ドーハの悲劇
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| 開催日 | 1993年10月28日 | ||||||
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| 会場 | アル・アリ競技場( |
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| 主審 | セルジュ・ムーメンターラー | ||||||
ドーハの悲劇(ドーハのひげき)は、1993年10月28日、カタールのドーハのアルアリ・スタジアムで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの国際試合(1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の日本代表最終戦)において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本のFIFAワールドカップ初出場が確定するまでわずかな時間を残すだけの状況から一転して予選敗退が決まった事を指す日本での通称である。
目次 |
[編集] 概要
日本ではNHK BS1、および地上波ではテレビ東京がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。テレビ東京での当該視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。
テレビ東京の放送では実況が久保田光彦、解説は前田秀樹。スタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷兄の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森孝慈は「これがサッカーなんですよ」と、ロスタイムの同点劇についてコメントを残している。
NHK BS1の放送では実況が山本浩、解説は田中孝司。岡田武史と田嶋幸三がスタジオ解説、友田幸岐がスタジオ司会であった。試合終了直後、友田にコメントを促された岡田は途中で涙ぐみ、言葉を詰まらせた。
岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。
ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄、解説が小谷泰介。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。また、フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。
[編集] 試合の経過
[編集] 最終予選第4戦まで
日本は、1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。
この最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われ、1次予選を勝ち抜いた6か国の総当たりリーグ戦で、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。
日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分け、第2戦のイラン戦を1-2で落とした。 この時点で最下位に転落したが、第3戦の北朝鮮戦を3-0で勝利し、続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立ち本戦出場に王手をかけた。
イラクは1次予選でA組に参加し、6勝1分1敗で勝ち点13、中国を勝ち点1差で抑え首位で通過した。最終予選では初戦の北朝鮮戦に2-3で敗れた後、韓国戦に2-2で引き分け、イラン戦では2-1で初勝利を収め、サウジアラビア戦は1-1の引き分けを記録していた。
各国は最終戦を残して、順位は以下のとおり。
| 順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 5 | 2 | 1 | 1 | +3 | 5 | |
| 2 | 5 | 1 | 3 | 0 | +1 | 4 | |
| 3 | 4 | 1 | 2 | 1 | +2 | 6 | |
| 4 | 4 | 1 | 2 | 1 | 0 | 7 | |
| 5 | 4 | 2 | 0 | 2 | -2 | 5 | |
| 6 | 2 | 1 | 0 | 3 | -4 | 5 |
- (当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0。
- 勝ち点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。)
最終戦の組合せは、
となっており、北朝鮮以外の5か国に本大会出場のチャンスがあったが、首位の日本は勝てば他の試合の結果にかかわらず出場決定、引き分けた場合でもサウジアラビア・韓国が共に勝利するのでなければ出場権をほぼ得られるはずで、日本はかなり有利な条件で最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本に勝利すれば3位以上となり、あとはサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れれば1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。また、3位の韓国は、日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は、北朝鮮戦で勝利しても本大会出場ができない状況にあった。
[編集] 最終戦
最終戦、日本は開始5分に長谷川健太のミドルシュートがクロスバーに弾かれた所を三浦知良がヘディングで押し込み先制。前半は日本が試合を優位に進めたまま終了した。しかし、後半に入るとイラクが反撃に転じ、54分にアーメド・ラディが粘り強いボールキープからシュートを決め同点に追いついた。勢いに乗るイラクは、その後も決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず時間は経過していった。逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角に決め2-1の勝ち越しに成功した。
このまま時間は経過して89分40秒、ラモスのパスをカットしたイラクはカウンターアタックを仕掛けコーナーキックのチャンスを得た。このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、意表を突くショートコーナーをフセイン・カディムに渡した。フセイン・カディムは、慌てて対応に走った日本の三浦知をドリブルで振り切りセンタリングを上げ、これをオムラム・サルランがヘディングシュート。ボールはゴールキーパー松永の頭上を放物線を描いて越えてゴールに吸い込まれ同点となった(90分20秒)。イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが、愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審のセルジュ・ムーメンターラーの笛が鳴らされ試合終了。2-2で引き分けとなった。
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、サウジアラビア4-3イラン、韓国3-0北朝鮮だったため、最終順位は以下のとおりとなり、得失点差で韓国に及ばず3位となった日本は本大会への出場権を逃した。
| 順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 7 | 2 | 3 | 0 | +2 | 8 | |
