東京ヴェルディ1969

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東京ヴェルディ1969
原語表記 東京ヴェルディ1969
呼称 東京ヴェルディ
クラブカラー     グリーン[1]
創設年 1969年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン2
クラブライセンス J1・J2
ホームタウン 東京都[1]
ホームスタジアム Ajinomoto Stadium 20120311.JPG
味の素スタジアム
収容人数 49,970
運営法人 東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社[1]
代表者 羽生英之[1]
監督 日本の旗 三浦泰年
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社[1]
TOKYO VERDY 1969 FOOTBALL CLUB, Inc.
種類 株式会社
略称 東京ヴェルディ、東京V
本社所在地 東京都稲城市矢野口4015-1(よみうりランド本社ビル内)[1]
設立 2009年7月
業種 サービス業
事業内容 プロサッカークラブの運営など
代表者 代表取締役社長 羽生英之
資本金 2億4200万円
売上高 10億7,500万円 (2012年1月期)
経常利益 600万円 (2012年1月期)
営業利益 600万円 (2012年1月期)
純利益 600万円 (2012年1月期)
純資産 700万円 (2012年1月期)
総資産 2億1,500万円 (2012年1月期)
決算期 1月期
主要株主 バディ企画研究所ほか13社 98.8%
京王エージェンシー
三和
稲城市多摩市日野市立川市
(2010年10月30日現在)
関係する人物 渡邉恒雄崔暢亮、古賀鉄也
外部リンク http://www.verdy.co.jp/
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東京ヴェルディ1969(とうきょうヴェルディ1969、Tokyo Verdy 1969)は、日本東京都にホームを置く[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は「東京ヴェルディ」。

目次

概要 [編集]

1969年に創部された読売サッカークラブが前身[1]となり、1991年にJリーグへ加盟した[1]オリジナル10のひとつ)。呼称のヴェルディは、ポルトガル語の「Verde」(緑の意味)からの造語である[1]。エンブレムに描かれている鳥は始祖鳥。マスコットキャラクターはコンドルヴェルディくん[1]

運営会社商号(会社名)は、1998年までは「株式会社読売日本サッカークラブ」、1998年から2009年10月20日までは「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、2009年10月21日以降は「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」となっている。

ホームスタジアムは味の素スタジアム[1]、クラブハウス・練習場はヴェルディグラウンド[1](東京都稲城市と川崎市多摩区に跨って位置するよみうりランドの敷地内)を、男子トップチーム以外の下部組織と一緒に使用している(詳細は#ホームタウンおよびホームスタジアムを参照)。なお、クラブハウス及びグラウンドは川崎市内だが、京王よみうりランド駅前の株式会社よみうりランド本社ビル内に本社が設置されているため、登記上の住所は東京都稲城市となっている。ユースなどの下部組織チームは、V川崎時代においても東京都サッカー協会の所属のままだった。

名称・呼称 [編集]

チーム名(正式名称)は、Jリーグ加盟から1999年1月31日までは「読売日本サッカークラブ」、同年2月1日より2009年10月20日までは「FCニッポン[2][注釈 1]、2009年10月21日以降は現名称の「東京ヴェルディ1969」となっている。

ホームタウンを東京都に移転した2001年に、ヴェルディ川崎から東京ヴェルディ1969に改称。この1969は、1969年に前身の読売サッカークラブが創設されたことに由来する。2008年より「東京ヴェルディ」に呼称を変更した。

新聞社のスポーツ欄掲載の記録ページでは、1998年までは単に「川崎」と表していたが、1999年から川崎フロンターレがJリーグへ加盟したことから、これとの区別のため、「V川崎」(ナビスコ杯には、フロンターレも準加盟枠で参加したため、1997年以後この表記)としていた。東京移転後の2001年からは、FC東京と区別するため、「東京V」としている。一部新聞等では、「東京ヴ」と表記していることもある。

チーム名の変遷
  • 1969年-1991年 読売サッカークラブ
  • 1991年-1998年 読売日本サッカークラブ
  • 1999年-2009年 FCニッポン[注釈 1]
  • 2009年-東京ヴェルディ1969
チーム呼称の変遷
  • 1969年-1991年 読売サッカークラブ
  • 1992年-2000年 ヴェルディ川崎
  • 2001年-2007年 東京ヴェルディ1969
  • 2008年-東京ヴェルディ

歴史 [編集]

前身 [編集]

1969年に創部された読売サッカークラブが前身となる。1972年日本サッカーリーグ(JSL)2部、1978年にJSL1部に昇格。Jリーグが謳う下部組織の充実と地域に根ざした活動をいち早く実践し、JSL優勝5回、天皇杯優勝5回、JSLカップ優勝3回の戦績を残した。

1991年 - 2000年 [編集]

1991年10月、Jリーグ開幕に備えて、読売新聞社株式会社よみうりランド日本テレビ放送網の讀賣グループ3社の出資による運営会社「株式会社読売日本サッカークラブ」が設立され、東京都に同リーグの規格に合ったスタジアムがなく、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とした。等々力陸上競技場は当初の収容人員がJリーグの規格外であったが、1995年までに25,000人収容となった。

Jリーグ発足前後の92年から93年にかけて、クラブの出資者である、読売系のメディアを中心として読売ヴェルディと言う呼称が用いられていた。既に長年、クラブチームとして「読売」の呼び名でファンに親しまれていたという理由に加え、プロ野球と同じようにJリーグも企業重視の姿勢が必要であること、「川崎」は鉄鋼メーカー・川崎製鉄(現:JFEスチール)と重機械メーカー・川崎重工業の商標であること、東京への移転問題などといった理由が読売側から挙げられた。Jリーグはチーム名表記に際して企業名を排除してホームタウンの自治体(都道府県名、ないしは市区町村名)+ニックネームで使用する方針を定めていたため、1994年のシーズン開幕前から読売系のマスメディアでも「ヴェルディ川崎」に表記を統一するようになった。

