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この項目では、サッカー選手の永井雄一郎について記述しています。ピン芸人の永井佑一郎については「永井佑一郎」をご覧ください。 |
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永井 雄一郎 |
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| 名前 |
| 愛称 |
ナギー、ナガイ、王子 |
| カタカナ |
ナガイ ユウイチロウ |
| ラテン文字 |
NAGAI Yuichiro |
| 基本情報 |
| 国籍 |
日本 |
| 生年月日 |
1979年2月14日(32歳) |
| 出身地 |
東京都新宿区 |
| 身長 |
184cm |
| 体重 |
77kg |
| 選手情報 |
| 在籍チーム |
横浜FC |
| ポジション |
FW |
| 背番号 |
18 |
| 利き足 |
右足 |
| 代表歴 |
| 2003 |
日本 |
4 (1) |
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永井 雄一郎(ながい ゆういちろう、1979年2月14日 - )は、東京都新宿区出身のサッカー選手。横浜FC所属。ポジションはフォワード。元日本代表。
[編集] 来歴
小学校1年生から高校3年生までの12年間、三菱養和SC一筋でプレー。
- 1997年
- 1998年
- 前年とは対照的に、1stステージでは僅か3試合の出場だった。その後、8月にはドイツのカールスルーエSCへ留学。カールスルーエでは長身を活かしたヘディングでの競り合いを求められ、持ち味であるドリブルのキレを失わせる結果になる。
- 1999年
- 7月に帰国した当初はドリブル突破が少なかったが、徐々にキレと感覚を取り戻すとレギュラーを獲得。2ndステージからの復帰で、12試合出場で3得点。トルシエ率いるU-20日本代表のFWの主軸として、ナイジェリアで開催されたワールドユースに2大会連続で出場。高原直泰と2トップを組み、準決勝・ウルグアイ戦で決勝点を決めるなど、チームの準優勝に貢献した。
- 2000年
- 自身の希望で背番号「11」を背負い、主に左サイドのMFとして起用された。複数人抜きのドリブルゴールや3試合連続得点、天王山の大分トリニータ戦でのゴール等、チーム最多の12得点を記録してチームのJ1復帰に貢献した。
- ただし、6月9日のアルビレックス新潟戦で相手選手にボールをぶつけて退場するなど、精神的に不安定な部分もあった。
- 2001年
- 新加入のトゥットが背番号「11」を着けるため、背番号は「18」に変更。
- 1stステージ途中からトゥットと、2ndステージは主にエメルソンとの2トップでレギュラーを獲得し、6得点をマークした。
- 2002年
- 背番号はかつて野人こと岡野雅行の「7」に変更。しかし、1stステージはエメルソンとトゥットがレギュラーで控えが田中達也、永井はFWの4番手という扱いを受け、ベンチを温める日が続いた。新加入のトゥットが背番号「11」を着けるため、背番号は「18」に変更。
- 2ndステージ第2節のベガルタ仙台戦のVゴールでようやくシーズン初得点を奪うと、エメルソンとの2トップにてスタメンに定着。トゥットが怪我から復帰した後も「TENトップ」(T=トゥット、E=エメルソン、N=永井)の一角としてスタメン出場した。
- ところが、シーズン終盤に2トップに戻ると永井はベンチに追いやられた。最終的に4得点でシーズンを終えた。
- 2003年
- 前年に引退した「ミスターレッズ」こと福田正博から背番号「9」を引き継ぎ、2代目「ミスターレッズ」として、サポーターの期待を一身に受ける。
- 日本代表に招集され、ソウルワールドカップ競技場で行われたアウェーの韓国戦(4月16日)で代表初キャップを記録。その試合で試合終了間際、左サイドでDFに囲まれながらのドリブル突破から相手のクリアミスを誘い代表初ゴールを記録し、ジーコジャパンの初勝利に貢献した。
- 1stステージこそエメルソンとの2トップでスタメン出場していたが、6月頃からの怪我が悪化して8月から9月前半はリハビリに費やした。その間に急成長を遂げた田中達也がエメルソンと2トップを組むことが多くなり、2ndステージはエメルソンか田中が出場停止時等の代役、もしくはスーパーサブとしてベンチに控える試合が増えた。
- 出場機会が少ないながらもエメルソンが出場停止だった試合では、スタメン出場してゴールも決めた。さらに、11月29日に行われた最終節の鹿島アントラーズ戦で2点ビハインドの試合展開の中で途中出場し、1ゴール1アシストを記録する活躍を見せた。[1]。結果的にこの年はJ1での自己最多8得点をマークした。
- 2004年
- 開幕前に肉体改造に取り組み、徹底した走りこみやウエイトトレーニングを続け下半身を鍛え抜いた。永井本人はFWとしての出場を希望していたが、ギド・ブッフバルトは監督就任当初から、右サイドの攻撃の要として永井に期待をかけていたからであった。永井の持つスピードをサイドでのアップダウンに繋げ、チームを攻守に活性化しようと意図したものであった。実際、FWのレギュラーだった田中達也かエメルソンの代役を除き、右ウィングバックでの出場が主だった。
- 8月21日の東京V戦では、約70メートルのドリブルで3人抜きを果たしゴール。このスーパーゴールを含む3ゴールを挙げ、山瀬功治と共に「1試合で同じチームの二人がハットトリックを達成」という珍しい記録での圧勝劇の中心となった。このシーズンの得点はハットトリックを含む6得点だったものの、優勝争いをしていたジェフ市原やガンバ大阪から奪った貴重なゴールだった。
- 2005年
- 開幕戦こそFWで出場したが、前半戦は主にトップ下でコンスタントに出場機会を得た。エメルソンがシーズン途中で退団してからは田中達也や途中加入のマリッチと2トップを組んだ。10月に田中達也の負傷離脱以降はマリッチが1トップに入る形で固定されたため、右サイドでプレーする試合が増えると、マリッチのゴールを幾度となくアシストし、マリッチからもクロスの精度を絶賛された。
- 持病の腰痛の影響で3月後半、7月後半、11月中旬から約1カ月の間は試合を欠場したが、前年と同様にリーグ戦で6得点を挙げた。そのうち5得点が同点、先制、決勝点と勝負強さを見せた。
- 2006年
- ワシントンの加入で前線はワシントンの1トップ、その後ろにポンテ、小野伸二(終盤戦は山田暢久)が2シャドーとして控える形がほぼ固定され、2トップの場合でもワシントンと負傷から復帰した田中達也のコンビがファーストチョイスとなり、右サイドも序盤戦は山田暢久、中盤戦以降は平川忠亮が起用される事が多かったため、ベンチスタートの試合が増えていった。また、スタメン出場した試合でも本人が希望するFW起用ではなく、2シャドーの一角で起用されることが多かった。そういった中でも4月29日、9月10日に行われた大宮アルディージャ戦、7月22日に行われた川崎フロンターレ戦では終盤に貴重なダメ押し点を記録し、チームの勝利に大きく貢献した。だが、12月2日に行われたガンバ大阪戦ではベンチ入りはしたものの出場機会が無く、ピッチ上で優勝の瞬間に立ち会うことは出来なかった。
- この年の天皇杯ではワシントンが持病の心臓疾患の検査で帰国、田中達也も前年に受けた手術の際に埋め込んだボルトの除去手術を受け離脱をした影響で不慣れな1トップのFWとして起用されたが、2007年元日に行われた天皇杯決勝ガンバ大阪戦で後半42分に決勝ゴールを挙げ、チームを天皇杯連覇に導き、この試合を最後に退任するブッフバルト監督の花道を飾った。
- 2007年
- シーズン開幕前にヴァンフォーレ甲府から獲得オファーを受けるが、監督が変わることを理由に残留を選択。新監督として就任したホルガー・オジェックからは、FWとしてのフリーランニングや囮の動きを第一に考えることを求められた。それまでのドリブル重視のプレースタイルからは変化したが、オジェック監督の信頼を得た永井は一貫してFWで起用された。
- リーグ戦でのゴール数こそ6点だったが、開幕戦の横浜FC戦、天王山のガンバ大阪戦、過密日程の間の横浜F・マリノス戦で決勝ゴールを挙げるなど、「記録」より「記憶」に残るゴールを連発した。
- 11月14日に行われたACL決勝でも先制点となるゴールを決め、大会MVPに選出された。12月10日のFIFAクラブワールドカップ準々決勝セパハン戦で先制点を挙げ、同大会史上初の日本人スコアラーとなった。
- 2008年
- シーズン途中から就任したゲルト・エンゲルス監督の下ではキープ力と決定力を活かし、トップ下で多彩な能力を発揮。その活躍から4月には代表候補合宿に招集された。しかしシーズン中盤以降、ポンテや田中達也の復帰と共に4番手のFW扱いとなり、更にサッカー観の違いから監督と確執が生じ、マスコミに対しフロント・監督批判ととられる発言をしたため、終盤はほとんど起用されない状態となった。
- 7月5日のJ1第15節FC東京戦にてJ1通算50得点目を記録。
- 2009年
- 2011年
- 2012年
[編集] 人物
- 趣味は、サーフィン・ゴルフ・乗馬・水泳・ピアノ・ワイン・香水など。
- ジュニアユース時代、中村俊輔とはライバル関係にあった。東京農業大学第一高等学校時代もサッカー部には所属せず三菱養和に在籍していたため、中村から「高校時代、全く話を聞かなかったのでどうしたのかな?と思っていたけど、やっぱり出てきましたね」と言われた。
- 99年のワールドユースが行われた際、ユース代表が宿泊したホテルの食事はバイキング形式だった。他の選手が1度に料理を皿に盛る中、当時ドイツ暮らしだった永井はサラダから順に皿に少しずつ盛っていた。それを見たフィリップ・トルシエは「みんな!永井を見習え!(Tout!Suivez Nagai!)」と言ったという。[2]
- 幼少期から小学4年生まで、北島康介を輩出した東京スイミングセンターに通い、本格的に水泳を習っていた。小学4年のとき、三菱養和の選抜に選ばれるようになったことで両立が難しくなり、水泳でも優秀な成績を残していたがサッカーに専念する道を選んだ。[3]
- 脚が速いのを買われ、中学1〜3年生の冬だけ学校代表として、練習を全くせずに陸上大会に出場していた。2年時には1500mで新宿区2位になり都大会に出場。3年時には400mで新宿区優勝、都大会2位になった。高校サッカーではどこからも声がかからなかったが、陸上では3つの高校からスカウトを受けたという。[4]
- 端整なルックスで女性ファンの人気も高く、また新宿出身であることなどからポストプレイヤーになぞらえた「ホストプレイヤー」の異名を持つ。2006年には、オフショットのみをおさめた写真集が出版された。
- 2代目「ミスターレッズ」として、浦和サポーターからの人気は非常に高いものがあった。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- 三菱養和ジュニア
- 三菱養和ジュニアユース
- 三菱養和ユース
- プロ経歴
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 |
| 年度 |
クラブ |
背番号 |
リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
オープン杯 |
期間通算 |
| 出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
| 日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算 |
| 1997 |
浦和 |
35 |
J |
30 |
3 |
6 |
0 |
2 |
0 |
38 |
3 |
| 1998 |
浦和 |
17 |
J |
3 |
0 |
0 |
0 |
- |
3 |
0 |
| ドイツ |
リーグ戦 |
リーグ杯 |
DFBポカール |
期間通算 |
| 1998-99 |
カールスルーエII |
|
ブンデス3部 |
21 |
4 |
|
|
|
|
|
|
| 日本 |
リーグ戦 |
ナビスコ杯 |
天皇杯 |
期間通算 |
| 1999 |
浦和 |
30 |
J1 |
12 |
3 |
2 |
1 |
2 |
0 |
16 |
4 |
| 2000 |
浦和 |
11 |
J2 |
29 |
12 |
2 |
1 |
1 |
0 |
32 |
13 |
| 2001 |
浦和 |
18 |
J1 |
25 |
6 |
6 |
1 |
4 |
1 |
35 |
8 |
| 2002 |
浦和 |
7 |
J1 |
19 |
4 |
4 |
0 |
1 |
1 |
24 |
5 |
| 2003 |
浦和 |
9 |
J1 |
23 |
8 |
8 |
1 |
1 |
0 |
32 |
9 |
| 2004 |
浦和 |
9 |
J1 |
27 |
6 |
8 |
1 |
4 |
2 |
39 |
9 |
| 2005 |
浦和 |
9 |
J1 |
30 |
6 |
7 |
0 |
2 |
0 |
39 |
6 |
| 2006 |
浦和 |
9 |
J1 |
23 |
4 |
6 |
2 |
4 |
3 |
34 |
9 |
| 2007 |
浦和 |
9 |
J1 |
31 |
6 |
2 |
1 |
1 |
0 |
34 |
7 |
| 2008 |
浦和 |
9 |
J1 |
26 |
5 |
4 |
0 |
1 |
0 |
31 |
5 |
| 2009 |
清水 |
9 |
J1 |
8 |
0 |
3 |
0 |
3 |
2 |
14 |
2 |
| 2010 |
清水 |
9 |
J1 |
14 |
1 |
8 |
2 |
4 |
0 |
26 |
3 |
| 2011 |
清水 |
9 |
J1 |
17 |
0 |
2 |
0 |
1 |
1 |
20 |
1 |
| 2012 |
横浜FC |
18 |
J2 |
|
|
- |
|
|
|
|
| 通算 |
日本 |
J1 |
288 |
52 |
66 |
9 |
30 |
10 |
384 |
71 |
| 日本 |
J2 |
29 |
12 |
2 |
1 |
1 |
0 |
32 |
13 |
| ドイツ |
ブンデス2部 |
21 |
4 |
|
|
|
|
|
|
| 総通算 |
321 |
68 |
|
|
|
|
|
|
その他の公式戦
その他の国際公式戦
[編集] チームタイトル
- 浦和レッドダイヤモンズ
[編集] 個人タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
[編集] 試合数
[編集] ゴール
| # |
開催年月日 |
開催地 |
対戦国 |
勝敗 |
試合概要 |
| 1. |
2003年4月16日 |
韓国、ソウル |
韓国 |
○ 1-0 |
国際親善試合 |
[編集] 関連書籍
- 『浦和レッズのしゃべり場5 永井雄一郎〜満足しないフォワード〜』(2003年 ランドガレージ)
- 写真集『REAL9』(2006年 ソニーマガジンズ)
- 『三浦泰年の素晴らしきかなサッカーヤロー』インタビュー掲載(2009年 日本スポーツ企画出版社)
- 『黄金世代 99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年』インタビュー掲載(2009年 スキージャーナル)
[編集] 脚注
- ^ 永井の活躍もあり浦和はこの試合を引き分けに持ち込み、鹿島はあと1歩のところでステージ優勝を逃すこととなった
- ^ 浦和レッドダイヤモンズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム「MDP」302号より
- ^ 「三浦泰年の素晴らしきかなサッカーヤロー」より
- ^ 「三浦泰年の素晴らしきかなサッカーヤロー」より
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク