立浪和義
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府吹田市 |
| 生年月日 | 1969年8月19日(43歳) |
| 身長 体重 |
173 cm 70 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 二塁手、三塁手、遊撃手 |
| プロ入り | 1987年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1988年4月8日 |
| 最終出場 | 2009年10月24日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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立浪 和義(たつなみ かずよし、1969年8月19日 - )は、大阪府摂津市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。
現役時代は高卒ルーキーとして入団した年から引退まで中日ドラゴンズの中心として活躍し続けた。3代目「ミスタードラゴンズ」[1]。
現在はフリーの野球解説者、および中日スポーツ、東京中日スポーツの野球評論家。板東英二が社長を務める芸能事務所オフィスメイ・ワークに所属している[2]。
目次 |
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
1969年8月19日、大阪府吹田市で生まれる。本来は右利きだが、幼いころ父親によって左打ちにされたという。王貞治に憧れ、小学4年から茨木ナニワボーイズに加入し野球に打ち込んだ。この時は五厘刈りをためらい入団を決意できずにいたが、母親から「ボーイズに入るなら(嫌いな)算盤はやめてもいい」と言われ、どちらを取るか考えた末に野球を選んだという[3]。
小学2年のころ両親が離婚。これ以降立浪は母親の下で2歳年上の兄とともに育てられていた。母は自宅で化粧品店を営んでおり、閉店後もしばしば配達に出かけるなど忙しい毎日を送っていたため、野球を始めてからもほとんど見に行くことができず、第59回選抜甲子園大会においても決勝戦しか見に行くことができなかったという[4]。
- 1985年
- KKコンビに触発されただけでなく、幼稚園からの幼馴染であった橋本清が先にPL進学を決めた事で一層想いを強くしたため、(中学時代の監督の伝で決まりかけていた大阪商業大学堺高等学校への進学を断って)PL学園へ入学。この時の同期には橋本以外に片岡篤史、野村弘樹(当時は野村弘)、桑田泉らがいる。2年先輩の桑田真澄と野球部合宿所「研志寮」(現在は廃止)で相部屋となる。
- 1987年
- 主将として第59回選抜甲子園大会と第69回夏の甲子園選手権大会の甲子園春夏連覇を達成。
- 1987年のドラフト会議で南海ホークスと中日ドラゴンズが1位で競合し、星野監督がくじを引き当てて中日に入団する[5]。
プロ入り後[編集]
1980年代[編集]
- 1988年
- ヘッドコーチの島野育夫と総合コーチの木俣達彦からも素質を見抜かれ、2番・遊撃手に抜擢される。前年のベストナイン遊撃手の宇野勝を二塁手にコンバートさせてまでの抜擢であった[6]。ただし、春季キャンプが行われたベロビーチのグラウンドにて右肩を痛めてしまい、シーズン終盤から翌年にかけて後遺症を残した。
- 開幕戦でも先発「2番・遊撃手」でフルイニング出場(高卒新人としては球団史上唯一)。開幕戦先発出場を果たしたセ・リーグ高卒新人は、並木輝男(阪神)・王貞治(巨人)以来29年ぶり3人目で、両リーグ合わせても飯田幸夫(近鉄)以来22年ぶり10人目[7]。横浜大洋の開幕投手・欠端光則から6回裏の第3打席に初安打となる二塁打を放ち、高卒新人野手の開幕戦安打は1960年の矢ノ浦国満(近鉄)以来28年ぶり、史上3人目の快挙であった。その後、4番・落合博満の適時打で生還して初得点も記録した(同試合におけるドラゴンズ唯一の得点で、エース・小松辰雄が2失点で敗戦投手)。当時の応援歌は光GENJIの「ガラスの十代」の替え歌。立浪以降の高卒新人開幕スタメンはセでは皆無、パで2006年の炭谷銀仁朗(西武)・2011年の駿太(オリックス)・2013年の大谷翔平(日本ハム)の3名。
- 同年のオールスターゲームには遊撃手部門でファン投票選出され、全セの指揮を執る王監督から3試合連続で出場機会を与えられた。西宮球場での第1戦では8回表代打で津野浩からオールスターゲーム初打席初安打、ナゴヤ球場での第2戦では2番・遊撃手で先発出場したが第1打席は先発阿波野秀幸に外野邪飛に仕留められ、第2・3打席も渡辺久信の前に凡退し3打数無安打に終わった。東京ドームでの第3戦3回表2死まで打者8人をパーフェクトに抑えていた先発西崎幸広に三振を喫した。
