立浪和義

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立浪 和義
Tatsunami 1.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府吹田市
生年月日 1969年8月19日(45歳)
身長
体重
173 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手三塁手遊撃手左翼手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年4月8日
最終出場 2009年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2008 - 2009)

立浪 和義(たつなみ かずよし、1969年8月19日 - )は、大阪府吹田市出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

現在はフリーの野球解説者、および中日スポーツ東京中日スポーツ野球評論家

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1969年8月19日大阪府吹田市で生まれる。本来は右利きだが、幼いころ父親によって左打ちにされたという。王貞治に憧れ、小学校4年生から茨木ナニワボーイズに加入し野球に打ち込んだ。この時は五厘刈りをためらい入団を決意できずにいたが、母親から「ボーイズに入るなら(嫌いな)算盤はやめてもいい」と言われ、どちらを取るか考えた末に野球を選んだという[1]

小学校2年生の時、両親が離婚。立浪はこれ以降、母親の元で2歳年上の兄とともに育てられていた。母は自宅で化粧品店を営んでおり、閉店後もしばしば配達に出かけるなど忙しい毎日を送っていたため、野球を始めてからもほとんど見に行くことができず、第59回選抜甲子園大会においても決勝戦しか見に行くことができなかったという[2]

1985年
KKコンビに触発されただけでなく、幼稚園からの幼馴染であった橋本清が先にPL進学を決めた事で一層想いを強くしたため、(中学時代の監督の伝で決まりかけていた大阪商業大学堺高等学校への進学を断って)PL学園高等学校へ入学。この時の同期には橋本以外に片岡篤史野村弘樹(当時は野村弘)、桑田泉らがいる。2年先輩の桑田真澄と野球部合宿所「研志寮」(現在は廃止)で相部屋となる。
1987年
主将として第59回選抜甲子園大会第69回夏の甲子園選手権大会の甲子園春夏連覇を達成。春の甲子園優勝後から立浪の名前がドラフト指名候補に挙がるようになったが、当時の評価は5位・6位と決して高いものではなく、PLの中村順司監督も「身体も大きくないのだから、それぐらいの評価なら大学社会人で野球を続けて、それからプロに進んでも遅くない」と、当時点でのプロ入りには否定的であった。
その後、夏の甲子園では3番・遊撃手で21打数9安打、2本塁打、8打点の好成績を残し、優勝の一翼を担った。これにより、各球団スカウトの評価も「ドラフト2位指名は確実。外れ1位の可能性もある」と大幅に上がった。そんな中、南海ホークス杉浦忠監督が早々とドラフト1位指名の方針を固め、PL学園の顧問に対し「どうしても立浪君が欲しい。ドラフト1位で指名する」と連絡を入れている。ちなみに立浪を1位と評価したのは当時南海のみであり、他球団の評価は2位もしくは3位であった。このことや南海が地元である大阪府・大阪球場を本拠地としていたこともあり、この頃から立浪は南海入りを強く望むようになっていた。実際、南海側も「来季から湯上谷、立浪のフレッシュ二遊間で売り出す」と球団を挙げて公言するなど、立浪に対して大きな期待を寄せていた。しかしその反面、当時のセントラル・リーグパシフィック・リーグの人気格差や、読売ジャイアンツの監督であった王への憧れから「できればセ・リーグでプレーしたい」という思いも抱いていたという[3]
1987年のドラフト会議で南海と中日ドラゴンズが1位で競合し、南海・杉浦監督と中日・星野仙一監督のくじ引きに。結局、星野監督が当たりくじを引き当てて中日が交渉権を獲得、中日に入団する。当時中日は慶應義塾大学のエース鈴木哲を指名する予定であったが、翌年夏のソウルオリンピックを目指して社会人野球に進むことを宣言したため、ドラフト会議2日前に急きょ立浪に切り替え、関西地区担当スカウト(当時)の中田宗男がその旨を伝えた。なお、立浪本人は前述のセ・リーグへの憧れからドラフト会議前夜に寮のベランダに出ていたところ、偶然目の前に現れた流れ星を見て中日入団を願ったという[4]
中日入団が決まった直後、前述の経緯から杉浦監督に謝辞を書いている。それに対して、杉浦は「ドラフトで立浪君を引き当てることができなかったのは自分の不徳のせい」「このような心が熱くなる手紙をもらったのは今回が初めて」などと述べた上で、最後に「どうか、中日ドラゴンズで思い切り、羽ばたいてください」と返している。その後中日との入団交渉に臨み、スカウトから背番号の候補として(当時1ケタで空き番号であった)35を提示され、3を選択した。立浪は「一桁の背番号で一番格好いいのは3だといつも思っていた」という[5]

