本田圭佑

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本田 圭佑 Football pictogram.svg
Keisuke Honda CSKA.jpg
名前
愛称 ケイスケ ホンディー
カタカナ ホンダ ケイスケ
ラテン文字 HONDA Keisuke
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1986年6月13日(26歳)
出身地 大阪府摂津市
身長 182cm[1]
体重 74kg[1]
選手情報
在籍チーム ロシアの旗 CSKAモスクワ
ポジション MF (OH, SH) / FW (CF, WG)
背番号 7
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2005-2007
2008-2009
2010-
日本の旗 名古屋グランパス
オランダの旗 VVVフェンロー
ロシアの旗 CSKAモスクワ
90 (11)
68 (24)
65 (18)
代表歴2
2005
2006-2008
2008-
日本の旗 日本U-20
日本の旗 日本U-23
日本の旗 日本
1 (0)
18 (5)
41 (13)
1. 国内リーグ戦に限る。2012年9月17日現在。
2. 2013年2月6日現在。
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

本田 圭佑(ほんだ けいすけ、1986年6月13日 - )は、大阪府摂津市出身のプロサッカー選手ロシア・プレミアリーグCSKAモスクワ所属。ポジションミッドフィールダーフォワード日本代表

目次

経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]

大阪府摂津市出身。両親は、本田が小学2年の春に離婚。幼少時は鳥飼さつき園に通っていた。摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始める。摂津市立第四中学校に入学。中学時代のあだ名はゴリ(赤いタンクトップにジーパンで腕相撲が強く体がでかかったため)[2]。その後、ガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博安田理大東口順昭らと共にプレーしたが[2]、ユースチームへの昇格の内定が出なかったため、石川県星稜高校へ進学した[3]。1年時に高円宮杯全日本ユース選手権で準優勝し、3年時には第83回全国高等学校サッカー選手権大会に出場して、石川県勢として初のベスト4に貢献した[3]。高校では、豊田陽平橋本晃司と共にプレーした。2004年には特別指定選手として名古屋グランパスの練習に参加し、ナビスコカップなどの公式戦にも起用されるなど、数試合出場を果たした。同時期に横浜F・マリノスの練習にも参加したが、獲得は見送られた[4]

名古屋グランパス [編集]

高校卒業に際して複数のJリーグクラブから勧誘を受け[3]2005年シーズンから名古屋とプロ契約を結んだ。名古屋加入時の契約では、本人の希望により「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項が盛り込まれていた[5]。開幕戦から先発出場してアシストを決め、翌年にはレギュラーに定着した。2005年のFIFAワールドユース選手権・オランダ大会U-20日本代表として招集され、初戦のオランダ戦に守備的な中盤として先発したが[6]、試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となった(後半19分、水野晃樹。結果は1-2で敗戦)。この後チームは16強に進出するものの、守備的な中盤、梶山陽平の復調もあって出場機会はなかった。2006年にはA代表にも飛び級で初招集されたが出場はなかった。2007年北京オリンピックアジア予選では、主力として五輪出場権獲得に貢献した。

VVVフェンロー [編集]

VVVフェンローでの本田

2008年1月、エールディビジ(オランダ1部リーグ)のVVVフェンローへ移籍した。加入会見ではオランダ語で挨拶を行い、その日のうちに、昨シーズンまで名古屋の監督を務めていたセフ・フェルホーセンが率いるPSV戦に出場した。残りのシーズンはレギュラーとしてプレーしたものの、5月にクラブがエールステ・ディヴィジ(オランダ2部リーグ)への降格が決定した。8月にU-23日本代表として出場した北京オリンピックでは、中盤の主力として1次リーグ全3試合に出場して谷口博之や梶山陽平らと共に攻撃を牽引したが、3連敗で1次リーグ敗退した。

