クルム伊達公子
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クルム伊達公子
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| 基本情報 | ||||
| ラテン文字名 | Kimiko Date Krumm | |||
| フルネーム | Kimiko Date Krumm | |||
| 国籍 | ||||
| 出身地 | 同・京都府京都市 | |||
| 生年月日 | 1970年9月28日(41歳) | |||
| 身長 | 163cm | |||
| 体重 | 53kg | |||
| 利き手 | 右 | |||
| バックハンド | 両手打ち | |||
| ツアー経歴 | ||||
| デビュー年 | 1989年 | |||
| ツアー通算 | 10勝 | |||
| シングルス | 8勝 | |||
| ダブルス | 2勝 | |||
| 4大大会最高成績・シングルス | ||||
| 全豪 | ベスト4(1994) | |||
| 全仏 | ベスト4(1995) | |||
| 全英 | ベスト4(1996) | |||
| 全米 | ベスト8(1993・94) | |||
| 4大大会最高成績・ダブルス | ||||
| 全豪 | ベスト8(1992) | |||
| 全仏 | 2回戦(1993・2011) | |||
| 全英 | 3回戦(2011) | |||
| 全米 | 2回戦(1993・2010) | |||
| キャリア自己最高ランキング | ||||
| シングルス | 4位(1995年11月13日) | |||
| ダブルス | 33位(1992年8月24日) | |||
| 2011年7月4日現在 | ||||
クルム伊達公子(くるむ だて きみこ、Kimiko Date Krumm, 1970年9月28日 - )は、京都府京都市上京区出身の日本の女子プロテニス選手。
WTAランキング自己最高位はシングルス4位、ダブルス33位。WTAツアー通算でシングルス8勝、ダブルス2勝を挙げている。アジア出身の女子テニス選手として、史上初めてWTAシングルスランキングトップ10入りを果たした選手である。夫はドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルム。2008年の現役復帰後の所属はエステティックTBC。
目次 |
[編集] 人物
「ライジング・ショット」の名手として、世界的にも有名な選手であった。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、“ライジング・サン”(日の出)と呼ばれた。
4大大会で女子シングルス準決勝に3度進出し、これを含めて4大大会でのシングルスベスト8入りは6回にのぼり、準決勝進出・ベスト8入りとも日本女子選手歴代最多記録である。彼女はすべての4大大会でベスト8入りした最初の日本人女性でもある。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス33位。これまでにWTAツアーでシングルス8勝、ダブルス2勝を挙げる。
本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。日常生活でも、サインの時などに左手を用いることがある。
大津市立瀬田南小学校-大津市立瀬田中学校(在校時バレーボール部)-園田学園高等学校卒業。
2001年にドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚。「クルム伊達公子」となり、以降芸能活動も含めこの表記で通している。
[編集] 戦歴
[編集] アマチュア選手としての活動
6歳のとき、京都市北区にあるテニスクラブ「セブンスリー」で、両親が健康管理のために行っていたテニスに初めてふれる。滋賀県大津市に転居後、京都市山科区にてデ杯監督竹内映二の父親である竹内穣治がオーナーを務める「四ノ宮テニスクラブ」でレッスンを積む。中学校時代には「滋賀県テニス選手権」で優勝した。
高校時代には、兵庫県尼崎市にあるテニスの名門校・園田学園高等学校にて光国彰監督の指導を受けた。1988年のインターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の3冠獲得を達成する。
[編集] プロ選手としての活動
高校卒業後の1989年にプロ転向。同年、「サントリー・ジャパン・オープン」でWTAツアーにデビューし、岡本久美子との準々決勝まで進出。全仏オープンで4大大会にデビュー。予選3試合を勝ち上がり、本戦2回戦に進出。ウィンブルドンと全米オープンにも本戦出場。女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップ(現フェドカップ)の日本代表選手に初選出され、西ドイツ・チームとの2回戦でダブルス戦に起用された。
