小笠原満男
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | ミツオ | ||||||
| カタカナ | オガサワラ ミツオ | ||||||
| ラテン文字 | OGASAWARA Mitsuo | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1979年4月5日(32歳) | ||||||
| 出身地 | 岩手県盛岡市 | ||||||
| 身長 | 173cm | ||||||
| 体重 | 72kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | |||||||
| ポジション | MF | ||||||
| 背番号 | 40 | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年2月2日現在。 2. 2010年2月11日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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小笠原 満男(おがさわら みつお、1979年4月5日 - )は、鹿島アントラーズ所属のサッカー選手。元日本代表。ポジションはMF。2009年シーズンJリーグ最優秀選手賞受賞。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り以前
岩手県盛岡市に生まれ、地元の太田東サッカー少年団に入団し本格的にサッカーを始める。6年生の時に第15回全日本少年サッカー大会にチームのキャプテンとして出場している。
1995年、斎藤重信監督率いる岩手県立大船渡高等学校に進学し、監督の家で下宿生活を送る[1]。“東北のファンタジスタ”と言われ天才派選手[1]として注目され、U-16日本代表に初招集されてからは年代別日本代表に頻繁に選出される。 1997年第76回高校サッカー選手権に出場し、ベスト16に駒を進める原動力となる活躍で大会優秀選手に選出された[2]。高校選抜でチームを組んだ日本代表に選出され、第58回ベリンツォーナ国際ユース大会等に出場した。
[編集] 鹿島アントラーズ
1998年、高校卒業後に鹿島アントラーズに入団。同期は本山雅志、中田浩二、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗。同年4月15日の対ガンバ大阪戦でJリーグデビュー。
1999年、5月5日のジュビロ磐田戦でヘディングシュートでJリーグ初得点を記録。
2000年、レギュラーに定着して活躍。ナビスコカップ優勝、Jリーグ優勝、天皇杯優勝と、鹿島のJリーグ史上初の3冠獲得達成に貢献した。J1第1ステージ最終節でハーフライン付近から放ったシュートは、クロスバーに当たってゴールとはならなかったが、トニーニョ・セレーゾ監督が「入っていれば銅像でも立ててやりたかった」とコメントしたことから、サポーターの間で「銅像シュート」と呼ばれ有名になった[要出典]。チャンピオンシップ第2戦の試合中にビスマルクとフリーキックのキッカーを巡って揉め、名良橋晃の説得によりビスマルクがキッカーを譲る一幕があり、小笠原の蹴ったフリーキックは惜しくも外れてしまった。Jリーグチャンピオンシップ、天皇杯の両大会においてMVPに選出された。2001年1月1日に行われた天皇杯決勝の清水エスパルス戦では、先制点と、Vゴールとなるビスマルクからのパスをボレーで合わせるミドルシュートを延長前半に決めて3対2で勝利し、チームを優勝に導いた。先制点となったフリーキックは、主審に守備側の壁を適正な位置へ移動させるためのプレーの停止を要請せず、清水の選手たちが態勢を整える前にボールを蹴りこむという頭脳プレーだった。このVゴールはAFC月間最優秀ゴール賞に選ばれた。
2001年、背番号を17番から8番に変更。5月の柏レイソル戦で左肘を骨折するものの8月に復帰し、チャンピオンシップ第2戦のジュビロ磐田戦においては、延長戦10分にVゴールとなる直接FKを決めてリーグ連覇に貢献し、2年連続でチャンピオンシップMVPを獲得。この年、Jリーグベストイレブンに初選出され、以後2005年まで連続で選出された。
2002年、ヤマザキナビスコカップの優勝に貢献して大会MVPを獲得。2003年のシーズン終盤、当時ゲームキャプテンを務めていた秋田豊から、「全部背負ってみろ」とキャプテンマークを託された。これ以降、柳沢敦が主将に就任するまで、小笠原がゲームキャプテンを務めることになった。