2008-09シーズンは2部に降格したVVVに残留した。同シーズンのリーグ戦にて、本田は攻撃の軸として開幕から首位を独走するチームの原動力となり、シーズン途中からはフリーキッカーとキャプテンを任された。リーグ戦36試合に出場し、16ゴール13アシストを挙げ、チームの2部リーグ優勝と1部復帰に貢献し、2部リーグにおける年間最優秀選手賞(MVP)を受賞した[7]

2009-10シーズンもVVVで開幕を迎えることとなった。冬の移籍市場において、移籍金900万ユーロ(約12億円)[8][9][10]、4年契約でロシア・プレミアリーグの強豪CSKAモスクワへの移籍が決まった。

CSKAモスクワ [編集]

2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦がCSKAでの初出場となり、同時にチャンピオンズリーグ初出場となった。3月12日のリーグ開幕戦であるアムカル戦では、試合終了間際の後半ロスタイムに決勝点を決め、チームのシーズン初勝利に貢献[11]。セビージャとのアウェーでの2ndレグでは、前半39分にCL初のアシストを、後半10分にはゴール約30mの位置から決勝点となる直接FKを決め、CL初得点。2戦合計3-2でCSKAが勝利し、日本人初、クラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるCLベスト8への原動力となった。この試合ではマンオブザマッチに選ばれ、さらに1stレグ2ndレグ共に欧州の複数のスポーツ紙にてCL週間ベストイレブンに選ばれた[12][13]。リーグ前半終了時点でのロシアスポーツ紙の採点[14]では平均5.96で全選手中10位(1位は6.25)と、VVV時代とは違う不慣れなボランチでの出場が多いながらも高く評価され、最終的に4得点と結果を残し、CSKAモスクワのCL本戦出場権獲得に貢献した。

2011年5月22日に行われたロシア・カップ決勝のアラニア戦では、途中出場で決勝点をアシストし、CSKAモスクワの2季ぶり6度目の優勝に貢献した。2011-12シーズンは、主にボランチではなく得意とする右サイドハーフで起用されたことで得点に絡む機会が増え、18試合で前シーズンを上回る7得点を挙げるなど好調を維持していたが、8月28日のスパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、後日手術を受け、全治には最大3ヶ月と発表された[15]。11月18日、ルビン・カザン戦で2カ月半ぶりに復帰を果たすも[16]、右膝の故障が再発しまたも戦線離脱となり、CLグループステージは全試合欠場した。2012年1月、イタリア・セリエAの強豪SSラツィオへの移籍が取り沙汰されたが、高額な移籍金がネックとなり移籍は破談となった[17]。2012年2月21日、CL決勝トーナメント1回戦1stレグレアル・マドリード戦で、約3カ月ぶりに公式戦復帰を果たした。しかし、2ndレグは左太ももの負傷で出場できずチームも敗退した。その後4月21日のディナモ・モスクワ戦で復帰、以降出場を続け、最終節のFCルビン・カザン戦で9カ月ぶりの得点を決めるもチームは敗れCL出場権を逃した。

2012-13シーズン、開幕から前半戦18試合で7得点を挙げるなど好調な活躍を見せていたが、2013年2月に左足首の負傷が発覚しチームを離脱。以後、長期に渡り治療を余儀なくされ、3月のW杯アジア最終予選ヨルダン戦も欠場したが、4月21日のスパルタク・モスクワ戦で約4カ月半ぶりに実戦復帰を果たした。同シーズン、CSKAモスクワは6シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、自身にとっても初の欧州一部リーグでの優勝となった。

日本代表 [編集]

2008年6月に開催されたFIFAワールドカップ・アジア3次予選の対バーレーン戦で、A代表初出場を果たし、2009年5月27日キリンカップの対チリ戦で、A代表初得点を記録した。

