ヴァンフォーレ甲府

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ヴァンフォーレ甲府
原語表記 ヴァンフォーレ甲府
愛称 ヴァンフォーレ
クラブカラー      ブルー
創設年 1965年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン2 (J2)
ホームタウン 甲府市韮崎市を中心とする山梨県全県
ホームスタジアム
Vfk2009112101.jpg

山梨中銀スタジアム
収容人数 17,000
運営法人 株式会社ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ
代表者 海野一幸
監督 日本の旗 城福浩
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ヴァンフォーレ甲府(ヴァンフォーレこうふ、Ventforet Kofu)は、日本甲府市韮崎市を中心とする山梨県全県にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブである。

目次

[編集] クラブの概要

名前の由来となった風林火山の旗

1999年にJリーグへ加盟。チーム名はフランス語の「Vent(風)」と「Forêt(林)」を合わせた造語で、現在の甲府市内に本拠を置いていた戦国時代の甲斐国主で、郷土の象徴的人物でもある武田信玄の旗指物「風林火山」にちなんでいる。また多くのJリーグクラブは、親会社である有名企業に頼っている[1]が、ヴァンフォーレは地元山梨の会社などの小口スポンサーの支援を受けてクラブを運営している。Jリーグ加入当初のホームタウンは「甲府市、韮崎市を中心とする30市町村」だったが、「平成の大合併」に伴う統合により2005年7月までに13市町村となり、その後Jリーグの理事会の承認を得て甲府市、韮崎市を中心とする山梨県全市町村をホームタウンとしている。

オフィシャルショップは甲府中央商店街「かすがもーる」の一角に「まちなかヴァンフォーレプラザ」があり、ホームゲームのチケット販売やクラブサポーター入会受付、グッズ販売も行なっている。また、岡島百貨店6階にもグッズ販売を置いているコーナーがある。

登録本拠地(ホームスタジアム)はJリーグ参入当初から山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場2011年3月より命名権取得により「山梨中銀スタジアム」へ改称)であるが、会場の都合や促販などにより他会場で行なうこともある。練習場は主に山梨大学医学部グラウンド押原公園グラウンドを使用している(詳細はヴァンフォーレ甲府の練習場を参照)。

2006年6月12日より甲斐犬をモチーフにしたヴァンくんがマスコットキャラクターとなるが、デザイン・名称共に一般公募された。また2009年3月1日より新たにフォーレちゃんがマスコットとなった。

[編集] クラブの歴史

[編集] 前身

1965年に創設され、日本サッカーリーグ(JSL)等で活動していた甲府サッカークラブ(甲府クラブ)が母体となる。Jリーグ開幕以降、山梨県サッカー協会やOBらによってJリーグ加盟に向けた準備が進められ、1995年にチーム名をヴァンフォーレ甲府に改称、1997年には運営法人ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブの設立と小瀬陸上競技場の改修を実施するなどを進めた結果、同年12月に1999年から2部制移行に伴うJリーグ ディビジョン2(J2)参入が決定。1998年にはマルセロ・バロン・ポランクジック大柴克友らの活躍により過去最高の4位を記録した。

しかし基盤が整わない状態でJリーグ参入を急いだことが災いし、この時から業績が悪化。また、オフシーズンにリーグ2位の31得点を挙げ、ベスト11に選ばれたバロンがジェフユナイテッド市原へ移籍した。

[編集] 塚田・勝俣体制(1999年-2000年)

1999年
チームスローガン:修業無限

ライセンスの問題からそれまで指揮をとっていた塚田雄二に代わり、勝俣進体制[2]でJリーグ初年度を迎える。しかし、開幕10試合未勝利など、前年度から一転、一度も順位を上げることなく最下位でシーズンを終了。また、人件費抑制など経費削減に努めたものの、ユニフォームスポンサーがゼロに陥るなど広告収入が激減、さらに関心の薄さや低迷するチームが影響し、観客の伸び悩みにより3年連続の単年度赤字に陥り、前年オフ同様大柴ら主力を放出せざるを得なくなった。

2000年
チームスローガン:一蹴りごとに、心(ハート)を込めて。

塚田が監督に復帰したが、上述の通りチーム状況は前年以上に悪化。第4節の仙台戦の勝利を最後に第33節の新潟戦に勝利するまで6連敗と19連敗を含む26試合未勝利(1分25敗)[3][4]を記録するなど2年連続最下位に終わる。また、観客動員は浦和戦を除き3,000人を超えた試合が開幕戦のみであり、1,000人を割る試合が5試合もあるなど惨憺たるもので、ユニフォームスポンサーも秋になってようやく背番号につくようになるなど広告収入も上がらず、これが影響してシーズン終了直前に経営危機問題が発覚し、チームの存続が危ぶまれることとなる。

[編集] ヘイス体制(2001年)

チームスローガン:EVOLUTION

存続運動などの結果、条件付で2001年の参戦が決まり、上永吉英文が強化部長に就任[5]するとブラジルの名門チームパルメイラスと提携を結び、監督のルイス・ドス・ヘイス・ゴンサルベス及び5人のブラジル人選手の無償提供を受ける。ヘイスをはじめブラジル人選手の来日が大幅に遅れるなど足並みが揃わないまま開幕を迎え、1勝すれば昇格が決まるベガルタ仙台にホームで勝利するなどしたが、98失点というJリーグ最多失点記録が災いし3年連続最下位に終わる。しかし、この年に社長に就任した山日YBSグループ出身の海野一幸による経営改革やサポーターの努力で、3つの存続条件を全て達成し、またJ参入3年目にして初めて単年度黒字を計上したため、2002年度以降のチームの存続が決定した。

[編集] 第一次大木体制(2002年)

チームスローガン:Action&Reaction!

