ランディ・バース

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ランディ・バース
Randy William Bass
生年月日 1954年3月13日(60歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 オクラホマ州ロートン市
出身校 ロートン高等学校卒業
前職 野球選手
現職 酪農家小麦農家
所属政党 民主党
公式サイト Oklahoma State Senate - Senators

選挙区 オクラホマ州第32区
当選回数 2回
任期 2004年 - 現職

オクラホマ州の旗 ロートン市議会議員
当選回数 1回
任期 2001年 - 2004年
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ランディ・バース
Randy Bass
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オクラホマ州ロートン
生年月日 1954年3月13日(60歳)
身長
体重
184 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1972年 ドラフト7巡目
初出場 MLB / 1977年9月3日
NPB / 1983年4月16日
最終出場 MLB / 1982年6月7日
NPB / 1988年5月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ランディ・バースRandy William Bass, 1954年3月13日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートン生まれの元プロ野球選手内野手)、政治家

2004年からオクラホマ州議会の上院議員(民主党)。

経歴[編集]

メジャーリーグ時代[編集]

アメリカメジャーリーグ時代はミネソタ・ツインズカンザスシティ・ロイヤルズモントリオール・エクスポズサンディエゴ・パドレステキサス・レンジャーズを転々としていた。

メジャー時代はその長打力から「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」と言われたこともあったが、幼少時に足を複雑骨折していたことから全力疾走ができない状態であり、守れないということでレギュラーは獲得していない。さらに速球に弱いという弱点が重なりメジャー通算本塁打は9本に終わっている。エクスポズ時代のチームメイトには、後に読売ジャイアンツで活躍するウォーレン・クロマティがいた。

阪神タイガース時代[編集]

1983年に来日し、阪神に入団。名字は正しくは「バス」と発音する[1]が、当時阪神バスが球団親会社である阪神電鉄の直営事業だったこともあって、好調時に「阪神バス大爆発」、不振時に「阪神バスエンコ」「阪神バス大渋滞」などとマスコミに揶揄されるのを嫌った球団側の配慮で、あえて音を延ばした「バース」を登録名とした[2]

阪神入団当初は藤田平が一塁手として多用されていたこともあり、右翼手として守備に就いていたが、上記の通り全力疾走できないことと、藤田の年齢による衰えから、後に一塁手に固定される。体調不良でシーズン序盤を出遅れたにもかかわらず、1年目から打率.288, 35本塁打、82打点と長打力を見せつける。また、同年のシーズン終盤には25試合連続安打も記録しており、これは2001年に桧山進次郎が28試合で更新するまで球団記録であった。

この1983年にバースは解雇されていた可能性があった。前年後半にチームが大躍進したこともあり阪神ファンは優勝との期待を募らせていたが、4月を2位で終了したものの、5月途中には1勝15敗と大きく負け越してしまう。調子の上がらないバースが不調の原因との批判も多く、同期入団でミートのうまいスティーブ・ストローターの方が日本の野球に適合しているとの評価が高かった。そんな中、先発投手陣が手薄な阪神は投手のリチャード・オルセンを獲得。オルセンを一軍に昇格させるため、外国人枠の関係でストローターとバースどちらかを解雇する必要に迫られたが、このとき阪神が解雇したのはストローターの方だった。当時バースは外角に落ちる変化球をことごとく空振りしていたが、球団はバースのパワーのほかに、態度、努力、人格を評価しており、その期待通りバースは後半戦から一気に調子を上げた。また、1984年オフにも先述の守備の不安から解雇の可能性があったが、それを就任したばかりの吉田義男監督がフロントにバースの必要性を説いて残留させたという[3]

