豊田泰光

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豊田 泰光
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県久慈郡大子町
生年月日 1935年2月12日(79歳)
身長
体重
176 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1953年
初出場 1953年3月21日
最終出場 1969年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 2006年
選出方法 特別表彰

豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - )は、茨城県久慈郡大子町出身[1] の元プロ野球選手野球解説者

現役時代は豪快なバッティングで、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送フジテレビ文化放送スポーツニッポンの野球解説者をつとめている。2006年野球殿堂入り。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

3歳の時に日立市へ移住し、父は建設業を営んでいたが、国民学校小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため[2] 母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まった[3]。この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきたソフトボールの道具[4] で野球をやった事が、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった[5]

高校は茨城県立水戸商業高等学校に進み、同校3年生だった1952年夏の甲子園に出場。開会式では選手宣誓を務め、2回戦に進出(ベスト16)するが成田高に敗れる。高校同期に加倉井実がいる。

高校No.1遊撃手の評価を受け、立教大学早稲田大学、また複数のプロ球団からの誘いを受けた。本人は神宮球場の早慶戦に憧れていたが、父親が病気になったため大学進学はあきらめた。西鉄のスカウト宇高勲から積極的な勧誘を受け、同球団への入団を決めた[4]

プロ野球選手時代[編集]

1953年、高卒1年目ながら遊撃手のレギュラーとなり、シーズン1日目となる3月21日ダブルヘッダーで初出場。翌22日に9番打者・遊撃で初スタメンを飾った。三原脩監督の卓抜した選手起用により、その後は投手の前を打つ8番打者を務め、4月の下旬以降は主に7番打者を打った。調子次第では6番打者を任され、9月の前半には5番打者としても出場した。9月15日以降は2番打者に定着し、強打の2番として活躍。最終的に115試合の出場で27本塁打(同僚の中西太・36本塁打に次ぐリーグ2位)を放ち、25盗塁を記録した。同年は新人王を獲得し、この年に記録した27本塁打は当時の新人選手の最多記録となった[6]

プロ2年目の1954年には初のパ・リーグ優勝を成し遂げ、続く1956年には自ら首位打者となる活躍でチームをリーグ2度目の優勝に導いた。この時の打率はチームメイトの中西太とは僅差(5毛)であった。最終戦を前に中西は本塁打・打点の2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原監督が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まった[7]。続いて出場した1956年の日本シリーズでも活躍し、チームはセ・リーグ優勝の読売ジャイアンツを下して初の日本一となり、豊田はシリーズのMVPに選ばれた。

その後も流線型打線と呼ばれた西鉄の強力な野手の一人として活躍を続け、日本シリーズには1957年1958年に3年連続で出場し、チームは3連覇を達成。豊田も1957年には優秀選手賞、1958年には表彰はなかったが同年のシリーズで最多の4本塁打を放った。1959年のシーズン後は三原の退団や大下弘の引退が起こり、中西太が深刻な負傷で試合出場機会が激減したため、西鉄チームは優勝から遠ざかったが、豊田は安定した成績を残してリーグを代表する遊撃手となった。

1962年には選手兼任で中西新監督を補佐する助監督を務めたがわずか1年で辞任し、同年のオフに国鉄スワローズ1965年5月10日からサンケイスワローズ、1966年からサンケイアトムズ、1969年からアトムズ)へトレードされた。豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである。西鉄を退団した原因は川崎徳次監督の後任として就任した中西との対立だった。前年の1961年オフに成績不振の責任を取る形で川崎監督が辞任すると、西鉄は「監督:中西・助監督:豊田・投手コーチ:稲尾」という青年内閣を組閣した(中西・豊田・稲尾とも当時20歳代で選手兼任)。しかし中西が三原元監督の娘婿であるということから誰もが中西の采配について文句を言わない中で、豊田だけが助監督の立場でいろいろと口を出したため、結果的にこれが中西との対立に発展した。
ただ、本人は出演したテレビ番組の中で、移籍の理由は中西との対立ではなく、現役で脂に乗っている時期に助監督に任命されたことに対して「場当たり的な人事だ」とフロントに不満を持っていたと述べている。その後中西とは関係を修復し、現在では「太さん」「トヨ」と呼びかける、普通の先輩後輩の関係に戻っている。

