愛媛FC
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| 愛媛FC | |
| 原語表記 | 愛媛FC |
|---|---|
| 愛称 | 愛媛 |
| クラブカラー | オレンジ |
| 創設年 | 1970年 |
| 所属リーグ | Jリーグ |
| 所属ディビジョン | ディビション2 |
| ホームタウン | 愛媛県松山市を中心とした全県 |
| ホームスタジアム | ニンジニアスタジアム |
| 収容人数 | 20,000 |
| 代表者 | 亀井文雄 |
| 監督 | 望月一仁 |
愛媛FC(えひめ―、Ehime F.C.)は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] クラブの概要
ホームタウンは愛媛県松山市を中心とした全県。ホームスタジアムはニンジニアスタジアム(ナイター設備完備、20,000人収容(芝生席込み)(Jリーグ公式HPには20,000人とあるが実際には16,000人前後))と同球技場(メインスタンドのみ3,000人収容 ナイター設備なし)。現在のJFLには2001年シーズンから参加。これが愛媛FCにとって初めての全国リーグへの参加であった。
運営会社は株式会社愛媛FC。マスコットは、愛媛県出身でサッカー漫画『ORANGE』の作者・能田達規がデザインしたオ~レくん(J2昇格に伴い「オレンジェイ」から改名)、たま媛ちゃん、伊予柑太である。下部組織としては既にユースチーム、ジュニアユースチームを設置しており、特にユースチームは四国の強豪クラブの一つとして名をはせている。
2003年から本格的にJリーグへの参加を検討し始め、愛媛県、松山市等の行政と連携を図りながら組織・施設の充実に努めている。そして2005年シーズンのJFLで優勝、2006年度からのJリーグへ加盟が認められた。Jリーグチームでニックネームを持たず、単に地名+FCで表記する事例はFC東京、横浜FCに次いで3チーム目のケースである。またこの3チームの中では唯一マスコットが存在している。
[編集] クラブの歴史
[編集] JFL昇格まで
1970年、松山サッカークラブとして誕生。松山市に本拠地を置くクラブチームとして社会人から高校、中学生の年代のサッカーチームを保有していた。1987年に初めて四国リーグに昇格し、以後その座を守り続けた。当時の愛媛県のサッカー勢力図は、1978年から1982年まで日本サッカーリーグ(JSL)2部にいた(1980年はJSLカップでベスト4)松山市の帝人サッカー部が四国最強のチームとして君臨し(1987年の四国リーグ5連覇後にJSL2部へ復帰)、これを同じ松山市のNTT四国サッカー部(NTT西日本の企業チーム、現在のベンターナACの前身)や伊予三島市(現在の四国中央市)の大王製紙サッカー部(同地にある大王製紙工場のチーム)、それに今治市の今治クラブなどが続く状態だった。しかし、帝人は1991年に四国リーグへ再降格し、愛媛から全国規模のリーグに参加するチームは無くなっていた。1993年に開幕したJリーグでも、愛媛県内からの参加の動きはなく、四国全体が「Jリーグクラブ空白地域」となった。一方、松山サッカークラブは1988年の2位を除き、原則として8チーム制の四国リーグで1993年までの7シーズン中6シーズンを5位で終える「中位超安定」状態を続けた。
松山サッカークラブは1995年に愛媛フットボールクラブ(略称:愛媛FC)に名称を変更し、本格的な強化策を開始した。1997年には1989年度(1990年1月)の全国高等学校サッカー選手権大会と1990年の全国高等学校総合体育大会(インターハイ)サッカー種目で愛媛県立南宇和高等学校を率いて優勝した石橋智之を高校教員のままで総監督に迎え、まずはJFL(新JFLと呼ばれる日本フットボールリーグ、1998年までは旧JFLのジャパンフットボールリーグ)、そして将来のJリーグ参加を目指して活動する事になった。石橋によって育てられ、全国各地のチームで活躍していた南宇和高校出身の選手達は、徐々に故郷に帰り、石橋の下へ再び結集してプレーするようになった。1998年には高校選手権優勝時の主将だったDF大西貴がJリーグの京都パープルサンガからコーチ兼任で入団し、早稲田大学からはFW友近聡朗が加入した。1999年には前年限りでチームが廃部になった元JFLの西濃運輸からMF黒田一則が加入した。戦力が強化された愛媛FCの社会人チームは1998年から四国リーグ3連覇を果たした。しかし、JFL昇格を賭けた地域リーグ決勝大会では優勝を逃した。1998年度(1999年1月)は3位だったが、同大会の成績とは無関係に希望に応じて可能とされていた新JFL発足初年度からの参加を見送り、1999年度(2000年1月)は1次リーグでYKKに屈した。