プロ入り後[編集]

1988年
ヘッドコーチの島野育夫と総合コーチの木俣達彦からも素質を見抜かれ、春季キャンプを一軍でスタートし、2番・遊撃手に抜擢される。前年のベストナイン遊撃手宇野勝二塁手コンバートさせてまでの抜擢であった[6]。これに対しても宇野は一切立浪に対し不満や愚痴をぶつけることはなく、むしろやりやすい環境を作ってくれたという[7]。ただし、春季キャンプが行われたベロビーチのグラウンドでの練習中、バランスを崩して右手を突いたとき右肩を痛めてしまい、シーズン終盤から翌年にかけて後遺症を残した。
開幕戦でも先発「2番・遊撃手」でフルイニング出場(高卒新人としては球団史上唯一)。開幕戦先発出場を果たしたセ・リーグ高卒新人は、並木輝男阪神)・王貞治巨人)以来29年ぶり3人目で、両リーグ合わせても飯田幸夫近鉄)以来22年ぶり10人目[8]横浜大洋開幕投手欠端光則から6回裏の第3打席に初安打となる二塁打を放ち、高卒新人野手の開幕戦安打は1960年の矢ノ浦国満(近鉄)以来28年ぶり、史上3人目の快挙であった。その後、4番・落合博満適時打で生還して初得点も記録した(同試合におけるドラゴンズ唯一の得点で、エース・小松辰雄が2失点で敗戦投手)。当時の応援歌は光GENJIの「ガラスの十代」の替え歌。立浪以降の高卒新人開幕スタメンはセでは皆無、パで2006年炭谷銀仁朗(西武)・2011年駿太オリックス)・2013年大谷翔平日本ハム)の3名。
同年のオールスターゲームには遊撃手部門でファン投票選出され、全セの指揮を執る王監督から3試合連続で出場機会を与えられた。西宮球場での第1戦では8回表代打津野浩からオールスターゲーム初打席初安打、ナゴヤ球場での第2戦では2番・遊撃手で先発出場したが第1打席は先発阿波野秀幸に外野邪飛に仕留められ、第2・3打席も渡辺久信の前に凡退し3打数無安打に終わった。東京ドームでの第3戦3回表2死まで打者8人をパーフェクトに抑えていた先発西崎幸広に三振を喫した。
レギュラーシーズン110試合出場し打率.223(6月には2割9分あったが、夏バテによって大幅に落ち込んだという[9])ながら、22盗塁、21犠打を記録し、中日のリーグ優勝に貢献、同年の日本シリーズには全試合先発出場した。守備・走塁技術を高く評価されて新人王を受賞。また、高卒新人としては初のゴールデングラブ賞を受賞した。しかしその一方、日本シリーズ終了時には前述の右肩痛が悪化、まともにボールが投げられないほどの痛みになっていたという[10]日本赤十字社のイメージキャラクターに就任。
1989年
前述した前年春に痛めた右肩の故障の影響で開幕を二軍で迎え、6月に1度は一軍昇格するも2週間で降格させられる。結局この年はシーズン30試合出場にとどまる。星野の意向により一度は手術が決定し8月に渡米するが、診察したフランク・ジョーブは手術を見送り、「肩のまわりの筋肉を鍛えれば治る」とアドバイスした[11]。この年の故障によって体調の管理に気をつけるようになったと後年語っている。
終盤に一軍復帰し、9月20日の巨人戦に先発出場。この試合の第1打席でセンター前ヒットを放つなど、その後閉幕までの19試合の間に打率3割の好成績を残し、翌年の完全復帰をアピールした[12]
1990年
前年の故障が尾を引くも痛み止めを飲み続けながら試合に出続け、初めて遊撃手のポジションで128試合に出場。復活を遂げ主にリードオフマンとして活躍し、シーズン打率.303、155安打を残す。この年の終盤、打率が3割を切るピンチに直面したがそのまま出場し続け、結果的に3割を維持したままシーズンを終えた。このことが大きな自信になったと本人は語っている[13]。この年のオフに結婚し長女が誕生した。
