横浜FC
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| 横浜FC | |
| 原語表記 | 横浜FC |
|---|---|
| 愛称 | フリエ |
| クラブカラー | 白、水色、青 |
| 創設年 | 1999年 |
| 所属リーグ | Jリーグ |
| 所属ディビジョン | ディビジョン2 |
| ホームタウン | 横浜市 |
| ホームスタジアム | 横浜市三ツ沢公園球技場 日産スタジアム |
| 収容人数 | 三ツ沢=15,046 日産ス=72,370 |
| 代表者 | 奥寺康彦 |
| 監督 | 都並敏史 |
横浜FC(よこはまえふしー、Yokohama F.C.)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。ファンの間ではフリエとも呼ばれている。
目次 |
[編集] クラブの概要・歴史
2001年Jリーグ加盟。ホームタウンは神奈川県横浜市、ホームスタジアムは三ツ沢公園球技場。日産スタジアムでも試合を開催する。財政事情により専用の練習場が確保できなかったため港北区のしんよこフットボールパークなど市内各地を巡回して練習していた(~2006年シーズン)が、2007年からは嘗て横浜フリューゲルスが使用していた戸塚区の戸塚トレーニングセンターの使用をいわば「再開」し、里帰りを果たすことになった。なお、戸塚トレーニングセンターはネーミングライツにより「横浜FC LEOCトレーニングセンター」と改称された。
1998年、出資会社の撤退に伴い横浜フリューゲルスが消滅(形式上は横浜マリノスに吸収合併)することになり、これに反対するサポーターに選手も加わってクラブ存続を求める署名と募金を実施。しかし合併取り消しは実現せず、天皇杯での優勝を最後にフリューゲルスは消滅することとなった。
合併の手続き終了後、サポーターは「フリューゲルス」という名称の譲渡を申し入れたが、この名称を使用するチームが必要との回答もあったため、出資企業の経営に左右されない市民クラブの設立と翌年1999年からのJリーグ2部(J2)への参加実現にむけ動き出した。
しかし、フリューゲルスを継承するチームとはいえども、サポーターが立ち上げただけのフリューゲルスとは全く違う新設チームであるため、実績のないクラブのJ2参加は困難としてこれは認められなかった(神奈川県の場合は新規参入チームは3部リーグからスタートするのが決まりで、1年ごとにステップアップしても、J2参加には最速でも7年かかる)。代わりに、超法規的措置としてJ2の下部に位置する日本フットボールリーグへの「準会員」資格での参加が認められた。一時期、「Y.S.C.C.(現・横浜スポーツ&カルチャークラブ)と統合しないか?」という案が出たが、この案は白紙となった。1999年は、リトバルスキー監督のもと日本フットボールリーグ1位。2000年には日本フットボールリーグ「正会員」となり、同年同リーグで無敗の1位。2001年シーズンからJ2に昇格した。この経過が、後に日本サッカー協会が飛び級制度の新設に踏み切るきっかけともなった。2002年から女優・藤原紀香が運営するインターネットサイト「Norika.net」がスポンサーに加わった。
2005年6月、学校・病院給食や企業の社内食堂を展開するレオックジャパンの関連会社・フィートエンターテイメント社が横浜FCの第3者割り当て増資を引き受けて事実上のオーナーに就任することになった。「現在の地域密着型チーム運営の形態を維持する」とフィート社は示している。
なお、運営法人の横浜フリエ・スポーツクラブの「フリエ(fulie)」は横浜フリューゲルスの頃から使われてきた単語である。とくにオフィシャルショップ「フリエ元町」(既に閉店)はグッズ販売のみならず、フリューゲルスサポーターの憩いの場という機能も有していた。なお、横浜フリューゲルスは傍系(別チーム扱い)であるため、フリューゲルス時代の記録(創設年、優勝回数、個人賞受賞回数)はカウントされない。