2010年6月に開催されたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会では、攻撃の中心として全4試合にフル出場。この大会では、大会直前にそれまで経験のないセンターフォワードのポジション(0トップ)に急遽配され、グループリーグ初戦のカメルーン戦では松井大輔のクロスを合わせて決勝点をあげ、FIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ(その試合での最優秀選手)」に選出された[18]。第3戦のデンマーク戦でもゴールまで約37mの距離から直接フリーキック(独特の無回転で左右に揺れ急激に落下するシュート)で先制点を挙げ、岡崎慎司の得点もアシストするなど1ゴール1アシストの活躍で、日本代表の決勝トーナメント進出に貢献し、この試合でも「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された[19]。 決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では強烈なミドルシュートを放つなど強い印象を残し、PK戦では4人目のキッカーを任され、失敗すればその時点で日本の敗退が決まるという場面でも落ち着いて決めた。日本代表は敗れ(記録上は引き分け)たものの、敗戦チームからは異例の今大会3度目となる、「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された[20]。後に公表されたFIFAの技術研究グループが作成したW杯南アフリカ大会の報告書では、松井大輔と共にドリブル技術が高いと評価された[21]

2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011ではトップ下で起用され、左足首捻挫で欠場したグループリーグ第3戦のサウジアラビア戦を除く5試合にフル出場。グループリーグ第2戦のシリア戦では、ドリブルで相手GK・DFを引きつけて先取点に繋がるきっかけを作り、PKで日本代表の通算1000点目となる勝ち越しゴールを決め、準決勝の韓国戦でも全2得点に繋がる縦パスを決める活躍で、この2試合で「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれた。準々決勝のカタール戦での2得点に繋がる縦パスを含め、出場した試合で日本代表が挙げた全9得点中6得点に絡む活躍で日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に貢献し、同大会の最優秀選手(MVP)に選出された[22]

同年2月7日、全国のサッカー担当記者の投票による2010年度のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)では、有効投票202票のうち75票を集め、33票で2位の楢崎正剛や22票で3位の香川真司田中マルクス闘莉王らを抑えて、初選出された[23](50年の歴史がある賞だが、海外のクラブでプレーする選手がこの賞を受賞するのは初)。3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、1点目のきっかけとなったフリーキックを獲得し、岡崎の2点目をアシストする活躍を見せた。

2012年5月23日、キリンチャレンジカップアゼルバイジャン戦で、背番号をそれまでの「18番」から「4番」に変更した。背番号変更に関し「4番が守備的というイメージを払拭し、初めて4番で点が取れる選手になれれば面白いかな」と明かした[24]。6月8日、2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選ヨルダン戦で自身A代表初のハットトリックを達成した[25]。本田のハットトリックは高校時代以来でプロ入り以降は初めてであり[26]、またワールドカップ予選における日本人選手のハットトリックは、97年フランス大会予選の三浦知良以来15年ぶりの記録となった[26]

プレースタイル [編集]

ピッチに入る本田

高いテクニックと強靭なフィジカル、優れた得点力を備えたトップ下。ボールキープやパス能力に優れ、左足から放たれる強烈なシュートで積極的にゴールを狙う。以前は「自分の中の美学はパスだった」と語っており、名古屋時代、シュートへの意識はそれほど高くなかったが、海外移籍後は、ゴール数を残すことがキャリアアップへの近道と考え、どん欲にゴールを目指すスタイルを確立した。日本人としては珍しく屈強なフィジカルを持ち、外国人選手との一対一でも当たり負けすることは少なく、本人は「基本的に小さい頃からサッカーは倒れたら負けというつもりでやってきた」と語っている。またフリーキックの精度が高く、無回転とカーブする球を蹴り分けることができる[27][28][29]

運動量も豊富で、CSKAモスクワでは、チーム内で1位2位を争うほどの走行距離であり、FIFAワールドカップ・南アフリカ大会では4試合390分で45.48kmとトップの遠藤保仁に次ぐ数値を記録している[30]。以前は日本代表において守備時の運動量の少なさを指摘されることもあった[31]。また全ての中盤のポジションとウイング、時にはセンターフォワードサイドバック[32]も務めユーティリティ性に優れている。

