コンサドーレ札幌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| コンサドーレ札幌 | |
| 原語表記 | コンサドーレ札幌 |
|---|---|
| 愛称 | コンサドーレ、コンサ |
| クラブカラー | レッド、ブラック、ブルーグレー |
| 創設年 | 1935年 |
| 所属リーグ | Jリーグ |
| 所属ディビジョン | ディビジョン1 |
| ホームタウン | 北海道札幌市 |
| ホームスタジアム | 札幌ドーム 札幌厚別公園競技場 |
| 収容人数 | 札幌D= 41,580人 厚別 = 20,005人 |
| 代表者 | 児玉芳明 |
| 監督 | 三浦俊也 |
コンサドーレ札幌(コンサドーレさっぽろ、Consadole Sapporo)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] クラブの概要
1996年にJリーグ準会員に承認され、1998年にJリーグ加盟。前身は東芝サッカー部。ホームタウンは北海道札幌市。ホームスタジアムは札幌ドームと札幌厚別公園競技場。加えて年に1ないし2試合ずつを入江運動公園陸上競技場(室蘭市)、千代台公園陸上競技場(函館市)で行う。主な練習場は宮の沢・白い恋人サッカー場で、他に札幌ドーム・屋外サッカーグラウンドなども用いられる。球団事務所は札幌ドームの敷地内にある(同一施設内にプロ野球・北海道日本ハムファイターズ球団事務所も入居している)。チーム名は公募で決定したもので、「どさんこ」の逆さ読みに、ラテン風の「オーレ」(-ole)を組み合わせたもの。
[編集] クラブ名変遷
- 1935年 ~ 東芝堀川町サッカー部
- 1980年 ~ 東芝サッカー部
- 1996年 ~ 北海道フットボールクラブ(略称 HFC)・コンサドーレ札幌
[編集] 主要本拠地の遍歴
- JFLにいた1995年までは主として、川崎市等々力陸上競技場など神奈川県各地を中心として開催。
- 1996年~97年 札幌厚別公園競技場へ移転したが、屋外スタジアムであるため積雪が残る4月までは本州各地で地方遠征を行う。
- 1998年(Jリーグ参戦) 第1ステージ前半は厚別公園競技場が積雪と改修工事(芝生席の座席化)に伴って6月まで使えず、室蘭市入江運動公園陸上競技場をメインに使用(3月のナイターは仙台スタジアムで主催)。7月以後厚別で開催。
- 1999年~2000年 3月~4月は積雪のため厚別公園競技場が使えないので室蘭を中心に主催。5月以後は厚別公園競技場で開催。
- 2001年以後 札幌ドーム・厚別公園競技場併用開始。原則として、積雪時(春季と秋季)、平日ナイターは札幌ドーム、夏季の週末デーゲームは厚別公園競技場を使うが、2004年は運営予算の都合上、厚別公園競技場での試合をメインとし、札幌ドームでは8試合にとどまっていた。しかしその後はホームゲームの半数程度を開催するようになった。ただこの年から北海道日本ハムファイターズが札幌ドームをホームゲームの主会場とするようになったため、平日ナイターを札幌ドームで行えない事例(特に夏季~秋季)もある。
- ※#道外での公式戦主催を併せて参照
[編集] チームカラー
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
チームカラーは赤(ファイティングスピリットの象徴)、黒(北海道の大地=無限大のパワーを象徴)、白(フェアプレイ精神の象徴であり、マスコットのシマフクロウや雪の色でもある)、ブルーグレー(深い針葉樹林の色=その静かさを冷静な判断力の象徴)である。また赤と黒は、実業団チーム時代の母体・東芝のコーポレートカラーであり、東芝サッカー部時代からのチームカラーの名残り、すなわち伝統の象徴でもある。