[編集] チーム名変更問題
チーム名に愛称は設けず単に横浜FCとしている(J加盟クラブで愛称なしの事例はFC東京に次ぐ2クラブ目)が、いずれはフリューゲルスを名乗ると思われた。しかし奥寺康彦社長がフリューゲルスの名称を継承する事を否定した為、フリューゲルス襲名希望のサポーターグループが解散した経緯がある。
その後、2005年10月に行われたサポートミーティングでは、サポーター側から現行のチーム名で継続してほしいとの提案が出された。これには、フリューゲルスサポーターが立ち上げたチームであるもののフリューゲルスと横浜FCは全くチーム体質が違うことや、フリューゲルスの版権(商標権)が横浜F・マリノスにあること(Fはフリューゲルスを指している)等が挙げられている。
名称返還に関しての直接的な要求の声は激減したが、それはフロント側が名称問題を積極的に無視し続けたためであり、潜在的な要望は未だ根強く残っていると思われる。
[編集] ソシオ・フリエスタ
横浜FCは企業の資本に頼らない純市民参加型のサッカー・スポーツクラブ作りを目指すという観点で、球団運営の核となる任意組織「ソシオ・フリエスタ」を設立した。これのモデルはスペイン1部リーグ(リーガ・エスパニョーラ)の強豪であるFCバルセロナとされている。同チームも一般市民から集めた会費を基としてサッカークラブを中心とした様々なスポーツクラブ活動を展開してきた。
横浜FCも創設当初は市民から会費を募集し、会員には年間指定席の斡旋(希望者)の他、試合会場や各種イベントでの運営アシスタント(ボランティア)への登録やチーム上層部との意見交換会などに出席できる権利を得ることが出来た。この試みは日本の新しいスポーツクラブ運営のモデルとしてマスコミなどからも注目されていた。
しかし、J2昇格が確定した2001年年頭ごろから問題が表面化した。ソシオの役員改選選挙が実施されている最中、ソシオの会員宛に突如、運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜フリエSC)から「協約書」が送付された。その内容は「ソシオ会員は全員運営会社と直接契約を結ぶことを求める」もので、「本協約書にご賛同いただけず退会を希望される方には、ご返金いたします」という性急な内容だった。
ソシオとの協議で、運営会社は「ソシオの会費は当初から運営会社の運営費として捻出されることになっていたが、理事会の承認なしに運営費を拠出できないのは責任ある球団経営が見込めないと判断した」と主張し、これまでのソシオとの協定書を破棄することを宣言した。
結局、運営会社側はソシオに代る新しいチームの後援組織「横浜FCクラブメンバー」を2001年9月に発表。新社長に就任した奥寺保有の株式をソシオ会員ではなく、クラブメンバーに割り当てること、また会員には「サッカーをする・ふれるといった体験型のイベントを充実させる」ことや「個人情報の管理・責任をより徹底・明確にする」ことなどを提案。名称についてもソシオの名前が係争中だったことから別の名前に変更したという。これにはソシオ理事会側が遺憾の意を示す。
その後ソシオ側は運営会社に対し、ソシオの会費の一部(740万円相当)と会員名簿の返還を求めるよう横浜地方裁判所に仮処分申請を行ったが、2002年1月それは却下された。ソシオ側は東京高等裁判所に即時抗告を行ったが、これもあくる2003年に却下された。その趣旨は「入会事務・会員名簿の作成は運営会社から委託された業者が行い、団体として内部的にも自立して運営されているとは認めがたいから、ソシオは(法人格を有しない団体でも例外的に当事者能力が認められる)民事保全法7条・民事訴訟法29条の『法人でない社団』とは認められない。よって、当事者能力がないから、申立ては不適法である」というものだった[1]。