1992年のJリーグカップ(ナビスコカップ)で清水エスパルスを破り、初代王者に輝く。

1993年Jリーグ開幕節5月15日)で横浜マリノスと対戦、オランダ人FWのヘニー・マイヤーがJリーグの第1号ゴールを決めた(試合は1-2で敗北)。1stステージは鹿島アントラーズが優勝し、2位となった。2ndステージは主将カズを先頭にラモス瑠偉ビスマルク北澤豪武田修宏菊池新吉などを擁して優勝。Jリーグチャンピオンシップで鹿島を破り、初代Jリーグ年間王者となった。ナビスコカップも2連覇を果たした。

1994年も2ndステージを制覇。1stステージ制覇のサンフレッチェ広島をチャンピオンシップで破り、2年連続の年間王者となった。ナビスコカップ3連覇を果たす。天皇杯はジャパンフットボールリーグ(旧JFL)優勝のセレッソ大阪に敗戦。

1993年から1995年のJリーグチャンピオンシップは国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた。1994年の2ndレグの試合は等々力で開催されることが一度決まっていたが、等々力は芝生の状態が思わしくなかったことや、改修工事の第2期を行うことが決まっていたこともあり、等々力での開催を返上。国立での開催を決めたが、当初予定の11月30日は翌12月1日に行われるトヨタカップのための練習を行った関係で使えず、12月2日に延期した。

1996年天皇杯で優勝。

1997年、ビスマルクが退団。当時最高金額の移籍金である推定3億5千万円で前園真聖を獲得。しかし、チーム成績は1stステージ16位、2ndステージ12位と初の2桁順位に低迷。

1998年シーズン終了後に読売新聞社と株式会社よみうりランドが経営から撤退し、日本テレビ放送網の全額出資となる。それに伴い運営法人名は「株式会社読売日本サッカークラブ」から「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、トップチーム名は「FCニッポン」に変更された。この際、呼称を「FC日本」(または「日本FC」)にしようとする案をクラブは考えていたが、サッカー日本代表と誤解を招くとして申請が却下され、日本をカタカナにした「FCニッポン」としたという経緯がある[3]。同時に経費削減を目的に三浦知良や柱谷哲二ら高額年俸のベテラン選手がチームを去った。

1999年には前年より導入された現役高校生を強化指定選手(現在の特別指定選手)として受け入れを開始、その3選手のうち最年長で帝京高等学校3年(義務教育終了4年目)矢野隼人が「J1公式戦出場した強化指定選手」第1号となった。

2001年 - 2005年 [編集]

クラブスローガン :2002年「突破」 :2003年「BE TOUGH ~疾風怒涛~」 :2004年「STRONG SOUL

2001年にホームタウンを川崎市から東京都[注釈 2]に移転し、呼称も東京ヴェルディ1969となり、ホームスタジアムを調布市東京スタジアム(現:味の素スタジアム)にした。ホームタウンである稲城市の他周辺の多摩市日野市や清水建設、京王電鉄系列の広告代理店である京王エージェンシーなど地元企業も出資し、日本テレビの出資比率は約79%となった。2008年立川市も出資した。

チーム名が変わった2001年シーズン、チームは松木安太郎を再び監督に招聘し、菊池・前園・永井といった黄金期を知るメンバーが復帰、また元サッカー日本代表小倉隆史三浦淳宏が移籍加入し、さらに小林大悟富澤清太郎が加入。1stステージは最下位。成績不振とフロントとの確執もあり松木は1stステージ終了をもって解任、監督を小見幸隆に変えて迎えた2ndステージではシーズン中盤に獲得したマルキーニョス、さらに終盤に獲得したブラジル代表のエジムンドのブラジル人コンビが2ndステージでチームが挙げた22得点の内14得点を叩き出して9位。年間総合順位で自動降格圏の15位福岡との勝ち点差わずか3の14位で残留。

2004年に天皇杯全日本サッカー選手権大会を制し、東京移転後初のタイトルを獲得。同日行われた全日本女子サッカー選手権大会では女子チームのベレーザが優勝し、全日本選手権初の男女同時優勝を達成。

2005年、ブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得したが、7月2日G大阪戦、7月6日浦和戦、7月17日磐田戦での大量失点が響き、アルディレスが解任され、バドンが監督に就任したが、思うように試合が運ばず、11月26日戦で1-5の大敗を喫し、Jリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった(柏は、後の監督であるラモス瑠偉がコーチを務めていた)。これを受けてバドンは退任した。天皇杯優勝によって獲得した2006年AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の出場権がJ2降格によって剥奪されるのではないかと心配されていたが、AFCから出場が認められた。

2006年 - 2007年(J2) [編集]

2006年 [編集]

クラブスローガン :「All for win.

