ジェフユナイテッド市原・千葉

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ジェフユナイテッド市原・千葉
原語表記 ジェフユナイテッド市原・千葉
愛称 ジェフユナイテッド、ジェフ
クラブカラー 黄、緑、赤
創設年 1946年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン ディビジョン1
ホームタウン 市原市千葉市
ホームスタジアム フクダ電子アリーナ
収容人数 19,781
代表者 三木博計
監督 アレックス・ミラー
公式サイト 公式サイト

Template(ノート 解説)サッカークラブpj

ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF UNITED ICHIHARA CHIBA)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」、「千葉」である。

目次

[編集] 概要

1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年シーズンから千葉市が加わった。ホームスタジアムはリーグ開幕時から2005年シーズン途中まで市原臨海競技場、2005年シーズンの途中からフクダ電子アリーナに代わった。練習場は2000年から市原市の姉崎公園サッカー場(フットパーク・あねさき)を使用。

クラブの運営会社は東日本ジェイアール古河サッカークラブ。クラブ名のJEFは、クラブの母体となったJR East(=JR東日本) Furukawa(=古河)の略称からとられ、UNITED(ユナイテッド=結束した)はクラブ・ホームタウンの結びつき、結束力を示す(2005年から千葉市を含めた地域との結びつきも含むようになった)。1991年に公募により決定される。マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。ちなみに両マスコットの背番号は足すと11(=1つのチームを示すもの)である。

スクール及びジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にある。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市青森県八戸市にサッカースクールを所有している。又宮城県名取市東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心としたJR東日本沿線地域(東北関東甲信越)の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである(実際秋田仙台山形新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある)。又スクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。又千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。

ジェフに特有の下部・関連組織としてアマチュアチームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」がある。このアマチュアチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフユナイテッド市原の普及部付けとして改組したもので、2003年からはクラブの名称を冠して「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っている。こうした下部チームの形態はヨーロッパでは珍しくはない。アマチュアチームの立ち上げ以降日本フットボールリーグへの参加を目指し、2005年に関東社会人リーグ1部で準優勝、さらに全国地域リーグ決勝大会では準優勝を果たし、日本フットボールリーグへの昇格を果たした。

女子チームとしてジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。こちらは現在なでしこリーグ2部に在籍している。レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。廃部される例が少なくない日本の女子サッカーチームとしては、かなり息の長い存在となっている。

[編集] 歴史

[編集] 1993年まで

前身は1946年に設立された古河電気工業サッカー部。1965年の日本サッカーリーグにスタート時から参加。日本リーグ、Jリーグを通じて一度も下部(日本リーグ2部、旧JFL、J2)リーグに降格したことのない唯一のクラブチームである。日本リーグ時代は三菱重工(現:浦和レッドダイヤモンズ)や日立(現:柏レイソル)とともに丸の内御三家と言われていた(先途合わせ、2007年現在、丸の内御三家を母体とするクラブの中で唯一降格経験がないクラブでもある)。日本サッカーリーグ2回、天皇杯全日本サッカー選手権大会4回、JSLカップ3回優勝の名門。また1986年/1987年にはアジアクラブ選手権大会で日本のクラブとしては初めてとなるアジアタイトルを獲得した。

プロリーグ発足に関しては、古河電工単独でのプロクラブ化は難しかったため、1991年に古河電工と取引関係にあったJR東日本と合弁でクラブチームに移行し「東日本JR古河FC」となった(プロクラブ化に関しての曲折は小倉純二の項目も参照。小倉は古河電工退職直前にジェフユナイテッドの誕生に尽力した人物である)。

当初は当時、古河電工サッカー部が活動本拠地としていた横浜市をホームタウンとすることを企画していたが、早々に横浜フリューゲルス及び横浜マリノス(当時)が横浜市をホームタウンとすることを決定したため、首都圏で尚且つ古河電工が事業所を持つ千葉県にホームタウンを置く事として、新たなホームスタジアム探しが始まった。

