久慈照嘉

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久慈 照嘉
神戸国際大学附属高等学校 女子硬式野球部 コーチ
2012年8月17日、明治神宮野球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山梨県甲府市
生年月日 (1969-04-19) 1969年4月19日(55歳)
身長
体重
169 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 1991年 ドラフト2位
初出場 1992年4月4日
最終出場 2005年10月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

久慈 照嘉(くじ てるよし、1969年4月19日 - )は、山梨県甲府市出身(出生地は東京都[1]の元プロ野球選手内野手、右投左打)、野球指導者。阪神タイガースのコーチを務めた。現役時代には2001年のみ、登録名を「テル」と改めていた。現在は、神戸国際大学附属高校女子硬式野球部のコーチ[2]や、その他野球指導を行っている。

長女の久慈愛はオスカープロモーション所属女優でミュージカルとCMに出演、2017年にはミュージカル『アニー』にテシー役に採用された[3]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

東海大甲府高校時代は2年夏から3季連続で甲子園出場[1]3年春の選抜では準決勝でPL学園に敗れたが「東の久慈、西の立浪」といわれており、高校時代から守備力があった[注釈 1][4]。立浪とは後に中日ドラゴンズで同僚となる。シュアな打撃が売りだったが、高校3年時には当時の4番打者・江花が不振のために代役で4番に座ったことがある。社会人の日本石油では2年目から都市対抗野球に3年連続で出場。日本選手権は1989年から2年連続で準優勝、1991年は優勝し、全日本アマチュア野球王座決定戦でも優勝を経験。1989年は社会人ベストナインに選ばれた。1990年オリックスからドラフトの上位候補として声がかかったことがあったが、「ここで(久慈が)いなくなったら来年のチームにとってマイナス」と判断されて会社側から拒否。会社からは「オリックスからの話を励みにもう1年頑張れ」と言われたということで、本人は「気持ちとしては行かせてくれと思っていたから、聞きたくなかった」と話しているが、この時初めてプロを意識したという[5]。翌年1991年度ドラフト会議にて阪神タイガースから2位指名を受けて入団[1]。背番号は8

阪神時代[編集]

堅実な守備と勝負強い打撃で1年目から活躍し開幕戦にも先発出場しオールスターゲームのセ・リーグ遊撃手部門ファン投票選出される[1]

1992年に打率.245で新人王に選出[1]。本塁打0本で新人王に選ばれた野手は史上初であった(後に松本哲也が2009年新人王に選ばれる)。

1993年は年初に前年の新人王を争った相手でもある同僚の新庄剛志が遊撃へ再コンバートされるも、春季キャンプにおいての守備力評価で優位となりポジションを守った[6]1996年5月18日の甲子園広島東洋カープ戦では9回二死から二塁打を放ち、ロビンソン・チェコノーヒットノーランを阻止した。この他にも同年6月23日の富山市民球場アルペンスタジアムでの広島戦で山﨑健から二塁打、1993年4月27日にナゴヤ球場での中日戦で郭源治から単打をそれぞれ打ち、ノーヒッターを阻止している(いずれも1安打完封、且つ相手投手が安打)。

1997年、6年連続規定打席到達し自己最多の3本塁打を記録したものの、同年に監督就任した吉田義男からは久慈の肩の弱さから併殺を取れないことを指摘され、同年に入団し、主に二塁・三塁を守っていた今岡誠を翌年からは遊撃手として育てる方針が固まっていた。

中日時代[編集]

1997年オフ、脱税事件で出場停止となった鳥越裕介の穴埋めとして1998年関川浩一とともに、大豊泰昭矢野輝弘との交換トレードで中日へ移籍[1]。背番号は6。6は高校時代と社会人時代に慣れ親しんでいた背番号でもあった[7]。遊撃手として新外国人の李鍾範が入団したため二塁手に転向。二塁には不動のレギュラーの立浪和義がいたが立浪が守備に自信が無くなったと自ら外野にコンバートを願い久慈がレギュラー二塁手になった。しかし李が死球により戦列を離れたため、シーズン後半からは遊撃手を務めた(二塁には立浪が再び就いた)。規定打席到達は7年連続まで伸びた。

1999年には福留孝介にレギュラーの座こそ譲ったものの、当時守備に不安があった福留に代わり試合の後半に出場することも多かった。控えに回ったため規定打席到達はならず連続到達は7年で止まった。

その後は、井端弘和荒木雅博ら若手の台頭により出場機会が減少。

2002年のシーズン終了後には、守備コーチ就任の打診を受けたが、現役続行を求めて自由契約で退団した。

阪神復帰[編集]

2003年から古巣の阪神に復帰[1]し、中日時代の3×2=6の語呂合わせから背番号32を付けた[注釈 2]。同年は、持ち前の抜群の守備力で同年のリーグ優勝に貢献した。阪神復帰時は試合終盤の21時頃に守備固めで出場する機会が多かったことから、ファンや実況中継では「9時に久慈」と呼ばれていた。

久慈が中日に在籍していた時期と、阪神に復帰した2003年の監督であった星野仙一は、久慈の守備能力とともに指導者としての資質を高く評価[8]

2005年にも阪神から、次期指導者育成の一環として、二軍コーチへの就任を打診された。しかし、現役続行を希望する久慈がこの打診を拒否したため、球団は久慈の意思を尊重したうえで自由契約にした。その後は合同トライアウトに参加したが獲得球団がなく、2006年に入って引退を決意した。

最後に出場した試合は2005年の日本シリーズ(対千葉ロッテマリーンズ)の第4戦、9回に一塁の代走として出場だった。矢野輝弘の送りバントが三塁手への小飛球となり、飛び出した本人も一塁へ戻れず併殺となり、これが現役最後のプレーとなった。

現役引退後[編集]

2006年の春には、古巣・阪神の仲介を通じて、メジャーリーグアトランタ・ブレーブスで短期のコーチ研修を受講。

2007年から2年間サンケイスポーツの専属評論家として「牛若丸が斬る!」と題した評論コラムを大阪本社発行版の紙面に連載する一方で、NHK-BSのメジャーリーグ中継でも解説を務めていた。

2008年10月29日には、一軍守備走塁コーチとして阪神に復帰した。

2009年シーズンから背番号は「くじ」をもじって92を使用し、主に一塁ベースコーチを担当。

2012年からは和田豊監督の要請で三塁ベースコーチを務めた[9]

2013年10月19日、球団へ退任を申し入れ退団した。退団後の同年11月下旬、台湾で開催されるプロ野球のウィンターリーグで台湾チームの臨時コーチを担当。

2014年からは再び野球評論家・野球解説者として活動していた。

2015年4月、啓新高等学校野球部の外部コーチに就任した[10]

2016年シーズンより、再び阪神の一軍内野守備走塁コーチを務めている[11]

2018年シーズン途中から金本知憲監督の方針で、一塁ベースコーチを担当した。

2019年シーズンでは再びベンチ担当となる。

2021年からは「内野守備兼バント担当コーチ」に肩書が変更となった[12][13]

2022年10月15日、同年限りで退団すると球団から発表がされた[14]

2023年5月から、同年4月創部の神戸国際大学附属高等学校女子硬式野球部のコーチに就任[15][2]。その他野球塾などで子供たちに指導している[16]

選手としての特徴・人物[編集]

俊足・堅守の内野手で[17]、「平成の牛若丸」の異名を持つ[18]。遊撃を中心に高い守備力を誇る[4]。現役時代は他球団に川相昌弘らの存在もあり、ゴールデングラブ賞には縁がなかったが、その鉄壁の守備で阪神・中日を支えた[4]バントを得意としていたが打撃自体には難があり、毎年のように対抗馬をぶつけられ、ポジション争いをしていた[19][4]

中日時代のチームメイトである井端弘和は、内野守備が上手い選手の1人に久慈を挙げている。井端は久慈の守備を「魅せる守備(華麗なグラブさばき)」と表現し、「魅せる守備では、(久慈さんに)到底追いつけない」と思い、堅実に守るように方向転換したという[20]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1992 阪神 121 441 371 29 91 8 8 0 115 21 4 5 24 4 41 3 1 50 9 .245 .319 .310 .629
1993 128 488 401 49 98 9 4 1 118 16 6 3 31 3 53 4 0 76 10 .244 .330 .294 .625
1994 130 532 439 40 110 14 1 0 126 14 2 5 38 1 53 1 1 76 6 .251 .332 .287 .619
1995 123 409 334 32 89 9 5 1 111 24 3 8 13 0 62 6 0 49 1 .266 .381 .332 .714
1996 130 590 504 56 140 13 2 0 157 16 14 11 24 4 57 2 1 75 8 .278 .350 .312 .661
1997 126 479 393 55 101 11 2 3 125 20 8 7 33 2 44 1 7 42 8 .257 .341 .318 .659
1998 中日 122 482 389 43 97 10 3 0 113 18 7 7 38 0 52 0 3 51 5 .249 .342 .290 .633
1999 107 211 172 17 54 8 0 0 62 11 5 2 16 1 21 1 1 23 1 .314 .390 .360 .750
2000 80 86 72 3 12 1 1 0 15 6 0 0 5 0 8 0 1 10 1 .167 .259 .208 .468
2001 34 19 11 2 1 0 0 0 1 0 0 0 4 0 3 0 1 2 1 .091 .333 .091 .424
2002 9 5 5 1 2 0 0 1 5 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .400 .400 1.000 1.400
2003 阪神 55 56 46 4 14 3 1 0 19 6 1 0 2 2 6 0 0 12 1 .304 .370 .413 .783
2004 31 26 17 4 2 0 0 0 2 0 1 0 4 0 5 0 0 6 0 .118 .318 .118 .436
2005 3 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:14年 1199 3826 3155 336 811 86 27 6 969 153 51 48 233 17 405 18 16 472 51 .257 .343 .307 .650
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]



遊撃 二塁
























1992 阪神 120 138 338 17 59 .966 -
1993 128 160 356 13 60 .975 -
1994 130 184 431 11 97 .982 -
1995 119 153 323 11 57 .977 -
1996 130 189 434 18 80 .972 -
1997 123 194 351 7 80 .987 -
1998 中日 72 101 181 4 37 .986 49 89 127 3 18 .986
1999 100 75 199 2 30 .993 6 4 6 0 1 1.000
2000 64 34 60 1 9 .989 3 2 0 0 0 1.000
2001 27 5 17 0 2 1.000 -
2002 4 4 4 0 0 1.000 4 1 0 0 0 1.000
2003 阪神 50 30 50 1 7 .988 -
2004 30 8 20 1 2 .966 -
2005 1 0 2 0 0 1.000 -
通算 1098 1275 2766 86 520 .979 62 96 133 3 19 .987

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 8(1992年 - 1997年)
  • 6(1998年 - 2002年)
  • 32(2003年 - 2005年)
  • 92(2009年 - 2013年)
  • 71(2016年 - 2022年)

登録名[編集]

  • 久慈 照嘉(くじ てるよし、1992年 - 2000年、2002年 - )
  • テル(2001年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当時の後輩が久慈の守備練習を一塁側ファウルグラウンドで見学中、三遊間を抜けようとしている打球を横っ飛びでキャッチしたのを見て「視界の外から飛んできた」と例えるほどであった。
  2. ^ 前回在籍時の8番は、この時点では片岡篤史が着用していた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、195ページ
  2. ^ a b 森脇瑠香記者が練習潜入! 神戸国際大付女子野球部、元阪神・久慈照嘉氏の指導で急成長中…動画連動企画」スポーツ報知、2023年12月27日。2024年1月31日閲覧
  3. ^ アニー役決定!テシー役は阪神久慈コーチ長女・愛さん」『スポニチアネックス』2016年10月3日。2016年10月3日閲覧
  4. ^ a b c d 久慈照嘉」『VICTORY ALL SPORTS NEWS』。2021年4月11日閲覧
  5. ^ オリ入団を会社が拒否「もう1年頑張れ」 上位候補と連絡も…聞きたくなかった言葉」『Full-Count』Creative2、2024年2月23日。2024年2月25日閲覧
  6. ^ 『新庄剛志PART2 (ベースボールアルバムNO.116)』(ベースボール・マガジン社 1993年8月)13p - 15p
  7. ^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  8. ^ 星野仙一著、夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P136-137。星野によるとヘッドコーチの島野育夫(久慈とは阪神・中日でコーチと選手の関係だった)の推薦で獲得したという。著書の中で「久慈のいいところは指導者の素質につながる野球観を持っていることだ。野球を知っているから控えでベンチにいても細かな目配り、気配りに行き届くのだ。相手のくせや戦法、サインを読んで、それがまだズバズバと的確だから、ベンチでは我が作戦参謀・島野のよき助手であり、今や相談相手になっている。人間的にもイエスマンではないし、熱いハートを持っている男だから将来の人材だろう。久慈のカムバックも適材適所の一つだったと言えるのではないかと記している
  9. ^ 中日スポーツ 4版 2011年11月19日
  10. ^ 元阪神の久慈照嘉さんがコーチに 敦賀気比打倒に燃える啓新 高校野球特集 福井のニュース」福井新聞ONLINE、2015年4月15日。2015年10月16日閲覧
  11. ^ 金本監督背番6、掛布2軍監督は31/阪神組閣一覧」日刊スポーツ、2015年10月27日。2021年11月7日閲覧
  12. ^ 阪神が組閣発表 新設・バント担当に久慈コーチ 分析担当に筒井コーチ」『スポーツAnnex』2020年11月13日。2021年2月22日閲覧
  13. ^ 阪神異例の「バント担当コーチ」1点取る貪欲さ前面」『日刊スポーツ』2020年11月12日。2021年2月22日閲覧
  14. ^ コーチの退団について(10月15日)」阪神タイガース、2022年10月15日。2022年10月15日閲覧
  15. ^ 【女子硬式野球部】元プロ野球選手 久慈照嘉さんによる指導で実力養成」『神戸国際大学附属高等学校』2023年6月12日。2024年3月4日閲覧
  16. ^ それ、本当に正しいの?ボールを捕るポジションってどこ?【久慈照嘉さんコラボ1話】(2023/12/09) - 田尾安志【TAO CHANNEL】公式YouTube - YouTube
  17. ^ 矢野燿大は移籍先の阪神で正捕手に…トレードで大ブレイクした“幸運な3選手”」『デイリー新潮』2021年11月22日。2021年11月22日閲覧
  18. ^ 父は元阪神の名手。センバツ応援イメージキャラクター・久慈愛(17歳)が明かす父の教えと素顔「阪神が負けた日は注意が必要です(笑)」」『web Sportiva』2023年2月24日。2023年2月24日閲覧
  19. ^ “韓国のイチロー”は「誰が見ても下手くそ」 「裏切り者」と罵声…トレード放出の悲劇」『Full-Count』2024年2月26日。2024年3月4日閲覧
  20. ^ プロ野球解説者・井端弘和がドラゴンズに入団して「守備がうまい!」と思った選手は?」radiko news、2021年1月22日。2021年11月7日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]