OBのラモス瑠偉が監督に就任。J1最多失点を喫した守備陣の立て直し、J2(48試合)とACL(最低でも予選6試合はこなさなくてはならなかったが、インドネシア、タイからの代表クラブが失格となったため、予選は蔚山現代FCとの2試合になった)を含め年間50試合以上の公式戦をこなさなくてはいけないため、選手のモチベーションの維持といった課題を克服する必要があった。しかも、前年22点を挙げたワシントンの浦和への完全移籍や、林健太郎米山篤志の戦力外通告などの主力の大量流出により、チームは土台からの作り直しを余儀なくされた。

4月18日、サイバーエージェントが株式の48.1%を取得し、50.7%を保有して同社を連結子会社として維持する日本テレビ放送網に次ぐ大株主となった[4]

開幕後、課題とされた失点の多さは解消されなかった。スタメンがほぼ毎試合ごとに入れ替わり、デジマールヒキアナイウソンバジーリオの外国籍選手4人はシーズン途中に解雇。最終順位は7位であった。天皇杯は初戦で栃木サッカークラブ(当時はJFL所属)に敗退した。

2007年 [編集]

クラブスローガン :「全緑疾走!

ラモスが監督に留任したが、選手会長だった柳沢将之を含めて選手を大量に放出。新たに元日本代表の服部年宏名波浩を始め土屋征夫佐藤悠介などのベテラン選手を獲得。外国籍選手では既に契約を更新していたマルクス横浜F・マリノスへ移籍したが、フッキディエゴを獲得。また、新人選手も7人が加入、結果的に約半数のメンバーが入れ替わった。萩原敏雄代表は「内容が悪ければ早期での解任もありえる」と発言した。

開幕5試合は4勝1分と順調にスタートしたものの、第7節(福岡戦)から第13節(水戸戦)までクラブワーストタイの7連敗を喫し9位へ転落。ラモスの解任騒動に発展したが、京都戦に4-1で快勝するとその後は1度の連敗もなく安定して勝ち点を積み重ね、最終節で優勝は逃したが2位の成績でJ1復帰を果たした。また、フッキが37ゴールを挙げてJ2得点王となった。シーズン終了後にラモスが監督を退任して、エグゼクティブディレクターになり、柱谷哲二が監督に就任した。天皇杯は初戦でHonda FCに敗退。

第2位株主のサイバーエージェントが思うように利益を得ることが出来なかったことを理由に株式を売却した(サイバーエージェントは2008年は胸スポンサーのみ、2009年にスポンサーからも撤退)。再び日本テレビが単独大株主となった。

2008年(J1) [編集]

クラブスローガン :「全緑疾走2008闘強

この年より呼称から1969が取り除かれ、東京ヴェルディとしてJ1での再出発を切った。FC東京から元日本代表MF福西崇史やGK土肥洋一横浜FMからDF那須大亮清水からDF和田拓三を獲得。新外国人としてサンパウロFCからFWレアンドロ、6月に大黒将志を獲得した。前シーズン後に川崎にレンタル復帰していたフッキを開幕後に再度獲得したが、7月にはFCポルトに移籍した。

初勝利は第5節の神戸戦となり、下位争いに終始。9月には4戦全敗を喫し、終盤には、チームの核であるディエゴを累積警告と天皇杯での退場による4試合出場停止で欠き、深刻な得点力不足に陥る上に試合終了間際での失点なども増えていき、第33節終了時点で16位にとどまる。最終節を川崎に引き分け以上、もしくは17位の千葉が引き分け以下なら自動降格は免れる状況で0-2で敗れ、かつ千葉が勝利したことから17位に。J2自動降格が決まった。柱谷はシーズン終了後に監督を退任した。

親会社の日本テレビが37年ぶりに赤字に転落。その影響を受け2009年の費用は大幅に削減されることとなり、土肥、服部、福西など多くの主力選手と来期の契約を結ばないことを発表(土肥と服部は再契約という形で残留)。日本テレビがほぼ100%保有している株式の譲渡を検討していることが一部マスコミに報じられた。 こういったネガティブな状況や不明瞭な強化方針に対し、一部サポーターから不満が噴出。最終節終了後の7時間半に及ぶ座り込み、2009年度シーズンチケット不買運動、ラウンドテーブル(フロント、サポーターによるミーティング)開催にあたっての公開質問状提出など、一連の抗議行動へと発展した。

2009年 -(J2) [編集]

2009年 [編集]

クラブスローガン :「VERDY 40EVER(ヴェルディ フォーエバー)

クラブ設立40周年となるこの年は、前年コーチを務めた高木琢也が監督に就任。那須が磐田、ディエゴが京都へ移籍。和田もレンタル元の清水へ戻った後、千葉へ移籍。2008年はJ2のクラブへのレンタル移籍であった戸川健太一柳夢吾も、レンタル先へ完全移籍した。新たに、横浜FCで高木と共にJ1昇格を経験した滝澤邦彦岩倉一弥、磐田のベテランMF河村崇大、ジュニアユース時代に東京Vに所属していた永里源気を獲得。過去2年レンタル移籍していた弦巻健人レオナルドが復帰、大黒も残留した。そして、一度は戦力外と発表された土肥、服部、船越優蔵と再契約を結んだ。

胸スポンサーのサイバーエージェントが撤退後、この年は年間通して胸スポンサーが入らなかった。日本テレビも経営から撤退した。高木をシーズン途中で解任。ベレーザ前監督、ユース監督の松田岳夫をトップ監督に昇格させたが、1度も昇格争いに絡むことなく7位でシーズンを終えた。天皇杯は初戦でホンダロックサッカー部に敗北。

2010年 [編集]

クラブスローガン :「結集のチカラ

川勝良一が3度目の監督に就任。服部、高木義成らと契約を更新せず、資金難により2009年の大卒新人3人を全員放出。レアンドロ、大黒と攻撃陣の核となっていた選手も放出され、16人がクラブを去った。新たに加わった選手は川勝の法政大学時代の教え子である吉田正樹菊岡拓朗、下部組織出身の佐伯直哉清水康也など12人である。選手人件費はレンタル移籍している選手を除いて1億3000万円程度となった[5]。ユースからは前年Jリーグデビューを果たした高木俊幸が昇格し、2010年シーズンから高木善朗小林祐希南秀仁がユース所属のままJリーグデビューした。J2へ昇格した北九州に初勝利かつ唯一のシーズン勝利を献上するなど一時は18位に低迷。その後巻き返して4位にまで浮上したが、11月20日に福岡に敗れてJ1昇格を逃し、5位でシーズンを終えた。天皇杯は初戦でFC町田ゼルビアに敗れ、6年連続の初戦敗退となった。

2011年 [編集]

東京ダービー(2011年5月4日開催)での東京Vサポーター
クラブスローガン :「原点回帰~All for VERDY~

川勝が監督を続投。この年よりエンブレムの文字が「FC NIPPON」から「FOOTBALL CLUB」へと変更された[6]。前年チーム内で最長出場の柴崎晃誠川崎フロンターレに、得点数2位の高木俊幸が清水エスパルスに移籍した。小林祐希ら4人をユースより昇格させ、川崎で契約非更新となっていた森勇介や、期限付き移籍で岡山からキムテヨン喜山康平(4年ぶりの復帰、8月にJFLカマタマーレ讃岐へ移籍)、大宮から市川雅彦、甲府からマラニョンなどを獲得。6月に高木善朗がエールディヴィジFCユトレヒトへと移籍した。7月には、元京都中谷勇介、元アルテ高崎秋葉勇志を獲得。ヴェルディジュニアコーチの塗師亮を選手登録し、関西学院大学梶川諒太特別指定選手として登録した。8月には、元日本代表の巻誠一郎を獲得した。J1昇格争いに加わっていたが最終的に5位に終わった。なお、天皇杯は7年ぶりに初戦を突破した。

2012年 [編集]

クラブスローガン :「One.

川勝体制3年目。17年在籍していた菅原智が引退。富澤清太郎横浜F・マリノス河野広貴FC東京菊岡拓朗栃木SC井上平FC岐阜福田健介ヴァンフォーレ甲府吉田正樹松本に完全移籍、北九州にレンタル移籍していた福井諒司に完全移籍、平繁龍一市川雅彦がレンタル移籍期間満了となった。一方、千葉から昨シーズンC大阪にレンタル移籍していた中後雅喜愛媛からジョジマール吉弘充志草津からアレックス磐田から西紀寛京都から鈴木慎吾水戸から小池純輝大分から刀根亮輔G大阪から太洋一を完全移籍で獲得。仙台から島川俊郎を期限付き移籍で獲得した。さらに昨シーズン特別指定選手だった梶川諒太が加入した。また杉本竜士南秀仁舘野俊祐田中貴大がユースから昇格した。2年連続ユースから4人昇格したことになる。 コーチ陣は、元柏監督の高橋真一郎と元京都監督の秋田豊がトップチームコーチに就任した。

また、シーズン開幕後も3月28日に杉本健勇セレッソ大阪より同年7月17日までの期限付き移籍で、6月1日に練習に参加していたペ・デウォンを獲得した。杉本がC大阪に戻った後、7月26日に柴崎晃誠を川崎より2013年1月31日までの期限付き移籍で、7月28日に日系三世のニコラスがCRフラメンゴより2013年1月1日までの期限付き移籍で、8月13日に松本から木島良輔を完全移籍で、8月14日にジミー・フランサを清水より2013年1月31日までの期限付き移籍で獲得した。

リーグ戦前半は2位で折り返した。後半戦は8月に入ると勝利から遠のくようになり、8月23日にジョジマールとの契約を解除。9月6日に川勝が監督および強化本部長を退任。高橋が監督代行の後、9月11日に監督に就任したが、第41節の横浜FC戦に敗れ、7位以下が確定。プレーオフ進出を逃した。最終順位は7位。天皇杯は3回戦で清水に敗退。なお、シーズン終了後に高橋が監督を退任した。

2013年 [編集]

クラブスローガン :「TOKYO GLOCAL[注釈 3] STANDARD

2012年11月25日、OBで前北九州監督の三浦泰年の監督就任が発表される。それに伴い、常盤聡安田晃大佐藤優也金鐘必関光博ら5選手が北九州からいずれも完全移籍、北九州に在籍した時に三浦監督の元でプレーした福井諒司が完全移籍で復帰、北九州にレンタルしていたキローラン菜入キローラン木鈴が復帰など北九州に在籍した選手を数多く獲得した。その他福岡から鈴木惇清水から高原直泰が完全移籍、湘南から石神直哉が期限付きで加入した。さらに特別指定選手だった関西学院大学の井林章が加入した。一方、佐伯直哉中谷勇介木島良輔吉弘充志アレックス秋葉勇志新井章太竹中公基との契約を更新せず、期限付き移籍だったジミー・フランサ柴崎晃誠も所属元に復帰、磐田にレンタル移籍していた小林祐希がそのまま磐田に移籍、10年間ヴェルディに所属していた和田拓也仙台高橋祥平大宮梶川諒太が湘南、土屋征夫甲府深津康太吉弘充志両選手がJFLに降格し前ヴェルディコーチの秋田豊が監督に就任した町田へそれぞれ完全移籍した。また柴崎貴広横浜FC田中貴大と北九州に期限付き移籍していた高野光司が町田へいずれも期限付き移籍し、町田に期限付き移籍していた平本一樹は甲府へ期限付き移籍、富山に期限付き移籍中の舘野俊祐は移籍期間1年延長となったため、チームの陣容が大幅に入れ替わることとなった。

2月19日、カマタマーレ讃岐との練習試合で、ペ・デウォンが接触プレイにより讃岐の藤田浩平に右足関節開放性脱臼骨折の重傷を負わせ、クラブ公式ホームページに謝罪文を掲載する事態に発展[7]、さらに同試合における三浦監督の言動も問題視され、「選手を守るためであったとはいえ、決して許される行為ではない」として、三浦監督にリーグ戦開幕節および第2節のベンチ入り停止、ペ選手についても最長3月一杯まで対外試合出場停止というクラブの自主的処分が下された[8]

成績 [編集]

タイトル [編集]

国内タイトル [編集]

国際タイトル [編集]

個人別 [編集]

Jリーグ
ベストイレブン
得点王
新人王
フェアプレー個人賞
ナビスコ杯
  • 1992年 三浦知良 最優秀選手
  • 1993年 ビスマルク 最優秀選手
  • 1994年 ビスマルク 最優秀選手

個人成績 [編集]

ハットトリック [編集]

J1
J2

ダービーマッチ [編集]

東京ダービー [編集]

FC東京、FC町田ゼルビアとの対戦。

観客動員記録 [編集]

     J1      J2

年度 試合 総数 1試合
平均
平均入場者/総入場者


1993 18 454,237 25,235
1994 22 548,378 24,926
1995 26 541,682 20,834
1996 15 264,791 17,653
1997 16 174,928 10,933
1998 17 226,748 13,338
1999 15 140,684 9,379
2000 15 114,141 7,609



2001 15 290,946 19,396
2002 15 226,926 15,128
2003 15 263,438 17,563
2004 15 225,878 15,059
2005 17 250,177 14,716
2006 24 136,926 5,705
2007 24 175,850 7,327
2008 17 252,231 14,837
2009 26 143,539 5,521
2010 18 100,297 5,572
2011 19 108,482 5,710
2012 21 112,158 5,341

経営問題 [編集]

  • 2009年9月16日、日本テレビ放送網が保有する日本テレビフットボールクラブ株式を、東京ヴェルディホールディングス株式会社読売サッカークラブOBの崔暢亮らが中心になり、同年7月に設立。以下東京VHD)に2009年9月30日付で譲渡[9]。これに伴い、読売グループはプロサッカークラブ運営から完全に手を引いた。
  • これに先立つ9月15日のJリーグ理事会で上記の株式譲渡が承認された[10]。そこでは、
  1. 2009年度の東京Vの運営費用は、日本テレビ放送網株式会社が負担する。
  2. 東京VHDは、2009年11月16日までにスポンサー料収入として、5億4,000万円分の契約を確定し計画の金額を満たさなければならない。
  3. スポンサー契約が事業計画の金額に満たない場合は、2009年シーズンをもってJリーグを退会。

等の条件が課された。

  • 2009年10月21日、運営会社の商号(社名)を株式会社日本テレビフットボールクラブから「東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社」(東京VFC)に変更
  • 2010年3月19日には情報通信大手「ネクシィーズ」が東京Vの過半数の株式取得を検討しているとリリース[11]、6月28日、両社から「交渉は白紙となった」ことが発表された[12]
  • 2009年11月16日までにJリーグから条件提示されていたスポンサー料の5億4千万円に対しての協賛支援表明等が集まり、理事会で2010年シーズンもJリーグ加盟が認可された[13]
  • 2010年1月29日のJリーグ臨時理事会[14]、2月16日の同理事会にて経営状況についての審議が行われた際には、予算が理事会承認時の予算よりも1億5000万円上回っていたことが判明し、予算の見直しを受けるとともに、同理事会前にJリーグが作成した合意書に調印する旨を言い渡された。

Jリーグが2010年5月に行った業務監査では、スポンサー収入5億4000万円のうち、実際に入金されたのは半分程度で、人件費の穴埋めなどを入れると4億円程度の資金投入が必要とされたため、このままの状態では2010年6月にも資金が底を突く可能性が濃厚となった。2月に行われたJリーグチェアマン鬼武健二と東京ヴェルディ会長崔暢亮の会談を経て、Jリ-グは5月の臨時理事会で合意書締結にのっとり、2010年度のチーム継続を前提として4億6500万円の緊急融資枠を決定し、融資条件として東京VFCの株式の全株式をJリーグへ譲渡し経営陣が交代。その上で7月以後リーグ主導で経営再建に乗り出し随時融資を実行し安定した運営ができる方針を固めた。 しかし、4億6500万円の緊急融資枠全額は払い込まれなかったという。 [15] [16]

  • 2010年6月29日、東京VHDが保有する東京VFC株式約98.8%が、社団法人日本プロサッカーリーグを経て、株式会社ジェイリーグエンタープライズに譲渡[17]され、東京VFC臨時株主総会で、旧経営陣の辞任と新経営陣の選任が行われ[18]、Jリーグ事務局長の羽生英之が東京VFCの社長に就任した[19]。なお、羽生の周囲には「ここできれいに潰した方が将来的にはJリーグのためになる」と助言する者もいた[20]
  • 2010年10月29日、Jリーグ臨時理事会で「バディ企画研究所(以下バディ)」を筆頭株主として[注釈 4]、「オフィスて・ら」、「山愛[注釈 5]」「斉藤氏」など13の出資者の決定、および「ゼビオ」との包括スポンサー契約を結んだことにより2011年度予算8億1500万円確保できたため、2011年以降のクラブ存続が正式に了承された。これを受けて羽生が(社)Jリーグを退職(東京VFCの社長は続投)、バディ社長の鈴木威が東京VFCの会長に就任した[23]

