三浦淳宏

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三浦 淳宏[1] Football pictogram.svg
名前
愛称 アツ
カタカナ ミウラ アツヒロ
ラテン文字 MIURA Atsuhiro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1974年7月24日(37歳)
出身地 大分県大分市
身長 175cm
体重 73kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1995-1998
1999-2000
2001-2004
2005-2007
2007-2010
横浜フリューゲルス
横浜F・マリノス
東京ヴェルディ1969
ヴィッセル神戸
横浜FC
145(22)
55(7)
79(10)
76(21)
77(5)
代表歴 2
1999-2005 日本の旗 日本 25(1)
1. 国内リーグ戦に限る。2011年1月10日現在。
2. 2007年12月16日現在。
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三浦 淳宏[1](みうら あつひろ、1974年7月24日 - )は、大分県大分市出身の元サッカー選手。

ポジションはMFDFサイドハーフを主としたが、チーム事情によってはGK以外はどこでもこなせるユーティリティプレイヤーフリーキックの名手であり、日本における無回転フリーキック、ブレ球の先駆者は元U-21女子日本代表の大竹夕魅

目次

[編集] 来歴

[編集] プロ入りまで

国見高校時代に攻撃的MFとして活躍。 高校選手権で優勝2回、ベスト4が1回と輝かしい成績を残し、当時の高校サッカー界で超高校級として名を馳せる。 国見高校卒業後、青山学院大学入学。 1995年、大学を中退し、横浜フリューゲルスに入団した。

[編集] 横浜フリューゲルス時代

ジーニョセザール・サンパイオエバイールのブラジルトリオや、山口素弘前園真聖楢崎正剛らと共にプレーした。

入団当初は攻撃的MFだったが、左サイドにコンバート後に頭角を表し、レギュラーに定着してからはジーニョ、前園とのコンビでサイドを切り崩していった。 1996年1997年1stステージには鹿島アントラーズと壮絶な優勝争いを演じた(1996年は3位、1997年1stステージは2位)。

1998年レシャック新監督の下、攻撃的システム3-4-3を採用したフリューゲルスの中で、三浦は左ウイングを担った。

フリューゲルスとして最後の天皇杯に臨み、見事優勝。合併が発表された10月29日以降、天皇杯優勝までリーグ戦を含めて(9試合)一度も負けることはなかった。天皇杯優勝後にチームの解散を嘆き、大粒の涙を流した姿に多くのサポーターが共感した。

[編集] 横浜F・マリノス時代

1999年、フリューゲルスとの合併で誕生した横浜F・マリノスにスライド加入。同年に日本代表に初選出され、6月6日ペルー戦で代表デビュー。2000年には、楢崎正剛森岡隆三らと共にオーバーエイジとしてシドニーオリンピックに出場し、メキシコシティオリンピック以来32年ぶりとなる決勝トーナメント進出を果たす。

[編集] 東京ヴェルディ1969時代

2001年東京ヴェルディ1969に移籍。東京スタジアム(現:味の素スタジアム)のこけら落としとなったJリーグ開幕戦「東京ダービー」で直接FKを"ブレ球"にて決め、スタジアムの第1号得点者となった。東京V移籍当初は中盤の右サイドであったが、左SBにコンバートされた。

2003年よりジーコジャパンに選出され、三都主アレサンドロのサブとして4バックの左SBでプレー。しかし代表に参加している間に、ヴェルディではポジションを争っていた相馬崇人が左SBで結果を残し、2004年にはオズワルド・アルディレス監督の「代表招集でクラブの練習に出られない三浦より、常にクラブにいる相馬を使う」という方針で相馬に完全にポジションを奪われることになった。そのため日本代表選手がクラブでは控えという妙な立場に立たされるが、「いつか自分が必要とされるときが来る」と信じて、腐ることはなく練習に打ち込んだ。

[編集] ヴィッセル神戸時代

2005年、新しいチームの柱を探していたヴィッセル神戸の誘いにより移籍する。移籍直後からトップ下のポジションでプレーし、三浦知良に代わりチームキャプテンに就任した。しかし、シーズン中盤に怪我のため多くの試合を欠場。チーム内で三浦の存在感は特に際立っていたため不在の影響は大きく、チームの順位は急降下した。出場した試合ではチームを必死に鼓舞したが、時すでに遅くチームは最下位を独走してシーズンは終了し、J2に降格してしまった。

