ロイヤル小林

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ロイヤル小林
基本情報
本名 小林 和男
通称 KO仕掛人
階級 スーパーバンタム級
身長 166cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1949年10月10日(65歳)
出身地 日本の旗 日本熊本県下益城郡[1]
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 43
勝ち 35
KO勝ち 27
敗け 8
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ロイヤル小林(ロイヤルこばやし、男性、1949年10月10日 - )は、日本プロボクサー。本名は小林 和男(こばやし かずお)。熊本県下益城郡出身[1]WBC世界スーパーバンタム級OPBF東洋太平洋フェザー級王者。ミュンヘンオリンピック1972年)日本代表。

来歴[編集]

拓殖大学卒業後、自衛隊体育学校ボクシングを始め、アマチュアのトップ選手としてミュンヘンオリンピックに出場、ベスト8の成績を残す。アマ通算34勝 (28RSC) 3敗、KO率8割2分という記録を引っ提げてプロ入り。国際ジムからプロデビュー後もKOの山を築き、「KO仕掛人」の異名を持った屈指のハードパンチャーであった。

プロではWBC世界ジュニアフェザー級(現スーパーバンタム級)王者になったが、その一方でアレクシス・アルゲリョウイルフレド・ゴメスエウセビオ・ペドロサなど、その当時に最強を謳われた世界王者を日本に招聘して世界王座に挑戦した試合の方がボクシングファンには印象深いボクサーである。

人物[編集]

  • 大卒ボクサーとして日本人初の世界王者。
  • アマチュア出身でありながら「プロ以上にプロらしい」と称され、「正々堂々、スポーツマンシップは夢物語。勝つために何でもするのがプロ」と語るなど、勝負にこだわる「プロ」であった。
  • 大卒アマエリートの肩書きに反して外見はパンチパーマに髭、ファイトスタイルはKO狙いのファイタータイプであった。

戦績[編集]

  • 1972年、ミュンヘンオリンピック・ボクシングフェザー級でベスト8。
  • 1973年2月15日、プロデビュー戦でバロン熊沢(大川)に8回判定勝ち。小林はアマチュア時代の実績から、特例で8回戦以上に出場できるA級ライセンスを交付され、8回戦でのデビューとなった。
  • 1973年4月27日、デビュー2戦目で佐藤弘道(堀内)に2回KO勝ち。
  • 1974年6月9日、元世界バンタム級1位、「ロープ際の魔術師」とも呼ばれた名ボクサー、ジョー・メデル(メキシコ)に6回TKO勝ち。ただ、メデルも全盛期のカウンターの冴えをのぞかせ、一時は小林から左のカウンターでダウン(判定はスリップ)を奪った。試合後、36歳のメデルはリング上で引退を表明、引退のテンカウントのゴングを聞いた。
  • 1974年9月5日、原田達(新進・現新日本大阪ジム)に4回KO勝ち(相手の原田は、後のOPBF東洋太平洋ジュニアライト級王者、吹打竜)。デビュー2戦目からの11連続KO勝ちを達成。当時の人気時代劇にあやかり「KO仕掛人」と呼ばれる。
  • 1974年9月16日、世界ランカーのバート・ナバラタン(フィリピン)と対戦、10回判定勝ち。連続KO勝ちの記録は途絶えたものの、世界ランキング入りを決めた。
  • 1974年12月30日、日本フェザー級2位、竹森三城(三迫)と対戦、強打者同士の激しい打ち合いとなったが、パンチ力に勝る小林が打ち勝ち、2回KO勝ち。相手の竹森はこの3か月後、メキシコ遠征で世界フェザー級8位、サルバドール・トーレス(メキシコ)に2回KO勝ちして、世界ランキング入りしている。
  • 1975年2月17日、後の世界フェザー級王者、ダニー・ロペス(アメリカ)からダウンを奪ったこともある強打者、豊島正直(川口)と対戦。強打者同士の緊迫した試合となったが、6回に一気のラッシュでKO勝ち。
  • 1975年5月9日、国内のライバルと目されていた、前OBF東洋フェザー級王者歌川善介(勝又)に2回KO勝ち。2回に左フックの一撃で倒した。敗れた歌川は、試合後リング上で引退を表明した。
  • 1975年10月12日、18戦全勝(16KO)の戦績を引っさげ、東京・蔵前国技館にてWBA世界フェザー級王座に初挑戦。1回から王者アレクシス・アルゲリョニカラグア)の速い左ジャブに苦戦するものの、4回には左フックを顔面に決め、守勢に立たせるなど善戦した。しかし、5回に勝負に出たアルゲリョの右をボディに受けダウン。辛くも立ち上がったところを今度は左をボディに受けてKO負け[1]
  • 1976年2月15日、初の海外遠征。パナマで地元のエミリオ・サルセドと対戦、2度のダウンを奪うも、地元判定で10回判定負け。
  • 1976年10月9日、東京・蔵前国技館にてWBC世界ジュニアフェザー級王座に挑戦。王者、リゴベルト・リアスコパナマ)に8回KO勝ちし王座獲得[1]。オリンピック日本代表経験者として初の世界王座奪取となった。当時、日本のボクシング界は同年5月に輪島功一が敗れてタイトルを失って以来11年ぶりに世界王者無しとなっており、小林の勝利がその状態にピリオドを打った。また、翌10日には具志堅用高が連日の世界奪取に成功している。
  • 1976年11月24日、WBC世界王座の初防衛戦。韓国ソウルで同級1位廉東均(韓国)に15回判定で敗れ王座陥落し、世界王座在位47日の短命王者に終わる。この試合では、1回に小林が足を滑らせて転倒したところに、廉の左が軽く当たっていたためダウンと判定され、その失点が最後まで響いた[1]
  • 1978年1月19日、福岡県北九州市立総合体育館にて廉からウイルフレド・ゴメス(プエルトリコ)にホルダーが移動していたWBC世界ジュニアフェザー級王座に再挑戦。王者ゴメスに1回、2回と攻勢をかけるものの、3回、アゴにゴメスの左フックのカウンターを鮮やかに決められ、KO負け[1]
  • 1978年4月27日、OPBF東洋太平洋フェザー級王座に挑戦。黄福寿(韓国)を10回KOで降し王座獲得。以後7度防衛。
  • 1978年8月6日、日本王者スパイダー根本草加有沢)相手にOPBF王座の初防衛戦を行い、老獪な根本に苦戦するものの12回判定勝ち。
  • 1979年1月9日、東京・後楽園ホールにてWBA世界フェザー級王座に挑戦。王者エウセビオ・ペドロサ(パナマ)に13回KO負け[1]
  • 1979年7月26日、友成光新日本木村)に10回判定負け。小林が日本人選手に敗れた唯一の試合である。
  • 1981年10月18日、OPBF王座8度目の防衛戦で、黄正漢(韓国)に1回KOで敗れ、現役引退

獲得タイトル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
リゴベルト・リアスコ
第2代WBC世界ジュニアフェザー級王者

1976年10月9日 - 1976年11月24日

次王者
廉東均
前王者
黄福寿
第14代OPBF東洋太平洋フェザー級王者

1978年4月27日 - 1981年10月18日

次王者
黄正漢