三都主アレサンドロ
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|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||
| 本名 | (旧名)アレッサンドロ・ドス・サントス | |||
| 愛称 | アレックス、アレ、サントス | |||
| カタカナ | サントス アレサンドロ | |||
| ラテン文字 | SANTOS Alessandro | |||
| ポルトガル語 | Alessandro dos Santos | |||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1977年7月20日(34歳) | |||
| 出身地 | ||||
| 身長 | 178cm | |||
| 体重 | 69kg | |||
| 選手情報 | ||||
| 在籍チーム | 名古屋グランパス | |||
| ポジション | MF、DF | |||
| 背番号 | 38 | |||
| 利き足 | 左足 | |||
| 代表歴 | ||||
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三都主 アレサンドロ(さんとす アレサンドロ、SANTOS Alessandro, 1977年7月20日 - )は、ブラジル出身で名古屋グランパス所属のサッカー選手。元日本代表でキャップ数82は歴代6位。愛称はアレックス。
パラナ州マリンガ生まれ。明徳義塾高等学校出身。2001年11月12日、ブラジル国籍から日本国籍へ帰化した。帰化以前の登録名はアレックス(Alex)。利き足は左。
ポジションは左ウィングバック、攻撃的MFとしての出場のほか、清水エスパルス時代にはフォワード、名古屋加入以後はセンターハーフ、日本代表では左サイドバックでも出場する。
目次 |
[編集] 来歴
1993年、ブラジルにスカウトに来ていた当時の明徳義塾サッカー部監督の北村保夫の目に留まり、日本に誘われる。「日本でプロも目指せる」との言葉に心を動かされ、1994年、16歳の時に高知の明徳義塾高校にサッカー留学で来日。高校時代は予選突破が出来ず全国大会に出場できなかったため、ほとんど無名であった。高校時代はアレサンと呼ばれていた。
明徳義塾高校卒業後、監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。1997年に正式入団、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。
当初、清水ではスーパーサブ的な役割での出場が多かったが、1998年以降は左サイドでのスタメンでの出場機会が増えた。1999年にはスタメンとして左サイドのポジションを不動のものとし大ブレイク。同年2ndステージ優勝(年間勝点では1位)に大きく貢献、史上最年少の22歳でJリーグMVPを獲得した。また、1999-2000年アジアカップウイナーズカップ、2001年天皇杯優勝にも貢献した。
ちょうどその頃から、周囲から日本への帰化の話が持ち上がるようになっていた。かなりの期間日本で暮らして日本での生活にも慣れ、日本人の恋人もおり、日本代表にも魅力を感じていた。悩んだアレックスは、以前に同じく清水に所属し、同様にサッカー留学から日本のサッカークラブに入団した三渡洲アデミールに相談。その三渡洲から「帰化するならその国に骨をうずめても良いというくらいの気持ちで帰化すべきで、代表に入りたいという理由だけで帰化するならやめた方がいい」とアドバイスされ、熟考の末に帰化申請を決意する。
2001年11月12日、帰化申請が認められ、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している。 ただし、以前から呼ばれていた『アレックス』という通称に特別の思い入れを持っていたため、これからもアレックスと呼んで欲しいと言っていた。
2002年、日韓W杯に日本代表として選出される。切り札として期待されていたが、出場機会は少なかった。それでも、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦では惜しいFKを放った。
2003年12月に結婚(2005年9月第1子(長男)誕生)。清水エスパルスから浦和レッドダイヤモンズに移籍する。浦和での応援歌の原曲はポパイのテーマ。
2002年W杯後、ジーコを監督に迎えた代表では左サイドバックのレギュラーとして常時出場したが、ドイツW杯では4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈してしまった。しかし一方では後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム(当時ジェフ千葉監督)が「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか? 左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と語るなど攻撃面は評価された[1]。2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。しかし、監督が岡田武史に代わると代表に呼ばれなくなり、3回目のワールドカップ出場はならなかった。
2007年1月30日から1年間、浦和からオーストリア・ブンデスリーガに所属するレッドブル・ザルツブルクへ期限付き移籍し、同リーグでの優勝を経験。
2008年1月27日、浦和へ復帰するも、Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う。第14節の柏戦にて復帰するが、出場僅か15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。
2009年、浦和の新監督としてフォルカー・フィンケが就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減した。このため出場機会を求めて移籍を志願し、同年8月にドラガン・ストイコビッチ監督のラブコールを受け名古屋グランパスへと完全移籍した。
清水時代、ゴールを決めた後、テツandトモの「なんでだろ~」のパフォーマンスをサポーターに披露。顔がアメリカ合衆国大統領のバラック・オバマに似ていると評される。三都主自身も自覚しているようで、小学校訪問などでは「こんにちは、オバマです」と挨拶することがある。
帰化後もJリーグでの登録名は「アレックス」とし、2002年W杯での登録名も「アレックス(ALEX)」とするよう申請し、FIFA(国際サッカー連盟)も承認する。本人も「三都主でもアレックスでもどちらでもいい」と語る。チームメイトは「アレックス」や「アレ」と呼び、浦和やレッドブル・ザルツブルクの選手紹介の時には「アレックス」と紹介される。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- 1986年 - 1992年
グレミオマリンガ少年チーム - 1993年 - 1994年
グレミオマリンガ - 1994年 - 1996年 明徳義塾高等学校
プロ経歴
- 1997年 - 2003年 清水エスパルス
