田中誠 (サッカー選手)

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田中 誠
名前
愛称 マコ
カタカナ タナカ マコト
ラテン文字 TANAKA Makoto
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1975-08-08) 1975年8月8日(48歳)
出身地 静岡県静岡市清水区
身長 178cm
体重 76kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
ユース
0000-1987
1988-1990
1991-1993
清水FC
静岡市立清水第二中学校
清水市立商業高等学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1994-2008 ジュビロ磐田 353 (10)
2009-2011 アビスパ福岡 66 (2)
代表歴2
2002-2006 日本の旗 日本 32 (0)
監督歴
2024- 栃木SC
1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月3日現在。
2. 2006年5月9日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

田中 誠(たなか まこと、1975年8月8日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー。元日本代表

来歴[編集]

現役時代[編集]

サッカーを始めたのは小学校1年生のとき。選抜チームである清水FCではFWとして活躍し、小学校6年時の全国少年大会で優勝したときには得点王になっている。中学校でディフェンダーにコンバートされ、当初はサイドバック、清水市立商業高校で現役時代の主要ポジションとなるセンターバックにコンバートされた。高校3年時は川口能活鈴木悟小川雅己等と全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、全国優勝を果たしている[1]

高校卒業後に当時Jリーグ加盟1年目のジュビロ磐田に入団[1]。ルーキーイヤーから出場機会を得て、アトランタオリンピックでは3バックを統率する活躍[1] にもかかわらず、当時は対人能力の低さや経験の少なさから94年〜96年までのハンス・オフト監督時代はレギュラーに定着できなかった。

1997年も1stステージはベンチスタートがほとんどだったが、シーズン途中に監督がルイス・フェリペ・スコラーリから桑原隆代行に代わると、2ndステージからは徐々にスタメンとして出場する機会が増えていく。また、 同年は守備的MFとしスタメン出場することもあった。同年加入したアジウソンとのトレーニングによってディフェンス技術が全体的に格段に向上し、またフィジカルアップにも成功。アジウソン、鈴木秀人とのコンビでスタメンに定着し、磐田のディフェンスリーダーとなる。

1998年は同年の1stステージ優勝に貢献し、同年自身初のベストイレブンにも選出された。1999年のアジアクラブ選手権優勝、2002年の磐田の1st,2ndステージ優勝など磐田の数々のタイトル獲得に大きく貢献し、2002年には2度目のベストイレブンに選出された。

日本代表にはなかなか縁がなかった(トルシエ政権下では、田中が必ずしも得意でないフィード力がDFに求められていたことが原因、と田中はインタビューで示唆している)が、ジーコ指揮下では右のストッパーとして次第に出場機会を得る(磐田での主要ポジションであったリベロの位置には宮本恒靖がいたため)。

2006 FIFAワールドカップアジア地区1次予選の対オマーン戦(アウェー)では、GK川口とDF宮本が相手FWと空中で競り合ってゴールががら空きになり、絶体絶命のピンチになったが田中が自陣ゴールに戻り相手のシュートを間一髪のところで体で止め、この試合の日本の勝利そしてアジア1次予選突破に大きく貢献した。2006年ドイツW杯の代表メンバーにも選出されたが、ドイツでの直前合宿中に左ハムストリング肉離れのためチームを離脱し帰国[1]。本大会への出場は叶わなかった。なお、田中の代役には茂庭照幸が追加招集された。

2008年シーズンも26試合に出場したが、シーズン終了後、若返りを図るチーム事情から戦力外通告を受け、またスタッフ就任へのオファーを受けたが、本人は現役続行を望み自身初挑戦となるJ2リーグのアビスパ福岡へ移籍[1]。当初はJ2のシンプルなプレーに戸惑うもすぐに修正し、2010年のJ1昇格に貢献した[1]

2011年10月26日現役引退を発表した[2]

指導者時代[編集]

現役引退後は解説者及び、「サッカースクール SKY」のコーチに就任[3] 。2015年シーズンよりジュビロ磐田U-18の監督に就任。2017年シーズンよりジュビロ磐田のトップチームのコーチに就任。

2024年シーズンより、栃木SCの監督に就任[4]

エピソード[編集]

  • 夫人の田中玉枝(旧姓・松本)[5] はモデル[6]。一時、磐田でチームメートだった武田修宏の紹介で知り合った。
  • 宝島社の『MonoMax』2008年9月号に「俺のガンダム魂」と言うインタビューで登場するなど、熱狂的ガンダムマニアとして知られている。前述の地元応援番組で本人がコメントしているところによれば、息子と共におもちゃ屋へ足繁く通い[7]、クラブハウスのロッカーの中はガンダム関連の食玩で一杯で、チームメイト達に呆れられているほか、夫人が田中のガンダム趣味に理解を示しておらず、家にはもう置くところがなく、新しい趣味を探さなければいけないかもとぼやくほどである。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1994 磐田 - J 6 0 0 0 1 0 7 0
1995 21 0 - 2 0 23 0
1996 18 0 7 0 1 0 26 0
1997 5 23 0 9 0 4 0 36 0
1998 32 2 5 0 3 0 40 2
1999 J1 16 0 0 0 0 0 16 0
2000 26 1 4 0 3 0 33 1
2001 24 1 6 0 2 0 32 1
2002 25 0 1 0 3 0 29 0
2003 30 1 9 0 5 0 44 1
2004 28 1 1 0 5 0 34 1
2005 30 0 1 0 2 1 33 1
2006 25 2 3 0 1 0 29 2
2007 23 1 3 1 2 0 28 2
2008 26 1 5 0 0 0 31 1
2009 福岡 4 J2 29 0 - 0 0 29 0
2010 5 30 2 - 2 0 32 2
2011 J1 7 0 1 0 1 0 9 0
通算 日本 J1 360 10 55 1 35 1 450 12
日本 J2 59 2 - 2 0 61 2
総通算 419 12 55 1 37 1 511 14

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2004 磐田 5 4 0
2005 3 0
通算 AFC 7 0

その他の国際公式戦

出場歴

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2002 0 0
2004 14 0
2005 16 0
2006 2 0
通算 32 0

指導歴[編集]

監督成績[編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ルヴァンカップ 天皇杯
2024 J2 栃木

タイトル[編集]

クラブ[編集]

ジュビロ磐田

代表[編集]

個人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 現役引退を決めた男たち 田中誠『サッカーマガジン』2012年1月10.17日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-1/10.17, 044-046頁。
  2. ^ 2011年10月26日読売新聞記事より。
  3. ^ コーチ紹介
  4. ^ 田中誠氏 新監督就任のお知らせ”. 栃木SC (2023年12月5日). 2023年12月5日閲覧。
  5. ^ サッカー選手の奥さん(妻・嫁)【日本・Jリーグ】
  6. ^ SUISHO OFFICIAL WEB SITE(粋商・公式ウェブサイト)
  7. ^ 田中 誠

関連項目[編集]

外部リンク[編集]