岡田武史
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | 岡ちゃん | ||||||
| カタカナ | オカダ タケシ | ||||||
| ラテン文字 | OKADA Takeshi | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1956年8月25日(55歳) | ||||||
| 出身地 | 大阪府大阪市 | ||||||
| 身長 | 175cm | ||||||
| 体重 | 70kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | DF | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 監督歴 | |||||||
| 1997-1998 1999-2001 2003-2006 2007-2010 2012- |
日本代表 コンサドーレ札幌 横浜F・マリノス 日本代表 杭州緑城 |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年4月12日現在。 2. 2010年7月3日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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岡田 武史(おかだ たけし、1956年8月25日 - )は日本の元サッカー選手、指導者。現在は杭州緑城監督。2007年8月24日より2007年12月14日まで日本エンタープライズの社外取締役。「岡ちゃん」の愛称で知られる。メガネがトレードマークで、現役時代にはメガネを外さずプレーしていたほどである[1]。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 幼年期〜躍進のユース時代、大学での「復活」
大阪府大阪市(香川県となっていることもある)出身。父は産婦人科医。帝塚山学院小学校時代はホークス子供会に入会して野球に明け暮れ、南海ホークスを応援しに大阪球場へ通う野球少年だった。ホークスではファースト、学校のクラブではピッチャーであった。(ホークス子供会では一学年下に岡田彰布も所属していた。)
しかし中学に進学すると、野球部の上下関係の厳しさを目の当たりにして「自分には向いていない」と考え、当時メキシコオリンピックでの代表チームの活躍で脚光を浴びたサッカーに熱中するようになる。
天王寺高校入学後もサッカーを続け、その才能を嘱望されるプレーヤーとして名を馳せるようになる。3年生の時にはユース代表に抜擢され(高校生で選出された者は岡田を含め3名のみ)、クウェートで開かれたAFCユース選手権に出場を果たした。
[編集] 古河電工への就職、日本代表選出
岡田はマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年、早稲田大学政治経済学部卒業と同時に古河電工に入社。社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍し[1]、1986年のアジアクラブ選手権優勝にも貢献した。
また1982年、インド・ニューデリーで開催されたアジア大会にA代表として出場。当初発表された代表メンバーに岡田の名は無かったが、当時の代表主将・前田秀樹の負傷・参加辞退により岡田が追加招集された。背番号は前田の9をそのまま背負った。この大会で準々決勝にまで駒を進めた日本代表は0-1でイラク代表に破れたものの、岡田自身は2試合に起用され、1次リーグの対韓国代表では代表初にして代表時代唯一のゴールまで決めている[1]。その後も日本代表に選出され続け、ロサンゼルス五輪予選、メキシコワールドカップ予選などに出場。最終的に国際Aマッチのキャップは21を数えた。
1990年の時には34歳と、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった試合が古河電工がバイエルン・ミュンヘンと行った親善試合である。その向上心の強さ、現役続行への固い意志は衰えることなく、この試合でも活躍した彼だったが試合は善戦の末1-2で破れる。「海外トップチームとの対戦」を通じてその埋めがたい差を身を以て実感した岡田は現役引退を決意。指導者として、「日本人がこのような海外のチームを相手にどうしたら勝てるようになるのか」と模索し続ける現在の彼のスタートラインともなった。
[編集] 指導者としての再出発、代表監督へのスクランブル登板
古河電工のコーチに就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせた彼は1992年にドイツへとコーチ留学する。1993年に帰国後はJリーグ発足に沸く日本サッカー界に戻り(岡田は後に「浦島太郎になったようだった」と述懐している)、古巣・古河が母体となったジェフ市原でコーチを務めた。清雲栄純監督の下で主にサテライトチームに携わる。この年に行われたアメリカワールドカップ・アジア最終予選イラク戦の、NHK BS1でのスタジオ解説を田嶋幸三とともに務める。(ちなみに地上波でのテレビ東京系列のスタジオ解説は、釜本邦茂、柱谷幸一、森孝慈。)
1995年にはサッカー日本代表コーチに抜擢される。1994年に加茂周が日本代表チーム監督に就任した際、加茂は前任のファルカンのチーム計画を一旦白紙に戻し、前々任であるハンス・オフトが行ったチーム作りを継承すべく人材を集めていた。オフトの下でコーチをしていた経験のある清雲にもコーチの話があったが清雲は断り、その代わりに岡田を推薦。しかし加茂と岡田はほぼ面識がなく、また岡田は指導者としての経験が浅いので、やりがいを感じていたジェフでのコーチ業を優先すべくこの話を当初固辞していたが、清雲に熱心に薦められて代表のコーチに就任した。
[編集] W杯フランス大会
岡田の一大転機は1997年10月、フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂周監督が更迭された事から始まる。岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名され1997年10月、対ウズベキスタン戦で指揮。終了直前に1ゴールを決めてドロー発進するも岡田は内心ある程度の確信を持つ。加茂更迭直後、急場でコーチからの監督起用でウズベキスタン戦のみの就任であり岡田もこれを了承したものだったが日本に帰国後、加茂に挨拶をして話し合い「現状を鑑みて、他の者に監督を任せるのはリスクが高い」と判断して監督続行を申し出る。コーチの枠は空席のまま代替として小野剛強化委員がチームに帯同。
最初の1試合を乗り切った岡田は監督へと昇格を果たしたものの、当初は「急場凌ぎ」との見方が大勢を占めていた。しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。最終的にイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から日本代表初の本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)。この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。
1998年の本戦直前に不振だった三浦知良や北澤豪をメンバーから外した事では当時その是非が議論を呼んだ[2]。本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。大会終了後のテクニカルリポート作成を最後の仕事とし代表監督を退任した。なお、1998年5月31日メキシコ戦からW杯ジャマイカ戦までの国際Aマッチ5連敗は歴代ワースト記録である。
[編集] Jクラブの監督、そして解説者として
監督退任後、半年あまりの期間は衛星放送WOWOWにてイタリア・セリエA中継の解説を担当、取材で当時ユベントスを指揮していたマルチェロ・リッピ監督と対談し、サッカー観、戦術面での影響を受ける。また後に横浜FMにてJ1優勝を果たした際にリッピから祝電が届くなど交流を生むきっかけとなった。
1999年にJ2に降格したコンサドーレ札幌の監督に就任。自身初となるJリーグの監督として、さらに前・日本代表監督ということもあり注目度・期待度が高かったが、就任1年目は5位に終わった。シーズン終了後、札幌監督就任から続いた采配時のスーツ着用をやめてジャージ着用に変え、自身の発想も転換した以外にも、チームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な改革に着手。スカウティングも自分で行った。
2年目の2000年にはこれらの努力が結実し、2位の浦和レッズに勝ち点12差をつけてJ2優勝・2年での1部復帰を果たす。チームとしてもJ2発足後初のJ1、自らも監督として初のJ1となった2001年は年間11位[3]の成績を収めてJ1残留に成功。ここを区切りに監督を辞任し、解説者の視点からサッカーを見つめなおすこととなる。札幌を指揮した期間にエメルソンや播戸竜二、山瀬功治[4]、今野泰幸など若く有能な選手を発掘・起用した。さらにこの年、当時J2だった大分トリニータから獲得したウィル(24得点)が得点王に輝くなど、監督としての才能を十分発揮させた。2002年はサッカー解説者として活動。FIFAワールドカップ日韓大会ではNHKの解説者を務め、フィリップ・トルシエ退任後の次期日本代表監督候補にも噂された。
2003年、横浜F・マリノス監督に就任。Jリーグで常勝チームとなりえる規模を持つクラブの監督就任は彼の念願だった。充実した戦力を率いた1年目の1stステージからいきなり優勝を飾り、その余勢を駆って2ndステージも優勝。就任1年目にして完全優勝の栄冠を手にした。2004年も1stステージを制し、Jリーグ史上初の3ステージ連覇の偉業を成し遂げる。浦和と争ったサントリーチャンピオンシップでは1勝1敗で迎えたPK戦を制して、2年連続の年間王者に輝く。
