横浜FC

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横浜FC
原語表記 横浜FC
愛称 フリエ
クラブカラー    
    水色
   
創設年 1999年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン2
ホームタウン 神奈川県横浜市
ホームスタジアム Mitsuzawa100502.JPG
ニッパツ三ツ沢球技場
収容人数 15,400
運営法人 横浜フリエスポーツクラブ
代表者 小野寺裕司
監督 岸野靖之
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社横浜フリエスポーツクラブ
Yokohama Fulie Sports Club Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 〒240-0045
神奈川県横浜市保土ヶ谷区川島町522-3
設立 2002年12月25日
業種 サービス業
事業内容 サッカークラブの運営
代表者 小野寺裕司
資本金 3億4,364万円
売上高 9億6,600万円 (2010年1月期)
決算期 1月期
外部リンク http://www.yokohamafc.com
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横浜FC(よこはまエフシー、Yokohama F.C.)は、日本神奈川県横浜市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

[編集] 概要

2001年にJリーグ加盟。ホームタウン神奈川県横浜市、ホームスタジアムはニッパツ三ツ沢球技場日産スタジアム国立霞ヶ丘競技場でも試合を開催する。

1999年横浜フリューゲルス(横浜F)が横浜マリノス(横浜M)に吸収合併された後に、横浜Fのサポーター達によって創設された。

事の発端は1998年10月、横浜Fが横浜Mに吸収合併(事実上のクラブ消滅)されると発表された。これに反対するサポーターに選手も加わってクラブ存続を求める署名と募金を実施したが、合併取り消しは実現せず、天皇杯での優勝を最後に横浜Fは消滅した。

合併の手続き終了後、サポーターは「フリューゲルス」という名称の譲渡を申し入れたが、この名称を使用するチームが必要との回答もあったため、出資企業の経営に左右されない市民クラブを設立した。そして、翌1999年からのJリーグ ディビジョン2(J2)への参加実現にむけ動き出した。

しかし、神奈川県の場合は新規参入チームは神奈川県リーグ3部からスタートするのが決まりであり、新設で実績のないクラブのJ2参加は困難としてこれは認められなかった。このままでは、1年ごとにステップアップしても、J2参加には最速でも7年かかる事になった。

そのような中、日本サッカー協会は、特例中の特例としてJ2の下位に位置する日本フットボールリーグ(JFL)への「準会員」資格での参加を認めた。一時期、Y.S.C.C.との統合案が挙がったが、それは白紙となった。

そして誕生したクラブは、1999年にピエール・リトバルスキー監督のもとJFLで1位。

2000年には日本フットボールリーグ「正会員」となり、JFLを無敗で優勝し、2001年シーズンからJ2に昇格。 この経過が、後に日本サッカー協会が飛び級制度の新設に踏み切るきっかけともなった。

2005年6月、学校・病院給食や企業の社内食堂を展開するレオックジャパンの関連会社・フィートエンターテイメント社が横浜FCの第三者割当増資を引き受けて事実上のオーナーに就任することになった。「現在の地域密着型チーム運営の形態を維持する」とフィート社は示している。

なお、運営法人の横浜フリエ・スポーツクラブの「フリエ(fulie)」は横浜Fの頃から使われてきた単語である。とくにオフィシャルショップ「フリエ元町」(既に閉店)はグッズ販売のみならず、横浜Fサポーターの憩いの場という機能も有していた。なお、横浜Fは傍系(別チーム扱い)であるため、横浜F時代の記録(創設年、優勝回数、個人賞受賞回数)はカウントされない。

財政事情により専用の練習場が確保できなかったため2006年シーズンまでは港北区しんよこフットボールパークなど市内各地を巡回して練習していたが、2007年からかつて横浜Fが使用していた戸塚区の戸塚トレーニングセンターを使用している。なお、戸塚トレーニングセンターはネーミングライツにより「横浜FC LEOCトレーニングセンター」と改称された。2010年7月、更なる練習環境充実を図るため、保土ヶ谷区西谷浄水場施設内に新設された練習場に移転した(名称は戸塚トレセンから引き継いでLEOCが命名権を取得し、「LEOCトレセン」の名称を継承した)。

[編集] チーム名変更問題

チーム名に愛称は設けず単に横浜FCとしている(J加盟クラブで愛称なしの事例はFC東京に次ぐ2クラブ目)が、いずれはフリューゲルスを名乗ると思われた。しかし奥寺康彦は名称継承する事を否定した為、フリューゲルス襲名希望のサポーターグループが解散した経緯がある。

その後、2005年10月に行われたサポートミーティングでは、サポーター側から現行のチーム名で継続してほしいとの提案が出された。これには、横浜Fサポーターが立ち上げたチームであるものの横浜Fと横浜FCは全くチーム体質が違うことや、フリューゲルスの版権商標権)が横浜F・マリノスにあること(Fはフリューゲルスを指している)等が挙げられている。

[編集] ソシオ・フリエスタ

横浜FCは企業の資本に頼らない純市民参加型のサッカー・スポーツクラブ作りを目指すという観点で、クラブ運営の核となる任意組織「ソシオ・フリエスタ」を設立した。モデルはスペインのプロサッカークラブFCバルセロナとされている。同クラブも一般市民から集めた会費を基としてサッカークラブを中心とした様々なスポーツクラブ活動を展開してきた。

横浜FCも創設当初は市民から会員(ソシオ)を募集した。会員は会費をクラブに納める見返りとして、希望者への年間指定席の斡旋の他、試合会場や各種イベントでの運営アシスタント(ボランティア)への登録やクラブ上層部との意見交換会などに出席できる権利を得ることが出来た。この試みは日本の新しいスポーツクラブ運営のモデルとしてマスコミなどからも注目されていた。

しかし、J2加入が確定した2001年年頭ごろから問題が表面化した。ソシオの役員改選選挙が実施されている最中、ソシオの会員宛に突如、運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜フリエSC)から「協約書」が送付された。その内容は「ソシオ会員は全員運営会社と直接契約を結ぶことを求める」もので、「本協約書にご賛同いただけず退会を希望される方には、ご返金いたします」という性急な内容だった。

ソシオとの協議で、運営会社は「ソシオの会費は当初から運営会社の運営費として捻出されることになっていたが、理事会の承認なしに運営費を拠出できないのは責任ある球団経営が見込めないと判断した」と主張し、これまでのソシオとの協定書を破棄することを宣言した。

結局、運営会社側はソシオに代る新しいチームの後援組織「横浜FCクラブメンバー」を2001年9月に発表。新社長に就任した奥寺保有の株式をソシオ会員ではなく、クラブメンバーに割り当てること、また会員には「サッカーをする・ふれるといった体験型のイベントを充実させる」ことや「個人情報の管理・責任をより徹底・明確にする」ことなどを提案。名称についてもソシオの名前が係争中だったことから別の名前に変更したという。これにはソシオ理事会側が遺憾の意を示す。

その後ソシオ側は運営会社に対し、ソシオの会費の一部(740万円相当)と会員名簿の返還を求めるよう横浜地方裁判所仮処分申請を行ったが、2002年1月それは却下された。ソシオ側は東京高等裁判所即時抗告を行ったが、これもあくる2003年に却下された。その趣旨は「入会事務・会員名簿の作成は運営会社から委託された業者が行い、団体として内部的にも自立して運営されているとは認めがたいから、ソシオは(法人格を有しない団体でも例外的に当事者能力が認められる)民事保全法7条・民事訴訟法29条の『法人でない社団』とは認められない。よって、当事者能力がないから、申立ては不適法である」というものだった[1]

その間、運営会社が「ソシオの名称は運営会社側に商標登録がある。このまま使用を続けるのなら法的な処置も辞さない」とソシオ側に通告を行い、2003年、ソシオ側はその名称を「ソシオ・フリエスタ」から「ソシオ横浜」に変更した。運営会社側の主要スタッフの交代も追い風となって、同年9月、ソシオ横浜と運営会社・株式会社横浜フリエスポーツクラブは和解合意書に調印し、2年以上に及んだ運営会社側とソシオ側の対立はこうして区切りを迎えた。なお、ソシオ横浜は合意書を踏まえて、ソシオ横浜として「横浜FCクラブメンバーのグループメンバー」にも加入している(2008年現在)。

[編集] 歴史

[編集] 1999年-2000年(JFL)

