岡田彰布

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岡田 彰布
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市東区(現・中央区
生年月日 1957年11月25日(51歳)
身長
体重
175cm
77kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 内野手
プロ入り 1979年 ドラフト1位
初出場 1980年4月11日
最終出場 1995年10月2日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手内野手)。引退後、コーチ・監督を経て現在は野球評論家として活動している。デイリースポーツ客員評論家、NPB調査委員。愛称は、現役時代は「ノムカン」(野村克也藤山寛美を足して2で割ったような顔をしているため)。現在は「どんでん」。

目次

[編集] 経歴

[編集] アマチュア時代

大阪市東区玉造(現中央区玉造)で町工場を経営していた父親が、村山実藤本勝巳阪神タイガースの選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った。幼稚園児の頃に、当時のタイガース三塁手三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。岡田家では、岡田の小学生時代から阪神甲子園球場の年間指定席を取っていたが、その場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった[1]

1972年明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山の引退試合の前に村山のキャッチボール相手を務める。

1973年、北陽高校に進学し、1年生で夏の甲子園に出場。甲子園での打撃成績は2試合で6打数3安打。3年生の夏は大阪府大会決勝で興国高校に敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

早稲田大学野球部のセレクションを受け、15打数14安打14本塁打という驚異的な打撃をみせて合格。早大では1年生秋から三塁手としてレギュラーに入り、法政大学江川卓から3安打を打ち注目される。2年生からは主軸に定着し、1979年春の大会では主将として東京六大学野球リーグ連覇に貢献した。学生時代より人柄の良さは知られており、人望が厚く先輩後輩問わず慕われてきたその人心掌握術によって早くから幹部候補生として期待されていた。主将になってからは自分でスタメンを決めていた。一方で、「熱狂的阪神タイガースファンクラブ(早大猛虎)」という学生の応援サークルに所属しており、一般学生と一緒にコンパやソフトボールを楽しむこともあった。

大学時代の成績と記録は以下の通り。

  • リーグ通算88試合出場、309打数117安打、20本塁打、81打点打率.379、通算打点81

(打点と打率は東京六大学リーグ記録)

東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したため、プロ野球各球団の岡田獲得競争は加熱。1979年秋のドラフト会議の目玉となった。逆指名・自由獲得枠のない当時、指名前に選手側が希望球団を公言することはできなかったが、記者の取材に「(希望は)どことは言えないがセ・リーグの在阪球団である(セ・リーグの在阪球団はもちろん阪神しかない)」と答えた。ドラフトでは6球団が1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。岡田の阪神入団が決まった。

[編集] プロ時代

入団1年目の1980年、監督のドン・ブレイザーは「岡田はまだ新人。じっくり鍛えた方がいい」という考えのもと、岡田に三塁や外野の練習をさせていた。当時は三塁に掛布雅之遊撃手真弓明信二塁手中村勝広榊原良行ヤクルトスワローズから獲得したデイヴ・ヒルトンと、岡田の入る場所がなかった。

オープン戦から結果を残せなかったヒルトンは、シーズン開幕直後から不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷した時も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、さらには妊娠中の夫人が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが目に見えて激しくなった。そこで球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。その後、出場機会が増え、新人王につながったが、自らの力でチャンスを掴みたいという気持は当然強かったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールがわいたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。

1981年には初めて全130試合に出場し20本塁打、1982年には初の3割を記録。1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月に足の肉離れを発症し、残りのシーズンを棒に振る。以後、脚部の負傷に悩まされることになる。

1984年平田勝男の台頭により真弓が二塁に回ったため外野へコンバート。ランディ・バースの帰国時などに時折一塁も守った。しかし外野手としては事実上この1年のみで、翌年からは真弓と入れ替わりに二塁に戻る。

1985年には選手会長兼5番打者として打率.342、35本塁打、101打点の好成績で、真弓、バース、掛布らとともに球団初の日本一に貢献。特に4月17日での甲子園での巨人戦ではバース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを行った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは想像を絶するものであったらしく「ヒットでいいという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対スライダーしかないな!」と後に振り返っている。

8月には打率.429、10本塁打、31打点でプロ入り初の月間MVPを受賞し、さらに、9月15日の甲子園での中日戦でサヨナラ2ラン本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打と2試合連続サヨナラを記録。バックスクリーン3連発前日の巨人戦でも1-2で迎えた4回裏2アウト、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へとつなげた。吉田義男監督も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。

またこの年の8月12日、当時の球団社長だった中埜肇日本航空機墜落事故で死亡するという悲劇も起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きく、この事故の直前に生まれた息子に向かって「お前が生まれた年にこんな大事故があったんやぞ!」と泣き叫んだ。

1989年、掛布の引退に伴い大学時代に守っていた三塁にコンバート。6月25日の甲子園での巨人戦、1-4で迎えた8回裏2アウト満塁でビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の藤田元司巨人監督の目の前で、敗戦投手だった村山実監督の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメートのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞。1990年からは八木裕の台頭により二塁に戻る。