| 2 | 6 | 2 | 2 | 1 | +5 | 9 | |
| 3 | 6 | 2 | 2 | 1 | +3 | 7 | |
| 4 | 5 | 1 | 3 | 1 | 0 | 9 | |
| 5 | 4 | 2 | 0 | 3 | -3 | 8 | |
| 6 | 2 | 1 | 0 | 4 | -7 | 5 |
[編集] 試合結果
| 1993年10月28日 16:15 |
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| 日本 |
2 - 2 | アル・アリ競技場, ドーハ 主審: |
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| 三浦知良 中山雅史 |
アーメド・ラディ オムラム・サルマン |
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[編集] 登録メンバー
選手の所属クラブ名は当時のもの。
| ゴールキーパー | ||
|---|---|---|
| 1 | 松永成立 | 横浜マリノス |
| 19 | 前川和也 | サンフレッチェ広島 |
| ディフェンダー | ||
| 2 | 大嶽直人 | 横浜フリューゲルス |
| 3 | 勝矢寿延 | 横浜マリノス |
| 4 | 堀池巧 | 清水エスパルス |
| 5 | 柱谷哲二 | ヴェルディ川崎 |
| 6 | 都並敏史 | ヴェルディ川崎 |
| 7 | 井原正巳 | 横浜マリノス |
| 21 | 三浦泰年 | 清水エスパルス |
| 22 | 大野俊三 | 鹿島アントラーズ |
| ミッドフィルダー | ||
| 8 | 福田正博 | 浦和レッズ |
| 10 | ラモス瑠偉 | ヴェルディ川崎 |
| 14 | 北澤豪 | ヴェルディ川崎 |
| 15 | 吉田光範 | ヤマハ発動機 |
| 17 | 森保一 | サンフレッチェ広島 |
| 18 | 澤登正朗 | 清水エスパルス |
| フォワード | ||
| 9 | 武田修宏 | ヴェルディ川崎 |
| 11 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 |
| 12 | 長谷川健太 | 清水エスパルス |
| 13 | 黒崎比差支 | 鹿島アントラーズ |
| 16 | 中山雅史 | ヤマハ発動機 |
| 20 | 高木琢也 | サンフレッチェ広島 |
| 監督 | ハンス・オフト | |
| コーチ | 清雲栄純 | |
| GKコーチ | ディド・ハーフナー | |
- 斜字は主将。
[編集] 評価
サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、左サイドバックの都並敏史の負傷離脱後のバックアップメンバーの不在、そしてイラク戦のハーフタイム中に興奮する選手達を落ち着かせ、適切な指示を与えることが出来なかった、とオフト自身の指導力の限界を指摘した。オフトは後に「ゲームの作り方(組織戦術)は教えたが、ゲームの壊し方(試合を逃げ切る方法)は教えることが出来なかった」と語っている[1]。日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフトの解任を決定。10日に強化委員長の川淵三郎とオフトとの間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。
一般マスコミや一般ファンは、ワールドカップ出場を直前で逃したにも関わらず、この結果を好意的に受け止めた。選手達を乗せたチャーター便が成田国際空港に到着すると、数百人のファンが出迎え選手達を暖かく迎えた[2]。しかし、こういった反応はワールドカップ出場をギリギリで逃した選手達にとって複雑なものだったという[2]。また実際に現場で取材したベテラン記者の中には、こうした国内の反応を苦々しく思う者もいた[2]。
また川淵三郎は、この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した[3]。
この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡(도하의 기적)」と呼ばれている[4]。日本でも捉え方によっては「ドーハの奇跡」と呼ばれることもある[5][6]。
[編集] その後
この予選では中立地での対戦で本大会出場を逃した日本であったものの、次の1998年フランス大会、およびその次の2006年ドイツ大会(2002年日本・韓国大会は開催国で予選免除)の予選においては、奇しくも2大会続けて、中立地での対戦で勝利したことにより本大会出場を決めている。
1998年大会のアジア最終予選においては、最終予選がホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになったものの、アジア3位決定プレーオフは中立地での一発勝負となっており、このプレーオフに勝利して本大会出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。また2006年大会のアジア最終予選においては、第5節で本来であれば北朝鮮代表との試合をアウェーで行うところであったものの、前の北朝鮮のホームゲームにおいて観客の暴動があったことから、北朝鮮のホームゲーム国内開催権が剥奪され、中立地(タイ・バンコク)での対戦となった。この試合で日本が勝利したことにより、本大会出場を確定させた[7]。
ドーハの悲劇から18年後、カタールで開催されたAFCアジアカップ2011では日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、『もうドーハは「悲劇の地」では無くなった』などと言われた[8]。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。
[編集] 脚注
- ^ 後藤健生 『日本サッカー史』286頁。
- ^ a b c 潮智史 『日本代表監督論』63頁。
- ^ 川淵三郎『私の履歴書』、日本経済新聞2008年2月17日
- ^ その後、大韓サッカー協会はオムラムを韓国に招待し国賓級の待遇をもてなし、韓国のテレビ番組でも英雄扱いされた
- ^ 大住良之 『アジア最終予選』189頁。
- ^ 日本のフジテレビもオムラムらイラク代表を日本に招待し、ニュース番組でドーハの悲劇の感想を聞いたりバラエティ番組「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」で芸能人らとのリベンジマッチを行わせたりもした(1994年4月8日放送分)
- ^ “日本、W杯出場 3大会連続”. 読売新聞 (2005年6月9日). 2011年10月3日閲覧。
- ^ http://www.nikkei.com/sports/column/article/g=96958A88889DE0E0E7E1E4E2E2E2E1E2E2E3E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E3E3E0E0E2E2EBE0E5E6EB
[編集] 参考文献
- 潮智史『日本代表監督論』講談社、2002年
- 大住良之『アジア最終予選』双葉社、2005年
- 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年
- 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』双葉社、2007年
- 週刊サッカーマガジン1993年11月17日号
[編集] 関連項目
- パリの悲劇
- ヤウンデの悲劇
- ジョホールバルの歓喜(1998 FIFAワールドカップ・アジア地区第3代表決定戦 「日本vsイラン」)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- 外国国章損壊罪