FIFAワールドカップ・南アフリカ大会のパラグアイ戦では、両チームの中で最速の時速29.43kmを記録した。この数字は一瞬のもので、どれくらいの時間、持続していたかわからないが、少なくとも鈍足でないと言える[33]

評価 [編集]

2010年のFIFAワールドカップ・南アフリカ大会敗退直後、アーセナルアーセン・ヴェンゲル監督より「天才」「ここまでのベストプレーヤー」「間違いなくトップレベル」「日本のさらなる成長の為には本田のように能力が揃っているクローン選手を育成するべき、それが無理なら本田をさらに活かす為にビジャのような相棒を探すべき」との絶賛を受けた[34]。 10月には世界的なサッカー情報サイト「goal.com」が「アジア人最高のサッカー選手」と称える記事を掲載した[35]

人物 [編集]

  • 実兄で現在は俳優の本田弘幸も元サッカー選手で、2005年には大分トリニータ入団が決まっていたが怪我の為に現役生活を終えた。1964年東京オリンピックカヌー競技のカナディアンペアに出場した本田大三郎は大叔父であり、その息子でレスリングのフリースタイルで3大会連続のオリンピック出場経験を持つプロレスラー本田多聞は従兄弟違い(父母の従兄弟)になる[3]。母親は広島の出身[36]
  • 2008年7月に元保育園勤務の保育士の女性と結婚後[37]オランダ時代には日本から連れてきた柴犬のテツと共に生活していた。
  • 名古屋時代は黒髪だったが、オランダに移籍してからは金髪にしており、現在では本田のトレードマークになっている[38]
  • 北京五輪のグループリーグで敗退が決まった後の消化試合では、数名の選手と共に監督・反町康治の指示に造反していた事を明かした[39]。そのような背景にはサッカーに対する非常に高い向上心があり、これまでのインタビューでも、ガンバ大阪ユースに昇格出来なかった時の悔しさや、学生時代から常に世界で活躍するプロサッカー選手を見据えていたことなどを度々語っている。
  • プライベートでは、いつも両腕に腕時計をつけている[2]。2011年10月にはイタリアの腕時計メーカー「GaGa MILANO」とスポンサー契約を結んだ[40]
  • サッカーだけでなく語学を学び、チームメイトと直接会話することを重視しており、オランダ時代は英語、ロシア時代はロシア語を学んでいた[41]。また海外のメディアに対しては通訳をつけず英語でインタビューに答えている。
  • スパイクはミズノの「IGNITUS MD」を使用している[42]。W杯後に本田の活躍によりこのスパイクが急激に売れたとのこと。ちなみに右足は26.5cm、左足は27cmとサイズが異なるだけでなく、2010年W杯の時は右足のポイントを付け替え式、左足を固定式とするなど、左右非対称の構成を採用している。またメンテナンスは欧州移籍後も古巣・名古屋グランパスの用具担当である松浦紀典に依頼しており、松浦によれば「年間で約10 - 15足ほどを消費する」という[43]
  • ファッションが独特で、空港での帰国や出国の際、メディアに取り上げられることが多い。2010年の南アフリカワールドカップから帰国した際は、チーム内で唯一のサングラス姿で到着ロビーに現われた[44]

エピソード [編集]

