辰吉丈一郎

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辰吉 丈一郎
基本情報
本名 辰吉 丈一郎
通称 浪速のジョー
階級 バンタム級
国籍 日本
誕生日 1970年5月15日(39歳)
出身地 岡山県倉敷市
スタイル オーソドックス(右ボクサーファイター)
プロボクシング戦績
総試合数 28
勝ち 20
KO勝ち 14
敗け 7
引き分け 1
  

辰吉 丈一郎(たつよし じょういちろう、男性、1970年5月15日 - )は、日本プロボクサー岡山県倉敷市出身。大阪帝拳ジム所属。第50代日本バンタム級、第18代WBC世界バンタム級、第24代WBC世界バンタム級王者。正しくは「丈`一郎」のように「丈」の右上に点を書く(機種によっては表示可能→「𠀋」)。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。身長164cm、リーチ178cm、胸囲99cm、上腕33.5cm、右ボクサーファイター。血液型はB型。デッドリフトのMAX187.5kg、両手の握力は50kg以上、左の方が少しだけ強い。入場曲は死亡遊戯メインテーマ(なお、一時期、友人の元光GENJI諸星和己から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOE」を使用したこともあった)。

目次

[編集] 来歴

ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)より幼少のころからボクシングを仕込まれた。中学時代の担任であった依田教諭の勧めで、中学卒業と同時に片道の電車代だけを持って大阪に渡り、大阪帝拳ジムに入門した。

粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古を付けていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしやすく、また、喧嘩の相手を掴んだり凶器を奪いやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。

なお、この時期の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。

1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなした後、プロ転向する。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝(18KO・RSC) 1敗。

1989年9月29日、韓国スーパーバンタム級2位の崔相勉を2回2分47秒KO勝ちでプロデビュー。プロデビューしたあと、どうしても靴磨きセットが欲しくて万引きしたことがある。

1990年9月11日、日本王者の岡部繁を連打でつめてKOで下し、国内最短タイ記録となる4戦目で日本バンタム級王座を獲得。

1991年2月17日、世界ランカーのアブラハム・トーレスとの試合はトーレスのジャブに最後まで苦しみ辰吉が負けていたとの声が出るほどの大苦戦の末の引き分けとなる。トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議。この試合は世界戦でないにもかかわらず、昼間の時間帯とはいえ当時としては異例の生放送がされた。この試合まで強烈な左のボディーブロー、チャンスの時の畳み掛けるようなコンビネーションや華のあるボクシングでこれまでの日本の選手にない強烈なインパクトの勝利を重ね、トーレス戦後に日本最短7戦目で世界を狙っていた辰吉陣営はこの苦戦を目の当たりにし、世間を納得させるためにも世界戦の前にさらにもう一戦をはさむことを余儀なくされる。

1991年5月19日、1階級下の世界ランカー、レイ・パショネスをアウトボックスして判定勝ち。KOできなかった辰吉は泣いて悔しがったが、このときの辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せ付けずにアウトボクシングした試合を評価する声は多い。

1991年9月19日、8戦目で世界初挑戦。グレグ・リチャードソン(米国)を10回終了TKOに降し、WBC世界バンタム級王座獲得。8戦目での世界王座奪取は国内選手としての史上最短タイ記録。辰吉の他に8戦目で世界王座奪取を果たしたのは新垣諭JBC未公認のIBF世界バンタム級)と名城信男WBA世界スーパーフライ級)しかいない。

しかし、同年12月、無敗のWBC世界バンタム級5位、李勇勲(韓国)との初防衛戦に向けてトレーニング中、左眼網膜裂孔が判明し、長期間の休養を強いられる。

1992年9月17日、王座奪取から丸1年ぶりの初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレスメキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ、王座陥落。しかし負けたのは、双子の弟「丈二郎」と言い張っていた。

その後、1戦をはさみ、1993年7月22日WBC世界バンタム級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。12回判定勝ちを収め、暫定王座を獲得した。

ところが、同年9月、今度は左眼網膜剥離が判明し、暫定王座返上。引退の危機に。しかし、1994年7月2日ハワイで復帰戦を行い、3回KO勝ち。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられる。

同年12月4日WBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、12回判定負け。暫定王座から陥落。

その後、1996年3月3日と翌1997年4月14日の2度にわたり、WBCスーパーバンタム級王者ダニエル・サラゴサメキシコ)に挑むが、いずれも敗戦。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。

