小野伸二

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小野 伸二
名前
愛称 シンジ  センセイ
カタカナ オノ シンジ
ラテン文字 ONO Shinji
基本情報
国籍 Flag of Japan.svg 日本
生年月日 1979年9月27日(30歳)
出身地 静岡県沼津市
身長 175cm
体重 74kg
血液型 O型
選手情報
在籍チーム ドイツの旗 VfLボーフム
ポジション MF
背番号 23
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1998-2001
2001-2005
2006-2007
2008-
日本の旗浦和レッズ
オランダの旗フェイエノールト
日本の旗浦和レッズ
ドイツの旗VfLボーフム
79(20)
112(19)
53(08)
20(00)
代表歴2
1998-2008 Flag of Japan.svg 日本 56 (6)
1. 国内リーグ戦に限る。2009年6月1日現在。
2. 2008年8月20日現在。
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静岡県沼津市出身のサッカー選手ポジションミッドフィールダーブンデスリーガVfLボーフム所属。

目次

[編集] 来歴

小学生時代から「天才」と呼ばれていた[1]1993年、13歳でU-16(16歳以下)日本代表に初選出されて以後、常に各年代の代表チームの中心選手として活躍。1994年、第6回U-16アジアユース選手権で優勝し、1995年にはFIFA U-17世界選手権大会に出場している。

清水商業高校[2]でも主力となったが、全国高等学校サッカー選手権大会には縁がなく、静岡県予選の厚い壁に阻まれ一度も本大会出場を果たせなかった。しかし、1997年、高校3年生の時には全日本ユース選手権準優勝、インターハイベスト8、他校の選手と合同チームを組んだ国民体育大会では静岡県選抜・少年男子の部の2年連続優勝。この年の暮れJリーグの13クラブからオファーを受けた。高校卒業後浦和レッズに入団。背番号は28。

1998年にはアジアユース選手権で準優勝し、MVPを獲得。韓国とのワールドカップ共催記念試合で岡田武史監督に抜擢され、18歳でA代表初出場。フランスワールドカップの日本代表にも選出され、第3戦のジャマイカ戦に15分間の出場を果たした。(ファーストタッチで股抜き。その後も効果的なプレーを連発)。浦和では、デビュー第2戦の横浜フリューゲルス戦でプロ初得点。このシーズンは9得点を挙げ、新人王ベストイレブンを受賞した。

1999年、浦和での背番号を8に変更。FIFAワールドユースナイジェリア大会)ではチームメイトからの信頼も厚く主将として準優勝に貢献(決勝戦は累積警告で出場停止)し、大会ベストイレブンにも選ばれた。日本サッカーがFIFA公認の国際大会で決勝戦に進出し、準優勝となるというのは初の快挙で、この結果から小野らこの世代を黄金世代と評すようになった。しかし、7月5日シドニーオリンピックのアジア地区一次予選、対フィリピン戦で相手DFに後方からの悪質なカニバサミタックルを受け、左膝靭帯断裂の重傷を負い、即入院し手術。リーグ戦の半分以上を欠場した。リハビリを経てJリーグ復帰するが、この負傷以降、怪我を頻発させることになる。所属する浦和も低迷を極め、J2降格を喫する。

2000年、コンディション不良が続きシドニーオリンピックの本大会メンバーには選出されなかったが、アジアカップレバノン大会の日本代表に。クラブにおいてはJ2降格に伴い、他チームからのオファーが報じられるがチームに残留し、クラブ史上最年少の主将としてチームを牽引、J2最終戦でJ1昇格を果たす。

2001年、日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップでは準優勝に貢献し完全復活をアピール。J1第1ステージ終了後、当時オランダ"ビッグ3"であったフェイエノールトへの移籍を決めた。背番号は14。

2001-2002シーズン、フェイエノールトではスターティングメンバーに定着、5月には2001-02UEFAカップ優勝を果たし、プロ入り後初となる所属クラブにおいてのビッグタイトル獲得。これは同時に日本人として、初の欧州カップ戦タイトル獲得となった。 6月、自身2度目となる日韓ワールドカップに選出され、虫垂炎を患いながらも全4試合に出場し、日本代表として史上初のベスト16に貢献した。

2002-2003シーズン、8月に行われた2002-03UEFAチャンピオンズリーグ予備選では,トルコのフェネルバフチェと対戦。ホームとアウェイそれぞれで決勝ゴールを奪い、チームを本選へ導いた。自身にとっても、W杯で敗れたトルコ代表へのリベンジとなった。 日韓ワールドカップ後に発足したジーコJAPANに招集され、その初戦でのファーストゴールを決めた。 2003年にはアジアサッカー連盟(AFC)から2002年度の年間最優秀選手賞を獲得。

2003-2004シーズン、オランダでの3シーズン目は左足首骨挫傷や負傷欠場が多く、核を失ったチームもリーグ優勝を果たせなかった。日本代表においてはFIFAコンフェデレーションズカップや親善試合を怪我で辞退した。

2004年前年に引き続き左足首骨挫傷の影響もあったが復帰後すぐに日本代表に招集されW杯3次予選突破に貢献。欧州遠征にも参加し、イングランド戦などで活躍。アテネオリンピックオーバーエイジとして出場を果たし、1次リーグ3試合でPKによる2得点をあげたが、決勝トーナメント進出はならなかった。

2004-2005シーズン、ルート・フリットの下でフェイエノールト在籍4年目を迎えた。日本代表やアテネでの過密日程の影響もあり、負傷が多いシーズンでもあった。ゴール数はフェイエノールト在籍期間中でもっとも多い7ゴールをあげた。

2005-2006シーズン、2005年W杯最終予選バーレーン戦前の練習中に疲労骨折。更に再手術もあり、シーズンを棒に振った。FIFAコンフェデレーションズカップも欠場。

2006年1月13日に浦和への復帰が決定し、1月26日に正式契約を結んだ。背番号は18。6月、3大会連続となるドイツワールドカップ日本代表のメンバーに選出され、初戦オーストラリア戦で交代出場を果たした。しかし、リードした場面での途中交代ながら、全3失点に絡み敗北の原因になった。当然、次戦以降は出番がなく、今大会の出場はこの試合のみに終わった。 12月、天皇杯準々決勝のジュビロ磐田戦で途中出場し、一時は逆転となる2得点を決め、続く準決勝の鹿島アントラーズ戦では先発出場し先制得点を挙げ、決勝点もアシストする活躍で天皇杯優勝に貢献した。しかし、天皇杯以外では、怪我の影響もありベンチを暖めることが多く、総じてファンの期待を裏切る結果となった。課題である運動量、フォアチェックを含めた守備の意識には改善が見られなく、Jリーグのチェックの早さと切り替えの早さに戸惑ったシーズンであった。

2007年三都主アレサンドロがオーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍したため背番号を8に戻す。浦和レッズマガジン2008年1月号において、ライター3人中2人が年間ベストゴールとして6月30日磐田戦の直接フリーキックとループシュートの2得点を選んだように輝きを見せる瞬間はあったが、2007シーズンも2006シーズンに続きベンチを暖める事が多かった。これは怪我の影響もあったものの、以前からの課題である守備・運動量の面で改善が見られなかったことが大きく、またしても消化不良なシーズンとなった。

2007-2008シーズン、2008年1月、浦和からドイツ・ブンデスリーガVfLボーフムに移籍した。怪我持ちであるにもかかわらずスムーズに移籍がまとまったのは極めて希な例である。デビュー戦となったヴェルダー・ブレーメン戦では途中出場ながら2アシスト(うち1アシストについては後にオフサイドの誤審であったが)で勝利に貢献、復活をアピールした。その後は怪我の影響もあり先発出場自体が少ないものの、途中出場でクローザー的な役割を担っている。

2008-2009シーズン、2008年8月20日のキリンチャレンジカップ 対ウルグアイ戦に2006年ドイツW杯以来2年2カ月ぶりの招集をされて、代表復帰を果たした。代表定着の最後のチャンスと言われた今回、中村憲剛のアシストへ繋がるスルーパスや終了間際に山瀬の決定機を演出、ボールロスト0など攻めでの存在感は見せたが、守備面やオフ・ザ・ボール時の運動量の少なさ、周囲との連携ミスを露呈。 試合後のコメントで「はまった時はすごくいい攻撃につながった。今まではけがが多くて、まともにサッカーができていなかった部分もあったので、非常にいい勉強になった。サッカーは走んなきゃダメだな、と。近代サッカーは走るサッカーだな、とすごく感じた。今日も走ろうと思っていたけど、うまくいった時もできなかった時もある。」と語った。 その後、代表から遠ざかってしまっている。 またクラブでもベンチ、ベンチ外で過ごす事が増えている。

[編集] 選手としての評価

「ボールと会話できる選手」と言われるほどテクニックの高さには定評があり、サッカー選手達から天才と賞賛される選手である。 利き足に持ち替えようとする動きはほとんど見られず、右足、左足遜色なく高い精度のシュートやボレー、クロスを蹴ることができる上、細かなボールタッチからみせる巧みなドリブルやワンタッチで相手をかわすなどのプレーを簡単にこなす。ダイレクトプレーの判断力が高く、ワンタッチ、ツータッチでテンポよくゲームをコントロールする。 自伝で述べているように、そのテクニックは少年期よりボールの1人壁打ちや、ボールリフティングにより磨かれたボールテクニックの賜物である 。

「豪快なシュートより技ありのシュートが好き」と話すように、ループシュートのようにキーパーの意表をつきタイミングを外すようなシュートが得意。ペナルティエリアの外からゴール隅をふわりと狙う独特のミドルシュートは、フェイエノールト所属当時月間ベストゴールにも選ばれている。きわめて客観的な視点から繰り出すラスト・パスは日本国内で「エンゼルパス」と呼ばれている。またそのベルベット織の絨毯のような柔らかな触感のボールタッチを評してオランダのメディアでは「ベルベット・パス」と評されていた。