  • 利き足と生年月日が一緒である家長昭博とはガンバ大阪ジュニアユースの同期生であり、親友として互いに尊重しあう間柄である[45]
  • 中田英寿とは、日本代表のトップ下を務める新旧エースとして比較されることが多い。21歳で欧州リーグへ移籍し活躍していることをはじめ、日本人離れした強靭なフィジカルとメンタリティ、ファッションへの独自の拘りといった共通点が挙げられる。二人は南アフリカW杯の直前に放映された対談で初対面し[46]、お互いのサッカー観について「思っていたとおり。自分と似ている」と口を揃えて語った。本田は中田について「最も欧州で成功した日本人選手で、僕を含めた日本の子供たちに色々な面で影響を与えた人」と評し[47]、中田は本田について「彼は貪欲に上を目指せるタイプで、今後の日本を背負う選手」と期待を寄せている[48]
  • 長谷部誠とは普段から電話連絡を取り合う仲で、長谷部は本田のチャレンジし続ける姿に刺激を受けているとコメントしている[49]
  • 高2の頃、名古屋グランパスエイトにおける練習中に当時のエースウェズレイのパワフルなフリーキックに衝撃を受ける。助走の歩数や角度などを研究、本人に筋肉の使い方を聞いたりもした。この頃はカーブさせるフリーキックを蹴っていたが、入団2年目からは無回転シュートを蹴るようになった[50]
  • VVVフェンロー時代、2009-10シーズン第2節のデン・ハーグ戦では、序盤0対2と劣勢に立たされながら本田の2ゴールで同点とした試合で、退場処分を受けながらなかなかピッチから出ようとしない相手選手に対し、本田が駆け寄り退場するように促した際、相手選手が激昂し本田の胸を突き、これをきっかけとし両軍入り乱れの乱闘となった。この時、サポーターから「HONDA! HONDA!」と大合唱が起きた。
  • VVVフェンローは「本田を放出した際の移籍金の一部を、新スタジアム建設に充てる」と発表した。NHKの取材に対してサポーターたちは「新スタジアムの名前は『ケイスケ・ホンダスタジアム』にすべきだ」「名前がダメならせめて銅像だけでも建てるべき」など、本田の功績と求心力が伺えるコメントを残し、VVVフェンローのハイ・ベルデン会長も「ケイスケのクラブに対する功績は何らかの形で残すつもりだ」と明言した[51]
  • 2010年6月からロシア国内でCSKAモスクワのスポンサーの現代自動車のテレビCMにヴァシリ・ベレズツキイゴール・アキンフェエフとともに出演していた[52]
  • 2ちゃんねるをはじめとしたインターネット掲示板ツイッターmixiYouTubeのコメント欄などにおいて本田△(意味:本田三角形→本田さんかっけー→本田さんカッコイイ)というのがネットスラングとして広がっており[53]、2010年度の「新語・流行語大賞」にもノミネートされた[54]
  • FIFAワールドカップ・南アフリカ大会後、テレビや雑誌などの取材が100本近く殺到したが、全てに断りを入れた。その中には600万円のギャラを提示したビストロSMAPも含まれる[55]。代わりに自身が通っていた保育園や高校などを次々にアポなし訪問、園児や生徒を激励した[56][57]
  • FIFAワールドカップ・南アフリカ大会後、ビッグクラブへの移籍が噂されていたが、自身をレアルタイプと考えており、将来の夢はスペイン・リーガ・エスパニョーラの名門レアル・マドリードで10番をつけてプレイすること。この夢を目標としたのは、高校時代である[58]
  • 2011年3月、東日本大震災の義援金として日本赤十字社を通じて5000万円を寄付した[59]。また、サッカーボール200個を被災地の子供たちに寄贈した[59]。さらに、「Notice of Honda災害支援基金」を設立して募金を募り、集まった950万円を超える基金を運用し、被災地の宮城県石巻市にフットサル場を建設した[59]
  • 2011年8月に、オランダ2部のVVVフェンローで2009-10シーズンMVPを獲得した活躍を称え、高校時代を過ごした第2の故郷・石川県金沢市内に子供向けの42メートル×28メートルの人工芝コート「本田圭佑クライフコート」が設置された[60]。 オランダのNPO法人ヨハン・クライフ財団からフェンローのベルデン会長を通じ、同コートを寄付したい旨の要望が日本サッカー協会に届いた。その後、日本協会が石川県協会、金沢市などの協力を経て実現する運びとなった。
  • 代表戦前のオフにチームメイトで同期の長友佑都岡崎慎司西川周作とカラオケに行った際、ウルフルズの『ガッツだぜ!!』を熱唱した。長友によると「これを歌わなきゃ、俺は戦えない」と語ったという[61]
  • 2012年5月、自身がプロデュースするサッカースクール「SOLTILO FAMILIA」を地元の大阪に開校[62]。同年11月には神戸にも開校している。SOLTILOはスペイン語の「SOL=太陽」と「ESTILO=スタイル」からの造語で、FAMILIAは家族を意味する。
  • 1999年から2004年に週刊少年サンデーで連載されていたサッカー漫画ファンタジスタ」のファンであり、2009年に作者の草場道輝と対談。これがきっかけで、2012年10月から連載されているファンタジスタの続編「ファンタジスタ ステラ」に原案という形で参画し、本人役で登場している[63]