1992年日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り一塁にコンバートされたが、新庄剛志亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振により先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあり、この夜、遠征先の宿舎の部屋で暴れるほどの大ショックを受けた。

1993年、体力の衰えから阪神を自由契約になり、仰木彬監督の率いるオリックス・ブルーウェーブに移籍。移籍会見では「これからも阪神ファンであり続ける…」と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で愛人問題を暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、のちに狂言と判明し、自称「愛人」の女が恐喝容疑で逮捕された。

1995年、出場機会も減り10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に現役を引退。

1996年3月、古巣・阪神とオリックスのオープン戦が引退試合として行なわれ、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った。

[編集] コーチ時代

1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。

1998年、二軍助監督兼二軍打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。翌1999年には二軍監督兼二軍打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。2000年から2002年までは二軍監督(専任)。2000年にはファーム日本選手権で優勝し、2年連続日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として「二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが(一軍監督時よりも)思い出に残る」と語っている。

2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当し、判断の良さには定評があった。

[編集] 監督時代

2003年オフ、星野仙一監督が健康問題のため勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加えジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ・マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、更にジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムス安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。

2005年9月7日中日ドラゴンズとの2ゲーム差での首位決戦において、9回一打サヨナラ負けのピンチに監督就任後初めてマウンドへ向かう。ここで、クローザー久保田智之にかけた言葉は「お前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャ放れ!」。岡田に闘魂注入された久保田は後続を連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制す。この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日の落合博満監督に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ねる一方、中日は阪神との次の直接対決を待たずに失速。2005年シーズンの明暗を分ける一戦となった。9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成。奇しくも優勝当日は亡父の誕生日であった。

しかし、日本シリーズ千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFKジェフ・ウィリアムス藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。

11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、見事にサヨナラ2ラン本塁打を打ちMVPに輝いた。

2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。

2007年6月8日の対オリックス・バファローズ戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害をめぐり球審谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日ドラゴンズ戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[2]

2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピック野球日本代表に主力である新井貴浩矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。セ・リーグクライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、赤星憲広選手会長の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。

[編集] 野球評論家

2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。2009年2月1日朝日放送虎バン」で解説者としてデビューし、朝日放送・スカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演している。4月12日の巨人対阪神戦(東京ドーム)での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは「どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい」という理由で見送っている。

[編集] 監督としての岡田彰布

監督としては博打より堅実を重視し、堅実にいって負けたら仕方がないというスタンスである。競馬も「本命党」とデイリースポーツの競馬予想で答えている。2004年に投手コーチを務めた佐藤義則が退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈したほど。野村克也からは、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と分析されている。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田の采配が野村のセオリーからははずれていることを指摘した上で、メジャーリーグの流儀に近いのかもしれないと記している。ただし、その適否については今後の結果を見て判断するしかないとも書いている。目先のベンチワークに頼った勝利よりも、長期的視野にたったチーム作りを重視する傾向にある。しかし、2007年以降はチーム事情などが原因でむしろ目先の勝利に拘る傾向があった。

大リーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスをベースにしたチーム作りを理想とするが、なかなかうまく適用できず、監督就任当初からしばらくは、そのギャップに苦しんでいた節がある。当初は安易な犠打を否定していたが、次第に犠打を重視した采配に変化していくなど、監督経験を積むにしたがっていくつかの軌道修正が見られる。2005年の日本シリーズで阪神と対した千葉ロッテのボビー・バレンタイン監督は、シリーズ終了後その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。

選手のコンディションや相性で打順をいじったり、ローテーションを崩すことは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。事実2004年に金本を四番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かしていない。また投手分業の革命ともいわれたJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果だといえる。反面、選手の著しい不調や怪我での離脱など、不測の事態に対してあまりに無策であるとの批判も多く、優勝を逃したシーズンの原因とされることもある。ただし配置した選手が期待通りに動いた時の爆発力は凄まじく、2006年、2007年も結果的には優勝を逃したものの、ときおり見せる神がかり的な快進撃で、最後まで優勝を争った。

投手・打者の左右の相性にこだわる、いわゆるプラトーン・システムを積極的に活用する。岡田の投手起用は、余程差が付かない限りは「投手への相性の良い打者、そのとき調子のいい打者」よりも「実力・年齢の伯仲している打者ならば左右にあわせ起用」とする場合がほとんどである。

ピンチに陥った投手などに対して、監督自らがマウンドに行くことが他球団ではしばしば見られるが、2005年以降に、岡田自らマウンドに出向いたのは、2005年9月7日の中日戦、2006年6月1日東北楽天ゴールデンイーグルス戦の久保田智之に対してと、2006年8月31日の中日戦、2008年7月18日の中日戦の藤川球児に対しての4度だけである。いずれの試合もこれらの投手が踏ん張り勝利している。

自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍監督を長年やっていたためか、二軍の若手選手への思い入れが人一倍強い。試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されている。

選手起用において、個人記録を重視する傾向が強く、金本知憲の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新には全面的に協力する姿勢を貫いている。また、日本新記録となった久保田智之のシーズン90試合登板という常識では考えられない数字も、岡田の記録重視の傾向を示すものと言える。

日本シリーズクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。この点は前任者の星野と同様である。

[編集] 背番号

  • 16(1980年 - 1993年)
  • 10(1994年 - 1995年)
  • 85(1996年 - 1997年)
  • 80(1998年 - 2008年)

[編集] 人物・交友関係

座右の銘は「道一筋」で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実が贈った「道一筋」と書かれた掛け軸が実家に飾られていたことに影響を受けたとされる。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった[3]

口癖は「そらそうよ」。これをモチーフに、「そらそーよ」という焼酎まで作られた。大阪弁に独自の方言を混ぜた岡田の口調は、愛称のどんでんから、「どん語」と呼ばれ一部のファンに親しまれている。

現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。球団再編問題時にはパ・リーグファンから批判を受けた。

雄弁ではないものの思ったことを短い言葉で表現することが多く、人物に対する評価がしばしば辛口である。 ルーキーの頃に、プロレスラーアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。

阪神時代、シーズンオフに大阪市内の実家近くで近所の小中学生とソフトボールをしていたとき、一人だけずば抜けた野球センスを持つ中学生がいた。それが後に横浜ベイスターズで阪神キラーとなる三浦大輔投手であり、高校生の時、阪神がドラフトで指名しなかったことに激怒していた。

[編集] 年度別打撃成績

年度 球団






















1980 阪神 108 376 44 109 19 0 18 182 54 4 2 1 0 23 3 45 6 .290 13
1981 130 485 70 140 23 3 20 229 76 1 0 2 4 28 5 43 13 .289 16
1982 129 466 57 140 22 1 14 206 69 10 5 2 5 44 4 30 13 .300 8
1983 79 246 44 71 9 0 18 134 44 7 3 1 5 36 1 23 3 .289 7
1984 115 323 38 96 14 2 15 159 51 3 1 0 7 33 3 41 13 .297 1
1985 127 459 80 157 24 3 35 292 101 7 3 0 6 64 3 41 11 .342 11
1986 129 474 67 127 21 0 26 226 70 11 3 0 4 70 3 57 14 .268 9
1987 130 474 54 121 24 3 14 193 58 5 2 0 2 40 2 75 12 .255 12
1988 127 454 65 121 22 1 23 214 72 10 5 0 5 63 2 75 16 .267 4
1989 130 492 66 138 20 1 24 232 76 8 3 0 7 57 1 81 15 .280 14
1990 130 486 75 129 27 0 20 216 75 7 2 0 4 74 7 87 12 .265 9
1991 108 383 45 92 11 0 15 148 50 1 3 0 3 40 2 68 9 .240 14
1992 70 185 9 35 11 0 2 52 19 1 0 0 3 22 2 48 3 .189 1
1993 42 53 2 9 1 0 1 13 7 0 0 0 0 9 0 24 0 .170 1
1994 オリックス 53 101 10 28 3 0 2 37 12 1 1 0 1 14 1 20 3 .277 3
1995 32 39 3 7 0 0 0 7 2 0 0 0 0 7 0 9 1 .179 0
通算成績 1639 5496 729 1520 251 14 247 2540 836 76 33 6 56 624 39 767 144 .277 123

[編集] タイトル・表彰

[編集] 記録

  • 初出場 1980年4月11日大洋戦(甲子園)
  • 初安打 1980年4月22日大洋戦(横浜) 8回竹内から
  • 初本塁打 1980年5月1日巨人戦(甲子園) 2回新浦から

[編集] 監督としてのチーム成績

[編集] リーグ公式戦

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
打率
チーム
本塁打
チーム
防御率
チーム
得点
チーム
失点
年齢
2004 阪神 4位 138 66 70 2 .485 13.5 .273 142 4.08 637 610 46
2005 1位 146 87 54 5 .617 - .274 140 3.24 731 533 47
2006 2位 146 84 58 4 .592 3.5 .267 133 3.13 597 508 48
2007 3位 144 74 66 4 .529 4.5 .255 111 3.56 518 561 49
2008 2位 144 82 59 3 .582 2.0 .268 83 3.29 578 521 50

718試合 393勝307敗18分 勝率.561

Aクラス4回 Bクラス1回

[編集] ポストシーズン

年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2005 阪神 日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 0勝4敗
2007 セ・リーグクライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 0勝2敗
2008 セ・リーグクライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 1勝2敗

[編集]

  • 逢えば涙になるけれど(1982年発売)
阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(元ラブ・ウィンクスの平田和子)とデュエット
原辰徳高橋慶彦宇野勝遠藤一彦荒木大輔とともにコーラス参加。

[編集] 著書

  • 『頑固力 ~ブレないリーダー哲学』角川SSC新書 2008年、角川・エス・エス・コミュニケーションズ、ISBN 978-4827550511

[編集] CM

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
原辰徳1989年 - 1992年)
日本プロ野球選手会会長
1992年 - 1995年
次代:
正田耕三(1995年 - 1998年
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