1990年、全豪オープンで初の4回戦進出を果たす。3回戦で第11シードのパム・シュライバーを破って注目を集めたが、前年度準優勝者のヘレナ・スコバに 4-6, 3-6 で敗退した。
1991年、8月中旬の「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス」大会で準優勝。準決勝で当時世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニを破る大金星を挙げ、決勝では当時の女王モニカ・セレシュに挑戦した。全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を果たす。
1992年、2月に東京の「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」で、当時世界ランキング5位のアランチャ・サンチェス・ビカリオを破る。3月末の「リプトン国際選手権」4回戦でシュテフィ・グラフと初対戦。全仏オープンで初めて4大大会のシード選手になり、4回戦に進出。全日本テニス選手権で2連覇。この年の活躍により、WTAアワードの「最も上達した選手賞」(Most Improved Player of the Year)に選出された。
1993年、全米オープンで初の4大大会ベスト8進出。この4回戦で、当年度のウィンブルドン準優勝者ヤナ・ノボトナを破る。
1994年、1月にオーストラリアの「ニュー・サウスウェールズ・オープン」で海外初優勝。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界トップ10に躍進する。直後の全豪オープンで初の4大大会ベスト4進出を果たしたが、準決勝でグラフに 3-6, 3-6 で完敗。全米オープンで2年連続ベスト8入り。日本人選手として初めて女子テニスツアー年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」の出場権を獲得し、準決勝まで進出した。(当時のバージニア・スリムズ選手権は、世界ランキング16位以内の選手のみに出場資格が与えられた。)
1995年、2月の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントで初優勝。その決勝戦では親友のリンゼイ・ダベンポートを圧倒した。リプトン国際選手権で準優勝。この大会では決勝でグラフに完敗したが、準決勝でガブリエラ・サバティーニを 1-6, 1-5 の土壇場から逆転し、1-6, 7-6, 7-6 で逆転勝利を収めた。この年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成するが、準決勝でアランチャ・サンチェス・ビカリオに 5-7, 3-6 で敗れた。敗れたものの、この準決勝はテレビ東京系の地上波でゴールデンタイムの午後9時から放映された。11月に自己最高の世界ランキング4位を記録する。
1996年4月27日 - 28日、東京・有明コロシアムで開かれた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦でドイツと対戦し、28日の試合で女王シュテフィ・グラフを 7-6, 3-6, 12-10 で破る大金星を挙げた。1996年7月4日 - 5日の2日間にわたり、ウィンブルドン準決勝でグラフと最後の対戦をする。第1セットはグラフが 6-3 で先取したが、第2セットを伊達が 6-2 で取り返したときに試合が日没順延となり、翌日に持ち越された第3セットはグラフが 6-3 で取ったため、日本人選手初の4大大会決勝進出はならなかった。アトランタ五輪でも女子シングルスのベスト8に進出し、アランチャ・サンチェス・ビカリオに惜敗する。しかし8月25日、アメリカ・サンディエゴで開かれた「トーシバ・クラシック」決勝戦でサンチェスを 3-6, 6-3, 6-0 で破り、WTAツアー7勝目を挙げた。
同年9月24日に現役引退を宣言。WTAツアー年間最終戦の「チェイス選手権」2回戦で、当時16歳のマルチナ・ヒンギスに 1-6, 2-6 で敗れた。世界ランキング8位での引退だった。
[編集] その後
2000年2月6日 - 8日にかけて、シュテフィ・グラフの「引退世界ツアー」で日本の対戦相手に指名され、東京体育館、名古屋レインボーホール、大阪城ホールの3会場でエキシビション・マッチを行った。2001年12月1日、ドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚し、本名が「クルム伊達公子」となった。