1985年には掛布雅之岡田彰布と強力クリーンナップを形成。同年4月17日の対巨人戦、槙原寛己からのバックスクリーン3連発での1本がバースのこの年の第1号本塁打である。この年は打率.350、54本塁打、134打点の成績を残して三冠王に輝き、阪神の21年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。また、セントラル・リーグ初の外国人選手による本塁打王となった。 ともにミネソタ・ツインズ出身のチャーリー・マニエルが保持していた外国人登録選手のシーズン最多本塁打記録48本に並ぶところから、54号までの経緯は以下の通り。10月9日高野光から右翼へ48号2ラン(甲子園球場)、12日大野豊からバックスクリーンへ決勝49号ソロで外国人記録更新(広島市民球場)、14日は風を読んで左翼へ川口和久から50号3ランおよび小林誠二から51号ソロ(広島)、16日は21年ぶりの優勝を決めた試合で荒木大輔から右翼へ52号2ラン(神宮球場)、17日高野光からバックスクリーン左の中段席へ53号ソロ(神宮)、20日にシーズン16勝目を挙げ最多勝当確の小松辰雄から左翼ポール際へ54号2ラン(ナゴヤ球場)。

この年は王貞治1964年に記録したシーズン55本塁打の更新が注目されたが、54本目を打った段階で残り試合数が2試合になった。いずれも巨人戦で、その監督は王貞治。最初の試合(10月22日、甲子園)で先発した江川卓は3打席ストライクで勝負し1安打に抑えるも、他の投手は事実上の敬遠攻めであった。最終戦(24日、後楽園)の第1、2、4、5打席はストレートの四球、第3打席は先発の斎藤雅樹がバットが届くところに投じた初球の外角高めの球に飛びつくようにセンター前に単打して、結局1打数1安打4四球で記録は達成できず、翌日の『報知新聞』には、「バース記録達成失敗」という見出しと、「自分はバースに敬遠を指示しなかった」という王のコメントが掲載された。当時巨人に在籍した外国人投手キース・カムストックは、後に自らの著書でこのことを振り返り、「バースにストライクを投げると、1球につき罰金1000ドルが課せられていた」と記している。指示を出したのは投手コーチだった[4][5]。当時バースは、最終戦を前に「記録達成は無理だろう、私はガイジン(外人)だから」と語っていた。一方、この敬遠攻めの影響でバースの出塁率が上昇し、前日まで9厘差のトップだった吉村禎章(当日4打席で出塁0)を最終打席で.0005差で抜いて、バースは最高出塁率のタイトルも獲得することになったが、巨人ベンチはこの記録のことを忘れていた。結果的にバースは当時表彰タイトルだった最多勝利打点と併せ、打撃部門5冠に輝いた。ちなみにバースは、記録を恐れず真っ向勝負してきた江川を高く評価し、「日本の今のプロ野球で最高の投手だ。メジャーでも十分通用する」とコメントしている。

西武ライオンズとの日本シリーズはセ・リーグの名遊撃手であった吉田義男対広岡達朗の因縁の対決で、バースは第1戦から第3戦で3試合連続本塁打(第1戦は工藤公康の外角カーブを左翼へ決勝3ラン、第2戦は高橋直樹の110 km/hの外角カーブを左翼へ決勝2ラン、第3戦は工藤公康から右翼へ3ラン)を放ち、第2戦には守備でも歴史的ファインプレーを見せる(後述)など攻守に渡る大活躍でチームを牽引。阪神を球団創設以来初(現時点で唯一)の日本一に導き、バースはシーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成した。

新ストライクゾーンが導入された1986年4月、開幕試合の大洋戦は5打数無安打としたものの、8試合目に3割台とし、5月は6試合連続マルチ安打を記録、5月下旬から6月にかけて16打数12安打で打率.369に上げ、5月31日にはこの年初めて首位打者に立ち、以降譲ることなく打率をさらに上げて、7月2日の大洋戦で5打数4安打として打率を.402と4割に乗せる。7月8日に.407としたのをピークに中日の小松辰雄に4打数無安打で抑えられ、打率4割を切り、その後25打数無安打とスランプに入り.376まで落とすが、8月に入り12日に.399まで戻す。8月以降は各試合終了時点で打率4割を越える事はなかったが、8月は.390を割る事はなかった。9月は3日と19日に.389としたものの、9月終了時点で.394とした。10月、打率4割の可能性はまだ残っていたものの、7日の大洋戦と続く広島戦で無安打で.388に落とし、14日の最終戦の大洋戦で2打数2安打で.389、打率の日本プロ野球記録を更新し[6]、他にも47本塁打、109打点の成績を挙げ、ロッテオリオンズ落合博満と共に、2年連続三冠王となった。バースは規定打席到達後、それまで張本勲が持っていたシーズン打率.383の日本記録を下回ってしまうと日本の投手がそれ以上勝負してくれないのではないかと考え、監督に直訴してそれ以降の試合を欠場させてもらうつもりでいたが、結局一度も下回ることはなく、最後まで打席に立ち続けた。また、2013年シーズン終了現在、阪神から本塁打王はこれ以降生まれていない。

また、32歳のバースは日本の球場では左方向に打っても本塁打になることを悟り、左翼への本塁打を量産し、この年の6月26日には王貞治と並ぶ7試合連続本塁打の日本タイ記録を達成。6月18日高野光から左翼へ16号ソロ(甲子園球場)、19日荒木大輔から右翼へ17号2ラン(甲子園)、20日郭源治から左翼ポールへ18号2ラン(甲子園)、21日鈴木孝政から左翼へ19号ソロ(甲子園)、22日平沼定晴の内角フォークを左翼へ20号2ラン(甲子園)、24日はルーキー桑田真澄が投じた114 km/hのド真ん中のカーブをバックスクリーン右へ21号2ラン(後楽園球場)、タイ記録達成の26日は5対5で迎えた8回表に球数120超の江川卓が投じたこの打席2球目136 km/hの真ん中の高さの内角直球を後楽園球場の右翼場外の釣具店の屋根まで運んだ飛距離約150mの決勝22号ソロ(通算138号)だった。このときは記録を達成したバースのみならず、この試合でバースに投じた12球のうち11球が直球の真っ向勝負を挑んだ江川に対しても賛辞が贈られた。当時、江川以外でバースに真っ向勝負を挑んだ投手として広島東洋カープ津田恒実がおり、バースに対して全て150 km/h超のストレートで挑み、3球三振に仕留めたこともある。この試合後、津田に対してバースは「ツダはクレイジーだ」とコメントしている。

他にも5月30日の6・8回と関根浩史から本塁打を放つと翌6月1日には1回と4回に欠端光則から本塁打を打って2日にわたって4打数連続本塁打、13試合連続打点(前述の7試合連続本塁打からスタートし、7月4日まで)や、シーズン長打率.777(当時[7])といった日本記録を次々に達成。OPSも王貞治の1.293(1974年)に次ぐ歴代2位となる1.258を記録した。しかしMVPには、優勝した広島の北別府学が選出された。優勝に貢献し、投手三冠を獲得した北別府の受賞は妥当という意見も数多くあったものの、2年連続で外国人選手にMVPを取らせることを快く思わなかった関係者が少なからずいたことが、MVPを逃した原因であるとも言われている[誰によって?]

1987年には落合博満がトレードで中日ドラゴンズに移籍し「三冠王対決」と騒がれたが、両者とも成績を落として無冠に終わる。(1985年と1986年はラビットボールの使用疑惑が持ち上がるほど本塁打が増加するなど投低打高化している)また、前年から囁かれていた吉田義男監督との確執がエスカレートした。無冠に終わり、チームが低迷したこの年、雑誌のインタビューで吉田監督批判を行ったため、球団からペナルティとして罰金を科せられるという事件もあった。この罰金は最終的にうやむやになってしまい、実際には払われなかった。なお、インタビューを行ったロバート・ホワイティングは責任を感じてバースに同額を支払っている。

1988年水頭症を患った長男への対応を巡り球団と対立し、シーズン途中で解雇された。契約では家族の疾病の際には球団が医療費を負担することになっていたが、球団は保険加入を怠っており、多額の医療費を負担することを恐れたための解雇だった。この経緯については、退団後に発売された自伝『バースの日記』でも述べられている。なお、このバース退団後の7月19日、当時の阪神球団代表だった古谷真吾が東京都内のホテルで飛び降り自殺する事件が起き、バースの退団をめぐるトラブルで球団とバースの板挟みになったのではないかと報じられた。この一件は、後に球団側が示談金を払ったことで解決した。