同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同王者のシリモンコン・ナコントンパークビュータイ)に挑戦。圧倒的不利の予想を覆し、7回TKO勝ち。約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たす。試合後のインタビューでは「ファンのために試合をしているわけではないのにこれだけ応援してくれてありがとう」と答えるが、ファンは総立ちで彼の勝利を祝福した。またシリモンコンは減量に失敗しふらふらの状態であったとのこと。その後、シリモンコンは一気に3階級上のスーパーフェザー級まで階級を上げている。

1998年3月8日にはホセ・ラファエル・ソーサアルゼンチン)の挑戦を退け、初防衛。同年8月23日には同級1位の指名挑戦者ポーリー・アヤラアメリカ)と対戦し、2度目の防衛に成功。

12月29日、元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)を相手に3度目の防衛戦を行うも、6回KO負けを喫し、王座陥落。

1999年8月26日、挑戦者として大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)でウィラポンと再戦するも、7回TKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。

しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。

2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチットタイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収める。

2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラと対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。

2005年4月16日日本武道館で行われたWBC世界バンタム級の防衛試合でウィラポンが長谷川穂積に判定負けを喫した。新王者長谷川への表彰中、辰吉がリングに上がり、インタビュー中の長谷川を無視してウィラポンの片手をあげ、そしてリングを一周した。リングを一周した後、辰吉はウィラポンと共に立ち去り、チャンピオンベルトを長谷川に渡さずベルトも一緒に控え室へと帰った。この行為にファンからは辰吉への非難の声が大きい[1]

現在プロボクサーを目指している長男・寿希也とともに奇跡の王座返り咲きを信じて練習を続けており、2008年5月には一部メディアで同年8月にタイで復帰戦が行われる可能性があるという報道がなされた[2]

しかし、国内でのリング復帰期限である2008年9月25日を迎え、さらに大阪帝拳ジムが辰吉の試合を組む意思がないことを再三に亘って明言しているものの、辰吉本人は一貫して現役に拘っており、「オレはどこでも試合する」と意欲満々である[3]

そして、同年10月、タイ・バンコクラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たした。

この試合に関して、日本ボクシングコミッション(JBC)は試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。

12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。これに対しJBC側は不快感を示し、近日中にタイ側に質問状を送ることを明らかにした。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は所属する大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉側は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せている。

2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝(5KO)1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界タイトル戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明している。