東芝サッカー部のユニフォームを赤と黒の縦縞に変更させたのは、当時チームに在籍していた石崎信弘であり、石崎が好きなACミランにあやかった[1]。これはコンサドーレ札幌となってからも引き継がれた(前身も参照)。 1997年と1998年のホームユニフォームでは、赤と黒の縦縞を基調にブルーグレーも使われた。
ユニフォームの「赤黒縦縞」に対するサポーターの思いは強く、縦縞模様が簡略化された2003年からデザインに対する批判が出始め、2005年のデザイン変更(正面は赤一色、背面は赤ベースに黒の三本線)で不満が爆発。一部サポーターがクラブに対して抗議を行い、ゴール裏には「札幌って赤だっけ?」等の横断幕が掲出される事態となった。2006年にはサプライヤーが変更となり、赤黒縦縞も復活した。
[編集] ユニフォームスポンサー
- 胸 ニトリ
- 袖 サッポロビール(SAPPORO)
- 背番号 石屋製菓(白い恋人)
- パンツ 日本航空(JAL)
- 練習着 JR北海道
[編集] 過去のユニフォームスポンサー
- 東芝(TOSHIBA)(背番号 1996年)
- ハドソン(HUDSON)(胸 1996年-1997年)
- JALグループ(袖 1998年-1999年)
- 札幌セミナー(練習着 2001年-2005年)
- ハウスメイト(練習着 2005年-2006年)
[編集] ユニフォームサプライヤー
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー
| 年度 | 胸 | 袖 | 背番号 | パンツ | サプライヤー |
|---|---|---|---|---|---|
| 1996年 | ハドソン | サッポロビール | 東芝 | - | PUMA |
| 1997年 | ハドソン | 石屋製菓 | サッポロビール | - | PUMA |
| 1998年 | 白い恋人 | JALグループ | サッポロビール | - | PUMA |
| 1999年 | サッポロビール | JALグループ | 白い恋人 | - | adidas |
| 2000年 | サッポロビール | 日本航空 | 白い恋人 | - | adidas |
| 2001年 | サッポロビール | 日本航空 | 白い恋人 | - | adidas |
| 2002年 | 白い恋人 | 日本航空 | サッポロビール | JR北海道 | adidas |
| 2003年 | 白い恋人 | 日本航空 | サッポロビール | JR北海道 | adidas |
| 2004年 | 白い恋人 | 日本航空 | サッポロビール | JR北海道 | adidas |
| 2005年 | 白い恋人 | 日本航空 | サッポロビール | JR北海道 | adidas |
| 2006年 | 白い恋人 | 日本航空 | サッポロビール | JR北海道 | Kappa |
| 2007年 | 白い恋人 | 日本航空 | サッポロビール | JR北海道 | Kappa |
| 2008年 | ニトリ | サッポロビール | 白い恋人 | 日本航空 | Kappa |
[編集] チームスポンサー
|
|
|
|
|
[編集] チームスローガン
- 2003年 We Shall Return
- 2004年 全力蹴球
- 2005年 真っ攻勝負!
- 2006年 闘
- 2007年 Power to 1
- 2008年 Progress
[編集] 下部組織
コンサドーレ札幌ユース・U-18、コンサドーレ札幌ユース・U-15
コンサドーレ旭川ユース・U-15、コンサドーレ札幌ユース・U-12
