ジェフユナイテッド市原・千葉
| ジェフユナイテッド市原・千葉 | |
|---|---|
| 原語表記 | ジェフユナイテッド市原・千葉 |
| 呼称 | ジェフユナイテッド千葉 |
| 愛称 | ジェフユナイテッド、ジェフ |
| クラブカラー | 黄、 緑、 赤 |
| 創設年 | 1946年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| 所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン2 |
| ホームタウン | 千葉県市原市、千葉市 |
| ホームスタジアム | フクダ電子アリーナ |
| 収容人数 | 19,781 |
| 運営法人 | ジェフユナイテッド株式会社 |
| 代表者 | 島田亮 |
| 監督 | |
| 公式サイト | 公式サイト |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF United Ichihara Chiba)は、日本の千葉県市原市および千葉市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」、「千葉」である。旧呼称は、「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」。
目次 |
[編集] 概要
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 本社所在地 |
〒260-0835 |
| 設立 | 1991年6月11日 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | サッカークラブの運営 |
| 代表者 | 島田亮 |
| 資本金 | 4億9,000万円 |
| 売上高 | 23億0,600万円(2011年1月期) |
| 営業利益 | ▲3億1,600万円(2011年1月期) |
| 純利益 | ▲3億1,200万円(2011年1月期) |
| 純資産 | 2億5,900万円(2011年1月期) |
| 総資産 | 14億8,300万円(2011年1月期) |
| 決算期 | 1月期 |
| 主要株主 | 古河電気工業 50% 東日本旅客鉄道 50% |
| 特記事項:創設時の社名は「株式会社東日本ジェイアール(JR)古河サッカークラブ」。2009年10月1日付を持って現社名。またチーム事務所は当初浦安市→市原市にあった。 | |
1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年から千葉市が加わった。ホームスタジアムはリーグ開幕時から2005年シーズン途中まで市原緑地運動公園臨海競技場、2005年シーズンの途中からフクダ電子アリーナに代わった。練習場は2000年から市原市の姉崎公園サッカー場(フットパーク・あねさき)を使用していたが、2009年10月よりフクダ電子アリーナに隣接するユナイテッドパークに移動した。またクラブハウスも同地に新築している。
[編集] 組織
クラブの運営会社はジェフユナイテッド株式会社(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブより2009年10月1日改名[1])。東日本旅客鉄道(JR東日本)と古河電気工業(古河電工)が50%ずつ出資(資本金:4.9億円)[2]。なお、2008年までは1億円であったが、2009年秋に完成予定のクラブハウス建設費調達などの関係から、2009年に増額された[3]。
クラブ名のJEFは、クラブの母体となったJR East(=JR東日本) Furukawa(=古河)の略称からとられ、UNITED(ユナイテッド=結束した)はクラブとホームタウンの結びつき、結束力を示し、2005年から千葉市を含めた地域との結びつきも含むようになった。1991年に公募により決定される。[4]
マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。ちなみに両マスコットの背番号は足すと11で、1つのチームを示すものである。2011年9月には雌のミックス犬「みなちゃん」がマスコットに加わった(背番号は12)。
チームスローガンは2001年以来「WIN BY ALL!」。ほとんどのクラブが1年ごとにチームスローガンを設定し直す中、このスローガンを使用し続けている。 「WIN BY ALL!」は、千葉テレビ放送で放送中の応援番組のタイトルでもある。
ジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にあったが、2010年より統合された、その代わり前述の2か所のほか千葉市、浦安市でサッカースクールを運営している。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市、青森県八戸市にサッカースクールを所有している。また宮城県名取市の東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心とし、JR東日本沿線の東北、関東、甲信越の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである。実際、秋田、仙台、山形、新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある。またスクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。また千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。