所属クラブ [編集]

ユース経歴
プロ経歴

個人成績 [編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2004 名古屋 39 J1 0 0 1 0 - 1 0
2005 24 31 2 2 0 2 0 35 2
2006 29 6 4 2 1 0 34 8
2007 30 3 3 0 2 0 35 3
オランダ リーグ戦 リーグ杯 KNVBカップ 期間通算
2007-08 VVVフェンロー 29 エールディヴィジ 14 2 - - 14 2
2008-09 10 エールステ・ディヴィジ 36 16 - 1 0 37 16
2009-10 エールディヴィジ 18 6 - 2 2 20 8
ロシア リーグ戦 ロシア杯 オープン杯 期間通算
2010 CSKAモスクワ 7 ロシア・プレミア 28 4 5 0 - 33 4
2011-12 25 8 1 0 - 26 8
2012-13 19 7 1 1 -
通算 日本 J1 90 11 10 2 5 0 105 13
オランダ エールディヴィジ 32 8 - 2 2 34 10
オランダ エールステディヴィジ 36 16 - 1 0 37 16
ロシア ロシア・プレミア 53 12 6 0 - 59 12
総通算 211 47 16 2 8 2 235 51

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
UEFA UEFA EL UEFA CL
2009-10 CSKAモスクワ 18 - 4 1
2010-11 7 7 1 -
2011-12 - 1 0
通算 UEFA 7 1 5 1

その他の国際公式戦

経歴 [編集]

タイトル [編集]

クラブ [編集]

オランダの旗 VVVフェンロー
ロシアの旗 PFC CSKAモスクワ

代表 [編集]

個人 [編集]

代表歴 [編集]

2009年8月21日、練習中

出場大会 [編集]

試合数 [編集]

  • 国際Aマッチ 41試合 13得点 (2008年 - )


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2008 1 0
2009 10 3
2010 12 3
2011 8 2
2012 9 4
2013 1 1
通算 41 13

ゴール [編集]

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2009年5月27日 日本、大阪 チリの旗 チリ ○4-0 キリンカップサッカー2009
2. 2009年10月10日 日本、横浜 スコットランドの旗 スコットランド ○2-0 キリンチャレンジカップ2009
3. 2009年10月14日 日本、宮城 トーゴの旗 トーゴ ○5-0
4. 2010年3月3日 日本、豊田 バーレーンの旗 バーレーン ○2-0 AFCアジアカップ2011 予選
5. 2010年6月14日 南アフリカ、ブルームフォンテーン カメルーンの旗 カメルーン ○1-0 2010 FIFAワールドカップ
6. 2010年6月24日 南アフリカ、ルステンブルク デンマークの旗 デンマーク ○3-1
7. 2011年1月13日 カタール、ドーハ シリアの旗 シリア ○2-1 AFCアジアカップ2011
8. 2011年8月10日 日本、札幌 韓国の旗 韓国 ○3-0 キリンチャレンジカップ2011
9. 2012年6月3日 日本、埼玉 オマーンの旗 オマーン ○3-0 2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選
10. 2012年6月8日 日本、埼玉 ヨルダンの旗 ヨルダン ○6-0
11.
12.
13. 2013年2月6日 日本、神戸 ラトビアの旗 ラトビア ○3-0 キリンチャレンジカップ2013