2005年も優勝候補の一角に挙げられていたが、AFCチャンピオンズリーグやA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦における主力の離脱により順位は低迷。結局、9位という期待外れの成績に終わる。成績低迷の責任を取り監督を辞任するとの観測も流れる中、2006年以降も横浜FMで監督を続投することが公式に発表された。
復活を期して臨んだ2006年は開幕4連勝を飾ったものの、その後急激にチームコンディションが悪化。再浮上の切っ掛けが掴めないまま18節終了時点で自力優勝が消滅し、19節の大宮戦終了後に辞意を表明。翌8月24日に辞任し、3年半に渡った横浜での指揮にピリオドを打った。表面上は家族を亡くしたこと[5]、および成績不振によるものとされているが、真の理由は強化方針を巡るフロントとの確執にあるとも言われている。岡田は後に「俺は自分の指導者としての限界を感じていたのではないか」と語っている[5]。
[編集] 再びのスクランブル、日本代表監督への復帰
日本サッカー協会の特任理事として活動中、次期日本代表の日本人監督として名も挙がっていた中、2007年11月に日本代表のイビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院し、2008年2月のW杯予選で指揮を執ることが困難になり、小野剛日本サッカー協会技術委員長(当時)から後継監督として打診を受ける。
その際、小野剛は、元浦和監督のホルガー・オジェックらがオシムの後任日本代表監督候補に上がる中、岡田に打診した理由として、(1) オシムが築いてきた土台の上に新しい色、個性を積み上げられる、(2) 強烈なリーダーシップ、求心力を持っている、(3) 翌年2月6日の予選まで与えられた時間が少ないためにコミュニケーション能力がある監督としての3点を挙げている[6]。
2007年12月7日、日本代表監督再就任が当時日本サッカー協会会長だった川淵三郎(現同協会名誉会長)によって正式に発表され[7]、2008年から指揮を執るようになった。なお、ワールドカップで通算成績が0勝3敗の監督が再度同じ国の代表監督をするのは史上初であった[8]。前回の在任時はコーチ陣と同じジャージ姿での采配が話題となったが、再就任後は2008年7月に日本サッカー協会会長に就任した犬飼基昭の指示でスーツ姿で指揮を執ることが多くなった(悪天候時はジャージまたはグラウンドコート姿で指揮を執ることもあった)。
[編集] W杯南アフリカ大会
2009年6月6日、W杯南アフリカ大会アジア最終予選の第6戦。アウェーでのウズベキスタン戦を1-0で勝利。グループAをオーストラリア代表に次ぐ2位で通過し、日本代表を4大会連続4度目の本大会出場に導いた。なお、この試合の終了直前に審判に異議を唱えたとして監督生活初の退席処分を受けた。
国内組で臨んだ2010年東アジアサッカー選手権では4チーム中で3位[9]、その後同年4月7日のキリンチャレンジ杯セルビア代表(監督は代行監督、ワールドカップ予選に参加していた選手はベンチメンバー1名のみの、国内選抜チーム)戦では0-3で敗れ、4月26日にサポーターから日本サッカー協会へおよそ1000人による解任の署名が提出された[10]。また、5月24日に行われたキリンチャレンジ杯の韓国代表戦に0-2で敗退した後に、犬飼基昭日本サッカー協会会長に対して「進退伺い」ともとれる発言をしたとされることや[11]、5月30日のイングランド戦にも敗退し、6月4日のコートジボワール代表戦まで4連敗を喫し決定力の低さを解消できないことなどを受けて、国内のサポーターやマスコミからは岡田の監督連投や選手の起用法に批判が集中し、ヤフーが行ったインターネット調査ではサポーターからの支持率がわずか16%という低さであった[12]ため、ワールドカップ中の解任すらマスコミ上で取り沙汰された[13]。
岡田は今大会における目標を「ベスト4入り」と表明していたが、強化試合で結果が出せなかったことから、その目標は「非現実的」だとして国内外のマスコミに酷評され続けた[14]ほか、グループリーグの対戦相手発表を受けて、セルジオ越後や釜本邦茂、杉山茂樹などのサッカー評論家が1勝もせぬままのグループステージ敗退を予想するなど[15]、サポーターやマスコミに渦巻く不信感と低評価の中ワールドカップ本戦に臨んだ。
しかし、格上と見られていたカメルーン代表と6月14日に行われた初戦では、前半に入れた1点を守り抜き、1-0で勝利した[16]。なおこの勝利は、ワールドカップの国外開催大会での初勝利であった[17]。その後6月19日に行われたオランダ代表との第2戦は0-1で負けたものの、6月24日に行われたデンマーク代表との第3戦では、前半に2点を入れた後も終始リードを保ったまま3-1で勝利を収め[18]グループリーグを2勝1敗の勝ち点6とし、国外開催大会で初めてのワールドカップ決勝トーナメント進出を果たした[19]。
