岡田彰布

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岡田 彰布
Okada akinobu.jpg
2011年8月6日、QVCマリンフィールドにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市東区(現・中央区
生年月日 1957年11月25日(56歳)
身長
体重
175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手一塁手外野手
プロ入り 1979年 ドラフト1位
初出場 1980年4月11日
最終出場 1995年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • オリックス・ブルーウェーブ (1996 - 1997)
  • 阪神タイガース (1998 - 2008)
  • オリックス・バファローズ (2010 - 2012)

岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府大阪市中央区出身の元プロ野球選手内野手外野手)。愛称は「どんでん」。

1980年阪神タイガースへ入団。1995年オリックス・ブルーウェーブで現役を引退。その後、オリックス・阪神の二軍監督・コーチ・監督を歴任した。オリックス監督退任後の2013年からは、デイリースポーツ野球評論家を務める。

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

大阪市東区玉造(現・中央区玉造)で町工場を経営していた父親は、阪神の有力後援者で、村山実藤本勝巳ら選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った[1]。幼稚園児の頃に、当時のタイガースの三塁手であった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという[1]。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。小学5年の時、南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」で本格的に野球を始めた。この入団は「阪神が少年野球チームを持っていなかった」というのも理由だった[2]。また父の会社では草野球チームを結成し、岡田自身も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った。岡田の証言によれば、野手は阪神二軍の若手選手だったという。また岡田は少年時代からタイガースの試合を見に阪神甲子園球場へ出かけることが多かったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった[3]

1972年明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める[1]

1973年、北陽高校に進学し、1年生時には大阪府大会決勝戦(対PL学園)で先制2ランを放つなど活躍し、夏の甲子園に出場。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。3年生の夏は大阪府大会決勝で興國高校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

早稲田大学野球部セレクションを受け、15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがオーバーフェンスだったという[4])という驚異的な打撃をみせて合格した。早大では1年生秋から三塁手としてレギュラーに入り、法政大学江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは主軸に定着し、1979年春の大会では主将として東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。また、1979年第8回日米大学野球では、全日本の4番を全試合任されている。

大学時代の成績と記録は以下の通り。

  • リーグ通算88試合出場、309打数117安打、20本塁打、81打点打率.379

(打点と打率は東京六大学リーグ記録)

東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は過熱。1979年秋のドラフト会議の目玉となった。10月29日のプロ入り表明時に「阪神だったら最高ですが、阪急などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名されたときに考えてみる。しかし、フロントがしっかりし、優勝を争える球団なら行きたい」[5]巨人西武は優勝も狙えるし、いいですね」[6]と述べた。もっとも、後年のインタビューでは「ボクは一人っ子だったことで母が「関西に帰ってきて欲しい」と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった」と語っている[7]。ドラフトでは在阪パ・リーグ3球団を含む6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。

現役時代[編集]

入団1年目の1980年、監督のドン・ブレイザーは「岡田はまだ新人。じっくり鍛えた方がいい」という考えの下、岡田に二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやおんな」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している[8]。当時は三塁に掛布雅之遊撃手真弓明信二塁手中村勝広榊原良行ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトンと、岡田の入る場所がなかった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという[9]

オープン戦から結果を残せなかったヒルトンは、シーズン開幕直後から不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷した時も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。そこで球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。以降は出場機会が増え、新人王に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している[10]

1981年には初めて全130試合に出場し、20本塁打を残す。翌1982年には初の打率3割を記録した。1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月に足の肉離れを発症し、残りのシーズンを棒に振る。以後、脚部の負傷に悩まされることになる。

1984年平田勝男の台頭により真弓が二塁に回ったため、右翼手としても起用されるようになる。ランディ・バースの帰国時などに時折一塁も守った。翌年からは真弓と入れ替わり、再び二塁に戻る。

1985年4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、「ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!」と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏2死、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へと繋げる活躍を見せている。監督の吉田義男も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。

同年8月12日、当時の球団社長だった中埜肇日本航空123便墜落事故で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は打率.429・10本塁打・31打点の活躍でプロ入り初の月間MVPを受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2ラン本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打を記録する。最終的に選手会長兼5番打者として、バースに次ぐリーグ2位の打率.342・リーグ4位の35本塁打・リーグ5位の101打点の好成績を残し、真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献した。

1987年は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。

1989年、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁にコンバートされる。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏2死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメートのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞した。

1990年からは八木裕の台頭により、二塁に戻った。1992年日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り、一塁にコンバートされる。シーズンでは新庄剛志亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた[11]

1993年、再び外野手として起用されるようになるが出場機会は前年よりさらに少なく、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になる。翌1994年のキャンプイン直前に仰木彬が率いるオリックス・ブルーウェーブに入団。その会見では「これからも阪神ファンであり続ける…」と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で不倫スキャンダルを暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、調査によってスキャンダル自体が自称「愛人」の女が金銭目当てにでっち上げた作り話と判明、さらには岡田が恐喝され200万円を脅し取られる被害を受けていたことが明らかとなり、警察の強制捜査に発展し、最終的にはこの女が恐喝容疑で逮捕されて一件落着となった。この際には、豊富な技術と経験を持つ岡田を諦めきれないオリックスが、リース会社が本業であることから社内に豊富なノウハウを持つ調査要員を有しており、これを動員して真相の端緒を掴み、後に恐喝事件としての刑事捜査に繋がっている[12]

1994年の春のキャンプ中はオリックスに89年1位で入団しながら伸び悩んだパンチ佐藤フジテレビプロ野球ニュース」のカメラの前で「今年、復活に賭ける男」と宣言。この年阪神から移籍した岡田を見つけると「岡田さん、一緒に写って下さい。一緒にカメラの前で、今年復活にかける、と言いましょう!」と力強く誘ったが、岡田は引きつった笑みを見せながらあからさまに嫌がり「復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか」と返した。なおも「いや、これでもお立ち台に立ったこともあるんです。今年にとにかく賭けてるんです。一緒に写りましょう!」と食い下がったが一流選手のプライドが高いことで有名な岡田が呆れ返り「復活って、お前、何もないやないか」「一緒にすんなよ」とあくまでも拒否。パンチにとり吉兆とはいえない現役最後のシーズンの始まりであった。オープン戦では打席に立ったときに阪神ファンからも応援される光景が観られた。

1995年、出場機会も減り、10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に、現役引退した。日本シリーズでの出場機会はなかった。翌1996年3月、古巣・阪神とオリックスのオープン戦が引退試合となり、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った。

現役中はスポーツ用品メーカーであるSSKのアドバイザリースタッフを務めた。

コーチ時代[編集]

1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。

1998年、二軍助監督兼二軍打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌1999年には二軍監督兼二軍打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。2000年から2002年までは二軍監督(専任)。2000年にはファーム日本選手権で優勝し、2年連続日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として「二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが(一軍監督時よりも)思い出に残る」と語っている。

2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当した。

阪神監督時代[編集]

2003年オフ、星野仙一が健康問題のため監督勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。大阪人として史上初の阪神監督に就任。また2013年現在も唯一の大阪府出身の監督である[1]。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムス安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。

2005年9月7日ナゴヤドーム、中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。その後試合は再開するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザー久保田智之にかけた言葉は「もう打たれろ!打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ(投げたれ)!」というものだった。久保田は後続を連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。

この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。

しかし、日本シリーズ千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFKジェフ・ウィリアムス藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。

11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2ラン本塁打を打ちMVPに輝いた。

2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。

2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[13]

2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピック野球日本代表に主力である新井貴浩矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。

阪神監督退任後[編集]

2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。2009年2月1日の朝日放送虎バン」で解説者としてデビューし、朝日放送・スカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演した。

4月12日の巨人対阪神戦(東京ドーム)での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは「どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい」という岡田本人の意思もあり、見送られた。

評論家活動とは別に、2009年シーズン開幕前に岡田は日本プロ野球機構から「調査委員会」の委員として任命された。通常の任期は2年だが、後述のオリックス監督就任に伴い1年の任期を残して退任している。

オリックス監督時代[編集]

2009年10月13日、翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表された。契約内容は3年契約の1億円、背番号は阪神監督時代と同じ80。チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる[14][15]。岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧・ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。

2010年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で、T-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである星野伸之が休養に入り、後任には小林宏が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった[16]。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の金子千尋の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。

2011年シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に福岡ソフトバンクホークスに2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には東北楽天ゴールデンイーグルスにもサヨナラ勝ちをおさめ、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に東京ヤクルトスワローズ相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでもクライマックスシリーズ(CS)進出だった最終戦に敗れて1毛差で埼玉西武ライオンズに3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの後藤光尊アーロム・バルディリス、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた[17]

