浦和レッドダイヤモンズ
| 浦和レッドダイヤモンズ | |
|---|---|
| 原語表記 | 浦和レッドダイヤモンズ |
| 呼称 | 浦和レッズ |
| 愛称 | レッズ |
| クラブカラー | レッド |
| 創設年 | 1950年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| 所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1(J1) |
| ホームタウン | 埼玉県さいたま市 |
| ホームスタジアム | 埼玉スタジアム2002 さいたま市浦和駒場スタジアム |
| 収容人数 | 63,700 (埼玉スタジアム2002) 21,500 (さいたま市浦和駒場スタジアム) |
| 運営法人 | 株式会社三菱自動車フットボールクラブ |
| 代表者 | 橋本光夫 |
| 監督 | |
| 公式サイト | 公式サイト |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 本社所在地 | 〒460-0008 埼玉県さいたま市緑区中野田500 |
| 設立 | 1992年7月17日 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | サッカークラブの運営 |
| 代表者 | 橋本 光夫 |
| 資本金 | 4億6,000万円 |
| 売上高 | 64億3,200万円 (2010年1月期) |
| 営業利益 | 7,300万円 (2010年1月期) |
| 純利益 | 600万円 (2010年1月期) |
| 決算期 | 1月期 |
| 主要株主 | 三菱自動車工業 他 |
| 外部リンク | http://www.urawa-reds.co.jp |
浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ Urawa Red Diamonds)は、日本の埼玉県さいたま市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「浦和レッズ」。
目次 |
[編集] 概要
Jリーグ発足時より参加している10クラブの1つ(オリジナル10)。ホームタウンは埼玉県さいたま市(旧浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002およびさいたま市浦和駒場スタジアムを、練習グラウンドは大原サッカー場を使用している。Jリーグ開幕時から熱烈なサポーターを擁し、21世紀に入ってからは戦力や環境の整備を図り、Jリーグトップの観客動員と営業収入を誇る。
発足以降大部分の期間をドイツ人監督と日本人監督が占めている。
チーム名の由来はダイヤモンドのような硬い団結(三菱グループのマークのスリーダイヤモンド)・三菱自動車のイメージカラーである赤がモチーフとなっている。
[編集] 経営母体・来歴
- 1950年 - 中日本重工業サッカー部(後の三菱重工業サッカー部)創立
- 1992年 - 4月、株式会社三菱自動車フットボールクラブ設立。(クラブの歴史については別項を参照。)
- 1993年 - 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)発足
- 1996年 - 2月、クラブ名を「浦和レッドダイヤモンズ」に改名
- 2005年 - 2月、埼玉スタジアム2002内に本社移転
- 三菱自動車フットボールクラブは、当初三菱自動車工業の完全出資(100%)子会社として発足したが、以後、地元自治体・企業の資本参加を受け入れている。1996年12月、埼玉県および浦和市(当時)が増資を引き受け(第3セクター化)、2000年12月の増資では地元企業の埼玉縣信用金庫、藤島建設、藤島住宅、エコ計画などが新たな出資者に加わる。地元企業以外では三菱グループ7社とトーシンパートナーズなどが出資している。
- 現在の出資比率は三菱自工が50.625%で筆頭株主であることに変わりはないが、三菱グループ7社を除くその他の出資者で40%強を占めている。[1][2]
[編集] クラブの経営状況
[編集] 背景・分析
- Jリーグクラブトップの営業収益を上げる背景に、以下の点が挙げられる。
- クラブの観客動員数はJリーグで常に1、2を争っている(2008年度動員数809,353人、Jリーグ史上最高動員記録)。この他に過去10シーズン(1996年-1999年、2001年-2003年、2006年以降)でJリーグの年間最多観客数を記録している。また、カップ戦(ナビスコ杯4試合、ACL6試合)を含めると年間観客動員数は100万人を超える。
- 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%[3])、割引率10%未満にも関わらず、シーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2,000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
- サポーター観客のアウェイゲーム動員数が他クラブと比較しても多い。
- ユニフォームサプライヤーは1997年のUMBROを除き過去一貫してプーマであったが、2004年からナイキが独占供給契約を結んでおり、2007年からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。
[編集] 地域への貢献
- 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5,000万円をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・特別支援学校に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグのさいたまレイナスFCを統合し、浦和レッズ・レディースを設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
- 埼玉県内における浦和レッズがもたらす経済波及効果[1]は、年間127億円(2006年度ベース)[4]。そのうち、直接効果はクラブの支出68億55百万円とサポーターの交通費・飲食代21億25百万円の合計89億80百万円となり、一次波及効果は16億74百万円、二次波及効果が20億65百万円で、経済波及効果の合計は127億19百万円と算出されている[2]。これにはケーブルテレビ等のJリーグ有料放送の視聴増加分や大画面テレビ等の購入促進効果、地元でのサッカー人気の盛り上がりに伴う消費拡大などは含まれていない。
- 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一や土橋正樹ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園、小学校などを巡回している。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
- Jリーグ百年構想の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元東京農業大学グラウンド)にサッカー場(天然芝2面・人工芝1面)、フットサル場(人工芝8面)、テニス場(全天候型など9面)、野球場(天然芝1面)、ラグビー場(天然芝1面)、サイクリングコース、キャンプ場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランドとして一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館の指定管理者となり、徐々に整備がすすめられるものと思われる。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。
[編集] 国際交流
- アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ2007(ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」(藤口社長)という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催。[5]予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。
- 2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリード(スペイン)、チェルシー(イングランド)、ACミラン(イタリア)、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送された。
[編集] 歴代本拠地
- 駒場スタジアム(1993年-1994年第1ステージ、1995年第2ステージ-2010年。2003年以後埼玉スタジアム2002と併用 2010年はカップ戦のみ。2011年は改修工事のため一時撤退)
- 大宮サッカー場(1992年ナビスコ杯、1993年ナビスコ杯、1994年第2ステージ・1995年第1ステージ。1993年以外は駒場の改修に伴う。1992年ナビスコ杯は他に川越運動公園陸上競技場でも主催された)
- 埼玉スタジアム2002(2001年-。本拠地登録<駒場と併用>は2003年以後)
- ※2010年まではJリーグ発行のファンズガイドには埼玉スタジアム・駒場スタジアムの双方を本拠地として紹介していたが、2011年は駒場の項目が削除(登記上は2箇所併用のままだが、駒場での開催がないため)されている
[編集] 歴史
[編集] 浦和レッドダイヤモンズ発足まで
詳細は「三菱重工業サッカー部」を参照
浦和市(当時)は当初、日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研サッカー部を母体にし、本田技研狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属のNTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎に相談したところ、三菱自工の森孝慈を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた[6][7]。
三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。
こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した[7]。そして1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の1つに選出され、翌年秋のナビスコ杯に出場し、記念すべきJリーグ公式戦の初陣を大宮公園サッカー場で飾った。
[編集] 1992年 - 1994年
- 1992年 - Jリーグ開幕前に開催された最初のナビスコ杯では5勝4敗と勝ち越したが、予選5位となり惜しくも上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯も準決勝まで進出した。
- 1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、1993年シーズンは、両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:ヴェルディ川崎)の優勝を目の前で決められた。なお、Jリーグ初勝利はV川崎戦でPKだった。
- 1994年には、V川崎から元日本代表の菊原志郎をレンタル移籍で獲得した。
- 1993年最下位でシーズンを終了し当時監督の森孝慈は「3年間分負けた」と発言した。
- 1993年、1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったのだが、このユニフォームを使用した試合では、2年間で1勝もすることができなかった。
- 当時の補強方針にも疑問がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラが出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーンが結果を残せず、センターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロを獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの、肝心のDFは補強されなかった。ミロは出場3試合目の名古屋グランパス戦に大敗し、3連敗を喫した後、報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」、「もう帰りたい」とコメントした。結局、この時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲだけであった。しかし、94年セカンドステージからギド・ブッフバルト、ウーベ・バインが加入すると、徐々に改善の兆しを見せていった。
- 1994年6月の第1ステージ・サントリーシリーズ後、駒場陸上競技場がJリーグ規格の15000人を下回るキャパシティ(当時約1万人収容)であり、Jリーグの勧告を受ける形で増築・改修を行うことを決め一時閉鎖。第2ステージ・NICOSシリーズ以後暫定的に大宮サッカー場(こちらも当時は約1万人収容でJリーグ規格外)に本拠を移す。
[編集] 1995年 - 1998年
- 1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で躍進を遂げる。前年に入団した元ドイツ代表のDFブッフバルトの活躍によって守備が安定し、1995年の1stステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
- 同年サントリーシリーズは引き続いて大宮で主催試合を行ったが、NICOSシリーズが開幕する8月に駒場スタジアムの増築が完了し本拠地に復帰。
- その後は中位にとどまることが多くなる。三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。通年シーズンであった1996年は、第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず、最終的に6位に終わった。なお、この年にブッフバルトが退団・帰国した。1998年は三菱OBの原博実が監督の下、新加入の小野伸二を擁して2ndステージで3位となった。
[編集] 1999年
- 1999年は小野や外国人選手の故障、選手補強が引き続き厳しい環境だった経営的要因等のために成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原を更迭、後任にア・デモスを迎えるが、最終戦で福田がVゴールを決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で年間順位15位でJリーグ ディビジョン2(J2)へ降格し、「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事はテレビや新聞、雑誌等でも特集された。
[編集] 2000年
- J2で迎えた2000年シーズンは苦戦が続いたが、最終節のサガン鳥栖戦に延長Vゴールで勝利して、3位大分トリニータとの勝ち点差わずか1ながらも2位でJ1昇格を決めた(2000年J2最終節を参照)。
[編集] 2001年
- 2001年 - それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更。しかしブラジルに強力なコネクションはなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノは全く機能しなかった。1stステージ終了後に小野伸二がオランダのフェイエノールトへ移籍。川崎からエメルソンを獲得した。10月13日、埼玉スタジアム2002での杮落し(横浜FM戦)に60,553人の観客を集め、リーグ戦初の6万人試合となった。
- 埼玉スタジアム2002は2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムと共にホームスタジアムとして登録された。
[編集] 2002年
- 2002年 - 森孝慈がGMとして復帰し積極的な補強を行う[8][9][10]。元日本代表監督のハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し、再度ヨーロッパ路線へ戻る。2ndステージは第9節まで無敗(8勝1分)で首位に立っていたが、その後6連敗で中位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島に敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
- 森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再出発し、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。
[編集] 2003年
- 2003年 - 福田の引退試合が埼玉スタジアム2002に5万人以上もの観客を集めて行なわれた。11月、再びナビスコ杯の決勝で鹿島と対戦。前年の雪辱を果たして初タイトルを獲得した。なおその直後、J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。なお、この年を以てオフトが監督を退任した。
- 前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。
[編集] 2004年
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2004年ヤマザキナビスコカップ決勝
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- 2004年 - 浦和OBのギド・ブッフバルトが監督に就任し、ヘッドコーチにゲルト・エンゲルスを迎える。ナビスコ杯は決勝でFC東京に敗れたが、J1リーグ第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、G大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れ、2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝ち点37は、15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝ち点記録であった。
- 駒場スタジアムで開かれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。また優勝決定直後には浦和駅周辺などで熱狂的サポーターが発煙筒を炊いたり、バイクでパレードをするなど、過熱化したが、怪我人や逮捕者は出なかった。
- 12月5、12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利したが、2試合通算スコアで同点だったためVゴール延長→PK戦の末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦、年間総合成績では初めて1位になった。
- 入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。
[編集] 2005年
- 2005年 - 開幕直前に山瀬功治が横浜FMへ移籍、シーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サッドへ完全移籍し、リーグ戦は最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しかできず最下位も経験してからスタートダッシュに失敗して苦戦したが、途中からMFロブソン・ポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強し、最終節まで優勝争いに加わり、優勝したG大阪と勝ち点差1の勝ち点59で2年連続の年間2位となった。得点はG大阪(82得点)に次ぐ65得点、更にリハビリから復帰した坪井慶介、2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王と05シーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍で、リーグ最少失点の37失点であった。天皇杯は、マリッチが全試合で得点(5試合6得点)をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾った。これにより、2007年のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝した。