[編集] エピソード

  • ボクシング番組の解説などでパンチドランカーの症状(呂律が回っていない)を見せている。
  • ダウンタウン松本人志とは、親友として知られる。その縁で「ダウンタウンDX」などにもゲスト出演している。
  • 交友範囲の広いことで知られる彼だが、特に岸本加世子には絶大な信頼をおいており、実の姉のように慕っている。
  • 北野武と対談を通じて懇意となる。辰吉が王座から陥落しスランプに陥っていたころ、激励の意味で自筆の絵を送った。そこに書かれていた言葉は、映画「キッズ・リターン」におけるエンディングの台詞になっている。
  • 布袋寅泰イチローとも仲がよい(度々、会場まで試合観戦に訪れている。2008年10月にタイで復帰戦を強行した際は現地で布袋から激励を受けた)。
  • ボクシング漫画「はじめの一歩」では何度も扉ページに登場し、「勝っても負けても彼ほど人を感動させるボクサーはいない」と評されている。またアニメ全般についても話し出すと止まらないくらい好んでいるという。
  • 一人称はボク。俺やワイとは決して言わなかったが、最近は「俺」と発言している。
  • 公共広告機構(現:ACジャパン)のCMに出演し「いじめはすごかったですよ。親が泣くくらいでしたからね。」などと幼年期に自身がいじめに遭っていた事実を告白しているが、いじめを克服した後、小学生時代から中学生時代までにやった喧嘩では負け知らずで、その間の不良少年としての"武勇伝"は今でも伝説になっているという。喧嘩では拳は使わず(理由は相手が大怪我するから)平手打ち(掌底)を使っていたという。本人いわく、これが効果抜群で、フォローに肘打ちを併用すれば文句無しだったらしい。
  • 中学時代は皆勤賞、3年間一度も欠席がなかったという。これも恩師の影響が大きかったとか。
  • 中学生の頃、辰吉は、下校途中にベンツを横付けされ、ヤクザにからまれたことがある。その時、辰吉は「おっちゃん、そんなにすごまんとってぇや」と言いながら、車のウィンドウに近寄っていくと、即座にキーを回転させて抜き取り、道路脇に生い茂っていた草むらに向かってキーを思いっきり放り投げると、笑いながら走って逃げたことがあるという。
  • 本格的にボクシングを始めて3回目のスパーリングであったが国体2位の選手を左ボディーブロー一発で倒した事により辰吉はボクサーとして世間の注目を集め始める。しかし、アマチュア時代、試合に敗れた精神的ショックからジムを飛び出し、半年ほどホームレス生活を送る。本人曰く、この間、自動販売機の釣銭返却口を漁ったり、ダンボールハウスで野宿したりと散々な日々を過ごしていたとの事だが、そんな中、偶然立ち寄った喫茶店で現在のるみ夫人(旧姓:徳丸)と出会い、ホームレス生活から立ち直り競技に復帰するきっかけを与えられる事となる。
  • 1987年の沖縄国体の会場通路でピューマ渡久地と大喧嘩をしそうだったことがある(理由は沖縄出身で発音に訛りのある渡久地が文句あっかと言ったのを辰吉が儲かってまっか?と聞き間違えたから)。このエピソードはボクシングファンのあいだでは知られた話だが、渡久地は引退後インタビューに答えて、(国体の)大阪代表が騒いでいたので怒鳴っただけで、辰吉と喧嘩になったことはないと証言している。
  • 辰吉は非常に練習量の多いボクサーとしても知られている。一時期、他のジムの練習生や若手ボクサーが大阪帝拳ジムに出稽古に行く際、彼等のトレーナーは「辰吉とは絶対一緒に練習させないでくれ」と大阪帝拳のトレーナーに頼み込んでいたという。その理由は、辰吉相手のスパーリングで選手が潰されてしまう事に対する懸念ではなく、辰吉の日々の猛練習を目の当たりにする事で選手が競技を続けていく自信を失いジムを辞めてしまう事に対する懸念であったとの事である[要出典]
  • 当時、タイの無敗チャンピオン19歳のシリモンコン・ナコントンパークビューに左ボディを入れくの字の体勢にさせ、その時に解説の浜田剛が興奮しすぎて、ナイスボディと大声で連呼した。
  • タイトルマッチでは「王者は赤いトランクスを着用して戦う」という慣例がある中、辰吉は赤いトランクスを着用して臨んだ試合を落とすことが多かったため、1996年の王者返り咲き以後の防衛戦には青いトランクスを着用した王者として臨んだ。
  • レフェリーのリチャード・スチールに「オスカー・デ・ラ・ホーヤには若い女性ファンが何人いるか知らないが、あれだけ多くの青少年を夢中にさせるという点では、辰吉が世界一だと確信している。」と言わしめた。
  • 現在は、大阪帝拳ジムにて、現役復帰を期して練習に励む傍ら、実子である辰吉寿希也のトレーナーを務めている。辰吉自身は再三に亘ってジムサイドに自分の試合を組むよう懇願したが、その度に、大阪帝拳ジムの吉井清前会長は「お前の体が心配だから試合は組めない」と辰吉を諭していた。
  • 昔はシンナー遊びの常習者だったことを公言している。だが、シンナー遊びの集合時間に遅刻したときに、仲間たちの狂態を素面で目の当たりにし、「これではいけない」と悟りシンナーをやめたという。
  • 一時期、自分の試合のことを「試合ではなく作品です」と語り、作品の完成を目指していたこともある。
  • ライバルであったビクトルラバナレスのことを「友人である」と語る。その事についてラバナレスは、「友人だったらもう一度俺と試合をしてくれ」と、発言した。
  • 初めて世界タイトルを獲ったグレグリチャードソン戦では、初回に放った左ジャブがリチャードソンの目に入り、ダブルビジョン(物が二重に見える)になったとリチャードソンが、後に発言している。
  • 中学卒業後、ボクシングをするために、行きの電車賃6000円のみ持って、大阪に行き、あまりの人の多さに、祭りでもやっているのか?と考え込んでしまったことがある。その際、迷子になり、通りすがりのサラリーマンに「おっさん、道教えてくれ!」と聞くとそのサラリーマンは「誰にもの言うとるんや?」と言ってしまい、辰吉はその場で、そのサラリーマンを張り倒してしまったという伝説がある。
  • ポーリーアヤラと対戦した際、バッティングで眉毛あたりを深く切り、試合を止められてしまう。その際、負けたものと勘違いしたのか、全国テレビ生放送中にもかかわらず、子供のように泣きじゃくってしまった。ただ、そんな純粋な辰吉だからこそ、日本ボクシング史上、一番の人気を誇っている理由なのかもしれない。
  • 初めて世界タイトルを獲ったリチャードソン戦の試合直後に、第一声でテレビカメラに向かって、「父ちゃん、やったで!」とコメントした。辰吉は父から泥棒でもなんでもいいからとにかく一番になれと言われボクシングの世界で一番になり喜んだ。
  • 辰吉の人気はすさまじく、辰吉を見て、ボクシングを始めた人間はかなり多い。その中には、世界チャンピオンになった畑山隆則もいる。ただ、畑山が世界を獲った際に、辰吉の名前を騙り、「ようやったなあ、おめでとう!」と辰吉になりきって、悪戯電話をかけた人間が存在する。そのためか、畑山とは誤解が生じたようで、畑山がさんまのまんまに出演した際には、「辰吉なんて、片手で倒せる」と言われてしまう。
  • 今でこそ「負けても引退なんか考えたことがない」と語っているが、ラバナレスに負けるまでは事あるごとに「負けたら引退」と語っていた。これは本人によればそれぐらいの気持ちでいなければ試合に勝てないからとのことである。
  • ボクシングアナリストの増田茂氏によれば、辰吉はオーソドックススタイルであるが実は左利きであることを明かしている。そのために辰吉は右でなく左のパンチが強いとの事である。
  • 辰吉が世界王者になる前、日本人として具志堅の記録を追い越し最短で世界を獲ることに価値を見出すのではなく、辰吉の先々のことを考え、じっくりキャリアを積ますべきだという声が多かった。トーレス戦後、特にその声は強くなる。辰吉自身も新人王、日本、東洋と順番にタイトルを獲ってから世界にいきたいと語っていた。
  • 辰吉が世界王者にいた当時、プレイボーイ誌のインタビューでホープとして頭角を現してきていたジュニア・ジョーンズについては「あんなんたいしたことあらへん」とけなしていたが、ライバルのIBFの名王者、オルランド・カニザレスについてはけなしたり勝てるという発言をしたことはない。
  • ガードが低いことに対しては、「相手のパンチは見えている、当たっているように見えても殺している。」と反論していた。対戦したラバナレスはディフェンスはそんなに悪いとは思わなかったと語っていた。
  • 対戦相手をけなすビッグマウス、アリシャフルやダウンした相手に対して腕をぐるぐる回して挑発するなど、リング内外でのアメリカ流のパフォーマンスで人気を得るボクサーとして日本では実質的な先駆けとなる。
  • アメリカで試合をした当時、飛行機は嫌いだと語っていた。