シーズン終了後は、ドイツW杯出場のためにJ1チームに移籍かと思われた(この時は三浦の故郷のチーム大分トリニータへの移籍が噂され、フロントも移籍を容認していた)。しかし、「(J2降格について)自分に責任をすごく感じてたし、(チームを見捨ててJ1チームに移籍することは)このまま男として絶対にできなかった。」と他の主力選手達より、一早く神戸残留を表明。現役日本代表候補であり、チームキャプテンでもある三浦の決断が他の選手達に与える影響は計り知れなく、神戸はごく一部の選手を除いた、ほとんどの主力選手が「一年でJ1復帰」を合言葉にチームに残留することになった。これにより三浦はチームの1年でのJ1復帰と自身のJ2チームからの日本代表入りを目指すことになった。

結局その後は代表に呼ばれることはなく、ドイツW杯出場は夢に終わったものの、その2006年は”絶対的なキャプテンシー”で選手をまとめ上げ、チームを牽引。横浜FC柏レイソル、神戸の3強によるJ1昇格争いは3チームとも最終節まで勝ち点差2の中にひしめき合う状態で自動昇格を争った。2位で迎えた最終戦、勝てば自動昇格が決まるベガルタ仙台戦で三浦は退場となってしまい、チームも敗北。3位柏に逆転で2位の座を奪われ神戸は3位となり、J1・16位のアビスパ福岡とのJ1・J2入れ替え戦に回ることとなった。

三浦は最終節の退場の影響で入れ替え戦の第1戦には出場できなかったが、入れ替え戦の結果、神戸が悲願の1年でのJ1復帰を決め、三浦の男泣きの姿には多くのファンの感動を誘った。その後三浦は「生涯神戸宣言」を誓った。神戸に移籍してわずか2年、この時点で三浦淳宏の存在は、既にヴィッセル神戸の歴史に名を刻む存在になっていた。

2007年、J1復帰した開幕直後の3月11日、川崎戦で相手選手からスライディングを受け左足小指を骨折、全治一ヶ月の欠場を余儀なくされる。これをきっかけに予期せぬ事態へと話は進んでいく。その後リハビリを続けてチーム練習に復帰したが、松田監督は三浦の復帰にあくまで慎重な姿勢を取った。6月3日にサテライトでの名古屋戦後(この試合でもベンチには入っていたが、三浦の出場はなかった。)の囲み取材で、三浦が記者に監督批判(三浦本人はしていないと主張している)をしたとして、10日間の謹慎処分を受け、キャプテンを辞任した。 その後、クラブハウスで松田監督との話し合いが持たれたが、一度掛け違えたボタンの溝は埋まらず、三浦は2年半、喜びも悲しみも共に味わい戦ってきた神戸のサポーターと直接、別れの挨拶する機会もないまま、6月26日に退団が決定した。 その後、「J1クラブへの移籍は認めない」という神戸側の意向によりJ2のアビスパ福岡への移籍が有力視されていたが、あくまでJ1クラブでのプレーを熱望した三浦は拒否。

[編集] 横浜FC時代

2007年8月12日、古巣とも言える横浜FCへの移籍が発表される。 横浜フリューゲルス時代から知るサポーターはアツの帰還に大いに喜び期待をした。 ただし、移籍時の契約で、同年10月20日に行われた古巣の神戸戦には出場できなかった[2]。 皮肉にも、この試合で横浜FCは0-3と大敗してクラブはJ2に降格する。

2008年はJ1昇格を目指すチームの中で左サイドバック、ボランチ、攻撃的MFとしてプレーした。 ちなみに、2008年に個人目標として「2m」を掲げていた(本人曰く「相手を抜くのも相手からボールを奪うのも2mの瞬間的な速さ次第」とのこと)。

2009年は序盤こそレギュラーとしてほぼ全ての試合に出場していたが、6月に負傷し戦線を離脱。 年齢的に引退説も囁かれたが、秋には完全復活し第50節のコンサドーレ札幌戦では長距離の直接FKを見事に決め、改めて存在感を示した。

2010年、チーム主将の三浦知良と並んでチームの精神的支柱としてJ1昇格を目指すも、同年10月までの出場は2回、計15分の出場に留まった。 同年11月、横浜FCから戦力外通告を受けた。