その間、運営会社が「ソシオの名称は運営会社側に商標登録がある。このまま使用を続けるのなら法的な処置も辞さない」とソシオ側に通告を行い、2003年、ソシオ側はその名称を「ソシオ・フリエスタ」から「ソシオ横浜」に変更した。運営会社側の主要スタッフの交代も追い風となって、同年9月、ソシオ横浜と運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブは和解合意書に調印し、2年以上に及んだ運営会社側とソシオ側の対立はこうして区切りを迎えた。なお、ソシオ横浜は合意書を踏まえて、ソシオ横浜として「横浜FCクラブメンバーのグループメンバー」にも加入している(2007年現在)。
[編集] ホームゲームの開催スタジアムに関して
[編集] 1999年シーズンの公式戦の会場
横浜FCは三ツ沢(球)をホームスタジアムとしているが、1999年は前述したように超法規的処置として特別に日本フットボールリーグへの参入が認められたことや、三ツ沢(球技場、陸上競技場とも)も、他の大会の使用スケジュールもほぼ確定していたこともあり、実際に三ツ沢(球)で試合を行えたのは3試合だけ。他のホーム9試合は県内各地のグラウンドを転戦していった(横浜市では、その他に横浜国際で2試合、保土ヶ谷で1試合の計6試合。他に綾瀬、海老名、平塚の各市と愛川町で開いた。なおこの年は3回戦総当りのため、対戦カードによって同一カードのホームゲームが2試合行われることもあった)。
[編集] 2001年以後
J2に昇格して以後、主として毎年8-9月を中心とした一部ホームゲームは関東近郊(特に東京都の江戸川区陸上競技場、江東区夢の島陸上競技場)で試合を行うことがある。これは三ツ沢(球)の芝生の養成が必要なためである。また2002年は三ツ沢(球)がワールドカップ日韓大会出場国の練習会場に使われ、やはり芝生の養成・生育が必要となったことから、主として4-9月の主催ゲームの多くは隣接する三ツ沢(陸)を会場として行った。また関東以外にも2003年に福島県営あづま陸上競技場でホームゲームを開催したことがある。ただし、この競技場のピッチの面積がJリーグ公式戦の基準より狭いことが判明したため開催はこの一度限りである。 なお2006年には国立霞ヶ丘陸上競技場でも2試合主催した。2007年も、同競技場で2試合主催した。
[編集] 2007年に関して
- J1の横浜市内主催開催15試合は三ツ沢(球)で9試合、日産スタジアムで6試合(他前述の国立3試合)行われ、ナビスコ杯は3試合とも三ツ沢(球)で行われた。
- ただし、本来の本拠・三ツ沢(球)は10月27日の大宮アルディージャ戦が同年度最終試合となり、その後はホームの試合に三ツ沢(球)は使用されない。
- 4月14日、日産スタジアムでJ1昇格後最初のホームゲームとなる鹿島アントラーズ戦が行われたが、その時に、スタジアムの定員7万人をいっぱいに埋め尽くそうという「7万人プロジェクト」と呼ばれる企画を行った。 選手らが練習場最寄駅である東戸塚駅前でビラ配りを行ったり、カズがテレビ出演するなどして盛り上げに努めたが、クラブ最多観客動員記録(当時)は更新するも、観客は19,367人と目標には遠く及ばなかった。
- 6月30日に日産スタジアムで行われた「TOMAS Special MATCH」と銘打たれたジェフ千葉戦では43,117人を動員し、最多観客動員記録を大幅に更新した。
- 12月2日最終節の浦和レッズ戦ではジェフ千葉戦を上回る46,697人を動員し、クラブの最多観客動員記録をさらに更新した。ただし、この日は浦和のリーグ制覇がかかっていた試合でもあり、この日の観客の多くは浦和サポーターであり、横浜FCサポーターはホーム側ゴール裏とメインスタンドの一部しか占められなかった。
- 観客動員が5,000人を下回る事もしばしばあり、中でも5月26日の大分トリニータ戦は週末の土曜日で晴天という絶好の状況だったにも関わらず観客動員は4,935人にとどまるなど、フロントの集客方針には首を傾げるサポーターも少なくない。さらに、チーム成績も振るわず降格も決定したため、来シーズン以降のサポーター離れなども危惧されている。
[編集] 2008年