国鉄入りした原因として、当時国鉄のコーチに水戸商の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。豊田は水戸商時代、当時の立教大学野球部監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故にしてプロ入りしてしまった。そのため、砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、国鉄入団となった。また、西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞社水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている[8]。国鉄移籍決定後、豊田は、当時の球団フロントから「福岡はお前の放出が原因でファンが騒動を起こしているから、来るな」と言われ福岡では豊田不在のまま移籍会見が行われたため、豊田に対して「今まで応援してきたのに最後に姿を見せないとはどういうことだ」とファンから批判が起こった。
西鉄は豊田放出の見返りとして金田正一投手または村田元一投手のいずれかを望んだものの、結局トレードマネーで解決し、得た資金でウイルソンロイバーマの3外国人選手(いずれも野手)を獲得。1963年の優勝に同3人が大きく貢献することになる。

国鉄への移籍後も2年間は中心打者として好成績を残すが、3年目から肘の故障が悪化し、2年にわたり治療を続けるものの完治せず、常時出場が困難になる。その後は脚力の衰えもあり、主に一塁手、あるいは代打として活躍した。1968年からは打撃コーチを兼任。同年には2試合連続で代打サヨナラ本塁打を達成した(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)が、相手投手は2試合とも中日ドラゴンズ山中巽だった[9]。同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である[9]

17年間の現役生活の末、1969年シーズン終了後に引退した。引退のいきさつは、当時小学生だった息子の一言が引き金となっている。「あんたの子供がけんかで相手に怪我を負わせた」という小学校からの通知が来た夜、豊田は「何で怪我を負わせたんだ?!」と息子に問い詰めた。息子は「『お前んとこの父親は役立たず。役立たず』とはやし立てられ、カッとなってボコボコにした」と答えた。これを知った豊田は「もう、引退しないといかんなぁ」と決意したといわれている[10]

現役引退後[編集]

現役引退後はニッポン放送などで解説者となった後、1972年近鉄バファローズで1年間コーチを務めた。1973年以降は評論活動に戻り、以後30年以上にわたって野球評論を続けている。『週刊ベースボール』にはコラム「豊田泰光のオレが許さん!」を1993年から2013年に終了するまでに通算1001回にわたって連載、日本経済新聞ではスポーツ欄にコラム「チェンジアップ」を1998年から2013年まで続けていた。

1994年に発足した日本プロ野球OBクラブには当初から参加(2000年までは副会長・技術委員長も任務)しており、1997年茨城県稲敷郡桜川村(現:稲敷市)でホームグラウンド(桜川村総合運動公園野球場〔現:稲敷市桜川総合運動公園野球場〕 - 茨城ゴールデンゴールズのホームグラウンドでもある)が完成した際のイベントにも登場していたが、運営方針をめぐって大沢啓二等他の役員と意見が対立し、現在は批判的な立場をとっている。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

日本人史上初の遊撃手での首位打者を獲得するなど、遊撃手として屈指の打撃力を誇った打撃型ショートであった。豊田以外の日本人遊撃手の首位打者はプロ野球歴代で西岡剛(2010年)のみである。攻撃力の傑出度を測るRCWINは遊撃手史上最高の数値を記録しており、25歳5か月での1000本安打達成は榎本喜八土井正博に次ぐ歴代3位タイのスピード記録である[11][12]

豊田がプロ入りした1950年代当時の野球では、遊撃手は打撃力は二の次で守備力が最優先、2番打者はバントか進塁打で走者を進めることが重要、という評価が常識として通用していた。その点で、年間で45失策[13]を記録したが三原に起用され続け、新人王を獲得した豊田のプレースタイルは当時としては異質であった[14]。ただし豊田の盗塁数は多く、「俊足」という点では他の2番打者との共通性を持っていた。

制約の多い2番打者での起用が多い選手での通算約1600本安打は、当時では非常に高い数字だった。西鉄の全盛期にクリーンナップを打っていれば、通算1800安打から1900安打は確実に打っていただろうとするチームメイトの証言がある[15]

内野フライを打ち上げた時に、走塁の途中で「俺が捕る」と言い、守備側の選手を混乱させてエラーを誘った。そのエラーをした選手が引退後に審判になり、豊田は「以前に自分がした事を恨んでいて、追い込まれてからきわどいコースをストライクとして取られたらたまらない」と思い、その審判が豊田が出場する試合で主審を務める場合は早めのカウントで打つようにしていたという。