2011年4月4日、自身のブログで現役引退を発表。引退後は、指導者として第2の人生を歩むべく、日本協会公認指導者ライセンスB級取得を目指す。

[編集] プレースタイル

プロでは主に左アウトサイドの選手であったが、小学生から大学生時代にかけて、センターフォワードウイングをこなしたこともあり、右アウトサイド、左サイドバック、トップ下、ボランチ、フォワードと数多くのポジションをこなすことができる。右利きであるが、ディエゴ・マラドーナにあこがれて子供のころから練習した左足[3]の精度も高い。

FKを得意としており、独特の回転がかかった鋭く落ちるFK、そして“無回転”の「バイスボール(本人命名)」は、TVで「世界で自分にしか蹴れない」と自負していた。Jリーグでの直接フリーキックによる最多得点の記録を持っているが、代表ではアレックス中村俊輔が蹴ることが多く、国際Aマッチではほとんど蹴る機会がなかった。

ドイツW杯・アジア予選ではサブ組ではあったが、練習でもチームを盛り上げ、裏からジーコジャパンを支え続けた。アジア最終予選・バーレーン戦前の合宿中に行われた選手間ミーティング(通称「アブダビの夜」[4])で「みんな本当にW杯へ行きたいのか。おれは年齢的にも最後だし、出たい」と熱く語り、ワールドカップ出場権獲得につなげた[5]。しかし本大会のメンバーには選出されなかった。

[編集] パーソナリティ

  • 国見高校卒業のため、Jリーグに在籍する国見OBにとっては頼れる兄貴分である。代表では同じ国見の後輩大久保嘉人の教育係であり、代表で結果が出ずに悩む大久保を叱咤激励していた。
  • 同僚や後輩からは「アツ」、「アツさん」と呼ばれて慕われている。しかし、夕魅夫人がフジテレビジャンクSPORTSで自分の夫を「アツくん」と発言したため、サポーターの一部では「アツくん」で定着してしまった。
  • 自身のブランド「VISEBALL」のウェアなどがある。
  • 2010年現在の愛車は、白のマセラティ
  • 2011年1月16日に第1子(長女)が誕生。

[編集] 所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1995 横浜F - J 51 6 - 2 1 53 7
1996 - 30 3 14 0 2 0 46 3
1997 6 32 3 10 1 5 2 47 6
1998 32 10 3 2 5 0 40 12
1999 横浜FM 9 J1 29 2 6 0 3 0 38 2
2000 26 5 3 0 1 0 30 5
2001 東京V 6 22 3 2 0 0 0 24 3
2002 8 1 0 0 0 0 8 1
2003 26 2 4 1 3 0 33 3
2004 23 4 0 0 1 0 24 4
2005 神戸 17 25 6 0 0 2 0 27 6
2006 J2 46 15 - 0 0 46 15
2007 J1 5 0 1 0 - 6 0
横浜FC 39 14 0 - 1 0 15 0
2008 17 J2 37 2 - 2 0 39 2
2009 24 3 - 1 0 25 3
2010 2 0 - 0 0 2 0
通算 日本 J1 323 45 43 4 25 3 391 52
日本 J2 109 20 - 3 0 112 20
総通算 432 65 43 4 28 3 503 72

その他の公式戦

[編集] 個人タイトル

[編集] 個人記録

  • FK直接ゴール数Jリーグ1位タイ
  • Jリーグ通算300試合出場達成

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 25試合 1得点 (1999年 - 2005年)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1999 5 1
2000 8 0
2001 3 0
2002 0 0
2003 1 0
2004 6 0
2005 2 0
通算 25 1

[編集] 脚注

  1. ^ a b 現役引退を機に、三浦 淳に改名。
  2. ^ 神戸サポーターへの配慮と思われるが、世界的に見れば古巣クラブとの対戦時に出場を自粛することは珍しいことではない。
  3. ^ 解説者の素顔「三浦淳寛編」
  4. ^ アブダビの夜 W杯へ激論 - ニッポン人脈記 asahi.com、2006年11月07日発行
  5. ^ 闘莉王が本田らに喝! 選手ら夜の大激論 デイリースポーツ、2010年06月04日発行

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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