パルメイラスとの提携を解除し、清水エスパルスと提携を結ぶ。この年に監督に就任した大木武の目指すプレースタイルが浸透し始めた後期から徐々に上昇。藤田健倉貫一毅石原克哉水越潤の活躍もあり12チーム中7位に入りJ2参加から初めての最下位脱出に成功する。また観客動員も順調に伸び、9月21日にはセレッソ大阪戦においてチーム初となる小瀬競技場での観客動員の満員(当時は13000人収容)を記録した。

また、世界的イリュージョニストとして知られるプリンセス・テンコーがスポンサーとなり、背中部分に「PRINCESS TENKO」の文字が入った。個人がJリーグのユニフォームスポンサーになるのは中田英寿湘南ベルマーレ)や藤原紀香横浜FC)の例があるが、テンコーはホームゲームでイリュージョンを行ったり、甲府のユニフォームを着てテレビ番組に出演するなど積極的に甲府を支援。テンコーとは2003年までスポンサー契約が続いた。

[編集] 松永体制(2003年-2004年)

2003年
チームスローガン:1mm1cmの努力

好成績を残した大木が清水の監督に就任することになり、代わりに清水のサテライト監督を務めていた松永英機が就任。大木退任により再び低迷するのかとの不安も囁かれたが、松永は昨シーズンのプレースタイルを継承。倉貫、石原、水越に横浜FMなどでプレーした外池大亮を加えた中盤は安定し、さらに6月には元日本代表の小倉隆史が加入すると、藤田またはこの年湘南から移籍した須藤大輔によるツートップでチーム力は向上。結果としてJ2参入後初となるシーズン勝ち越しおよび全チームからの勝利を獲得するなど最終節で福岡に抜かれたものの5位に入り、2002年以上の成績を残した。

2004年
チームスローガン:未知への挑戦!〜1mm1cmの努力〜

外池が広島へ移籍した代わりに、旧JFL時代に活躍したFWバロンが甲府へ復帰。小倉または山崎光太郎との2トップが機能し開幕から得点を量産。一時は2位になるなどチーム状況は良好で、前期は3位で折り返す。しかし昇格も見えていた矢先の7月31日にバロンが退団(その後鹿島に移籍)。それでも第3クールまでは何とか昇格争いに踏みとどまるものの、藤田と石原が怪我により長期離脱するとチームは失速。第4クールは2勝しかできずに7位でシーズンを終了した。

[編集] 第二次大木体制(2005年-2007年)

2005年
チームスローガン:One Play One Game 

大木が監督に復帰し、2002年から培ってきた攻撃重視のプレースタイルを更に発展させた。大宮から移籍したFWバレーがこのシーズン、J2得点ランク2位の21得点を挙げる活躍。J1への自動昇格となる2位以上こそならなかったものの、仙台と最終節までもつれ込む熾烈な3位争いを展開。最終節では3位に滑り込んでJ1・J2入れ替え戦に進み、との入れ替え戦で連勝して、J1昇格を決めた。

2006年
チームスローガン:Explore J1〜探検J1〜

昇格初年度は限られた予算の中、元日本代表の林健太郎やJFLベストイレブンの宇留野純、6年ぶりにチームへ復帰した堀井岳也、札幌などでプレーしたピジュなどを獲得し、身の丈に合った補強を行ないJ1初のシーズンを迎える。J1初戦は清水に敗れたが、J2で通用した走るサッカーが機能し始めた3戦目の川崎戦でJ1初勝利を挙げると、バレーや途中加入の茂原岳人らの活躍で横浜FM鹿島G大阪などの強豪チームに勝利するなどホームゲームでは予想以上の健闘を見せる。一方でアウェーにおいては3勝しかできなかった上、守備が崩壊し大差で負けることが多く、これが影響しJ1に残留するものの18チーム中15位に終わった。ただし、7位の名古屋との勝ち点差がわずか6の一方で、入れ替え戦ラインである16位の福岡との勝ち点差が15もあったことを考えれば、健闘したといえる。

2007年
チームスローガン:Decision & Doing 〜決断&実行〜

シーズン終了後に昇格の立役者バレーがG大阪をはじめ、倉貫とアライールが退団。J1他チームの主力の獲得に乗り出したものの即戦力として期待される補強はブラジル全国選手権でチーム得点王にもなったことがあるFWアルベルトとオリンピック日本代表の経験を持つDF増嶋竜也をそれぞれレンタル移籍で獲得するにとどまった。