[編集] 1999年

新クラブの結成に動いてから半年足らずで日本フットボールリーグ(JFL)で戦うことになり、2月に準会員としてのJFL参加が仮承認され[2]奥寺康彦GMピエール・リトバルスキー監督、阪倉裕二コーチ、そして選手には外国人選手パベルを含む元Jリーガー22人と契約した。クラブ初の公式戦となった4月25日のJFL第2節、横浜国際競技場に公式発表で1万1283人が集まったジャトコ戦では2-2の引き分けに終わったが(初ゴールは遠藤昌浩が記録)、5月3日の第3節、三ツ沢球技場での水戸ホーリーホック戦で初勝利するとその後は順調に白星を重ね、JFLの初代優勝チームとなった[3]

また、この年の天皇杯は、3回総当りの1巡目にあたる前期で上位3位までに入れば自動的にJFLシードで出場権獲得(結局1位で終了)となっていたが、準加盟扱いのためシード枠は与えられず、後日開催された神奈川県大会に出場し、決勝で横浜FMのユースチームを下して優勝して県代表で天皇杯本戦出場を果たしたが、3回戦でV川崎に敗退した。

[編集] 2000年

JFL正会員となり、Jリーグ準会員として承認された。ソシオ制度を巡る内紛、責任企業不在による資金難などクラブ運営は迷走を始めたが、ライバルの本田技研から水原大樹田島宏晃を加えたチームは首位を独走した。10月8日のJFL後期第7節、国士舘大学戦に勝利し(5-3)、Jリーグ昇格条件の2位以内が確定し、10月22日のJFL後期第8節で静岡産業大学に勝利して2年連続優勝を決めた。シーズン終了後、翌年からのJリーグ加盟が正式承認された。しかし、独自のチームとして歩み始め「フリューゲルス」名称の譲渡を横浜FMに求めないとした横浜FCから離れる元横浜Fサポーターも現れ、横浜FCの観客動員数は減少した。

[編集] 2001年-2006年(J2)

[編集] 2001年

J2に参入。バイエル・レバークーゼンのコーチに就任したリトバルスキーに代わって、前年まで新潟を率いた永井良和を監督に据えたが、シーズン途中で永井は辞任し、阪倉コーチの監督代行を経て信藤健仁がシーズン終盤の指揮を執った。シーズン成績は12チーム中9位に終わった。

なお、この年には川崎と公式戦で7試合戦い、全て敗れた(内訳はJ2リーグ4試合(うち1試合は延長Vゴール負け)、ナビスコ杯2試合(2回戦、横浜FCは1回戦で東京Vに1勝1分で勝ち上がり)、天皇杯1試合(4回戦、横浜FCは3回戦でFC東京に勝利)。

[編集] 2002年

キャッチフレーズ:「超攻撃的。2-4-4は横浜FC」

信藤が監督を続投。期限付き移籍で獲得した迫井深也吉本岳史、経験豊富な廣長優志などを起用した。 この年は、DFが2人でゴール前を守り、通常の4-4-2ならば両サイドの守備を固めるサイドバックがより前に位置して積極的に攻撃するというシステム"2-4-4" (2-4-3-1)を取った。 スペイン・リーガ・エスパニョーラの攻撃性を愛好する信藤がこだわる戦術だったが、スペースを与えられた相手のサイド攻撃を誘発する結果を招き、勝ち点・失点数共に初のリーグ最下位となり、信藤はシーズン終了後に監督を辞任。

なお、この年の終盤には元横浜Fのアルゼンチン人DFのモネールが入団した。

[編集] 2003年

キャッチフレーズ:「ガムシャラ 〜原点を思い出せ。迷うな、負けるな、強くあれ!〜」

初代監督のリトバルスキーを再び招聘。 ベテランの後藤義一や有馬が引退し、廣長が移籍した一方、城彰二ルディ・バタ、マシューなどの大型補強を行った。また、シーズン途中に当時引退してコーチを務めていた後藤が急遽現役復帰した。最終成績は年間3勝の鳥栖を上回っただけの11位(12チーム中)で、3失点以上の試合が13もあるなど、年間88失点を喫した守備陣に課題を残したシーズンであった。