1991年
藤田元司の抜擢でオールスターゲームに自身初の監督推薦で出場。東京ドームでの第1戦に1番・二塁で先発出場したが、初回表先頭打者として野茂英雄に三振を喫した。この年、星野監督が辞任する。
1992年
自らこの年就任した高木守道監督に懇願し、遊撃手を種田仁らに譲り、二塁に転向される。この年のキャンプで右の前腕を痛め、そのまま4月4日の開幕戦に出場。この日は第1打席で二塁打を打ち、7回裏にはレフト席にホームランを放った。しかし試合後、右腕をアイシングしたところ必要以上に腕を氷水に漬けてしまい、結果人差し指凍傷となってしまった。このことをトレーナーは把握していたが、立浪の意志で監督やコーチには伝えられなかった。結局、その後も凍傷で動かなくなった人差し指を抱えながらも様々な記録を残していくこととなる[14]。故障で序盤は欠場したが、2年ぶりの打率3割を記録。しかし、チームは立浪入団後初の最下位に終わる。
1993年
6月11日からシーズン守備機会連続無失策を続け、それまでの記録を更新。シーズン守備率.997を残し、記録を継続したままシーズンを終える。この年から専用応援歌が変更される。
1994年
6月11日の対巨人戦で松井秀喜の放った強烈な打球を弾いて失策を記録、無失策記録は712回で止まったが監督の高木守道及びコーチの徳武定祐が現役時代に記録した数字を上回るものだった(この記録は後に関本健太郎に破られる)。10.8決戦では8回裏先頭打者として桑田真澄から内野安打を打った際に一塁にヘッドスライディングし左肩を脱臼して負傷退場した[15]。また、この脱臼の後遺症として左肩は痛いままだと本人は引退後に語っている。
1995年
2度目のゴールデングラブ賞を受賞。この年から3年連続で受賞する。
1996年
この年に星野監督が復帰。この年のオールスターゲームに二塁手部門でファン投票選出。この年は自己最高の.323の打率を残すが、チームメイトのアロンゾ・パウエル辻発彦との打率争いに敗れ(リーグ3位)、首位打者獲得はならなかった。この年、自身初のベストナインに選出される。
10月6日中日の逆転優勝の可能性が残るナゴヤ球場最後の公式戦では、9回裏2死から川口和久に三振を喫し最後の打者となり巨人の優勝が決まった(メークドラマ)。
1997年
開幕戦の対横浜戦で盛田幸妃から初回先頭打者本塁打を放ち、ナゴヤドーム初の公式戦で同球場第1号本塁打となる。8月22日の対阪神戦ではサイクル安打を達成。しかしシーズンを通しては不調に終わり、チームも最下位に転落。この年に作られた応援歌は成績不振のためかわずか1年で廃止されたが、1999年PL学園の後輩である福留孝介の応援歌として復活、歌詞変更を経て福留が退団した2007年まで使用された。
1998年
久慈照嘉李鍾範の加入で左翼手に転向し、外野守備コーチに就任間もない二宮至の特訓を受ける。広島市民球場での開幕戦に3番・左翼手で出場し4打数無安打。5月26日、星野監督の故郷・倉敷マスカットスタジアムでの阪神戦で川尻哲郎矢野輝弘のバッテリーにノーヒットノーランを喫した際もフルイニング出場していた。同年6月13日の横浜戦では戸叶尚からナゴヤドーム初の満塁本塁打を放った。また、ナゴヤドームで第1戦が開催された同年のオールスターゲームに松井、新人の高橋由伸と共に外野手部門でファン投票選出された。外野手部門での選出であったが、ナゴヤドームで開催の第1戦は全セの指揮官のヤクルト監督野村克也に9番・二塁手で先発起用された。結果として、この年は李鍾範の故障があり左翼手だけでなく二塁手を務めることも多かった。