[編集] 戦績

  • アマチュアボクシング:19戦 18勝 18RSC 1敗
  • プロボクシング:28戦 20勝 14KO 7敗 1分
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1989年9月29日 2R 0:47 KO 崔相勉 韓国 プロデビュー戦
2 1990年2月11日 2R 2:18 KO チャーチュード・エウアンサンパン タイ
3 1990年6月28日 7R 2:10 KO サミュエル・デュラン フィリピン
4 1990年9月11日 4R 2:51 KO 岡部繁 日本 日本バンタム級タイトルマッチ
5 1990年12月18日 2R 3:04 KO ジュン・カーディナル フィリピン
6 1991年2月17日 10R 判定 アブラハム・トーレス ベネズエラ
7 1991年5月19日 10R 判定3-0 レイ・パショネス フィリピン
8 1991年9月19日 10R 3:00 TKO グレグ・リチャードソン アメリカ合衆国 WBC世界バンタム級タイトルマッチ
9 1992年9月17日 9R 1:19 TKO ビクトル・ラバナレス メキシコ WBC王座陥落
10 1993年2月11日 2R 1:55 TKO ホセ・ルイス・ベガヒル メキシコ
11 1993年7月22日 12R 判定2-1 ビクトル・ラバナレス メキシコ WBC世界バンタム級暫定王座決定戦
12 1994年7月2日 3R 2:48 KO ホセフィノ・スアレス メキシコ
13 1994年12月4日 12R 判定0-2 薬師寺保栄 日本 WBC世界バンタム級王座統一戦
14 1995年8月26日 9R 2:59 TKO ノエ・サンティヤナ メキシコ
15 1995年11月23日 8R 2:55 TKO ヘロニモ・カルドス メキシコ
16 1996年3月3日 11R 2:47 TKO ダニエル・サラゴサ メキシコ WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ
17 1996年12月21日 10R 1:02 TKO フェルナンド・アラニス メキシコ
18 1997年4月14日 12R 判定0-3 ダニエル・サラゴサ メキシコ WBC世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ
19 1997年7月26日 10R 判定3-0 リカルド・メディナ メキシコ
20 1997年11月22日 7R 1:54 TKO シリモンコン・ナコントンパークビュー タイ WBC世界バンタム級タイトルマッチ
21 1998年3月8日 12R 判定3-0 ホセ・ラファエル・ソーサ アルゼンチン WBC防衛1
22 1998年8月23日 6R 3:00 負傷判定3-0 ポーリー・アヤラ アメリカ合衆国 WBC防衛2
23 1998年12月29日 6R 2:52 KO ウィラポン・ナコンルアンプロモーション タイ WBC王座陥落
24 1999年8月26日 7R 0:44 TKO ウィラポン・ナコンルアンプロモーション タイ WBC世界バンタム級タイトルマッチ
25 2002年12月15日 6R 1:10 TKO セーン・ソー・プロエンチット タイ
26 2003年9月26日 10R 判定3-0 フリオ・セサール・アビラ メキシコ
27 2008年10月26日 2R 2:47 TKO パランチャイ・チュワタナ タイ
28 2009年3月8日 7R 1:03 TKO サーカイ・ジョッキージム タイ