大木が新たに取り入れた戦術「クローズ」がうまく機能せず、開幕4連敗を喫しその後残留争いから脱出したが、5月頃から再び連敗を重ね、第16節においてはジャッジに不満を持った茂原と試合に出場していなかった林がトラブルを起こし出場停止を受ける[6]など不安定な状況が続いてしまう。

シーズン後半にに羽地登志晃ラドンチッチの両FWを獲得し、ナビスコ杯得点王になった須藤とともに後半戦の巻き返しを図ったが羽地とラドンチッチは戦術になじめず、またJ1の堅固な守備の前にクローズは最後まで機能しなかったことで第33節で柏に1-2で敗れたことによりJ2降格が決定した。

[編集] 安間体制(2008年‐2009年)

2008年
チームスローガン:Feel 〜感じる〜

ヘッドコーチの安間貴義が内部昇格の形で監督に就任。茂原、増嶋、須藤などの主力選手がそれぞれ移籍した一方で補強面ではジョジマール美尾敦の復帰と前田雅文のレンタル移籍のみに留まった。さらに降格の原因の一つとなった戦術「クローズ」を継承したものの前年同様うまく機能せず、開幕戦でこの年参入したFC岐阜に追いつかれるなど5戦未勝利とスタートダッシュに失敗、攻撃陣はシュートを放つも枠の中に入らない状態で、守備も連係ミスによってオウンゴールを献上するなど攻守ともにバラバラになってしまう。その結果前半戦21試合を終えてわずか5勝しか挙げられず11位に低迷。特に得点数は20得点と1試合平均で1点を割り込み、リーグ最下位であった。7月にサーレスマラニョンの2人のブラジル人FWを期限付きで獲得。急成長した大西容平とともに目覚しい活躍を見せ、順位も少しずつ上がっていった。しかし上位チームに勝てないという勝負弱さは最後まで改善されず、何とか勝ち越したものの一度も昇格争いに絡めないまま7位でシーズンを終了。前年、今年と2年続けて補強が失敗したチームは、10月に元大宮監督の佐久間悟ゼネラルマネージャーに迎えた。

2009年
チームスローガン:ICHIGAN ~共に戦い、共に喜ぶ~

主力FW陣を大量放出し、かわりにマラニョンの完全移籍へ移行と金信泳森田浩史の各FWを獲得。守備陣はGK荻晃太、DFダニエルの2人をレンタル移籍で獲得した。この補強が功を奏し、第1クールを4位で折り返すと更なる補強として6月に岐阜から片桐淳至を、更に広島に在籍し9得点を挙げたガウボンの両FWを完全移籍で獲得した。

3つの昇格枠をかけてC大阪、仙台、湘南と争い、スタートダッシュに成功したチームは荻やダニエルをはじめとする守備陣の奮闘により昇格争いをしていた3チームおよび札幌東京Vの降格組から着実に勝ち星を積み重ねていった。一方で栃木SC富山岡山といった新参入3チームに対して勝ち星を取りこぼすことが多かった。第3クールに入るとC大阪・仙台に先行され、残り1枠の争いになったが、ここでゴールを守っていた荻が負傷。昇格をかけた湘南との直接対決ではダニエルとチームキャプテンの山本英臣の両CBが警告累積で出場できなかったことが影響して敗れ、結局勝ち点1差の4位でシーズンを終了した。

[編集] 内田体制(2010年)

チームスローガン:ICHIGAN -Try Again-

前年にヘッドコーチをしていた内田一夫が新監督に就任。前年を最後に林健太郎とGK阿部謙作が引退、長年チームに在籍した杉山新と森田が退団した。補強面では即戦力に特化、前年に途中加入ながら鳥栖で15得点を挙げたハーフナー・マイクと2005年のJ2得点王で前年夏まで京都に在籍したパウリーニョを完全移籍で獲得し、J2最強の攻撃陣を組成した。

開幕直前に戦術を急遽変更したことから最初の4戦は1勝1分2敗とスタートダッシュに失敗したが、その後攻撃陣が機能するようになり現行ルールでチーム初の5連勝、首位を走る柏戦に引き分け6連勝はならなかったがそこからまた4連勝し、第13節で2位に浮上する。そのまま順位を維持し、第34節のアウェーで行われた栃木戦に勝利し、4年ぶりのJ1復帰を決めた。最終順位は2位と前回昇格した2005年より上の成績で終わり、ハーフナー・マイクが20得点を挙げチーム初となるリーグ得点王に輝いた。

[編集] 三浦・佐久間体制(2011年)

チームスローガン:団結、挑戦、飛躍 ~ここから続く、喜びのために~

「J1での戦い方の経験不足」など総合的な理由で内田監督と契約を結ばず、守備強化を目的に三浦俊也が就任。安間・内田と二代続けて内部昇格であったため大木以来となる外部からの招聘となった。選手は2001年より10年にわたりチームの司令塔として君臨し続けた藤田健が退団、また秋本倫孝の完全移籍やマラニョンのレンタル移籍など主力選手の退団も相次ぐ。補強面では清水からMF伊東輝悦とDF市川大祐の2人の元日本代表をはじめ、主に戦力外通告になったベテラン選手の獲得を中心に行なった。