長期間を睨んだ強化計画の一環として、下部組織の充実に力を入れている。財政の緊縮化を図った2004年度においてさえ下部組織の予算は前年比で据え置かれている。コンサドーレ札幌ユース・U-18は2001年の日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会と2005年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(U-18)大会、コンサドーレ札幌ユース・U-15は2002年と2003年の高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(U-15)大会でそれぞれ準優勝するなど、サッカーの後進地域と見られてきた北海道において着々と進歩を続けている。また、さらなる才能の発掘を目指し、旭川にもコンサドーレ旭川ユース・U-15のチームを置いている。将来的には主要都市にユースチームを置くことも計画している。
[編集] マスコット
- ドーレくん
- 北海道に生息するシマフクロウがモチーフ。チーム名のイニシャル「CS」が白い文字で入った赤いシャツと黒いパンツを着用しているが、2006年シーズンからは時折レプリカユニフォームを着用して登場している。特技はダンス(主にコンサドールズと踊る)と側転。2006年シーズンから持ちネタが増え、電動キックスケーターに乗ってのピッチ一周や、巨大ボールを使用しての一人PK戦(自分でボールを蹴って、走ってボールを追い越し、正面からボールキャッチ)をハーフタイム時に披露。
- コンサドールズ
- オフィシャルダンスドリルチーム。1997年5月15日、札幌厚別公園競技場でデビュー。試合開始50分前、ハーフタイム、ゲーム終了後(勝利試合のみ)にパフォーマンスを行う。サッカークラブでは初めてのクラブ専属ダンスチーム。ミスダンスドリルチーム日本大会で優勝の経験もある実力派。サテライト、ユースなどの下部組織を持ち、若手の育成にも力を入れている。近年、キックオフ50分前のパフォーマンスの際、アウェイ側スタンドの一角でコンサドールズとともに踊る一団が現れ、「バックスタンドダンサーズ」「アウェイドールズ」などと呼ばれ、コンサドールズとともにコンサドーレホームゲームの名物となっている。
[編集] スタジアムDJ
スタジアムDJは北海道内を放送対象地域とするラジオ局 FM ノースウェーブのDJが担当している。
[編集] 歴史
[編集] 前身
前身の東芝サッカー部は1935年に神奈川県川崎市で結成され、日本サッカーリーグの中-後期は1部リーグで活躍する強豪実業団チームだった。しかし川崎は当時ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)が本拠地だったことから、川崎でJリーグ昇格を目指そうとしてもまず人気・実力でハンディキャップを背負ってしまう。札幌市が札幌ドームを将来的な本拠地とすることを目指したプロサッカーチーム誘致活動を実施中だったこともあり、1996年のシーズン開幕時に設立された運営会社・株式会社北海道フットボールクラブ(HFC)が東芝サッカー部を受け入れることで、チームは札幌市に移転することになり、チーム名もコンサドーレ札幌と改められた。この時以来、東芝とHFCの間で資本的なつながりはないものの、通称「赤黒縦縞」と呼ばれる東芝サッカー部の赤と黒のストライプのユニフォームデザインはそのままコンサドーレに引き継がれ、サポーターの誇りとして応援歌にも歌われている。
[編集] 1996年~1997年
「北海道からJリーグチームを」の合い言葉のもと、アルシンド、ペレイラらJリーグでの実績を持つブラジル人選手を迎えてコンサドーレ札幌は華々しく誕生した。しかし、1996年(Jリーグ準会員承認)のプロ移行初年度、チームはプロ選手と東芝サッカー部から出向してきた社員選手が混在し、さらには期待されたアルシンドが審判への暴言で長期出場停止となり、復帰後すぐにまたも一発退場でそのまま退団するなど、結局最後までチームは噛み合わず当時JFLで20勝10敗の5位に終わり、Jリーグ入りの条件である2位以内をクリアできなかった。しかし一方ではルーキー吉原宏太の活躍や、同年のチーム得点王である川合孝治を含む東芝社員選手を中心にしたチーム構成でシーズン後半は内容が向上するなど、明るい展望もあった。 ところが、シーズン終了後には彼ら東芝社員選手の契約更新がなされなかったことでクラブとマスコミ・サポーターの間に緊張関係が発生するなど、誕生したばかりのクラブとして運営の問題が表面化する。結局、チームに残留する意思を示した社員選手は東芝を退社しプロ選手になるというかたちで決着がついたものの、後味の悪さが残ったことは否めなかった。