千葉県の中では、当初習志野市(ホームスタジアムは秋津公園サッカー場を予定していた)を本拠地にすることを計画していた。そのためホームタウンが決定する以前の1991年からクラブ事務所と練習場は、距離的にも習志野市に近く、古河電工の事業所が置かれていた浦安市舞浜地区に置いていた。ところが秋津サッカー場周辺の住民が騒音の問題などを危惧してホームタウンとすることに反対したため、習志野市議会の同意を得る事が不可能となり、ホームスタジアム探しは振り出しに戻ってしまった。

千葉県下において次の候補地となったのが同じく古河電工の事業所が設置されており、古河電工の社宅など関連施設が多く存在していた市原市である。市原市議会からの賛同を得て、正式にホームタウンとしてJリーグに登録できたのは締め切り直前の1992年5月であった。ホームスタジアムはそれまで市営の陸上競技場としてこじんまりと使用されていた市原臨海競技場を突貫工事で改修して使用することになった。

[編集] 1993年-2001年

Jリーグが開幕した1993年から1995年までの3年間は営業面におけるクラブの絶頂期であった。特に1993年は観客動員においてヴェルディ川崎(当時)に続く2位。1994年はヴェルディとガンバ大阪に続く3位であった。又この2年間は平均観客動員が2万人を超えていた。営業面から国立霞ヶ丘競技場で主催試合を多く取ったが故、地元・市原臨海競技場でのホームゲーム開催数は少なかった。

1996年以降は観客動員の減少が始まり、1997年には総観客動員、平均観客動員がJリーグで最低になった。以降この位置が常態化し、1997年以降2005年に至るまで毎年、年間観客動員がJ1リーグの中で最低であった。

クラブと市原市もこの期間少しずつではあるが、地域に密着して行こうとする努力を始めた。当時クラブ事務所と練習場は、ホームタウンを市原市に変更して以降も浦安市に置かれていたが、地理的にかなりの距離があった事からクラブの中枢機能とホームタウンである市原市の連絡体制が不十分であった。又練習場と試合会場が離れていたため、選手、スタッフの殆どが浦安市周辺に住んでおり、試合をするためだけに「市原市に来ていた」状態が続いていた。この状態を改善するため2000年からはホームタウンである市原市のフットパーク・あねさき(姉崎公園サッカー場)にクラブ中枢機能及び練習場を移し、名実ともに市原市のクラブとしての機能を高めるようになった。

1998年から2000年までは毎年残留争いに加わり、観客動員も低迷した。2000年のシーズン終了直前の12月7日にはサポーターが監督のズデンコ・ベルデニックとチーム統括部長の祖母井秀隆の辞任を求め臨海競技場に立て篭もる騒ぎとなった。クラブは成績向上を模索してサポーターと話し合いの場を設ける事に同意し、後日姉崎公園サッカー場のクラブハウス前で執り行われたサポーターミーティングが行われる事になった。これが後のサポーター・コミュニケーション・デーの元となった。

2001年シーズンには、1stステージで2位となり、下馬評を大きく覆して見せた上に、この年から始まった試合結果が反映されるtotoと共に、大きな注目を集めた。しかしそれでも観客動員は大きな回復を見せなかったため、クラブ首脳部も驚きを隠せず、これが翌年から始まる抜本的な改革の契機となった。

[編集] 2002年 -

2002年のシーズン開幕の直前、クラブは千葉市蘇我地区の旧川崎製鉄工場跡地に建設される千葉市総合スポーツ公園球技場(現在のフクダ電子アリーナ)を完成後市原臨海競技場と併用してホームスタジアムとして使用する方針である旨発表した。これには蘇我地区の目玉となる施設を建設したいが、それを継続して使用してくれる団体を求めていた千葉市と、スタジアム環境の改善を図って観客増を狙いたいジェフユナイテッド市原との間の利害の一致があった。