オランダ移籍以前は、攻撃的ポジションであるトップ下でよく得点に絡んでいたが、フェイエノールトではチーム事情もあってボランチの位置で起用され、視野の広さを生かして「ベルベット・パス」とも称される正確なパスを供給しゲームを作った。このレジスタ的ポジションの経験はパスセンスに更なる磨きを掛けた。足元のテクニックが高い反面、運動量の少なさや守備面の課題が指摘されていたが、フェイエノールト時代のボスフェルトとの連携に見られるように、攻撃面はもちろん、守備面でも成長を見せた。

[編集] 人物

  • 同学年の高原直泰稲本潤一らと仲がよい。この3人を追ったフジテレビ系の正月恒例の特別番組「ワールドカップをめぐる冒険」が2002年から2007年まで放送された。
  • 長谷部誠鈴木啓太など、小野に憧れて浦和に入団した選手も多い[3]
  • 2001年7月19日、元読者モデルの女性と入籍。2004年12月19日に長女、2007年3月には次女が誕生している。
  • ボーフムでは、テクニックの高さからか「センセイ」のニックネームで呼ばれている。
  • 麻雀好きである事をサッカー誌で語っている。
  • 大島司の漫画作品『シュート!』の物語終盤で、高原直泰とともに実名で登場している。
  • 腕まくりをあまりしないが、左肩に「誇」という文字を刻んでいる。
  • かつてFC琉球で活躍していた小野正朋は実弟。
  • 2009年に元日本代表三浦泰年と対談し小野は「今は海外でやっているけど、最終的には(地元)清水でプレーしたい」と言っている。

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1998 浦和 28 J 27 9 0 0 2 0 29 9
1999 浦和 8 J1 14 2 0 0 2 0 16 2
2000 浦和 8 J2 24 7 0 0 2 1 26 8
2001 浦和 8 J1 14 2 4 3 - 18 5
オランダ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
2001-02 フェイエノールト 14 エールディヴィジ 30 3 - - 30 3
2002-03 フェイエノールト 14 エールディヴィジ 29 7 - - 29 7
2003-04 フェイエノールト 14 エールディヴィジ 24 2 - - 24 2
2004-05 フェイエノールト 8 エールディヴィジ 25 7 - - 25 7
2005-06 フェイエノールト 8 エールディヴィジ 4 0 - - 4 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2006 浦和 18 J1 28 5 1 1 4 3 33 9
2007 浦和 8 J1 25 3 2 1 0 0 27 4
ドイツ リーグ戦 リーグ杯 DFBポカール 期間通算
2007-08 ボーフム 23 ブンデス1部 12 0 - - 12 0
2008-09 ボーフム 23 ブンデス1部 8 0 - 2 0 10 0
2009-10 ボーフム 23 ブンデス1部 - - - - - - -
通算 日本 J1 108 21 7 5 8 3 123 29
日本 J2 24 7 0 0 2 1 26 8
オランダ エールディヴィジ 112 19 - - 112 19
ドイツ ブンデス1部 20 0 - 2 0 22 0
総通算 264 47 7 5 12 4 283 52
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点 出場 得点
UEFA UEFA杯 UEFA CL -
2001-02 フェイエノールト 14 8 2 3 0 -
2002-03 フェイエノールト 14 - 7 2 -
2003-04 フェイエノールト 14 4 0 - -
2004-05 フェイエノールト 8 6 1 - -
2005-06 フェイエノールト 8 1 0 - -
AFC ACL - クラブW杯
2007 浦和 8 8 2 - 1 0
通算 UEFA 19 3 10 2 -
AFC 8 2 - 1 0

[編集] タイトル

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 56試合 6得点(1998-2008)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1998 3 0
1999 0 0
2000 12 1
2001 9 1
2002 8 1
2003 5 0
2004 7 2
2005 2 0
2006 9 1
2007 0 0
2008 1 0
通算 56 6

[編集] 関連項目

[編集] エピソード

  • フェイエノールト時代、試合中に味方(ファン・ペルシー)の強烈なシュートが腹部に直撃して失神退場した数日後、今度は練習(ミニゲーム)でまたも腹部にボールが直撃。わざとその場に倒れこんでチームメイトは大爆笑した。

[編集] 脚注

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  1. ^ 10人兄弟の内5番目の子供。母子家庭で、小学校時代は家庭が貧しく、サッカー少年団にも入れなかったが、一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金はいらないから是非入ってくれ」と誘われた。
  2. ^ 同級生に平川忠亮池端陽介がいる。
  3. ^ 浦和レッズオンラインマガジン 2006. 1.13 Vol.58 より

[編集] CM出演

[編集] 関連項目

[編集] 関連サイト