守備[編集]

6(遊撃手) - 4(二塁手) - 3(一塁手)ダブルプレーはプロ野球でもよく見られるが、西鉄の場合(遊撃手:豊田、二塁手:仰木彬、一塁手:河野昭修→中西太)は普段と異なる点がひとつあった。通常このプレーにおいて、遊撃手は二塁手が一塁へ送球しやすいように、二塁手の体の右側へと送球するのがセオリーとなっているが、仰木が「右側に投げられると一塁へ送球しにくい」といったため、豊田は仰木と二遊間を守る時は仰木の体の左側へ送球していた。ただし滝内弥瑞生など、仰木以外の選手が二塁を守る時は二塁手の体の右側に送球していたが、仰木とのコンビが9年間続いたせいで豊田の中には「6 - 4 - 3のダブルプレーの際には二塁手の体の左側に送球する」のが癖になってしまい、国鉄移籍後に遊撃手として出場した際に悪送球を犯している。

バント[編集]

3連敗のあと1勝を返して迎えた1958年の日本シリーズ第5戦、2-3とリードされた9回裏、先頭の小淵泰輔が二塁打で出塁。3番の豊田に打順が回り、強打か送りバントかの判断を迫られたが、ベンチの三原を見ても「お前に任せる」と言わんばかりの知らん顔だった。結局豊田は自分の判断で送りバントをしたが、西鉄のナインはこのシリーズ最も当たっていた豊田が送るとは思わず、ベンチに帰ったら「なぜ打たなかった」と袋叩きに遭ったという。一死三塁となったが、期待のかかった4番の中西がサードゴロに倒れ、二死となって5番の関口清治の場面では、豊田は「どんな神様でもいいです。お願いですから関口さんに打たせてください」と祈っていたという。関口は中前にはじき返し、土壇場で同点に追いついた西鉄は息を吹き返し、この試合稲尾和久の本塁打でサヨナラ勝ち、結局3連敗4連勝でシリーズも制覇した。尚、関口はその同点タイムリーを放つ打席を迎えるまで、この年のシリーズ打撃成績は15打数1安打と絶不調に見舞われていた。

  • ただし、このエピソードについて、稲尾はNHKの「ラジオ深夜便」に出演した際に「あの場面(9回裏、無死二塁)では誰がどう見ても送りバントだった。しかし誰も豊田さんがバントに素直に同意するとも思っていなかった。豊田さんは別名『山川さん』と呼ばれていて、いつも皆とは反対のことを言っていたからだ。そこで三原監督が豊田さんに、『豊田、打て』と声をかけた。すると豊田さんは(『山川さん』なので)、『監督、何言っているんですか、ここは絶対にバントじゃないですか』と反対のことを言ってきた。そしてバントを決めた。豊田さんの性格を熟知してバントをさせた三原さんの見事な駆け引きだった」と述べている。

人物[編集]

西鉄黄金時代の代名詞として知られるNLマークを、三原と共同で考案したことで知られる。それまでの西鉄の帽子は黒地に白のNマークだったが、これが選手の間で評判が悪かった。そこで三原は水戸商高出身で商業デザインに興味を持っていた豊田を自分の部屋に呼び出し(特に試合に負けた日の夜)、2人でNとLの形に切り抜いた紙を並べたり重ねたりして検討した結果、ニューヨーク・ヤンキースのNYマークを想起させるNLマークが完成したという。1954年の日本シリーズから西鉄の帽子が黒地に白のNLマークに変更されたが、この年に初優勝、さらに1956年からは3年連続日本一に輝いたこともあって、NLマークは川崎徳次監督時代の2年間(1960年1961年)を除き、親会社西日本鉄道が球団を売却する1972年まで使用された(ただし1966年からはユニフォームにオレンジが加わったこともあって、NLマークもオレンジに変更された)。豊田が監修した2008年の「ライオンズ・クラシック」では、1954年から1959年に使用された西鉄のユニフォームが復刻・使用された。帽子も黒地に白のNLマークの物がそのまま使われ、一般ファンにも販売された。

  • 白のNLマークの帽子は、西鉄のマネジャー・常務を務めた藤本哲男1979年福岡市中央区に開業した野球用品店「ライオンズベースボールショップ」で現在も購入可能である。

1958年のオフ、1月には歌謡曲「男のいる街」を発売した。同曲は豊田の公式ホームページで試聴可能となっていて、豊田は「(日本の)スポーツ選手のレコーディング第1号」と述べている。作曲は日立市出身の吉田正で、その後も豊田とは親交を持っていた。吉田の死後、2004年に同市で吉田正音楽記念館が開設された際、吉田の遺品の寄贈式で豊田は体調不良の夫人に代わって出席している[16]

通算1000三振記録者を対象とする「千振会」(せんしんかい)の結成を提唱したが、他の対象者の賛同を得られず実現しなかった[17]

近年は、社会貢献活動として、木製バットの原材料であるアオダモの植樹活動を精力的に行っている。2008年には茨城県に500万円の寄付を行い、県内の運動公園や文化施設などへ自動体外式除細動器(AED)約20台を設置するための資金に充てられる事になった[5][18]

人間関係[編集]

稲尾和久が西鉄入団後に初めて球団寮を訪れた際、稲尾が中央球界では無名の存在だったこともあり、当時の寮長で3学年年上だった豊田から「西鉄に入る?運転手になるなら本社(親会社の西日本鉄道)へ行け」と稲尾に対して冷たく対応したという。2007年、稲尾の訃報に対して「ショックです。親、兄弟と同じ存在だった」「西鉄というのは稲尾ライオンズ。ライオンズをつくったのは稲尾。わたしの心の中で西鉄ライオンズはきょうで終わりです」とコメントした。その後2012年に稲尾の背番号が再び永久欠番になった際のセレモニーの開会挨拶では「まるでここに稲尾がいるようで…」と人目も憚らず号泣した。本人曰く「稲尾の話だけには弱い」とのこと。

1990年代初めはテレビ東京のスポーツ番組「スポーツTODAY」(月曜日のコーナー「月曜スポーツ討論会」)にて青田昇有本義明ダンカンらとともにプロ野球に関して侃々諤々の議論をしていた。月曜スポーツ討論会の最終回(このとき豊田がフジテレビ解説に復帰することが報告される)でダンカンより本をプレゼントされるが、その本は確執があったとされる別所毅彦著作の「剛球唸る!―栄光と熱投の球譜」であったため、やや引きつった笑みで、「(本を)ありがとう」と言っていた。

西鉄時代の監督だった三原を“恩師”として今でも尊敬しており、自身の連載コラムや著書で「三原さんをプロ野球のコミッショナーにすべきだった」と今でも時折語っている。また、現在の評論家活動も西鉄時代に三原から「合宿先でも空いてる時間は漫画や雑誌ではなく、本を読め」とずっと言われて来て、豊田自身もその忠告を素直に受け入れたから今の評論家活動があると連載コラムや自筆の著書でもたびたび語っている。

豊田はプロ野球関係者の葬儀に基本的に参列しない。その理由について「グラウンドで戦った先輩や友人、仲間たちの葬式に行ったら、悲しくなってしまってね、涙が止まらなくなって堪らないからです。そういうのが嫌だから、自分は葬式に行かないで自分なりに(故人に)お別れするようにしているんです」と、週刊ベースボールのコラムに書いていた。ただし、親交の深い野球ジャーナリストの田村大五の葬儀には参加し弔辞も読んだ。

野球評論家として[編集]

野球評論家としては、球界の様々な問題点に切り込んだ辛口な批評を行っている。

野球関係者に対する意見[編集]

1982年にロッテの落合博満が打率.325、32本塁打、99打点という成績で三冠王を獲得した際、雑誌のコラムで「こんな低レベルの数字で三冠王を達成しても三冠王とは認めない」と発言した。これに対して落合は「三冠王になったこともないような人に言われる筋合いはない」と言い返してしばらくの間両者の仲に確執が生じていたが、1985年に落合が打率.367、52本塁打、146打点という成績で三冠王を獲得すると、落合に詫び落合夫妻をハワイ旅行に招待した。

1998年のヤクルト対巨人のテレビ中継でヤクルトの野村克也監督の野球の素晴らしさを引き合いに出し長嶋茂雄の監督能力、選手起用を批判した。テレビの公共電波で長嶋批判を行った人物は過去にも水原茂らがいるが、テレビ局には抗議の電話が殺到し、「長嶋信者」として知られる徳光和夫の怒りにも触れた。しかし豊田は野村のこともねじめ正一との対談の中で「挨拶をしたくもされたくもないほど嫌い」と語っている。

川相昌弘2003年原辰徳から来季のコーチ就任を任命されながら、その後、原が今季限りで辞任し、球団から来季以降の契約の話が来なくて、川相がしびれを切らし引退を撤回して自由契約にしてもらった件で、比較的川相に同情的な声が多い中、「この世界は監督が交代したら、前監督との約束が反故になるのは当たり前」「新しい監督が決まれば、フロントと話し合いをしてチームの方向性を決めてるなどして時間がかかるから、すぐにコーチをやってくれとはならない」「契約を理解していない川相は子供」と述べた[19]

2006年のプレーオフ第2ステージ日本ハムソフトバンク第2戦、9回裏に二死一、二塁で稲葉篤紀のセンターに抜けそうな打球をセカンド仲澤忠厚が好捕したものの、ショート川﨑宗則への送球が逸れて二塁セーフ。その間に二塁ランナーの森本稀哲が一気に生還し日本ハムがサヨナラ勝ちし、リーグ優勝が決まった。このプレーに対して「あの場面では誰も責められない。二塁ランナーの森本がよく走った」、「川﨑がランナーを全く警戒しておらず、二塁塁審へのアピールの前に本塁へ送球するべきだった」との声がある中、豊田だけは自らの経験から仲澤を批判、「あの場面はバックトスで送球するべきであった」と週刊ベースボールのコラムで発言した。なお、翌2007年以降のソフトバンクのセカンドは本多雄一が台頭し、仲澤はレギュラーを掴めないまま、2012年に戦力外通告を受けることになる。

王貞治長嶋茂雄、稲尾和久の三人については最大限の敬意を払っている。しかし同時に、「この三人は監督のような、つまらないいざこざに巻き込ませるようなことをせず、憧れの存在のまま御三家として祭るべきだった」と監督就任を惜しんでいる。王は巨人時代は解任騒動、ダイエー時代は生卵事件や身売り騒動に遭い、長嶋は一度目の監督時はいきなりの最下位転落と解雇、二度目はFA選手の乱獲や処遇でその手法を疑問視され、稲尾は黒い霧事件西鉄ライオンズの身売りに巻き込まれた。

2010年は前田健太沢村賞西村徳文正力松太郎賞を受賞したが豊田は今年一年の成績だけで授賞させるべきではないし、二人とも来年取れるように頑張りますと宣言して賞を辞退したほうがいいと述べている[20]。その言葉通り翌年度前田は負け越し、西村率いるロッテは最下位に沈んだ。

埼玉西武ライオンズに関して[編集]

文化放送ライオンズナイターには1982年の開始当初からレギュラー解説者として出演し、当時は異例だった「一方的身びいき放送」の解説者として西武ライオンズ(当時)を応援した。しかし、西武球団が長年にわたって自らを1978年末の設立(球団買収)による新球団と見なし、前身の福岡時代の記録を無視し、当時の在籍選手を球団OBとして認めなかった事には不満を持ち、元選手には行き場がないとしてその対応を批判していた。買収から30年が経過した2008年に、埼玉西武ライオンズが西鉄ライオンズの復刻版ユニフォームを着けて公式戦を行い、日本シリーズ3連覇や稲尾の活躍を含めた福岡時代の歴史を各種企画で紹介する「ライオンズ・クラシック」の実施が決まると、豊田はエグゼクティブ・アドバイザーに就任して監修に務め、その初戦となった同年6月28日の対千葉ロッテマリーンズ戦では西鉄時代のユニフォーム姿で始球式のマウンドを務めた。試合後は「この風景を(前年亡くなった)稲尾に見せたかった」と語り、「ライオンズ・クラシック」企画が終了した際にも「こんなにうれしい日々はなかった。これから西武を応援していきます」と感極まった様子で場内の観客にあいさつした。

2010年に大久保博元が不祥事でシーズン中に西武の打撃コーチを解任された際は球界から去って世間の荒波に揉まれるべきだと述べている[21]

2012年のライオンズ・クラシックで、全選手が稲尾の永久欠番『24』をつけてプレーした試合の開始前に、背広姿であいさつにたった。

フジテレビ絶縁宣言[編集]

豊田は、引退の翌年(1970年)以降、2000年までフジテレビの専属解説者としてプロ野球中継やプロ野球ニュース1976年開始)で活躍していた(ただし、近鉄コーチとして現場復帰した1972年1980年代後半頃〜1992年頃にかけて専属を離れた時期もあった)。

2001年、「フジテレビが野球を大切にしなくなった」ことを理由に「フジテレビ絶縁宣言」を表明し、専属から離れた(ただし、その後もしばらく地上波副音声やCS放送・フジテレビ739のプロ野球中継には時折出演していた。また、2003年2月まではフジテレビ公式サイト内において不定期でコラムを連載していた〔#外部リンクを参照〕)。

これはフジテレビがプロ野球ニュースなどの野球番組で、1990年代前後から野球に詳しくない女性アナウンサーやお笑い芸人を起用するようになるなど[22]、野球ニュースとしての低質化が起こったことなども要因であったが、これらを差し置いても一番の絶縁の理由は、2001年のプロ野球ニュースの地上波での放送終了であった。終了後はCS放送に移動して同番組は継続されたが、豊田自身は「プロ野球ニュースだけは絶対に終わらせてはいけない」と声を大にして叫んでおり、週刊ベースボールの自身のコラムでもこのことについて何度も発言している(フジテレビ公式サイト内のコラムでも地上波での再開を主張している)。

その他[編集]

活発なコラム執筆を続ける中で、豊田の活動はプロ野球以外の領域にも広がる場合がある。フジテレビの公式サイトで続けてきたコラムの最終回は川淵三郎日本サッカー協会キャプテン(会長、当時)との対談の話題であり、神風特別攻撃隊の一員として第二次世界大戦太平洋戦争)で戦死した石丸進一について語りながら自身の戦争体験を振り返ったコラムをスポーツニッポンの九州版で執筆した事もある[3]

文化放送ライオンズナイターの近鉄対西武戦の中継(藤井寺球場)で、一度だけ試合の実況をしたことがある。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1953 西鉄 115 439 402 64 113 22 0 27 216 59 25 12 3 -- 31 -- 3 92 1 .281 .337 .537 .874
1954 134 583 494 77 119 20 4 18 201 63 33 10 14 2 72 -- 1 107 3 .241 .337 .407 .744
1955 144 632 546 94 150 18 4 23 245 76 27 15 19 2 64 1 1 75 9 .275 .351 .449 .800
1956 148 629 529 90 172 28 12 12 260 70 31 13 15 7 76 5 2 59 17 .325 .407 .491 .898
1957 128 550 463 92 133 26 8 18 229 59 24 10 12 5 70 0 0 64 7 .287 .377 .495 .872
1958 111 458 399 72 103 16 3 13 164 43 11 8 6 2 50 1 1 65 11 .258 .341 .411 .752
1959 133 534 447 61 134 18 4 17 211 81 13 11 3 4 78 18 2 68 17 .300 .403 .472 .875
1960 127 508 425 75 122 18 4 23 217 87 9 7 0 5 77 4 1 82 7 .287 .394 .511 .905
1961 120 486 391 65 116 17 1 16 183 60 10 5 2 5 87 10 1 55 13 .297 .421 .468 .889
1962 130 519 431 73 118 11 2 23 202 67 9 5 0 2 84 9 2 82 14 .274 .393 .469 .862
1963 国鉄
サンケイ
アトムズ
136 549 472 68 138 26 1 20 226 70 12 11 2 3 71 2 1 65 17 .292 .384 .479 .863
1964 120 469 393 71 108 20 2 24 204 59 7 5 1 3 72 8 0 63 14 .275 .385 .519 .904
1965 58 221 185 20 43 4 0 10 77 22 1 1 0 3 31 1 2 31 4 .232 .344 .416 .760
1966 24 82 69 5 10 1 0 2 17 4 0 0 0 0 13 0 0 19 3 .145 .280 .246 .526
1967 106 346 309 34 76 18 2 9 125 36 3 4 0 2 32 3 3 60 4 .246 .321 .405 .726
1968 40 94 83 11 20 2 0 5 37 19 0 2 0 1 10 1 0 20 0 .241 .319 .446 .765
1969 40 116 99 8 24 4 0 3 37 13 0 2 0 1 16 0 0 17 6 .242 .345 .374 .719
通算:17年 1814 7215 6137 980 1699 269 47 263 2851 888 215 121 77 47 934 63 20 1024 147 .277 .372 .465 .837
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)、1969年にアトムズに球団名を変更

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

  • オールスターゲーム出場:9回 (1955年 - 1960年、1962年 - 1964年)
  • 2試合連続サヨナラ本塁打(1968年8月24日 - 8月25日)
  • 通算1000試合出場:1960年8月7日(54人目)

背番号[編集]

  • 7 (1953年 - 1969年)
  • 70 (1972年)

関連情報[編集]

連載コラム[編集]

  • 豊田泰光の赤えんぴつ
野球評論家転身当初に担当した、サンケイスポーツの連載コラム。
  • チェンジアップ
日本経済新聞の連載コラム。
  • 豊田泰光のオレが許さん!
週刊ベースボールで1994年から2013年まで連載していたコラム。
  • Weekly Report 豊田泰光コーナー
1999年から2003年までフジテレビ公式サイト内で連載していたコラム(#外部リンク参照)。

出演番組[編集]

1970年代後半頃 - 現在。
※豊田によると規制なく自由にめったぎれるから出演できるとのこと。
1970年 - 1971年、1973年 - 1970年代後半頃まで出演。
1970年 - 1971年、1973年 - 1980年代前半頃、1993年 - 2002年頃に出演(専属契約は2000年度まで。その後は本数契約という形で、地上波副音声・CS放送にて出演)。
地上波時代のレギュラー解説者(上記中継と同じく、一時期専属から離れていたため、出演していなかった)。CS時代の初期(2001年〜2002年頃)にも時折出演していた。
1980年代後半頃 - 1992年頃に野球解説者として出演。
※テレビ大阪のプロ野球中継の現行タイトル。
1987年 - 1991年に出演。
  • ベーヤンとトヨさんのプロ野球いいたい放題
1980年頃、文化放送ホームランナイターの前座番組として放送していた10分番組。別所毅彦と共演。
以前はレギュラー解説を務めており、戸谷真人アナウンサーとのコンビで知られた(2006年は久々に一度だけ出演、2009年6月17日の巨人戦、同年8月26日の楽天戦にも出演)。
あまりにもライオンズ贔屓だったため、ある試合で巨人(読売ジャイアンツ)のことを批判すると豊田は巨人ファンから自宅の庭に、火のついた煙草を投げ入れられ、戸谷は息子を誘拐するぞという脅迫電話がかかってきたことがある。そんなこともあって、みんなが身の危険を感じ、豊田・戸谷コンビを超えるコンビは生まれていないという(ライオンズ・クラシックでのトークショーより)。
  • トヨさんのサンデーラジオI( - アイ)
2000年10月〜2001年3月、日曜午後17:50〜20:00に放送。19:00以降は一部のNRN系列局にネットされた。
  • 豊田泰光のウルトラサンデー
2001年10月〜2002年3月、日曜午後17:50〜20:00に放送。前年度同様、19:00以降は一部のNRN系列局にネットされた。
  • 豊田泰光のスーパーウルトラサンデー
2002年10月〜2003年3月、日曜午後17:40〜19:00に放送。この年から19時台のNRN系列枠が「ラジオふるさと便」となった為、全編関東ローカルとなった。
  • 豊田泰光のサンデースポーツファミリー
2003年10月〜2004年3月、日曜午後18:00〜19:00に放送。前半30分はラジオ大阪にネットされた。
2004年ナイターオフシーズンの番組は、「サンデースポーツパラダイス・エキウリ!」となったため、上記番組を最後に、豊田がパーソナリティを務める同系統の番組は放送されていない。

出演CM[編集]

テレビCM。1980年代後半頃〜1997年頃まで出演。その後1998年から今井雅之が主演した。その間、1991年から、とみたいちろう歌唱のCMソング「俺とおまえと大五郎」(作詞:伊藤アキラ・作曲:鈴木キサブロー)が使用されるようになった。

著書[編集]

  • 『豊田泰光のチェンジアップ人生論』(日本経済新聞社:2006年4月)
  • 『オレが許さん!波瀾万丈交友録』(ベースボール・マガジン社:2006年8月)
  • 『プロ野球を殺すのはだれだ』(ベースボール・マガジン社:2009年3月)
  • 『「まぐれ」と「極意」 勝負に勝つ上達のセオリー』(日経BP出版センター:2009年10月)
  • 『豊田泰光 108の遺言』(ベースボール・マガジン社:2013年10月)

脚注[編集]

  1. ^ 茨城県ホームページ「平成18年度茨城県表彰受賞者について」
  2. ^ 日立市は1945年の終戦前に日立空襲と呼ばれる空襲と艦砲射撃を受け、大きな被害を出した。
  3. ^ a b スポニチ九州 クローズアップ 2007年8月16日付
  4. ^ a b 豊田泰光のオレが許さん 第917回 19年目の自己紹介(1)『週刊ベースボール』2012年1月23日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-1/23, 70-71頁。
  5. ^ a b 常陽新聞ヘッドラインニュース 2008年6月5日付 「元プロ野球選手、豊田泰光さんが寄付」 [1]
  6. ^ 同記録は1959年にセ・リーグで読売ジャイアンツ長嶋茂雄が29本を打って更新されたが、高卒新人の記録としては1986年清原和博が31本塁打を打つまで最多だった。現在でも豊田の記録は清原・桑田武(同数の31本)・長嶋に次ぐ新人歴代4位、高卒新人では歴代2位。また、この年に残した25盗塁は現在でも高卒新人の歴代最多記録である。
  7. ^ この試合では三原は球場に来なかったため、代理で監督を務めた川崎徳次が三原の意向を受けて両者を休ませている。
  8. ^ 「プロ野球トレード史Ⅱ」ベースボール・マガジン社・1990年。他に、同社刊「ヤクルトスワローズ球団史」(徳永喜男・1992年)にも「右翼某大物が介入」との記述があった。
  9. ^ a b 【8月25日】1968年(昭43) サヨナラ男・豊田、2戦連続同じ投手から決着弾”. 2011-10-28. 2011年10月28日閲覧。
  10. ^ 日本テレビいつみても波瀾万丈』に豊田が出演した際、再現VTRで紹介された。
  11. ^ 「週刊ベースボール」2014年6月16日号 76頁 「記録の手帳」2731回
  12. ^ 坂本勇人イチローも25歳5か月で達成しているが、日数計算した場合は坂本は25歳157日、豊田は25歳168日、イチローは25歳180日で、豊田は歴代4位となる。
  13. ^ ただ、当時の遊撃手としては他球団の選手の数字〔平井三郎(巨人)55失策、白石勝巳(広島)45失策、吉田義男(阪神)38失策、など〕と比べて特別多かったわけではない。
  14. ^ 福岡野球博物館「豊田 泰光さんについて・Ⅱ」
  15. ^ Sports Graphic Number 三原脩生誕100周年記念特集
  16. ^ ほっとメール@ひたち(茨城県議会議員井手よしひろのブログ)2004年2月13日付記事 「吉田正記念館・開館にむけての準備進む」
  17. ^ 玉木正之『プロ野球大辞典』(新潮文庫、1990年)P322。玉木は「(他の対象者の)ほとんどが名球会の会員だったせいもあったのだろうが、プロ野球界やそれを支援するスポンサーに、彼のジョークが通じなかったのは残念だ」と記している。
  18. ^ MSN産経ニュース 2008年6月4日付 「野球解説者の豊田泰光氏、茨城県に500万寄付」
  19. ^ 巨人軍改革論・週刊ベースボール別冊2003年冬季号P16-P17
  20. ^ 「豊田泰光のオレが許さん!」2010年11月24日号
  21. ^ 「豊田泰光のオレが許さん!」2010年8月11日号
  22. ^ 1988年4月にプロ野球ニュースの司会が一新され、同番組のスタート以来司会を続けていた佐々木信也が外される一方、土曜と日曜は野球に関する知識不足を自認していたフジテレビ入社2年目の中井美穂アナウンサーが司会を担当していた。

関連項目[編集]