2001年1月、3度目の地域リーグ決勝大会でも、強敵の佐川急便東京SCに大敗、FC上田ジェンシャンにも敗れて1次リーグで姿を消した。しかし、急速なチーム数拡大を進めるJFLは、同大会の2位以内チームに認める自動昇格以外にも、同大会出場チームには日本社会人サッカー連盟の推薦による昇格申請を受け付ける事にしていた。愛媛FCはこの規定を利用し、新シーズンからのJFL昇格が決まった。
なお、1997年には17歳以下日本代表候補に選ばれたGK不老伸行が所属する愛媛FCのユースチーム(高校生年代チーム)が第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会の愛媛県代表決定戦の決勝で松山大学サッカー部を下し(社会人チームは準決勝で松山大学に敗北)、さらに本大会の1回戦でアローズ北陸を破り、2種(高校生)として初めて1種(大学・社会人)を下したチームとなった。2回戦では旧JFLで同年2位の東京ガスFC(現在のFC東京)に延長戦で惜敗する接戦を演じ、1999年の第76回大会で本大会へ初出場した社会人に先駆けて愛媛FCの存在をアピールした。
[編集] J2参入問題
2001年、JFL参戦をきっかけに、社会人チームを本体から切り離して任意団体の「愛媛FC」として再出発を果たした。これで社会人チームの「愛媛FC」はチームの運営・強化に専念する事となったが、後のJリーグ加盟審査ではユースチームとの一体性で疑問を持たれる事になった。また、学校教員の仕事もある石橋総監督を補佐するため、大西コーチが現役選手を引退して監督専任となり、チームの指揮を執った。また、1999年に愛媛FCを退団してドイツへ渡り、アマチュアリーグでプレーしていた友近が復帰した。しかし、JFLの壁は厚く、次の目標としたJリーグ参入に十分な成績は挙げられなかった。また、クラブ事務所が置かれた南海放送をはじめとした地元メディアの積極支援と比較すると、本拠地となる愛媛県総合運動公園陸上競技場のJリーグ規格対応改修で費用負担を求められた愛媛県の対応は鈍く、県内企業の支援や一般県民の関心も不十分だった。なお、帝人サッカー部は弱体化し、2002年度限りで四国リーグから愛媛県リーグ1部への降格が決定したのを機に廃部となり、愛媛県の社会人サッカーの中心は従来の各企業サッカー部からJリーグクラブをモデルとした愛媛FCへと移行した。
2003年は成績上位ならJリーグ参戦も視野に入っていたが、チームを運営する母体企業の設立のめどや、スタジアムの改修計画がまとまらなかったこともあり結局J2参戦は見送りとなった。
2004年には株式会社愛媛フットボールクラブと任意団体の愛媛FCが合併し運営法人となる「株式会社愛媛FC」が創設され、いよいよ念願成就に向けて走り出した。しかし、リーグ戦は結局5位の成績で、運営組織面でも1人しかいない専従職員の増加などさらなる整備をJリーグから指摘されるなどして、残念ながらJ2参入には至らなかった。なお、この年のJFLでは大塚製薬サッカー部が2連覇を果たし、翌年から徳島ヴォルティスとしてのJリーグ2部への参入を決め、「四国初のJリーグクラブ」の栄誉を得る事になった。
Jリーグへのチャレンジ3年目となった2005年は大西がユース監督に移り、ジュビロ磐田のユース監督や日本サッカー協会のナショナルコーチングスタッフだった望月一仁を初の外部出身監督として招いた。チームは当初苦戦したが、徐々に立て直し、Jリーグ参入条件の2位以内確保の可能性を高めていった。
一方、クラブは6月28日にJリーグ加盟の仮申請を提出。審査の結果では愛媛FCの年間予算(約1億5000万円)と資本の少なさが懸念された。8月29日にJリーグによるヒアリングが終了。
鈴木昌チェアマンは、9月20日の会見で、ホームスタジアムである愛媛県総合運動公園陸上競技場のキャパシティがJリーグの基準より少なく、改修工事も2017年の国民体育大会開催に合わせ13年かけて完成させる計画であることなどを理由に、このままでは2006年度もJ2入りが困難である見解を示した。その際、鈴木は「最低限の条件をクリアしようとしても、お荷物チームを抱えるとJ2のステータスを下げてしまう」と指摘しており、またFCホリコシもJ2入りの条件を満たしていないことから、現状の愛媛FCでは、1チームだけ昇格させて13チームの奇数リーグで開催することに対し、各クラブの同意を取り付けるには材料に乏しく困難であること、などが挙げられた。
その後、知事公舎の売却益という臨時収入を利用してスタジアム改修時期を繰り上げた愛媛県側の新たな支援計画、愛媛FC側の経営基盤強化策、サポーターの署名運動(1ヵ月半で約22万人の署名)などによりJリーグ側は態度を180度転換、10月18日の理事会で愛媛FCが今シーズンのJFLで原則2位以内ならば昇格を認めるとの方針を打ち出した。
お墨付きをもらった愛媛FCは、11月27日の後期第14節でHONDA FCに勝利しJFL2位以内を確定、その勢いで12月4日の後期第15節(最終節)でデンソーに2-0で勝利し、JFL初優勝を本拠地である愛媛県総合運動公園陸上競技場に詰め掛けた7117人の観客の前で成し遂げた。翌日の12月5日、Jリーグ臨時理事会で愛媛FCのJリーグ加盟が全会一致で正式に承認され、正式に昇格を果たした。なお、愛媛FCのJリーグ参入にJFL主事として祝辞を寄せた豊島吉博・日本サッカー協会事務局長(常務理事)は松山東高校のOBで、1980年代後半から愛媛県サッカー協会の理事長として愛媛のサッカーに深く関わっていた人物でもあった。
[編集] J2での戦い
J昇格初年度となった2006年シーズン、3月4日の開幕戦・対横浜FC戦において、後半終了間際に途中出場の猿田がゴールを決め、見事1-0でJ初勝利を収める。 シーズン序盤、チームは昇格の勢いと相手チームの愛媛FCに関する情報不足から良好な結果を残していたが、シーズン中盤になると戦力不足を露呈し、決定力不足に泣くなど苦戦を強いられることとなった。 ただ、J1でも実績のある柏レイソルや東京ヴェルディ1969など上位チームに勝利するなど善戦。 試合を重ねるごとに経験を積み、レベルアップしていった。 後半戦になるとチーム・個人の成長が著しく、昇格争いにかかわるチームから「当たりたくないチーム」として嫌がられるようになった。 特に、ブラジルの武者修行から帰ってきた元柏レイソルの菅沼実や、元サンフレッチェ広島の田中俊也、高萩洋次郎、森脇良太、田村祐基などといった若手組が大活躍し、J初年度としては見事な9位でシーズンを終えるなど、大健闘を見せた。 また、J2全チームより勝ち点を上げるという快挙も果たした。
2年目の2007年シーズンは、昨シーズンの主力選手のうち、菅沼実や、高萩洋次郎、田村祐基らがそれぞれのチームに復帰してしまったため、青野大介、大木勉といった愛媛出身のベテラン勢をトライアウトにて獲得したり、レンタル・新規での新たな選手の獲得を行って戦力を整えた。 しかし、金守智哉、森脇良太、田中俊也、松下幸平、井上秀人、千島徹ら、昨季終盤に主力として活躍した選手の多くが故障し、また、今期新加入した大木勉もけがによって一時スタメン・ベンチを外れるなどした。大量の故障者が出た結果、最終的には昨季より1位順位を下げ、10位の順位でシーズンを終えることとなった。最後まで得点力不足、特に引いて守る相手に対する得点力不足に悩まされるシーズンとなったが、最終戦には先制された相手に逆転勝ちをするなど、徐々にチームの実力を増していることを感じさせた。 主力選手の多くが復帰し、若手選手も経験を積んだ11月に開催された2007年度天皇杯4回戦では、この年ACLを制覇しアジア王者となった浦和レッズを下す大金星をあげている。続く5回戦ではJ2降格が決定している横浜FCを撃破し、愛媛県のチームとしては55年ぶりの準々決勝進出を果たした。
現在の愛媛FCでは、予算の少なさゆえ、ユースで有力選手が育ったとしても他のJ1チームにスカウトされるなどユースからトップチームの主力選手を育てる体制は整っていない。結果、他チームで出場機会のない若手有望選手の完全移籍・レンタル移籍を中心としたチーム作りをしており、徐々に完全移籍で獲得する選手は増えているものの、しばらくは選手の入れ替わりが多くなると見られている。 浦和レッズやジュビロ磐田、サンフレッチェ広島などから若手選手が完全移籍・期限付き移籍するケースが多い。また、ガンバ大阪、サガン鳥栖、大分トリニータなどからの期限付きで獲得するケースもある。愛媛出身選手の移籍も多く、愛媛出身選手の比率もそれなりに高い。
[編集] クラブ戦績・歴代監督
| 年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得失点 | 得点 | 失点 | 順位 | 天皇杯 | 監督 | 総監督 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | 四国 | 14 | 23 | 7 | 2 | 5 | +7 | 30 | 23 | 3位 | 関谷伸二 | 加藤健次 | |
| 1996 | 四国 | 14 | 28 | 9 | 1 | 4 | +17 | 32 | 15 | 3位 | 愛媛県予選敗退 | ||