しかし元々攻撃的なパスサッカー中心の甲府でスタイルの全く違う守備重視のゾーンディフェンスを実践したもののまったく機能せず、連敗と大量失点を重ねてしまう。そのためハーフナー・マイクが得点王争いを演じたものの順位は常に降格圏にいる状態であった。7月に三浦が解任され[7]、代わってGMの佐久間が監督に就任。ハーフナー、パウリーニョ片桐淳至井澤惇らを中心にチームを立て直し残留争いを演じるも、劇的な改善が見られることはなく、第33節に15位の浦和が勝利したことによって降格が事実上決定[8]。最終節となる第34節に大宮に敗れて降格が正式決定した。

上述の通り最後まで戦術が機能しなかったことに加え補強した選手は結果を残せず、シーズン終了後ハーフナーには藤田、秋本らの放出や三浦俊也の招聘といったチーム作りの方針を批判され[9]、佐久間は補強した選手の質に問題があったと述べた[10]

[編集] 城福体制(2012年)

佐久間がGMに戻り、2010年までFC東京を指揮した城福浩が監督に就任。

チーム得点王のハーフナー・マイクオランダ1部フィテッセへ、パウリーニョG大阪へ、ダニエル名古屋へ、犬塚友輔小林久晃、シーズン途中からレンタル移籍していた國吉貴博鳥栖へ、内山俊彦仙台へ、市川大祐水戸へ、吉田豊清水へ、内田智也横浜FCへ完全移籍、荒谷弘樹小池悠貴が引退、金信泳金珍圭が退団、養父雄仁熊本へ移籍)、阿部吉朗磐田へ移籍)はレンタル移籍期間満了と選手が大量に退団。

補強面では、浦和からFW高崎寛之広島からDF盛田剛平東京VからDF福田健介、熊本からGK木下正貴を完全移籍で獲得。さらに、、千葉から青木孝太ドウグラスレナトをレンタル移籍で獲得、永里源気畑田真輝がレンタル移籍先から復帰、崔誠根佐々木翔林堂眞が新加入した。

[編集] クラブの特徴

[編集] 地元のサポート体制

甲府側ゴール裏観客席およびピッチ看板。ゴール裏のピッチ看板が2重に配置されているほか、パックスタンドにも広告用横断幕が掲げられているのが分かる。
2009年12月5日ロアッソ熊本戦(資料)

クラブが解散の危機に立たされた2001年、地元市民からは「山梨唯一のプロスポーツクラブの灯を消すな」ということで存続を訴え続け、クラブが掲げた3つの条件(別掲)をクリアして市民チームとして再建を果たしたが、それを支えているのは地元の企業・店舗などからの支援体制である。

サッカーに関心のなかった甲府市民らまでを巻き込んだ支援活動により、大都市の大手企業だけでなく地元の企業や店舗などもスタジアムの広告看板を掲示するようになった(試合中に使われる担架にまで広告を載せている)他、クリーニング店が選手の使用したユニフォームや練習着を無償洗濯したり、理髪店やパン屋、温泉施設など、多くの企業がヴァンフォーレの選手・スタッフに対しての無料優待を受けて全面的な支援体制を強化させており、公式ホームページも地元のホームページ制作会社がボランティアで制作・運営を行っている。

一方で、運営会社のヴァンフォーレ山梨スポーツクラブは山日YBSグループ各社との結びつきが強く、i-mode公式サイトなどは山日YBSグループの企業が運営している。また2006年4月から山梨放送でヴァンフォーレ甲府応援番組VENTスポ!が始まった(2010年3月に終了)。2009年8月にはホームグラウンドである小瀬陸上競技場のスクリーンが山梨県によってフルカラーに全面改修された事を受け新たな動画展開を実施している。この操作もグループ企業が県の許可を取得し受け持っている。

これらの体制やクラブ運営が評価を受け、徳島ヴォルティスがJリーグ加盟前に海野を徳島へ呼んでアドバイスを受けたり、元チェアマンの川淵三郎などがインタビューなどで甲府の成功例を挙げている[11]

[編集] 人材の補強と育成

経営危機以来運営管理が厳しくされていることから赤字を出すことが出来ず、また遅れている設備面での投資を優先していることもあり、他チームからの戦力外選手やレンタル移籍の選手を獲得している。パルメイラスや清水エスパルスと業務提携を行っていた時は選手だけでなく監督も出向という形で起用し、人件費抑制に努めていた。また、合同トライアウトとは別にセレクションによる選手獲得を積極的に行い、藤田健や大西容平、秋本倫孝などのちにレギュラーとして活躍する選手を育て上げたが、2007年に大量獲得した選手がレギュラーを奪えずに3年以内で全員退団するなどチーム状況の変化により効果が薄いことから2008年を最後に実施されていない。