2006年7月15日にカシマサッカースタジアムで開催されたJリーグオールスターサッカーには、史上最多得票で選出された。8月にはイタリアのFCメッシーナへ移籍した。
2007年7月3日にレンタル移籍終了で鹿島への復帰が発表された。背番号は40を選択、これは過去に背負った8番を野沢拓也が付けていたため、当時のJリーグの規定における最大数の背番号を選んだもの。7月15日、ナビスコカップ対サンフレッチェ広島戦で323日ぶりの復帰戦を勝利で飾った。鹿島復帰後は主にボランチとして攻守ともにチームの要となり、チームの6シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。12月1日の対清水エスパルス戦のPKによる得点でJリーグ通算50ゴールを達成した。
2008年、元日に行われた天皇杯決勝に出場し優勝に貢献。この年主将に就任し、AFCチャンピオンズリーグ2008では、規定により30を超える背番号が認められないため、かつて本田泰人が背負っていた背番号「6」を着けて出場した。4月2日に対アルビレックス新潟戦で、日本及びイタリアリーグ通算10シーズン連続得点を達成した。 9月20日、対柏レイソル戦で左膝半月板損傷及び前十字靱帯を損傷し、全治10ヶ月という怪我を負った[3]。一時は引退を考える程の怪我であったが、手術後はチームを盛り上げるために、異例の早い時期でのピッチ内リハビリを開始したり、シーズン終盤の優勝争いでは、ホペイロにベンチ外メンバーのユニフォームを試合会場に持ってきてもらうように頼み、試合開始前の円陣に全員がユニフォームを着て参加[4]するよう呼びかけるなど、ピッチ外から鹿島のリーグ連覇を支えた。全国高校サッカー選手権大会のイメージキャラクターに選ばれ、CM出演や雑誌へのコメントなどのPRに努めた。
2009年シーズン開幕に向けて、フィジカルコーチにリハビリに協力してほしいと頼み込み、コーチの年末年始のオフを短縮してもらってリハビリに取り組んだ結果、キャンプ初日から主力組で練習を開始することができた。優勝を飾ったゼロックススーパーカップには出られなかったが、3月7日のJリーグ開幕戦の対浦和レッズ戦において、2-0でリードしている後半41分から途中出場、168日ぶりの復帰を果たした。この試合を含め公式戦3試合連続途中出場出場後の3月18日、ACL第2戦の対上海申花戦において公式戦での179日ぶり先発出場と182日ぶりのフル出場を果たし、勝利に貢献した。4月22日ACL・シンガポール・アームド・フォーシズ戦で268日ぶりの公式戦ゴールを決め、5月2日対ジェフ千葉戦でリーグ戦279日ぶりのゴール(鹿島アントラーズ歴代最長となる11シーズン連続得点)をPKで決めた。8月8日JOMO CUPにてJリーグ選抜メンバーに選出され、試合前に選手間投票によりキャプテンとして出場した。チームはJリーグ史上初の3連覇を果たし、自身は2005年以来のフル稼働となった。12月、JリーグアウォーズにてJリーグ最優秀選手賞を受賞した。
[編集] FCメッシーナ
2006年8月、セリエAのメッシーナへ2007年6月まで10ヶ月間のレンタル移籍することが発表され、以前から望んでいた海外への初挑戦となった。9月20日の対レッジーナ戦において後半8分から途中交代で出場しセリエAデビューを果たした。10月21日のエンポリ戦でセリエA初ゴールを記録した。その後、技術はチーム一と言われながらも、差別的待遇を受け[5]出場のチャンスに恵まれることがなく、ほとんどの試合でベンチ外を強いられた。
[編集] 日本代表
1998年、U-19日本代表としてAFCユース選手権に出場し準優勝に貢献。
1999年、U-20日本代表としてナイジェリアで開催されたワールドユース選手権に全試合出場し、1次リーグのアメリカ戦で1ゴールを決めるなど準優勝に貢献した。U-22日本代表にも選出されるが、フィリップ・トルシエ監督からプレー中におけるコミュニケーションの乏しさを厳しく指摘され、9月にスタメン出場した韓国との親善試合を最後に招集外となった。
2002年、3月21日の対ウクライナ戦でA代表デビュー。22歳で日韓ワールドカップ日本代表にも選出され、グループリーグ第3戦の対チュニジア戦で、6分間という短時間ではあったがワールドカップ初出場を果たした。
2004年2月7日、キリンチャレンジカップの対マレーシア戦で代表初ゴールを決めた。その直後の2月9日、茨城県鹿嶋市で行われていた代表合宿中に、他7人の選手と共に無断外出してキャバクラで飲食し、問題を起こしていたことが発覚。代表監督であったジーコは「裏切り行為と感じた」として小笠原ら8人を代表から外した。
2005年、ワールドカップ・アジア最終予選の北朝鮮戦とバーレーン戦で得点をあげるなど、日本のアジア予選突破に大きく貢献した。8月にはセリエAのラツィオからオファーがあったが、チームが優勝争いをしていた最中であったために移籍を断念している。このシーズンはキャリアハイの11得点を記録した。
2006年6月、自身2度目のワールドカップとなるFIFAワールドカップ・ドイツ大会日本代表に選出された。グループリーグ第2戦の対クロアチア戦にフル出場し、さらに第3戦の対ブラジル戦にも先発出場したが、2敗1分で決勝リーグ進出はならなかった。
2010年、キリンチャレンジカップ、2月2日対ベネズエラ戦にて1321日ぶりの日本代表復帰を果たした。2月8日、全国のサッカー担当記者の投票により決められる2009年度の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を初受賞した。2010 FIFAワールドカップでは日本代表の予備登録メンバーに選出された。
[編集] プレースタイル
Jリーグ屈指のゲームメーカーである。90分のゲームの中の変化、行くときと押さえるとき、こらえるときの判断に優れる。 最大の武器は、パス、シュートにおける多彩なキックである。直接FKの精度も高く、現時点のJ1リーグ戦での通算12得点は歴代5位。また、大柄な選手ではないが、体幹の強さを生かして周囲の激しいプレスをはねのけるボールキープ力、ボール奪取能力に優れている。勝利への意志が非常に強い[6]。
しばしばロングシュートを狙う。2000年のJ1第1ステージ最終節でハーフライン付近から小笠原が放ったシュートはクロスバーに当たりゴールとはならなかったが、当時の監督だったトニーニョ・セレーゾが「入っていれば銅像でも立ててやりたかった」とコメントしたことから、サポーターの間で「銅像シュート」と呼ばれ有名になった。2001年12月16日には、天皇杯での対サガン鳥栖戦でほぼ同じ距離からのロングシュートを決めた。また2006年2月18日、キリンチャレンジカップ・対フィンランド戦では陣内から放った滞空時間4秒に及ぶ約58mの超ロングシュートを決め、2011年7月31日のセレッソ大阪戦では、約45mのロングシュートを決めている。
デビューから2001年頃までは、元ブラジル代表でゲームメーカーのビスマルクがいるため、本来似たタイプである自分にはなかなかパスが回ってこず、ビスマルクのパスを受けるため、またあまりディフェンスに戻らないビスマルクのためにディフェンスに戻るなど走り回り、汗かき役としてチームを活性化させていた。
2002〜2006年頃は、ビスマルクの影響を強く受けたと語っているように、トップ下でスルーパスを中心に味方選手にボールを供給するゲームメーカーであったが、イタリアから帰国後の2007年頃からは、鹿島の前線の豊富なタレントをより生かすためにボランチでの出場が大半になった。上述の前線へのスルーパスやサイドに展開する戦術眼に加え、試合の流れを読んでゲームそのものに緩急をつけてコントロールする能力を発揮し出したのはこの頃からである。またボランチに下がったことにより得点が減ったが、チームを鼓舞するために試合の要所で激しいプレスでボールを奪うというプレーが目立つようになり、攻守において統率力を見せるようになった。このようなプレーは、イタリアで過ごしたことによる守備意識の変化と、98年に共にプレーしたジョルジーニョから大きく影響を受けている。また、そのボール奪取能力の高さから「人間掃除機」と呼ばれる[7]。
柳沢敦が移籍した2008年からチームの主将に就任し、名実共にチームリーダーと言える存在になった。前述のプレス、ゲームメイク、キャプテンシーなどから「闘将」と形容される。
[編集] 評価
- 内田篤人は「メンバーに“神様”みたいな人もいますからね」[8]また「ボスというかドン」[9]とも表現している。
- 2004年、遠藤保仁に「常に裏を狙っているし、守備もうまいし、実は一番すごいと思う選手」と賞賛されている。
- 同じく99年ワールドユースで共にプレーした高田保則は、小笠原のことを「疑いようのない天才」と証言している。
- 名波浩にも、中田英寿や今野泰幸らと並んで「守備センスがすばらしい」とコラムで絶賛された。また「時間の使い方をよく知っている選手」[10]、「遠くを狙えている、遠くが見えている」、「ただゲームコントロール出来るだけでなく、今はこうするべきだと時間をコントロールする選手である」、「今の日本代表に一番必要な選手」[11]と評価されている。
- 2008年、鈴木強化部長には、「試合を90分という中で把握でき、さらにコントロールできる唯一無二の選手」、「ラインに逃げずにボールをとれるのは今野と小笠原くらい」[12]と評されている。
- 2008年のFUJI XEROX SUPER CUPで主審を務めた家本政明は、小笠原は判定に激しく反発する鹿島の選手らを制止し、家本から判定についての説明を受けた後は、チームメートやスタッフを落ち着かせていたとして「心から敬意を表する」と著書で述べている[13]。
[編集] 人物
- 勝利した試合後のインタビューでは、あまり口数は多くないがチームの全員で掴んだ勝利であることを強調し、仲間の力を讃えるコメントを必ずする。[14]
- スパイクの色は一貫して黒である。「白など他の色のスパイクは蹴る瞬間気が散るから」と理由を語っている。
- 2001年から2005年までJリーグベストイレブンを連続受賞し井原正巳と記録が並び、2006年での記録更新が期待されたが、セリエA移籍のため途絶えた。2007年までは最多タイ記録だった。(2008年に同学年の遠藤保仁に抜かれた)
- 2003年頃から臀部痛を慢性的に抱えている。
- 2008年9月20日、対柏レイソル戦で左膝半月板損傷及び前十字靱帯損傷、全治10ヶ月という怪我を負った。(前述)その際、短時間で二度のタックルを受けたが、一度目できっと靱帯損傷していたのではないかと語っている。従って、10分以上、靭帯を損傷した状態でプレーしていたことになる。クラブ幹部に「もう引退だ」とこぼす程の重傷であった[15]。
- 2009年3月の開幕戦で復帰したが、全治10ヶ月という診断結果にもかかわらず、怪我から5ヶ月あまりで復帰した[16]。
- 2009年地元岩手県のジュニアクラブチームレノヴェンスオガサFCの総合アドバイザーに就任[17]。オフシーズンなどには地元に戻り直接選手達を指導している[18]。
- 2011年2月イタリアのスポーツブランドKappaと2年間の契約を締結[19]。
- 東日本大震災後、東北出身のサッカー選手として「東北人魂」のスローガンを掲げ、他の選手らとともに率先して被災地の救援・慰問活動にあたり、また自身がそれまで苦手にしていたメディアへの露出に努め、支援への呼びかけを積極的に行った。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- 盛岡太田東サッカー少年団
- 1992年 - 1994年 大宮中学校サッカー部
- 1995年 - 1997年 大船渡高等学校サッカー部
- プロ経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1998 | 鹿島 | 27 | J | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 7 | 1 |
| 1999 | J1 | 15 | 4 | 5 | 0 | 1 | 0 | 21 | 4 | ||
| 2000 | 17 | 28 | 3 | 5 | 2 | 5 | 4 | 38 | 9 | ||
| 2001 | 8 | 24 | 7 | 3 | 0 | 3 | 2 | 30 | 9 | ||
| 2002 | 27 | 4 | 3 | 1 | 5 | 0 | 35 | 5 | |||
| 2003 | 27 | 7 | 3 | 1 | 4 | 3 | 34 | 11 | |||
| 2004 | 28 | 7 | 2 | 0 | 3 | 0 | 33 | 7 | |||
| 2005 | 30 | 11 | 0 | 0 | 2 | 0 | 32 | 11 | |||
| 2006 | 20 | 3 | 2 | 1 | - | 22 | 4 | ||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | メッシーナ | 16 | セリエA | 6 | 1 | 2 | 0 | - | 8 | 1 | |
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2007 | 鹿島 | 40 | J1 | 14 | 4 | 3 | 1 | 5 | 1 | 22 | 6 |
| 2008 | 24 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 26 | 5 | |||
| 2009 | 32 | 3 | 2 | 1 | 4 | 0 | 38 | 4 | |||
| 2010 | 33 | 3 | 2 | 1 | 5 | 0 | 40 | 4 | |||
| 2011 | 31 | 1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 35 | 1 | |||
| 2012 | |||||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 338 | 62 | 35 | 8 | 40 | 11 | 413 | 81 | |
| イタリア | セリエA | 6 | 1 | 2 | 0 | - | 8 | 1 | |||
| 総通算 | 344 | 63 | 37 | 8 | 40 | 11 | 421 | 82 | |||
その他の公式戦
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2001年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2002年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2008年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2010年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2011年
- スーパーカップ 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2002-03 | 鹿島 | 8 | 3 | 0 |
| 2008 | 6 | 7 | 1 | |
| 2009 | 40 | 7 | 1 | |
| 2010 | 6 | 1 | ||
| 2011 | 6 | 0 | ||
| 通算 | AFC | 29 | 3 | |
その他の国際公式戦
-
- アジアクラブ選手権 8試合2得点
- アジアカップウィナーズ選手権 2試合1得点
- A3チャンピオンズカップ 3試合1得点
[編集] 経歴
- 1998年4月15日 - プロ初出場 (Jリーグ) - ガンバ大阪戦 (カシマサッカースタジアム)
- 1998年12月13日 - プロ初得点 (天皇杯) - 筑波大学戦 (笠松)
- 2002年3月21日 - A代表初出場 (キリンチャレンジカップ2002) - ウクライナ代表戦 (長居スタジアム)
- 2004年2月7日 - A代表初得点 (キリンチャレンジカップ2004) - マレーシア代表戦 (カシマサッカースタジアム)
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会
- U-17 日本代表
- 1995年 FIFA U-17世界選手権
- U-20 日本代表
- 1998年 AFCユース選手権 (全3試合出場2得点、準優勝)
- 1999年 1999 FIFAワールドユース選手権 (全7試合出場1得点、準優勝)
- 日本高校選抜
- 1997年 第58回 ベリンツォーナ国際ユース大会 (第3位)
- 1998年 ニューイヤーユースサッカー
- U-22 日本代表
- 1999年 シドニーオリンピック アジア予選
- 日本代表
- 2002年 2002 FIFAワールドカップ
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
- 2003年 東アジアサッカー選手権
- 2004年 AFCアジアカップ2004 (優勝)
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ
- 2010年 東アジアサッカー選手権
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 55試合 7得点(2002- )
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2002 | 8 | 0 |
| 2003 | 8 | 0 |
| 2004 | 12 | 2 |
| 2005 | 15 | 4 |
| 2006 | 10 | 1 |
| 2007 | 0 | 0 |
| 2008 | 0 | 0 |
| 2009 | 0 | 0 |
| 2010 | 2 | 0 |
| 通算 | 55 | 7 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2004年2月7日 | 日本 | ○ 4-0 | キリンチャレンジカップ2004 | |
| 2. | 2004年6月9日 | 日本 | ○ 7-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 3. | 2005年2月2日 | 日本 | ○ 3-0 | キリンチャレンジカップ2005 | |
| 4. | 2005年2月9日 | 日本 | ○ 2-1 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 5. | 2005年6月3日 | バーレーン | ○ 1-0 | ||
| 6. | 2005年9月7日 | 日本 | ○ 5-4 | キリンチャレンジカップ2005 | |
| 7. | 2006年2月18日 | 日本 | ○ 2-0 | キリンチャレンジカップ2006 |
[編集] 獲得タイトル
[編集] 個人
- Jリーグ優秀選手賞:8回(2001年-2005年、2008年-2010年)
- Jリーグベストイレブン:6回(2001年-2005年、2009年)
- Jリーグ最優秀選手賞:1回(2009年)
- 日本年間最優秀選手賞:1回(2009年)
- JリーグチャンピオンシップMVP:2回(2000年、2001年)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝MVP:1回(2001年)
- ナビスコカップMVP:1回(2002年)
- AFC1月月間最優秀ゴール賞:1回(2001年1月)
- 全国高等学校サッカー選手権大会優秀選手:1回(1998年)
[編集] 代表
- 1999年 FIFAワールドユース選手権 準優勝
- 2004年 AFCアジアカップ 優勝
[編集] クラブ
- Jリーグ 優勝
- 6回(1998年、2000年、2001年、2007年-2009年)
- ヤマザキナビスコカップ 優勝
- 2回(2000年、2002年)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝
- 3回(2000年、2007年、2010年)
- ゼロックススーパーカップ 優勝
- 4回(1998年、1999年、2009年、2010年)
- A3チャンピオンズカップ 優勝
- 1回(2003年)
[編集] 出演
[編集] イメージキャラクター
- 常陽銀行 (2005年 - 2006年)
- 第87回全国高等学校サッカー選手権大会(2008年)
- Kappa(2011年 - )
[編集] 脚注
- ^ a b 応援リーダー 小笠原満男選手プロフィール 第87回全国高校サッカー選手権大会公式サイト
- ^ 「先生を日本一に」盛岡商に“教え子”小笠原から激励電話 サンケイスポーツ 2007年1月8日
- ^ 小笠原 全治6カ月の重傷…今季は絶望 スポーツニッポン 2008年9月20日
- ^ スポーツニッポン 2008年11月30日
- ^ スポーツ報知 2007年7月16日06時01分
- ^ 週刊サッカーマガジン別冊2009年新春号34頁
- ^ スポーツ報知 2010年2月2日8時00分
- ^ 小笠原ヒザ重傷越え5カ月ぶりベンチ入り 日刊スポーツ 2009年3月7日
- ^ デイリースポーツ 2010年1月30日9時23分
- ^ 週刊サッカーマガジン1246号14頁
- ^ やべっちFC 2009年9月27日、2010年2月7日放送分
- ^ スポーツニッポン 2008年3月17日9時27分
- ^ 家本政明・岡田康宏『主審告白』東邦出版、2010年、21頁
- ^ b.b.mookスポーツシリーズ413号32頁
- ^ スポーツ報知 2009年3月7日06時01分
- ^ 週刊サッカーマガジン別冊新春号2009年
- ^ 後輩の夢後押し“小笠原FC”4月始動 日刊スポーツ 2009年1月10日
- ^ 小笠原と夢の時間 オガサFC盛岡で練習会 岩手日報 2009年5月30日
- ^ Kappa 小笠原満男選手(株式会社鹿島アントラーズFC所属)と2年間の契約を締結! kappa 2011年2月8日
[編集] 関連項目
- 日本のサッカー選手一覧
- 鹿島アントラーズの選手一覧
- サッカー日本代表出場選手
- 岩手県出身の人物一覧
- 黄金世代
- レノヴェンスオガサFC
- 2002 FIFAワールドカップ日本代表
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
[編集] 外部リンク
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