上原康恒
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 本名 | 上原 康恒 |
| 階級 | スーパーフェザー級 |
| 国籍 | |
| 誕生日 | 1950年10月12日(62歳) |
| 出身地 | 沖縄県那覇市 |
| スタイル | 右ボクサーファイター |
| プロボクシング戦績 | |
| 総試合数 | 32 |
| 勝ち | 27 |
| KO勝ち | 21 |
| 敗け | 5 |
上原 康恒(うえはら やすつね、1950年10月12日 - )は、日本の元プロボクサー。沖縄県那覇市出身。第20代WBA世界スーパーフェザー級、日本スーパーフェザー級王者。右ボクサーファイター。
沖縄中央高校3年時にインターハイ優勝、日本大学在学時にはライト級、ライトウェルター級の2階級を制覇し専修大学のエース風間清と数回対戦。アマチュア通算117勝(87RSC)8敗と抜群の成績を残し、持ち前の強打でデビュー前から未来の世界王者と呼ばれ日本プロボクシング史上最高の契約金1,000万円(後に古口哲、新垣諭、山口圭司、三谷大和が並ぶ)。最初の世界戦で敗北し、以後挑戦機会に恵まれなかったが、30歳にして敵地で王座奪取を果たした。実弟であるフリッパー上原も元プロボクサー。
目次 |
来歴 [編集]
- 1972年11月 - プロデビュー。
- 1973年11月 - 9戦目にノンタイトル10回戦で現役世界王者、リカルド・アルレドンド(メキシコ)を判定で破り世界ランク入り。
- 1974年8月24日 - WBA世界スーパーフェザー級王座に初挑戦。王者、ベン・ビラフロア(フィリピン)に2回KO負け。
- 1975年7月21日 - 日本スーパーフェザー級王座獲得。以後2度防衛。
- 1976年4月23日 - 日本王座3度目の防衛戦。マサ伊藤に10回判定で敗れ王座陥落。
- 1976年7月29日 - マサ伊藤とのリターンマッチに10回判定で勝ち王座奪還。以後7度防衛。
- 1980年8月2日 - WBA世界スーパーフェザー級王座に挑戦。技巧派の王者、サムエル・セラノ(プエルトリコ)に対し劣勢を強いられたが、6回に右フック一発でKO勝ちし王座獲得。最初はセコンド陣もあれこれ指示を出していたそうだが、余りにも勝ち目が薄かったため5R終了後に「好きなようにやってみろ」と半ばヤケクソ気味な指示を出したという。以後1度防衛。
- 1981年4月9日 - セラノとのリターンマッチに15回判定で敗れ王座陥落。現役を引退した。
- その後郷里の沖縄でジムを開き後進を育成している。
戦績 [編集]
- アマチュアボクシング: 125戦 117勝 87RSC 8敗
- プロボクシング: 32戦 27勝 21KO 5敗
エピソード [編集]
- ヒョウ柄のトランクスがトレードマークだった。
- 所属する協栄ジムの金平正紀会長の紹介で知り合った現夫人は日大の同窓で歯科医師で資産家令嬢。いわゆる「逆玉の輿」。
- 1979年4月2日、記念すべき第1回目の放送である『クイズ100人に聞きました』に具志堅用高チームとして参加。しりとりの問題で「『タマゴ』といったら次に何と続けるか?」という問題に上原が解答の出番が回ってきたとき、「ごはん」と珍解答をしたため、会場に大爆笑を引き起こした。結局、上原は何も答えることができなかったために司会の関口宏から「まずいなぁ、まずいなぁぁ!!」と感慨深く突っ込まれていた。
獲得タイトル [編集]
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
| 前王者 サムエル・セラノ |
第20代WBA世界スーパーフェザー級王者 1980年8月2日 - 1981年4月9日 |
次王者 サムエル・セラノ |
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