下部・関連組織として、女子チームのジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。
かつてアマチュアチームとして「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」があった。このチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフの普及部付けとして改組したもので、2003年からはクラブの名称を冠して「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っていた。2005年に関東サッカーリーグ1部で準優勝、更に全国地域リーグ決勝大会で準優勝し日本フットボールリーグ(JFL)へ昇格したが、2011年を以て廃部となった。
[編集] 特色
クラブ発足当初は古河色を色濃く残しており、監督に古河OBの永井良和を、コーチにも古河OBの岡田武史を充てていた。ただし、外国人選手にヨーロッパ出身者を当てる伝統は既にこの頃から始まっており、元ドイツ代表ピエール・リトバルスキー、チェコ出身のパベル・ジェハークを迎え彼ら中心のチーム編成を行っていた。
Jリーグ開幕から今までヨーロッパを中心に、20カ国以上にも及ぶ国籍の選手が在籍しており、これはJリーグ加盟チームで最多である。ヨーロッパだけでなく南米やアジア・アフリカ・オセアニア出身の選手も所属していたことがある。
その後も監督には清雲栄純、奥寺康彦と続けて古河OBを監督に充てていたが、ゼネラルマネージャーに祖母井秀隆が就任した1997年シーズンのヤン・フェルシュライエンから2009年シーズン中のアレックス・ミラーまで、12年にわたってヨーロッパ出身の監督を起用してきた。
JR東日本がスポンサーであるため、JR東日本管轄地域でのアウェーゲームにおいて、団体臨時列車「ジェフ千葉応援号」を運行することがある。これは往復の指定席乗車券と観戦チケットをセットとした旅行商品として販売される。
[編集] 歴史
[編集] 1993年まで(前身時代)
詳細は「古河電気工業サッカー部」を参照
前身は1946年に設立された古河電気工業サッカー部。1965年の日本サッカーリーグ(JSL)に発足時から参加。日本リーグ時代は三菱重工(現:浦和レッズ)や日立(現:柏レイソル)とともに丸の内御三家と言われ、JSL優勝2回、天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝4回、JSLカップ優勝3回の成績を収める。また、1986年/1987年にはアジアクラブ選手権で日本のクラブとしては初めてとなるアジアタイトルを獲得した。
プロリーグ発足に関しては、古河電気工業と東日本旅客鉄道が合弁してクラブチームに移行し「東日本JR古河FC」となった。
- プロクラブ化に関しての曲折は古河電気工業サッカー部、また、ジェフユナイテッドの誕生に尽力した小倉純二の項目も参照のこと。
当初は当時、古河電気工業サッカー部が活動本拠地としていた横浜市をホームタウンとすることを企画していたが、早々に横浜フリューゲルス及び横浜マリノスが横浜市をホームタウンとすることを決定したため、新たなホームタウン探しが始まった。
まず千葉市にかけあったが断られたため、JR東日本の関係から仙台市に話を持っていったがまた断られた[5]。そして、習志野市を本拠地にすることを計画し、ホームスタジアムは習志野市秋津公園サッカー場を予定していた。そのためホームタウンが決定する以前の1991年からクラブ事務所と練習場は、距離的にも習志野市に近く、古河電工の事業所が置かれていた浦安市舞浜地区に置いていた。ところが秋津サッカー場周辺の住民が騒音の問題などを危惧してホームタウンとすることに反対したため、習志野市議会の同意を得る事が不可能となり、ホームタウン探しは振り出しに戻った。
千葉県下において次の候補地となったのが同じく古河電工の事業所が設置されており、古河電工の社宅など関連施設が多く存在していた市原市である。市原市議会からの賛同を得て、正式にホームタウンとしてJリーグに登録できたのは締め切り直前の1992年5月だった。ホームスタジアムはそれまで市営の陸上競技場としてこじんまりと使用されていた市原臨海競技場を突貫工事で改修して使用することになった。
なお、1992年のJリーグカップでは千葉県内での主催は1試合も無く、群馬県の太田市陸上競技場、平塚競技場、及び国立西が丘サッカー場(東京都北区 西が丘のみ2試合)で開催された。
[編集] 1993年 - 2009年(J1)
[編集] 1993年 - 1997年
Jリーグが開幕した1993年から1995年の3年間は営業面においてクラブの絶頂期だった。特に1993年は観客動員においてヴェルディ川崎に続く2位。1994年はV川崎とガンバ大阪に続く3位だった。また、この2年間は平均観客動員が2万人を超えていたが、これは国立霞ヶ丘陸上競技場で主催試合を多く取ったためで、地元・市原臨海競技場でのホームゲーム開催数は少なかった。