- レギュラーシーズン110試合出場し打率.223(6月には2割9分あったが、夏バテによって大幅に落ち込んだという[8])ながら、22盗塁、21犠打を記録し、中日のリーグ優勝に貢献、同年の日本シリーズには全試合先発出場した。守備・走塁技術を高く評価されて新人王を受賞。また、高卒新人としては初のゴールデングラブ賞を受賞した。日本赤十字社のイメージキャラクターに就任。
- 1989年
- 前述した前年春に痛めた右肩の故障の影響でシーズン30試合出場にとどまる。星野の意向により一度は手術が決定し渡米するが、診察したフランク・ジョーブは手術を見送り、「肩のまわりの筋肉を鍛えれば治る」とアドバイスした[9]。この年の故障によって体調の管理に気をつけるようになったと後年語っている。
- 終盤に一軍復帰し、9月20日の巨人戦に先発出場。この試合の第1打席でセンター前ヒットを放つなど、その後閉幕までの19試合の間に打率3割の好成績を残し、翌年の完全復帰をアピールした[10]。
1990年代[編集]
- 1990年
- 前年の故障が尾を引くも痛み止めを飲み続けながら試合に出続けた。復活を遂げ主にリードオフマンとして活躍し、シーズン打率.303、155安打を残す。この年の終盤、打率が3割を切るピンチに直面したがそのまま出場し続け、結果的に3割を維持したままシーズンを終えた。この年のオフに結婚し長女が誕生した。
- 1992年
- 自らこの年就任した高木守道監督に懇願し、遊撃手を種田仁らに譲り、二塁に転向される。この年のキャンプで右の前腕を痛め、そのまま開幕戦に出場。この日は第1打席で二塁打を打ち、7回裏にはレフト席にホームランを放った。しかし試合後、右腕をアイシングしたところ必要以上に腕を氷水に漬けてしまい、結果人差し指が凍傷となってしまった。故障で序盤は欠場したが、2年ぶりの打率3割を記録。
- 1994年
- 6月11日の対巨人戦で松井秀喜の放った強烈な打球を弾いて失策を記録、無失策記録は712回で止まったが監督の高木守道及びコーチの徳武定祐が現役時代に記録した数字を上回るものだった(この記録は後に関本健太郎に破られる)。10.8決戦では8回裏先頭打者として桑田真澄から内野安打を打った際に一塁にヘッドスライディングし左肩を脱臼して負傷退場した[11]。また、この脱臼の後遺症として左肩は痛いままだと本人は引退後に語っている。
- 1995年
- 2度目のゴールデングラブ賞を受賞。この年から3年連続で受賞する。
- 1996年
- この年のオールスターゲームに二塁手部門でファン投票選出。この年は自己最高の.323の打率を残すが、チームメイトのアロンゾ・パウエルや辻発彦との打率争いに敗れ、首位打者獲得はならなかった。
- 10月6日中日の逆転優勝の可能性が残るナゴヤ球場最後の公式戦では、9回裏2死から川口和久に三振を喫し最後の打者となり巨人の優勝が決まった(メークドラマ)。自己最高となるシーズン打率.323を記録(リーグ3位)、ベストナインに選出される。
- 1997年
- 開幕戦の対横浜戦で盛田幸妃から初回先頭打者本塁打を放ち、ナゴヤドーム初の公式戦で同球場第1号本塁打となる。8月22日の対阪神戦ではサイクル安打を達成。しかしシーズンを通しては不調に終わり、チームも最下位に転落。この年に作られた応援歌は成績不振のためかわずか1年で廃止されたが、1999年にPL学園の後輩である福留孝介の応援歌として復活している。
- 1998年
- 久慈照嘉と李鍾範(リー・ジョンボム)の加入で左翼手に転向され、外野守備コーチに就任間もない二宮至の特訓を受ける。広島市民球場での開幕戦(相手の先発は42歳大野豊)に3番・左翼手で出場し4打数無安打。星野監督の故郷倉敷マスカットスタジアムでの阪神戦で川尻哲郎・(前年までの同僚)矢野輝弘のバッテリーにノーヒットノーランを喫した際もフルイニング出場。しかし、同年6月13日の横浜戦では戸叶尚からナゴヤドーム初の満塁本塁打を放った。また、ナゴヤドームで第1戦開催の同年のオールスターゲームに松井、新人の高橋由伸と共に外野手部門でファン投票選出された。外野手部門での選出であったが、ナゴヤドームで開催の第1戦は全セの指揮官のヤクルト監督野村克也に9番・二塁手で先発起用された。結果として、この年は李鍾範の故障があり左翼手だけでなく二塁手を務めることも多かった。
- 1999年
- 中日ドラゴンズの選手会長に就任。李鍾範と入れ替わるように内野手に復帰し開幕戦で「5番・二塁手」で先発出場、6回裏にネイサン・ミンチーから勝利打点となるタイムリー二塁打を放ち、プロ野球タイの開幕11連勝を飾った。打率は2割6分台だったもののチーム最多の勝利打点を記録し、チームの優勝に貢献した。王が率いるダイエーとの日本シリーズ第1戦では13奪三振で完封勝利の工藤公康から4打数2安打、第2戦では若田部健一から先制適時打を放ったが日本一はならなかった。
2000年代[編集]
- 2000年
- 3月31日ヤクルトとの開幕戦で「2番二塁手」として先発も相手の開幕投手石井一久に三振を喫した。5月6日、ナゴヤドームでの対横浜戦で、立浪自身の喫した判定への不満から星野が球審の橘高淳に抗議して胸を突き、同僚の大西崇之が肋骨を骨折させたことでファンから大西・星野と共に刑事告発されるが、起訴猶予処分となっている。詳しくは橘高の項を参照。
- 2001年
- シーズン終盤より三塁手としての出場が多くなる。12月より日本プロ野球選手会理事長に就任。労働組合日本プロ野球選手会副会長も兼任し、選手の地位向上や野球の普及活動にも力を注ぐ。この年、長らく立浪とともに戦ってきた星野が中日監督を辞任。
- 2002年
- シーズン当初は5番打者を任されたが、レオ・ゴメスの帰国に伴い、7月7日から4番打者を任される。この年はチーム最多、自己最高の92打点を記録。5月21日には五十嵐亮太から自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放った[12]。
- 2003年
- 7月5日の対巨人戦(東京ドーム)で、PL学園の先輩である清原和博の前で猛打賞を記録し通算2000本安打を達成。同試合後に日本プロ野球名球会入会記者会見。同年、三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞、通算では日本プロ野球史上初の3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)で受賞となった。直後のオールスターゲームにも監督推薦で選出され、大阪ドームでの第1戦8回先頭打者で原辰徳に代打で起用され、斉藤和巳から二塁打を放った。オフには1999年から務めた球団選手会長を井端弘和に譲る。
- 2004年
- この年は5月と6月に月間MVPを獲得し、チームを5年ぶりのリーグ優勝に導き2度目のベストナインに選出される。この年は古田敦也とともに一時首位打者争いを繰り広げるが、夏場に成績が下降し、またもやタイトルを逃すこととなった。同年の日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)7回裏、松坂大輔から同点弾となる3ラン本塁打を放ち勝利に貢献したが、同シリーズは3勝4敗で惜敗。プロ野球再編問題で球界一の実力者で巨人オーナー退任前後の渡辺恒雄の「たかが選手が・・・」の発言を選手会副会長として批判した。
- 2005年
- 開幕戦は3番・三塁手で先発出場、0-0で迎えた9回裏先頭で横浜先発の三浦大輔から三塁打で出塁、アレックス・オチョアのサヨナラ満塁本塁打で生還。同年は打率こそ低迷したものの、5月19日に札幌ドームでの日本ハムとの交流戦で金村曉から日本プロ野球新記録の通算450本二塁打を放つ。6月4日、球団新記録の2275本安打。
- 2006年
- 4月7日の対巨人戦で上原浩治からサヨナラ満塁本塁打を放つなど2年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、後半戦から森野将彦に正三塁手の座を奪われてからは先発出場から外れるようになった。優勝決定の翌々日10月12日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で片岡篤史の引退試合では志願して先発出場を果たし、試合後に片岡の胴上げに参加した。同月16日の広島でのレギュラーシーズン最終戦では2006年の日本シリーズ備え4番右翼手で先発出場。
- 2008年
- コーチ兼任で臨んだシーズンだったが、開幕から不振でプロ入り後の最低の成績でシーズンを終えた。オフの12月5日、契約更改の終了後に会見を行い、「来年が最後のつもりでやります。1年悔いのないように。思い切って、最後の力を振り絞ってやります」と、2009年限りでの現役引退を示唆した。
- 2009年
- 前年オフに引退を示唆したことで開幕前から注目を集めた。40歳という年齢もあり守備に就くことはあまりなかったが、代打でチームに貢献した。4月24日の対巨人戦では豊田清から同点本塁打を放ちチームの勝利に貢献。入団以来22シーズン連続で本塁打を放った[13]。8月1日に日本プロ野球史上7人目の通算1万打席を達成。シーズン終盤に正式に引退を表明し、9月30日の本拠地最終戦後に引退セレモニーを行った。試合には6番・一塁手で同年シーズン初のスタメン出場(一塁の守備に入るのは初)。2-6で敗れたが、4打数3安打の猛打賞で自らの引退を飾った。また、3安打目は二塁打で、自らの持つ二塁打の日本記録を487に伸ばした。試合後のセレモニーでは桑田真澄、清原和博、片岡篤史らから花束が贈られた。
- その後も10月4日の対阪神最終戦(甲子園)や、10月11日のヤクルトとのレギュラーシーズン最終戦(神宮)で代打出場して凡退した。4日は桧山進次郎から、11日は宮本慎也から、花束が贈呈された。レギュラーシーズンでの現役最終打席は9回表2死無走者の場面で押本健彦から二飛を打った。また10月24日の東京ドームでのクライマックスシリーズ第4戦9回表、7番・藤井淳志の代打として出場が最終打席となり、マーク・クルーンに左飛に仕留められた。
- ドラゴンズファンの間で「背番号3を永久欠番に」という運動が沸き起こり、署名活動も行われたが、2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった[14]。背番号3は2011年から高校の後輩である吉川大幾がつけている。
引退後[編集]
2010年1月6日、ナゴヤドームで「立浪選手に感謝する会」が開催された。2月27日にロッテとのオープン戦で引退記念試合を行った。2010年1月26日、同じく前年限りで現役引退した赤星憲広・清水崇行と共に日本テレビのプロ野球中継解説者となることが発表された(主に中日戦。ただし、中京テレビ(名古屋にある日テレ系局)はナゴヤドームの中日主催試合の放映権が無い。日テレ製作の巨人戦でも中日に絡まない数試合にも出演する)。ゲスト解説者としてCBCのテレビ・ラジオ、フジテレビ、東海テレビ、テレビ愛知の中継にも不定期出演する。また、片岡篤史の後任として北海道文化放送の「スポーツワイド Fの炎」のレギュラー解説者にも起用された。
2011年4月より、野村弘樹と共にフジテレビ『すぽると!』のレギュラー野球解説者を務めている。野村とペアで出演することも年に数回ある。
2012年4月28日には東海テレビのプロ野球ローカル中継では野村と初めてペアで野球中継の解説を務めた。
2012年10月10日に、2013 ワールド・ベースボール・クラシックまでの野球日本代表の打撃コーチへの就任が発表された[15]。
人物[編集]
早期にレギュラーとして定着し、16年連続規定打席到達を記録。代打での出場が多くなった2007年以降でも、代打の準備にネクストバッターズサークルに現れただけで大歓声を受けた。打席に向かう時の歓声は「代打・立浪」のコールが聞こえなくなる事も有る程だった。
通算本塁打は171本と通算安打数10傑に入る選手の中では最も少なく、またシーズン20本塁打に到達したこともない[16]。決して長距離打者とは言えないが、プロ1年目から最終年まで本塁打のなかったシーズンは一度もない。
前述のとおり日本プロ野球記録である二塁打の日本記録487を持ち、プロ初安打もプロ最終安打も二塁打であることから、「ミスター二塁打」の異名もある[17]。立浪本人も「ツーベースに縁があった」と振り返っている。ただ名球会会員の中で、前田智徳や駒田徳広と同様、盗塁王と打撃タイトルを獲っておらず、年間最多二塁打もない。
プロ入り以降遊撃手→二塁手→左翼手→二塁手→三塁手→左翼手→三塁手とメインの守備位置を変えつつ、現役晩年は代打に役割が変わっても、与えられたその役割を全うした。
当時小学生だった福留孝介が高校時代の立浪に憧れ、小学生時代の福留が中日のキャンプを訪れたときにサインをしたことは有名。後に福留が中日入りした際、かつて立浪の応援歌であった曲が応援歌に採用されている。
かつて同僚だったタイロン・ウッズと生年月日が同じであり、共に誕生日を祝うことがあった。
下戸であり、酒が飲めない。TV番組の罰ゲームでマムシ酒を飲まされた際も、山本昌に心配されていた。
プロ入り数年目の時、大学生だった同級生の片岡篤史に小遣いをあげたことがある。立浪曰く「片岡が遊びに来たが、試合後で疲れていてそれどころじゃなかったから小遣いを渡した」[18]。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988 | 中日 | 110 | 403 | 336 | 61 | 75 | 15 | 1 | 4 | 104 | 18 | 22 | 7 | 21 | 0 | 42 | 0 | 4 | 53 | 3 | .223 | .317 | .310 | .626 |
| 1989 | 30 | 100 | 85 | 10 | 20 | 6 | 1 | 2 | 34 | 8 | 3 | 6 | 5 | 0 | 10 | 0 | 0 | 10 | 3 | .235 | .316 | .400 | .716 | |
| 1990 | 128 | 591 | 511 | 73 | 155 | 33 | 6 | 11 | 233 | 45 | 18 | 9 | 14 | 1 | 60 | 1 | 5 | 61 | 3 | .303 | .381 | .456 | .837 | |
| 1991 | 131 | 605 | 520 | 87 | 151 | 35 | 2 | 10 | 220 | 45 | 10 | 8 | 8 | 2 | 74 | 4 | 1 | 69 | 5 | .290 | .379 | .423 | .802 | |
| 1992 | 98 | 438 | 379 | 52 | 114 | 16 | 4 | 5 | 153 | 42 | 8 | 4 | 2 | 4 | 51 | 1 | 2 | 52 | 6 | .301 | .383 | .404 | .787 | |
| 1993 | 128 | 577 | 500 | 73 | 143 | 18 | 3 | 16 | 215 | 50 | 6 | 8 | 3 | 1 | 70 | 0 | 3 | 51 | 3 | .286 | .376 | .430 | .806 | |
| 1994 | 129 | 581 | 489 | 90 | 134 | 27 | 1 | 10 | 193 | 53 | 12 | 2 | 2 | 5 | 83 | 6 | 2 | 50 | 10 | .274 | .378 | .395 | .773 | |
| 1995 | 126 | 557 | 489 | 72 | 147 | 25 | 1 | 11 | 207 | 53 | 10 | 11 | 2 | 3 | 59 | 2 | 4 | 46 | 11 | .301 | .378 | .423 | .802 | |
| 1996 | 130 | 587 | 511 | 91 | 165 | 39 | 2 | 10 | 238 | 62 | 2 | 5 | 3 | 2 | 69 | 0 | 2 | 57 | 12 | .323 | .404 | .466 | .870 | |
| 1997 | 133 | 579 | 495 | 77 | 133 | 24 | 3 | 14 | 205 | 55 | 8 | 5 | 1 | 1 | 77 | 4 | 5 | 42 | 13 | .269 | .372 | .414 | .786 | |
| 1998 | 134 | 589 | 504 | 60 | 137 | 24 | 1 | 8 | 187 | 43 | 6 | 6 | 3 | 4 | 74 | 4 | 4 | 60 | 8 | .272 | .367 | .371 | .738 | |
| 1999 | 123 | 477 | 417 | 54 | 111 | 32 | 1 | 4 | 157 | 53 | 3 | 2 | 4 | 4 | 51 | 1 | 1 | 44 | 14 | .266 | .345 | .376 | .721 | |
| 2000 | 126 | 503 | 436 | 58 | 132 | 30 | 3 | 9 | 195 | 58 | 5 | 0 | 16 | 2 | 46 | 1 | 3 | 43 | 13 | .303 | .372 | .447 | .819 | |
| 2001 | 139 | 576 | 507 | 52 | 148 | 30 | 2 | 9 | 209 | 65 | 6 | 1 | 7 | 6 | 54 | 4 | 2 | 54 | 9 | .292 | .359 | .412 | .771 | |
| 2002 | 137 | 562 | 506 | 62 | 153 | 34 | 2 | 16 | 239 | 92 | 4 | 9 | 1 | 4 | 45 | 3 | 6 | 55 | 10 | .302 | .364 | .472 | .836 | |
| 2003 | 135 | 569 | 500 | 52 | 140 | 28 | 2 | 13 | 211 | 80 | 2 | 4 | 0 | 10 | 52 | 2 | 7 | 72 | 13 | .280 | .350 | .422 | .772 | |
| 2004 | 134 | 580 | 523 | 68 | 161 | 25 | 0 | 5 | 201 | 70 | 5 | 3 | 1 | 6 | 45 | 2 | 5 | 52 | 12 | .308 | .364 | .384 | .749 | |
| 2005 | 138 | 580 | 501 | 57 | 127 | 25 | 1 | 9 | 181 | 56 | 2 | 0 | 0 | 6 | 68 | 1 | 5 | 76 | 15 | .253 | .345 | .361 | .706 | |
| 2006 | 113 | 284 | 259 | 17 | 68 | 10 | 1 | 1 | 83 | 31 | 3 | 1 | 3 | 3 | 17 | 2 | 2 | 28 | 6 | .263 | .310 | .320 | .630 | |
| 2007 | 101 | 129 | 109 | 4 | 30 | 2 | 1 | 2 | 40 | 31 | 0 | 0 | 0 | 3 | 16 | 3 | 1 | 14 | 2 | .275 | .364 | .367 | .731 | |
| 2008 | 86 | 86 | 73 | 2 | 15 | 4 | 0 | 1 | 22 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 11 | 3 | 1 | 11 | 2 | .205 | .314 | .301 | .615 | |
| 2009 | 77 | 80 | 66 | 3 | 21 | 5 | 0 | 1 | 29 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1 | 12 | 1 | 1 | 7 | 1 | .318 | .425 | .439 | .864 | |
| 通算:22年 | 2586 | 10033 | 8716 | 1175 | 2480 | 487 | 38 | 171 | 3556 | 1037 | 135 | 91 | 96 | 69 | 1086 | 45 | 66 | 1007 | 174 | .285 | .366 | .408 | .773 | |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
表彰[編集]
- 新人王 (1988年)
- ベストナイン:2回 (1996年=二塁手、2004年=三塁手)
- ゴールデングラブ賞:5回 (1988年=遊撃手、1995年 - 1997年=二塁手、2003年=三塁手)※3ポジションでの受賞は最多
- 月間MVP:3回(2002年6月、2004年5月、2004年6月)
- 優秀JCB・MEP賞:3回 (1991年、1992年、2000年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (2001年8月=最多二・三塁打賞)
記録[編集]
- 日本記録
- 通算二塁打:487
- シーズン30二塁打以上:7度
- サヨナラ満塁本塁打:2度(タイ記録)
- 1試合5安打:5度(タイ記録)
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1988年4月8日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(ナゴヤ球場)、2番・遊撃手として先発出場
- 初安打:同上、6回裏に欠端光則から右翼線二塁打
- 初本塁打・初打点:1988年4月17日、対読売ジャイアンツ3回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に加藤初から
- 初盗塁:1988年5月8日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)
- 節目の記録
- 1000本安打:1996年6月2日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回表に斎藤雅樹から左前安打 ※史上183人目
- 1000試合出場:1996年9月21日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、3番・二塁手として先発出場 ※史上338人目
- 100本塁打:1998年8月19日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、3回表に北川哲也から右越ソロ ※史上199人目