1997年シーズン、ウルグアイからウーゴ・フェルナンデスを監督に招聘して本格的にJリーグを目指した。「チームはファミリー」を合言葉に周囲の期待通りに快進撃を続け、26勝4敗という成績でJFL優勝、念願のJリーグ昇格を果たした。また、パナマ代表FWバルデスが40得点で得点王に輝いているほか、ウーゴ・マラドーナとのホットラインがサポーターを魅了した。しかし、親会社を持たず資金力に乏しいチームにも関わらず、昇格を急ぐあまりに選手獲得に多大な資金を投入したしわ寄せは既にこの頃から表面化し始め、慢性的な赤字体質に悩まされるようになる。
[編集] 1998年
戦いの場をJリーグに移した1998年、コンサドーレはトップカテゴリの洗礼を浴びる。1stステージでは内容的に善戦した試合も少なくなかったものの、結果としては4勝13敗と全く振るわず16位に低迷。巻き返しを期して臨んだ2ndステージではやや持ち直したが、フロントとの確執から10月にフェルナンデス監督が解任されチームは空中分解。石井肇ヘッドコーチが後任の座に就いたが持ち直すことが出来ず、結局12勝22敗で年間順位は18チーム中14位に終わった。
この年は翌1999年からJリーグが2部制に移行する関係で、シーズン終了後にJリーグの下位チームとJFL優勝チームによるJ1参入決定戦が予定されていたが、このJ1参入決定戦に回るチームはこの年のリーグ戦の順位ではなく、1997~1998年の2シーズン通算の順位ポイントによるものだった。1997年シーズンは下部リーグJFLにいたコンサドーレには1998年1シーズンのみの順位ポイントしか計算されず、この2シーズン通算順位ポイントで16位となり、J1参入決定戦に回る。ここでヴィッセル神戸・アビスパ福岡にそれぞれ2連敗を喫し、Jリーグ史上初の降格チームとなった。J1参入決定戦を回避するために繰り返した選手補強も実らず、またJリーグに上がったことで伸びると期待された観客動員も想定ほどではなく、累積赤字は27億円以上にのぼった。
[編集] 1999年~2000年
J2に降格となり、「1年でのJ1復帰」を目指したコンサドーレが切り札として迎え入れたのが、岡田武史前日本代表監督だった。また、元日本代表で当時ベルマーレ平塚の名塚善寛、鹿島アントラーズで優勝経験のある佐藤洋平らも入団した。
日本を史上初のワールドカップ出場に導き、知名度と実績を兼ね備えた名将としてその手腕にかかる期待は大きかった。しかし、Jリーグでの監督経験がなかったことが災いしてなかなかチームを作り上げることができず、また外国人選手の獲得にも失敗したため、昇格争いに絡むことすら出来ずに、この年は17勝13敗6分5位で終了した。そして、A代表・五輪代表にも選出され人気・実力共にチームの柱であった吉原宏太がガンバ大阪に移籍してしまう。J2降格によるスポンサー料の収入減もあり、累積赤字も30億円を突破し、経営状態は泥沼となっていた。
2000年は就任2年目の岡田監督がクラブの経営見直しも図り、徹底した緊縮財政を断行。同時に選手の獲得も自ら行い、ジェフユナイテッド市原(当時)から 野々村芳和、ガンバ大阪から播戸竜二、京都パープルサンガ(当時)から大森健作、FC東京からアウミールら自らの眼鏡にかなう選手を集めた。そしてブラジルの名門サンパウロFCからエメルソンという強力なブラジル人ストライカーが加わった。この他、大きな活躍は無かったが、1993年アメリカW杯予選日本代表で「アジアの大砲」と呼ばれた高木琢也も当時ヴェルディ川崎から入団し、若手選手の模範となった。