成績面では、1997年までリーグ順位は中位から下位、カップ戦もグループリーグ敗退、初戦敗退と振るわなかった。特に天皇杯では、1993年から4年連続で初戦敗退を喫した。1995年はブランメル仙台、1996年は富士通川崎フットボールクラブと2年連続でJFL勢に敗れ、プロ移行後の天皇杯初勝利は、1997年の対コンサドーレ札幌戦であった。
しかし、選手の個人成績では1994年の得点王・フランク・オルデネビッツ(オッツェ)や、城彰二、中西永輔など活躍をみせた。また、市原ユースから多くのJリーグ選手を輩出しており、スカウティングや育成面では良好だった。
1996年から観客動員が減少、1997年には総観客動員、平均観客動員がJリーグで最下位になった。以降この位置が常態化し、1997年以降2005年に至るまでの9年のあいだ、年間観客動員がJ1リーグ最下位を記録していた。
この期間、クラブと市原市も少しずつではあるが、地域に密着して行こうとする努力を始めた。当時クラブ事務所と練習場は、ホームタウンを市原市に変更して以降も浦安市に置かれていたが、地理的にかなりの距離がある事から、クラブの中枢機能とホームタウンである市原市の連絡体制が不十分だった。また練習場と試合会場が離れていたため、選手・スタッフの多くが浦安市周辺に住んでおり、試合をするためだけに「市原市に来ていた」状態が続いていた。この状態を改善するため、2000年からはホームタウンである市原市にある「フットパーク・あねさき(姉崎公園サッカー場)」にクラブ中枢機能及び練習場を移し、名実ともに市原市のクラブとしての機能を高めるようになった。
[編集] 1998年 - 2002年
1998年、ワールドカップが開催される影響から過密日程の中、1stステージを11位で終える。2ndステージでは、1stで勝ち点21を積み上げたのに対し、勝ち点わずか4の最下位。このため、年間16位となり、翌年からJリーグが2部制を導入することに伴い、J1参入決定戦に参加した。アビスパ福岡と対戦して、第1戦はアウェイながらも2-0と勝利を収め、続く第2戦も2-1と競り勝ち、2戦2勝合計スコア4-1で残留を決めた。
1999年は1stステージを降格圏の15位で終え、前年に続き残留争いをすることに。しかし、2ndステージで粘りをみせ、負ければその場で降格という中、最終節に残留の可能性を残した。それでも、勝っても他のクラブの結果次第(残留の条件:90分以内で勝利し、福岡が負けるか、浦和が90分以内で勝たないこと)という状況下、アウェイでG大阪を相手に1-0と90分以内で競り勝ち、他会場の結果を待つ。他会場では福岡が敗戦、浦和は延長戦で勝利する。この結果、ジェフを含め3チームが同じ勝ち点で並んだが得失点差でジェフは他チームを上回ったため、最終節で降格圏を脱出、年間13位で降格を回避した(1999年J1最終節)。
2000年、1stステージを11位で終えたが、2ndステージで敗戦を重ねて最下位になり、3年連続で残留争いを繰り広げることに。1勝(勝ち点3)差で、15位の京都パープルサンガを上回り、年間14位で残留した。
しかし、3年連続で降格の危機に面したことに対して、サポーターがクラブの姿勢を激しく糾弾。2000年シーズン終了直前の12月7日には、サポーターが市原臨海競技場を占拠して、当時監督のズデンコ・ベルデニックとチーム統括部長の祖母井秀隆の辞任を求める騒ぎとなった。クラブは成績向上を模索してサポーターと話し合いの場を設ける事に同意し、後日姉崎公園サッカー場のクラブハウス前で執り行われたサポーターミーティングが行われる事になった。これが後のサポーター・コミュニケーション・デーの元となった。
2001年は、当時韓国代表のFW崔龍洙が加入。1stステージで2位となり、下馬評を大きく覆した。それでも観客動員は大きな回復を見せず、これが翌年から始まる抜本的な改革の契機となった。
2002年は1stステージを8位、2ndステージを11位で終え、「万年残留争い」と言われた時代を脱却した。また、天皇杯でベスト4へ進出した。
[編集] 2003年
ユーゴスラビア代表元監督のイビチャ・オシムを監督に招聘。「賢く走る」、「危険を冒すサッカー」をキーワードにチーム強化を図っていった。また同時にユース出身で当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに指名。改革はチームの意識変化にまで及んだ。
オシムの監督就任1年目の2003年は1stステージ3位、2ndステージ2位、年間総合3位という結果を残し、優勝争いに加わるチームに成長させた。特に、2003年の2ndステージはステージ優勝を逃したものの、優勝した横浜F・マリノスとは勝ち点で並んでの2位だった。
[編集] 2004年
1stステージでは勝ちきれず引き分けを重ね、中位に後退。2ndステージでは、首位を独走する浦和レッドダイヤモンズを猛追するも優勝までは届かず、前年に続き2ndステージ2位。
なお、この頃からオフシーズンに主力選手の引き抜きに遭うことになる。2003年オフには中西永輔や崔龍洙、2004年オフには茶野隆行や村井慎二といったレギュラーが次々に退団していったものの、順位を落とすことなく上位争いに加わったが、主力選手の流出は2008年オフまで続くことになる。
[編集] 2005年
1シーズン制となったリーグ戦において、序盤は出遅れるも混戦となった中盤から徐々に追い上げ、最終節までもつれた優勝争いに加わる健闘をみせた。また、リーグ年間総合成績もオシム就任以来3年連続4位、この年の勝ち点59は2008年までにおいて過去最高記録である。また、ナビスコ杯で優勝し、Jリーグ創設からチーム初となる念願のタイトルを手に入れた。
なお、2003年の1stステージ第5節の横浜FM戦以降、2005年までおよそ3年間、ホームスタジアムである市原臨海競技場(当時)での試合に負けることはなかった。リーグ戦では2005年の第20節でセレッソ大阪に敗れるまで31試合無敗。また、カップ戦含めた公式戦はナビスコ杯のGL第2節で柏レイソルに敗れるまで26試合無敗を記録した。
[編集] 2006年
前年の初タイトル獲得、キャプテンの阿部勇樹をはじめ成長した生え抜き選手、浸透した戦術・プレースタイルを以って、Jリーグ制覇に向けて動き出したこの年、チームの柱となったFWの巻誠一郎が日本代表に選出され、ドイツ・ワールドカップ出場を果たす。しかし、ドイツW杯終了後にオシムが日本代表監督として日本サッカー協会(JFA)に引き抜かれるという事態に。無条件で監督を引き渡したクラブに選手・サポーターなど内外から多くの批判が届いた。この際、「クラブとJFAが取り合うことで、最悪の結果、オシムが日本を去る事だけは避けたい」とした旨がフロント陣から発表された。後任にはオシム監督の息子であるアマル・オシムがコーチから昇格して就任した。そして、羽生直剛、佐藤勇人、山岸智ら、いわゆる「オシムチルドレン」が代表に選ばれ、それぞれ代表デビューを飾った。
しかし、チームでは環境は一変。アマルが就任してからは、連覇を達成したナビスコ杯以外振るわず、リーグ戦も11位で終了。天皇杯では、J2の札幌に初戦で敗れた。10月には祖母井部長がフランスのグルノーブルへ引き抜かれ、シーズン終了後には、チームの顔でキャプテンの阿部勇樹が浦和に移籍。また、選手会長の坂本將貴も新潟へ移籍した。フロントは祖母井の後任統括本部長の選任にも後手に回り、唐井直の就任が発表されたのは、選手との契約更改交渉が始まった後だった。
[編集] 2007年
2007年に入っても巻・佐藤・山岸がチームの今季の方針説明を理由に契約を保留するなど大荒れな年の始まりとなった。シーズン開幕後のチームは調子が上がらず、Jリーグ開幕2連敗・4戦未勝利。第5節の横浜FC戦でシーズン初勝利をあげるも、第8節から第14節には7戦未勝利(3分4連敗)が響き、前半戦は降格ラインでの争いを演じた。更に、シーズン途中である6月にはイリアン・ストヤノフが一部のメディアで監督批判を行い、謹慎処分の後に契約解除された。後半戦では、代表で経験を積んだ青木孝太、水野晃樹、水本裕貴など若手の成長もあり、第23節から第28節にかけて、クラブ史上初となる6連勝を記録し、降格圏内からは脱出こそした。しかし、その後は勝ち星をあげることはできず、最終節では名古屋に0-2で敗れ、シーズン序盤の二の舞を演じ、結局、順位は年間13位、最高でも10位と2桁台にとどまった。また、史上初の3連覇をかけて臨んだナビスコ杯では、当初3連勝を飾るも4節のG大阪戦から3連敗を喫し、グループリーグ3位に転落、早々に姿を消す。天皇杯でも、リーグ無敗の大分を相手に破れて4回戦(初戦)敗退した。シーズン終了後にアマル監督を解任、また唐井統括本部長も解任された。
[編集] 2008年
2008年は年が明けてもJ1では唯一、監督・GMともに未決定だったため、クラブへの不信感による主力選手の移籍報道が紙面を賑わせた。1月12日に、ようやく後任監督としてヨジップ・クゼの就任を発表。GMには昼田宗昭が就任。また、かつての選手会長だった坂本が新潟から復帰するなど、混乱は沈静化するに見えた。しかし、この報道と同時期に北京五輪代表候補の水野晃樹がスコットランドの名門セルティック・グラスゴーへの移籍が決定的と報道された。更に羽生直剛・山岸智・佐藤勇人・水本裕貴の他クラブへの移籍も決定し、大幅な戦力ダウンで開幕を迎えることとなった。また4月には、淀川隆博社長が任期満了で退任することが発表された。
2008年シーズン開幕前の「サッカーマガジン」によると、「ジェフは(前身の)古河と同様、数年に一度勢いづいて優勝争いに参加するクラブ」とOB選手たちから評されており、「残留できれば上出来」という下馬評だった。その下馬評通り、開幕11試合を終えても未勝利・かつ5節からは15年ぶりの7連敗を喫するなど9敗2分(勝ち点2)で最下位に定着。その責任を取りクゼ監督は解任、新たにイングランド・プレミアリーグのリヴァプールFCから招聘したアレックス・ミラーが監督に就任。ミラー監督が来日した5月10日の京都戦にホームで1-0で勝利し、開幕12試合目にしてシーズン初勝利を挙げた。なお、ミラー監督は登録が間に合わず、指揮は澤入重雄コーチが代行した。
リーグ戦中断期間にミラー監督体制が本格稼動。広島からMF戸田和幸、鹿島からFW深井正樹が加入するとチーム状態が回復し、勝ち点を重ねるようになった。特に9月14日の東京ヴェルディ戦を皮きりに上位相手に5連勝など快進撃を続け、最下位を脱出。しかし、混戦となった優勝及び残留争いの激しさからリーグ終盤に失速し連敗。これにより自力での残留の可能性が消滅し、勝っても降格という状況に追い込まれた(1999年と類似した状況)。なお、第33節の清水戦で敗戦した際には、巻をはじめ多くの選手が「降格」を覚悟したが、他会場の結果により最終節に望みをつないだ。
12月6日、ホームで迎えた最終節・対FC東京戦では0-2と先行され苦しい状況は一層深刻さを増すが、谷澤達也と新居辰基が途中投入されると、後半29分すぎからのわずか11分間に4得点[6]を挙げ、結果4-2と劇的な逆転勝利を収めた[7]。16位だった東京Vはホームで0-2で川崎フロンターレに、15位だったジュビロ磐田もホームで大宮アルディージャに0-1で両方とも敗れたため、磐田は16位、東京Vが17位になり、ジェフは年間15位で逆転残留が決定した(2008年J1最終節)。
[編集] 2009年
- クラブスローガン :「YELLOW TOP 2009」
J1残留の立役者、ミラー監督の続投が正式に発表され、深井も鹿島から完全移籍で獲得し、他チームへの移籍も噂された巻も残留。新戦力として、柏からアレックスを、清水から和田拓三を完全移籍で獲得。鹿島から中後雅喜を、大分から福元洋平を期限付き移籍で獲得するなど、前年とは違い積極的な補強を行ったが、登録選手数はJ1最少だった[8]。
クラブ事務所・練習所も市原市から千葉市に完全集約され、前述通り法人名を「東日本JR古河サッカークラブ」からチーム名と同じ「ジェフユナイテッド」に変更された。
リーグ戦開幕後、勝ち切れない試合が多く、また前述の選手層の薄さと怪我人の続出でベンチメンバーさえ不足したことも。そのため、ブラジルのECヴィトーリアからFWネット・バイアーノ、柏レイソルから太田圭輔をシーズン途中に獲得した。
7月27日に成績不振を理由にミラー監督を解任。後任には生え抜きの江尻篤彦が就任するとともに、コーチ陣が一新された。
しかし、守備が少しずつ改善した半面、攻撃が巻頼みで、期待のFWネットバイアーノも、プレースタイルが巻と重複するという理由でレギュラー起用にはならず、得点力が低下。その後も成績不振が続き、ついに11月8日の川崎戦で敗れてJ2降格が決定し、前身の日本サッカーリーグ時代を含めて初となる2部リーグ降格となった。さらに、リーグ戦では、1度も負けたことがなかった、大分トリニータに敗れた。
なお、11月28日に柏がJ2降格となったため、千葉勢はJリーグ創設18年で初めてJ1から姿を消すことになった。同一都道府県のチームが2チーム降格するのはJリーグ史上初である。また、ジェフの降格をもって、丸の内御三家は全てJ2降格を経験することとなった。
[編集] 2010年 - (J2)
[編集] 2010年
- クラブスローガン :「走りきる!そして、その先へ。」
チーム創立初めて、J2で戦うことになり、去就が注目された江尻の監督続投が正式に決まる。長年ジェフのDFラインを支えた斎藤大輔の引退の他、主将だったMF下村東美、守備の要であったエディ・ボスナーなど、数名が退団するものの、かつて市原時代にチームの主力として活躍したジュビロ磐田のMF村井慎二、DF茶野隆行、京都サンガF.C.のFW林丈統、MF佐藤勇人の4人と、2009年6月からファジアーノ岡山に期限付き移籍していたFW青木孝太の5選手がそれぞれ復帰を発表した。
その他、大分からの期限付きで加入したDF福元洋平と、鹿島アントラーズからの期限付きで加入したMF中後雅喜の2人が完全移籍に移行し、名古屋グランパスからMF山口慶の加入とオーストラリア代表主将DFマーク・ミリガンの獲得を発表した。
6月10日、淑徳大学とパートナーシップに関する包括協定及びジェフユナイテッドアシストスポンサー契約を調印した。
7月23日、巻誠一郎がロシア・プレミアリーグ・アムカル・ペルミに完全移籍した。
9月12日(第25節)にアビスパ福岡との直接対決で敗れて4位へ転落。11月19日には江尻と来季の契約を行わないと発表。11月23日(第36節)ザスパ草津に0-2で敗退して4位以下が確定、1年でのJ1復帰はならなかった。
[編集] 2011年
- クラブスローガン :「WIN BY ALL!」
江尻が退任し、新監督にドワイト・ローデヴェーヘスが就任した。中牧大輔がファジアーノ岡山に、池田昇平が愛媛FCに、谷澤達也がFC東京に、工藤浩平が京都サンガF.C.に、和田拓三がアビスパ福岡に、アレックスが鹿島アントラーズにそれぞれ完全移籍。鎌田翔雅、金沢亮、ネットが退団した。中後雅喜、ガンバ大阪からレンタル移籍していた倉田秋がセレッソ大阪に期限付き移籍した。新加入選手には、ロアッソ熊本から藤田俊哉を、横浜FCから大久保択生を、名古屋グランパスから期限付き移籍していた竹内彬を、専修大学の藤本修司を、オーレスンFKから204センチの世界最長身選手オーロイを、大分トリニータからレンタル移籍満了に復帰した益山司を、特別指定選手として活動していた明治大学の久保裕一を獲得した。
2月9日、FCエドモントンからU-20カナダ代表のマット・ラムを期限付き移籍で獲得。
5月13日、三菱養和サッカークラブユースの田鍋陵太を特別指定選手に承認した。
6月26日、オフィシャルサプライヤーのFrom AQUAが、2011シーズンよりオフィシャルパートナーに関する契約を締結。
7月30日、ジェフU-18の佐藤祥と井出遥也が、トップチーム登録(2種登録)した。
8月9日、アルビレックス新潟から大島秀夫を期限付き移籍で獲得。
10月21日、ドワイト・ローデヴェーヘス監督、ハンスヘッドコーチの解任に伴い、監督に神戸清雄、コーチに菅澤大我が就任した。
11月19日、J2第36節 湘南-徳島戦の結果を以て昇格の可能性が消滅。
12月17日、第90回天皇杯で清水エスパルスに0-2で負けて敗退した。
[編集] 2012年
- クラブスローガン :「DAKKAN 奪還×脱甘」
新監督に前シーズンまで清水エスパルスのコーチで、水戸ホーリーホックで監督経験のある木山隆之が就任。
ベテランの藤田俊哉をはじめ、林丈統、ファン・ゲッセルが退団、セレッソ大阪にレンタル移籍していた中後雅喜が東京ヴェルディに、村井慎二が大分トリニータに、太田圭輔、福元洋平が徳島ヴォルティスに、大島秀夫がコンサドーレ札幌に完全移籍、青木孝太がヴァンフォーレ甲府に、大分トリニータにレンタル移籍していた益山司が松本山雅FCにレンタル移籍、マット・ラムがレンタル移籍期間満了、茶野隆行が引退したが、アビスパ福岡から田中佑昌を、ガンバ大阪から山口智を、モンテディオ山形から佐藤健太郎を、横浜FCから藤田祥史を完全移籍で、ジュビロ磐田から荒田智之を、柏レイソルから兵働昭弘を、横浜F・マリノスから武田英二郎をレンタル移籍で獲得、井出遥也、佐藤祥がユースから昇格、大岩一貴、町田也真人が新加入した。
[編集] ホームタウン・ホームスタジアム
[編集] ホームスタジアム問題
2002年シーズン開幕の直前、クラブは千葉市蘇我地区の川崎製鉄(現:JFEスチール)工場跡地に建設される千葉市総合スポーツ公園球技場(現在のフクダ電子アリーナ)を完成後市原臨海競技場と併用してホームスタジアムとして使用する方針である旨を発表した。これには、蘇我地区の目玉となる施設を建設したいためそれを継続して使用してくれる団体を求めていた千葉市と、スタジアム環境の改善を図って観客増を狙いたいジェフとの間の利害の一致があった。
以下についてはフクダ電子アリーナ、市原緑地運動公園臨海競技場、市原スポレクパークの項目も併せて参照されたい。
多くのサポーターは概ねこの発表に対して好意的に受け止めた。理由として臨海競技場の実情が、以下のようなデメリットを抱えていたためである。
- アクセスが非常に不便であり、JR内房線五井駅から徒歩30分かかる。試合日にはシャトルバスを運行しているが、帰りなどは渋滞に巻き込まれるとバスに乗る列に並び始めてから駅に着くまで40分以上もかかってしまう。また内房線の電車の本数も少ない。
- Jリーグ開幕当初はスタジアムでの観戦希望者に対し、スタジアムの収容人数が追いつかず、「チケットが取れない」という事態を招いた。更にオフィシャルファンクラブでは自由席の無料招待券を配布したため、前売り段階で完売しているにも係らず無料招待券でスタジアムに観戦しようとするサポーターも多く、スタジアムに行っても試合を観戦出来ない、という事態が発生した。
- Jリーグ開幕から2年間は観客動員数も多かったが、スタジアムへ自動車で来るサポーターのための駐車場が無く、仕方なく近隣の道路等へ違法駐車する車が目立ち、また違法駐車に対する警察の取り締まりも重なり、この取締りにより、観客離れを引き起こした。これに対し後日、近隣工場地帯や商業施設への協力を経て、臨時無料駐車場を設置、シャトルバスで臨時駐車場までの送迎も行なっていた。しかし、工場地帯の臨時駐車場は試合開始前はシャトルバスを運行するが、試合終了後のシャトルバスの運行は行なわれず、決して近いとは言いがたい駐車場まで20分以上歩かなければならず、また商業施設の駐車場もバスに並ぶ列や帰りの車の渋滞により、駐車場まで辿り着くのに時間が掛かった。
- その後、より多くの観客動員数を見込み、スタジアムの客席を増設。しかし、メインスタンド以外が鉄骨製であり、またバックスタンド後方に民家があるため大きなスタンドを造れない上に防音壁を立て、その分陸上用のアンツーカーの一部を立見席にした急ごしらえのスタンドで対応した事で、施設として大変貧弱だった。また、観客離れが起こりだしてからスタジアムの増設工事が完成したため、観客席を増設したにも拘らず観客席が埋まらない事態を引き起こした。
これらに対して蘇我に「移転」した場合、以下のようなメリットが見込まれた。
- 建設予定位置が駅から非常に近く、バスを使わなくても徒歩で移動できる。また京葉線、外房線、内房線のターミナル駅となっており、電車の本数も大幅に増加する。またサポーターの分布が実情としてより人口の多い総武本線、京葉線、京成千葉線にシフトしており大多数のジェフサポーターにとって市原臨海よりもより近くにスタジアムが位置することになる。
- 蘇我に建設予定のスタジアムは球技専用であり、陸上競技場だった市原臨海よりも臨場感が増す。また新規にスタジアムを建設するため、スタジアムの環境も改善される。
- 駅から近いサッカー専用スタジアムという事で観客増が大いに期待される。
2002年の秋からは、スタジアムの概要をサポーターやクラブ、プレーヤー、県及び市協会、Jリーグからヒアリングするイレブン懇談会が始まった。また、2003年より千葉市がホームタウンへ正式に加わる事になった。
[編集] クラブ呼称・市原市との関係
クラブは2003年から「千葉」を加えた新クラブ名のあり方の検討を始めた。この年にサポーターを対象としたアンケートを実施し、その結果、2004年に次のシーズンから新クラブ名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」と発表した。
一方、新名称が検討されるのに前後して、市原市はホームタウンの軸足が完全に千葉市に移行される事を懸念し始めた。市原市も2003年の春頃から市原臨海競技場のサイドスタンド及びバックスタンドの改修工事を検討し始め、計画も発表されたが、後にこの計画はバックスタンドのみに縮小された。市原臨海競技場の改修工事は2003年シーズンの終了直前から始められ、2004年シーズンの1stステージ中盤まで続けられた。しかし、このシーズンの開幕直前に新チーム名の呼称を「ジェフユナイテッド千葉」に変更する意向であることを市原市との事前協議の約束を反故にし、突如通告。市原市はクラブ側のやり方を批判し、クラブへ抗議文書を送付。呼称に「市原・千葉」の併記を要望した。市原市では態度の硬化がはじまり呼称も「ジェフユナイテッド市原・千葉」にするように求めて2万人の署名が集められた。