1999年
中日ドラゴンズの選手会長に就任。李鍾範と入れ替わるように内野手に復帰し開幕戦で「5番・二塁手」で先発出場、6回裏にネイサン・ミンチーからバットを折りながらもライト前に勝利打点となるタイムリーを放った。開幕戦で立浪のタイムリーにより開幕戦に逆転勝利し、そこから中日はプロ野球タイの開幕11連勝を飾った。打率は2割6分台だったもののチーム最多の勝利打点を記録し、チームの優勝に貢献した。王が率いるダイエーとの日本シリーズ第1戦では13奪三振で完封勝利の工藤公康から4打数2安打、第2戦では若田部健一から先制適時打を放った。
2000年
開幕戦は2番打者を任されたが、4月途中から5番打者に戻った。4月13日広島戦(ナゴヤドーム)で高橋建投手から通算1500安打を記録する。この年は4年ぶりに打率3割に到達した。
2001年
シーズン終盤より三塁手としての出場が多くなる。12月より日本プロ野球選手会理事長に就任。労働組合日本プロ野球選手会副会長も兼任し、選手の地位向上や野球の普及活動にも力を注ぐ。この年、長らく立浪とともに戦ってきた星野が中日監督を辞任。
2002年
シーズン当初は5番打者を任されたが、レオ・ゴメスの帰国に伴い、7月7日から4番打者を任される。この年はチーム最多、自己最高の92打点を記録。5月21日には五十嵐亮太から自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放った[16]
2003年
シーズン当初は3番打者を任されたが、この年も途中から4番打者を任される。7月5日の対巨人戦(東京ドーム)で、PL学園の先輩である清原和博の前で猛打賞を記録し通算2000本安打を達成。同試合後に日本プロ野球名球会入会記者会見。同年、三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞、通算では日本プロ野球史上初の3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)で受賞となった。直後のオールスターゲームにも監督推薦で選出され、大阪ドームでの第1戦8回先頭打者で原辰徳に代打で起用され、斉藤和巳から二塁打を放った。オフには1999年から務めた球団選手会長を井端弘和に譲る。
2004年
開幕から3番・三塁手を務めた。この年は5月6月月間MVPを獲得し、チームを5年ぶりのリーグ優勝に導き2度目のベストナインに選出される。この年は古田敦也とともに一時首位打者争いを繰り広げるが、夏場に成績が下降し、またもやタイトルを逃すこととなった。同年の日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)7回裏、松坂大輔から同点弾となる3ラン本塁打を放ち勝利に貢献したが、同シリーズは3勝4敗で惜敗。プロ野球再編問題で球界一の実力者で巨人オーナー退任前後の渡辺恒雄の「たかが選手が・・・」の発言を選手会副会長として批判した。
2005年
