三都主アレサンドロ
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| 三都主 アレサンドロ | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 本名 | (旧名)アレッサンドロ・ドス・サントス | |
| 愛称 | アレックス、アレ、サントス | |
| カタカナ | サントス アレサンドロ | |
| ラテン文字 | SANTOS Alessandro | |
| ポルトガル語 | Alessandro dos Santos | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1977年7月20日(31歳) | |
| 出身地 | ブラジルパラナ州マリンガ | |
| 身長 | 178cm | |
| 体重 | 69kg | |
| 血液型 | A型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | ||
| ポジション | MF、DF | |
| 背番号 | 8 | |
| 利き足 | 左足 | |
| 代表歴 | ||
| 2002-2006 | 82 (7) | |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
三都主 アレサンドロ(さんとす アレサンドロ、SANTOS Alessandro、1977年7月20日 - )は、ブラジル出身で浦和レッドダイヤモンズ所属のサッカー選手。元日本代表でキャップ数82は歴代6位。愛称はアレックス。
2001年11月12日、ブラジル国籍から日本国籍へ帰化した。帰化以前の登録名はアレックス(Alex)。利き足は左。
目次 |
[編集] 来歴
1993年、ブラジルにスカウトに来ていた当時の明徳義塾サッカー部監督の北村保夫の目に留まり、日本に誘われる。「日本でプロも目指せる」との言葉に心を動かされ、1994年、16歳の時に高知の明徳義塾高校にサッカー留学で来日。高校時代は予選突破が出来ず全国大会に出場できなかったため、ほとんど無名であった。高校時代はアレッさんと呼ばれていた。
明徳義塾高校卒業後、監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、エスパルスの練習生を経て、見事プロ契約を勝ち取る。1997年に入団以降、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。
当初、清水では安藤・市川の控えとしてスーパーサブ的な役割での出場が多かったが、1998年以降は安藤を押しのけて左サイドでのスタメンでの出場機会が増えた。1999年にはスタメンとして左サイドのポジションを不動のものとし大ブレイク。 1999年のセカンドステージ優勝(年間勝ち点で1位)に大きく貢献、史上最年少の22歳でJリーグMVPを獲得した。また、1999-2000年アジアカップウイナーズカップ、2001年天皇杯優勝にも貢献した。
ちょうどその頃から、周囲から日本への帰化の話が持ち上がるようになっていた。かなりの期間日本で暮らして日本での生活にも慣れ、日本人の恋人もでき、また日本代表にも魅力を感じていた。悩んだ彼は、以前に同じ清水エスパルスに所属し、同様にサッカー留学から日本のサッカークラブに入団した三渡洲アデミールに相談。その三渡洲アデミールから「帰化するならその国に骨をうずめても良いというくらいの気持ちで帰化すべきで、代表に入りたいという理由だけで帰化するならやめた方がいい」とアドバイスされ、よく考えた結果、やはり帰化を申請することを決意する。
2001年11月12日、帰化申請が認められ、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している。 ただし、以前から呼ばれていた『アレックス』という通称に特別の思い入れを持っていたため、これからもアレックスと呼んで欲しいと言っていた。
帰化後もJリーグでの登録名は「アレックス」とし、2002年W杯での登録名も「アレックス(ALEX)」とするよう申請、FIFA(国際サッカー連盟)の承認も受けた。だが、なぜかマスコミは帰化を転機に、彼のことを「サントス」と呼ぶようになっていった。試合中継でも、サッカーに思い入れのある実況アナウンサーであれば「アレックスこと三都主アレサンドロ」と言ったり、あるいは思わず「アレックス」という呼び方が口をついたりするが、そうでないアナウンサーは大体「サントス」である。最近は本人もあきらめ気味で、「三都主でもアレックスでもどちらでもいい」と語っている。ちなみに、チームメイトからは「アレックス」や「アレ」などと呼ばれている。また、浦和レッズやオーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクの選手紹介の時には「アレックス」と紹介されている。
2002年、日韓W杯に日本代表として選出される。切り札として期待されたが、出場機会は少なかった。
2003年12月に直美夫人(旧姓:石橋)と結婚(2005年9月第1子(長男)誕生)。清水エスパルスから浦和レッドダイヤモンズに移籍する。浦和での応援歌の原曲はポパイの歌。
2002年W杯後、ジーコを監督に迎えたジーコジャパンでは左サイドバックのレギュラーとして常時出場したが、ドイツW杯では4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈してしまった。しかし一方では前日本代表監督のイビチャ・オシムなどから「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか。もう一度ビデオをごらんになってはいかがですか? 左利きの選手は数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と攻撃面で高い評価をうけている[1]。2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFとしてではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、より攻撃にウェイトを置けるようになり、オシムジャパンのゴール第1号、第2号を記録したり、アシストを記録している。
2007年1月30日から1年間、浦和レッドダイヤモンズからオーストリア・ブンデスリーガに所属するレッドブル・ザルツブルクへ期限付き移籍、同リーグでの優勝を果たした。
2008年1月27日、浦和レッズへ復帰。活躍が期待されたが、開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う。第14柏戦で復帰するが、出場僅か15分で怪我を再発。全治6ヶ月の選手生命すら危ぶまれる重傷で、この年の公式戦出場はこの1試合に止まった。