2008年3月15日、東京・有明コロシアムにてシュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワとともにエキシビション・マッチを行い、ここでは伊達が2試合とも勝利を収めた(当初はサバティーニが参戦予定だったが欠場。代わりにナブラチロワが参戦し、伊達と初めての対戦となった[1])。
[編集] 現役復帰
2008年4月6日、現役復帰を決意したことが報じられる。4月7日に復帰記者会見を行い、12年ぶりにツアープレーヤーとして再びコートに立つことを表明する。37歳にしてプロ復帰した理由を「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と語り、現本名の「クルム伊達公子」でプロ登録した。
同年4月27日、岐阜市の岐阜メモリアルセンターにある「長良川テニスプラザ」で開催された「カンガルーカップ国際女子オープン」のシングルス予選で現役復帰する。3戦全勝で予選を突破し、本戦1回戦では藤原里華、準々決勝では中村藍子を破り、決勝まで勝ち進んだが、タマリネ・タナスガーン(タイ)に敗れて準優勝に終わった。15歳のジュニア選手・奈良くるみと組んだダブルス決勝では、ニコル・タイセン(オランダ) & メラニー・サウス(イギリス)組を破って優勝した。
同年6月15日、東京有明国際女子オープンシングルス決勝で、主催者推薦で出場の18歳秋田史帆を 6-3, 6-2 で破り、シングルスでのプロ復帰後初優勝を果たした。同年7月12日、日本サッカー協会(JFA)理事に就任する。これはJFAの犬飼基昭会長(当時)の推薦によるもので、平尾誠二(神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャー)とともにサッカー以外のスポーツ界からは初のJFA理事となった(2010年7月退任)。11月には全日本テニス選手権に出場、女子シングルス決勝で瀬間友里加(ピーチ・ジョン)を破って16年ぶり3度目の優勝を飾る。38歳での優勝は、宮城黎子が1963年に41歳で優勝し、大会8連覇を達成した時に次ぐ年長記録である。また藤原里華と臨んだダブルスでも決勝で米村明子&米村知子組を破って17年ぶり2回目(藤原は6年ぶり3度目)の優勝を飾り、吉田友佳以来5年ぶりの単複2冠の達成者となった。
2009年、4大大会にも13年ぶりの再挑戦を始め、全豪オープンで予選会を通過した。本戦1回戦では第25シードのカイア・カネピ(エストニア)に 6-4, 4-6, 6-8 で競り負け、初戦敗退。全仏オープンでは、故障で予選1回戦を途中棄権している。ウィンブルドンにおいて、主催者推薦(ワイルドカード)で13年ぶりの出場を果たしたが、第9シードの18歳、キャロライン・ウォズニアッキ(デンマーク)に 7-5, 3-6, 1-6 で逆転負けし、初戦突破はならなかった。復帰後WTAツアーレベルでは接戦の試合も見せながらも9戦全敗と、ツアー初勝利の壁に弾かれていたが、そんな中出場したハンソル・コリア・オープン1回戦において地元のYe-Ra Leeを 6-3, 6-4 のスコアで下し復帰後ツアー初勝利を挙げると、2回戦で第5シードのアリサ・クレイバノワ(ロシア)には第2セット第9ゲームでマッチポイントを握られるも 4-6, 7-6(4), 6-3 の大逆転で、準々決勝では第一シードのダニエラ・ハンチュコバ(スロバキア)を 7-6(3), 4-6, 6-4 で、準決勝では前年大会優勝者のマリア・キリレンコ(ロシア)を 3-6, 6-2, 6-4 でのスコアでそれぞれ下し決勝戦に進出。決勝ではアナベル・メディナ・ガリゲス(スペイン)6-3, 6-3のストレートで下し、96年のトーシバ・クラシック以来13年振り8度目のWTAツアーシングルス優勝を果たした。38歳11ヶ月30日での優勝は1983年のイギリス・バーミンガム大会で当時39歳7ヶ月23日でシングルス優勝を果たしたビリー・ジーン・キング(アメリカ)の記録に次ぐ歴代2位の年長優勝記録となった[2]。
2010年 5月25日、ローランギャロスで行われた全仏オープン本戦1回戦に出場し、2009年世界ランキング1位で同大会2年連続準優勝の第9シードディナラ・サフィナ(ロシア)に 3-6, 6-4, 7-5 で逆転勝ちした。伊達にとって4大大会での勝利は、準決勝に進んだ1996年のウィンブルドン以来14年ぶりの勝ち星であり、また全仏女子オープンにおける39歳7カ月での勝利は、1968年以降の同大会で歴代2番目の年長白星となった[3]。
主催者推薦で出場した9月の東レ パン・パシフィック・オープンでは、1回戦で前年優勝のマリア・シャラポワを 7-5, 3-6, 6-3 で破った。10月のHPオープンでは準々決勝でサマンサ・ストーサーを 5-7, 6-3, 7-6 で破り復帰後初のトップ10プレーヤーからの勝利を挙げた。40歳を超えたプレイヤーが、トップ10の選手を破ったのはWTA史上初の快挙であった。決勝ではタマリネ・タナスガーンに 5-7, 7-6, 1-6 で敗れ最年長ツアー優勝はならなかった。11月の広州アジア大会にも出場し、シングルス準決勝で彭帥に 6-7, 6-3, 2-6 で敗れ銅メダルを獲得している。
