松坂大輔

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松坂 大輔
福岡ソフトバンクホークス #18
Daisuke Matsuzaka on March 7, 2014.jpg
メッツ時代(2014年3月7日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都江東区(出生地は青森県青森市
生年月日 1980年9月13日(34歳)
身長
体重
183 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1999年4月7日 日本ハムファイターズ
MLB / 2007年4月5日カンザスシティ・ロイヤルズ
年俸 4億円(2015年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2000年2004年
WBC 2006年2009年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

松坂 大輔(まつざか だいすけ、1980年9月13日 - )は、東京都出身[1](出生地は青森県青森市)のプロ野球選手投手)。右投げ右打ち。福岡ソフトバンクホークス所属。

概説[編集]

青森県青森市生まれ[2]東京都江東区育ち。父は北海道稚内市出身で、母は青森県東津軽郡蟹田町(現在の外ヶ浜町)出身。弟・松坂恭平愛媛マンダリンパイレーツに所属していた野球選手。妻は元日本テレビアナウンサー柴田倫世。夫婦の間には2005年12月に誕生した長女と、2008年3月に誕生した長男、2010年3月に誕生した次女がいる。

「大輔」という名前は、1980年に大旋風を巻き起こした甲子園のアイドル、早稲田実業荒木大輔の名前からとられている[3]

愛称は「マツポン」「マツ」「ダイスケ」、アメリカメディアでは「Dice-K」「D-Mat」という愛称が使われている。ボストンでは「Dice-K」が好まれる。本人は「D-Mat」をサインに使うこともある。渡米後の代理人はスコット・ボラス

「目標が、その日その日を支配する」を座右の銘にしているが、これは横浜高校創立者黒土四郎が愛した詩[4]の一節である。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

5歳から小学3年生までは、地元東京都江東区の福住剣友会で剣道に打ち込む。2006年の少年野球教室で、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問には「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えている。小学3年生で江東区の東陽フェニックスに入部し野球を始める。中学時代は江戸川区の江戸川南リーグ(リトルリーグ)に所属する(創価高校に進学する小谷野栄一が同い年のチームメートだった)。リトルリーグ時代にNHK教育テレビジョンの『天才てれびくん』に出演したことがある[5]

横浜高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが[6]、2年生時の夏の甲子園県予選対横浜商業高校戦において自身の暴投によるサヨナラ負けを喫して以降奮起して猛練習、MAX152km/hの豪速球・切れ味鋭いスライダーカーブチェンジアップを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」と注目を浴びた。またバッテリーを組んでいた捕手は、入学時は上地雄輔、上地の引退後は小山良男だった(本当は帝京高校への進学が内定していたが、シニア日本代表で知り合った小山の誘いで横浜へ方向転換)。

1998年第70回選抜高等学校野球大会では完成度の高い投球と小山、後藤武敏小池正晃らチームメイトの活躍で他校を寄せ付けず優勝。最後の夏となった第80回全国高等学校野球選手権大会では、準々決勝で上重聡(後に日本テレビアナウンサー)や古畑和彦大西宏明平石洋介や2年生田中一徳を擁する(春の準決勝で破った)PL学園高校を相手に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。翌日の準決勝、寺本四郎擁する明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。

決勝の京都成章戦では嶋清一以来59年ぶり史上2人目となる決勝戦のノーヒットノーランという快挙。圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。この決勝戦は後に所属するボストン・レッドソックスのスカウトが観戦していた[7][8]。また、新チーム結成後、1997年秋季県大会ブロック予選(数ヶ月後の沖縄水産高校新垣渚と初めて投げ合った明治神宮野球大会決勝含め)から京都成章との再戦の翌年かながわ・ゆめ国体決勝まで、公式戦44連勝を記録した。第3回AAAアジア野球選手権大会でも背番号1を背負い日本のエースとして指揮官たる中村順司前PL監督の期待に応え活躍し自身の18歳の誕生日に決勝で(準決勝でチャスン・ペク擁する野球韓国代表を破った)張誌家擁する野球中華民国代表を破り優勝投手になった。

1998年度新人選手選択会議では、指名順位1位で日本ハムファイターズ及び横浜ベイスターズ含む3球団が競合の末、西武ライオンズが交渉権を獲得(ハズレ1位として指名された横浜は古木克明、日本ハムは實松一成、いずれも同じ高校3年生)。ドラフト直後の会見では「自分の意中の球団は横浜ベイスターズでした」と語っていたが、西武へ入団した。ちなみに西武同期入団で同い年の選手は第3回AAAアジア選手権大会日本代表でもチームメイトの赤田将吾のみ。

なお高校3年間と同じクラスだった生徒にミドル級全日本高校ボクシング王者河井了。河井は同窓の大橋秀行がオーナー、松本好二がチーフトレーナーたる大橋スポーツジムから1999年8月、高校の6年先輩保住直孝をメインとするテレビ朝日エキサイトボクシング」でデビュー。松坂がVTRで激励しKO勝利。同時期に松坂は辰吉丈一郎とサイン色紙交換、6年後に西武の高知キャンプで同い年の長谷川穂積と親友となる。

西武時代[編集]