- リーグ戦21試合中、19試合を新装成ったニッパツ三ツ沢球技場で開催。他会場での主催は日産スタジアムは1試合と国立競技場が1試合だけとなった。
[編集] 新聞のチーム略称表記
横浜FCが日本フットボールリーグに在籍した2年間は「横浜FC」としてそのまま表示していたが、2001年にJ2入りが決まると「横浜C」として表記している。但し、朝日新聞、日刊スポーツでは略さずに「横浜FC」と表記している。
3文字に略されるのは、totoにおいてチーム名が3文字以内で略記されることに由来する。横浜FCと横浜F・マリノスは「横浜」の次の文字がともに「F」であるため、その次の文字により横浜FCは「横浜C」、横浜F・マリノスは「横浜M」と区別して表記されることとなっている。また「横浜F」の表記ではフリューゲルスと混同される恐れがあること、フリューゲルスの名称の商標権者がマリノスであることなどを踏まえて略号を「C」にしたものとも考えられる。
[編集] オフィシャルテーマソング
THE ALFEEはJリーグ創生期に横浜フリューゲルスのオフィシャルソング『Victory』を提供していた。その関係もありフリューゲルスの合併消滅には心を痛め、横浜FC誕生の折にも楽曲提供を行い、テーマソングの売り上げは全てチーム運営費へという形で支援している。
[編集] チーム成績・歴代監督
| 年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 得点 | 失点 | 得失点差 | 順位 | 監督 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999年 | JFL | 24 | 55 | 18 | 3 | 3 | 57 | 32 | +25 | 優勝 | ピエール・リトバルスキー |
| 2000年 | 22 | 61 | 20 | 0 | 2 | 66 | 24 | +42 | 優勝 | ||
| 2001年 | J2 | 44 | 43 | 15 | 28 | 1 | 58 | 81 | -23 | 9位 | 永井良和/阪倉裕二/信藤健仁 |
| 2002年 | 44 | 35 | 8 | 25 | 11 | 43 | 81 | -38 | 12位 | 信藤健仁 | |
| 2003年 | 44 | 42 | 10 | 22 | 12 | 49 | 88 | -39 | 11位 | ピエール・リトバルスキー | |
| 2004年 | 44 | 52 | 10 | 12 | 22 | 42 | 50 | -8 | 8位 | ||
| 2005年 | 44 | 45 | 10 | 19 | 15 | 48 | 64 | -16 | 11位 | 足達勇輔 | |
| 2006年 | 48 | 93 | 26 | 7 | 15 | 61 | 32 | +29 | 優勝 | 足達勇輔/高木琢也 | |
| 2007年 | J1 | 34 | 16 | 4 | 26 | 4 | 19 | 66 | -47 | 18位 | 高木琢也/ジュリオ・レアル |
[編集] 2002年
[編集] 2003年
キャッチフレーズ:「ガムシャラ~原点を思い出せ。迷うな、負けるな、強くあれ!~」
前年度最下位に沈んだ横浜FCは信藤健仁監督との契約を更新せず、チーム初代監督のピエール・リトバルスキーを再び招聘。
有馬賢二、廣長優志などが退団したため、新戦力として城彰二、ルディ・バタ、マシュー・ブーツなどの大型補強を行った。しかし、チームはなかなか波に乗れず、年間3勝のみのサガン鳥栖を上回っただけの11位(12チーム中)と低迷。3失点以上の試合が13もあるなど、年間88失点を喫した守備陣に課題を残したシーズンであった。
[編集] 2004年
キャッチフレーズ:「PLAYER'S POWER~勝利をつかめ~YOKOHAMA FC SPIRITS」
新たにジェフェルソン、トゥイード、中島崇典などを迎え入れ、城をキャプテンにすえて前年度に続きリトバルスキー監督体制で臨んだ。