このサポーターやマスコミの多くが予想していなかった快進撃に、国内外のマスコミはこれまでの批判的な姿勢を一転し、岡田の采配を絶賛する論調ばかりとなっただけでなく[20][21]、グループステージでみせた日本代表の堅い守りを、イタリア代表の「カテナチオ」をもじって「オカナチオ」と呼ぶ記事すら現れた[22]。大会前の4連敗も、あえて格上と戦ったことが決勝トーナメント進出という結果として現れたと評価を一転させた。さらにインターネット掲示板やツイッター上を中心に、かつて岡田に対する非難や不信感を表明していた者からの「謝罪」の表明が相次ぐ事態となり[23][24]、「岡ちゃん、ごめんね」という言葉は2010年の新語・流行語大賞にもノミネートされた。
日本サッカー界史上初のベスト8進出をかけたパラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦は、90分では決着がつかず0-0のまま延長戦に突入した。しかし延長戦でも決着がつかず、日本代表史上初めてワールドカップでのPK戦に突入したものの結果的に3-5で敗北した。しかし、日本代表としての様々な記録を残したチームを作り上げた手腕に対し、開幕前との評価とは一転して「名将」、「感謝」と称賛する評価が相次いだ[25]。日本代表監督としての契約が同大会を最後に切れる[26]ことになっていたが、試合後の会見で改めて今大会を最後に退任する意向を表明した[12][27]。また、一部ネットニュースでは人望の厚さや人脈の豊富さから「将来の日本サッカー協会会長へ」という声も出た[28]。
[編集] JFA理事へ
2010年7月25日に行われた日本サッカー協会(JFA)の役員改選で、JFA理事に就任した。これはJFAの新会長となった小倉純二の推挙によるもので、小倉は今後岡田がどこかのクラブの監督となった場合も「兼務で理事をやらせる」と語っている。当面は主に環境問題の担当となる見込み[29]。
また2010年8月にはWOWOWの専属サッカー解説者となることが発表され、現在同局のリーガ・エスパニョーラ中継の解説を担当している。解説者就任に伴い開かれた記者会見では、海外から代表監督(本人は具体的な国名は挙げなかったが、メディアではカタール代表と伝えられた)のオファーを受けていたものの断っていたことも明らかにされた[30][31]。
2010年11月、アジアサッカー連盟(AFC)より、日本人では桑原隆(1998年)、西野朗(2008年)以来3人目となるAFC最優秀監督賞を受賞。
[編集] 日本人初の中国プロサッカーリーグ監督に
2012年から中国サッカー・スーパーリーグの杭州緑城足球倶楽部にて指導者に復帰する。
[編集] 所属クラブ
[編集] 代表歴
- 国際Aマッチ 24試合 1得点(1980-1985)
- アジア競技大会(1982)
- ロサンゼルスオリンピック予選
- ワールドカップメキシコ大会予選
| 日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| 1980 | 3 | 0 | 5 | 0 | 8 | 0 |
| 1981 | 5 | 0 | 7 | 0 | 12 | 0 |
| 1982 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 |
| 1983 | 7 | 0 | 10 | 0 | 17 | 0 |
| 1984 | 4 | 0 | 6 | 0 | 10 | 0 |
| 1985 | 3 | 0 | 6 | 0 | 9 | 0 |
| 通算 | 24 | 1 | 34 | 0 | 58 | 1 |
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1980 | 古河 | JSL1部 | 14 | 0 | |||||||
| 1981 | 古河 | JSL1部 | 17 | 0 | |||||||
| 1982 | 古河 | JSL1部 | 18 | 0 | |||||||
| 1983 | 古河 | JSL1部 | 15 | 1 | |||||||
| 1984 | 古河 | JSL1部 | 17 | 0 | |||||||
| 1985 | 古河 | JSL1部 | 22 | 4 | |||||||
| 1986-87 | 古河 | JSL1部 | 21 | 1 | |||||||
| 1987-88 | 古河 | JSL1部 | 22 | 1 | |||||||
| 1988-89 | 古河 | JSL1部 | 21 | 1 | |||||||
| 1989-90 | 古河 | 2 | JSL1部 | 22 | 1 | 2 | 0 | ||||
| 通算 | 日本 | JSL1部 | 189 | 9 | |||||||
| 総通算 | 189 | 9 | |||||||||
[編集] 指導経歴
- 1990年 - 1994年 古河電工/ジェフユナイテッド市原:コーチ
- 1995年 - 1998年7月 日本代表
- 1995年 - 1997年10月:コーチ
- 1997年10月 - 1998年7月:監督
- 1999年 - 2001年 コンサドーレ札幌:監督
- 2003年 - 2006年8月 横浜F・マリノス:監督
- 2007年12月 - 2010年7月 日本代表:監督
- 2012年1月 - 杭州緑城足球倶楽部:監督
[編集] 関連項目
- ジョホールバルの歓喜(1997年 ワールドカップフランス大会アジア地区最終予選)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- 2010 FIFAワールドカップ日本代表
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
| 1999 | J2 | 札幌 | 5位 | 36 | 55 | 17 | 6 | 13 | 1回戦 | 3回戦 |
| 2000 | J2 | 札幌 | 優勝 | 40 | 96 | 31 | 5 | 4 | 1回戦 | 4回戦 |
| 2001 | J1 | 札幌 | 11位 | 30 | 35 | 10 | 5 | 15 | 1回戦 | 3回戦 |
| 2003 | J1 | 横浜FM | 完全優勝 | 30 | 58 | 17 | 7 | 6 | 準々決勝 | 準々決勝 |
| 2004 | J1 | 横浜FM | 優勝 | 30 | 59 | 17 | 8 | 5 | 準々決勝 | 5回戦 |
| 2005 | J1 | 横浜FM | 9位 | 34 | 48 | 12 | 12 | 10 | 準決勝 | 5回戦 |
| 2006 | J1 | 横浜FM | 12位 | 19 | 23 | 6 | 5 | 8 | - | - |
- 2006年は成績不振で引責辞任。順位は辞任当時のもの。
[編集] 監督表彰
- Jリーグ最優秀監督賞:2回(2003年、2004年)
- AFC最優秀監督賞:1回(2010年)
[編集] 指導者としてのスタイル・エピソード
- 1998年フランスW杯最終選考時にて幾度にも渡り戦術を推敲した結果、三浦知良、北澤豪、市川大祐の3人が戦術上、起用が無い事になり代表から外された。この時、岡田が直接三浦に落選を告げており、三浦は当時の事を「他選手に落選を告げる代理として呼び出されたと思ったら、ドアを開けて顔を見た瞬間に『代表から外されるのは自分』と分かった」と回想している。この選考は結果的に三浦を代表から外したという面が強調され、賛否が分かれる論議の的となった。
- 2008年、国内組で組んだ日本代表を率いた大学生との練習試合にて、流通経済大学に0-1で負けている[32]。なお、横浜F・マリノス時代には天皇杯の市立船橋高校との試合で延長でも決着がつかず、PK戦まで追い込まれ辛勝したことがある[33]。
- W杯南アフリカ大会抽選会会場にて、3ヶ月前に親善試合を行ったオランダのファンマルバイク監督と英語で話している時に、「ところで、日本の監督は誰だ?どこにいるの?」と言われ、まったく覚えられていないことが発覚[34]。その後、すぐに会場から去ったため、恒例である同グループリーグの代表監督の集合写真は日本の監督だけ写らなかった。報道陣から、そのことについて尋ねられると、二度目のW杯であるにも関わらず恒例であることを知らなかったとの返答。
- 南アフリカW杯予選中「誰かがいないとできないようなサッカーはしない」と公言してきたが、親善試合のセルビア戦の敗戦後、「正直、メンバーが欠けてしまうと、同じ戦い方はできないなと感じた」と語っており[35]、固執していた戦術に関しても変更もありえると言及している。
- 2008年に川口能活に対して、代表内で競争させることもせずサブで残るか代表を離れるかの選択を迫った[36]。
- W杯南アフリカ大会の会見で起用法とシステムの変更について聞かれたときに、中心の選手がJリーグでも不調が続いており、コンディションが戻るんじゃないかと期待したが、踏ん切りをつけ変えたと答えている。[37]。
[編集] その他のエピソード
- 1995年ごろから神奈川県逗子市に在住している。2010年7月21日には逗子市民栄誉賞を授与された[38][39]。
- カブスカウト、ボーイスカウトに入っていた[40]。
- フリーアナウンサーの堀尾正明とは高校時代にともにサッカー部に在籍していたこともあり練習試合で知り合い、その後、堀尾がメインキャスターを務めたNHKの「2002 FIFAワールドカップ」の特別番組に岡田が解説として出演したこともあり親交がある[41]。
[編集] CM出演
- エスエス製薬「ガストール」(2010年11月~ 「2010年最も胃の痛かった男?」と称し、日本代表の試合のインタビューをバックに流している)
- 高橋書店「2011年版「手帳は高橋」年末広告」(2010年12月~)
[編集] 関連項目
[編集] 書籍
- 『岡田武史 逆境をチャンスに変えよ 強いリーダーになる15の実践』 (著)生島ヒロシ コスミックインターナショナル 1998年5月 ISBN 4885328233
- 『岡田武史の考えるサッカー』 小学館 1998年12月 ISBN 4092041101
- 『指揮官 岡田武史 アルマトイ、フランス、そして札幌』 (著)潮 智史 朝日新聞社 2001年4月 ISBN-10: 4022575867
- 『蹴球日記』 (著)岡田武史 講談社 2002年12月 ISBN 4063086518
- 『岡田武史監督と考えた「スポーツと感性」』 (著)志岐幸子 日本経済新聞出版社 2008年2月 ISBN 4532166519
- 『勝利のチームメイク』 日本経済新聞出版社 2008年3月 ISBN 4532194415
- 『岡田監督 信念のリーダーシップ 勝てる組織をどうつくるか』 (著)児玉 光雄 ダイヤモンド社 2008年5月16日 ISBN 4478005680
[編集] 脚注
- ^ a b c 長田浩一 (2010年6月25日). “岡田さん、ごめんなさい”. 時事通信. 2010年6月29日閲覧。
- ^ “カズ切り、俊輔切り…岡田監督 鬼に徹して勝利つかんだ”. スポーツニッポン. (2010年6月15日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ 1stステージ:8位(勝ち点21、6勝3分6敗)、2ndステージ:14位(勝ち点13、4勝2分9敗)の成績だった。
- ^ 特に、この年のJリーグ新人王に選ばれるなど大活躍を果たす。
- ^ a b “Business Media 誠:岡田武史氏が語る、日本代表監督の仕事とは (1/7)”. ITmedia. 2010年7月7日閲覧。
- ^ “オシム監督の後任、岡田武史氏に要請”. スポーツニッポン. (2007年11月28日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ 【日本代表チーム 新監督就任記者会見】岡田武史監督のコメント J'sGOALニュース(2007年12月7日)
- ^ “岡田ジャパン救世主は…全敗監督の不名誉記録阻止なる?”. 夕刊フジ. (2010年5月10日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ “岡田監督、解任論噴出!韓国に惨敗3位”. デイリースポーツ. (2010年2月15日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ “サポーター4人 岡田監督の解任求め署名提出”. スポーツニッポン (2010年4月27日). 2010年5月1日閲覧。
- ^ “岡田監督が進退伺…完敗後に放り投げ発言”. デイリースポーツ. (2010年5月25日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ a b “支持率90% それでも岡田監督は「もうやらない」”. スポーツニッポン. (2010年6月30日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ “岡田ジャパン末期…初戦敗れれば監督途中“解任”も”. 夕刊フジ. (2010年6月11日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ “屈辱 岡田監督 英紙に酷評された ベスト4目標は「間抜け」”. スポーツニッポン. (2010年6月7日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ 杉山茂樹 (2010年6月10日). “W杯日本代表は正々堂々と全敗せよ”. Voice. 2011年2月13日閲覧。
- ^ 元川悦子 (2010年6月15日). “【日本代表】岡田監督の真骨頂。「守り倒すサッカー」でカメルーンに勝利”. JSPORTS. 2011年2月13日閲覧。
- ^ “開き直りこそ真骨頂 “火事場のばか力”持つ岡田監督”. 産経新聞. (2010年6月15日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ Denmark 1 Japan 3: match report Daily Telegraph(2010年6月24日)
- ^ “岡田監督、驚かせた!堂々の2位通過”. デイリースポーツ. (2010年6月25日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ Super Honda Il Giappone è promossoGazetta dello Sport(2010年6月25日)
- ^ 道開いた大胆な決断=岡田ジャパン快進撃 時事通信(2010年6月25日)
- ^ “伊「オカナチオ」絶賛”. サンケイスポーツ. (2010年6月25日) 2011年2月13日閲覧。
- ^ “南アW杯:岡田監督ごめんなさい…ネットは批判一転、謝罪”. 毎日新聞. (2010年6月25日) 2011年2月13日閲覧。
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- ^ Nスタでのインタビュー(TBS、2010年7月2日)
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