一方で下部組織による育成は遅れており、1種選手としてトップに昇格したのは唐澤大夢(2009年昇格)と堀米勇輝(2010年昇格)のみとなっている。この問題を解決するため2009年に山梨学院大学と提携を結び、ユース出身の選手を大学に入学させて育成したり、逆に大学側の有望な選手をヴァンフォーレ甲府に入団させるシステムを取り入れている。

[編集] 応援スタイル

ホーム側ゴール裏のサポーターが応援歌を歌うスタイルとなっている。サポーター集団であるHINCHASを中心に特徴的な「」の巨大フラッグを掲げ、コーヒールンバ[12]野球狂の詩、真っ赤な太陽などをベースとした歌を歌いながら応援し、試合に勝利すると輝く夜空を斉唱する。それ以外のサポーターは基本的に歌を歌わず座って観戦、以前はメガホンを叩きながら応援していたが次第に減少し、現在は1プレイに注視してボールの奪い合いの時でも歓声を上げる人が多い。

[編集] エピソード

[編集] プロリーグでのアマチュア選手

1999年にJリーグへ参入し、選手たちとプロ契約を結ぶことになったが、Jリーグはアマチュア選手の登録を認めていることもあり、主力選手であり当時竜王町役場に勤務していた石原大助も引退・退団せずに契約を更新した。しかし石原の本業は地方公務員であり、地方公務員法により副業を行なうことが禁止されているため、報酬を得ないアマチュア選手として引き続き契約した。

2000年は石原以外に5人の選手とアマチュア契約。これは財政状況を改善すべく人件費削減を見込んでの契約であったが、連敗記録を喫するなどチーム状況が散々で、観客動員低迷などかえって財政状況が悪化した。

2001年のアマチュア契約は再び石原だけになった。石原は17試合に出場したが、年齢による衰えなどからこの年を最後に現役を引退。その後甲府は特別指定選手を除き、全員がプロ選手で構成されている。

[編集] コーチからの現役復帰

ヴァンフォーレ甲府はコーチがチーム事情により選手登録された例が2回ある。

経営および成績が低迷していた2000年はシーズン中に退団するなど選手数は24人と少なく、このうちプロ契約をしている選手はわずか18人となった。そこでこの年フィジカルコーチとして甲府に入団した鶴田道弘に対し7月にプロ契約を結び、現役復帰することになった。鶴田は名古屋グランパスエイトヴィッセル神戸でプレイする経歴こそ持っていたものの、1996年を最後に現役を退いており、再びピッチに立つのは5年ぶりであった。鶴田は4試合に出場し、シーズン終了後に契約非更改となり2度目の現役引退。現在は東海学園高等学校の監督をしており、全国高校総合体育大会全国高等学校サッカー選手権大会にも出場している。

2010年は6月に荻晃太が負傷し長期離脱してしまい、出場できるGKが2人だけとなったため、2006年に現役引退しこの年よりゴールキーパーコーチをしている松下太輔が急遽選手登録されることになった。但しあくまで緊急措置としての登録で、荻が怪我から復帰した後の9月末に1試合も出場することなく選手登録を抹消され、コーチ専属に戻っている。

[編集] オールスターでのチーム振り分け

2006年と2007年はJ1に所属していたため、Jリーグオールスターサッカーにも参加していたが、振り分けは2006年は東軍(甲府よりわずかに西に位置している清水は西軍)であったが、2007年は西軍に振り分けられた。これは甲府より西にあった京都、C大阪、福岡がともにJ2に陥落し、かわりに甲府より東に位置する柏と横浜FCが昇格したためである。なお、東西の変動はアルビレックス新潟でも発生している。

[編集] 開幕戦未勝利のジンクス

リーグ参入の1999年から2011年までの13年間で開幕戦に勝利したことがない。これは1999年に参入した10チームで唯一の記録である。また、2008年まで開幕第2戦およびホームゲーム開幕戦に勝利したこともなかったが、いずれも2009年に勝利を挙げている。なお、過去11シーズンのうち8シーズンにおいて小瀬で初勝利を挙げている(現方式だと9シーズン)。

ヴァンフォーレ甲府の開幕戦とシーズン初勝利の成績
年度 開幕戦 初勝利
1999 大宮 (韮崎中央) 1-2● 第11節、対仙台 (仙台) 2-1[13]
2000 札幌 (小瀬) 0-3● 第3節、対仙台 (小瀬) 1-0
2001 川崎 (等々力) 1-3● 第6節、対水戸 (小瀬) 3-1
2002 横浜FC (三ツ沢球) 2-3● 第3節、対水戸 (ひたちなか) 1-0
2003 鳥栖 (小瀬) 1-1△ 第3節、対湘南 (小瀬) 1-0
2004 札幌 (札幌D) 2-2△ 第6節、対湘南 (小瀬) 1-0
2005 札幌 (小瀬) 2-2△ 第4節、対水戸 (小瀬) 4-1
2006 清水 (小瀬) 0-2● 第3節、対川崎 (小瀬) 1-0
2007 横浜FM (日産) 0-1● 第5節、対神戸 (小瀬) 4-3
2008 岐阜 (小瀬) 1-1△ 第6節、対C大阪 (小瀬) 3-2
2009 岡山 (桃スタ) 0-0△ 第2節、対岐阜 (長良川) 1-0
2010 福岡 (レベスタ) 1-3● 第3節、対岐阜 (長良川) 1-0
2011 磐田 (中銀スタ) 0-1● 第11節(6戦目)、対名古屋 (中銀スタ) 3-1[14]