- 2006年シーズンにさきがけ、東京Vを契約満了となったFWワシントンおよびMF相馬崇人を完全移籍で、C大阪からFW黒部光昭を2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、更に小野伸二が復帰した。
- 2005年2月にはさいたまレイナスFCを統合する形で女子チームを発足させたり、7月には総合スポーツランド・レッズランドを仮オープンさせるなど地域での活動を一気に展開させた年でもあった。また、2005年度から損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消して自立経営が始まった他、地域との結びつきを強めるための増資計画が公表された(三菱自工が消極姿勢を示したことから実現には至っていない)。
[編集] 2006年
- 2006年 - 2月25日、国立競技場で行われたシーズン最初の公式戦・ゼロックス・スーパーカップでG大阪に3-1で勝利、浦和レッズとなって初めて同タイトルを獲得(旧日本サッカーリーグ時代には、前身の三菱重工時代にスーパーカップ3度優勝している)。また、J1第2節の磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月には、フィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。
- 2006年J1第2節で、レッズはJ1(初期のJリーグを含む)主催試合観客動員数500万人を突破した。これはJリーグ加盟31クラブを通しても初めての快挙であり、またJ1在籍年数が1年少ないにも関わらず、2位の横浜FM以下を大きく引き離す数字である。またこの年度の観客動員数は774,749人でこの数字もJリーグ歴代最高年間観客動員数である。
- 開幕ダッシュに成功。その後も着実に勝ち点を延ばし、第3節以降は常に3位以内を保ち、更に第22節から6連勝して第25節に首位に立ち、最終節で2位のG大阪と対戦した。この試合結果が「勝ち又は引き分け、もしくは得失点差が2点差以内の負け」で優勝という条件の下、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍で3-2で制し、初のJリーグ年間王者に輝いた(ワシントンはこの2得点で自身初となるJリーグ得点王のタイトルを獲得)。
- リーグ戦でのホームゲームでは15勝2分とJリーグ史上初のホームゲーム無敗を記録した。
- J2降格経験チームのJリーグ年間王者は浦和が初めてである。最終節ではリーグ戦史上最多観客動員となる62,241人を記録した。
- 天皇杯では、G大阪を1-0で三度破り2年連続優勝(Jリーグ開幕後の天皇杯連覇チームは初めて)、リーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成。同時に2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
- 選手、監督としてレッズの発展に貢献したブッフバルトが天皇杯を最後に監督を退任し、2007年シーズンは国際サッカー連盟の技術部長となっていたオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰した。
- クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が10月にスタート。社長は藤口光紀に交代した。
[編集] 2007年
- 2月13日、オーストリアのザルツブルクで行われたBulls Cupに出場した。これは現地のオーストリア・ブンデスリーガに属するレッドブル・ザルツブルク主催によるイベント色が濃い国際大会であり、ドイツのバイエルン・ミュンヘンも出場した。45分の試合を総当りで3試合行う形式で実施され、レッズはザルツブルクに1-3、バイエルンに0-3と大敗した。この結果によりJリーグのレベルが欧州標準からはかなり劣っているとの指摘を日本国内だけでなく、オーストリアやドイツのメディアからも受けた。また、日本代表監督のイビチャ・オシムからレッズ所属の代表選手に対して、プレー内容の苦言を呈された。
- 2月24日、ゼロックス・スーパーカップでG大阪に0-4で敗退し連覇を逃した。
- 3月3日の開幕戦、前年J2優勝の横浜FCに2-1で勝利し、2001年のJ1復帰以降初めて開幕戦で勝利した。
- 三連覇を目指した5月のフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会は準々決勝で敗退した。
- 5月23日のAFCチャンピオンズリーグのグループリーグでシドニーFCとホームでの対戦で0-0で引分け、E組のグループ1位となり決勝トーナメントに進出した。
- 決勝トーナメントでは準々決勝で全北現代と対戦し2戦2勝、準決勝で城南一和と対戦し、2試合とも2-2の後PK戦で勝利、また決勝でセパハンと対戦し1勝1分けで日本のクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制覇した(欧州に倣ってACLの前身アジアクラブ選手権を含めて換算すると、1999年の磐田に続き2クラブ目)。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝したことは大会始まって以来の快挙であった。
- この結果、12月7日から始まるFIFAクラブワールドカップにアジア代表として参戦することが決定した。
- Jリーグでは2位以下に最大勝ち点差10をつけて首位にいたが、ACLセパハン戦後に失速。33節には2位鹿島との直接対決にも敗れ、勝ち点差1の首位で最終節を迎えた。
- 天皇杯は2日後にJリーグ優勝をかけた最終節を控え、ワシントン、ポンテ、阿部などをベンチなどにおいて愛媛FCと初戦を戦ったが0-2で敗れ、天皇杯3連覇はなくなった。
- その2日後の12月1日の最終節で最下位の横浜FCに0-1と敗戦、勝ち点差1の鹿島がこの日に勝利し、逆転優勝を許した。連覇を逃し2位で終了した。
- FIFAクラブW杯では12月16日のアフリカ代表のエトワール・サヘルとの3位決定戦でPK戦の末に勝利した。
- 12月22日にACL優勝パレードが予定されていたが、Jリーグ連覇を逃したこともあり中止になった。しかし、ACLやクラブワールドカップでの躍進が評価され、Jリーグクラブで初となる日本プロスポーツ大賞を受賞した。
[編集] 2008年
- 2008年シーズンに向けて、オフにはブンデスリーガ・フランクフルトの高原直泰、大分から梅崎司、新潟からエジミウソン、レッドブル・ザルツブルクからアレックスが復帰と大型補強を敢行し、「ミスター・レッズ」福田正博がコーチとして復帰した。
- 3月16日、リーグ戦開幕2連敗を受けてオジェックを監督から解任。コーチだったゲルト・エンゲルスが監督に昇格し、チームと複数年契約を締結する。
- J1第13節 G大阪戦において、相手サポーターに端を発するサポーター同士が衝突する事件が起き、Jリーグは試合を主催した浦和の警備体制に不備があったとして、浦和に過去最高の制裁金2000万円を科する処分を下した。
- また、J1第18節 川崎戦でもサポーターの問題行動が起き、これを受け下記のACLのG大阪戦では埼玉スタジアムの観客席に防護ネットが張られた。
- 10月22日、埼玉スタジアムで行われたACL準決勝のG大阪戦で逆転負けを喫し、ACL連覇が消滅した。
- J1第33節 G大阪戦で黒星を喫し、5年ぶりに無冠でシーズンを終えることが確定した。その翌日、名古屋が札幌に勝利したため、シーズン4位以下が確定し、同時にACLの出場権も逃し、最終順位は7位となった。新しいチーム統括責任者として元横浜FC監督の信藤健仁のチームダイレクター(TD)就任と、エンゲルスの今季限りでの監督退任を発表。
[編集] 2009年
- 監督にフォルカー・フィンケが就任。ディフェンスラインを3バックから4バックへと移行し、リアクションサッカーからポゼッションサッカーへの移行を図った。
- 内舘秀樹が引退、岡野雅行などのベテラン選手を放出し、永井雄一郎が清水に完全移籍、そして相馬崇人が海外挑戦するなど、主力選手が他チームへ移籍。新戦力としては、レンタル移籍から復帰した赤星貴文、大卒新人の野田紘史、ユースから昇格の原口元気(飛び級昇格)、山田直輝、高橋峻希、濱田水輝、永田拓也と若手選手の獲得及びレンタルバックのみで、他のチームから選手を獲得しなかった(うち、赤星は山形に、野田は岡山にシーズン途中でレンタル移籍)。
- 4月に行われた定例取締役会において、2006年シーズン途中から社長を務めていた藤口光紀が2008年のホルガー・オジェックの監督解任に端を発したクラブの成績不振の責任を取り、任期を残しながらも社長を退任した。後任に三菱自動車工業元常務取締役の橋本光夫が就任した。
- 8月に度重なる負傷の回復が遅れた上に、若手選手達の台頭によってポジション争いに苦しんだ三都主アレサンドロが出場機会を求めて名古屋へ完全移籍した。
- 序盤は一時首位に躍り出るなど好調であったが、7月にリーグ戦14連敗を喫していた大分に1-0で敗戦したのをきっかけに、9月の山形戦に勝利するまで公式戦8連敗を喫し、リーグ戦は6位。また、ナビスコカップはベスト8、天皇杯は2回戦で北信越フットボールリーグ1部所属の松本山雅FCに敗退した。この成績に一部から橋本社長、信藤TD、フィンケ監督ら首脳陣への批判があがったが、12月15日に記者会見でフィンケが翌2010年シーズンも指揮を執ることで大筋合意したと発表した。
- シーズン終了後、田中マルクス闘莉王がチーム作りの方向性やクラブ内での約束事等に関してクラブと合意に至らなかったことから名古屋へ完全移籍した。[11]
[編集] 2010年
- 近藤徹志が岡山へ完全移籍、橋本真人が栃木SCへ期限付き移籍、2009年シーズンから草津へ期限付き移籍していた小池純輝が水戸へ完全移籍、2009年シーズン途中から山形へ期限付き移籍していた赤星貴文が契約満了に伴い退団、野田紘史の岡山への期限付き移籍が延長された。
- 2009年シーズン途中から特別指定選手としてトップチームに登録していた流通経済大学の宇賀神友弥が新卒選手として正式に加入し、2009年シーズンから水戸へ期限付き移籍していた高崎寛之が復帰した。
- 2年越しのラブコールを実らせ、広島から柏木陽介を完全移籍で獲得。闘莉王らの退団によって選手層が薄くなったセンターバックの補強選手としてドイツ・ブンテスリーガ1.FCニュルンベルクからマシュー・スピラノビッチを期限付き移籍で獲得し、更にフィンケがかつて指揮したSCフライブルクで主力として活躍したドイツ・ブンデスリーガ1.FCケルン所属のウィルフリード・サヌを期限付き移籍で獲得した。