開幕戦は3番・三塁手で先発出場、0-0で迎えた9回裏先頭で横浜先発の三浦大輔から三塁打で出塁、アレックス・オチョアのサヨナラ満塁本塁打で生還。同年は打率こそ低迷したものの、5月19日に札幌ドームでの日本ハムとの交流戦金村曉から日本プロ野球新記録の通算450本二塁打を放つ。6月4日、球団新記録の2275本安打。この年は序盤は三塁手だけでなく、イップスになり三塁守備に自信をなくした本人の志願もあり左翼手として起用されることも多かった。
2006年
三塁手の座を森野将彦と争っていたが、その森野将彦の故障により前半戦は三塁手として先発出場をする。4月7日の対巨人戦で上原浩治からサヨナラ満塁本塁打を放つなど2年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、後半戦から森野将彦に正三塁手の座を奪われてからは先発出場から外れるようになった[17]。優勝決定の翌々日10月12日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で片岡篤史の引退試合では志願して先発出場を果たし、試合後に片岡の胴上げに参加した。同月16日の広島でのレギュラーシーズン最終戦では日本シリーズに備え4番右翼手で先発出場、この試合以降は後述する2009年9月30日まで守備に就いてのスタメン出場は無かった。
2007年
中村紀洋の加入もあり出場機会が減ったものの、開幕戦で決勝打を放つなど、代打の切り札として活躍し、代打としての年間最多出場記録を樹立。日本シリーズ制覇やアジアシリーズ制覇に貢献。同年オフより打撃コーチを兼任。
2008年
コーチ兼任で臨んだシーズンだったが、開幕から不振でプロ入り後の最低の成績でシーズンを終えた。オフの12月5日、契約更改の終了後に会見を行い、「来年が最後のつもりでやります。1年悔いのないように。思い切って、最後の力を振り絞ってやります」と、2009年限りでの現役引退を示唆した。
2009年
前年オフに引退を示唆したことで開幕前から注目を集めた。40歳という年齢もあり守備に就くことは後述する本拠地最終戦までなかったが、代打でチームに貢献した。4月24日の対巨人戦では豊田清から同点本塁打を放ちチームの勝利に貢献。入団以来22シーズン連続で本塁打を放った[18]。8月1日に日本プロ野球史上7人目の通算1万打席を達成。シーズン終盤に正式に引退を表明し、9月30日の本拠地最終戦後に引退セレモニーを行った。試合には6番・一塁手で同年シーズン初のスタメン出場[19]。2-6で敗れたが、4打数3安打の猛打賞で自らの引退を飾った。また、3安打目は二塁打で、自らの持つ二塁打の日本記録を487に伸ばした。試合後のセレモニーでは桑田真澄、清原和博、片岡篤史らから花束が贈られた。
その後も10月4日の対阪神最終戦(甲子園)や、10月11日のヤクルトとのレギュラーシーズン最終戦(神宮)で代打出場して凡退した。4日は桧山進次郎から、11日は宮本慎也から、花束が贈呈された。レギュラーシーズンでの現役最終打席は9回表2死無走者の場面で押本健彦から二飛を打った。また10月24日の東京ドームでのクライマックスシリーズ第4戦9回表、7番・藤井淳志の代打として出場が最終打席となり、マーク・クルーンに左飛に仕留められた。
ドラゴンズファンの間で「背番号3を永久欠番に」という運動が沸き起こり、署名活動も行われたが、2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった[20]。背番号3は2011年から高校の後輩である吉川大幾がつけている。