退団後20年以上がたった現在でも往年の阪神ファンからは絶大な人気を誇り、バースの活躍以降、関西のメディアでは阪神の新外国人打者がキャンプやオープン戦で好調な場合「バースの再来」と報じることが恒例になっている。

アメリカ帰国後[編集]

帰国後は本業の牧場経営の傍ら、イベントなどでたびたび来日。プロ野球マスターズリーグにも大阪ロマンズの選手として登録されている。かつてのライバルであった大野豊とは、直球とフルスイングでファンを沸かせているが、現役時代と変わらぬ体型と肉体を維持し、140 km/hを超える大野の直球に、今のところ全打席三振を喫している。サントリーモルツ(モルツ球団)などCMにもいくつか出演し、また東京スター銀行大阪支店名誉支店長にも就任。2007年8月19日に放送された『24時間テレビ「愛は地球を救う」』で人生が変わる瞬間の“女子ソフトメダリストからヒットを狙う”コーナーにバッターとして出演した(結果は凡退)。

2008年8月28日の阪神対中日戦(甲子園球場)では始球式を行い、テレビ解説にも登場した。8月29日には『わくわく宝島SP』(読売テレビ)に登場。「10年に一度、来日している」と語っている。翌2009年11月にも来日し、奈良県2010年に開催の「平城遷都1300年祭」への支援として奈良県に100万円を寄付した[8]。これはバースが阪神選手時代からイメージキャラクターを務めているユニットバス製造メーカー「日ポリ化工」が奈良県香芝市に本社があることから、「奈良への恩返し」の意味合いも込めているという。

米国内では故郷のロートン市議選に当選。1期務めた後、2004年11月2日の大統領選と同日にオクラホマ州議会の上院議選に第32区から民主党公認で出馬。9,809票を獲得し、35票の僅差で共和党のイーストン候補を破り初当選した。2006年11月には63.34%の得票率で勝利し再選を果たしている。アメリカでは野球選手としての知名度は高くないが、地元オクラホマでは障害者へのボランティア団体や警察、消防関係者などから支持され、政治家としての手腕が高く評価されて、国政への参加を期待する声も高まっている。

2012年にはクイズ☆タレント名鑑で「掛布と2者連続でホームラン(アベックホームラン)が打てるか?」という企画に挑戦するために来日(当初はこれに岡田も参加し「バックスクリーン3連発を再現できるか?」だったがスケジュールの都合のため、岡田は参加できなかった)。挑戦こそ失敗したものの、ブーマーら、この番組に出演した外国人アスリートたちの態度がやる気が無く、真面目に企画に挑戦しない人たちばかりの中、明るく朗らかながら本気で企画に挑戦するバースの姿に、「バースさん凄く良い人」「ブーマーがますます嫌いになった」と出演者が言うなど、その紳士な性格に皆が感心した。また、この収録の際に掛布が語った所によると「『歴代エロ助っ人外国人Best3』は3位クロマティ、2位バース、1位フィルダー」との事であった。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

バースが高い成績を残せた理由としては、苦手としていた速球投手が日本に少なかったこと、日本に順応しようと努力していたことが挙げられている。ただし、日本語は全く覚えようとせず、遠征中はチームメイトと別の高級ホテルに宿泊していた。掛布雅之が浜風の強い甲子園対策として身に付けていた独特の流し打ちを伝授したこともバースの打撃の幅を広げ、持ち前のパワーと相まって驚異的な成績を残すことになる。狭い球場や左方向に強い風が吹いているときには、軽く流しただけでレフトスタンドへの本塁打になるほどだった。1985年の日本シリーズ第1・2戦の本塁打などはその典型である。ちなみに、メジャー時代はそのパワーから 「ニューヨークからロスまで飛ばす男」と呼ばれていた。