2011年ウィンブルドン選手権2回戦のビーナス・ウィリアムズとの試合では1996年準決勝のグラフとの試合以来、15年ぶりのセンターコートに立った。2時間56分の熱戦の末 7–6(6), 3–6, 6–8 で惜敗したが、健闘に大きな拍手が送られた[4]。
[編集] 4大大会シングルス成績
- 略語の説明
| NH | 開催なし | A | 欠場 | LQ | 予選敗退 | #R | #回戦敗退 | QF | ベスト8 | SF | ベスト4 | F | 準優勝 | W | 優勝 |
| 大会 | 1989 | 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008 | 2009 | 2010 | 2011 | 2012 | 通算成績 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 全豪オープン | A | 4R | 2R | 2R | 2R | SF | 3R | 2R | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | 1R | 1R | 1R | 1R | 14–11 |
| 全仏オープン | 2R | A | A | 4R | 2R | 1R | SF | 4R | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | LQ | 2R | 1R | 14–8 | |
| ウィンブルドン | 1R | 2R | 1R | 2R | A | 3R | QF | SF | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | 1R | 1R | 2R | 14–10 | |
| 全米オープン | 1R | 2R | 2R | 2R | QF | QF | 4R | 1R | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | A | LQ | 1R | 1R | 14–10 |
[編集] CM・広告
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- NTT西日本 企業イメージ
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- 東海漬物 きゅうりのキューちゃん
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- トヨタ自動車 プリウス
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- 日産自動車 リーフ
[編集] 著書
- 晴れのちテニス (1993年12月, 日本文化出版)ISBN 978-4890840007
- ラストゲーム (1996年11月, 日本文化出版)ISBN 978-4890840175
- キッズテニス「好き」を見つける「楽しい」を育む (2004年4月, 岩波書店)ISBN 978-4007001093
- いつも笑顔で Always Smile (2006年9月, マガジンハウス)ISBN 978-4838716821
- ストレスのないココロとカラダになる! 幸せのワークアウト (2006年9月, 講談社)ISBN 978-4062136129
- パートナーピラティス (ミハエル・クルム共著、2007年7月, 講談社)ISBN 978-4062140348
- 伊達公子のピラティスレッスン (2008年10月, 日本放送出版協会)ISBN 978-4148271676
- CHALLENGE!! (2009年7月, 講談社)ISBN 978-4062155243
[編集] 脚注
- ^ nikkansports.com (2007年12月18日). “ナブラチロワさん代役でエキシビションに”. 2008年6月20日閲覧。
- ^ 時事通信 (2009年9月27日). “伊達が13年ぶりツアー優勝=史上2番目の高齢V-女子テニス”. 2009年9月27日閲覧。
- ^ 時事通信 (2010年5月26日). “クルム伊達、14年ぶりの勝利=昨年準優勝サフィナを逆転-全仏テニス”. 2010年5月26日閲覧。
- ^ nikkansports.com (2011年6月24日). “芝に強い伊達に絶賛の嵐”. 20118年年7月4日..閲覧。
[編集] 外部リンク
- クルム伊達公子 - WTAツアーのプロフィール (英語)
- クルム伊達公子 - フェドカップのプロフィール (英語)
- クルム伊達公子 - 国際テニス連盟のプロフィール (英語)
- 伊達公子公式ホームページ
- クルム伊達公子特設サイト スポンサー日本ヒューレット・パッカード