開幕戦でベガルタ仙台に4-0で圧勝するなどスタートダッシュに成功、第17節まで川崎フロンターレ戦の1敗しか負けがなく、4勝12分1敗とし上位につけた。 しかし非常に引き分けが多く、「負けないが勝てない」という状況に陥る。 第18節に2敗目を喫するとそこから4連敗し、その後持ち直すが後半も引き分けの多さは変わらず、シーズン44試合の半数にあたる年間22試合引き分けというJ新記録を打ち立てた。
J2昇格後最高順位の8位(12チーム中)となったが、負け試合を引き分けに持ち込んだかと思うと勝ち試合をあっさり追いつかれてしまうなど、強かったのか評価しづらい結果となり、勝つためにあと一歩が足りないシーズンであった。
[編集] 2005年
キャッチフレーズ:「MAKE PROGRESS」
JAPANサッカーカレッジ監督などを務め、選手の育成に定評のあった足達勇輔監督を新たに招聘。 2004年度の勝ちきれない引き分け癖の克服と選手の更なるレベルアップが期待された。 新人を中心に獲得し即戦力は佐藤一樹、貞富信宏などで戦力的には前年とほぼ変わらず。
開幕戦を落とすものの、その後2勝2分と善戦する。 しかし、そこから15試合勝ち星無しという泥沼状態に陥る。事実上のオーナー交代の時期とも重なり、財政的な不安がなくなったフロントは三浦知良、山口素弘、望月重良など経験豊富な元日本代表選手達を新たに獲得し、チームの強化を図った。
しかし、彼らの加入によりJ1昇格を命題とするような雰囲気が生まれ、足達監督招聘当初の目的である「チームの底上げ」よりも「勝つチーム」にすることをせざるを得ないことになる。 シーズン途中での方向転換となり、結果的に若手選手のチャンスの目を摘むことになってしまった上に、チームの方針の転換はチグハグな選手起用にも影響が見られ、新加入したベテラン選手も結果を残す事はできず、一時は調子を上げたが、その後チームの形は見えず結局11位(12チーム中)で終了。 サポーターには非常にフラストレーションのたまるシーズンであった。
[編集] 2006年
キャッチフレーズ:「夢に蹴りをつける。」
昨年度の結果から足達監督の去就が注目されたが、フロントは続投を決定。 サポーターも足達監督を全面的に信じ共に闘っていくことを誓った。 チームは悲願のJ1昇格を果たすべく、長きにわたりチームのシンボル的存在だった小野信義を解雇するなど、シーズン前に大量の選手の入れ替えを断行。 新戦力としては室井市衛、渡辺光輝、鄭容臺、吉野智行、アウグストなど即戦力を多く獲得した。
しかし、昨年度の不振を引きずっているのかキャンプでもなかなかチームの形が見えず、プレシーズンマッチでも結果が残せないような中で迎えた開幕戦で、今季昇格の愛媛FCに敗戦。 ここで、フロントはわずか1試合で早々と足達監督の解任を決めてしまう(Jリーグ史上リーグ開幕してから最速での監督解任)。 解任理由は昨年度からキャンプなどを通じ、総合的に見て決めたとのことだったが、それではなぜシーズン前に監督交代を行わなかったのか、サポーターは行き当たりばったりの対応に近いフロントに対して不信感を募らせ、ホーム開幕戦で横断幕ゼロ、一切のコールを行わず試合を見守るのみという沈黙応援を行う。
第2節からは、急遽コーチの高木琢也が監督に昇格し指揮をとることになった。 監督初体験ということでチームをどう立て直すのかに注目が集まったが、まず高木監督は守備の意識の改革に着手。 そして、アウグストが次第にフィットしたこともありチームは快進撃を続け、6月2日の水戸ホーリーホック戦に敗れるまで無敗(9勝6分で、新監督就任以来15戦負けなしのJリーグ新記録)。 第10節神戸戦~第19節水戸戦では連続無失点時間770分を記録し,Jリーグ連続無失点時間の新記録を樹立(それまでの記録は清水エスパルスの731分<1993年>)。就任後47試合で合計31失点と固い守備を見せた。