以下については千葉市蘇我球技場(フクダ電子アリーナ)市原臨海競技場市原スポレクパークの項目も併せて参照されたい。

多くのサポーターは概ねこの発表に対して好意的に受け止めた。理由として臨海競技場の実情が、

  1. アクセスが非常に不便であり、JR内房線五井駅から徒歩30分かかる。試合日にはシャトルバスを運行しているが、帰りなどは渋滞に巻き込まれるとバスに乗る列に並び始めてから駅に着くまで40分以上もかかってしまう。又内房線の電車の本数も少ない。
  2. Jリーグ開幕当初はスタジアムでの観戦希望者に対し、スタジアムの収容人数が追いつかず、「チケットが取れない。」という事態を招き、さらにオフィシャルファンクラブでは自由席の無料招待券を配布した為、前売り段階で完売しているにも係らず無料招待券でスタジアムに観戦しようとするサポーターも多く、スタジアムに行っても試合を観戦出来ない、という事態が発生した。
  3. Jリーグ開幕から2年間は観客動員数も多かったが、スタジアムへ自動車で来るサポーターの為の駐車場が無く、仕方なく近隣の道路等へ違法駐車する車が目立ち、また違法駐車に対する警察の取り締まりも重なり、この取締りにより、観客離れを引き起こした。これに対し後日、近隣工場地帯や商業施設への協力を経て、臨時無料駐車場を設置、シャトルバスで臨時駐車場までの送迎も行なっていた。しかし工場地帯の臨時駐車場は、試合開始前はシャトルバスを運行するが、試合終了後のシャトルバスの運行は行なわれず、決して近いとは言いがたい駐車場まで徒歩で20分以上歩かなければならず、また商業施設の駐車場もバスに並ぶ列や帰りの車の渋滞により、駐車場まで辿り着くのに時間が掛かった。
  4. その後、より多くの観客動員数を見込み、スタジアムの客席を増設。しかしメインスタンド以外が鉄骨製であり、またバックスタンド後方に民家があるため大きなスタンドを作れない上に防音壁を立て、その分陸上用のアンツーカーの一部を立見席にした急ごしらえのスタンドで対応した事で、施設として大変貧弱であった。また、観客離れが起こりだしてからスタジアムの増設工事が完成した為、観客席を増設したにも拘らず観客席が埋まらない事態を引き起こした。

であったのに対して蘇我に「移転」した場合、

  1. 建設予定位置が駅から非常に近く、バスを使わなくても徒歩で移動できる。又京葉線外房線、内房線のターミナル駅となっており、電車の本数も大幅に増加する。又サポーターの分布が実情としてより人口の多い総武線、京葉線、京成千葉線にシフトしており大多数のサポーターにとって市原臨海よりもより近くにスタジアムが位置することになる。
  2. 蘇我に建設予定のスタジアムは球技専用であり、陸上競技場であった市原臨海よりも臨場感が増す。又新規にスタジアムを建設するため、スタジアムの環境も改善される。
  3. 駅から近いサッカー専用のスタジアムと言う事で観客増が大いに期待される。

ためであった。また、サポーターの中にはクラブの言うホームエリアの「拡大」では無く千葉市への事実上の「移転」であるととらえる向きも出始めた。

2002年の秋からは、スタジアムの概要をサポーターやクラブ、プレーヤー、県及び市協会、Jリーグからヒアリングするイレブン懇談会が始まり、千葉市へ向けられる期待は益々大きくなる事になった。更にこの年、千葉市もホームタウンへ加える広域化が承認され翌年からは市原市に加えて正式に千葉市もホームタウンに加わる事になった。

さらにクラブは2003年から「千葉」を加えた新クラブ名のあり方の検討を始めた。この年にサポーターを対象としたアンケートを実施し、その結果、2004年に次のシーズンから新クラブ名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」とするリリースを発表した。