[編集] 2004年

キャッチフレーズ:「PLAYER'S POWER 〜勝利をつかめ〜YOKOHAMA FC SPIRITS」

新たにジェフェルソントゥイード中島崇典などを迎え入れ、城をキャプテンにすえて前年度に続きリトバルスキー体制で臨んだ。 開幕戦で仙台に4-0で圧勝するなどスタートダッシュに成功、第17節まで川崎戦の1敗しか負けがなく、4勝12分1敗とし上位につけた。 しかし非常に引き分けが多く、「負けないが勝てない」という状況に陥る。第18節に2敗目を喫するとそこから4連敗し、その後持ち直すが後半も引き分けの多さは変わらず、シーズン44試合の半数にあたる22試合引き分けというJ新記録を打ち立てた。J2昇格後最高順位の8位(12チーム中)となった。

[編集] 2005年

キャッチフレーズ:「MAKE PROGRESS」

JAPANサッカーカレッジ監督などを務めた足達勇輔を監督に招聘。補強は新人を中心に、ベテラン選手として佐藤一樹貞富信宏などを獲得した。開幕戦を落とすものの、その後2勝2分。しかし、そこから15試合勝ち星なしという泥沼状態に陥る。レオックの増資引き受けによる事実上のオーナー交代の時期とも重なり、財政的な不安がなくなったフロントは方針を転換し、各チームで世代交代の影響を受けていた三浦知良山口素弘望月重良など経験豊富な元日本代表選手達を新たに獲得し、チームの強化を図った。特に山口の入団は、既に以前より少なくなっていたとはいえ、横浜FCを応援する元横浜Fサポーター、そして山口本人にとって、他の選手やクラブへの移籍とは少し違った意味を持っていた[4]

しかし、彼らの加入によりJ1昇格を命題とするような雰囲気が生まれ、足達監督招聘当初の目的である「チームの底上げ」よりも「勝つチーム」が優先され、結果的に若手選手のチャンスの芽を摘むことになった。方針の転換はチグハグな選手起用にも影響が見られ、移籍効果も一時的に終わり、結局11位(12チーム中)で終了。サポーターからはクラブ目標の「早期のJ1昇格」への道筋が見えないという批判を受けた。

[編集] 2006年

キャッチフレーズ:「夢に蹴りをつける。」

足達が監督を続投。室井市衛渡辺光輝鄭容臺吉野智行アウグストなどを獲得した一方、小野信義などが退団した。

開幕戦で今季よりJ2へ昇格した愛媛に0-1で敗れると、フロントは早々に足達を解任(なお、同年中に足達は横浜FCのユース部門責任者に就任)。フロントは昨年度の不振とキャンプからのチーム作りの遅れなどを理由としたが、Jリーグ史上最速の監督解任[5]に対してゴール裏に集うサポーターの多くは怒りを示し、ホーム開幕戦となった第2節の鳥栖戦で横断幕掲示やコール斉唱などの応援行動をボイコットする抗議活動を行った。

同年にコーチとして横浜FCに入団し、Jリーグで初指揮となったこの鳥栖戦を0-0で引き分けた高木琢也新監督は守備の意識の改革に着手。そして、アウグストが次第にフィットしたこともありチームは快進撃を始めた。以後、6月2日の第19節水戸戦に0-1で敗れるまで、新監督就任以来15戦負けなし(9勝6分)、連続無失点時間770分[6]の2つのJリーグ新記録を作った。

その後、前年までJ1にいた神戸と昇格争いを続け、第43節に(開幕直後を除いては)クラブ史上初めての首位に立ち、11月26日に鳥栖に勝利してJ2初優勝を決めた[7]

12月2日の第52節(最終節)は愛媛に2-0で勝利し、有終の美を飾った。この試合は既に現役引退を表明していた城にとって最後の公式戦となり、1アシストを記録した。12月4日にJリーグ理事会の承認を得てJ1昇格が正式に決定した。

[編集] 2006年基本布陣

4-4-2 の布陣が敷かれた。敵陣に向かい左側の選手から列記。

[編集] 2007年(J1)

キャッチフレーズ:「勝つために、ここに来た。」

長年横浜FCを支えた北村知隆吉武剛など11人が抜けた一方で、新たに11人の選手を獲得。 昨シーズンにチームの総得点61点のうち30得点を挙げた城とアレモンの2人が抜けた攻撃陣を補強するため、横浜FMから元日本代表MF奥大介久保竜彦東京Vからジウマール・シウバを獲得した。