第43節(9月30日・10月1日)には2004年第1節以来、2節以降ではクラブ史上初めてのJ2首位(13チーム中)に立ち、第48節(11月18日)にはアウェーで前節までの首位ヴィッセル神戸を破って3位以内を確定し首位に再浮上し、第51節(11月26日)アウェーでサガン鳥栖に勝利。 他会場の結果を待って最終節前にJ2優勝が決定(選手達は鳥栖から福岡空港への移動中にバスの中でJ2優勝を知った)。 12月4日 Jリーグ理事会の承認を得てJ1昇格が決定した。
[編集] 2006年基本布陣
4-4-2 の布陣が敷かれた。敵陣に向かい左側の選手から列記する。
[編集] 2007年
キャッチフレーズ:「勝つために、ここに来た。」
初のJ1での戦いに向け、大幅な選手の入れ替えを行った。 長年横浜FCを支えた北村知隆や吉武剛など11人が抜けた一方で、新たに11人の選手を獲得。 昨シーズン横浜FCの総得点61点のうち30得点を挙げた城彰二とアレモンの2人が抜けた攻撃陣の補強を主に進めた。
横浜F・マリノスから元日本代表MF奥大介、東京ヴェルディ1969からシウバら即戦力を中心に獲得。 更にはマリノスとの交渉が物別れに終わった久保竜彦の獲得に成功し、高木監督は久保中心のチーム作りを明言した。
キャッチフレーズである「勝つために、ここに来た。」とは、第2節で対戦する横浜F・マリノスとの因縁「9年ぶり」ダービーを制するという意味も込められていた(結果は1-0で横浜FCが勝利)。
しかしシーズンが始まるや否や、久保や奥らが怪我で戦列を離れ、外国人助っ人がチーム戦術にフィットしないなど、序盤からチームは低迷。 怪我人の穴埋めのため平本一樹、山田卓也などを獲得するが、前半戦は最下位で折り返す。 中断期間中にさらに選手を補強し、巻き返しを図りたい後半戦だったが、再開初戦の横浜F・マリノス戦で1-8で敗れ、これが引き金となり、高木監督は後日解任される(一方で三浦淳宏の獲得に関して高木監督とフロントとの確執が表面化したと言う点もある[1])。
新監督にはジュリオ・レアルが就任したが、リーグ戦で1勝2分9敗という成績しかあげられず、チームの立て直しはできなかった。 10月20日の第29節において、同じ昇格組のヴィッセル神戸に3-0で敗れ、J1史上最速でJ2降格が決定した。 残り5試合を残した状態での降格であり、これは2002年に残り4試合で降格が決定したコンサドーレ札幌の記録を上回る[2]。
なおこの他、643分間連続無得点や20試合連続未勝利という不名誉な記録も樹立してしまう。だが、最終戦で首位であった浦和レッズを1-0で破り、目の前での優勝を阻止した。
[編集] 2008年
キャッチフレーズ:「夢のJ1は終わった。リアルなJ1への挑戦が始まる。」
任期満了に伴いジュリオ・レアル監督とは更新せず、新監督に都並敏史が就任。 J2に降格したということもあり菅野孝憲や内田智也、中島崇典などの主力が移籍し、また山口素弘や奥大介が引退するなど21人がチームを去り、土台からの作り直しを余儀なくされている。 補強策として2006年に水戸ホーリーホックで16得点を挙げたアンデルソンや同じく水戸で去年まで主将としてチームを牽引したDF吉本岳史、2007年のJFL得点王御給匠、東京ヴェルディの戸川健太などを獲得し、チーム構成は大きく変化した。 そして現在5位
[編集] 獲得タイトル
- 新JFL
- 1999年、2000年
- Jリーグディビジョン2
- 2006年
[編集] サポーター・トピックス
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
チームカラーは水色と白色。ユニフォームは旧フリューゲルス時代と同じように当初は白をベースとしたユニフォームを第1ユニ、第2ユニは水色ベースだったが、2003年からそれを入れ替え、水色ベースを第1ユニ、白は他チームと同じように第2ユニとした。
2007年のユニフォームは胴体部分に紺の横縞が12本入っているのが特徴。 ユニフォームサプライヤーのヒュンメルとスポンサーでアパレルメーカーのユナイテッドアローズとのコラボ作品で12本の縞はチームとサポーターの絆の象徴を表している。
[編集] ユニフォームスポンサー
