鈴木隆行
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| 鈴木 隆行 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | タカユキ 師匠 | |
| カタカナ | スズキ タカユキ | |
| ラテン文字 | SUZUKI Takayuki | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1976年6月5日(31歳) | |
| 出身地 | 茨城県日立市 | |
| 身長 | 182cm | |
| 体重 | 75kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | ポートランド・ティンバース | |
| ポジション | FW | |
| 利き足 | 左足 | |
| 代表歴 | ||
| 2001-2005 | 55 (11)
|
|
鈴木 隆行(すずき たかゆき、1976年6月5日 - )は、茨城県日立市出身のサッカー選手。 ポジションはフォワード。フィジカルの強さと強靱な精神力に支えられた献身的プレーが持ち味。日本人FWとしては異色のFWとの評価もなされる。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] Jリーグデビュー〜各地へのレンタル移籍
1995年、茨城県立日立工業高等学校から地元のJリーグクラブ・鹿島アントラーズに入団。1996年10月16日に行われた試合(第24節)でJリーグデビューを果たした。
しかしその後はトップチームでの出場機会に恵まれず、1997年3月から9月、ブラジルのリオデジャネイロ州3部リーグに新設された、ジーコが出資し自ら会長を務めるクラブ、CFZ・ド・リオへとレンタル移籍する。ここで21試合7得点の成績を挙げ、リオ州2部昇格に貢献しジーコの期待に応えた。
レンタル期間終了後は鹿島へと復帰し背番号9を与えられたものの、1998年度シーズンの途中、ジェフ市原へ期限付き移籍。J1参入決定戦のアビスパ福岡との試合で貴重なゴールを決め、市原のJ1残留に貢献した。
1999年、再びリオ州2部のCFZ・ド・リオへレンタル移籍し、2月~9月の間で5試合に出場するも無得点に終わり、秋に鹿島に復帰。ナビスコカップ準決勝第1戦と第2戦、長谷川祥之とのツートップで、スタメン出場を果たす。柏レイソルとの決勝戦では、途中出場で初の決勝の舞台に立つが、PK戦では2番目のキッカーを務めるも失敗、優勝を逃した。
2000年、川崎フロンターレにレンタル移籍。リーグ戦11試合に起用されていたものの無得点、クラブも勝てなかった。そんな中行われたミーティングで松本育夫社長が選手に意見を求め、そこで鈴木はチーム内で溜まっていた不満を代弁したが、それ以降出場機会がなくなった。 結局シーズン途中鹿島に復帰し、リーグ5試合で2得点、ナビスコ杯5試合で3得点、天皇杯5試合で2得点。復帰後の15試合で7得点を挙げ、一気にレギュラーに定着、鹿島の「三冠」に貢献した。ナビスコカップではその活躍により、ニューヒーロー賞に選ばれた。
[編集] 日本代表招集〜欧州リーグでの挑戦
2001年、日本代表に初召集される。4月25日のスペイン戦にて途中出場し、代表デビュー。日本で開かれたFIFAコンフェデレーションズカップのカメルーン戦では、トルシエ監督から初スタメンに抜擢され、2得点を挙げる結果を残し、マスコミなどからシンデレラボーイと呼ばれた。トルシエは鈴木の抜擢を「(鈴木の)目で決めた」と述べ(なお、トルシエは後年「本当は(アフリカ系選手に対するために)鈴木のフィジカルコンタクトの強さを買って起用した」とも明かしていた)、本人も試合直前まで知らされていなかったという。次のオーストラリア戦では肘打ちをしたと見なされ一発退場になってしまうが、この大会以降、鈴木は代表に定着。
2002年、トルシエからは献身的なプレーが認められ、FIFAワールドカップのメンバーに選出。初戦・ベルギー戦、日本の初得点を挙げる。貴重な同点ゴールであった。W杯終了後、その活躍が対戦国のベルギーで認められ、ベルギー1部リーグの名門・ヘンクに移籍する。しかし、センターフォワードではなく右サイドのウィング的ポジションで起用されることがほとんどであり、リーグ戦やUEFAチャンピオンズリーグでアシストを記録するなどしたものの、FWのレギュラーを奪えずノーゴールに終わる。
2003年、ヘンクと選手の提携を結んでいるヒュースデン・ゾルダー(本拠はゾルダーだが、キャパシティーの問題から近隣の街・ゲンクのスタジアムを使用している)に移籍。クラブは1年で2部リーグに降格したものの、本来のセンターフォワードでまずまずのプレーをしリーグ戦5得点を挙げた。
[編集] 国内復帰〜再びの海外、そして現在
2004年、Jリーグ・第2ステージより鹿島アントラーズに復帰し、自身初のハットトリックを果たす。2006 FIFAワールドカップ一次予選ではケガで不調のエースFW久保竜彦に代わりジーコ日本代表監督に「FWの軸」として指名され、3戦連続ゴールを決めるなど活躍、AFCアジアカップでも日本の優勝に貢献する。
2005年、最終予選では3試合先発するも右足首の怪我に泣き、ノーゴールに終わった。代表内でストライカー待望論が高まるにつれ、チームの決定力不足の戦犯的扱いを受ける事もあった。Jリーグでは小笠原満男に代わり鹿島の選手会長を務め、リーグ戦では25試合に出場、3得点を挙げた。
2006年1月末に、セルビアの強豪チームレッドスター・ベオグラードに完全移籍。4月の国内カップ戦の準決勝ではアウエーでのラドニチュキ・ニシュ戦で初の先発フル出場、移籍後の公式初得点を含む2得点を挙げ、日本人選手として初めてのリーグ得点者となった。ドイツW杯の日本代表最終メンバーには選出されなかった。7月に入り、レッドスターのバイエビッチ監督の構想から外れ、出場機会が激減。
2007年1月19日、横浜F・マリノスが完全移籍での獲得を正式発表した。周囲からは横浜FCに移籍した久保竜彦の穴を埋める事を期待されていたが、その穴を埋める事は出来ず、開幕から数試合は出場したものの、その後は試合出場はおろか、ベンチメンバー入りすらできない不本意なシーズンとなった。12月1日、横浜マリノスより戦力外通告を受ける。その後、東京ヴェルディからオファーがあったものの、条件面で折り合いがつかずに決裂。
2008年2月1日、米MLS、チーバスUSAと交渉中であることが明らかになったが、ここでも条件面等で折り合わず契約には至らなかった。しかし、チーバスUSAとの交渉決裂に伴い、他MLS球団が興味を示し始めているという。
2008年3月25日、米ユナイテッドサッカーリーグ、ポートランド・ティンバースへの入団が発表された。4月26日のホームにSeattle Sounders迎えた試合で、1ゴール1アシストを記録している。
[編集] プレースタイル
前線でポストプレーをこなすことを得意とする。何度ファウルで倒されても立ち上がる強靱さや、球際において決して諦めない姿勢、前線から相手ボールホルダーを執念深くチェイスする勤勉なプレースタイルは特に高く評価されている。その姿勢を支える豊富な運動量は、鹿島時代にトニーニョ・セレーゾ監督に仕込まれたという。中盤や、時には最終ラインにまで下がってプレーする事も少なくなかった。鈴木本人も「憧れた選手はいません。でも中山さんのプレーには惹かれるものがあります」と、同じように泥臭いプレースタイルを信条とする選手に対するシンパシーをサッカーマガジン誌でのインタビューで述べたことがある。
それを象徴するのが、2002年のFIFAワールドカップ初戦ベルギー戦のゴールである。先制されて劣勢の中、小野伸二からのロングフィードを、伸ばした右足つま先で押し込み、ワールドカップ日本初の勝ち点獲得に貢献した。同大会においてFW登録で得点を挙げた唯一の日本代表選手となった。2004年のAFCアジアカップにおいても、鈴木の被ファウルから得たフリーキックの好機から、中村俊輔がゴールを狙うという得点パターンは日本の武器であった。
前述のスタイルからも推察されるように、テクニックよりフィジカル面を重視して戦い抜いてきた選手であり、それは本人も認めるところであったが、ヘンクに入団すると監督から基本プレーを重点的に鍛えられた。主に右サイドで使われ日本では見られなかったプレーが生まれ、ファウルを誘うようなプレーだけではなく楔の動きの質や前線でのキープ力にも磨きを掛けている。ゾルダー在籍時には個人技によるドリブルからの中央突破でゴールを挙げた事もあった。
[編集] その他
柳沢敦とは共にハワイで自主トレをしたり、ディズニーランドへ行ったりするほど仲がいい。鈴木と柳沢がスタメンで日本代表のツートップを組むと負けた事が無かったとして、ファンの中にはこれを日本代表の不敗神話と呼ぶ者もいる。これに対して、共に自らゴールを量産するタイプではなく決定力に課題があるとされることから、槍玉に挙げられることも多く、評価は分かれている。
中学時代は攻撃的ミッドフィルダーから最終ラインのディフェンダーまで様々なポジションをこなした。
また日本代表時代、トルシエに「Now we have a god(我々には神がいる」と言われている。
トルシエはこの時、「彼はここ半年の間1点も取っていませんが、点を取らなかったとしても彼は存在感だけで相手にプレッシャーを与え、非常に攻撃的。チームにとっても攻撃的な姿勢につながる。」と鈴木の実名は挙げなかったが、発言内容からして鈴木隆行の事を指していると思われる。
鈴木隆行の事をテレビ番組(やべっちFC)で初めて「師匠」と呼んだ人物は小野伸二と言われている。
(実際は小野のほうがリフティングが上手いが、リフティングの師匠という呈で師匠と呼ばれていた。)
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | 鹿島 | - | J | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |
| 1996 | 鹿島 | - | J | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
| 1997 | 鹿島 | 26 | J | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1997 | CFZ | リオ州3部 | 21 | 7 | |||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1998 | 鹿島 | 9 | J | 3 | 1 | 1 | 0 | - | 4 | 1 | |
| 1998 | 市原 | 32 | J | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 |
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999 | CFZ | リオ州2部 | 5 | 0 | |||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999 | 鹿島 | 9 | J1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 |
| 2000 | 川崎 | 8 | J1 | 11 | 0 | 2 | 0 | - | 13 | 0 | |
| 2000 | 鹿島 | 30 | J1 | 5 | 2 | 5 | 3 | 5 | 2 | 15 | 7 |
| 2001 | 鹿島 | 30 | J1 | 26 | 6 | 6 | 1 | 3 | 4 | 35 | 11 |
| 2002 | 鹿島 | 30 | J1 | 8 | 0 | 0 | 0 | - | 8 | 0 | |
| ベルギー | リーグ戦 | リーグ杯 | ベルギー杯 | 期間通算 | |||||||
| 2002-03 | ヘンク | 30 | ジュピラー | 19 | 0 | 2 | 0 | - | 21 | 0 | |
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2003 | 鹿島 | 30 | J1 | 4 | 0 | - | - | 4 | 0 | ||
| ベルギー | リーグ戦 | リーグ杯 | ベルギー杯 | 期間通算 | |||||||
| 2003-04 | ゾルダー | 30 | ジュピラー | 30 | 5 | 4 | 2 | - | 34 | 7 | |
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2004 | 鹿島 | 30 | J1 | 14 | 5 | 0 | 0 | 3 | 0 | 17 | 5 |
| 2005 | 鹿島 | 30 | J1 | 25 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 28 | 3 |
| セルビア・モンテネグロ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2005-06 | レッドスター | 19 | プルヴァ | 5 | 0 | 1 | 2 | - | 6 | 2 | |
| セルビア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | レッドスター | 19 | プルヴァ | 0 | 0 | 2 | 0 | - | 2 | 0 | |
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2007 | 横浜FM | 9 | J1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 |
| USL | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2008 | ポートランド・ティンバース | 30 | USL1部 | 3 | 1 | - | - | 3 | 1 | ||
| セルビア | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 108 | 17 | 18 | 4 | 15 | 6 | 141 | 27 | |
| ブラジル | リオ州2部 | 5 | 0 | ||||||||
| ブラジル | リオ州3部 | 21 | 7 | ||||||||
| ベルギー | ジュピラー | 49 | 5 | 6 | 2 | - | 55 | 7 | |||
| セルビア・モンテネグロ | プルヴァ | 5 | 0 | 1 | 2 | - | 6 | 2 | |||
| セルビア | プルヴァ | 0 | 0 | 2 | 0 | - | 2 | 0 | |||
| 総通算 | 188 | 29 | |||||||||
[編集] 経歴
- 公式試合初出場 - 1996年10月16日・対柏レイソル戦(鹿島アントラーズ)
- 公式試合初得点 - 1998年3月21日・対アビスパ福岡戦(鹿島アントラーズ)
- 公式試合初ハットトリック - 2004年9月18日・対ジュビロ磐田戦(鹿島アントラーズ)
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 2001年 FIFAコンフェデレーションズカップ 日本・韓国大会
- 2002年 FIFAワールドカップ 日本・韓国大会
- 2004年 AFCアジアカップ 中国大会
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ ドイツ大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 55試合 11得点(2001-2005)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2001 | 10 | 3 |
| 2002 | 13 | 1 |
| 2003 | 4 | 0 |
| 2004 | 18 | 6 |
| 2005 | 10 | 1 |
| 通算 | 55 | 11 |
[編集] 個人タイトル
[編集] 外部リンク
| 日本代表 - 2002 FIFAワールドカップ | ||
|---|---|---|
|
1 川口能活 | 2 秋田豊 | 3 松田直樹 | 4 森岡隆三 | 5 稲本潤一 | 6 服部年宏 | 7 中田英寿 | 8 森島寛晃 | 9 西澤明訓 | 10 中山雅史 | 11 鈴木隆行 | 12 楢崎正剛 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 中田浩二 | 17 宮本恒靖 | 18 小野伸二 | 19 小笠原満男 | 20 明神智和 | 21 戸田和幸 | 22 市川大祐 | 23 曽ヶ端準 | 監督 トルシエ |
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