J1開幕戦は浦和に1-2と惜敗したが、久保が40mのロングシュートを決めた。第2節は横浜FMに1-0で勝利、J1初勝利および横浜ダービーの初対戦初勝利を挙げた。しかし、第3節に川崎に0-6で大敗した後は、久保や奥らが怪我で戦列を離れ、外国人選手がチーム戦術にフィットしないなど、チームは低迷。そのため、平本一樹山田卓也などを獲得するが、前半戦は最下位で折り返した(また、このチームの当時の選手やスタッフなどの経歴を見ると、チームの3分の1が元東京Vの選手などである)。

後半戦は、再開初戦の横浜FMとのダービーに1-8で大敗。これが引き金となり、高木は後日解任(一方で三浦淳宏の獲得に関して高木とフロントとの確執が表面化したという事情もあった[8])。新監督にはジュリオ・レアルが就任したが、10月20日に神戸に敗れ、J1史上最速でJ2降格が決定した。残り5試合を残した状態での降格であり、これは2002年に残り4試合で降格が決定した札幌の記録を更新した(ただし、札幌は2008年、J2に降格が決定したときに、この記録に並んだ)。この他、643分間連続無得点や20試合連続未勝利という不名誉な記録も樹立してしまう。だが、最終戦で首位であった浦和を1-0で破り、目の前での優勝を阻止した。

[編集] 2008年 - (J2)

[編集] 2008年

キャッチフレーズ:「夢のJ1は終わった。リアルなJ1への挑戦が始まる。」

ジュリオ・レアルが監督を退任、新監督に都並敏史が就任し、3年契約を結んだ。

生え抜きの菅野孝憲内田智也などがJ1の各クラブへ移籍し、山口や奥が引退するなど21人がクラブを去った。一方、三浦知は残留し、J2での史上最年長選手記録を更新した。

一方で、2006年水戸で16得点を挙げたアンデルソン、同じく水戸で前年まで主将としてチームを牽引し、横浜FCには6シーズンぶりの在籍となったDF吉本岳史2007年のJFL得点王御給匠、東京Vの戸川健太などを獲得し、チーム構成は大きく変化した。

第1クールはアンデルソンが得点を量産して上位につけるも、第2クールになり徐々に失速。昇格争いからも早々に脱落し、第39節時点で昇格の可能性が消滅(最終順位は10位)。都並はシーズン終了を以って監督を解任された。チームは都並に3年計画で若手の底上げを図ってもらうと共にJ1に復帰し、かつJ1に定着できるチームに育てるように期待をかけたが「チーム作りが進んでいない」という理由で2年目以降の契約更新を結ばない決断をした。

リーグ終了後、チーム内得点王となる16ゴールを挙げながらもシーズン後半に精彩を欠いたアンデルソンが退団し、山田卓也滝澤邦彦などの経験豊富な選手、またチョ・ヨンチョル太田宏介、昨年大宮レンタル移籍していた内田智也らが他チームに完全移籍するなど、主力選手の多くがチームを離れた。

[編集] 2009年

キャッチフレーズ:「これからのサッカーが、ここにある

山形・大宮などを率いた樋口靖洋が2年契約で監督に就任。

主力選手退団を穴埋めのため、千葉に期限付き移籍していた早川知伸が復帰、韓国から劉孝眞名古屋から片山奨典大宮から田中輝和が加入し、またレンタル移籍だった戸川健太須藤右介は完全移籍となり、難波宏明と並びチーム2位の7得点を決めた池元友樹もレンタル移籍期間延長となった。さらに4月には2006年から2007年7月まで在籍していた鄭容臺が約2年ぶりに復帰した。

この陣容で「J1復帰」を目標に掲げてスタートしたが、開幕から8試合勝利なし(3分5敗)と低迷。第9節(対水戸)でようやく初勝利を手にしたものの、以降は5月30日の愛媛戦に勝利するまで1分けを挟む7連敗を喫した。その後も勝ち点を奪えない状況が続いていたが、元韓国代表の安孝錬の加入と小野智吉の怪我からの復帰でチーム状況は好転。特に安の所でボールが収まるようになり前線にタメが出来るようになった。

しかし、天皇杯で敗退が決まると、クラブはリーグ戦2試合を残した段階で成績低迷と強化方針の食い違いを理由に樋口との2年契約を1年で打切った[9]。シーズンも16位で終えた。