CM出演 [編集]

脚注 [編集]

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  1. ^ a b 本田圭佑オフィシャルWEBサイト - Profile
  2. ^ a b c 本田圭佑という男。、安田理大公式ブログ、06/19/2008
  3. ^ a b c d 一人立つ、夢への舞台 サッカー・本田圭佑さん、朝日新聞、2008年7月14日
  4. ^ 「得点に絡むプレーを」本田に切り札の期待 サンケイスポーツ2010年5月11日閲覧
  5. ^ 2010年6月16日付中日スポーツ紙面
  6. ^ 次につながる死闘を演じた大熊ジャパン(1/2)ワールドユース現地リポートスポーツナビ、2010年3月18日閲覧
  7. ^ 本田が最優秀選手 サッカーオランダ2部、共同通信社、2009年5月15日
  8. ^ [1]、Чемпионат.ру、2010年1月02日
  9. ^ [2]、Футбол на Куличках、2010年1月04日
  10. ^ サッカー=日本代表MF本田、CSKAモスクワに移籍”. ロイター (2010年1月2日). 2011年1月10日閲覧。
  11. ^ 本田決勝弾!開幕戦衝撃デビュー/ロシア日刊スポーツ、2010年3月13日
  12. ^ SKYSPORTS 2010.3.18
  13. ^ Goal.com Mar 18, 2010
  14. ^ СПОРт2010.8.24
  15. ^ 本田が右ひざ手術、最大3カ月の戦線離脱…CLグループリーグ全試合欠場の可能性もSOCCER KING、2011年9月2日
  16. ^ 本田、約2カ月半ぶりに復帰しFKでゴールを脅かすもCSKAは敗戦SOCCER KING、2011年11月19日
  17. ^ 本田 ラツィオ移籍が破談に…原因は移籍金の支払い方法 スポニチ、2012年2月1日
  18. ^ Honda creates history for Japan 2010 FIFAワールドカップ公式サイト 日本対カメルーン戦評
  19. ^ 2010 FIFAワールドカップ公式サイト 日本対デンマーク戦評
  20. ^ Match 55 - Round of 16 - 29 June FIFA.com 2010年7月9日閲覧
  21. ^ ドリブル技術の高さ 空中戦の強さ FIFAが評価した日本代表3人スポニチ2010年09月03日
  22. ^ “本田圭、全員MVP!受賞も謙虚/アジア杯 (2/2ページ)” (日本語). サンケイスポーツ (SANSPO.COM). (2011年1月31日). http://www.sanspo.com/soccer/news/110131/scc1101310507008-n2.htm 2011年2月7日閲覧。 
  23. ^ “本田圭 大差で年間最優秀選手に 記者投票で初選出” (日本語). スポーツニッポン (スポニチ Sponichi Annex). (2010年2月7日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/02/07/kiji/K20110207000202520.html 2011年2月7日閲覧。 
  24. ^ 本田が初めて明かした「4番」の真相、「4番がエースストライカーでもいい」ゲキサカ、2012年5月23日
  25. ^ “代表では初ハットトリックの本田圭佑「出来過ぎな部分もある」/ヨルダン戦” (日本語). サッカー (SOCCER KING). (2012年6月9日). http://www.soccer-king.jp/daihyo/article/201206090055_japan_honda.html 2012年6月9日閲覧。 
  26. ^ a b “本田ハット!カズ以来の快挙で6発大勝“主役”” (日本語). スポーツニッポン (スポニチ Sponichi Annex). (2012年6月9日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/06/09/kiji/K20120609003426550.html 2012年6月9日閲覧。 
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関連項目 [編集]

外部リンク [編集]