[編集] プレースタイル
スピードが持ち味で、プレースキッカーとしても有能である。ドリブル以上にスペースに飛び込む動きが得意。コーナーキックを蹴る際には、サポーターに向かって両手を使って盛り上がりの合図を送る事もある。
独特のリズムを持ったドリブル、裏街道=ボールを相手の背後のはじき、自分が逆を走り、相手を抜くフェイント。 そしてアーリークロスの精度はJ最高峰。
代表では孤高の存在だった中田英寿にも臆することなく意見を言えるほどの熱い性格で、常にファイトする姿勢からか無闇にファールを犯したり、以前は審判への抗議なども見られた。ジーコによって慣れない左サイドバックとして起用されたため、守備時の1対1の対応やスペースケアが悪く、相手チームに左サイドを狙われ、代表の欠点と批判を浴びることもあった。オシムジャパンでは中盤の攻撃的MFや左のウィングバックとして出場、元来の攻撃力を発揮した。以前所属したレッドブル・ザルツブルクではサイドバックとして起用された。
若いときに見られたプレーのムラも、近年少なくなってきている。
[編集] エピソード
- 清水時代、ゴールを決めた後、テツandトモの「なんでだろ~」のパフォーマンスをサポーターに披露。
- W杯出場の際には、応援してくれたご近所の方にお土産を買って挨拶をしたりと、実はかなり律儀で細やかな日本人らしさを備えている。
また、プレーと裏原に、練習後のサポーターや記者へは丁寧に対応する穏やかな一面を持っている。
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
- 1986年 - 1992年 グレミオマリンガ少年チーム(ブラジル)
- 1993年 - 1994年 グレミオマリンガ
- 1994年 - 1996年 明徳義塾高等学校
プロ経歴
- 1997年 - 2003年 清水エスパルス
- 2004年 - 2006年 浦和レッドダイヤモンズ
- 2007年 レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)
- 2008年 - 現在 浦和レッドダイヤモンズ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1997 | 清水 | 23 | J | 27 | 3 | 2 | 1 | 3 | 0 | 32 | 4 |
| 1998 | 清水 | 17 | J | 26 | 10 | 5 | 0 | 5 | 2 | 36 | 12 |
| 1999 | 清水 | 8 | J1 | 30 | 11 | 4 | 0 | 1 | 0 | 35 | 11 |
| 2000 | 清水 | 8 | J1 | 30 | 4 | 5 | 0 | 5 | 4 | 40 | 8 |
| 2001 | 清水 | 8 | J1 | 30 | 12 | 2 | 1 | 5 | 1 | 37 | 14 |
| 2002 | 清水 | 8 | J1 | 29 | 9 | 2 | 2 | 3 | 0 | 34 | 11 |
| 2003 | 清水 | 8 | J1 | 26 | 7 | 4 | 0 | 4 | 0 | 34 | 7 |
| 2004 | 浦和 | 16 | J1 | 27 | 2 | 1 | 0 | 2 | 1 | 30 | 3 |
| 2005 | 浦和 | 8 | J1 | 32 | 4 | 5 | 0 | 5 | 0 | 42 | 4 |
| 2006 | 浦和 | 8 | J1 | 34 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 35 | 5 |
| オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オーストリア杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | ザルツブルク | 8 | ブンデス | 9 | 0 | ||||||
| 2007-08 | ザルツブルク | 8 | ブンデス | 11 | 1 | ||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2008 | 浦和 | 8 | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
| 2009 | 浦和 | 8 | J1 | ||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 292 | 67 | 30 | 4 | 34 | 8 | 356 | 79 | |
| オーストリア | ブンデス | 20 | 1 | ||||||||
| 総通算 | 312 | 68 | |||||||||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2002-03 | 清水 | 8 | 5 | 3 |
| 通算 | AFC | 5 | 3 | |
[編集] 個人タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 2002年 ワールドカップ日韓大会(ベスト16)
- 2003年 コンフェデレーションズカップフランス大会(グループリーグ敗退)
- 2004年 アジアカップ中国大会(優勝)
- 2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会(グループリーグ敗退)
- 2006年 ワールドカップドイツ大会(グループリーグ敗退)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 82試合 7得点(2002-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2002 | 9 | 1 |
| 2003 | 15 | 1 |
| 2004 | 22 | 2 |
| 2005 | 17 | 1 |
| 2006 | 19 | 2 |
| 通算 | 82 | 7 |
[編集] 関連項目
[編集] コマーシャル出演
- adidas「サッカー狂症候群(三都主アレサンドロ編)」(2002年)
- サントリー「デカビタC」(2002年)
- レッドブル「エナジードリンク」(2007年)
- 『宮本恒靖&三都主篇』 - 宮本恒靖との共演
[編集] 関連記事
- ソル・スポーツマネージメント - 所属マネジメント会社
- 間欠性回復力検査 - (ドイツW杯前の2006年2月の宮崎代表合宿で行われ、トップの成績を残した)
- club vanilla
[編集] 外部リンク
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