[編集] 2010年

キャッチフレーズ:「昇格 〜再び一緒にあの舞台に

新監督として前鳥栖監督の岸野靖之が就任し、鳥栖から高地系治柳沢将之武岡優斗渡邉将基、また鳥栖在籍歴のあるJFL・鳥取シュナイダー潤之介、韓国釜山金裕晋など岸野の戦術を理解する選手を積極的に獲得(このため横浜FCの鳥栖化と揶揄された。)。 さらに前仙台のFWサーレスや、仙台、新潟などで活躍したシルビーニョといった外国籍選手も獲得、東京Vから元日本代表FW大黒将志をレンタル移籍で獲得。

開幕3試合を3連勝でスタートしたが、その後は守備が崩壊し、10試合で1勝9敗と振るわず、一時は15位に沈むなど下位に低迷。 しかし、第14節の鳥栖戦で4-0と大勝した試合をきっかけに、以降5試合負けなしと上昇傾向を見せる。

そんな中、大黒が退団(東京Vへ復帰後、FC東京へレンタル移籍)してしまう。そこで、元C大阪カイオを獲得。また、守備の梃子入れとして元大分ホベルトを獲得した。二人は大車輪の活躍を見せ、後半の快進撃を支えた。 J1昇格には届かなかったが、前年度を大きく上回る6位でシーズンを終了(天皇杯は3回戦で川崎に敗北)。 クラブはシーズン中に、岸野靖之のGM兼任を発表し、来シーズンも引き続き岸野体制で臨むこととなった。 リーグ終了後、阿部巧はレンタル終了、早川知伸戸川健太金裕晋らのDF陣が退団した。

[編集] 2011年

キャッチフレーズ:「結戦 〜KESSEN〜

GMを兼務する岸野の意向を反映した補強となり、新潟から中野洋司横浜FMから藤田優人鹿島から宮崎智彦を獲得。また、新人として井手口正昭荒堀謙次佐藤謙介、韓国アンダー代表に選ばれている朴台洪などの有力大学生の獲得にも成功した。前年に続いて鳥栖ゆかりの選手の獲得も行い、鳥栖を支えてきたDFの飯尾和也、鳥栖でJ2の日本人得点王の経験を持つ藤田祥史、2010年に特別指定選手として鳥栖で3試合に出場した森本良が入団した。

前年後半の躍進と積極的な補強からJ1昇格候補に推す声も聞かれたが、開幕からの8試合で1勝6敗1分けと大きく出遅れ、一時はFC岐阜と同順位ではあるが最下位も経験した。8月に2010年までに所属していたフランサを補強、10月にはOBの奥大介が強化部長に就任するなどのテコ入れが行われた。夏場には4連勝するなど上昇の気配も見られたが、後半戦は12試合連続無勝利を喫するなど再度失速し、18位でシーズンを終えた。また、この年加入したばかりの飯尾が出場機会を失い、8月に松本山雅FCに移籍した。なお、天皇杯は初戦(2回戦)で松本山雅FCに敗退した。

シーズン終了後、柳沢将之、フランサが退団、宮崎智彦、藤田優人、寺田紳一がレンタル移籍期間満了、荒堀謙次が栃木に、西田剛福岡に完全移籍した。さらに監督兼GMだった岸野が2012年シーズンより監督専任になることが発表された。

[編集] 2012年

キャッチフレーズ:「走覇(そうは)~走りぬく、つながる想い、輝く笑顔へ~

ペ・スンジン大久保哲哉内田智也阿部巧など、かつて横浜FCに所属した選手が復帰した。また、杉山新田原豊永井雄一郎堀之内聖を完全移籍で獲得。小野瀬康介がユースから昇格し、韓国U-18代表経験のある羅誠洙、2010シーズン特別指定選手だった中里崇宏とプロ契約を結んだ。

[編集] 成績

[編集] タイトル

[編集] クラブハウス

クラブハウス
グラウンド

2010年から保土ヶ谷区にある横浜市水道局の西谷浄水場内にある体育施設の事業者となった。 横浜FCは10年間貸借し、天然芝と人工芝が各1面のサッカーグラウンド、体育館や管理棟を改装するクラブハウスなどを整備して、トップチームに加えてジュニアチームやジュニアユースチームの練習場としても活用する事になった[10]

[編集] スタジアム

[編集] 1999年

横浜FCは横浜市三ツ沢公園球技場をホームスタジアムとしているが、1999年は前述したように超法規的処置として特別に日本フットボールリーグへの参入が認められたことや、三ツ沢(球技場、陸上競技場とも)も、他の大会の使用スケジュールもほぼ確定していたこともあり、実際に三ツ沢球技場で試合を行えたのは3試合だけで、他のホーム9試合は神奈川県内各地のグラウンドを転戦して開催した。このうち横浜市では、横浜国際で2試合、保土ヶ谷サッカー場で1試合の計6試合。他に綾瀬海老名平塚の各市と愛川町で開いた。なおこの年は3回戦総当りのため、対戦カードによって同一カードのホームゲームが2試合行われることもあった。

[編集] 2000年-2006年

2000年はホーム11試合中10試合を三ツ沢球技場で開催。2001年にJ2に昇格して以後、三ツ沢球技場がメインであるが、主として毎年8-9月を中心とした一部ホームゲームは関東近郊(特に東京都江戸川区陸上競技場江東区夢の島陸上競技場)で試合を行うことがある。これは三ツ沢球技場の芝生の養成が必要なためである。また2002年は三ツ沢球技場がワールドカップ日韓大会出場国の練習会場に使われ、やはり芝生の養成・生育が必要となったことから、主として4-9月の主催ゲームの多くは隣接する三ツ沢(陸)を会場として行った。また関東地方以外にも2003年に福島県営あづま陸上競技場でホームゲームを開催したことがある。ただし、この競技場のピッチの面積がJリーグ公式戦の基準より狭いことが判明したため2009年ベガルタ仙台主催試合が開催(相手は横浜FC)されるまでJリーグの開催はなかった。なお2006年2007年には国立霞ヶ丘陸上競技場でそれぞれ2試合主催した。

[編集] 2007年

  • J1リーグ戦の横浜市内主催開催15試合は三ツ沢球技場で9試合、日産スタジアムで6試合(他前述の国立2試合)行われ、ナビスコ杯は3試合とも三ツ沢球技場で行われた。
  • ただし、本来の本拠・三ツ沢球技場は10月27日大宮アルディージャ戦が同年度最終試合となり、その後はホームの試合に三ツ沢球技場は使用されない。
  • 4月14日、日産スタジアムでJ1昇格後最初のホームゲームとなる鹿島アントラーズ戦が行われたが、その時に、スタジアムの定員7万人をいっぱいに埋め尽くそうという「7万人プロジェクト」と呼ばれる企画を行った。選手らが練習場最寄駅である東戸塚駅前でビラ配りを行ったり、カズがテレビ出演するなどして盛り上げに努めたが、クラブ最多観客動員記録(当時)は更新するも、観客は19,367人と目標に及ばなかった。
  • 6月30日に日産スタジアムで行われた「TOMAS Special MATCH」と銘打たれた千葉戦では43,117人を動員。
  • 12月1日最終節の浦和戦では千葉戦を上回る46,697人を動員し、クラブの最多観客動員記録となった。ただし、この日は浦和のリーグ制覇がかかっていた試合でもあり、この日の観客の多くが浦和サポーターであり、横浜FCサポーターはホーム側ゴール裏とメインスタンド、バックスタンドの一部しか占められなかった。しかも浦和サポーターにバックスタンドでビッグフラッグを掲揚された(バックにいた年間チケットホルダーの横浜FCサポーターたちはビッグフラッグで隠れることを拒み、マフラーを掲げ選手に勇気を与えた)
  • 観客動員が5,000人を下回る事もしばしばあり、中でも5月26日の大分トリニータ戦は週末の土曜日で晴天という絶好の状況だったにも関わらず観客動員は4,935人に留まった。

[編集] 2008年

[編集] 2009年

  • リーグ戦27試合のホームゲームのうち、10月までの23試合がニッパツ三ツ沢球技場での開催。10月後半以後はニッパツ球技場が改修工事などを予定しているため、東京都内で2試合(西が丘、国立で各1試合)、日産スタジアムで1試合を組んでいる。なお、もう1試合は当初開催地未定だったが駒沢に決まった。

[編集] 2010年

[編集] 2011年

[編集] 略称表記

横浜FCが日本フットボールリーグに在籍した2年間は「横浜FC」としてそのまま表示していたが、2001年にJ2入りが決まると「横浜C」として表記している。totoもチーム名が3文字以内で略記されることに由来するため、「横浜C」として表記。但し、朝日新聞日刊スポーツでは略さずに「横浜FC」と表記している。