- 300二塁打:2000年4月7日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、7回表に河原隆一から左中間へ二塁打 ※史上36人目
- 1500本安打:2000年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に高橋建から中前安打 ※史上80人目
- 1500試合出場:2000年8月29日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)、5番・二塁手として先発出場 ※史上128人目
- 350二塁打:2001年9月2日、対横浜ベイスターズ23回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に川村丈夫から ※史上22人目
- 400二塁打:2003年6月26日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、1回表にジェイソン・ベバリンから ※史上9人目
- 1000得点:同上、1回表にアレックス・オチョアの2点適時打で生還して記録 ※史上30人目
- 2000本安打:2003年7月5日、対読売ジャイアンツ16回戦(東京ドーム)、8回表に林昌範から右前安打 ※史上30人目
- 2000試合出場:2004年6月29日、対広島東洋カープ13回戦(福井県営球場)、3番・三塁手として先発出場 ※史上34人目
- 150本塁打:2003年9月30日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、7回表に酒井大輔から右越ソロ ※史上130人目
- 450二塁打:2005年5月19日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、3回表に金村曉から ※史上初
- 1000四球:2005年6月22日、対阪神タイガース8回戦(大阪ドーム)、7回表に橋本健太郎から ※史上11人目
- 1000打点:2007年8月24日、対阪神タイガース17回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に渡辺亮から右前適時打 ※史上32人目
- 2500試合出場:2008年9月16日、対阪神タイガース22回戦(ナゴヤドーム)、7回裏にチェン・ウェインの代打として出場 ※史上7人目
- 1000三振:2008年10月5日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、8回表に豊田清から ※史上43人目
- 10000打席:2009年8月1日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(明治神宮野球場)、7回表に小笠原孝の代打として出場 ※史上7人目
- その他の記録
- 最多得点:2回(1991年、1994年)
- 最多出塁:1回(1996年)
- オールスターゲーム出場:11回 (1988年、1991年、1994年-1998年、2000年、2002年-2004年)
- サイクルヒット:1回(1997年8月22日、対阪神タイガース戦、ナゴヤドーム) ※史上47人目
背番号[編集]
- 3 (1988年 - 2009年)
関連情報[編集]
著書[編集]
- 『負けん気』(文芸社、2010/2、ISBN 978-4286088532)
- 『立浪和義 超打撃術 名手に学ぶプロフェッショナル野球論』(ベースボールマガジン社、2011/2、ISBN 978-4583103341)
- 『立浪&野村が教える! 野球少年が親子でうまくなるプロ思考』(共著:野村弘樹 集英社、2012/9 ISBN 978-4087806595)
関連書籍・DVD[編集]
- 『PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?』(橋本清(著)、ぴあ、2009/3、橋本清が第3章で立浪を取材、ISBN 978-4835617282)
- 『日刊スポ-ツグラフ 立浪和義 さらばミスタ-ドラゴンズ』(日刊スポーツ出版社、2009/11、ISBN 978-4817254665)
- 『立浪和義公式写真集』(中日新聞社出版部(著)、2009/11、ISBN 978-4806206002)
- 『立浪和義 引退記念DVD ミスタードラゴンズ 22年間の軌跡』(コロムビアミュージックエンタテインメント、2009/12)
- 『立浪和義の野球塾 プロへの道標 通算2480安打の巧打者が贈るバッティング理論 [DVD]』(竹緒、2010/6)
出演番組[編集]
- Dramatic Game 1844(日本テレビ、中京テレビ解説者=主に中日戦だが、中日に絡まない試合も数試合担当)
- 侍プロ野球(CBCテレビ=ゲスト解説)
- enjoy! Baseball(フジテレビ、東海テレビ=ゲスト解説)
- テレビ愛知 10チャンベースボール(テレビ愛知=ゲスト解説)
- CBCドラゴンズナイター・サタデー・サンデー(CBCラジオ=ゲスト解説)
- サンデードラゴンズ(CBCテレビテレビ=不定期)コメンテーターとして出演
- すぽると!(フジテレビ)2011年4月よりレギュラー野球解説者
- pluspo(東海テレビ放送=不定期)コメンテーターとして出演
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送=2010年4月22日の巨人対横浜戦でゲスト解説)
- 世界ふしぎ発見!(2010年4月17日、TBS系)ゲスト解答者
- 探偵!ナイトスクープ(2010年6月4日、朝日放送)板東とともにゲスト出演
- 中井正広のブラックバラエティ(2010年―月―日、日本テレビ系)ゲスト出演
脚注[編集]
- ^ 初代は西沢道夫、2代目は高木守道である。星野仙一も阪神タイガースの監督に就任する以前はこの愛称で呼ばれることがあった。
- ^ 板東英二オフィシャルブログ
- ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、68‐69頁
- ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、66‐67頁
- ^ 。当時中日は慶應義塾大学のエース鈴木哲を指名する予定であったが、翌年夏のソウルオリンピックを目指して社会人野球に進むことを宣言したため、立浪に切り替えた。立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、11‐12頁
- ^ 1988年 ウーやんもビックリ!ルーキー立浪和義、開幕スタメン早くも確約 Sponichi Annex 日めくりプロ野球 2009年1月12日
- ^ http://www.npb.or.jp/cl/entertaiment/record/pdf/2010/12.pdf
- ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、47頁
- ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、55‐58頁
- ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、58 - 59頁
- ^ ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック1990年~1994年 コミュファラジオ
- ^ ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック2000年~2004年 コミュファラジオ
- ^ 日本記録は張本勲の23年、入団以来を除けば野村克也の25年
- ^ 森野、背番号「3」返上 中日スポーツ 2009年12月10日
- ^ http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a3%d7%a3%c2%a3%c3&k=201210/2012101000639
- ^ シーズン最多本塁打は1993年と2002年に記録した16本塁打である。
- ^ 立浪燃えた「ミスター二塁打」面目躍如 日刊スポーツ 2008年8月22日
- ^ ガンバレ日本プロ野球!?出演時の本人の発言
関連項目[編集]
- 大阪府出身の人物一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 平沼定晴(立浪が最高に信頼していた打撃投手)
- SSK(CMに出演。ラストに女性がさした日傘に当たって跳ね返ってきたボールを打ち返している)
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 立浪和義 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- 「立浪和義 感謝」引退独占手記 中日スポーツ 2009年10月1日
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