- 2004年 - 2009年8月 浦和レッドダイヤモンズ
- 2007年
レッドブル・ザルツブルク (期限付き移籍)
- 2007年
- 2009年8月 - 名古屋グランパス
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1997 | 清水 | 23 | J | 27 | 3 | 2 | 1 | 3 | 0 | 32 | 4 |
| 1998 | 17 | 26 | 10 | 5 | 0 | 5 | 2 | 36 | 12 | ||
| 1999 | 8 | J1 | 30 | 11 | 4 | 0 | 1 | 0 | 35 | 11 | |
| 2000 | 30 | 4 | 5 | 0 | 5 | 4 | 40 | 8 | |||
| 2001 | 30 | 12 | 2 | 1 | 5 | 1 | 37 | 14 | |||
| 2002 | 29 | 9 | 2 | 2 | 3 | 0 | 34 | 11 | |||
| 2003 | 26 | 7 | 4 | 0 | 4 | 0 | 34 | 7 | |||
| 2004 | 浦和 | 16 | 27 | 2 | 1 | 0 | 2 | 1 | 30 | 3 | |
| 2005 | 8 | 32 | 4 | 5 | 0 | 5 | 0 | 42 | 4 | ||
| 2006 | 34 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 35 | 5 | |||
| オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オーストリア杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | ザルツブルク | 8 | ブンデス | 9 | 0 | - | |||||
| 2007-08 | 11 | 1 | - | ||||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2008 | 浦和 | 8 | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
| 2009 | 6 | 0 | 4 | 0 | - | 10 | 0 | ||||
| 名古屋 | 38 | 14 | 0 | - | 6 | 1 | 20 | 1 | |||
| 2010 | 25 | 0 | 1 | 0 | 3 | 1 | 29 | 1 | |||
| 2011 | 11 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | 17 | 0 | |||
| 2012 | |||||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 348 | 67 | 36 | 4 | 48 | 10 | 432 | 81 | |
| オーストリア | ブンデス | 20 | 1 | - | |||||||
| 総通算 | 386 | 68 | 36 | 4 | |||||||
その他の公式戦
- 1999年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2001年
- スーパーカップ 1試合1得点
- 2002年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2004年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2006年
- スーパーカップ 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2002-03 | 清水 | 8 | 5 | 3 |
| 2009 | 名古屋 | 38 | 4 | 0 |
| 2011 | 3 | 0 | ||
| 2012 | ||||
| 通算 | AFC | 15 | 3 | |
その他の国際公式戦
- 2007年
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選2回戦 1試合0得点
[編集] チームタイトル
- オーストリア・ブンデスリーガ 優勝 : 2007
[編集] 個人タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会
- 2002年 ワールドカップ日韓大会(ベスト16)
- 2003年 コンフェデレーションズカップフランス大会(グループリーグ敗退)
- 2004年 アジアカップ中国大会(優勝)
- 2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会(グループリーグ敗退)
- 2006年 ワールドカップドイツ大会(グループリーグ敗退)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 82試合 7得点(2002-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2002 | 9 | 1 |
| 2003 | 15 | 1 |
| 2004 | 22 | 2 |
| 2005 | 17 | 1 |
| 2006 | 19 | 2 |
| 通算 | 82 | 7 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2002年5月2日 | 日本、神戸市 | △ 3-3 | キリンカップサッカー2002 | |
| 2. | 2003年12月7日 | 日本、さいたま市 | ○ 1-0 | 東アジアサッカー選手権2003 | |
| 3. | 2004年2月12日 | 日本、東京 | ○ 2-0 | 親善試合 | |
| 4. | 2004年5月30日 | イングランド、マンチェスター | ○ 3-2 | 親善試合 | |
| 5. | 2005年1月29日 | 日本、横浜市 | ○ 4-0 | キリンチャレンジカップ2005 | |
| 6. | 2006年8月9日 | 日本、東京 | ○ 2-0 | キリンチャレンジカップ2006 | |
| 7. |
[編集] CM出演
- adidas「サッカー狂症候群(三都主アレサンドロ編)」(2002年)
- サントリー「デカビタC」(2002年)
- レッドブル「エナジードリンク」(2007年)『宮本恒靖&三都主篇』 - 宮本恒靖との共演
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- 清水エスパルスの選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- 名古屋グランパスエイトの選手一覧
- 2002 FIFAワールドカップ日本代表
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
- ソル・スポーツマネージメント - 所属マネジメント会社
- club vanilla
[編集] 外部リンク
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