ホームタウンおよびホームスタジアム [編集]

川崎市から東京都への移転 [編集]

国立霞ヶ丘陸上競技場

読売クラブ時代は、練習場がよみうりランド内にあったため、日本サッカーリーグ(JSL)のホームゲームは駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場等々力陸上競技場を利用していた。また、下部組織の選手達も東京都神奈川県にまたがる地域から集まっていた。

Jリーグ加盟によりヴェルディ川崎が発足し、ホームタウンの明確化が必要になると、V川崎は東京を本拠地と希望した。しかし、5万人を超える収容人数を誇る国立霞ヶ丘陸上競技場は全クラブに開放される中立地とされ、もう一つの有力候補で2万人収容の駒沢では隣接する国立東京第二病院のためにナイトゲーム開催ができないという制約が付けられたため、15,000人という当時のJリーグ参加規定を満たすホームスタジアムが都内では見つからなかったため、神奈川県川崎市をホームタウン、等々力陸上競技場をホームスタジアムとした。

Jリーグ発足年の1993年、東京都のアメリカ軍調布基地跡地に「東京スタジアム(当時の仮称は「武蔵野の森スタジアム」。現在の呼称は「味の素スタジアム」)構想が持ち上がると、V川崎は、同地への移転構想を発表し、調布市も市議会定例会で「プロサッカーチーム誘致に関する決議」を全会一致で決定するなど[24]、積極的に誘致に乗り出した。数年後のスタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度での移転構想という事もあり、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶した。また、等々力陸上競技場の大規模改修に着手した時点での移転通告を受けた川崎市が反発し、移転には同意しないと通告した。この結果、移転計画は程なく白紙撤回となった。

1999年、V川崎は再度東京への移転構想を発表した。「東京スタジアム」が2001年に開業する事が確実になっていた(なお、東京都内では東京ガスサッカー部(現在のFC東京)が「東京スタジアム」の将来利用を前提として活動)。川崎市もV川崎の東京移転を容認した。ただし、東京移転後は等々力でのホームゲーム開催を一切認めないなど、両者の関係は冷却したままで終了することになった。V川崎は2001年シーズンより川崎市から東京都へホームタウンを移し、東京スタジアムをホームスタジアム[注釈 2]とした。

東京移転後の状況 [編集]

味の素フィールド・西が丘(国立西が丘サッカー場)
多摩市立総合体育館に設置された東京Vを応援する垂れ幕

ホームスタジアムは味の素スタジアムであるが、東京都内にある国立競技場、駒沢オリンピック公園総合運動場(照明設備がないためデイマッチのみ)、味の素フィールド・西が丘(西が丘サッカー場)(収容人数の関係でJ2在籍時のみ)でもホームゲームを開催している。

東京V主催試合で、味スタ使用の場合はJ2では全試合、J1でもFC東京との東京ダービーや浦和戦など一部を除いて経費削減のためスタジアムの上層部は閉鎖となる。試合当日に雨が降った場合、下層部の大半の席が雨に濡れてしまうということもあり、上層部の一部を開放することもある。

2010年以降は、更なる経費削減のため、上記に加えてバックスタンドの閉鎖も発表されている。国立でも同様の理由でバックスタンドの上半分を閉鎖していたが、2010年からは、バックスタンドを完全に閉鎖する。開放はメイン・ゴール裏席のみとする。他のスタジアムで開催する場合の扱いについては、駒沢(20000人収容)が国立と同様バックスタンド閉鎖、味の素フィールド・西が丘(西が丘サッカー場)は、元々の大きさがJ2規格の1万人に満たないサイズ(7940人収容)のためバックスタンドを含めた全エリア開放。バックスタンドの独立した料金設定は設けずゴール裏自由席として販売された[25]。警備費削減のため、臨時シャトルバス、タクシー乗り場、キッズルーム、フードパークも休止することとなっている[26]。例外としてジェフユナイテッド市原・千葉戦(11月14日)はバックスタンドも開放された。

2011年はバックスタンドの常時開放が予定されているが2009年以前と違い、1969シートは設けられておらず、バックスタンド中央がバックスタンド自由席として、バックスタンド両サイドがホーム自由席として販売する。味スタの上層部及び、国立のバックスタンド上半分については2009年以前と同じ対応をとる。[27]なお、現在は、バックスタンドのうち、ファミリーシートとVシート・アウェー側、および陸上競技場として使う場合の第1・2コーナー付近に当たるアウェー自由席とVシート・アウェー側の間の数列が緩衝地域として立ち入りを規制されている。また陸上トラック(味スタの場合Jリーグ開催時は人工芝を敷いている)のメインスタンド側に「ピッチサイドシート」(数量限定)が設置されている。

東京移転後は地域活動も活発に行っており、Jクラブの中でも地域活動回数はトップ。ヴェルディ運営会社の経営理念によると、ホームタウン[注釈 2]はクラブ所在地の稲城市のほか、町田市[注釈 6]を除く南多摩地区の日野市多摩市立川市八王子市と認識しており、稲城、日野、多摩、立川の4都市は出資もしている。その他古くから渋谷区などで積極的にイベント活動を展開しているが、FC東京とも競合している。他に移転計画もある練馬区北区でのPR活動が盛んである。また、東京Vは東京都内の他に、神奈川県相模原市(京王電鉄沿線)、栃木県小山市千葉県習志野市静岡県岩手県にも下部組織を編成して運営している。