1999年
4月7日、初先発となった東京ドームでの日本ハム戦では155km/hの速球を披露、8回2失点の好投で初勝利を記録し、まさに鮮烈なデビューを飾った。その試合での(前年パリーグ史上最多の年間四球を記録し選球眼の良さで知られた)片岡篤史の豪快な空振りはプロでも変わらぬ“怪物”ぶりを示す映像資料として放送される。この試合では、マイカ・フランクリンへの投球が胸元の際どいコースに行き、フランクリンが怒りをあらわに詰め寄ったが、それに動じた様子を見せず、逆に笑顔を浮かべるなど強心臓ぶりも見せた。4月21日千葉ロッテマリーンズ戦では黒木知宏と投げ合い、0-2で惜敗。この試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は、4月27日のロッテ戦で再び黒木と投げ合い、1-0でプロ初完封を記録しリベンジを果たした。このことから、松坂の「リベンジ」は、プロ同期で同じく鮮烈なデビューを果たした上原浩治読売ジャイアンツ)の「雑草魂」とともに同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれている[9]。5月16日のオリックス・ブルーウェーブ戦ではイチローとの初対決が話題となり、3打席連続三振(1四球)とほぼ完璧に抑えた。試合後のヒーローインタビューでは「プロでやれる自信から確信に変わりました」と語った[10]7月24日に行われたオールスターゲーム第1戦に先発して3イニングを投げ、高卒新人としては史上最多となる5奪三振を記録。3回表に味方の失策によって2点を失い、自責点0ながら敗戦投手となったものの、この試合の優秀選手賞に輝いた。オールスター新人賞も受賞した。最終的に16勝を挙げて最多勝。また、規定投球回数に到達した投手の中では最高の勝率を記録した。ゴールデングラブ賞と高卒新人としては史上初となるベストナインを受賞し、高卒新人の投手としては堀内恒夫以来、33年ぶりとなる新人王に輝いた。
また、シドニーオリンピックにおける野球競技のアジア最終予選(第20回アジア野球選手権大会)に参加し、9月15日のチャイニーズタイペイ戦に先発。古田敦也ヤクルトスワローズ)とバッテリーを組み、その試合でサヨナラ安打を記録した高校の5年先輩の平馬淳東芝硬式野球部)からも叱咤激励され続け1失点完投勝利を挙げて日本の五輪出場に大きく貢献した。
2000年
津野浩以来、15年ぶりに10代での開幕投手を務めた。レギュラーシーズンでは小野晋吾(ロッテ)との最多勝争いを制して14勝を挙げ2年連続の最多勝に輝いたが、9月13日、当時交際中の柴田倫世の自宅マンション前にて、球団名義の車で駐車違反を犯す。この年の8月にも時速50kmオーバーのスピード違反で一発で免許停止状態になっていたこともあり、身代わりとして西武広報課長の黒岩彰が出頭。松坂と柴田の交際をスクープしたこの写真週刊誌の記事によって、身代わり出頭が明らかになり、松坂が道路交通法違反(無免許運転、駐車違反)、黒岩が犯人隠避の疑いで東京地検書類送検され、略式起訴により罰金19万5000円の有罪判決を受ける。当時の球団社長の小野賢二および黒岩は責任を取って辞表を提出する事態になり、松坂は当時埼玉県警察から交通安全キャンペーンのイメージキャラクターに起用されていたこともあり、この件は世間から激しい批判を浴びた。球団側は松坂を無期限の自宅謹慎処分としたものの、謹慎処分は一か月足らずで解除された[11]。後にこの事件について開かれた記者会見では、松坂は「駐車違反をしたことは申し訳ない。黒岩課長の身代わり出頭は後で知った」と話し、黒岩は「レッカー移動された乗用車は球団のもので、自分が管理しており、出頭は自分の判断だった」と話した[12]
8月にはプロアマ混成のシドニーオリンピック野球日本代表に選ばれ、9月17日のアメリカ戦に先発。10回2失点の好投を披露するも、チームは延長13回サヨナラ負け。中5日で先発した9月23日の韓国戦では、初回から4点を失うものの、その後は立ち直り、計161球を投じて9回5失点にまとめるも、またしてもチームは延長の末に敗れた。中3日で再び韓国と対戦した9月27日3位決定戦では、具臺晟と投げ合い、0-0の投手戦が続いたが、8回裏に李承燁に痛恨のタイムリー二塁打を打たれるなどし、3失点完投負け。好投も報われず、日本は五輪野球で初めてメダルを逃す結果となった。
2001年
15勝を挙げ、高卒史上初となる新人年からの3年連続最多勝を獲得。沢村賞を受賞したが、15敗と負け数も多かったため、選考委員からは反対意見も出た。結局、両リーグで唯一の15勝投手であることや、240回1/3という圧倒的な投球回数などが評価されての選出となった。藤田元司委員長(当時)は、「松坂の150キロを越える豪速球は沢村さんをほうふつさせる。将来の松坂に対する期待を含めて選んだ」とコメントしている。
2002年
開幕6連勝という順調なスタートを切ったが、5月13日大阪近鉄バファローズ戦で右ひじを痛め、何度か復帰するものの、本来の投球は戻らずに長期離脱した。
2003年
前年の怪我から奮起し、自己最多タイの16勝を挙げ、自身初めて最優秀防御率のタイトルも獲得した。アテネオリンピックの野球アジア予選では、11月6日のチャイニーズタイペイ戦に先発し、7回無失点の好投で勝利。五輪出場の条件である2位以内をほぼ決定づけ、大会の最優秀投手にも選ばれた。
2004年
ロッテとの開幕戦で初回先頭打者波留敏夫に初球を叩かれヒットを浴び出塁を許し4番(日本プロ野球初打席)李承燁にタイムリーを浴び早々と失点、結果的に敗戦投手に。7月10日オールスターゲーム第1戦で2番手として登板し、2イニングを無安打無失点で4奪三振という好投を披露し、自己最速タイとなる156km/hも記録した。本塁打を2本以上打った選手がいなかったこともあり、松坂がこの試合のMVPに輝いた。アテネオリンピック野球日本代表に選ばれ、8月17日(現地時間)のキューバ戦に先発。4回にユリエスキー・グリエルの打球を右腕に受けるアクシデントに見舞われるも、8回まで無失点に抑える力投を披露し、完封も期待された。結局、9回に3点を失ったものの、石井弘寿(ヤクルト)のリリーフで逃げ切り、松坂は五輪での初勝利を手にした。中5日で先発した8月24日の準決勝・オーストラリア戦では、8回途中まで1失点の好投も報われず、0-1で惜敗して金メダルの夢はついえた。チームは翌日、カナダとの3位決定戦に勝利したため、松坂は銅メダリストとなった。