- 胸 日総工産(NISSO)(2001年、2004年第12節-)
- 袖 ノジマ(Nojima)
- 背番号 レオックジャパン(LEOC)(2005年は袖、2006年-)
- パンツ ライフコミューン(LIFE COMMUNE)(2006年は袖)
- 練習着 星槎グループ(SEISA)
[編集] 過去のユニフォームスポンサー
- ソシオ・フリエスタ(Socio Fuliesta)(胸 1999-2000)
- シティバンク(CITIBANK)(背番号 1999年-2000年)
- ボッシュ (企業)(BOSCH)(袖 1999年-2001年)
- セキド(背番号 2001年-2002年)
- 日土地グループ(日土地)(袖 2002年-2003年、パンツ 2004年)
- norika.net(胸 2002年後半)
- フィールズ(FEALS)(胸 2003年)
- JA全農福島(ふくしまの米)(背番号 2003年-2005年)
- 明日佳グループ(パンツ 2005年)
- リソー教育グループ(TOMAS)(袖 2007年)
- リンクアンドモチベーション(LM)(パンツ 2006-2007年)
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背番号 | パンツ | サプライヤー |
| 1999年 | Socio Fuliesta | BOSCH | CITIBANK | – | Mizuno |
| 2000年 | Socio Fuliesta | BOSCH | CITIBANK | – | Mizuno |
| 2001年 | NISSO | BOSCH | セキド | – | hummel |
| 2002年 | norika.net | 日土地 | セキド | – | hummel |
| 2003年 | FEALS | 日土地 | ふくしまの米 | – | hummel |
| 2004年 | NISSO | - | ふくしまの米 | 日土地 | hummel |
| 2005年 | NISSO | LEOC | ふくしまの米 | 明日佳グループ | hummel |
| 2006年 | NISSO | ライフコミューン | LEOC | LM | hummel |
| 2007年 | NISSO | TOMAS | LEOC | LM | hummel |
| 2008年 | NISSO | Nojima | LEOC | ライフコミューン | hummel |
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- 横浜FCの選手一覧
- 横浜熱闘倶楽部(横浜F・マリノス、横浜ベイスターズとの連携企画)
- 辻野臣保
- 田部和良(元マネージャー、現アビスパ福岡GM)
- J SPORTS(オフィシャルスポンサー。JFL時代の1999・2000年シーズンはホーム全試合を中継した)
- 横浜FC LEOCトレーニングセンター
[編集] 外部リンク
| J1 |
|---|
| コンサドーレ札幌|鹿島アントラーズ|浦和レッズ|大宮アルディージャ|ジェフユナイテッド千葉|柏レイソル|FC東京|東京ヴェルディ|川崎フロンターレ|横浜F・マリノス|アルビレックス新潟|清水エスパルス|ジュビロ磐田|名古屋グランパス|京都サンガF.C.|ガンバ大阪|ヴィッセル神戸|大分トリニータ |
| J2 |
| ベガルタ仙台|モンテディオ山形|水戸ホーリーホック|ザスパ草津|横浜FC|湘南ベルマーレ|ヴァンフォーレ甲府|FC岐阜|セレッソ大阪|サンフレッチェ広島|徳島ヴォルティス|愛媛FC|アビスパ福岡|サガン鳥栖|ロアッソ熊本 |
| 過去に存在したクラブ |
| 横浜フリューゲルス |
| 準加盟クラブ |
| 栃木SC|カターレ富山|ガイナーレ鳥取|ファジアーノ岡山|ニューウェーブ北九州 |
| Jリーグの主な大会 |
| ナビスコ杯|オールスターサッカー|チャンピオンシップ|入れ替え戦|アウォーズ |