| 1997 | 四国 | 14 | 24 | 7 | 3 | 4 | +2 | 23 | 21 | 4位 | 愛媛県予選敗退 | ||
| 1998 | 四国 | 14 | 30 | 9 | 3 | 2 | +18 | 35 | 17 | 優勝 | 愛媛県予選敗退 | 兵頭龍哉 | |
| 1999 | 四国 | 14 | 33 | 10 | 3 | 1 | +31 | 47 | 16 | 優勝 | 1回戦敗退 | 石橋智之 | |
| 2000 | 四国 | 14 | 35 | 11 | 2 | 1 | +37 | 53 | 16 | 優勝 | 1回戦敗退 | ||
| 2001 | JFL | 30 | 33 | 9 | 6 | 15 | -4 | 39 | 43 | 12位 | 2回戦敗退 | 大西貴 | |
| 2002 | JFL | 17 | 28 | 8 | 4 | 5 | +11 | 29 | 18 | 6位 | 2回戦敗退 | ||
| 2003 | JFL | 30 | 56 | 17 | 5 | 8 | +16 | 55 | 39 | 3位 | 2回戦敗退 | ||
| 2004 | JFL | 30 | 49 | 14 | 7 | 9 | +11 | 53 | 42 | 5位 | 3回戦敗退 | ||
| 2005 | JFL | 30 | 66 | 21 | 3 | 6 | +28 | 54 | 26 | 優勝 | 3回戦敗退 | 望月一仁 | |
| 2006 | J2 | 48 | 53 | 14 | 11 | 23 | -12 | 51 | 63 | 9位 | 4回戦敗退 | ||
| 2007 | J2 | 48 | 45 | 12 | 9 | 27 | -27 | 39 | 66 | 10位 | 準々決勝敗退(ベスト8) | ||
| 2008 | J2 | ? | ? | ? | ? | ? | ? | ? | ? | ?位 | ? |
- 四国は四国社会人リーグ、JFLは日本フットボールリーグ、J2はJリーグディビション2
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- 1995年~1997年は紫(ユースは青/白)
- 1998年~2004年は青/白
- 2005年から、愛媛の特産物「みかん」にちなんだオレンジ色に変更。パンツは紺。これはマスコットをデザインした能田達規と愛媛FCとの縁となった、漫画『ORANGE』のチーム「南予オレンジ」のユニフォームに似ており、その影響も大きいものと思われる。
[編集] ユニフォームスポンサー
- 胸 大王製紙(エリエール)
- 袖 三浦工業(ZボイラMIURA)
- 背番号 太陽石油
- パンツ フジ(Fuji)
[編集] ユニフォームサプライヤー
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背番号 | パンツ | サプライヤー |
| 2003年 | ZボイラMIURA | HOTTA | ネッツトヨタ愛媛 | - | DIADORA |
| 2004年 | ZボイラMIURA | HOTTA | ニンジニアネットワーク | - | DIADORA |
| 2005年 | エリエール | HOTTA | ZボイラMIURA | 日新製鋼 | DIADORA |
| 2006年 | エリエール | ZボイラMIURA | 太陽石油 | Fuji | DIADORA |
| 2007年 | エリエール | ZボイラMIURA | 太陽石油 | Fuji | DIADORA |
| 2008年 | エリエール | ZボイラMIURA | 太陽石油 | Fuji | Mizuno |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
クラブ公式サイト
選手公式サイト
サポーターサイト
関連サイト
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| ベガルタ仙台|モンテディオ山形|水戸ホーリーホック|ザスパ草津|横浜FC|湘南ベルマーレ|ヴァンフォーレ甲府|FC岐阜|セレッソ大阪|サンフレッチェ広島|徳島ヴォルティス|愛媛FC|アビスパ福岡|サガン鳥栖|ロアッソ熊本 |
| 過去に存在したクラブ |
| 横浜フリューゲルス |
| 準加盟クラブ |
| 栃木SC|カターレ富山|ガイナーレ鳥取|ファジアーノ岡山|ニューウェーブ北九州 |
| Jリーグの主な大会 |
| ナビスコ杯|オールスターサッカー|チャンピオンシップ|入れ替え戦|アウォーズ |