引退後[編集]

2010年1月6日、ナゴヤドームで「立浪選手に感謝する会」が開催された。2月27日にロッテとのオープン戦で引退記念試合を行った。2010年1月26日、同じく前年限りで現役引退した赤星憲広清水崇行と共に日本テレビのプロ野球中継解説者となることが発表された(主に中日戦。ただし、中京テレビ(名古屋にある日テレ系局)はナゴヤドームの中日主催試合の放映権が無い。日テレ製作の巨人戦でも中日に絡まない数試合にも出演する)。ゲスト解説者としてCBCテレビCBCラジオフジテレビ東海テレビテレビ愛知の中継にも不定期出演する。また、片岡篤史の後任として北海道文化放送の「スポーツワイド Fの炎」のレギュラー解説者にも起用された。

2011年4月より、野村弘樹と共にフジテレビ『すぽると!』のレギュラー野球解説者を務めている。野村とペアで出演することも年に数回ある。

2012年4月28日には東海テレビのプロ野球ローカル中継では野村と初めてペアで野球中継の解説を務めた。

2012年10月10日に、2013 ワールド・ベースボール・クラシックまでの野球日本代表の打撃コーチへの就任が発表された[21]

2013年のオフには、高木の監督退任に伴い中日の次期監督候補の一人として名前が挙がったが実現しなかった。なお一部によると立浪は落合が監督を辞任した2011年のオフにも次期監督候補に挙がっていたと言われている。

人物[編集]

早期にレギュラーとして定着し、16年連続規定打席到達を記録。代打での出場が多くなった2007年以降でも、代打の準備にネクストバッターズサークルに現れただけで大歓声を受けた。打席に向かう時の歓声は「代打・立浪」のコールが聞こえなくなる事も有る程だった。

通算本塁打は171本であり、これは日本プロ野球界の通算安打数ベストテンに入る選手の中では最少であると共に、その中で200本塁打に到達していないのは立浪のみである。またシーズン20本塁打に到達したこともない[22]。決して長距離打者とは言えないが、プロ1年目から最終年まで本塁打のなかったシーズンは一度もない。

前述のとおり日本プロ野球記録である二塁打の日本記録487を持ち、プロ初安打もプロ最終安打も二塁打であることから、「ミスター二塁打」の異名もある[23]。立浪本人も「ツーベースに縁があった」と振り返っている。ただ名球会会員の中で、前田智徳駒田徳広と同様、盗塁王打撃タイトルを獲っておらず、年間最多二塁打もない。

プロ入り以降遊撃手→二塁手→左翼手→二塁手→三塁手→左翼手→三塁手とメインの守備位置を変えつつ、現役晩年は代打に役割が変わっても、与えられたその役割を全うした。

当時小学生だった福留孝介が高校時代の立浪に憧れ、小学生時代の福留が中日のキャンプを訪れたときにサインをしたことは有名。後に福留が中日入りした際、かつて立浪の応援歌であった曲が応援歌に採用されている。

「国連の友 Asia-Pacific」と株式会社アスリートジャパンが協力して国際連合のプログラム「発展と平和のためのスポーツ」を支援する取り組み「ピースプログラム」 で社会貢献、世界各国の平和活動に賛同し、活動している。

東日本大震災の被災者支援のため、シャワーコンテナを寄贈している。

かつて同僚だったタイロン・ウッズと生年月日が同じであり、共に誕生日を祝うことがあった。

下戸であり、酒が飲めない[要出典]

プロ入り数年目の時、大学生だった同級生の片岡篤史に小遣いをあげたことがある。立浪曰く「片岡が遊びに来たが、試合後で疲れていてそれどころじゃなかったから小遣いを渡した」[24]