レギュラーシーズンは2位に終わったが、この年から導入されたプレーオフの第1ステージで3位の日本ハムと対戦。第1戦では、8回途中7失点と打ち込まれたものの、打線の援護で勝利投手となった。福岡ダイエーホークスと争った第2ステージでは第2戦に先発し、完封ペースだったが、打線の大量援護もあり、6回無失点で余力を残して降板。これが功を奏し、最終の第5戦に中3日で先発が可能となって、6回1失点の力投を見せた。勝利投手にはなれなかったものの、チームは延長10回の末に4-3で勝利し、リーグ優勝を果たした(この時代はプレーオフ第2ステージ勝利チームがリーグ優勝となっていた)。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、まず第2戦に先発。立浪和義に同点3ラン本塁打を打たれるなどし、6回1/3を8失点で敗戦投手。2勝3敗と王手をかけられた第6戦では、苦しみながらも8回2失点でしのぎ、勝利投手となって逆王手をかけた。翌日の第7戦には中継ぎで3番手として登板し、1イニングを無失点に抑えて日本一に貢献。この直後に柴田倫世との結婚を発表。11月11日日米野球では第6戦に先発し、1失点完投勝利。アメリカ選抜チーム相手の完投勝利は、荒巻淳(毎日)以来、51年ぶり史上2人目の記録となった。
2005年
5月18日セ・パ交流戦阪神タイガース戦でプロ野球選手として阪神甲子園球場で初登板。高校時代には同球場で15連勝、被本塁打0という記録を持っていたが、桧山進次郎に先制2ランを浴び、試合も2-3で惜敗(勝利投手は同学年で同じ背番号18の相手先発杉山直久JFK (阪神タイガース)が好リリーフ)。甲子園での被本塁打0という記録は途絶え、連勝記録も15で止まった。この年は防御率リーグ3位と優れていたにもかかわらず、14勝13敗と負け数もかなり多かった。打線の援護が少なく、野手の失策も多かったため、6月27日の日本ハム戦後には「球際に弱い選手が多い。僕も含めてですが、一つ一つのプレーが軽すぎる。若い選手が多いんだから、もっとガムシャラにやってほしい」と野手批判とも受け取られかねない発言をしたが[13]、後日には野手ミーティングで詫びを入れたという。評論家からは「打線の援護がないのは、投球のリズムが悪いからだ」と指摘され、改善を目指した。オフにはスコット・ボラスを代理人としポスティングシステムでのメジャー挑戦を訴えたが[14]、球団は制度の行使を否認した[15][16]。12月には第1子が誕生した。
WBC日本代表での松坂
2006年
第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に日本代表として出場。3月4日チャイニーズタイペイ戦では4回1失点、3月14日メキシコ戦では5回無失点、そして3月20日キューバとの決勝戦では、試合前に首を痛めながらも気合の投球で4回1失点に抑え、先発したすべての試合で勝利投手になった(球数制限があったため、先発勝利の条件が5イニング以上という規定がなかった)。結果的に、大会最多となる3勝、防御率1.38という成績が高く評価され、大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。MVPのトロフィーを受け取った直後のインタビューでは、「MVPとったんですけど、これ(=トロフィーの円盤状の飾り)もうとれちゃったんですね。この辺がアメリカっぽいですけど」と苦笑いしつつ、「後で自分でアロンアルフアでくっつけて直しますけど」とコメントし、その後実際に販売元の東亞合成から松坂へアロンアルフアが大量に送られた[17]。優勝を祝うシャンパンファイトにおいては、甲子園で投げ合った同い年の日本テレビアナウンサーの上重聡に「今日のピッチング気合入ってましたね」と問われ、「もうそりゃ、今日最後だから。今年最後だから」と大会後のレギュラーシーズンのことを忘れたかのように話し、「今年最後ではありません」と言われると、「それくらい気持ちを入れていたってことです。帰ってもしっかりやります」と語り、実際にこの年のオフに行われたWBC祝勝コンベンションでは「WBCが終わり、そのままシーズンオフになれば良かったとさえ思った」と語った。
レギュラーシーズンでは6月9日のセ・パ交流戦・阪神戦で1失点完投勝利を収め、高校時代に大活躍した甲子園でのプロ初勝利を記録し、自ら本塁打も打った(バッティングで後述)。また、6月16日のセ・パ交流戦・横浜戦で、江川卓(所要193試合)を抜きドラフト制度導入後最速(191試合)の100勝を達成する(その後、同年8月25日に上原浩治が同じ191試合での100勝を阪神戦にて達成し、松坂の記録は最速タイとなった)。10月7日、ソフトバンクとのプレーオフ第1ステージ初戦に先発。6安打を浴び4死球を与えたが、斉藤和巳との熾烈な投げ合いを制し1-0で完封勝利を挙げる。チームはその後2連敗し第1ステージで敗退した。
オフにはポスティングシステムの行使が容認される[18][19]ニューヨーク・メッツニューヨーク・ヤンキーステキサス・レンジャーズも入札に参加したことが報じられたが[20]、11月15日にボストン・レッドソックスが5111万1111ドル11セント(当時のレートで約60億1000万円)で独占交渉権を獲得したことが発表される[21][22][23][24][25]。その後、代理人のスコット・ボラスとレッドソックス側の契約交渉が難航したが[7][26][27][28]、ボラスは交渉期限直前で松坂本人の意思を尊重し[29][30]、12月14日に総額5200万ドルの6年契約を結ぶ[31][32][33][34]。レッドソックスファンであるアメリカ国務次官補のクリストファー・ヒルは、六カ国協議が行われる北京への出発前に記者会見で「今日のマツザカの交渉はどうなった?」などと交渉の行方を気にかけていた。

レッドソックス時代[編集]

2007年
4月5日カンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初先発し、7回を6安打1失点10奪三振の好投でメジャー初勝利を挙げる[35][36][37][38][39][40]。本拠地フェンウェイ・パークでの初登板となった11日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対戦し[41]、4打数無安打に抑えた[42][43]。27日のニューヨーク・ヤンキース戦では松井秀喜と初対戦し、2打数無安打に抑えた[44]。この試合ではNHKのテレビ中継で自己最速となる158km/hを計時したが、球場内の表示は94mph(約151km/h)だった[45]。5月9日のトロント・ブルージェイズ戦では大家友和と投げ合い、7回を5安打1失点8奪三振の好投で4勝目を挙げる[46]。14日のデトロイト・タイガース戦では9回を6安打1失点の投球でメジャー初完投勝利を挙げ[47][48]、19日のアトランタ・ブレーブス戦まで5連勝を記録し[49]、同月第3週のリーグ週間MVPを受賞[50]。6月は2勝2敗、防御率1.59、WHIP1.09の好投を見せ、7月3日のタンパベイ・デビルレイズ戦で10勝目に到達[51]。前半戦は18試合の先発で10勝6敗、防御率3.84、WHIP1.24の成績で折り返し、8月4日のシアトル・マリナーズ戦で日米通算1500奪三振を達成[52]。後半戦は14試合の先発で5勝6敗、防御率5.19、WHIP1.44と不調に陥るも、シーズン最後の登板となった9月28日のミネソタ・ツインズ戦で日本人選手史上初・メジャー史上5人目となるメジャー1年目での15勝と200奪三振に到達し、チームも12年ぶりの地区優勝を決めた[53]。シーズン通算ではリーグ10位の15勝、同6位の201奪三振を記録したが、与四球率はリーグワースト6位、1試合の平均球数はメジャー最多の108.8球だった。
ポストシーズンではロサンゼルス・エンゼルスとのディビジョンシリーズ第2戦で初登板し、4回2/3を3失点で勝敗はつかなかった。クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発、4回2/3を4失点で敗戦投手となった。第7戦は5回2失点で日本人初のポストシーズン勝利投手となった[54]コロラド・ロッキーズとのワールドシリーズ第3戦で日本人史上初となるワールドシリーズでの先発を果たし、5回1/3を2失点、打席でもメジャー移籍後初安打となる2点適時安打を記録し、日本人初のワールドシリーズ勝利投手となる[55]。チームは翌日の第4戦にも勝利してワールドシリーズ優勝を果たした[56]。新人王投票では4位に入る[57]
2008年
ボストン・レッドソックス時代の松坂
開幕前に第2子が誕生[58]東京ドームで行われた3月25日のオークランド・アスレチックスとの日本開幕戦に登板。5回を2安打2失点6奪三振5四球の投球で降板し勝敗はつかなかったがチームは勝利[59][60]。本国開幕戦となった4月1日のアスレチックス戦で初勝利を挙げ[61]、5月まで黒星なしの開幕8連勝、防御率2.54、WHIP1.29を記録したが、5月27日に右肩回旋筋腱板の張りを訴え故障者リスト入り。6月21日に復帰し、前半戦は10勝1敗、防御率2.65、WHIP1.38を残したが、オールスター初選出は逃す。7月22日のマリナーズ戦では8回までメジャー初完封のペースで好投を続けていたが、イチローに適時二塁打を打たれて完封を逃す[62]。9月15日のタンパベイ・レイズ戦で日本人シーズン最多勝となる17勝目を挙げ[63][64]、21日のトロント・ブルージェイズ戦で18勝目を挙げる[65]。チームも2年連続でのポストシーズン進出を果たした[66]
ポストシーズンではエンゼルスとのディビジョンシリーズ第2戦に先発。5回3失点で勝敗はつかなかったが、チームは9回に勝ち越して勝利した。レイズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦では6回まで無安打に抑え、7回0/3を無失点の好投で勝利投手となった[67]。第5戦では4回0/3を5失点で降板し勝敗はつかず、その後は試合状況によるリリーフ登板も志願したが[68]、チームは第7戦で敗れてリーグ優勝を逃した。
この年の与四球率5.05はリーグワーストながら、被打率はリーグ1位の.211、被OPSはリーグ3位の.645。また、プレーオフを含めて満塁のピンチは15度あったが、押し出しと犠飛こそあったものの、全て無安打に抑えた。またロードでの試合は無敗で勝率.862を記録し、メジャーリーグ歴代勝率25位にランクインした。また、リーグ3位の防御率2.90、リーグ4位の18勝、リーグ2位の勝率.857を残し、サイヤング賞の選出投票では4番目(2位票2票、3位票4票)となる評価を受けたものの、1イニングの平均投球数がリーグ2位と多く、先発で18勝以上挙げた投手ではメジャー史上最少イニングである投球回167回3分の2だったことなど、野手やリリーフのおかげとする向きも多く(松坂が残した走者をリリーフが返したのは、無死満塁で降板した6月21日だけであった)評価が二分された。セイバーメトリクスの観点からも、QSが14試合(規定投球回到達者88人中66位)でQS率が48%(同64位)、K/BBが1.64(同75位)、FIP4.03(同42位)と悪く、BABIP.267(同6位)、QS未満で7勝(同1位)、9イニング当たりの平均援護点6.1(同8位)と、運に恵まれたとする数値が示された。WARではFanGraphsが算出したものではリーグ19位の3.4、Baseball-Referenceが算出したものではリーグ6位の5.3と評価が分かれた。オフにMLB公式ホームページで行われた最優秀先発投手賞のファン投票ではティム・リンスカムマイク・ムシーナロイ・ハラデイに次ぐ4位に入った[69]。12月には1998年度の横浜高校のメンバー対松坂世代のチャリティーマッチに参加した[70]
2009年
第2回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出。3月7日東京ドームで行われた第1ラウンドA組第2戦の韓国戦に先発し、初回に金泰均に2点本塁打を浴びたものの、以降は立ち直って4回2失点にまとめ、打線の援護もあって勝利投手となった[71]3月15日ペトコ・パークで行われた第2ラウンド1組初戦のキューバ戦では、6回無失点の好投で2勝目を挙げた[72]3月22日ドジャースタジアムで行われた準決勝のアメリカ戦では、4回2/3を2失点で3勝目を挙げた[73]。チームは翌日の決勝戦で韓国を破って優勝を決め、最多勝の松坂が2大会連続で最優秀選手に選ばれた。インタビューの際には「岩隈くんに悪いなと思いました」とコメントした[74]
レギュラーシーズン開幕後は2試合連続で打ち込まれ[75]、右肩の疲労を理由に4月15日に故障者リスト入りする[76]。復帰後は6月2日のデトロイト・タイガース戦で初勝利を挙げる[77]。19日のアトランタ・ブレーブス戦では川上憲伸と投げ合うが、4回を8安打6失点で黒星を喫する[78]。その後も打ち込まれ、21日に再び故障者リスト入りする[79][80]。故障者リスト入り中には、日本メディアのインタビュー記事で「この環境の中で練習を強いられ続けたら、僕は日本のようなピッチングはもう出来なくなるかも知れない」とチームの調整方法を批判したとも受け取られる発言があったため「ここ数日報道されたことの誤解を解きたい。私は公に不満を示したことはなく、私的な会話の内容が報じられた。(上述の)コメントはそれ自体言ったことがない」と英文で声明を出し謝罪した[81][82]。9月に復帰して以降は3勝1敗、防御率2.22、WHIP1.35と復調したものの、シーズンを通しては4勝6敗、防御率5.76、WHIP1.87とプロ入り以降もっとも悪い成績に終わった。チームは3年連続でのポストシーズンに進出したが[83]、ポストシーズンでは先発ローテーションには入らず登板のないままチームはエンゼルスとのディビジョンシリーズで敗退した[84]。この年の不振の原因について、シーズン終了後の記者会見で、この年のWBCの前から股関節を痛めていたことを告白し[85]、GMのセオ・エプスタインに直接謝罪した[86]
2010年
スプリングトレーニング前から背中の張りを訴える[87][88]。3月18日には第3子が誕生したが[89]、スプリングトレーニング中も首の張りを訴えて[90]2試合の登板に終わり、開幕は故障者リスト入りして迎える[91]。5月1日のボルチモア・オリオールズ戦で復帰[92]。5月6日のエンゼルス戦で初勝利を挙げるが5失点を喫し[93]、次に先発したブルージェイズ戦では7回3安打1失点9奪三振無四球と好投[94]。5月22日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では8回2死までノーヒットノーランを続ける好投を見せたが[95]、次に先発した27日のロイヤルズ戦では9四死球の大乱調を喫するなど好不調の激しいピッチングが続く[96]。6月7日のインディアンス戦で、日本プロ野球2リーグ制以降最速となる日米通算150勝を達成[97]。しかし12日に右前腕部の張りを訴えて再度故障者リスト入りする[98]。6月24日のロッキーズ戦で復帰し、5回を5安打2失点6奪三振の投球を見せ、打席でもメジャー公式戦初打点を記録するが、救援陣が打ち込まれ白星はつかなかった[99]。7月27日のマリナーズ戦では2年ぶりにイチローと対戦し、3打数無安打に抑える[100]。8月5日のインディアンス戦では長谷川滋利に並ぶ日本人選手3位タイのメジャー通算45勝となる8勝目を挙げる[101]。15日のテキサス・レンジャーズ戦ではロジャー・クレメンスに次ぐ球団史上2番目のペースで通算500奪三振に到達[102]。9月2日のオリオールズ戦では日本人歴代単独3位のメジャー通算46勝目となる9勝目を挙げる[103][104]。最終的に、2年連続で規定投球回数未到達・1桁勝利に終わり[105]、規定投球回数未到達ながら降板時に残した走者21人は先発投手でリーグワースト10位だったが(そのうちリリーフが返したのは6人)、本人や球団首脳陣は速球に手応えを感じたシーズンだと振り返った[106]
2011年
スプリングトレーニングでは東日本大震災を受けて岡島秀樹田澤純一正田樹と共に義援金を募った他[107]、100万ドルを寄付した[108]。開幕後は2試合で7イニング10失点を喫し2連敗したが、4月18日のブルージェイズ戦で7回1安打無失点1四球3奪三振の投球で初勝利。23日のロサンゼルス・エンゼルス戦では8回1安打無失点3四球9奪三振の投球で2勝目を挙げ、15イニング連続無失点を記録した他、5月4日のエンゼルス戦では延長13回に8番手としてメジャー初となるリリーフ登板を経験(2死満塁から2点適時打を浴びて敗戦)[109]。しかし4月29日のマリナーズ戦で途中降板するなど4月末から右肘に張りが生じ、5月17日に故障者リスト入り。一時帰国を経て31日にルイス・ヨーカムによるセカンド・オピニオンを仰ぎ、6月10日に同医師の執刀によるトミー・ジョン手術を受けた[110]
2012年
6月9日のワシントン・ナショナルズ戦でメジャー復帰。球速は平均球速91.5mph(約147.3km/h)、最速93mph(約150km/h)を記録するが、5回を5安打、4失点、8奪三振、1四球の投球で黒星を喫した[111][112]。その後4試合に先発するも白星はつかず、7月3日には右僧帽筋を痛め故障者リスト入り[113]。8月27日に復帰し、その日のロイヤルズ戦に先発。7回を5安打、1失点、6奪三振、2四球、最速94mph(約151km/h)を記録する投球で、日本人史上4人目のメジャー通算50勝目となる復帰後初勝利を挙げる[114][115]。しかしその後の登板は全て4失点以上を喫し白星を挙げることができず、シーズン最終登板となった10月3日のヤンキース戦では黒田博樹と投げ合うも、2回1/3を投げ2本塁打を含む6安打、5失点の投球で7敗目を喫しシーズンを終えた[116]。防御率8.28は10回以上先発した投手としては球団史上最低の成績であった[117]。10月29日にFAとなった。