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 水色 水色
FP(2nd)
GK(1st) ピンク ピンク
GK(2nd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

[編集] チームカラー

  •     白、    水色

[編集] ユニフォームデザイン

ユニフォームは横浜Fと同じように当初は白をベースとしたユニフォームを第1ユニ、第2ユニは水色ベースだったが、2003年からそれを入れ替え、水色ベースを第1ユニ、白は他チームと同じように第2ユニとした。

2007年から2008年まで使用されていたユニフォームは胴体部分に紺の横縞が12本入っているのが特徴。 ユニフォームサプライヤーのヒュンメルとスーツサプライヤーのユナイテッドアローズとのコラボレーション作品で、12本の縞はチームとサポーターの絆の象徴を表している。

[編集] ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
LEOC LEOC 2009年 - 2005年は袖、
2006年 - 2008年は背中
背中 ジャパンエレベーターサービス jes 2012年 - 2011年はパンツ
なし
パンツ ライフプラザホールディングス ほけんの窓口 2012年 -

[編集] ユニフォームサプライの遍歴

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1999 Socio Fuliesta BOSCH CITIBANK - Mizuno
2000
2001 NISSO セキド hummel
2002 -/norika.net 日土地
2003 FEALS ふくしまの米
2004 -/NISSO
2005 NISSO LEOC 明日佳グループ
2006 ライフコミューン LEOC LM
2007 TOMAS
2008 Nojima ライフコミューン
2009 LEOC 明日佳グループ フィート M3D
2010 GENOVA レオックジャパン -
2011 CHECKER MOTORS 明日佳グループ jes
2012 - jes ほけんの窓口

[編集] オフィシャルテーマソング

THE ALFEEはJリーグ創生期に横浜Fのオフィシャルソング「Victory」を提供していた。その関係もあり横浜Fの合併消滅には心を痛め、横浜FC誕生の折にも楽曲提供を行い、テーマソングの売り上げは全てチーム運営費へという形で支援している。

[編集] マスコット

創設以来マスコットキャラクターは置いていなかったが、結成10周年を迎えた2008年12月、公式HPに「オフィシャルクラブマスコット」が登場して名称を公募することを発表した。[11]。 モチーフは「宇宙人」。 2009年1月18日の新体制発表記者会見にて名前が「フリ丸」に決まったと発表された。

[編集] 脚注

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  1. ^ ソシオ横浜(旧ソシオ・フリエスタ)の資料
  2. ^ 正式には3月の日本サッカー協会理事会。準会員参加の条件として、同年のJFLで4位以内ならば翌年のJFLに正会員として参加し、5位以下に終われば地域リーグ所属クラブがJFL昇格をかけて争う全国地域リーグ決勝大会への参加を義務付けることになっていた。
  3. ^ なお、この年3位に入った水戸は「横浜FCは準会員」であり「JFL正会員では(本田技研に次ぐ)2位」という解釈で翌年からのJリーグ参入を認められた。
  4. ^ http://www.jsgoal.jp/news/00022000/00022879.html J's GOAL
  5. ^ 体調不良などにより、1試合も指揮をしないままの監督辞任は他クラブに例がある。
  6. ^ 第10節の神戸戦以来から合計9試合で達成、連続完封は7試合。従来の記録は1993年の清水が記録した731分で、これが現在でもJ1記録となっている。
  7. ^ 他チームの結果による「J1昇格(内定)決定」は史上初。奥寺GM・高木監督・各選手などは羽田空港でスーツ姿での記者会見を行い、サポーターは両空港で歓喜に沸いた。
    横浜FC 昇格内定・J2優勝記者会見 (J's GOAL)
  8. ^ 横浜FC、補強巡り内紛 高木監督「三浦淳の移籍に違和感」 中日スポーツ
  9. ^ 横浜FC新監督に岸野氏有力、今季限りで鳥栖退任 「カナロコ」(神奈川新聞サイト) 2009年11月26日付
  10. ^ NIKKEI NET 2009年11月26日 「浄水場の隣に横浜FC練習場 市の財源確保策に応募」[1]
  11. ^ 横浜FCオフィシャルクラブマスコット 誕生!!名前をつけてください!!

[編集] 関連項目

旧横浜FC LEOCトレーニングセンター (戸塚区東戸塚)

[編集] 外部リンク

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