一方、クラブの新名称が検討されるのに前後して、市原市はホームタウンの軸足が完全に千葉市にシフトされる事を懸念し始めた。市原市も2003年の春頃から市原臨海競技場のサイドスタンド及びバックスタンドの改修工事を検討し始め、そのプランも発表されたが、後にこのプランはバックスタンドのみに縮小された。市原臨海競技場の改修工事は2003年シーズンの終了直前から始められ、2004年シーズンの1stステージ中盤まで続けられた。しかしこのシーズンの開幕直前に新チーム名の呼称を「ジェフユナイテッド千葉」に変更する意向であることを市原市との事前協議の約束を反故にし、突如通告。 市原市・佐久間市長が緊急記者会見。クラブ側のやり方を批判し、クラブへ抗議文書を送付。 Jリーグ鈴木チェアマンを訪問し、呼称にも「市原・千葉」の併記を要望した。 市原市は態度を硬化。サポーターらは呼称を「ジェフユナイテッド市原・千葉」にするよう、2万人の署名を集めた。

結局、呼称問題についてはJリーグ側からの留保期間が設けられたものの、2004年5月18日に最終的にJリーグ理事会から承認され、新チーム名と呼称については2005年2月1日より使用が開始される事になった。改称後、マスコミ等による呼称に関しては市原市が危惧した通り、専ら「千葉」のみが使われる傾向にある。サポーターが唄う応援ソングの中にも「千葉」とコールするものがある。ホームタウンを構成する市原市と千葉市でもそれぞれで呼称の使い方が異なり、広報資料などでも市原市は「ジェフユナイテッド市原・千葉」の表記で統一しているのに対し、千葉市では「ジェフユナイテッド千葉」で統一している。

蘇我に建設されたフクダ電子アリーナについてであるが、当初クラブ側は市原臨海競技場とフクダ電子アリーナの双方を2005年からホームスタジアムとして併用していくとし、2005年のフクダ電子アリーナでのホームゲームの開催はスタジアムが完成し、芝の養生が終わった後の6試合程度にとどまるため、2005年シーズンに関して言えば実質的には市原臨海競技場がメインとなった。

クラブとしては2006年シーズン以後については、観客動員、収支などを検討した上で、どちらをメインのスタジアムにしていくか検討していくとして、2006年シーズンについては、市原臨海競技場改修のため、全試合をフクダ電子アリーナにて開催し、その後、市原臨海競技場は予定していた改修工事を行う予定であった。

しかし、当初の計画していた改修工事に関し、日本サッカー協会より今までより厳しい改修工事の以下の条件を提示された。

  • 観客席を2万人以上収容出来るようにし、席を全て一つずつに分けること(メインスタンド以外の席は、別れていない長いすのため)
  • 客席の2/3以上覆える屋根を設置すること。
  • 総座席数に対し、毎試合、観客席の8割以上の観客を動員すること

これに対し、市原市は「これ以上の財政支出は、市民の了解を得られない。」との結論に達し、予定されていたスタジアムの改修工事を断念。それに伴い、今後ジェフ千葉の試合は一切行われないこととなり、全ての試合をフクダ電子アリーナにて行なうこととなった。今後市原臨海競技場は、現在の仮設の観客席を撤去し芝生席に改修を行った後、主にサッカー、陸上等の予選大会等を行っていく方針を決定した。

一方ソフト面における改革も徐々に始められ、2000年にクラブハウス、練習場が市原市へ移転した後も浦安市ではジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース舞浜)及び舞浜スクールが活動を続けていたが、2005年に舞浜のクラブ機能は全て閉鎖された。舞浜に代って2005年からは習志野市茜浜地区に新たに練習場が確保され、ジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース習志野)、習志野スクール及びレディースチームが活動している。

[編集] 戦績

2005年ヤマザキナビスコカップ優勝。選手がゴール裏のサポーターに挨拶する。
2005年ヤマザキナビスコカップ優勝。選手がゴール裏のサポーターに挨拶する。

[編集] 1993年から2000年

クラブ発足当初は古河色を色濃く残しており、監督に古河OBの永井良和を、コーチにこれも古河OBの岡田武史を充てていた。但し、外国人選手にヨーロッパ出身者を当てる伝統は既にこの頃から始まっており、元ドイツ代表ピエール・リトバルスキーチェコ出身のパベル・ジェハークを迎え彼ら中心のチーム編成を行っていた。ちなみにJリーグ開幕からこれまでにヨーロッパを中心に、20カ国以上にも及ぶ国籍の選手が在籍しており、これはJリーグのチームで最多である。ヨーロッパだけでなく南米出身の選手やアジアアフリカオセアニア出身の選手も所属していたことがある。

その後、清雲栄純奥寺康彦と続けて古河OBを監督に充てていたが、ゼネラルマネージャー祖母井秀隆が就任した1997年シーズンのヤン・フェルシュライエン以降、一貫してヨーロッパの出身の監督を起用する事となった。

1998年-2000年シーズンにはJ1残留争いを展開した。特に残留争い3年目となった2000年のシーズンオフ直前にはサポーターが市原臨海競技場を占拠してクラブを激しく糾弾。当時監督であったズデンコ・ベルデニックとチーム統括部長の祖母井の辞任を求める騒ぎとなった。

[編集] 2001年から2005年

2001年シーズン開幕前には現役韓国代表FW崔龍洙が加入。1stステージで2位となり、下馬評を大きく覆して見せ、この年から始まったtotoと共に、大きな注目を集めた。しかしそれでも観客動員は大きな回復を見せなかったため、クラブ首脳部も驚きを隠せず、これが翌年から始まる抜本的な改革の契機となった。

2002年は調子を落としたものの、1stステージは8位、2ndステージは11位で終え、「万年降格争い」と言われた時代を脱却した。

常に優勝争いに加わるため、祖母井チーム統括部長は1990年イタリアW杯でユーゴスラビア代表監督を務めたイビチャ・オシムを監督に招聘。「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードにチーム強化を図っていった。また同時にユース出身で当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに指名。改革はチームの意識変化にまで及んだ。オシム監督は就任1年目に1stステージ3位、2ndステージ2位という結果を残し、優勝争いに加わるチームに成長させた。

その後、2003年オフには中西永輔や崔龍洙、2004年オフには茶野隆行村井慎二というチームのレギュラーが次々退団していったものの、順位を落とすことなく上位争いに加わっていった。

2005年には念願のナビスコ杯で優勝し、Jリーグ創設からチーム初のタイトルを手中にした。リーグにおいても、最終節までもつれた優勝争いに加わる健闘をみせた。

[編集] 2006年から現在

2006年には巻誠一郎が日本代表選手として、ドイツW杯出場を果たす。しかし、ドイツW杯終了後にオシム監督が日本代表監督に引き抜かれるという事態に。無条件で監督を引き渡したクラブには批判も多く届いた(この際、「クラブとJFAが取り合うことで、最悪の結果、オシムが日本を去る事だけは避けたい」とした旨がフロント陣から発表された)。後任にはオシム監督の息子であるアマル・オシムが就任(コーチから昇格)し、見事ナビスコ杯を連覇する。 そして羽生直剛佐藤勇人山岸智ら、いわゆる「オシムチルドレン」が代表に選ばれ、(恩師オシムが監督とは言え)それぞれ代表デビューを飾った。
しかしアマル監督が就任してからはナビスコ杯優勝以外ふるわず、リーグ戦では成績がパッとせぬままシーズンを11位で終了。さらには天皇杯でJ2の札幌に初戦で敗れる失態も見せる。10月には祖母井部長がフランス2部・グルノーブルへ引き抜かれ、シーズン終了後には、チームの顔である主将の阿部勇樹が浦和に移籍。また、選手会長の坂本將貴新潟へ移籍した。フロントは祖母井の後任統括本部長の選任にも後手に回り、唐井直の就任が発表されたのは、選手との契約更改交渉がスタートした後であった。

2007年に入っても巻・佐藤・山岸がチームの今季の方針説明を理由に契約を保留するなど大荒れな年の始まりとなった。シーズン開幕後もチーム成績は混乱を極め、Jリーグ開幕2連敗・4戦未勝利。第5節の横浜FC戦でシーズン初勝利をあげるも、第8節から第14節には7戦未勝利(3分4連敗)がひびき、前半戦は降格ラインでの争いを演じた。さらに、シーズン途中である6月にはイリアン・ストヤノフが一部のメディアで監督批判を行い、謹慎処分の後に契約解除されている。後半戦では、代表で経験を積んだ青木水野水本など若手の成長もあり、第23節から第28節にかけて、クラブ史上初となる6連勝を記録し降格圏内から脱出こそした。しかし、その後は勝ち星をあげることはできず、最終節では名古屋に0-2で敗れ、シーズン序盤の二の舞を演じ、結局、順位は年間13位、最高でも10位と2桁台にとどまった。また、史上初の3連覇をかけて望んだナビスコ杯では、当初3連勝を飾るもガンバ大阪に敗戦以降は3連敗を喫し、グループリーグ3位で早々に姿を消す。天皇杯でも、リーグ無敗の大分を相手に破れて4回戦敗退と、2007年は低迷を極めた。また、シーズン終了後にアマル監督を解任、さらには唐井統括本部長も解任され、後任の監督・GM候補が二転三転するなど、不穏なシーズンとなった。

2008年1月、後任監督としてヨジップ・クゼ、GMに昼田宗昭が就任。また、かつての選手会長であった坂本がチームに復帰した。一方で北京五輪代表候補の水野晃樹がスコットランドの名門セルティックへ移籍、羽生直剛山岸智佐藤勇人水本裕貴も他クラブへ移籍し、大幅な戦力ダウンで2008年シーズンを迎えることとなった。4月に、オシム流から脱却を訴えていた淀川隆博が任期満了で社長を退任した。

2008年シーズン開幕前のサッカーマガジンによると、「ジェフは(前身の)古河と同様、数年に一度勢いづいて優勝争いに参加するクラブ」とOB選手たちから評されており、「残留できれば上出来」という下馬評だった。その下馬評通り、開幕11試合を終えて未勝利のまま9敗2分で最下位となると、その責任を取りクゼ監督は解任、新たにイングランドプレミアリーグリヴァプールFCのコーチングスタッフとしてラファエル・ベニテス監督を補佐していたアレックス・ミラーが監督に就任。ミラー監督が来日した5月10日の京都戦にホームで1-0で勝利し、開幕12試合目にしてシーズン初勝利を挙げた(なお、ミラー監督は登録が間に合わず、指揮は澤入重雄コーチが代行)。