インディアンス傘下時代[編集]

2013年
2月13日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだことが発表された[118]。背番号は西武入団時から付けていた18に変わり、20となった(インディアンスでは18番がメル・ハーダー永久欠番となっているため)。スプリングトレーニングには招待選手として参加し、4試合の登板で8イニングを投げ防御率2.25、WHIP1.38の成績を残すが、3月18日に開幕マイナーを通告される。しかし、マイナーで開幕を迎えた際に球団が支払うボーナス10万ドルを節約する目的で24日に一旦自由契約となり、26日に契約内容を変更したマイナー契約で再契約[119]。AAA級コロンバス・クリッパーズで開幕を迎え、開幕から5試合に先発するが、与四球率7.84と制球に苦しんで防御率3.92、WHIP1.45の成績を喫し、4月28日のポータケット戦の4回に左脇腹を痛め、故障者リスト入りした[120]。6月に復帰し、前半戦は12試合の先発で1勝5敗、防御率4.55、WHIP1.39の成績を喫する。後半戦は7試合の先発で4勝3敗、防御率3.13、WHIP1.21と復調したが、8月20日に契約解除を申し出て自由契約となった[121][122]

メッツ時代[編集]

8月22日にニューヨーク・メッツとメジャー契約を結んだ[123][124]。メッツにはレッドソックス時代まで付けていた背番号18の選手はいなかったが、野茂英雄ドワイト・グッデンデビッド・コーンが付けていた16を背番号にする[125]。コロンバスでの先発登板から中3日で23日のタイガース戦に先発したが、2回までに2本塁打を浴び5回6安打5失点で黒星を喫する[126][127]。移籍後3試合で12回1/3を投げ15失点を喫していたが、9月15日のマイアミ・マーリンズ戦で、7回2安打1失点の投球で初勝利[128]。移籍後4試合目以降は26回1/3を13安打6失点と好投を続け、初勝利から3連勝を記録してシーズンを終える[129]。9月にはスコット・ボラスとの契約を解除しSFX社と代理人契約を結ぶ[130]。10月31日にFAとなった。
2014年
1月24日にメッツとマイナー契約で再契約した[131]。招待選手として参加したスプリングトレーニングでは6試合の登板で23回2/3を投げ、防御率3.04、WHIP1.27の成績を残す。3月25日までにメジャー契約を結ばなければFAとなる権利を持っていたが、同日にメッツが10万ドルを支払いマイナー契約を延長し[132]、31日にAAA級ラスベガス・フィフティワンズへ異動した。4月16日に成績不振であったジョン・ラナンと入れ変わる形でメッツとメジャー契約を結んだ[133]。メッツではリリーフとして起用され、20日のブレーブス戦では延長11回から登板し3回を投げ、日米通算2000奪三振に到達する[134]。5月25日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦でシーズン初先発し2勝目を挙げる[135]。6月から先発ローテーションに入り、7月12日のマーリンズ戦では自己最多タイの10奪三振の投球を見せる[136]。後半戦はディロン・ジージョン・ニースが故障から復帰したことに伴い再びリリーフで起用され、7月25日には右肘の炎症で15日間の故障者リスト入り[137]。8月28日に復帰し[138]、肘の消炎剤注射を受けながら[139]リリーフとして起用され、9月は4試合の登板で無失点と好投を続ける。最終的には先発としては9試合の登板で2勝3敗、防御率4.24、WHIP1.35。リリーフとしては25試合の登板で1勝0敗1セーブ、防御率3.44、WHIP1.34だった。シーズン終了後フリーエージェントとなる。
12月4日福岡ソフトバンクホークス入団が発表された[140]新垣渚の移籍によって空き番となった背番号18をつけることとなった。

選手としての特徴[編集]

投球する松坂

投球[編集]

投球フォームはワインドアップ中に間をとるモーションからのスリークォーター[141]クイックは1.0秒台と非常に速い[13]。2010年までは平均球速91.8mph(約147.7km/h)[142]、最速97mph(約156km/h)の速球(フォーシーム、ツーシームワンシーム[143])に加え、球速の違う数種類のスライダースラーブ[144][145]カットボール、数種類のチェンジアップサークルチェンジスプリットチェンジなど[146][147])を投げ分け、稀にスプリッターカーブも混ぜ、縦に変化するスライダーで三振を奪うケースが多かった[148]

プロ初登板で155km/hの高めの速球で片岡篤史から三振を奪ったシーンは松坂のプロ入り後の有名なエピソードのひとつとして語られており[149][150]、このプロ1年目から平均球速146km/hを記録した速球については「理想のボールは初速と終速の差が5km/hしかない160km/h。そんな球を投げられたら他の変化球は一つもいらないと思うんですけどね」と語っており[150]、4年目からはフォーシームの速球の握りを指の間隔が狭いものにし、下半身の使い方や腕の振りも変えて綺麗な縦回転と強いスピンを意識してキレを増す[150]。レッドソックス移籍後も2010年までは平均球速91.8mph(約147.7km/h)を記録し、2010年には速球主体のピッチングで[151]チームメイトからメジャー4年間で最高の球威だとの評価を得ていた[152]

しかしトミー・ジョン手術から復帰した2012年以降は平均球速90.1mph(約145km/h)、最速95mph[153](約153km/h)と球速が下がり、カーブの投球割合を増やし緩急をつける投球となった[154][155][156][157]

被ウェルヒット率(アウト、ヒットにかかわらず打者にいい当たりを打たれた率)とストライクの空振り率では優秀な数値を残し、ボールの質はメジャーでも高いレベルにあると評価されていたが[158]、速球のコマンド(狙ったスポットに投げる能力)に難があり[159]、与四球率が高い。2006年から2010年にかけてはストライドがやや狭まったこと以外に投球動作に大きな変化はないが[160]、リリースポイントで頭が動くことと[141]、下半身が安定せず上下動が激しいことがコントロールの極端さを生んでいると指摘されていた[161]

