史上初の指名打者を江藤慎一とともに務め、四番打者で2打数2安打1打点の結果を残した。公式戦で84試合に出場するものの村上雅則後藤和昭とトレードされ、1年で阪神に移籍。移籍後は、6番バッターとして12本塁打を放った。

1977年も今までと同程度の成績を残すものの、当時の吉田監督と合わず、また腰痛の悪化もあってオフに引退した。

現在は郷里で保険代理業を営む。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1968 西鉄
太平洋
59 157 139 19 27 3 0 8 54 18 4 2 0 1 16 0 1 43 3 .194 .282 .388 .671
1969 90 290 261 34 66 11 0 17 128 37 1 0 1 2 22 2 4 44 10 .253 .321 .490 .811
1970 124 494 450 43 105 17 2 13 165 48 6 2 1 3 36 0 4 75 12 .233 .296 .367 .663
1971 125 485 444 53 126 16 1 23 213 58 5 5 0 2 38 4 0 53 7 .284 .340 .480 .820
1972 114 428 377 44 103 16 3 9 152 42 3 4 0 6 41 0 4 57 14 .273 .351 .403 .754
1973 114 427 387 41 101 15 1 16 166 51 4 4 0 2 35 4 3 48 6 .261 .327 .429 .756
1974 65 204 178 15 33 3 0 8 60 17 1 2 0 0 25 1 1 39 9 .185 .289 .337 .626
1975 日本ハム 84 294 259 35 65 12 1 8 103 29 3 1 0 3 28 2 4 36 8 .251 .333 .398 .731
1976 阪神 121 385 352 31 87 15 1 12 140 34 1 5 0 2 27 1 3 52 13 .247 .306 .398 .704
1977 57 196 183 20 50 5 3 9 88 17 0 1 0 0 13 0 0 27 5 .273 .321 .481 .802
通算:10年 953 3360 3030 335 763 113 12 123 1269 351 28 26 2 21 281 14 24 474 87 .252 .320 .419 .739
  • 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に球団名を変更

記録[編集]

1971年の第1戦(阪急西宮球場)ではスタメン出場したが、そこで江夏豊阪神)の“オールスター9連続奪三振”に6番目の打者として遭遇してしまう。しかし東田自身は四半世紀以上後に朝日放送スポーツドキュメンタリー番組キラリ」(ナビゲーター:中村雅俊)で同記録を取り上げた回に証言者として出演し、「僕は一流選手ではなかったので、江夏の大記録が僕にとっては不名誉でも、三振した面々の一人として僕の名が球史に残ることだけ嬉しい」と語っていた。

背番号[編集]

  • 22(1968年 - 1974年)
  • 29(1975年)
  • 2(1976年 - 1977年)

関連項目[編集]