他にも、長崎啓二の打撃を徹底的に研究しており、長崎が打った日本シリーズ第5・6戦のホームランを指し、「ボクのホームランはたまたま風に乗っただけだよ。その点、ナガサキのホームランは本物だった」と絶賛していた。また川藤幸三に色々な面で世話になったことから、今でも「カワトウには感謝している」と語っている。ある特集番組では「三冠王を獲ることができたのはカケフのおかげである」と語ったこともある。

規定打席に到達した5シーズンのうち、OPSでリーグ1位を3回、リーグ2位を2回記録している。

守備[編集]

一塁手としての守備範囲は狭かったが捕球は堅実で、多くのファインプレーでチームのピンチを救った。1985年の日本シリーズでは、当初対戦相手の西武の広岡達朗監督が「阪神の弱点はバースの守備」と公言していたが、10月27日の第2戦7回1死一三塁で辻発彦がカウント1ストライク2ボールでの4球目に実行したプッシュバント・スクイズを右手(素手)でつかみ、三塁走者の秋山幸二を本塁で封殺したプレーなどで日本一に貢献[9]。広岡監督は「あの怪物にはアメリカに帰ってもらいたいですね」とコメントした。

人物[編集]

ひげ[編集]

バースのひげは彼のトレードマークだったが、1986年のキャンプ前、ジレット社のひげ剃り広告でひげを剃った姿を披露し、ファンを驚かせた。この広告は2日連続で新聞に掲載されたもので、最初の日が「明日の俺を見てくれ」というキャプションでひげ剃り前の写真、翌日がひげ剃り後の写真であった(ティーザー広告)。テレビコマーシャルも放送されており、「俺はひげをそれない」とひげをそる前にコメントし、その後ひげをそって「剃刀の三冠王」と宣伝していた。

開幕に備えて来日した時にはちゃんとひげは元通りになっていた。この“ひげ剃り料”は、当時として破格の1億円。なお、起用したジレット社の経常利益は約100億円になった。なお1983年の来日当初はあごひげがないなど、後年おなじみとなる顔立ちとは若干異なっていた。

好物[編集]

神戸牛が大好物である。米国産牛肉の対日輸出問題について「日本人が牛肉にかける思い、情熱を私ほど理解している政治家はアメリカにはいない」「日本人が輸入にナーバスになる心情が良く理解できる」と語っている。また甲子園球場内のうどんも好んで食べていた。

私生活[編集]

私生活では阪神退団後に離婚するが、のちに再婚して1児をもうける。幼いころに重病を患った長男は結婚し、グッドイヤーに勤めている。また、3人の孫にも恵まれている。

8歳のときにアメリカの競馬場でホットワーカー(厩務員)をした経験があり[10]、日本では親交があった翻訳家・平尾圭吾のすすめで社台サラブレッドクラブ一口馬主となっていた[10]。2011年時点ではアメリカのローカル競馬に出走する競走馬を5頭所有する馬主となっている[11]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1977 MIN 9 19 19 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .105 .105 .105 .211
1978 KC 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1979 MON 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1980 SD 19 57 49 5 14 0 1 3 25 8 0 0 0 0 7 1 1 7 0 .286 .386 .510 .896
1981 69 201 176 13 37 4 1 4 55 20 0 1 3 1 20 1 1 28 7 .210 .293 .313 .605
1982 13 34 30 1 6 0 0 1 9 8 0 0 0 1 2 0 1 4 0 .200 .265 .300 .565
TEX 16 52 48 5 10 2 0 1 15 6 0 0 0 2 1 0 1 7 1 .208 .231 .313 .543
'82計 29 86 78 6 16 2 0 2 24 14 0 0 0 3 3 0 2 11 1 .205 .244 .308 .552
1983 阪神 113 420 371 69 107 15 0 35 227 83 0 1 0 5 39 2 5 57 13 .288 .360 .612 .971
1984 104 407 356 57 116 16 0 27 213 73 1 0 0 4 38 3 9 64 8 .326 .400 .598 .999
1985 126 570 497 100 174 21 0 54 357 134 1 0 0 3 67 5 3 61 14 .350 .428 .718 1.146
1986 126 541 453 92 176 31 2 47 352 109 2 0 0 4 82 18 2 70 9 .389 .481 .777 1.258
1987 123 518 453 60 145 15 2 37 275 79 1 0 0 1 60 13 4 70 8 .320 .403 .607 1.011
1988 22 94 78 9 25 2 0 2 33 8 0 0 0 3 13 0 0 15 5 .321 .404 .423 .827
MLB:6年 130 366 325 24 69 6 2 9 106 42 0 1 3 4 30 2 4 51 8 .212 .284 .326 .610
NPB:6年 614 2550 2208 387 743 100 4 202 1457 486 5 1 0 20 299 41 23 337 57 .337 .418 .660 1.078
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 赤太字は日本記録