ジャイロボール論争[編集]

レッドソックス移籍前後、メジャーリーグスカウトの「マツザカはジャイロボールを投げる」という噂が話題となる[162][163]

本人は当初ジャイロボールに関して「何を指してジャイロと言われているのかわからない」と語り[164]、実際は持ち味の一つであるカットボールの抜け球のことであったが[165]、レッドソックス移籍当初は「あると思わせていればいいんじゃないですか」と答えていた[166]

守備・打撃[編集]

西武時代はフィールディングの評価が非常に高く、NPB在籍8年間のうち、資格を得ていた7年すべてでゴールデングラブ賞を獲得した(2002年のみ投球回・試合数の不足のため同賞の有資格者ではなかった)。メジャー移籍後は2014年までの通算DRS-9を記録している。

打撃が好きなことを公言しており[150]、西武時代は気分転換もかねて打撃練習もトレーニングに取り入れていたが、レッドソックス移籍後はインターリーグ時でしか打撃練習を許されなかった[167]

高校時代は4番を務めていた時期もあり、高校通算14本塁打を記録。2000年8月7日オリックス戦では、9回2死満塁の場面で代打として登場。栗山聡からファールで粘った後の7球目を中堅前安打し、2打点を挙げた[168]2002年の日本シリーズでは、当時の監督の伊原春樹は投手を8番に置き、9番打者をシーズン同様に高木浩之とすることを示唆していたが、松坂には7番を打たせた。2006年6月9日セ・パ交流戦阪神戦(甲子園)では、8回表2死3塁の場面でダーウィン・クビアンの150km/hの高めのボール球を叩いて2点本塁打。DH制施行後、パ・リーグの投手としては4人目の記録となった。レッドソックス移籍後の2007年6月10日アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦でランディ・ジョンソンから2打席2三振を喫し、6月22日サンディエゴ・パドレス戦でも、グレッグ・マダックスを相手に2打席とも内野ゴロに倒れ、1年目のレギュラーシーズンは無安打に終わった。しかし、ワールドシリーズ第3戦のロッキーズ戦で、3回表2死満塁の場面でジョシュ・フォッグの初球を叩き、メジャー移籍後初安打を記録し2打点を挙げた。ワールドシリーズでレッドソックスの投手が2打点を挙げたのはサイ・ヤングベーブ・ルースに続いて史上3人目だった。

松坂世代[編集]

松坂大輔と同学年の選手には、投手を中心にプロで活躍する逸材が揃っており、総称して「松坂世代」と呼ばれている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1999 西武 25 24 6 2 0 16 5 0 -- .762 743 180.0 124 14 87 1 8 151 5 2 55 52 2.60 1.17
2000 27 24 6 2 0 14 7 1 -- .667 727 167.2 132 12 95 1 4 144 2 0 85 74 3.97 1.35
2001 33 32 12 2 1 15 15 0 -- .500 1004 240.1 184 27 117 1 8 214 9 1 104 96 3.60 1.25
2002 14 11 2 0 0 6 2 0 -- .750 302 73.1 60 13 15 1 7 78 2 1 30 30 3.68 1.02
2003 29 27 8 2 1 16 7 0 -- .696 801 194.0 165 13 63 2 9 215 4 0 71 61 2.83 1.17
2004 23 19 10 5 0 10 6 0 -- .625 601 146.0 127 7 42 0 6 127 5 0 50 47 2.90 1.16
2005 28 28 15 3 3 14 13 0 0 .519 868 215.0 172 13 49 0 10 226 9 0 63 55 2.30 1.03
2006 25 25 13 2 2 17 5 0 0 .773 722 186.1 138 13 34 0 3 200 5 0 50 44 2.13 0.92
2007 BOS 32 32 1 0 1 15 12 0 0 .555 874 204.2 191 25 80 1 13 201 5 0 100 100 4.40 1.32
2008 29 29 0 0 0 18 3 0 0 .857 716 167.2 128 12 94 1 7 154 5 0 58 54 2.90 1.32
2009 12 12 0 0 0 4 6 0 0 .400 283 59.1 81 10 30 1 2 54 8 0 38 38 5.76 1.87
2010 25 25 0 0 0 9 6 0 0 .600 664 153.2 137 13 74 1 8 133 4 0 84 80 4.69 1.37
2011 8 7 0 0 0 3 3 0 0 .500 167 37.1 32 4 23 0 1 26 0 0 24 22 5.30 1.47
2012 11 11 0 0 0 1 7 0 0 .125 215 45.2 58 11 20 0 3 41 3 0 43 42 8.28 1.71
2013 NYM 7 7 0 0 0 3 3 0 0 .500 166 38.2 32 4 16 0 5 33 0 0 21 19 4.42 1.24
2014 34 9 0 0 0 3 3 1 3 .500 359 83.1 62 6 50 5 6 78 6 0 38 36 3.89 1.34
NPB:8年 204 190 72 18 7 108 60 1 0 .642 5768 1402.2 1102 112 502 6 55 1355 41 4 508 459 2.95 1.14
MLB:8年 158 132 1 0 1 56 43 1 3 .566 3444 790.1 721 85 387 9 45 720 31 0 406 391 4.45 1.40
  • 2014年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

NPB
初記録
節目の記録
打撃記録
その他の記録
日米通算記録
  • 日米通算2000奪三振(2014年4月20日、日本時間21日)

背番号[編集]

  • 18 (1999年 - 2012年、2015年 - )
  • 16 (2013年 - 2014年)

CM出演[編集]