結局、呼称問題についてはJリーグ側からの留保期間が設けられたものの、2004年5月18日に最終的にJリーグ理事会から承認され、新チーム名と呼称については2005年2月1日より使用が開始された。改称後、マスコミ等による呼称に関しては市原市が危惧した通り、専ら「千葉」のみが使われる傾向にある。サポーターが唄う応援ソングの中にも「千葉」とコールするものがある。ホームタウンを構成する市原市と千葉市でも呼称の使い方が異なり、広報資料などでも市原市は「ジェフユナイテッド市原・千葉」の表記で統一しているのに対し、千葉市では「ジェフユナイテッド千葉」で統一している。
当初クラブ側は市原臨海競技場とフクダ電子アリーナの双方を2005年からホームスタジアムとして併用していくとした。2005年のフクダ電子アリーナでのホームゲームの開催は、スタジアムが完成し、芝の養生が終わった後の6試合程度にとどまるため、2005年シーズンに関して言えば実質的には市原臨海競技場がメインとなった。
クラブとしては2006年シーズン以後については、観客動員、収支などを検討した上で、どちらをメインのスタジアムにしていくか検討していくとしていた。2006年シーズンについては、市原臨海競技場改修のため、全試合をフクダ電子アリーナにて開催し、その後、市原臨海競技場は予定していた改修工事を行う予定だった。
しかし、当初の計画していた改修工事に関し、日本サッカー協会より今までより厳しい改修工事の以下の条件を提示された。
- 観客席を2万人以上収容出来るようにし、席を全て一つずつに分けること(メインスタンド以外の席は、別れていない長いすのため)
- 客席の2/3以上覆える屋根を設置すること。
- 総座席数に対し、毎試合、観客席の8割以上の観客を動員すること
これに対し、市原市は「これ以上の財政支出は、市民の了解を得られない。」との結論に達し、予定されていたスタジアムの改修工事を断念。それに伴い、今後ジェフの試合は一切行われないこととなり、全ての試合をフクダ電子アリーナにて行なうこととなった。今後市原臨海競技場は、現在の仮設の観客席を撤去し芝生席に改修を行った後、主にサッカー、陸上等の予選大会等を行っていく方針を決定した。なお、クラブ側は2010年まで市原臨海も本拠地登録していたが、2011年に本拠地登録はフクアリのみとなり、市原臨海は外れた。
一方、ソフト面における改革も徐々に始められ、2000年にクラブハウス、練習場が市原市へ移転した後も浦安市ではジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース舞浜)及び舞浜スクールが活動を続けていたが、2005年に舞浜のクラブ機能は全て閉鎖された。舞浜に代って2005年からは習志野市茜浜地区に新たに練習場が確保され、ジュニアユースチーム(ジェフユナイテッド・ジュニアユース習志野)、習志野スクール及びレディースチームが活動している。
[編集] 成績
詳細は「ジェフユナイテッド市原・千葉の年度別成績一覧」を参照
[編集] タイトル
[編集] 国内タイトル
[編集] 国際タイトル
- 無し
[編集] 個人タイトル
- 1994年 - フランク・オルデネビッツ
- 2005年 - イリアン・ストヤノフ、阿部勇樹
- 2006年 - 阿部勇樹
- 2006年 - 山岸智
[編集] 主な記録
[編集] クラブ記録
- 連勝
J1
- 6連勝【2007年 第23節 対大分トリニータ (フクダ電子アリーナ) - 第28節 甲府戦 (小瀬スポーツ公園陸上競技場)】
- ホームスタジアム無敗
J1
- リーグ戦 31試合【2003年 1st第5節 横浜FM戦 - 2005年 第18節 川崎戦】
- 公式戦 26試合【2003年 1st第5節 横浜FM戦 - 2005年 第2節 柏戦】
- リーグ戦 連敗
J1
- 7連敗
- 【1993年 N 第12節 V川崎戦 (宮城) - 第18節 名古屋戦(瑞穂)】
- 【2008年 第5節 鹿島戦 (カシマ) - 第11節 浦和戦 (埼玉)】
- リーグ戦 未勝利
J1
- 17試合【2007年 第29節 浦和戦(フクアリ) - 第11節 浦和戦 (埼玉)】
- リーグ戦 開幕未勝利
J1
- 11節【2008年 第1節 G大阪戦 (万博) - 第11節 浦和戦 (埼玉)】
- もっとも遅いシーズン初勝利
- 5月10日 【J1 2008年 第12節 京都戦 (フクアリ)】
- ※ 前身の古河時代を含めても遅い。
- 最多得点試合
J1
- 6得点
- 【1995年 第17節 横浜F戦 (市原臨海)- マスロバル(2)、中西永輔、ルーファー(3)】
- 【2007年 第23節 大分戦 (フクアリ)- 得点者:佐藤勇人、山岸智、水野晃樹(2)、工藤浩平、青木孝太】
- 最多失点試合
J1
- 6失点
- 【1993年 ニコスシリーズ第18節 名古屋戦 (瑞穂)】
- 得点差
J1
- 勝利 - 6点差 (6-0) 【2007年 第23節 大分戦 (フクアリ)】
- 敗北 - 6点差 (0-6) 【1993年 1st第18節 名古屋戦 (瑞穂)】
- 国内トップリーグ所属
- 通算:43シーズン連続
- 日本サッカーリーグ:27季連続 (前身・古河電気工業時代)
- Jリーグ (J1) :16季連続 (ジェフユナイテッド市原・千葉)
[編集] 個人記録
- ハットトリック
- パベル 【1993年1st 第12節 (6月23日) 浦和戦】
- オッツェ 【1994年2nd 第1節 (8月10日) G大阪戦】
- 新村泰彦 【1995年1st 第24節 (7月15日) G大阪戦】
- ルーファー 【1995年2nd 第17節 (10月18日) 横浜F戦】
- ルーファー 【1995年2nd 第20節 (11月4日) 広島戦】
- バロン 【2000年1st 第1節 (3月11日) 京都戦】
- 崔龍洙 【2003年1st 第5節 (4月26日) 横浜FM戦】
- 崔龍洙 【2003年1st 第6節 (4月29日) 京都戦】
- 阿部勇樹 【2006年J1 第27節 (10月14日) 鹿島戦】
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- 黄、 緑、 赤の3色 (ラスタカラー)
- 黄色は千葉県の県花である菜の花、緑色はJR東日本の、赤は古河電工のコーポレートカラーからきている。
- 2005年シーズンからユニフォームには新たに紺色を使用。
- 紺色については「千葉市、市原市が面している海(東京湾)の色」「市原市の旗の色が群青色」「千葉市のコミュニケーションマークのカラーが青」ということで採用した。
[編集] ユニフォームスポンサー
| スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|
| 胸 | 富士電機 | 富士電機 | 2007年 - | |
| 背中 | 東日本旅客鉄道 | Suica | 2009年 - | |
| 袖 | 君津住宅 | 君津住宅 | 2006年 - | |
| パンツ | 千葉ステーションビル | PeRIe | 2009年 - |
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
| 1992 | SEGA | Pentel | - | - | asics |
| 1993 | JR EAST FURUKAWA | Mizuno/asics | |||
| 1994 | |||||
| 1995 | びゅう | ||||
| 1996 | 0088(日本テレコム) | ||||
| 1997 | - | Mizuno | |||
| 1998 | JR東日本 | 古河/古河電工不動産 | 古河電工 | ||
| 1999 | 古河 | ||||
| 2000 | J-PHONE | ||||
| 2001 | 古河電工 | - | JR東日本 | ||
| 2002 | 古河電工/オートウェーブ | 古河電工 | |||
| 2003 | オートウェーブ | JR東日本 | 古河電工 | ||
| 2004 | |||||
| 2005 | 古河電工 | JR東日本 | |||
| 2006 | 君津住宅 | Sammy | QBハウス | ||
| 2007 | 富士電機 | - | Kappa | ||
| 2008 | - | -/Sammy | |||
| 2009 | -/Suica | PeRIe | |||
| 2010 | Suica | ||||
| 2011 | |||||
| 2012 |
[編集] その他
- 背番号の書体(「JEF UNITED」のロゴと同一デザイン)は、Jリーグ参入以来一度も変更されていない。
- 2011年現在、エンブレムの上に二度のタイトル獲得を表す星が二つ付いている。
[編集] 関連項目
- ジェフユナイテッド市原・千葉の選手一覧
- 千葉ダービー
- ちばぎんカップ
- モオノキ
- ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ
- WIN BY ALL! - 千葉テレビ放送で放送中の応援番組
- ジェフ魂12・ジェフ魂12Returns - かつて千葉テレビ放送で放送されていた応援番組
- 淑徳大学 - パートナーシップに関する包括協定を締結している。
[編集] 脚注
- ^ 法人名の変更について ジェフユナイテッド市原・千葉
- ^ ジェフユナイテッド市原・千葉 クラブプロフィールより
- ^ ジェフユナイテッド市原・千葉オフィシャルサイト - 第9回 サポーターコミュニケーションデー 議事録について (2)より
- ^ Jリーグでは、特定の企業名をチーム名に関することを禁止している(横浜FCオフィシャルブログより)。詳細は川淵三郎#呼称 川淵の項目を参照。
- ^ 第7回研修 「ベガルタ仙台の歴史と今後」【仙台スタジアムの創設について】(みやぎスポーツボランティアネットワーク)
- ^ 29分に谷澤のパスから新居、32分に巻が落としたボールを谷澤がそれぞれ決め同点に追いつく。その後、35分にレイナウドが自ら得たPKを成功させて逆転、40分に再び谷澤が独走からゴールを決めた。
- ^ 他会場でニッポン放送の解説をしていた金子達仁はこの逆転劇を聞いて「『フクアリの奇跡』と呼んでもいい」と語っている。この他にも「絶望から希望へシナリオを書きかえた」「わずか11分で、地獄から天国へ」など各会場で驚きの声が上がった。
- ^ 出場機会のない若手選手をJ2のチームやジェフの下部チームに移籍させたことにもよる。
[編集] 外部リンク
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