[編集] 成績の一覧

リーグ順位 勝点 得点 失点 ナビスコ杯成績 天皇杯成績 監督
92 なし なし なし なし なし なし なし グループリーグ敗退 準々決勝敗退 永井良和
93 S-5位
N-9位
- S-9
N-5
S-9
N-13
- S-28
N-25
S-28
N-44
グループリーグ敗退 準々決勝敗退 永井良和
94 S-6位
N-9位
- S-10
N-9
S-12
N-13
- S-34
N-35
S-43
N-52
2回戦敗退 2回戦敗退 清雲栄純
95 S-6位
N-7位
S-45
N-43
S-14
N-14
S-12
N-12
- S-48
N-49
S-40
N-51
なし 初戦敗退 清雲栄純
96 9位 40 13 17 - 45 47 グループリーグ敗退 3回戦敗退 奥寺康彦
97 1-15位
2-14位
1-15
2-15
1-5
2-6
1-11
2-10
- 1-21
2-22
1-34
2-35
準々決勝敗退 4回戦敗退 ヤン・フェルシュライエン
98 1-11位
2-18位
1-21
2-4
1-7
2-2
1-10
2-15
- 1-31
2-18
1-31
2-44
準優勝 3回戦敗退 ヤン・フェルシュライエン
99 1-15位
2-11位
1-12
2-16
1-4
1-6
1-9
2-9
1-2
2-0
1-19
2-22
1-34
2-22
2回戦敗退 3回戦敗退 1st:ゲルト・エンゲルス
2nd:ニコラエ・ザムフィール
00 1-11位
2-16位
1-19
2-9
1-6
2-3
1-8
2-11
1-1
2-1
1-22
2-15
1-22
2-27
2回戦敗退 準々決勝敗退 -2・8:ニコラエ・ザムフィール
2・9,10:神戸清雄
2・11-:ズデンコ・ベルデニック
01 1-2位
2-5位
1-27
2-23
1-10
2-7
1-5
2-6
1-0
2-2
1-35
2-25
1-26
2-28
準々決勝敗退 準々決勝敗退 ズデンコ・ベルデニック
天皇杯:神戸清雄
02 1-8位
2-11位
1-23
2-18
1-7
2-6
1-5
2-9
1-3
2-0
1-22
2-16
1-23
2-19
準々決勝敗退 準決勝敗退 ジョゼフ・ベングロシュ
03 1-3位
2-2位
1-27
2-26
1-8
2-7
1-4
2-3
1-3
2-5
1-34
2-24
1-17
2-18
グループリーグ敗退 準々決勝敗退 イビチャ・オシム
04 1-7位
2-2位
1-22
2-28
1-5
2-8
1-3
2-3
1-7
2-4
1-28
2-27
1-23
2-22
グループリーグ敗退 4回戦敗退 イビチャ・オシム
05 4位 59 16 7 11 56 42 優勝 5回戦敗退 イビチャ・オシム
06 11位 44 13 16 5 57 58 優勝 4回戦敗退 -12節:イビチャ・オシム
13節-:アマル・オシム
07 13位 42 12 16 6 51 56 グループリーグ敗退 4回戦敗退 アマル・オシム

[編集] 獲得タイトル

[編集] 獲得タイトル(個人タイトル)

得点王

ベストイレブン

フェアプレー個人賞

ナビスコカップ

[編集] 公式戦対戦通算成績

[編集] 対戦通算成績と得失点

  • 「対戦通算成績と得失点」については、当サイトの「対戦成績」の項を参照。

[編集] 主な記録 

[編集] クラブ記録

連勝

J1

  • 6連勝【2007年 第23節 対大分トリニータ(フクダ電子) - 第28節 対ヴァンフォーレ甲府(小瀬スポーツ公園陸上競技場)】
ホームスタジアム無敗

J1

  • リーグ戦 31試合【2003年 1st第4節(4月26日)対横浜F・マリノス - 2005年 第18節 対川崎フロンターレ】
リーグ戦 連敗

J1

  • 7連敗
【1993年 N 第12節 対ヴェルディ川崎(宮城) - 第18節 対名古屋グランパスエイト(瑞穂)】
【2008年 第5節 対 鹿島(カシマ) - 第11節 対浦和レッドダイヤモンズ(埼玉)】
リーグ戦 未勝利

J1

  • 17試合【2007年 第29節 対浦和レッドダイヤモンズ(フクアリ) - 第11節 対浦和レッドダイヤモンズ(埼玉)】
リーグ戦 開幕未勝利

J1

  • 11節【2008年 第1節 対ガンバ大阪(万博) - 第11節 対浦和レッドダイヤモンズ(埼玉)】
もっとも遅いシーズン初勝利
  • 5月10日 【J1 2008年 第12節 対京都サンガF.C.戦(フクアリ)】
※ 前身の古河時代を含めても遅い。
最多得点試合

J1

  • 6得点【2007年 第23節 対大分トリニータ(フクダ電子)- 得点者:佐藤勇人、山岸智、水野晃樹[2]、工藤浩平、青木孝太】
最多失点試合

J1

  • 6失点【1993年 ニコスシリーズ第18節 対名古屋グランパスエイト(瑞穂)】
得点差

J1

  • 勝利 - 6点差(6-0)【2007年 第23節 対大分トリニータ(フクダ電子)】
  • 敗北 - 6点差(0-6)【1993年 N 第18節 対名古屋グランパスエイト(瑞穂)】
国内トップリーグ所属
  • 通産:43シーズン連続
日本サッカーリーグ:27季連続(前身・古河電気工業時代)
Jリーグ(J1):16季連続(ジェフユナイテッド市原・千葉)

[編集] 個人記録

ハットトリック
  • パベル 【1993年1st 第12節(6月23日)対 浦和レッズ】
  • オッツェ 【1994年2st 第1節(8月10日)対 ガンバ大阪】
  • 新村泰彦 【1995年1st 第24節(7月15日)対 ガンバ大阪】
  • ルーファー 【1995年2st 第17節(10月18日)対 横浜フリューゲルス】
  • ルーファー 【1995年2st 第20節(11月4日)対 サンフレッチェ広島】
  • バロン 【2000年1st 第1節(3月11日)対 京都パープルサンガ】
  • 崔龍洙 【2003年1st 第5節(4月26日)対 横浜Fマリノス】
  • 崔龍洙 【2003年1st 第6節(4月29日)対 京都パープルサンガ】
  • 阿部勇樹 【2006年J1 第27節(10月14日)対 鹿島アントラーズ】

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st)
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
GK(3rd)
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 2nd
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 2nd
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 3rd

[編集] チームカラー

  • チームカラーは黄色、緑色、赤色の3色(ラスタカラー)
    • 黄色は千葉県の県花である菜の花、緑色はJR東日本の、赤は古河電工のコーポレートカラーからきている。
  • 2005年シーズンからユニフォームには新たに紺色を使用。
    • 紺色については「千葉市、市原市が面している海(東京湾)の色」「市原市の旗の色が群青色」「千葉市のコミュニケーションマークのカラーが青」ということで採用した。

[編集] ユニフォームスポンサー

[編集] 過去のユニフォームスポンサー

[編集] ユニフォームサプライの遍歴

  • 1992-1996年 - リーグ戦はミズノ、カップ戦はアシックス
  • 1997年-2006年 - リーグ戦・カップ戦ともにミズノに統一
  • 2007年- - カッパ

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背番号 パンツ サプライヤー
1992年 SEGA Pentel - - asics
1993年 SEGA Pentel JR EAST FURUKAWA - Mizuno/asics
1994年 SEGA Pentel JR EAST FURUKAWA - Mizuno/asics
1995年 SEGA びゅう JR EAST FURUKAWA - Mizuno/asics
1996年 SEGA 0088(日本テレコム) JR EAST FURUKAWA - Mizuno/asics
1997年 J-PHONE 0088(日本テレコム) JR EAST FURUKAWA - Mizuno
1998年 JR東日本 古河/古河電工不動産 古河電工 - Mizuno
1999年 JR東日本 古河 古河電工 - Mizuno
2000年 JR東日本 J-PHONE 古河電工 - Mizuno
2001年 古河電工 - JR東日本 - Mizuno
2002年 古河電工/オートウェーブ 古河電工 JR東日本 - Mizuno
2003年 オートウェーブ JR東日本 古河電工 - Mizuno
2004年 オートウェーブ JR東日本 古河電工 - Mizuno
2005年 オートウェーブ 古河電工 JR東日本 - Mizuno
2006年 オートウェーブ 君津住宅 Sammy QBハウス Mizuno
2007年 富士電機 君津住宅 Sammy - Kappa
2008年 富士電機 君津住宅 - -/Sammy Kappa

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク