長谷川滋利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
長谷川 滋利
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県加古川市
生年月日 1968年8月1日(45歳)
身長
体重
180 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1991年4月11日
MLB / 1997年4月5日
最終出場 NPB / 1996年10月23日
MLB / 2005年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

長谷川 滋利(はせがわ しげとし、1968年8月1日 - )は、兵庫県加古川市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者

日本でのニックネームは「シゲ」あるいは「シゲ魔神」(佐々木主浩の大魔神をもじって)、アメリカでのニックネームは「シギー」。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

高砂市加古川市組合立宝殿中学校に在籍時、投手として第5回全国中学校軟式野球大会で優勝。東洋大姫路高校では2年春2年夏3年夏甲子園出場。立命館大学経営学部在学時は関西学生野球連盟で5度最優秀投手の表彰を受け通算40勝。1回生のときには古田敦也が4回生に在籍していた。また、同志社大学に在籍していた杉浦正則と同じ回生で、立同戦が大いに盛り上がった。

1990年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブの1位指名を受け入団。入団時の背番号は17。

オリックス時代[編集]

プロ1年目の1991年には開幕当初6連敗を喫したが結果的に12勝9敗で最優秀新人賞を獲得(ジュニアオールスターゲーム最優秀投手獲得)。1995年には12勝、防御率2.89の好成績を残し、オールスターゲームにも出場した。星野伸之野田浩司佐藤義則らと共に1990年代のオリックス先発投手陣を支え、1995年、1996年のリーグ連覇にも貢献した。

エンゼルス時代[編集]

1997年1月に日本人の史上初で金銭トレードによりアナハイム・エンゼルスに移籍。グレッグ・クリフトンを代理人として1年57万ドルで契約を結ぶ。4月5日のクリーブランド・インディアンス戦でメジャー初先発。15日のニューヨーク・ヤンキース戦の8回にリリーフ登板し、メジャー初勝利を挙げる。この時の帽子はアメリカ野球殿堂に飾られた。その後計4試合に先発したが0勝2敗、防御率7.10、WHIP1.73と結果を残せず、5月中旬からはリリーフに専念。リリーフとしては25試合に登板し1勝2敗、防御率3.04、WHIP1.24の成績で前半戦を折り返した。8月18日のロサンゼルス・ドジャース戦では野茂英雄と、20日のヤンキース戦では伊良部秀輝との対決もあった。9月7日のデトロイト・タイガース戦では延長12回から登板し、4回を1安打無失点8奪三振の好投で3勝目を挙げ、村上雅則の日本人メジャー最多登板数45を更新した。16日のミネソタ・ツインズ戦以降の3試合で再び先発登板したが、0勝1敗、防御率6.00、WHIP1.73と結果を残せなかったが、リリーフとしては後半戦も18試合の登板で2勝2敗、防御率2.54、WHIP1.30と好投した。オフには1年79万ドルでエンゼルスと再契約。

1998年は6月4日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー初セーブを記録し、前半戦は31試合の登板で3勝1敗1セーブ、防御率3.57、WHIP1.26の成績で前半戦を折り返す。8月24日のヤンキース戦では野茂に次ぎ日本人メジャーリーガー2人目となる100試合登板を達成。後半戦は30試合の登板で5勝2敗4セーブ、防御率2.64、WHIP1.15と好投。最終的にチームベストの防御率3.14を記録し、地元メディアの選出する年間チームMVP投票でゲーリー・ディサシーナに次ぐ2位の評価を受けた。オフには1年90万ドルで再契約し、日米野球にも出場する予定だったが、球団からの要請を受け辞退した。

1999年4月18日に1年90万ドル(2年目は年俸90万ドル、3年目は年俸115万ドルの球団オプション)で契約を延長。しかし前半戦は1先発を含む34試合の登板で1勝3敗、防御率4.17、WHIP1.47と調子を落とす。後半戦はトロイ・パーシバルの出場停止処分を受けクローザーも務めるも、30試合の登板で3勝3敗2セーブ、防御率5.97、WHIP1.48と不調に陥った。

2000年は5月に16試合の登板で4勝0敗2セーブ、防御率2.53、WHIP1.31と好調だったが、6月5日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でバリー・ボンズに本塁打を浴びて初黒星。6月は9試合の登板で2勝2敗、防御率5.93、WHIP1.76と不調に陥るが、7月から8月1日のデトロイト・タイガース戦まで20回連続無失点を記録し、8月にはパーシバルの故障を受けてクロ―ザーを務める。9月16日のミネソタ・ツインズ戦で日本人メジャーリーガー史上4人目の10勝目を挙げ、後半戦は30試合の登板で4勝3敗7セーブ、防御率1.84、WHIP1.13と好投を続けた。

2001年は4月13日のマリナーズ戦でオリックス時代の後輩であったイチローと初対決。内野安打を許したが、1勝目を挙げた。5月下旬から6末まで右肩回旋筋板の部分裂傷で初の故障者リスト入りしたが手術は回避。復帰後は8月24日のヤンキース戦で日本人通算200勝目となる4勝目をマーク。最終的にキャリア最少の46試合の登板に終わった。

マリナーズ時代[編集]

2002年1月11日にシアトル・マリナーズと1年200万ドル(2年目は年俸250万ドルの球団オプション)で契約を結んだ。スプリングトレーニングではオリックス時代の後輩であったイチローについて「イチローはまだ使いパシリ。ジュースでも何でも買いに行かせますよ」とコメントしたが、それを聞いた佐々木主浩に「ジュース買ってこい」と逆襲された[1]。シーズン開始直後、ジョン・ハラマからロッカー横のテーピングに日本語で「わにのうで、わにのあし」と書かれるいたずらに遭うが、例年調子の悪かった4月を月間防御率0.00で終え、前半戦は防御率1.01、WHIP0.95と好投を見せ、ハラマのいたずら書きはゲン担ぎとしてロッカーにつけ続けた。しかし8月に4試合連続失点を喫するなど調子を落とし、後半戦は防御率5.45、WHIP1.61と不調に陥った。オフには球団からオプションを行使されなかったが、11月7日に1年180万ドルで契約を延長した。

2003年はそれまで「特殊な持ち方をするんでしっくりこない」という理由で習得を諦めていたフォークツーシームを習得し、前年は通算で39だった奪三振が4月だけで10を記録する好調なスタートを切った。前半戦を失点4の防御率0.81で折り返し、オールスターゲームに出場。後半は佐々木主浩の故障を受けクローザーに起用される。10セーブ目を挙げた8月10日のヤンキース戦で球団新記録となる25試合連続無失点を樹立し、29試合まで記録を更新した。以降は勤続疲労で調子を落とすも、最終的に63試合の登板で2勝16セーブ、防御率1.48、WHIP1.10という好結果を残す。オフには2年630万ドルで契約を延長する。

2004年エディ・グアダードの加入に伴いセットアッパーとして起用される予定だったが、グアダードの故障に伴い開幕当初はクローザーとして起用された。しかしその後はフォームの乱れにより、前年は73回で12だった失点が19.1回を投げた時点で14失点を喫する。終盤には調子を上げ、クローザーに抜擢されたJ.J.プッツの指南役も務めたが、シーズンを通しては与四球率4.10と制球が乱れ、防御率5.16、WHIP1.44と不振に陥った。

2005年は開幕から絶好調で防御率1点台をキープしていたが、6月10日のワシントン・ナショナルズ戦で6失点を喫する。7月24日には日本人初となる500試合登板を達成した。58試合以上の登板で翌年の契約が自動的に更新されるオプションが契約条項にあったが46試合の登板に終わり、オフにはFAとなった。その後、日米数球団からのオファーがあったが「マウンド上でのモチベーションを維持することが困難になった」との理由で2006年1月に正式に引退を表明した。

引退後[編集]

2006年よりスポーツニッポン評論家に就任。

2011年には日米親善少年野球大会でオレンジカウンティー選抜の監督を務め、野茂英雄が監督を務める日本選抜と対戦した。

プレイスタイル[編集]

投球間隔が短い投球テンポと、非常にすばやく足を上げる投球フォームから、最速94mph(約151km/h)の速球(フォーシーム、ツーシームシンカー)、スライダーカットボールチェンジアップフォークボールをコントロール良く投げる。打者がタイミングを取りにくい長谷川の投球フォームはメジャーリーグで生き残るための試行錯誤の結果であり、本人曰く「日本にいた頃はテンポもフォームも球速もとても遅かった」という(事実、日本時代はワインドアップから足を上げてためるような投法であった)。

牽制球も非常に上手く、盗塁によるピンチの拡大をよく防いだ。また、故障も非常に少なく、故障者リストに入ったのも1度だけ。メジャーリーグで9年間マイナー落ちを経験せずに投げ抜き、通算登板数517は日本人選手最多記録である[2]

人物[編集]

メジャーリーグ(以下MLB)で野球をしたいからアメリカに渡ったのではなく、アメリカに住みたいからMLBに行ったといい、永住権も所有している。MLB移籍のかなり以前からシーズンオフのたびにアメリカへ渡り、ホームステイしながら勉強をしていたという英会話は日常会話に不自由しないことはもちろん、アメリカのテレビ局の番組でも、時折ジョークを交えながら他の選手へのインタビュアーを務めることができる腕前であり、エンゼルス入団会見でも通訳をつけず流暢な英語で自己紹介し、エンゼルスについて知っていることについて聞かれた際には「ミッキーがピッチャーでミニーがキャッチャーでしょう[3]。」と英語で答えた。後に日本人向けに英語の上達方法を記した著書も発表した。

大学時代簿記会計は苦手だったそうだが、英語で書かれた経済書を愛読し、ロッカールームウォールストリート・ジャーナルを読む唯一のメジャーリーガーとささやかれるなど野球選手として以上にビジネスマンとしての資質に長けているとの声も多い(冗談まじりのイチローのコメントによれば、練習中も株やビジネスの話ばかりしていたらしい)。更にパソコン好きで一時期インターネットを閲覧し過ぎて肩こりが酷くなった事もあったと語っている[1]

ゴルフの腕前にも優れ、2004年にベスト・アマゴルファーのライアン・ムーアが始球式に登場した際には「チームNo.1ゴルファー」として捕手役に抜擢された[4]

30歳を過ぎてから、日本では全くしてなかったウェイトトレーニングを試したことによって球速が8km/h伸びた。このことが日本でも紹介され、「正しいウェイトトレーニングをすれば、歳をとっても球は速くなる」ことがプロ野球選手に浸透した。スーパースター的選手ではなかったが、努力とインテリジェンスで自分の地位を築き上げた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1991 オリックス 28 25 11 3 0 12 9 1 -- .571 778 185.0 184 15 50 1 6 111 1 1 76 73 3.55 1.26
1992 24 19 4 0 1 6 8 1 -- .429 602 143.1 138 12 51 1 3 86 5 0 60 52 3.27 1.32
1993 23 22 9 3 2 12 6 0 -- .667 660 159.2 146 12 48 1 1 86 3 0 61 48 2.71 1.22
1994 25 22 8 3 0 11 9 1 -- .550 658 156.1 169 12 46 2 2 86 1 1 61 54 3.11 1.38
1995 24 23 9 4 2 12 7 0 -- .632 700 171.0 167 16 51 0 2 91 3 0 62 55 2.89 1.27
1996 18 16 2 0 0 4 6 1 -- .400 406 87.2 109 12 40 1 2 55 0 0 60 52 5.34 1.70
1997 ANA 50 7 0 0 0 3 7 0 -- .300 497 116.2 118 14 46 6 3 83 2 1 60 51 3.93 1.41
1998 61 0 0 0 0 8 3 5 -- .727 401 97.1 86 14 32 2 2 73 5 2 37 34 3.14 1.21
1999 64 1 0 0 0 4 6 2 6 .400 333 77.0 80 14 34 2 2 44 4 0 45 42 4.91 1.48
2000 66 0 0 0 0 10 5 9 19 .667 415 95.2 100 11 38 6 2 59 2 1 42 37 3.48 1.44
2001 46 0 0 0 0 5 6 0 2 .455 235 55.2 52 5 20 5 2 41 2 0 28 25 4.04 1.29
2002 SEA 53 0 0 0 0 8 3 1 8 .727 288 70.1 60 4 30 8 2 39 0 1 26 25 3.20 1.28
2003 63 0 0 0 0 2 4 16 12 .333 283 73.0 62 5 18 3 0 32 0 0 12 12 1.48 1.10
2004 68 0 0 0 0 4 6 0 12 .400 300 68.0 67 5 31 4 2 46 1 1 42 39 5.16 1.44
2005 46 0 0 0 0 1 3 0 2 .250 279 66.2 66 4 16 1 3 30 0 0 31 31 4.19 1.23
NPB:6年 142 127 43 13 5 57 45 4 -- .559 3804 903.0 913 79 286 6 16 515 13 2 380 334 3.33 1.33
MLB:9年 517 8 0 0 0 45 43 33 61 .511 3031 720.1 691 76 265 37 18 447 16 6 323 296 3.70 1.33
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB
MLB

背番号[編集]

  • 17 (1991年 - 1996年、2002年 - 2005年)
  • 21 (1997年 - 2001年)

関連情報[編集]

著書および関連書籍[編集]

  • 『適者生存―長谷川滋利メジャーリーグへの挑戦 1997‐2000』(2000年11月:ぴあ
  • 『メジャーリーグで覚えた僕の英語勉強法』(2001年11月:幻冬舎
  • 『適者生存―メジャーへの挑戦』(2003年9月:幻冬舎文庫)
  • 『不可能を可能にすること 僕のメジャーリーグ日記』(2003年12月:幻冬舎)
  • 『自分管理術―チャンスに勝つ ピンチで負けない』(2005年10月:幻冬舎文庫)
  • 『超一流じゃなくても「成功」できる』(2006年8月:新潮社
  • 『素晴らしき!メジャーリーガー人生』(2006年10月:日経BP社
  • 『素晴らしき日本野球』(2007年4月:新潮社)

出演[編集]

長谷川はアメリカ在住であるため、日本に帰国している時以外は、現地と日本をつないで出演している。

脚注[編集]

  1. ^ 『月刊スラッガー』2002年5月号、49頁。雑誌15509-5。
  2. ^ “登板の通算&年間記録”. MLB日本人選手記録ライブラリ. http://mlbjapanese.web.fc2.com/records/games_played_p.html 
  3. ^ 1997年から2005年にかけてウォルト・ディズニー・カンパニーがエンゼルスの経営に関わっていたことをもじったジョーク。現地のマスコミや関係者には評判が良かった。
  4. ^ 日本人メジャーリーガー・ウォッチング RISING SUN『月刊スラッガー』2004年11月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-11、58頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]