[編集] 獲得タイトル

  • 全日本社会人選手権バンタム級優勝(アマチュア)
  • 日本バンタム級王座(防衛0=返上)
  • WBC世界バンタム級王座(防衛0)
  • WBC世界バンタム級暫定王座(防衛0)
  • WBC世界バンタム級王座(防衛2)

[編集] 現役復帰の経緯と今後の展望

2003年9月以降、2008年10月のタイ国における復帰試合に至るまでの5年余りもの間、辰吉は全く試合を行っていなかった。先述の様に長期ブランクを経て海外で復帰を果たしたものの、現在日本におけるプロボクシング興行に出場するため必要な、JBCの発給するボクサーライセンスは更新・保持しておらず、また後述のように今後も更新・再取得出来ない身分にある。

2007年5月に37歳の誕生日を迎えたことで、JBCルールに基く強制引退の対象となったが、辰吉はWBC世界バンタム級、日本バンタム級の元王者であるため、特例措置として直前の試合から5年以内に再起すれば厳しい条件付ながら日本国内での現役続行が可能な立場にあった。とはいえ前述した通り、辰吉は網膜剥離の既往者であるために、世界戦またはそれに準ずる試合でしか国内での選手活動は不可能な立場にある上、当時所属先であった大阪帝拳ジムを始めとする関係者はそもそも辰吉の現役続行に難色を示していたため、実際に特例措置の申請と試合実施は実現しなかった。

そして2008年9月25日をもって上記特例期間が終了し、辰吉は事実上国内での試合出場が不可能となった。今後は、かつて網膜剥離でJBCのライセンスを失効していた頃、あるいは先述のタイ国での試合出場と同様に、外国のコミッションでライセンスを申請し、日本以外の各地で試合に出場することは今後も可能である。だが、海外のジム所属の“逆輸入”選手として日本で試合を行う際には、JBCに臨時のボクサーライセンスを申請し、これを取得する事が必要である。しかし既に強制引退選手の対象となっている上、JBCはタイのコミッションやプロモーターに辰吉に試合をさせないよう求めているため、試合が許可される可能性は低い。

2009年3月8日、再起後2戦目でタイ国スーパーバンタム級1位のサーカイ・ジョッキージムに7R 1:03TKOで敗れた。辰吉は試合後に再戦を希望した。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

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  1. ^ 泰国偏愛
  2. ^ 辰吉が再びリングへ!タイで8月にも復帰戦 デイリースポーツ 2008年5月4日閲覧
  3. ^ 辰吉、現役に意欲 日刊スポーツ 2008年9月4日閲覧
前王者
グレグ・リチャードソン
第18代WBC世界バンタム級王者

1991年9月19日 - 1992年9月17日

次王者
ビクトル・ラバナレス
前王者
辺丁一
WBC世界バンタム級暫定王者

1993年7月22日 - 1994年12月4日

次王者
薬師寺保栄
前王者
シリモンコン・ナコントンパークビュー
第24代WBC世界バンタム級王者

1997年11月22日 - 1998年12月29日

次王者
ウィラポン・ナコンルアンプロモーション
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