理想をいったん捨て、下部リーグを戦うための戦術を確立し、それを実行できる選手を各ポジションに揃えたこの年のチームは、J2を31勝4敗5分という圧倒的な成績で制覇する。とくにJ1から降格してきた浦和レッズとの4度にわたる激闘は今でも語りぐさになっている。この好成績に押されて観客動員数も増え、この年コンサドーレは初めて単年度黒字を達成する。何もかもがうまく行った年であった。また、この年に地元北海道出身の山瀬功治という期待のルーキーが出てきた。
しかし、少ない予算でJ1昇格を狙うためにクラブが採った策は、主力選手をレンタル移籍に頼り、メンバーを固定して戦うというものだった。その結果、エースのエメルソンを含む8人のレンタル選手が主力というチーム編成で、その実体は砂上の楼閣であった。
[編集] 2001年~2002年
再びJ1で戦うチャンスを得たコンサドーレにとって、このレンタル依存体質からの脱却が優先事項となり、とりわけ31得点でJ2得点王を獲得したエメルソンの完全移籍が最重要課題であった。この完全移籍のための資金を捻出する方法としてクラブが摂ったのは、サポーターから増資を募ることだった。最終的には、2億5千万円という目標を上回る3億円近くの資金を集めることに成功する。この増資の最大の目的だったエメルソンが金銭面の理由で退団してしまうが、いつからか「エメルソン基金」と呼ばれるようになったその資金をもとに他の主力選手を完全移籍させ、またエメルソンに替わるストライカーとして大分トリニータのFWウィルをレンタルで獲得した。
J1復帰となった2001年は、開幕戦でセレッソ大阪にアウェイで競り勝ち幸先のいいスタートを切ると、続く柏レイソル戦でも勝利。勢いに乗った札幌は一時は2位にまで上がるなど予想以上の戦いぶりを見せ、またウィルが24得点で得点王を獲得する活躍もあり、10勝15敗5分の11位でクラブ史上初のJ1残留を果たす。また、同年完成した札幌ドームの集客効果も加わり、平均観客動員数は2万人を突破。2年連続で単年度黒字を達成した。さらに、前年入団の山瀬功治はこの年J1最優秀新人選手賞を受賞。またこの年も新人の今野泰幸が高卒1年目でレギュラーを獲得しユース代表にも選出され、自チームでの戦力養成にも道筋がつき始めた。ようやくチーム全体が軌道に乗り始めたかと思われたが、その矢先にこのシーズンいっぱいを以て岡田監督が退任し、またエースのウィルが横浜F・マリノスへ、ウィルと2トップを組み9得点を挙げた播戸竜二がヴィッセル神戸へそれぞれ移籍してしまう。さらに名塚善寛がケガの影響で引退、主将の野々村芳和もケガの影響もあり戦力外となって引退してしまった。カリスマ的な存在だった監督と、チーム総得点の実に4分の3を叩きだした2トップ、さらには精神的支柱でもあったまとめ役まで丸ごと失ったチームは、再び迷走を始めることとなる。とりわけ野々村芳和の戦力外はサポーターにも批判が多く、その後数年間は野々村の現役復帰を望む声も聞かれた。
J1復帰2年目の2002年、岡田監督の引き留めに失敗したクラブは、新監督としてS級ライセンスを取得したばかりで監督経験の無い柱谷哲二を迎え入れた。ウィルに替わるストライカーはロシアリーグの強豪スパルタク・モスクワからブラジル人FWロブソンを、そして日本人選手では東京ヴェルディ1969 から小倉隆史(アトランタオリンピック予選日本代表)、ガンバ大阪から小島宏美らを獲得してシーズンに臨んだ。しかし、戦力的に恵まれていないチームをJ1に残留させるのは、新人監督には荷の重い仕事だった。ロシアリーグ得点王(後にこの経歴は虚偽と判明)、UEFAチャンピオンズリーグ出場という肩書きをひっさげて鳴り物入りで入団したロブソンも、ふたを開けてみればまったく振るわず、チームは開幕から黒星を重ねてしまう。結局ロブソンは同年入団したDFマクサンドロと共に5月末に退団、柱谷監督も6月に解任される。
クラブは後任の監督として レアル・オビエド(スペイン)のチームコーディネータを務めていたユーゴスラビア(現:セルビア)人のイバンチェビッチ・ラドミロを招聘し、また同じくユーゴスラビア(現セルビア)人FWバーヤック、ブラジル人MFジャディウソンの2人の外国人選手をはじめ、日本人選手も次々と獲得して立て直しを図ったが、試合内容は改善したものの勝負弱さは払拭できず、成績は一向に上向くことなくイバンチェビッチ監督は9月にほぼ解任に近い形で辞任してしまう。わずか4ヶ月という就任期間であった。後任には張外龍ヘッドコーチが内部昇格したが、もはや一度狂った歯車は元には戻らなかった。
10月27日のカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦、2-2で迎えた延長前半ロスタイムに鹿島の石川竜也にVゴールを決められた瞬間、コンサドーレの2度目のJ2降格が確定した。シーズン通算では5勝24敗1分、最下位に終わった。度重なる監督交代や選手獲得によりチームの財政は再び悪化、9千万円近い赤字となった。
[編集] 2003年
2度目のJ2を戦うこととなったコンサドーレは、再度1年でのJ1復帰を掲げ、鹿島アントラーズ、名古屋グランパスエイトでリーグ制覇と天皇杯優勝を果たした実績を持つジョアン・カルロスを招聘(その代わり、過去に同監督と確執・衝突のあった小倉に退団を決意させてしまう)。また横浜F・マリノスを退団していたウィルを呼び戻し、MFホベルッチ、MFベットという2人の元ブラジル代表選手を獲得。若手のホープだった山瀬功治が浦和レッズに移籍したものの、U-20日本代表主将今野泰幸を含めてJ2トップクラスの戦力を揃えることに成功した。
ところが、開幕戦で横浜FCに1-3で完敗してスタートダッシュに失敗。期待されたブラジルトリオもベットがホームシックで帰国し退団、ケガで療養中のウィルが深夜の繁華街で傷害事件を起こしそのまま退団、ホベルッチも監督との確執が原因で退団と、全員がシーズン半ばで退団してしまう。その後MFビタウ、FWアンドラジーニャ(大分トリニータ在籍中の2002年、J2得点ランク2位)、オランダ人MFウリダとJリーグでの実績を持つ助っ人を獲得するも、戦い方は安定しないまま2003年8月2日のアルビレックス新潟とのアウェイ戦で1-5の大敗を喫したのを最後にジョアン・カルロス監督が辞任。後任は再び張外龍監督となったが、既にチームには巻き返すだけの余力はなかった。J1昇格どころか昇格争いにすら絡めないまま13勝18敗13分の9位というクラブワーストの記録でシーズンを終えた。J1昇格のために繰り返した選手獲得と、成績低迷や不祥事による観客動員の低迷により、この年2億8千万円もの赤字を出す。累積赤字は再び30億円を突破し、債務超過も4億5千万円にまで膨らんでしまう。この結果、クラブは大幅な方針転換を強いられることとなる。
[編集] 2004年
2003年に社長に就任した佐々木利幸のもと、事実上の倒産状態から生き残るためには抜本的な改革が必要と判断したクラブは、この年の末に、その方針転換の指標となる「5段階計画」を打ち出した。 それは、人件費をはじめとした経費の圧縮により経営の黒字化を図り、債務超過を解消すると同時に、若手主体のチーム編成とユースチームの強化を軸とする長期育成計画を立て、レンタル移籍や外国籍選手に頼らずともJ1で安定して戦えるチーム作りを目指すというものである。 この計画を実行するにあたっては、当然若手育成に最適な監督を捜す必要があったが、ジュビロ磐田でユースやサテライトチームの監督を長く努め、同トップチームの監督を務めていた柳下正明が2003年シーズン限りで退団することが明らかになり、彼に白羽の矢が立った。監督就任交渉時において「パスを回して自分たちから積極的に攻撃を仕掛けられるチームを作りたい」と述べた城福敬強化部長の言葉に、「そのスタイルならば、受けます」と応じた柳下が2004年シーズンから監督に就任することとなった。