[編集] ダービーマッチ

川中島ダービー (vsアルビレックス新潟)
武田信玄甲斐)と上杉謙信越後)の川中島の戦いにちなみ2003年頃からこの呼称が使われている。2003年と2006年には長野県信濃)の松本平広域公園総合球技場(松本アルウィン)を会場にし、試合前に武田・上杉両軍に扮したパフォーマンスが行われる。なお、2007年は小瀬を使用することになったため川中島の演出は行なわれず、その他の年についてはカテゴリが違うため行なわれていない。新潟の主催試合でも川中島を意識したイベントが行われている。
富士山ダービー (vs清水エスパルス)
富士山を望む位置にあることから同じディビジョンとなった2006年と2007年に実現。甲府がJ1昇格初戦となる試合では双方から記念グッズも発売されている。
温泉ダービー (vsザスパ草津)
2005年に松本平広域公園総合球技場(松本アルウィン)にて行なわれた試合では、草津側と共に温泉にちなんだ演出が行なわれた。甲府は石和温泉に関連して神輿、草津は草津温泉に関連して湯もみの演出を行なっている。なお、草津以外にも愛媛FC道後温泉)やFC岐阜下呂温泉)など付近に有名温泉地のあるチームは数多くあるが、甲府の試合で「温泉ダービー」の呼称が使われたのはこの試合のみである。

詳細については日本のダービーマッチを参照。

[編集] 成績

[編集] ホームゲーム観客動員数

[編集] 最多観客動員試合

J1
  • 2006年7月29日 第16節 浦和戦 17,000人 (小瀬)
  • 2007年8月18日 第21節 浦和戦 36,756人 (国立)
J2
  • 2009年11月21日 第49節 湘南戦 16,844人 (小瀬)
  • 2003年8月30日 第30節 新潟戦 13,043人 (松本)

[編集] 最少観客動員試合

J1
  • 2006年7月19日 第13節 京都戦 8,025人 (小瀬)
  • 2006年4月8日 第7節 新潟戦 14,599人 (松本)
J2
  • 2000年6月11日 第18節 山形戦 724人 (小瀬)
  • 1999年9月10日 第25節 FC東京戦 619人 (韮崎中央)

[編集] 年度別観客動員記録と開催スタジアム

J2加盟当初は、小瀬競技場(山梨中銀スタジアム)が日本陸連・山梨陸連との日程調整の都合で開催できない日があったため、週末に行うべき試合をある平日のナイターに移動させたり、また日程の都合がつかなければ韮崎市(韮崎中央公園陸上競技場)や富士吉田市(富士北麓公園陸上競技場)に変更させたりした。しかしJリーグ開催基準を満たしていないスタジアムでの開催を極力抑えるため2001年から県内での開催は同県で唯一リーグの基準を満たす小瀬のみに会場を絞っている。

なおJFL時代使用していた甲府市緑が丘スポーツ公園陸上競技場ではJリーグの開催実績はない。

     J1      J2

年度 合計
動員数
最多
動員数
最少
動員数
平均
動員数
ホーム
試合数
会場 1試合平均入場者/総入場者 備考
1999 26,450 3,807 619 1,469 18 瀬14、韮4
Jリーグ参入
2000 37,004 6,005 724 1,850 20 瀬17、麓2、韮1
経営危機問題
2001 68,850 5,541 1,508 3,130 22 瀬22
県内小瀬一本化
2002 108,108 13,000 3,047 4,914 22 瀬22
2003 127,515 13,043 2,382 5,796 22 瀬21、松1
県外初開催
2004 140,141 10,121 2,401 6,370 22 瀬21、松1
2005 152,491 14,234 4,903 6,931 22 瀬21、松1
小瀬増築開始
2006 207,629 17,000 8,025 12,213 17 瀬16、松1
小瀬増築完了
2007 233,476 36,756 8,373 13,734 17 瀬16、国1
2008 217,428 14,521 7,267 10,354 21 瀬21
2009 276,463 16,844 5,582 11,059 25 瀬25
2010 223,309 16,431 10,163 12,406 18 瀬18
2011 17 中16、国1 命名権導入
1,818,864 7,394 246
瀬・中:小瀬競技場・山梨中銀スタジアム、国:国立霞ヶ丘陸上競技場、松:長野県松本平広域公園総合球技場(アルウィン)
韮:韮崎中央公園競技場、麓:富士北麓競技場