環境活動(ヴェルディECOプロジェクト)も行っており、2007年にはアルピニストの野口健が環境活動アドバイザーに就任した。

2010年9月11日付のスポーツニッポンによると、練馬区にあるとしまえん敷地内に建設予定の3万人規模の新スタジアムへの移転構想があり[28]、具体的には2015年頃の移転を想定しており、練習場なども併設されるとした。都心23特別区を本拠地とするJクラブは存在しないため、仮に実現すれば初の特別区を本拠とするクラブになる。東京都及び練馬区では、2011年にとしまえん及び周辺を含む一帯を「練馬城址公園」として整備する方針を示しており(としまえん#東京都による敷地買収・公園整備に関する一連の動きも参照)、検討資料の中で大規模集客施設としてサッカー場の建設を有力としている上に「区内へのプロサッカーチーム(Jリーグ・なでしこリーグ)誘致の可能性がある」と明言しており[29]、行政側も誘致に積極的な姿勢を示している。なお、東京Vはこの件に関して一切コメントを出していない。

2010年10月29日には、羽生英之社長が「練習場の賃料が高すぎる」ことを理由によみうりランドから撤退し、練馬区移転までの間トップチーム・ユース・女子チームがそれぞれ別々の練習場を使用する考えのあることを明らかにした。よみうりランドの使用料は従来年間で約3億5000万円と非常に高額で、利用料減免を受けた2010年でも約1億5000万円となお経営を圧迫していたことが理由として挙げられた[30]。新練習場の候補としては、大株主のバディの施設がある八王子市[31]などが挙がっていた。

2010年12月31日、2011年もよみうりランドを練習場として継続使用することが公式発表された[32]。なお、2011年より一部練習において多摩市立陸上競技場を使用する。

下部組織 [編集]

読売サッカークラブ時代からユース組織による育成を行っており、男子トップチームの下部組織として小学生段階からスクールを全国各地に展開している。ユース年代で継続して良い成績を残し続け、ユースからトップへの昇格も多い。2005年には東京Vユースが日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の2冠を達成した。2010年にはヴェルディユースが東京都サッカートーナメントで優勝し、第90回天皇杯全日本サッカー選手権大会に出場(1回戦敗退)した。

クラブで育った選手がそのままコーチとして子供たちを教えることが多いのが東京Vの育成組織の一つの特徴である。

男子チームの他に、女子チーム日テレ・ベレーザとその下部組織である日テレ・メニーナを所有している。

サッカー以外では、2001年の東京移転にあわせて、バレーボールの東京教員クラブを引き継ぎ、東京ヴェルディバレーボールチームを発足させ、トライアスロンのチームもある。これらは、Jリーグの目指す総合スポーツクラブへの一環である。

  • ヴェルディユース
  • ヴェルディジュニアユース
  • ヴェルディジュニア
  • 全国支部
    • ヴェルディレスチ
    • ヴェルディAJUNT
    • ヴェルディ小山
    • ヴェルディ岩手花巻
    • ヴェルディ相模原
  • 女子サッカー
    • 日テレ・ベレーザ
    • 日テレ・メニーナ
    • 日テレ・メニーナ・セリアス
  • 準支部
    • 習志野
    • 三島
    • 武蔵丘

主な獲得タイトル [編集]

ユース [編集]

14回: 1979年、1980年、1981年、1985年、1986年、1988年、1989年、1990年、1991年、1992年、1993年、2005年、2010年、2011年
2回: 1993年、1996年
1回: 2005年
1回: 2012年

ジュニアユース [編集]

6回: 1986年、1988年、1989年、1990年、1991年、2004年
5回: 1989年、1993年、1996年、2003年、2004年
5回: 1997年、1999年、2000年、2001年、2006年
1回: 2007年

ジュニア [編集]

3回: 1988年、1999年、2007年

ユニフォーム [編集]

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st)
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd) エンジ エンジ エンジ
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー [編集]

  •     グリーン

ユニフォームスポンサー [編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
GAGA JAPAN GAGA MILANO 2013年〜 掲出は第7節G大阪戦から[33]
背中 ミロク情報サービス MJS 2009年〜 2008年はパンツ
XEBIO XEBIO 2011年〜 2010年は胸
パンツ ヴィクトリア Victoria 2010年〜

ユニフォームサプライの遍歴 [編集]

  • 1992年 プーマ
  • 1993年 - 1996年 ミズノ(1995~96年度のカップ戦では1993~94年度で使用していたリーグ・カップ戦兼用のユニフォームを使用。)
  • 1997年 - 2006年 ナイキ(1997年度のリーグ戦ではナイキがJリーグのサプライ契約を結んでいなかったので、ナイキのロゴを付ける事が出来ずヴェルディの自主製作扱いとされた)
  • 2007年 - 2010年 カッパ
  • 2011年 - エネーレ
  • 2012年 - アスレタ


歴代ユニフォームスポンサー年表 [編集]

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992 CocaCola マクドナルド CocaCola - PUMA
1993 mizuno
1994
1995
1996 MALT'S KONAMI SUNTORY
1997 NIKE
1998
1999 KONAMI KONAMI
2000
2001
2002 楽天
ICHIBA
CORNES
2003 M support FIELDING
2004 LEOC TOMAS
2005 CyberAgent サイバーエージェント
2006 CyberAgent(J2)/
日テレ(ACL)
CyberAgent SOPH.
2007 Ameba byCyberAgent vap Kappa
2008 Ameba -/日テレ55 MJS
2009 - MJS 中央高等学院
2010 -/XEBIO 法律事務所オーセンス -/Victoria
2011 飯田産業 XEBIO Victoria ennerre
2012 ATHLETA
2013 -/GAGA MILANO

※:「マクドナルド」は「McDonald's Golden Arches.svg」ロゴのみ表記。

※:エンブレム上に、リーグ年間優勝回数を表す星が2つ付いている。

脚注 [編集]

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注釈
  1. ^ a b ただし、2010年までクラブのエンブレムには「FC NIPPON」と描かれていた。
  2. ^ a b c なお2001年のJリーグイヤーブック、ファンズガイド(いずれも当時は「トランスアート」発売・制作)には「東京都稲城市」のみをホームタウンとする記述があったが、翌2002年(NTT出版発売・制作)以後は「東京都全域」に修正されている
  3. ^ “GLOCAL”とは造語で、東京という地域(LOCAL)から世界(GLOBAL)を目指すという意味が込められている。
  4. ^ バディの出資額は推定1億円[21]。また、羽生の息子がバディのサッカースクールに所属しているという繋がりがあった[22]
  5. ^ 2008年より清水エスパルスのユニフォームスポンサーも務めている。
  6. ^ FC町田ゼルビアの本拠地。
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m クラブガイド:東京ヴェルディ Jリーグ公式サイト
  2. ^ 東京ヴェルディ 法人名・チーム名変更について Jリーグ・ニュースリリース2009年10月20日
  3. ^ アメーバブログ「東京ヴェルディ1969よ永遠なれ ~ヴェルディ呼称変更問題について考える」より
  4. ^ Jリーグ東京ヴェルディ1969と資本・事業提携及びユニフォームメインスポンサー契約を締結サイバーエージェントプレスリリース 2006年3月30日
  5. ^ サッカー批評 48』双葉社、2010年、87頁
  6. ^ エンブレムデザイン一部変更のお知らせ 東京ヴェルディ公式ウェブサイト 2010年12月20日閲覧
  7. ^ 東京ヴェルディ (2013年2月20日). “2/19(火)vsカマタマーレ讃岐 練習試合結果”. 2013年2月24日閲覧。
  8. ^ 東京ヴェルディ公式のツイート (305984673853603840)
  9. ^ “子会社の株式譲渡に関するお知らせ”. 日本テレビ放送網プレスリリース. (2009年9月16日). http://www.ntv.co.jp/info/news/522.html 2010年11月21日閲覧。 
  10. ^ “東京ヴェルディ 株式譲渡承認の件”. (2009年9月17日). http://www.j-league.or.jp/release/000/00003173.html 
  11. ^ “本日の一部報道について”. ネクシィーズプレスリリース. (2010年3月19日). http://www.nexyz.co.jp/press/2010/pdf/100319_release.pdf 2010年11月21日閲覧。 
  12. ^ “株式会社ネクシィーズとの交渉結果について”. 東京ヴェルディ公式ウェブサイト. http://www.verdy.co.jp/topics/club-info/club-info-2010/株式会社ネクシィーズとの交渉結果について.html 2010年6月28日閲覧。 
  13. ^ “東京V、存続に自信「数字的にはクリア」”. SANSO.COM (産経新聞社). (2009年11月15日). http://www.sanspo.com/soccer/news/091115/sca0911150505001-n1.htm 
  14. ^ “経営難ヴェルディの経理担当者増員へ”. asahi.com (朝日新聞社). (2010年1月30日). http://www.asahi.com/sports/update/0130/TKY201001290534.html 
  15. ^ “経営難の東京ヴ再建へ Jリーグ、4億円超の資金投入”. asahi.com (朝日新聞). (2010年5月25日). http://www.asahi.com/sports/update/0525/TKY201005250443.html 2010年5月26日閲覧。 
  16. ^ “資金不足の東京V、Jリーグが経営権取得準備へ”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2010年5月25日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/news/20100525-OYT1T01040.htm 2010年5月26日閲覧。 
  17. ^ 東京ヴェルディ1969フットボールクラブ株式会社 株主変更のお知らせ 東京ヴェルディ・クラブからのお知らせ2010年6月29日
  18. ^ 東京ヴェルディ1969新経営陣が表敬訪問 稲城市・市長室へようこそ2010年7月6日
  19. ^ 役員人事について 東京ヴェルディプレスリリース 2010年6月29日
  20. ^ サッカー批評 49』双葉社、2010年、77頁
  21. ^ 東京V 筆頭株主に「バディ」が内定スポーツニッポン、2010年10月29日
  22. ^ サッカー批評 49』双葉社、2010年、78頁
  23. ^ 東京ヴェルディ会長就任について BUDDY SOCCER CLUB
  24. ^ 「調布市は、FC東京を応援しています。」 調布市ホームページ、2009年11月20日
  25. ^ ヴェルディホームページ・グリーンパスの説明参照
  26. ^ ホームゲーム開催時における、運営体制の変更について 東京ヴェルディ公式ウェブサイト、2010年03月12日
  27. ^ シーズンシート図解
  28. ^ 東京V 練馬区新スタジアムへ移転構想も - スポーツニッポン 2010年9月11日
  29. ^ 平成23年度検討のまとめ 事例研究・資料(練馬区)のp.8を参照。
  30. ^ 東京V5年間放浪 よみうりランド撤退 - nikkansports.com・2010年10月30日
  31. ^ 東京V存続承認…八王子に移転へ - スポーツ報知・2010年10月29日
  32. ^ 東京V、よみうりランドの練習場など来季も継続使用 - スポニチアネックス・2010年12月31日
  33. ^ GAGA JAPANとの新規ユニフォーム(胸)パートナー契約締結のお知らせ”. 東京ヴェルディ公式サイト. 2013年4月1日閲覧。

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]