- 2008年12月からチームダイレクターを務めていた信藤健仁が体調不良を訴え、その後の検査で甲状腺の機能に障害があることが判明し、治療が必要と診断されたことにより、2009年限りで同職を退任。後任として、現役時代に浦和でプレーし、初代キャプテンを務めた柱谷幸一が2010年1月1日付でゼネラルマネージャー(GM)に就任した。
- 5月15日の仙台戦にてレッズサポーターが仙台の北朝鮮代表のMF梁勇基に対し人種差別的な発言をしたとして、Jリーグはレッズに500万円の制裁金を科す決定を下した[12](なお、リャンはこの試合で1得点を決めている)。
- 10月30日に埼玉スタジアムで開催された山形戦での観客数が接近していた台風14号の影響もあって21,625人にとどまり、リーグ戦埼玉スタジアム開催試合では最少観客動員となった。
- 6月9日、日産スタジアムにおける横浜F・マリノスホームゲーム戦(ナビスコカップ 第7節)において、浦和サポーター成人の多数が小中学生チケットで入場しようとする不法行為を犯した。(違反者は5試合の浦和主催試合入場禁止となり、またその期間中のアウェーの試合も入場禁止となった)[13][14]
[編集] 2011年
- 低迷しているチームを変えるためフィンケ監督をはじめ6人中5人のコーチが退任し、後任の監督としてチームOBのゼリコ・ペトロビッチが[15]、コーチにアドリエ・ボヘルスがそれぞれ就任した。ボヘルスの就任はペトロビッチ監督が希望した[16]。
- ロブソン・ポンテが退団、永田拓也がレンタル移籍で、林勇介が完全移籍で草津に移籍、前年草津にレンタル移籍していた西澤代志也が栃木SCに、栃木SCへ期限付き移籍していた橋本真人がJFLのV・ファーレン長崎へ完全移籍、細貝萌がブンデスリーガ1部のバイエル・レヴァークーゼンに完全移籍(その後ブンデスリーガ2部のFCアウクスブルクにレンタル移籍)、サヌはレンタル移籍期間満了に伴い1.FCケルンに復帰した。湘南に期限付き移籍していた都築龍太とは契約を更新せず[17]、都築は1月27日に引退を表明した[18]。引退セレモニーは8月6日の予定であったが[19]、8月24日に延期された[20]。
- 補強は新潟からマルシオ・リシャルデス、永田充を、徳島から青山隼を獲得、サンパウロFCからマゾーラを期限付きで獲得、堤俊輔、野田紘史がレンタル移籍より復帰、レンタル移籍だったスピラノビッチは完全移籍となった。
- 6月29日にエジミウソンがアル・ガラファへ完全移籍[21]、7月14日に堤が栃木SCへ期限付き移籍[22][23]したが、7月2日にランコ・デスポトヴィッチが加入した[24]。
- 大型補強をした上で迎えたシーズンであったが開幕戦で神戸に敗れ、東日本大震災後のリーグ再開初戦で前年王者の名古屋に3-0で勝利したものの序盤から一時は降格圏内に転落するほど低迷し、9月12日にクラブは柱谷GMの契約解除と山道守彦の強化部長就任を発表[25]。さらに第29節で大宮に敗れ降格圏に順位を落としたことで、10月20日にクラブはペトロビッチ監督とボヘルスコーチを解任[26]、後任の監督にユース監督の堀孝史が、コーチにはユースコーチの天野賢一がそれぞれ就任した[27]。ヴァンフォーレ甲府との残留争いを繰り広げ、最終節で15位となり何とか残留を決めるほど苦しい戦いを強いられた。特に昨年まで3年連続でチーム得点王であったエジミウソンを6月に放出、代わりにデスポトビッチが加入したがリーグ戦ノーゴールに終わった影響もあってリーグ戦全試合通算36得点(J1ワースト3位)と深刻な得点力不足に陥ったこと、監督やGMの交代などによるフロント内の混乱も低迷の大きな要因となった。リーグ戦で10得点以上を記録した選手が現れなかったのは2005年シーズン以来6年ぶりである。
- その一方でナビスコカップでは1回戦から順調に勝ち上がり、準々決勝でセレッソ大阪に、準決勝でここ数年勝利のないガンバ大阪にそれぞれ2-1で勝利して7年ぶりの決勝進出を果たすが、決勝で延長戦の末鹿島に0-1で敗れ準優勝となった。この大会では4得点を挙げたデスポトビッチが得点王となった。
- 従来どおり埼玉スタジアムと駒場スタジアムの2箇所を登録上の本拠地としているが、駒場はトラック改修工事のため使用せず、ホームゲームは全試合(リーグ戦・ナビスコ杯とも)埼玉で開催した。駒場で1年を通して試合が組まれないのは1992年のJリーグカップを除けばJリーグ発足後初である。
[編集] 2012年
- 監督に昨シーズンまで約6年間にわたり広島を指揮していたミハイロ・ペトロヴィッチが就任。昨シーズン途中から指揮を執っていた堀はトップチームのコーチに就任。広島時代にペトロヴィッチの通訳を務めた杉浦大輔がコーチに就任。
- マゾーラがレンタル移籍期間満了、栃木SCにレンタル移籍していた堤俊輔が福岡へ、高崎寛之が甲府へ、堀之内聖が横浜FCへ完全移籍。原一樹が京都へ、青山隼が徳島へレンタル移籍。草津にレンタル移籍している永田拓也の移籍期間も延長された。
- 新加入選手として、ブンデスリーガ・1.FCケルンから広島時代にペトロヴィッチ監督のもとでプレーしていた日本代表DF槙野智章をレンタル移籍で獲得。神戸からポポを完全移籍で獲得。また、2010年9月にレッズからレスター・シティFCへ移籍した阿部勇樹が復帰した。
[編集] 歴代監督と成績
詳細は「浦和レッドダイヤモンズの年度別成績一覧」を参照
[編集] 天皇杯
- 初戦で敗退したのは2002年(対福岡)、2003年(対湘南)、2007年(対愛媛)、2009年(対松本山雅FC)の4度。なお、2009年に敗れた松本山雅FCは当時北信越フットボールリーグ所属であったが、J1クラブが地域リーグ所属クラブに敗れるのはJリーグ発足後初。
[編集] その他公式戦
- 横浜FM戦の2試合は2004年のJリーグチャンピオンシップ。
- G大阪戦の4試合は2006年、2007年のゼロックス・スーパーカップ、2008年のAFCチャンピオンズリーグ準決勝2試合。
- 韓国Kリーグのクラブには、親善試合、公式戦を含めて無敗である。
[編集] 国際試合・親善試合
[編集] 親善試合
| 開催年 | 月日 | 大会名 | 対戦相手 | 開催スタジアム | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1992年 | 4月4日 | 浦和国際親善サッカー | 駒場スタジアム | ○ 3-0 | |
| 1993年 | 4月24日 | ● 0-2 | |||
| 1994年 | 6月29日 | ● 3-5 | |||
| 7月19日 | コカコーラカップ | 福岡ドーム | ● 0-1 | ||
| 10月8日 | 国際親善サッカー | 新潟市陸上競技場 | ○ 2-1 | ||
| 1995年 | 8月1日 | 国際招待サッカー | 大宮公園サッカー場 | ● 1-3 | |
| 1996年 | 3月10日 | さいしん国際親善サッカー | 駒場スタジアム | △ 1-1 | |
| 12月14日 | 国立競技場 | ○ 5-0 | |||
| 1997年 | 7月22日 | シャープカップ | 駒場スタジアム | ● 1-2 | |
| 2000年 | 1月23日 | 日蘭交流四百周年記念 | アムステルダム・アレナ | △ 1-1 | |
| 2001年 | 2月25日 | 国際親善試合 | 駒場スタジアム | ○ 2-1 | |
| 2002年 | 5月26日 | アルウィン | ● 0-2 | ||
| 2003年 | 6月4日 | さいたまシティカップ | 埼玉スタジアム | △ 2-2 | |
| 2004年 | 7月27日 | ○ 1-0 | |||
| 8月3日 | ボーダフォンカップ | オールド・トラフォード | ● 2-5 | ||
| 2005年 | 5月31日 | 国際親善試合 | 埼玉スタジアム | ● 0-2 | |
| 6月15日 | さいたまシティカップ | ● 0-3 | |||
| 7月30日 | ボーダフォンカップ | ● 0-2 | |||
| 2006年 | 7月31日 | さいたまシティカップ | ○ 1-0 | ||
| 2007年 | 2月13日 | ブルズカップ(45分試合) | ザルツブルク | ● 1-3 | |
| ● 0-3 | |||||
| 7月17日 | さいたまシティカップ | 埼玉スタジアム | △ 2-2 | ||
| 2008年 | 7月31日 | ● 2-4 |
その他、海外キャンプ時に現地のクラブと親善試合を数多く行っている。
[編集] 国際試合
| 開催年 | 月日 | 大会名 | 対戦相手 | 開催スタジアム | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2007年 | 3月7日 | ACL2007グループリーグ | 埼玉スタジアム | ○ 3-0 | |
| 3月21日 | オージー・スタジアム | △ 2-2 | |||
| 4月11日 | 埼玉スタジアム | ○ 1-0 | |||
| 4月25日 | 上海浦東源深体育場 | △ 0-0 | |||
| 5月9日 | マナハン・スタジアム | △ 3-3 | |||
| 5月23日 | 埼玉スタジアム | △ 0-0 | |||
| 6月7日 | A3チャンピオンズカップ2007 | 山東省体育中心体育場 | ● 3-4 | ||
| 6月10日 | ○ 1-0 | ||||
| 6月13日 | ● 1-3 | ||||
| 9月19日 | ACL2007決勝T準々決勝 | 埼玉スタジアム | ○ 2-1 | ||
| 9月26日 | 全州ワールドカップ競技場 | ○ 2-0 | |||
| 10月3日 | ACL2007決勝T準決勝 | 城南炭川総合運動場 | △ 2-2 | ||
| 10月24日 | 埼玉スタジアム | △ 2-2 (PK5-3) |
|||
| 11月7日 | ACL2007決勝T決勝 | Foolad Shahr Stadium | △ 1-1 | ||
| 11月14日 | 埼玉スタジアム | ○ 2-0 | |||
| 12月10日 | FCWC2007 準々決勝 | 豊田スタジアム | ○ 3-1 | ||
| 12月13日 | FCWC2007 準決勝 | 横浜国際総合競技場 | ● 0-1 | ||
| 12月16日 | FCWC2007 3位決定戦 | △ 2-2 (PK4-2) |
|||
| 2008年 | 9月17日 | ACL2008決勝T準々決勝 | モハメド・アルハマド・スタジアム | ● 2-3 | |
| 9月24日 | 埼玉スタジアム | ○ 2-0 | |||
| 10月8日 | ACL2008決勝T準決勝 | 万博記念競技場 | △ 1-1 | ||
| 10月22日 | 埼玉スタジアム | ● 1-3 |
[編集] タイトル
[編集] 国内タイトル
[編集] 国際タイトル
[編集] 個人別タイトル
- AFCチャンピオンズリーグ
- 最優秀選手(MVP)
- 2007年
永井雄一郎
- 2007年
- Jリーグ
- 最優秀選手(MVP)
- 得点王
- 新人王
- 最優秀監督
- 2006年
ギド・ブッフバルト
- 2006年
- ベストイレブン
- 最優秀選手(MVP)
- 2003年
田中達也
- 2003年
- ニューヒーロー賞
- 2002年
坪井慶介 - 2003年
田中達也 - 2004年
長谷部誠 - 2011年
原口元気
- 2002年
- 得点王
[編集] その他受賞
- 1996年 フェアプレー個人賞 (岡野雅行)
- 1999年 Join賞 (浦和レッズ、浦和市、レッズファン・サポーター)
- 2002年 フェアプレー個人賞 (坪井慶介)、Join賞 (浦和レッズ)
- 2003年 功労選手賞 (福田正博、井原正巳)
- 2004年 Join賞 (浦和レッズ)
- 2005年 Jリーグベストピッチ賞 (埼玉スタジアム2002)
- 2007年 特別賞 (浦和レッズ)
- 2007年 AFC最優秀クラブ (浦和レッズ)
- 2007年 AFCチャンピオンズリーグ フェアプレー賞 (浦和レッズ)
- 2007年 FIFAクラブワールドカップ FIFAフェアプレー賞 (浦和レッズ)
- 2007年 日本プロスポーツ大賞 (浦和レッズ)
- 2009年 最優秀育成クラブ賞 (浦和レッズ)
- 2009年 Jリーグベストピッチ賞 (埼玉スタジアム2002)
[編集] クラブ記録
[編集] 最多得点試合
J1
- ホーム
- 7-2 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V、埼玉スタジアム2002)
- 7-0 (2005年第27節(10月15日)・対柏、駒場スタジアム)
- アウェー
- 7-0 (1996年J第20節(9月21日)・対柏、国立霞ヶ丘陸上競技場)
- 7-0 (2005年第14節(7月6日)・対東京V、国立霞ヶ丘陸上競技場)
J2
- 7-0 (2000年第4節(3月30日)・対鳥栖、鳥栖スタジアム) ※J2記録タイ
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- 9-0 (2000年天皇杯2回戦(12月3日)・対ホンダロックSC、駒場スタジアム)
[編集] 最多失点試合
J1
- ホーム
- 0-6 (1993年2nd第9節(9月3日)・対V川崎、駒場競技場)
- 3-6 (1994年2nd第22節(11月19日)・対横浜M、富山県総合運動公園陸上競技場)
- 1-6 (2008年J1第34節(12月6日)・対横浜FM、埼玉スタジアム2002)
- アウェー
- 1-8 (1999年1st第15節(5月29日)・対名古屋、名古屋市瑞穂公園陸上競技場)
J2
- 1-6 (2000年J2第18節(6月10日)・対新潟、新潟市陸上競技場)
[編集] 最多失点勝利試合
- 4-3 (1994年2nd第3節(8月17日)・対市原、市原緑地運動公園臨海競技場)
- 4-3 (2005年J1第24節(9月18日)・対広島、広島ビッグアーチ)
[編集] 最多得点敗戦試合
- 4-5 (1994年2nd第12節(9月21日)・対清水、静岡県草薙総合運動場陸上競技場)
- 4-6 (2003年1st第5節(4月26日)・対C大阪、長居スタジアム)
[編集] 最多得点(失点)引分試合
- 4-4 (2003年1st第9節(5月17日)・対G大阪、駒場スタジアム)
[編集] 最多連続無敗試合
- 16試合 (2007年J1第8節(4月29日)から第23節(8月29日) - 11勝5分)
- (参考:他の公式戦込み)
- 17試合 (リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分)
ホーム無敗記録
- 25試合 (2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日) - 22勝3分)
※J1史上最多記録タイ
- (参考:他の公式戦込み) ※埼玉スタジアム、駒場スタジアムでの試合
- 37試合 (リーグ戦2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日)25試合、大宮アルディージャのホームゲーム1試合、2006年ナビスコ杯予選3試合、準々決勝1試合(3月29日、4月12日、5月21日、6月3日)、2005年天皇杯2試合(11月3日、12月24日)、2006年天皇杯3試合(11月4日、12月16日、12月23日)、2007年ACL2試合(3月7日、4月11日)- 34勝3分)
アウェー無敗記録
- 17試合 (2006年第33節(11月26日)から2007年第31節(11月11日) - 12勝5分)
[編集] 最多連勝
- 8連勝 (1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日)) - PK勝ち1試合含む
- 7連勝 (1998年1st第17節(8月8日)から2nd第6節(9月18日)) - 90分勝ちのみ
ホーム連勝記録
- 10連勝 (2006年第8節(4月15日)から第27節(10月15日))
アウェー連勝記録
- 10連勝 (2007年第12節(5月19日)から第29節(10月20日))
[編集] 最多連敗
- 9連敗 (1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日)) - Vゴール負け1試合含む
- 7連敗 (2009年第18節(7月18日)から第24節(8月29日)) - 90分負けのみ
ホーム連敗記録
- 6連敗 (1993年2nd第5節(8月14日)から第15節(11月27日))
アウェー連敗記録
- 10連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から2nd第1節(7月24日)) - PK負け1試合含む
- 10連敗 (1993年2nd第14節(11月20日)から1994年1st第14節(5月4日)) - Vゴール負け3試合含む
- 10連敗 (1994年2nd第8節(9月7日)から1995年1st第5節(4月1日)) - Vゴール負け1試合含む
- 8連敗 (1993年1st第1節(5月16日)から第14節(6月30日)) - 90分負けのみ
[編集] 同一カード最多連勝
- 7連勝 (2003年1st第6節(4月29日)から2008年第17節(7月17日)-対東京V)
- 9連勝 (1997年2nd第17節(10月4日)から2000年J2第42節(11月20日)-対平塚) -J2リーグ戦4試合含む。Vゴール勝ち2試合含む。 2003年に天皇杯で敗れた。
[編集] 同一カード最多連敗
- 7連敗 (1993年1st第2節(5月19日)から1994年2nd第5節(8月27日)-対名古屋) - 90分負けのみ
- 7連敗 (1993年1st第13節(6月26日)から1994年2nd第21節(11月16日)-対V川崎) - Vゴール負け1試合含む
- 7連敗 (1993年2nd第1節(7月24日)から1995年1st第10節(4月22日)-対広島) - PK負け1試合含む
[編集] 個人記録
[編集] 通算最多試合出場
- 459試合 -
山田暢久 (初出場1994年1st第12節(4月27日)・清水戦) ※継続中
[編集] 最多連続試合出場
- 72試合 -
坪井慶介 (2002年1st第1節(3月3日)から2004年1st第12節(6月12日))
[編集] 最年少試合出場
- 16歳10ヶ月22日 -
エスクデロ・セルヒオ (2005年J1第18節(7月23日)・清水戦)
[編集] 最年長試合出場
- 36歳8ヶ月10日 -
ギド・ブッフバルト (1997年2nd第17節(10月4日)・平塚戦)
[編集] シーズンフルタイム出場
田北雄気 (1996年 - 30試合、1999年 - 30試合)
山田暢久 (1998年 - 34試合)
石井俊也 (2001年 - 30試合)
内舘秀樹 (2002年 - 30試合)
坪井慶介 (2002年 - 30試合、2003年 - 30試合)
永田充 (2011年 - 34試合)
[編集] 通算最多得点
[編集] 最多連続得点試合
[編集] シーズン最多得点
[編集] 1試合最多得点
- (参考:リーグ戦以外の記録)
[編集] GK通算最多得点
[編集] 最年少得点
- 17歳11ヶ月3日 -
原口元気 (2009年第5節(4月12日)・対名古屋)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
[編集] 最年長得点
[編集] ハットトリック
- J1
- 3得点
ルル (1994年2nd第12節(9月21日)・対清水)
大柴健二 (1998年1st第9節(4月29日)・対柏)
岡野雅行 (1998年1st第17節(8月8日)・対神戸)
エメルソン (2002年1st第5節(4月20日)・対広島、2004年1st第6節(4月18日)・対大分トリニータ、2004年1st第9節(5月9日)・対新潟、2004年2nd第14節(11月23日)・対柏)
永井雄一郎 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V)
山瀬功治 (2004年2nd第2節(8月21日)・対東京V)
マリッチ (2005年J1第27節(10月15日)・対柏)
ワシントン (2006年第19節(8月23日)・対新潟)
田中マルクス闘莉王 (2008年第17節(7月17日)・対東京V)
エジミウソン (2009年第32節(11月21日)・対磐田)
- J2
- 3得点
阿部敏之(2000年2nd第15節(5月27日)・対鳥栖)
- (参考:リーグ戦以外の記録)
- ヤマザキナビスコカップ
- 4得点
- 3得点
- 天皇杯
[編集] その他記録
- ゴールキーパー初の得点
- 1試合2名のハットトリック
- 4試合連続Vゴール負け
- 1999年2ndステージ9月4日の第6節ジュビロ磐田戦から9月18日の第9節名古屋グランパスエイト戦まで4試合連続で全て1-2のVゴール負けを喫した。なおこのステージでは第2節の柏戦でも2-3でVゴール負けしており、勝負どころで勝ち点を奪えなかったことが、同年のJ2降格を招いてしまった。2003年以降、JリーグはVゴール方式を採用しておらず、公式ルール上でも認められなくなったため、今後はこの記録は破られないと思われる。
[編集] 観客動員記録
[編集] 最多観客動員試合
J1
- ホーム
- 62,241人 (2006年第34節(12月2日)・G大阪戦、埼玉スタジアム2002)
※Jリーグ史上最高観客動員- 9,822人 (1994年1st第22節(6月15日)・横浜M戦、駒場競技場 - 改修前)
- 22,150人 (1995年2nd第8節(9月9日)・磐田戦、駒場スタジアム - 改修後)
- 10,354人 (1995年1st第26節(7月22日)・横浜F戦、大宮公園サッカー場)
- 56,652人 (1995年1st第13節(5月3日)・V川崎戦、国立競技場)
- 62,241人 (2006年第34節(12月2日)・G大阪戦、埼玉スタジアム2002)
- アウェー
- 61,246人 (2008年第1節(3月8日)・横浜FM戦、日産スタジアム)
- (参考:リーグ戦以外の最高)
- 67,005人 (2007年FIFAクラブワールドカップ(12月13日)・ACミラン戦、横浜国際総合競技場)
※レッズ出場公式戦史上最高観客動員
- 67,005人 (2007年FIFAクラブワールドカップ(12月13日)・ACミラン戦、横浜国際総合競技場)
J2
- ホーム
- 20,207人 (2000年第44節(11月19日)・鳥栖戦、駒場スタジアム)
- アウェー
- 19,825人 (2000年第25節(7月29日)・札幌戦、札幌厚別公園競技場)
[編集] 最少観客動員試合
J1
- ホーム
- 5,611人 (1996年第21節(9月28日)・福岡戦、札幌厚別公園競技場)
- 7,854人 (1994年1st第4節(3月23日)・広島戦、駒場競技場 - 改修前)
- 13,329人 (1999年2nd第2節(8月14日)・柏戦、駒場スタジアム - 改修後)
- 9,168人 (1995年1st第22節(7月8日)・広島戦、大宮公園サッカー場)
- 28,054人 (2002年1st第9節(7月20日)・札幌戦、国立霞ヶ丘競技場)
- 20,240人 (2011年第17節(6月22日)・福岡戦、埼玉スタジアム2002)
- 5,611人 (1996年第21節(9月28日)・福岡戦、札幌厚別公園競技場)
- アウェー
- 3,610人 (1997年2nd第1節(7月30日)・市原戦、市原臨海競技場)
J2
- ホーム
- 13,408人 (2000年第26節(8月2日)・新潟戦、駒場スタジアム)
- アウェー
- 4,891人 (2000年第34節(9月24日)・甲府戦、山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場)
[編集] 年度別観客動員記録
- J1
| 年度 | 合計 動員数 |
最多 動員数 |
最少 動員数 |
平均 動員数 |
ホーム 試合数 |
ホームゲーム会場 (数字は試合数、太字は登録本拠地) |
備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1993 | 206,265 | 50,348 | 8,258 | 11,459 | 18 | 駒場17、国立1 | |
| 1994 | 406,457 | 55,125 | 7,854 | 18,475 | 22 | 駒場8、大宮7、国立4、博多陸1、神戸ユ1、富山1 | |
| 1995 | 508,554 | 56,652 | 9,168 | 19,560 | 26 | 駒場12、大宮10、国立3、新潟陸1 | 駒場スタジアム改修 |
| 1996 | 364,936 | 50,974 | 5,611 | 24,329 | 15 | 駒場11、国立3、札幌厚別1 | |
| 1997 | 328,060 | 38,707 | 14,937 | 20,504 | 16 | 駒場14、国立2 | |
| 1998 | 385,994 | 46,547 | 16,971 | 22,706 | 17 | 駒場14、国立3 | |
| 1999 | 319,146 | 46,401 | 13,329 | 21,276 | 15 | 駒場12、国立3 | J2降格 |
| 2001 | 400,799 | 60,553 | 16,808 | 26,720 | 15 | 駒場11、埼玉2、国立2 | 埼玉スタジアム開場 |
| 2002 | 394,445 | 57,902 | 14,499 | 26,296 | 15 | 駒場9、埼玉5、国立1 | |
| 2003 | 432,825 | 51,195 | 18,335 | 28,855 | 15 | 駒場8、埼玉7 | |
| 2004 | 549,903 | 58,334 | 18,029 | 36,660 | 15 | 駒場6、埼玉9 | 初のステージ優勝 |
| 2005 | 669,066 | 55,476 | 15,760 | 39,357 | 17 | 駒場4、埼玉13 | |
| 2006 | 774,749 | 62,241 | 16,040 | 45,573 | 17 | 駒場2、埼玉15 | 初の年間優勝 |
| 2007 | 793,347 | 62,123 | 16,709 | 46,667 | 17 | 駒場2、埼玉15 | |
| 2008 | 809,353 | 57,050 | 16,225 | 47,609 | 17 | 駒場1、埼玉16 | |
| 2009 | 751,565 | 53,783 | 18,777 | 44,210 | 17 | 駒場1、埼玉16 | |
| 2010 | 678,994 | 55,410 | 21,625 | 39,941 | 17 | 埼玉17 | |
| 2011 | 576,477 | 54,441 | 20,240 | 33,910 | 17 | 埼玉17 | |
| 計 | 9,350,935 | 30,360 | 308 |
- (*1)太字はJリーグ歴代最高年間観客動員数
- (*2)かっこ内は残り試合数を表す
- J2
| 年度 | 合計 動員数 |
最多 動員数 |
最少 動員数 |
平均 動員数 |
ホーム 試合数 |
ホームゲーム会場 (数字は試合数) |
備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2000 | 338,457 | 20,207 | 13,408 | 16,923 | 20 | 駒場20 | J1昇格 |
| 計 | 338,457 | 16,923 | 20 |
[編集] 下部組織
2003年に別々であった育成と編成を統合。以降、下部組織の充実に力を注ぐことになる。
2008年(平成20年)、DF堤俊輔がユース出身者として初めてレギュラーに定着した(ただし、2010年シーズンは途中からレンタルで放出され、2011年に復帰したがシーズン途中に再びレンタル移籍)。他にも、FWエスクデロがU-23代表入り、ジュニアユース出身・ユース所属の高橋峻希・山田直輝・原口元気が2種登録選手として公式戦に出場するなど、若手の台頭が活発となった。フォルカー・フィンケが監督に就任した2009年シーズンからは、一段とその傾向が強くなっている。
[編集] ユース
2008年の高円宮U-18で優勝するなど、ユース世代のチームとしても頭角を表してきている。エスクデロ・セルヒオや西澤代志也・高橋峻希・山田直輝・原口元気など、ユース出身の選手も台頭してきている。
- 2003年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会『準優勝』。
- 2004年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会『3位』、Jユースカップ『ベスト4』
- 2008年 - 高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会で悲願の『優勝』(決勝戦では『名古屋グランパスU-18』を、山田直輝がハットトリック、高橋峻希が2得点をあげるなどで、9-1の大差で破る)。
[編集] ジュニアユース
ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。
- 2001年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『優勝』
- 2005年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『優勝』
- 2005年 - 高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会『優勝』
- 2006年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『3位』
- 2008年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『3位』
- 2010年 - 日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会『3位』
[編集] 出身選手
[編集] 主な獲得タイトル
[編集] ユース
- 優勝1回: 1997年
- 準優勝2回: 2002年,2003年
- 優勝1回: 2008年
[編集] ジュニアユース
- 優勝2回: 2001年,2005年
- 優勝1回: 2005年
- 優勝1回: 2009年
[編集] ハートフルスクール
この他に、直接の下部組織では無いがハートフルクラブの一環として浦和駒場、レッズランド、東松山、くまがやドーム、さいたまスタジアム、与野八王子でハートフルスクールと題した小学生向けのサッカースクールを開催している。
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- 赤、 白、 黒
[編集] 過去のチームカラー
- 1993年、1994年のリーグ戦用セカンドユニフォームのみ、カラーが水色(シャツとストッキングが水色、パンツが黒)だった。
[編集] ユニフォームスポンサー
| 掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 胸 | 明治 | SAVAS | 2007年〜 | |
| 背中 | 三菱自動車工業 | MITSUBISHI MOTORS | 2005年、 2007年〜 |
創設時〜2004年までは胸、 2006年はパンツ |
| 袖 | トーシンパートナーズ | トーシン | 1999年〜 | |
| パンツ | ディー・エイチ・エル・ジャパン | DHL | 2009年〜 | 2007年〜2008年までは国際試合用の胸 |
※スポンサーではないが、背中に国際連合承認のNGO「国連の友アジアパシフィック(FOUNAP)」との連携による「SPORTS FOR PEACE!」のロゴが入る。
練習用
- カブドットコム証券
- DHL
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年~1996年 リーグ戦はミズノ(93年、94年のリーグ戦モデル(2nd・FP用)の組み合わせは、シャツ=水色、パンツ=黒、ストッキング=水色)、カップ戦はプーマ
- 1997年 リーグ戦はアンブロ、カップ戦はプーマ
- 1998年~2003年 プーマ
- 2004年~現在ナイキ
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
| 1992 | GALANT | - | - | - | PUMA |
| 1993 | MITSUBISHI MOTORS /MIRAGE |
WordPerfect | Mizuno/PUMA | ||
| 1994 | |||||
| 1995 | COMPAQ | ||||
| 1996 | |||||
| 1997 | UMBRO/PUMA | ||||
| 1998 | PUMA | ||||
| 1999 | MIRAGE Dingo/ MITSUBISHI MOTORS |
トーシン | |||
| 2000 | |||||
| 2001 | PAJERO/ MITSUBISHI MOTORS |
||||
| 2002 | Smilebit | ||||
| 2003 | COLT/ MITSUBISHI MOTORS |
hp | |||
| 2004 | MITSUBISHI MOTORS | FUSO | SEGA | NIKE | |
| 2005 | vodafone | MITSUBISHI MOTORS | |||
| 2006 | FUSO | MITSUBISHI MOTORS | |||
| 2007 | SAVAS/DHL | MITSUBISHI MOTORS | FUSO | ||
| 2008 | |||||
| 2009 | SAVAS | DHL | |||
| 2010 | |||||
| 2011 | |||||
| 2012 |
※2007年および2008年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)試合時は規定により胸広告のみ掲示。
※2007年および2008年の胸広告はJリーグ用が「SAVAS」、ACL用が「DHL」。
[編集] オフィシャルパートナー
[編集] メイン
[編集] サブ
- 2011年7月よりオフィシャルスーツを採用。これに伴いヒューゴ・ボスとの契約は終了。
[編集] ブロンズ級
★については三菱グループの一社
[編集] マスコット
- レディア(Redia) (1992年3月31日誕生)
- 浦和市(当時)生まれ。この日行われたクラブ発足記者会見で発表され、同年6月10日に命名された。伊勢丹浦和店前の歩道には、選手の足型とともにレディアの足型が埋め込まれている。
- フレンディア(Friendia) (1997年1月26日にレディアと結婚)
- シャーレくん(Schalekun) (2006年12月2日誕生)
- ディアラちゃん(Diarachan) (2006年12月2日誕生)
毎試合ごとに積極的なファンサービスやパフォーマンスを行う他クラブのマスコットと異なり、浦和はクラブ方針から、マスコットをほとんど露出させていない。レディアやその家族がサポーターの前に姿を現すのはきわめて少なく、『スポーツマスコット図鑑』(綱島理友編 2009年 PHP研究所)で「会えたらラッキー」と紹介されているほどである。レディアが登場するのは基本的に毎年1月に開催されるレッズフェスタ(ファン感謝デー)、ゴールデンウィークに開催されるファミリーJoinデイズの該当試合、J1全クラブのマスコットが集まるJリーグオールスターサッカーの余興イベント、レッズランドのイベントのみである(2009年シーズンには駒場スタジアムでの試合開催日の浦和パルコや、9月の対モンテディオ山形戦の前に行われたイベントにも登場している)。このため、埼玉スタジアムには埼玉県のマスコットであるコバトンの方がレディア一家よりもやって来る回数が多い場合もある[3]。
[編集] エンブレム
エンブレムはクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と"MITSUBISHI URAWA FC"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である埼玉県師範学校の校舎「鳳翔閣」や埼玉県の県花であるサクラソウが描かれている。
[編集] 入場曲・ 公式ソング
- ファースト・インプレッション - 世界で初めてのクラブによる選手入場曲と言われている。J開幕当初、佐藤仁司広報グループ・チーフマネジャーを中心とした数名のスタッフが、市販されていない著作権なしのフリーユースのサウンド・ライブラリーを視聴し7曲目辺りで流れたファースト・インプレッションに皆の目が止まった事から選ばれた。一時期、クラブを一新する際入場曲を変えようとしたがファンや各方面から反対があり現在に至る。
- We are Diamonds - 浦和レッズのオフィシャルソング。原曲はロッド・スチュワートのSailing。埼玉スタジアムでのホームゲームでバックスタンドのアッパースタンドの最上部にその歌詞が掲げられている。
- GO! REDS GO! - We are Diamondsのカップリング曲。スタジアムで選手紹介時にかかる曲。
- KEEP ON RISING! - 浦和レッズのオフィシャルサポーターズソング。2007年10月からJR浦和駅の京浜東北線南行(東京・横浜方面)ホームで、2007年11月から埼玉スタジアムでレッズ戦がある場合に限り埼玉高速鉄道浦和美園駅でそれぞれ発車メロディーに採用されている。
[編集] サポーター
1993年のJリーグ開幕当初から熱狂的なサポーターを獲得していることで知られる[28]。初期の応援を担った『クレイジー・コールズ』のリーダーはロックを基調にした応援スタイルと、チームに対するサポーターの思想や哲学を広めて、今に続くサポーターの応援の原型を作り上げた[28][29]。1997年に結成された『URAWA BOYS』などの多くのグループや、URAWA BOYSを中心とした連合体『Curva EST』に思想や応援スタイルは受け継がれ[29]今日に至る。弱小チームと呼ばれた時代からゴール裏でチームを後押しするだけでなく、相手チームの選手やサポーターを圧倒することから「日本一のサポーター」とも呼ばれる[28]。
ここ数年は成績が低迷している故に平均入場者数が減ってきているがJリーグNo.1の観客動員を誇る(5年ぶりに4万人を割った2010年シーズンの入場料収入が10億円を超えているのは浦和のみ)。そのため柏レイソルやヴァンフォーレ甲府、ジュビロ磐田などのメインスタジアムの最大収容者数が少ないクラブが近場の大きなスタジアム(国立競技場や静岡県小笠山総合運動公園スタジアムなど)で試合をする事もある。
[編集] その他
Jリーグの多くのクラブでは背番号12をサポーターのために欠番にする球団が多い中、浦和は背番号12を欠番とせずフィールドプレーヤーの選手に着用させている。しかし、試合開始前のビッグフラッグでは「12」をハートで囲んだ横断幕を掲げている。現状Jリーグ加盟クラブで背番号12を選手につけさせているのは他にサガン鳥栖だけである。
[編集] メディア
- テレビ
- REDS TV GGR (テレビ埼玉) 毎週金曜 22:00-22:30 (再放送) 翌日土曜 7:30-8:00
- REDS NAVI (テレ玉) 不定期 (月一程度) 20:00-21:00
- REDS! GET GOAL! (J:COM さいたま、J:COM 東上、J:COM 所沢、JCN埼玉、JCN関東:ケーブルテレビ・制作 J:COM さいたま) インタビュアー 河合貴子
- スーパーJリーグマッチ (テレ玉) ホームゲームの大半を中継
- 新聞・雑誌
- 埼玉新聞 (地方紙)
- 月刊浦和レッズマガジン (アスペクト) 浦和レッズ専門雑誌 毎月12日発売
- 浦和フットボール通信 (フリーペーパー) 浦和レッズ・浦和の街の情報を集めたフリーペーパー 毎月発売
- マッチデープログラム 今やどのチームも何らかの形で発行しているといっていいマッチデープログラム。1992年の第1回ナビスコ杯以降、全てのホームゲームにおいて発行されている(その他、カップ戦の決勝戦の際にも発行され、シーズン開幕前には増刊号が発行される)。定価は税込み300円(2005年、2006年は200円であった)。2004年までは地元の埼玉新聞が編集を行っていたが、2005年から浦和レッズが直接携わり、編集は埼玉新聞に勤務していた清尾淳が一貫して担当し続けている。略して「MDP」という呼び方は、特に浦和レッズのマッチデープログラムを呼ぶのに使われる。
- 朝日新聞タブロイド紙レッズトゥモロー 2007年からパートナーの朝日新聞が埼玉県内限定でホームゲーム前日に発行する4ページタブロイド紙を始めた。浦和レッズが編集しており、浦和レッズに関する情報が掲載されている。1回当たりの発行部数は60万部で、年間約25回発行される。サッカー専門の紙媒体としては、日本で最大部数となっている。
- なお、日刊スポーツとはパートナーシップを結んでいるが、同紙はどちらかというと扱いが悪く、なおかつ、サポーター感情を逆撫でるような記事も目立つ。
- Little Diamonds ユース、ジュニアユースの活動を紹介するリポートで毎月1回発行している。レッドボルテージおよび大原のクラブハウスのサポーターズカフェで閲覧できるほか、クラブの公式サイトからPDFで閲覧できる(2010年4月4日配布のNo48が最終号となった)。
- インターネット
- 浦和レッズ・オフィシャル・ウェブサイト 浦和レッズが発信する公式ホームページ。通常のニュースや情報のほか、動画による配信もある。選手ブログ等がないためエンターテインメント性に欠けるが、多くの報道の真偽を確認する場として重宝されている。
- 浦和レッズモバイル 浦和レッズが運営する有料の携帯サイト。2007年に本格的にスタートした。公式ならではの情報や動画の多さが特徴。
- レッズプレス 外部メディアが運営する有料の非公式携帯サイト。ライターを起用したコラム等で、外部からの視点を取り入れた展開をしている。
[編集] 他クラブと著しく異なる点
浦和レッズおよびサポーターは試合運営・サポート体制などにおいて、他のクラブとは明らかに異なる点がいくつかみられる。主な特徴は後述の通りである。
- レギュラー11人に続く12人目の意味から背番号12をサポーターズナンバーとして永久欠番としているクラブが多くなっているが、浦和は背番号12を現在でも選手の背番号に用いている。
- 以前は使用していたが、ゴール裏サポーターがたすきを使わない。
- ゴール裏サポーターが多くの小グループに分かれており、正確な数がわからないほどのサポーターグループがある。
- 試合開始前に、有名人などをピッチ上に招いてのイベントを一切と言ってよいほど行わない。
- 例外は非常に少なく、2004年に、テノール歌手ラッセル・ワトソン来日時に、同年4月10日の神戸戦ハーフタイムにおいて、ジャコモ・プッチーニの歌劇『トゥーランドット』~『誰も眠ってはならぬ』を歌った事がある程度である。
- アウェイでも試合に直接関係しないイベントの類に、コアサポーターが嫌悪感を露にすることが多い。2006年エコパでの清水エスパルス戦の試合前の音楽グループの新曲発表に対するブーイング、小瀬でのヴァンフォーレ甲府戦でGK練習が始まっているのにダンスを続けた高校生に対するブーイングなど。2008年ビッグスワンのアルビレックス新潟戦での開始前イベントで「ジャイアンツが勝ちました!」と発言をしたSMAPの中居正広にもブーイングの嵐を浴びせた。
- こどもの日の前後の試合など例外はあるものの、レディア、フレンディアの着ぐるみがスタジアムに登場しない。
- よくある地元の応援番組(REDS TV GGR)の他に討論番組(REDS NAVI.TV)がある。
[編集] 浦和の街(浦和地区)
現在、浦和地区(旧浦和市だった地域の事)には51万人が居住している。 浦和地区は、浦和区、南区、緑区、桜区で構成されていて各区ごとにレッズ色がある。
- 浦和区・・・・・文字通り浦和地区の中心部。かつてクラブ事務所があった地域。あらゆる所にレッズ色が伺える。さいたま市浦和駒場スタジアムやクラブのオフィシャルショップレッドボルテージ、オフィシャルのコミュニケーションスペースレッズゲート(2007年10月に浦和パルコ内にオープン)や、練習場の大原サッカー場、選手の寮「吾亦紅(われもこう)」がある。他に、サポーターの集まる酒蔵 力やURAWA POINT、スマグラー、ティナ・ラウンジ、クウォーターを始めとする数々のお店が集中。レッズスクエア、レッズウェーブもこの区。浦和レッズに関する書物はここに来ればすべて揃うと言われる。特に書店の須原屋本店はレッドボルテージのそばであることもあり浦和レッズ関連コーナーを常設しているほどである。(逆にこのエリアで販売してない書籍はどこに行っても手に入らない)。また、「サッカーの街 浦和」としての土台を築いた県立浦和高校、浦和西高校、市立浦和高校の所在地でもある。浦和駅周辺では伊勢丹浦和店前でチームの軌跡や主要選手の手形や足型を展示するスペースがあり、また京浜東北線ホーム1番線の発車メロディとしてオフィシャルサポーターソング『Keep On Rising』が使われている。
- 緑区・・・・・クラブの事務所とホーム埼玉スタジアム2002がある区。
- 桜区・・・・・レッズランドのある区。
- 南区・・・・・漫画・アニメ『赤き血のイレブン』の舞台のモデルである浦和南高校がある区
- 練習グランド・・・・・さいたま市の大原サッカー場と、埼玉スタジアムサブグランドで練習を行っている。見学は自由であり、スタンドも整備されている。独身寮とは歩いても数分の距離だが多くの選手は自動車を利用しているので沿道には選手を待つファンが見られる。
[編集] 関連項目
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズ・アマチュア
- 浦和レッドダイヤモンズ・レディース
- レッズランド
- 1999年J1最終節
- 2000年J2最終節
- 2005年J1最終節
- 日本のダービーマッチ/さいたまダービー
- テレビ埼玉 (アウェー試合を含めて自社制作での試合中継を数多く行う)
- REDS TV GGR (テレビ埼玉で放送されているレッドダイヤモンズ応援番組)
- 浦和レッドダイヤモンズ・オフィシャル・マッチデー・プログラム
- 清尾淳 (編集責任者)
- レッドボルテージ
- 大原サッカー場
- 赤菱のイレブン
レッドダイヤモンズと同じく、三菱グループ内のサッカー部を前身とする(或いは現在も同グループ内のサッカー部として活動する)クラブ
- ギラヴァンツ北九州 (←ニューウェーブ北九州←三菱化成黒崎サッカー部)
- 三菱自動車水島FC (←三菱自動車工業水島FC)
- 三菱重工長崎サッカー部
[編集] 脚注・出典
- ^ 浦和レッズ会社概況
- ^ 株式市場への上場も可能。
- ^ 2005Jリーグ スタジアム観戦者調査報告書
- ^ 浦和レッズがもたらす経済波及効果は年間127億円(平成19年11月)
- ^ 「ACLに挑むJクラブ」Jリーグファンズガイド2007年版(Jリーグ発行・コナミデジタルエンタテインメント発売)。同書で藤口は「ホーム不敗の埼玉スタジアムでの開催をすることによって、多くのファン・サポーターの方に来てもらって、絶対に勝つという姿勢でACLを戦う」と話している。
- ^ 『浦和レッズ10年史』 浦和レッドダイヤモンズ・ベースボール・マガジン社編集 2002年、86-88頁
山岡淳一郎 『レッズと浦和』 レッドダイヤモンズ後援会発行 論創社 1998年、68-92、101-104、236-238頁
サンケイスポーツ、2005年12月30日3面
【浦和フットボールメルマガ】Vol.4 レッズ誕生秘話 - ^ a b Reds Resona Smiling Web そうだったんですか!?レッズ
- ^ [浦和フットボール通信] 浦和フットボールメルマガ創刊号
- ^ [浦和フットボール通信] メルマガ創刊記念(1) 森孝慈インタビュー
- ^ 山中伊知郎 『浦和レッズはなぜ強くなったのか』 長崎出版、2004年、52-83、138-157頁
- ^ 闘莉王との契約について
- ^ http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20100608-OHT1T00243.htm
- ^ 浦和レッズ戦での出来事について
- ^ ニュース詳細|横浜F・マリノス 公式サイト
- ^ “新監督にゼリコ・ペトロヴィッチ氏”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2010年12月7日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “2011シーズン、コーチングスタッフ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月19日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太選手、契約満了のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月19日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太が引退を決意”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年1月28日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太さん引退セレモニー延期のお知らせ”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年8月4日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “都築龍太さん、引退セレモニー24日に実施”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年8月22日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “エジミウソン、アルガラファに完全移籍、”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年6月29日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “堤 俊輔、栃木SCに期限付き移籍”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年7月14日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “堤俊輔選手期限付き移籍加入のお知らせ”. 栃木SC公式サイト (2011年7月14日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “ランコ デスポトビッチ選手、加入決定”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年7月2日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “山道守彦の強化部長就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年9月12日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “ペトロヴィッチ監督、ボヘルスコーチとの契約解除について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年10月20日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ “堀 孝史ユース監督、トップチーム監督就任について”. URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE (2011年10月20日). 2011年10月23日閲覧。
- ^ a b c 《中》圧巻 熱烈サポーター(2006年12月4日)|YOMIURI ONLINE
- ^ a b 清尾淳#248 歴史+追伸 - MDPはみだし話
[編集] 外部リンク
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