[編集] リーグ戦の主な記録

[編集] チーム記録

[編集] 最多得点試合

H & A スコア 試合日 対戦相手
J1 ホーム 4-3 2007年第5節 (4月7日) ヴィッセル神戸
4-3 2011年第23節 (7月16日) ガンバ大阪
アウェー 4-0 2011年第29節 (10月15日) セレッソ大阪
J2 ホーム 6-1 2004年第19節 (6月23日) 横浜FC
6-0 2009年第23節 (6月24日) アビスパ福岡
6-0 2010年第33節 (11月7日) ギラヴァンツ北九州
アウェー 5-1 2003年J2第6節 (4月12日) 横浜FC

[編集] 最多失点試合

H & A スコア 試合日 対戦相手
J1 ホーム 1-6 2007年第14節 (6月10日) ジュビロ磐田
アウェー 1-5 2006年第17節 (8月12日) 名古屋グランパスエイト
0-5 2007年第29節 (10月21日) ガンバ大阪
J2 ホーム 3-5 1999年第25節 (9月10日) FC東京
1-5 2001年第26節 (8月14日) サガン鳥栖
アウェー 1-6 1999年第4節 (4月4日) アルビレックス新潟
0-6 1999年第9節 (5月2日) コンサドーレ札幌

[編集] 最多連勝記録

J1リーグ戦
3連勝 (2007年第7節(4月21日)から第9節(5月3日))
J2リーグ戦
5連勝 (2010年第6節(4月11日)から第10節(5月2日))

[編集] 最多連敗記録

J1リーグ戦
5連敗 (2007年第21節(8月18日)から第25節(9月15日))
J2リーグ戦
19連敗 (2000年第13節(5月18日)から第32節(9月11日))
25連敗 (2000年第5節(4月2日)から第32節(9月11日)) -ルール改正前のカウント

[編集] 個人記録

[編集] 通算最多出場者

  • 通算
404試合 - 石原克哉 (日本の旗 日本) (初出場2001年4月21日 vs.横浜FC戦)
  • リーグ戦
369試合 - 石原克哉 (日本の旗 日本)

[編集] 通算最多得点

  • 41得点 - 藤田健 (日本の旗 日本) (初出場:2001年3月17日 vs.湘南戦)

[編集] 最多連続得点試合

  • 5試合 - バレー (ブラジルの旗 ブラジル) (2005年J2第11節(5月7日)から第15節(6月4日))

[編集] シーズン最多得点

J1リーグ戦
17得点 - ハーフナー・マイクー (日本の旗 日本) (2011年)
J2リーグ戦
21得点 - バレー (ブラジルの旗 ブラジル) (2005年)

[編集] ハットトリック

得点数 氏名 達成日 対戦相手
J1 達成者なし
入替戦 6得点 バレー 2005年12月10日 (第2戦)
J2 4得点 バロン 2004年5月2日 (第9節) 水戸
3得点 ジョルジーニョ 2002年10月19日 (第38節) 福岡
山崎光太郎 2004年6月23日 (第19節) 横浜FC
バレー 2005年5月28日 (第14節) 徳島
マラニョン 2010年4月29日 (第9節) 札幌
ハーフナー・マイク 2010年11月7日 (第33節) 北九州
カップ戦 3得点 須藤大輔 2007年7月7日 (準々決勝第1戦) 川崎

[編集] 記念ゴール

ゴール数 氏名 達成日 対戦相手
J2 2500 ジョルジーニョ 2002年11月10日 (J2第42戦) 鳥栖
3500 バロン 2004年6月26日 (J2第20戦) 京都
8000 大西容平 2009年10月4日 (J2第43戦) 東京V

[編集] タイトル

チームタイトルはリーグ戦およびカップ戦、個人別タイトルはリーグ戦のみ記載。

[編集] チームタイトル

  • 2012年までに獲得したタイトルは無し。

[編集] 個人別タイトル

  • 旧JFLベスト11‐バロン (ブラジルの旗 ブラジル) (1998年)
  • J2得点王‐ハーフナー・マイク(日本の旗 日本) (2010年、20得点)
  • Jリーグベストイレブン - ハーフナー・マイク(日本の旗 日本) (2011年)

[編集] キャンプ地

年度 地域 会場
2001 日本の旗茨城県鹿島郡波崎町[15] 波崎サッカーパーク
2002 日本の旗静岡県清水市[16] 清水ナショナルトレーニングセンター
2003
日本の旗静岡県裾野市 時之栖スポーツセンター
2004
2005 日本の旗静岡県静岡市清水区 清水ナショナルトレーニングセンター
2006
日本の旗宮崎県西都市 清水台総合公園多目的広場
韓国の旗ソウル水原市など 水原WCスタジアムサブグラウンドなど
2007 日本の旗静岡県静岡市清水区 清水ナショナルトレーニングセンター
日本の旗宮崎県東諸県郡綾町 綾てるは文化公園サッカー場
韓国の旗ソウル・水原市など 水原WCスタジアムサブグラウンドなど
2008 日本の旗静岡県静岡市清水区 清水ナショナルトレーニングセンター
日本の旗宮崎県東諸県郡綾町 綾てるは文化公園サッカー場
2009 グアムの旗グァム レオパレスリゾート
日本の旗宮崎県東諸県郡綾町 綾てるは文化公園サッカー場
2010 日本の旗和歌山県和歌山市 紀三井寺運動公園陸上競技場
日本の旗宮崎県東諸県郡綾町 サイクリングターミナル陸上競技場