2012年は前年オフに大型補強をおこない、「優勝」を口にするほどであった[18]。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された[19]。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、「来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい」という理由で方針転換。ヘッドコーチの高代延博とともに休養することを発表。事実上の「解任」となった[20]

オリックス監督退任後[編集]

2013年からは、デイリースポーツの野球評論家に復帰。同紙では1月から、球界の旬の話題などを独特の見解で定義付けるコラム「岡田辞典」の連載を開始した。また、フリーの立場で、ABCラジオ読売テレビを中心にプロ野球中継での解説も再開している。

監督として[編集]

監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している[21]

メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている[22]

阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて「考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果」と説明している[23]。バントについて基本的には「アウトを何で一つやるのか」という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズプレイについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さない[24]。2011年8月12日の対西武戦でのスクイズが、阪神時代を含め監督就任953試合目で初めての成功事例になった[25]

選手のコンディションや相手チームとの相性で打順を組み替えたり、先発ローテーションを崩したりすることは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は「ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想」と記している[26]。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった。これについては、金本が「休まず試合に出るチームの柱」という岡田の考える4番打者にふさわしい選手だからであるとしている[27]。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果である。

ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は阪神では2005年9月7日の対中日戦・2006年6月1日の対楽天戦の久保田、2006年8月31日の対中日戦・2008年7月18日の対中日戦の藤川、オリックスでは2010年8月22日の対ロッテ戦と、2011年6月15日対横浜戦・2012年7月10日の対楽天戦の岸田護に対しての7度だけである。このうちサヨナラ負けを喫したのは7度目の試合のみである(6度目は延長規定のため引き分け)。岡田は著書『頑固力』の中で「マウンドに行き、投手、もしくはバッテリーにアドバイスを送るのは監督ではなく、ピッチングコーチの仕事である。“任せる”というキーワードが監督とコーチの信頼につながるのだ」と記し、マウンドに行ったケースのうち2005年と2008年の対中日戦はいずれもペナントレースで重要な意味を持つ試合と考えていたと明かした上で、「本来こういうマウンドパフォーマンスは、私には似合わないし、決して好きな行為ではない」と述べている[28]

自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍の若手選手への思い入れは強い。阪神監督時代は試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されていた。「ファームからも若い選手をしっかりと育てて野球を仕込む。そして監督が、あれこれ手を尽くしてチームの結果を積み重ねていく、そういう監督業こそが面白いのである」という[29]

自らが現役時代に首位打者まであと一歩に迫りながら逃した経験から、選手起用において個人記録を重視しており、「チームの勝利が最優先であることが大原則」という条件つきながら「監督として手助けできることがあれば最大限に手を貸したつもりである」と述べている[30]。金本の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新、坂口智隆の首位打者争いなどにも全面的に協力する姿勢を貫いていた。

2008年の終盤に「JFKを酷使した」と批判されたことについては、常に彼らの疲労度を見ながら起用していたと反論し、「彼らにとっては、その1球、1イニングが自らの年俸や評価をアップさせる生活の糧なのである」と記している[31]

日本シリーズクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。

チームの方針としては「優勝」を目指したチーム作りであるが、シーズン中での「優勝」と明言することは避けている一面をもつ。2009年にオリックス監督に就任した際にも「優勝てよう言わないです。怖いです。そんな簡単に優勝できるとは思ってないです。」とまで発言していた。例として、2010年のオリックス監督時にチームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田はあえて「優勝」という言葉を封印し、報道陣には「アレ」という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの宮内義彦に「僕も『アレ』としか言いません」とまで言わせた[32]。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして「アレしてもうた」の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった[33]

2010年のセ・パ交流戦では指名打者制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。

ドラフト会議ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。阪神監督時代は高濱卓也を引き当てたのみで通算1勝3敗と外れが先行している[34]上に、オリックス監督として参加した2010年も1位指名抽選で3連敗を喫している[35]。ちなみに1回のドラフト会議の1位指名抽選3連敗は史上初[36]。さらに翌2011年も1位指名は外れで、通算4連敗中。

野球関係者からの評価[編集]

2004年に投手コーチを務めた佐藤義則は退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈した。

2005年の日本シリーズで阪神と対したロッテ監督のボビー・バレンタインは、シリーズ終了後、その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。

野村克也は、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と評した。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き「監督の仕事を放棄している」「理解に苦しむ」と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは「新しい方程式を作った」として「素直に評価しなければならない」としている。その上でこの「六回までは選手主導でやらせ」るJFKや「選手任せ」は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている[37]

これに対して岡田は阪神監督退任後の著書『頑固力』の中で、野村が自分を「何を考えているのかわからない」と言っていることに、「自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている」「サインや作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ」「どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない」と記している[38]

人物・交友関係[編集]

座右の銘は「道一筋」で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実が贈った「道一筋」と書かれた掛け軸が実家に飾られていたことに影響を受けたとされる。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった[39]

口癖は「そらそうよ」。これに由来する「そらそーよ」という焼酎も発売され、「そら、そうよ」として自身の著書のタイトルにもなった。また、何を指しているのか分かりにくい「アレ」を多用する癖がある[40]。長男からは「主語を抜いていることが多い[41]」、実母からは「あの子は言葉の真ん中を抜かして話すことが多い[42]」という指摘がなされている。

現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。

クライマックスシリーズについては、「そこで敗れ、日本シリーズ出場ができないと、144試合もの長いシーズンを戦った努力と、過程と評価の価値を否定されることになる」として否定的である[43]。また、数球団を渡り歩く外国人選手が、年俸を高騰させて球団経営を圧迫したり若手日本人選手の働き場所を奪っているとして、外国人出場選手枠の減少(場合によってはゼロ)を、プロ野球改革の試案として示している[44]

雄弁ではないものの思ったことを短い言葉で表現する直言が多く、人物に対する評価がしばしば辛口である。

著書ではストレス解消法として飲酒(現在は焼酎党)、カラオケ手品ニンテンドーDS脳トレを挙げている[45]。また、吉本系などのお笑い番組もリラックスするときはよく見ており、夫人が録画したビデオテープをリビングに置いてくれたこともあった[46]

小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、2008年1月24日に日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された[47]。将棋を覚えたランディ・バースとは、川藤幸三とともにその相手を務めていた[48]

ルーキーの頃に、プロレスラーアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は今でも恩を感じており、2005年の阪神のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった[49]

サッカー日本代表監督の岡田武史とは同じ大阪市出身、同姓、早稲田大学の同級生、プロスポーツ監督と共通点も多い。また、共にタイガースファンである。武史の方が1歳上であるが、武史側は1年浪人しており、そのため彰布と同級生であり、同時期に野球部とサッカー部の主将をそれぞれ務めた。にも関わらず、両者の接点はなかったが、2009年に雑誌「Sports Graphic Number[50]の「早稲田力」特集で初対面の両者による対談が行われ、以後交友を持った。また、元サッカー選手で現在サッカー解説者の長谷川治久は高校の同級生にあたり、こちらも現在でも親交がある[51]

原辰徳とは大学時代の全日本代表で共にクリーンアップを担っていた時から付き合いがあり、プライベートではお互いに携帯でメールでやり取りする仲である。2008年に岡田が阪神監督を辞任した時に「“岡田さん、辞めないでください”と原からメールが来た」と岡田がコメントしたことがある[52]。岡田もまた、原が2003年に監督を辞任する際には、将来監督として戻ってくることを見据えて「次に監督をやる前に、ファームの監督をやってみてはどうか」と持ち出したりもした[53]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1980 阪神 108 403 376 44 109 19 0 18 182 54 4 2 1 0 23 6 3 45 6 .290 .336 .484 .820
1981 130 524 485 70 140 23 3 20 229 76 1 0 2 4 28 3 5 43 13 .289 .331 .472 .804
1982 129 521 466 57 140 22 1 14 206 69 10 5 2 5 44 12 4 30 13 .300 .362 .442 .804
1983 79 289 246 44 71 9 0 18 134 44 7 3 1 5 36 5 1 23 3 .289 .375 .545 .920
1984 115 366 323 38 96 14 2 15 159 51 3 1 0 7 33 4 3 41 13 .297 .361 .492 .853
1985 127 532 459 80 157 24 3 35 292 101 7 3 0 6 64 3 3 41 11 .342 .421 .636 1.057
1986 129 551 474 67 127 21 0 26 226 70 11 3 0 4 70 5 3 57 14 .268 .363 .477 .840
1987 130 518 474 54 121 24 3 14 193 58 5 2 0 2 40 2 2 75 12 .255 .315 .407 .722
1988 127 524 454 65 121 22 1 23 214 72 10 5 0 5 63 6 2 75 16 .267 .355 .471 .826
1989 130 557 492 66 138 20 1 24 232 76 8 3 0 7 57 3 1 81 15 .280 .352 .472 .823
1990 130 571 486 75 129 27 0 20 216 75 7 2 0 4 74 5 7 87 12 .265 .368 .444 .812
1991 108 428 383 45 92 11 0 15 148 50 1 3 0 3 40 3 2 68 9 .240 .313 .386 .700
1992 70 212 185 9 35 11 0 2 52 19 1 0 0 3 22 1 2 48 3 .189 .278 .281 .559
1993 42 62 53 2 9 1 0 1 13 7 0 0 0 0 9 1 0 24 0 .170 .290 .245 .536
1994 オリックス 53 117 101 10 28 3 0 2 37 12 1 1 0 1 14 0 1 20 3 .277 .368 .366 .734
1995 32 46 39 3 7 0 0 0 7 2 0 0 0 0 7 0 0 9 1 .179 .304 .179 .484
通算:16年 1639 6221 5496 729 1520 251 14 247 2540 836 76 33 6 56 624 59 39 767 144 .277 .351 .462 .813

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2004年 阪神 4位 138 66 70 2 .485 13.5 142 .273 4.08 46歳
2005年 1位 146 87 54 5 .617 - 140 .274 3.24 47歳
2006年 2位 146 84 58 4 .592 3.5 133 .267 3.13 48歳
2007年 3位 144 74 66 4 .529 4.5 111 .255 3.56 49歳
2008年 2位 144 82 59 3 .582 2.0 83 .268 3.29 50歳
2010年 オリックス 5位 144 69 71 4 .493 7.5 146 .271 3.97 52歳
2011年 4位 144 69 68 7 .504 20.5 76 .248 3.33 53歳
2012年 6位 144 57 77 10 .425 17.5 73 .241 3.34 54歳
通算:8年 1141 581 521 39 .527 Aクラス4回、Bクラス4回

※1 2012年、9月25日より休養。監督代行は森脇浩司

※2 2012年、欠場した9試合(7勝2敗)は監督成績に含まない

ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2005年 阪神 日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 0勝4敗
2007年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 0勝2敗
2008年 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 1勝2敗

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 16 (1980年 - 1993年)
  • 10 (1994年 - 1995年)
  • 85 (1996年 - 1997年)
  • 80 (1998年 - 2008年、2010年 - 2012年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

[編集]

  • 逢えば涙になるけれど(1982年)
阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(元ラブ・ウィンクスの平田和子)とデュエット
  • ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし
原辰徳高橋慶彦宇野勝遠藤一彦荒木大輔とともにコーラス参加。

著書[編集]

CM[編集]

出演本数こそ少ないが、強烈なインパクトのあるCMに出演している。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d “猛虎人国記(39)~大阪府(一) 大阪人唯一の阪神監督 岡田彰布”. スポーツニッポン. (2012年3月27日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002920090.html 2014年7月23日閲覧。 
  2. ^ 「オリの中の虎」p. 127
  3. ^ 宝島社『別冊宝島 プロ野球名選手読本』1998年
  4. ^ 『オリの中の虎』P159
  5. ^ 朝日新聞1979年10月30日付。
  6. ^ スポーツニッポン1979年10月30日付。その発言を受けた当日の同紙の一面見出しは「『巨人もOK』岡田」であった。
  7. ^ 2009年『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝』Vol.11
  8. ^ 『頑固力』(角川SSC新書、2008年)p. 89
  9. ^ 『頑固力』p. 90
  10. ^ 『頑固力』p. 163
  11. ^ 『頑固力』pp. 110 - 111
  12. ^ スポニチアネックス『野球 日めくりプロ野球10年1月【1月28日】1994年(平6) キャンプイン4日前 岡田彰布“復帰”決定(野球)
  13. ^ 「過去いないセ日本人監督シーズン二度」 日刊スポーツ
  14. ^ 日刊スポーツ 2009年10月2日
  15. ^ 夕刊フジ 2010年3月5日
  16. ^ 非常事態に岡田監督“兼任”投手コーチ
  17. ^ 岡田監督「サッカー関係者が怒りよるよ」
  18. ^ 岡田監督「絶対はないけど絶対優勝する」 デイリースポーツ2011年12月16日
  19. ^ 岡田彰布監督任期満了のお知らせ オリックス・バファローズ 2012年9月22日
  20. ^ 岡田監督、高代ヘッドコーチ休養のお知らせ オリックス・バファローズ 2012年9月25日
  21. ^ 『頑固力』p. 164
  22. ^ 『頑固力』pp. 61 - 62
  23. ^ 『頑固力』p.61
  24. ^ 『頑固力』pp. 64 - 65
  25. ^ オリ・岡田監督、監督生活初の『スクイズ成功』 iza, 2011年8月12日
  26. ^ 『頑固力』pp. 33 - 34
  27. ^ 『頑固力』pp. 37 - 41
  28. ^ 『頑固力』pp. 58 - 60。 この中で岡田は「自らマウンドに行って檄を飛ばしたのはこの2度のみ」と書いており、2006年の対楽天戦、対中日戦にはなぜか触れていない
  29. ^ 『頑固力』pp. 74 -75
  30. ^ 『頑固力』p. 99
  31. ^ 『頑固力』p. 30
  32. ^ 中日スポーツ』2010年6月13日付紙面
  33. ^ 【オリックス】アレTシャツ発売へ - 日刊スポーツ2010年6月18日配信、同日閲覧
  34. ^ 岡田監督、運悪い?ドラフトくじ引き役“白紙”…オリックス - スポーツ報知・2010年10月16日
  35. ^ 岡田監督、まさかの3連敗=オリックス-プロ野球ドラフト - 時事ドットコム・2010年10月28日
  36. ^ 岡田監督史上初の3連敗…「大失敗よ」 - スポニチAnnex・2010年10月29日
  37. ^ 『あぁ、阪神タイガース』pp. 178 - 184. 野村はこうした選手主導のやり方を「アメリカン・スタイル」と記し、メジャーの影響かもしれないと書いている。
  38. ^ 『頑固力』p. 132. 戦術面では見解が異なる二人であるが、岡田が「阪神は巨人にさえ勝てばよい」という考えに現役時代から違和感を持っていた(『頑固力』pp. 72 - 73)と記している点では、野村も『あぁ、阪神タイガース』で同様の意見を述べている。
  39. ^ デイリースポーツ、2005年11月18日号
  40. ^ 元阪神・赤星氏“岡田語”に冷や汗だった…「何言ってるか分からないことも」 デイリースポーツ 2013年08月06日
  41. ^ 2005年10月1日付デイリースポーツ紙面
  42. ^ 2010年6月13日付日刊スポーツ紙面
  43. ^ 『頑固力』pp. 151 - 152
  44. ^ 『頑固力』pp. 153 - 154. もっとも同書の別の箇所では阪神が今後「他球団でそこそこの数字を残し、日本の野球に対応できる可能性を秘めた外国人を、獲得していくのが賢明」(p. 169)と記しており、長期的な球界改革案とは違う考えを示している。
  45. ^ 『頑固力』pp. 159 - 161
  46. ^ 『頑固力』pp. 156 - 157
  47. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボール・マガジン社刊)2008年6月30日号20-23ページ「5年目岡田野球の変貌」
  48. ^ 『頑固力』p. 95
  49. ^ 『デイリースポーツ』2007年3月9日付「ブッチャー 旧友岡田監督に毒針エール」
  50. ^ 2009年6月4日号、通巻729号。
  51. ^ 2009年5月27日の日本対チリ戦では、彰布が会場の長居陸上競技場を訪れ、長谷川と共に武史が指揮を執る日本代表を応援した。出典:スポーツニッポン2009年5月28日付(大阪版)「阪神の前監督・岡田氏“同級生”岡田監督を応援」 [1]中日スポーツ2010年6月16日付
  52. ^ 2008年11月16日放送『SUPERうるぐす』「独占告白 阪神 岡田前監督 辞任の真相」
  53. ^ 『頑固力』p.73

関連項目[編集]

外部リンク[編集]