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:1985年8月24日、対ヤクルトスワローズ17回戦(岡山県野球場)、4回裏に荒木大輔からソロ ※史上142人目
  • 150本塁打:1986年8月19日、対横浜大洋ホエールズ19回戦(横浜スタジアム)、8回表に遠藤一彦から中越ソロ ※史上82人目
  • 200本塁打:1987年10月3日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、7回表に荒木大輔から2ラン ※史上54人目(外国人選手7人目)
NPBその他の記録
  • オールスターゲーム出場:3回 (1985年 - 1987年)
  • シーズン最高打率:.389(1986年)(日本記録)
  • シーズン40本塁打到達スピード1位タイ: 97試合 (1985年)
  • 25試合連続安打(1983年9月6日 - 1983年10月15日)
  • 連続試合本塁打:7(1986年6月18日 - 1986年6月26日)(日本記録)
  • 5試合連続本塁打(1985年4月17日 - 1985年4月22日)
  • 連続打数本塁打:4(1986年5月31日 - 1986年6月1日)(日本タイ記録)
  • 連続試合打点:13(1986年6月18日 - 1986年7月4日)(日本記録)
  • シーズン最多勝利打点:22(1985年)(日本記録)
  • 連続試合勝利打点:4(1985年10月9日 - 1985年10月14日)

背番号[編集]

  • 2 (1977年)
  • 7 (1978年)
  • 41 (1979年)
  • 5 (1980年 - 1982年)
  • 35 (1982年)
  • 44 (1983年 - 1988年)

関連情報[編集]

書籍[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 2007年に東北楽天ゴールデンイーグルスに所属したアダム・バス (Adam Bass) と同じ名字だが、こちらは登録名を「バス」としている。
  2. ^ これについては水本善政が、プレスリリースで「Bass(バス)」で配られた際に、この時アメリカ時代に足を故障して走れなかったを知っていたのでフロントに、打っても「阪神バス、エンストばかり」打たなくても「阪神バス、ブレーキ」と書かれると球団に言ったから慌てて「バスではなく、バースである」と訂正発表したと述べている。初年度、17打数ノーヒットだった時は「バスだとバスストップになっていた」という球団フロントのブラックジョークも出たとされている。出典:ベースボールマガジン2012年1月号63ページ
  3. ^ 2008年(放送月日不明)放送ABCテレビ虎バン』より。
  4. ^ [1]
  5. ^ TBS「S☆1 Jスポ」2009年7月12日放映「阪神伝説の3連発トリオ・・・バース・掛布・岡田ぶち抜きSP!」での槙原寛己の会話より。
  6. ^ ここまでの記述の出典は、講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」274-275ページ
  7. ^ 2013年にウラディミール・バレンティンが.779で記録を更新。バレンティンが歴代最高長打率 86年のバース上回る - スポーツ(朝日新聞デジタル)
  8. ^ 元阪神のバース氏が100万円寄付=平城遷都1300年祭に
  9. ^ 【10月27日】1985年(昭60) “神様、仏様、バース様”、守備でも魅せた!”. スポーツニッポン (2007年10月27日). 2012年9月28日閲覧。
  10. ^ a b 「馬家先生のパカパカ問答 (9) ゲスト R・バースさん」、『優駿』、日本中央競馬会、1985年11月、 72-73頁。
  11. ^ 夕刊フジ 2011年9月13日号

関連項目[編集]

外部リンク[編集]