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 青×赤
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd) ピンク
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

[編集] チームカラー

  • ホームが青色
  • アウェーが白色

[編集] ユニフォームデザイン

甲府クラブ時代は武田氏赤備えをイメージする赤一色であったが、ヴァンフォーレになってからはホーム色は青、アウェーは白を基調としている。 一時期袖部が赤一色(アウェー用は赤一色)になったり、腰部にエンブレムの武田菱が入るなどのデザイン変更がされるようになったが、 現在はホーム用が青色を基調に首周りや袖先・腰部が赤色、アウェー用が白色を基調に首周りや袖先・腰部が青色と非常にシンプルなものになっている。なお、ゴールキーパー用はホームが黄色、アウェーが桃色(パンツは黒色)を基調にしている。

[編集] ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
はくばく はくばく 2001年〜2006年、
2009年〜
2007年〜2008年は背中
背中 東京エレクトロン 東京エレクトロン 2009年〜 2006年〜2008年は袖、
2007年〜2008年はパンツ
ジット Jit 2009年〜
パンツ なし

[編集] ユニフォームサプライ

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1998 NTTDoCoMo DIRECTV - - PENALTY
1999 - - - - nr(ennerre)
2000 - ‐/index - -
2001 はくばく index Sannichi
YBS Group
-
2002 PRINCESS
TENKO
武田消毒
2003 DELLERBA
2004 シャトレーゼ 泉郷
2005 信玄食品
2006 NIPRO 東京エレクトロン pal*system
2007 NIPRO はくばく 東京エレクトロン UMBRO
2008
2009 はくばく 東京エレクトロン Jit -
2010 -
2011 - Mizuno

[編集] メディア

[編集] 地元メディアによる試合中継

  • NHK甲府放送局(県域総合テレビ) - 一部は相手チームの地元局との相互放送、あるいは甲府局単独でアウェイ中継も行う。
  • 山梨放送(YBSテレビ、YBSラジオ) - ラジオは年1試合程度静岡放送SBSラジオが乗り入れる事例がある(「富士山ダービー」)。また特番『SSS~スリーエス~』としてアウェイ試合の経過速報を伝えることもある。一般的な実況中継でもアウェイに乗り込んで独自制作することがある。テレビは基本的にホーム試合で、スカパー!向け映像制作・実況も担当。
  • NNS甲府CATV - 主にホーム試合。
  • エフエム甲府『ヴァンフォーレ甲府入れ込み実況中継』 - ホーム、アウェイとも同程度の中継回数。
  • UTYテレビ山梨 - 2011年シーズンは放送なし。過去に『ウッティ発!』の時間帯でゴールデンタイムの実況中継(後半のみ)を行ったことがある。

[編集] その他チーム情報

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 例:横浜F・マリノス=日産自動車名古屋グランパス=トヨタ自動車ガンバ大阪=パナソニック(旧・松下電器産業)など
  2. ^ 塚田が総監督として実質的に指揮をとっていた。
  3. ^ 当時は6連敗のあと第11節サガン鳥栖戦の引き分けを挟んだあとの19連敗も合計して連敗がカウントされ、25連敗と記録されていた。現在は引き分けなしの第12節から第32節「19連敗」とカウント。
  4. ^ この26試合未勝利は2003年に鳥栖が更新するまでJリーグワースト記録だった。現在は2010年-2011年にギラヴァンツ北九州が記録した35試合未勝利。
  5. ^ 開幕直前の3月に自社の業務に専念という理由から退任
  6. ^ 茂原は主審に対する侮辱行為および器物破損によりナビスコ杯を含め7試合出場停止、林は出場していなかったが試合終了後の主審に対する暴言により2試合の出場停止
  7. ^ 甲府クラブ時代を含め、シーズン途中で監督が解任されたのはこれが初めてである。
  8. ^ 甲府の第33節の試合は浦和の翌日だったが、第33節の浦和戦の勝利によって、勝ち点は浦和に並ぶ可能性はあるものの得失点差が17あり、上回るのが事実上不可能だったため。
  9. ^ ハーフナー甲府退団へ「チームをぶっ壊す意味が分からない」 スポーツニッポン,2011年12月3日
  10. ^ 【J1:第34節 大宮 vs 甲府】甲府側プレビュー:『心』で戦うサッカーで僅かな可能性に賭ける J's GOAL,2011年12月2日
  11. ^ 川淵三郎百年インタビュー 経営危機の打開策 (YouTube)
  12. ^ ボカ・ジュニアーズや横浜F・マリノス、コンサドーレ札幌などでも歌われている。
  13. ^ 当時の延長Vゴール方式による、現方式だと初勝利は第12節の新潟戦(小瀬、3-0)となる。
  14. ^ 東日本大震災の影響により第2節から第6節は延期されている。
  15. ^ 現・神栖市
  16. ^ 現・静岡市清水区

[編集] 外部リンク

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