現役時代は高卒ルーキーとして入団した年から引退まで中日ドラゴンズの中心として活躍し続けたことから3代目「ミスタードラゴンズ」と呼ばれている。[25]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1988 中日 110 403 336 61 75 15 1 4 104 18 22 7 21 0 42 0 4 53 3 .223 .317 .310 .626
1989 30 100 85 10 20 6 1 2 34 8 3 6 5 0 10 0 0 10 3 .235 .316 .400 .716
1990 128 591 511 73 155 33 6 11 233 45 18 9 14 1 60 1 5 61 3 .303 .381 .456 .837
1991 131 605 520 87 151 35 2 10 220 45 10 8 8 2 74 4 1 69 5 .290 .379 .423 .802
1992 98 438 379 52 114 16 4 5 153 42 8 4 2 4 51 1 2 52 6 .301 .383 .404 .787
1993 128 577 500 73 143 18 3 16 215 50 6 8 3 1 70 0 3 51 3 .286 .376 .430 .806
1994 129 581 489 90 134 27 1 10 193 53 12 2 2 5 83 6 2 50 10 .274 .378 .395 .773
1995 126 557 489 72 147 25 1 11 207 53 10 11 2 3 59 2 4 46 11 .301 .378 .423 .802
1996 130 587 511 91 165 39 2 10 238 62 2 5 3 2 69 0 2 57 12 .323 .404 .466 .870
1997 133 579 495 77 133 24 3 14 205 55 8 5 1 1 77 4 5 42 13 .269 .372 .414 .786
1998 134 589 504 60 137 24 1 8 187 43 6 6 3 4 74 4 4 60 8 .272 .367 .371 .738
1999 123 477 417 54 111 32 1 4 157 53 3 2 4 4 51 1 1 44 14 .266 .345 .376 .721
2000 126 503 436 58 132 30 3 9 195 58 5 0 16 2 46 1 3 43 13 .303 .372 .447 .819
2001 139 576 507 52 148 30 2 9 209 65 6 1 7 6 54 4 2 54 9 .292 .359 .412 .771
2002 137 562 506 62 153 34 2 16 239 92 4 9 1 4 45 3 6 55 10 .302 .364 .472 .836
2003 135 569 500 52 140 28 2 13 211 80 2 4 0 10 52 2 7 72 13 .280 .350 .422 .772
2004 134 580 523 68 161 25 0 5 201 70 5 3 1 6 45 2 5 52 12 .308 .364 .384 .749
2005 138 580 501 57 127 25 1 9 181 56 2 0 0 6 68 1 5 76 15 .253 .345 .361 .706
2006 113 284 259 17 68 10 1 1 83 31 3 1 3 3 17 2 2 28 6 .263 .310 .320 .630
2007 101 129 109 4 30 2 1 2 40 31 0 0 0 3 16 3 1 14 2 .275 .364 .367 .731
2008 86 86 73 2 15 4 0 1 22 10 0 0 0 1 11 3 1 11 2 .205 .314 .301 .615
2009 77 80 66 3 21 5 0 1 29 17 0 0 0 1 12 1 1 7 1 .318 .425 .439 .864
通算:22年 2586 10033 8716 1175 2480 487 38 171 3556 1037 135 91 96 69 1086 45 66 1007 174 .285 .366 .408 .773
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

表彰[編集]

記録[編集]

日本記録
  • 通算二塁打:487
  • シーズン30二塁打以上:7度
  • サヨナラ満塁本塁打:2度(タイ記録)
  • 1試合5安打:5度(タイ記録)
初記録
節目の記録
  • 1000本安打:1996年6月2日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回表に斎藤雅樹から左前安打 ※史上183人目
  • 1000試合出場:1996年9月21日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、3番・二塁手として先発出場 ※史上338人目
  • 100本塁打:1998年8月19日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、3回表に北川哲也から右越ソロ ※史上199人目
  • 300二塁打:2000年4月7日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、7回表に河原隆一から左中間へ二塁打 ※史上36人目
  • 1500本安打:2000年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に高橋建から中前安打 ※史上80人目
  • 1500試合出場:2000年8月29日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)、5番・二塁手として先発出場 ※史上128人目
  • 350二塁打:2001年9月2日、対横浜ベイスターズ23回戦(ナゴヤドーム)、6回裏に川村丈夫から ※史上22人目
  • 400二塁打:2003年6月26日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、1回表にジェイソン・ベバリンから ※史上9人目
  • 1000得点:同上、1回表にアレックス・オチョアの2点適時打で生還して記録 ※史上30人目
  • 2000本安打:2003年7月5日、対読売ジャイアンツ16回戦(東京ドーム)、8回表に林昌範から右前安打 ※史上30人目
  • 2000試合出場:2004年6月29日、対広島東洋カープ13回戦(福井県営球場)、3番・三塁手として先発出場 ※史上34人目
  • 150本塁打:2003年9月30日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、7回表に酒井大輔から右越ソロ ※史上130人目
  • 450二塁打:2005年5月19日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム)、3回表に金村曉から ※史上初
  • 1000四球:2005年6月22日、対阪神タイガース8回戦(大阪ドーム)、7回表に橋本健太郎から ※史上11人目
  • 1000打点:2007年8月24日、対阪神タイガース17回戦(ナゴヤドーム)、5回裏に渡辺亮から右前適時打 ※史上32人目
  • 2500試合出場:2008年9月16日、対阪神タイガース22回戦(ナゴヤドーム)、7回裏にチェン・ウェインの代打として出場 ※史上7人目
  • 1000三振:2008年10月5日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、8回表に豊田清から ※史上43人目
  • 10000打席:2009年8月1日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(明治神宮野球場)、7回表に小笠原孝の代打として出場 ※史上7人目
その他の記録
  • 最多得点:2回(1991年、1994年)
  • 最多出塁:1回(1996年)
  • オールスターゲーム出場:11回 (1988年、1991年、1994年-1998年、2000年、2002年-2004年)
  • サイクルヒット:1回(1997年8月22日、対阪神タイガース戦、ナゴヤドーム) ※史上47人目

背番号[編集]

  • 3 (1988年 - 2009年)

関連情報[編集]

著書[編集]

関連書籍[編集]

関連映像[編集]

  • 『ミスタードラゴンズ22年間の軌跡:立浪和義引退記念』(DVD、コロムビアミュージックエンタテインメント、2009年12月、COBA-4858)
  • 『立浪和義の野球塾!プロへの道標!!:通算2480安打の巧打者が贈るバッティング理論』(DVD、竹緒、2010年6月、TIMA-3)

出演番組[編集]

テレビ番組[編集]

現在の出演番組[編集]
過去の出演番組[編集]

ラジオ番組[編集]

現在の出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、68‐69頁
  2. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、66‐67頁
  3. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、14‐18頁
  4. ^ 。立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、10‐12頁
  5. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、23‐24頁
  6. ^ 1988年 ウーやんもビックリ!ルーキー立浪和義、開幕スタメン早くも確約 Sponichi Annex 日めくりプロ野球 2009年1月12日
  7. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、28頁
  8. ^ http://www.npb.or.jp/cl/entertaiment/record/pdf/2010/12.pdf
  9. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、47頁
  10. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、52頁
  11. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、55‐58頁
  12. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、58 - 59頁
  13. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、63頁
  14. ^ 立浪和義 『負けん気』文芸社、2010年、108‐113頁
  15. ^ ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック1990年~1994年 コミュファラジオ
  16. ^ ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック2000年~2004年 コミュファラジオ
  17. ^ 当時監督であった落合博満が退任以降、この起用については「立浪の守備範囲が目に見えて狭くなった」という趣旨の発言をしている。
  18. ^ 日本記録は谷繁元信の25年
  19. ^ 一塁の守備に入るのは自身初で、守備に就いてのスタメン出場は前述の2006年10月以来となった。
  20. ^ 森野、背番号「3」返上 中日スポーツ 2009年12月10日
  21. ^ http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a3%d7%a3%c2%a3%c3&k=201210/2012101000639
  22. ^ シーズン最多本塁打は1993年と2002年に記録した16本塁打である。
  23. ^ 立浪燃えた「ミスター二塁打」面目躍如 日刊スポーツ 2008年8月22日
  24. ^ ガンバレ日本プロ野球!?出演時の本人の発言
  25. ^ 初代は西沢道夫、2代目は高木守道である。星野仙一阪神タイガースの監督に就任する以前はこの愛称で呼ばれることがあった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]