この5段階計画元年の2004年シーズンは、柳下監督こそ同年元日の天皇杯を制した実績があるものの、中心選手だった今野泰幸や高年俸のベテラン選手・外国籍選手を放出し、逆に加入選手はユース昇格者の鈴木智樹、蛯沢匠吾、高卒新人の上田常幸、上里一将、桑原剛、斉川雄介、大卒新人の河端和哉、鎌田安啓という8人もの新人選手と、テスト生から入団した元磐田・静岡FCの清野智秋のみという極端な体制でシーズンに臨んだ。 開幕戦のホームゲームではヴァンフォーレ甲府にロスタイムに追いつかれはしたものの、その内容はおおむね満足できるもので順調なスタートが切れたかに見えた。 しかし、プロ3年目までの選手が大半を占めるチームならではの戦力・経験不足を露呈。さらに三原廣樹の大ケガによる戦線離脱や新居辰基及び中尾康二の不祥事による契約解除(解雇)といった事態が続き、横浜F・マリノスから金子勇樹、ヴィッセル神戸から西嶋弘之を補強、特別指定選手としてチームに加わっていた権東勇介と正式契約するなどして局面打開を図ろうとするも、勝利から見放される状況に長く陥ることとなる。 育成面で定評のある柳下監督の指導のもと、試合を追うごとに内容は改善されていったが、ある意味で勝利を度外視して若手育成にあてたメンバー構成のチームではなかなか勝ちを重ねることが出来ず、この年は5勝24敗15分でJ1経験チーム初のJ2最下位に終わった。 しかし、この年の終わりに行われた天皇杯ではJ1のジェフユナイテッド市原、大分トリニータを破りベスト8に進出。準々決勝でジュビロ磐田に延長Vゴール負けはしたが互角の戦いを見せ、チームが確かな成長をしていることを示した。 経営面では経費の削減が実を結び、今野泰幸がFC東京へ移籍した際の移籍金も含めて、クラブ史上最高の約3億5千万円の黒字を達成したことにより債務超過は一気に1億円以下にまで減少した。
[編集] 2005年
柳下監督体制2年目となった2005年。昨年の正GK藤ヶ谷陽介がガンバ大阪へ移籍したものの、サンフレッチェ広島から林卓人、中山元気、鹿島アントラーズから池内友彦、ジュビロ磐田から高原寿康、加賀健一を補強。 新人では大卒の徐暁飛、ユース昇格者の石井謙伍、野田達郎が加入。 前年と同じ5位以内を目標に掲げシーズンに挑んだ。
堀井岳也、上里一将、西澤淳二らが負傷により長期離脱を余儀なくされ、チーム力が低下したが、シーズン中盤に浦和レッズから獲得した西谷正也が攻撃力の向上に大きく寄与した。一方、得点力を期待して水戸ホーリーホックから獲得したデルリスはチーム戦術にフィットせず、満足な成績を挙げることができずに同年限りで退団した。クラブは17勝15敗12分の6位でシーズンを終え、当初目標としていた5位以内には入らなかったものの、第4クール後半までJ1昇格戦線に食い込む活躍を見せ、柳下が2006年も指揮を執ることとなった。
経営面では、シーズン中にクラブ取締役が女子中学生買春容疑で逮捕されるという不祥事があり、大手スポンサーである学習塾が撤退するなど大きな動揺をもたらす事態が発生した。 しかし、チーム成績の上昇や新たな営業活動により観客動員・広告収入が回復して債務超過額は約4200万円に圧縮された。
[編集] 2006年
柳下監督体制3年目となった2006年。川崎フロンターレからフッキ、ジェフ千葉から芳賀博信、モンテディオ山形から大塚真司、川崎健太郎、水戸ホーリーホックから関隆倫、アルビレックス新潟・シンガポールから野本安啓、名古屋グランパスからセバスティアンを補強し、ユースからは藤田征也、西大伍が昇格。J1昇格を目標に掲げてシーズンに挑んだ。
序盤戦はフッキの出場停止や大塚真司ら主力の怪我も影響し、10試合連続未勝利など成績は低迷。シーズン中盤以降に状況は改善しつつあったが、結局前年と同じシーズン6位(20勝16敗12分)で終了した。しかし、第41節湘南ベルマーレ戦、第42節徳島ヴォルティス戦ではクラブ史上初の2試合連続6得点を挙げるなど、歯車が噛み合った試合には爆発的な攻撃力を発揮。「走って繋いで撃ちまくれ それが札幌スタイル」という段幕も登場し、3年間継続した攻撃的サッカーが根付いたシーズンとなった。
また、天皇杯ではJ1のジェフ千葉、アルビレックス新潟、ヴァンフォーレ甲府を破りクラブ史上初のベスト4に進出。準決勝でガンバ大阪に1-2で惜しくも敗れ決勝進出はならなかったが、チームの成長ぶりを示すこととなった。
一方、柳下監督は翌シーズンの監督続投の意志が無いことをフロントに伝え、フロント側も本人の意志を尊重して続投のオファーをせず、2006年シーズンでの退任が決まった。
経営面では、J1昇格を目標に強化費の大幅増加に踏み切るも、観客動員などが伸び悩み1億6千万円の赤字を計上。翌年度の強化費圧縮が明言されるなど厳しい状況となった。
[編集] 2007年
2007年は前大宮アルディージャ監督の三浦俊也が新監督に就任。前年の主力選手であったフッキが東京ヴェルディ1969へ移籍、加賀健一がジュビロ磐田に復帰するなどしたが、2006年に途中加入し天皇杯で好プレイを見せたGK佐藤優也をヴァンフォーレ甲府から完全移籍で獲得。さらにセレッソ大阪からDFブルーノ・クアドロス、ECヴィトーリアからFWダヴィ・MFカウエ、大宮アルディージャからGK高木貴弘、高卒新人の岡本賢明、岩沼俊介を獲得した。
チームは1月22日より沖縄県国頭村で第一次キャンプを実施。4バックによる組織的守備の練習などに重点が置かれ、守備の再構築に取り組んだ。1月31日からは熊本県熊本市に移動して第二次キャンプを実施。練習試合では9戦負けなしの結果を残し、シーズンに臨むこととなった。
開幕戦では0-2で京都サンガF.C.に敗れたが、堅守速攻を武器にリーグ序盤に7連勝を果たすなど順調に勝ち点を積み上げ、シーズン途中から首位に浮上。一時は2位に勝ち点差10以上をつける独走状態だったが、シーズン当初から連携強化のために出場選手を固定してきたことによる主力選手の疲労の蓄積や、台風接近による試合順延で不運な日程を余儀なくされるなど、8月後半頃から急激に失速、他チームにあっという間に勝ち点差を詰められ熾烈な昇格争いに巻き込まれた。この苦しい終盤戦に3年目の石井謙伍、2年目の西大伍、ルーキーの岡本賢明などの若い選手や横浜FCから途中移籍した鄭容臺が起用に応えて活躍し、第45節から48節まで4連勝を飾って首位を死守、J1昇格まであと一歩と迫る。
第49節のサガン鳥栖戦に敗れ、第50節の京都サンガF.C.戦は勝てば昇格が決まる試合だったがロスタイムに追いつかれてドロー、さらに試合のない第51節には東京ヴェルディ1969に勝ち点で並ばれ得失点差で首位陥落と、なかなか昇格を決める事ができなかったが、それでも最終節の水戸ホーリーホック戦をダヴィの2ゴールによる逆転で制し、悲願のJ1復帰を果たした。同日、東京ヴェルディ1969がセレッソ大阪と引き分けたことでJ2優勝も決まった。
[編集] 2008年
三浦監督体制2年目となった2008年。舞台をJ1に移して戦いを挑む。ただし経営面は、資本金を80%減資してその上で増資する計画をしているなど、かなり苦しい状況となっている。そのため、大型補強ではなく身の丈にあった堅実な補強が行われた。前年にJ1昇格に大きく貢献したCBのブルーノクアドロスを解雇し、DFとして新たにサンフレッチェ広島から吉弘充志を、ヴィッセル神戸から坪内秀介を、清水エスパルスから平岡康裕を獲得し純国産DFで構築しようとしている。他にも、MFはアルビレックス新潟からディビッドソン純マーカス、FWはブラジルのECバイーアからノナトを獲得した。また、新入団選手として、柴田慎吾、堀田秀平、各年代別日本代表のFW宮澤裕樹が加入、またユースから横野純貴が昇格した。 チームは1月21日よりグアムで第一次キャンプを実施。しかし、新加入として期待されたMFアルセウがチームと自身の起用法などとの方向性の違いによりキャンプ中に退団し、新たにパラナエンセからMFクライトンを獲得して開幕戦に挑むことになった。