PV出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ http://mlb.mlb.com/team/player.jsp?player_id=493137
  2. ^ 松坂大輔物語 120億円を生んだ遺伝子”. ゲンダイネット (2007年3月30日). 2008年7月20日閲覧。
  3. ^ プロフィール - 松坂大輔 - MLB - SANSPO.COM SANSPO.COM 2014年7月14日閲覧。
  4. ^ 後藤静香の「第一歩」。後藤は黒土の先輩にあたる。
  5. ^ 【松坂大輔物語 120億円を生んだ遺伝子】 日刊ゲンダイ 2007年4月12日閲覧
  6. ^ 参考文献:江夏豊『松坂大輔へ 江夏豊からのメッセージ』中央公論新社、2000年
  7. ^ a b Wooing of pitcher was wowing. Sox had bases covered while chasing, landing MatsuzakaBoston Globe、2006年12月17日。
  8. ^ Matsuzaka Masterpiece: Glimpses of Greatness in Arm of TeenagerThe New York Times、2007年2月11日。
  9. ^ 流行語大賞は「雑草魂」「リベンジ」「ブッチホン」読売新聞、1999年12月2日。
  10. ^ 松坂、イチローで新たな確信!!日刊スポーツ、2007年4月7日。
  11. ^ 2000年10月27日付。読売新聞
  12. ^ 西武・松坂投手、書類送検へ 免停中に駐車違反読売新聞、2000年10月13日。
  13. ^ a b 小関順二、泉直樹、荒井太郎 『プロ野球スカウティングレポート2006』 アスペクトムック、2006年、5頁。ISBN 978-4-7572-1246-6
  14. ^ 西武は松坂の移籍認めず読売新聞、2005年10月28日。
  15. ^ 「今年は無理」 西武の松坂、メジャー断念読売新聞、2005年11月1日。
  16. ^ 防御率2.30ではダメか 球団条件あいまい読売新聞、2005年10月29日。
  17. ^ http://www.ntv.co.jp/legend/backnumber/answer01.html
  18. ^ 松坂、入札でメジャー挑戦読売新聞、2006年11月2日。
  19. ^ 一問一答 「妻が後押し」日刊スポーツ、2006年11月2日。
  20. ^ ヤンキース35億円読売新聞、2006年11月15日。
  21. ^ 松坂 レッドソックスへ読売新聞、2006年11月15日。
  22. ^ 騒動の原因は予想外の高値読売新聞、2006年11月15日。
  23. ^ RソックスGM 「早く会いたい」読売新聞、2006年11月15日。
  24. ^ 現地でも報道沸騰読売新聞、2006年11月16日。
  25. ^ 「イチローさんとまた対戦できる」/一問一答読売新聞、2006年11月16日。
  26. ^ 松坂交渉難航? 地元紙「決裂の可能性」読売新聞、2006年12月11日。
  27. ^ 松坂代理人・ボラス氏「合意に向け交渉中」日刊スポーツ、2006年12月12日。
  28. ^ 会見合戦 松坂交渉大詰め読売新聞、2006年12月13日。
  29. ^ 「早く投げたい」一転歩み寄り読売新聞、2006年12月14日。
  30. ^ 松坂・Rソックス合意読売新聞、2006年12月14日。
  31. ^ 松坂、Rソックス入団発表…背番号「18」読売新聞、2006年12月15日。
  32. ^ ダイスケ興奮「長かった」/一問一答読売新聞、2006年12月15日。
  33. ^ ボラス氏「大輔は有頂天さ」読売新聞、2006年12月15日。
  34. ^ 「代理人交渉 不安でした」読売新聞、2006年12月19日。
  35. ^ 松坂勝った、7回1失点10K日刊スポーツ、2007年4月6日。
  36. ^ 松坂初登板も「普段通りに投げられた」日刊スポーツ、2007年4月7日。
  37. ^ 松坂「試合は作れた結果に満足」日刊スポーツ、2007年4月7日。
  38. ^ ライバルNY紙も松坂賞賛
  39. ^ 松坂 10K圧巻デビュー読売新聞、2007年4月6日。
  40. ^ 甲子園初登板のほうが特別だった/一問一答読売新聞、2007年4月7日。
  41. ^ ボストン熱狂 「怪物VS天才」米国編読売新聞、2007年4月12日。
  42. ^ 松坂vsイチロー緊張と感動の初球日刊スポーツ、2007年4月13日。
  43. ^ 松坂イチロー封じ 試合は3失点初黒星読売新聞、2007年4月12日。
  44. ^ 松坂VS松井 メジャー初対決読売新聞、2007年4月28日。
  45. ^ 松坂幻の158キロ日刊スポーツ、2007年4月27日。
  46. ^ 松坂4勝目「納得するレベルじゃない」日刊スポーツ、2007年5月11日。
  47. ^ [http://matsuzaka.nikkansports.com/news/f-bb-tp2-20070515-198992.html Dice-Kがついに 初完投勝利!]日刊スポーツ、2007年5月15日。
  48. ^ 松坂 初完投で5勝読売新聞、2007年5月15日。
  49. ^ 松坂5連勝自己最長19イニング連続無失点日刊スポーツ、2007年5月21日。
  50. ^ 松坂に初の週間MVP、日本選手11度目日刊スポーツ、2007年5月22日。
  51. ^ 松坂10勝Rソックス早くもM71点灯日刊スポーツ、2007年7月5日。
  52. ^ 松坂が日米通算1500奪三振をマーク日刊スポーツ、2007年8月6日。
  53. ^ 松坂15勝、レ軍12年ぶり地区優勝日刊スポーツ、2007年9月30日。
  54. ^ 松坂Wシリーズ勝ち取った/アLCS日刊スポーツ、2007年10月23日。
  55. ^ 松坂2失点で日本人初勝利/Wシリーズ日刊スポーツ、2007年10月29日。
  56. ^ 松坂 1年目の美酒読売新聞、2007年10月30日。
  57. ^ 松坂4位で新人王逃す日刊スポーツ、2007年11月14日。
  58. ^ 松坂に第2子誕生、日本での開幕戦登板へ日刊スポーツ、2008年3月16日。
  59. ^ アスレチックス5-6Rソックス/終了日刊スポーツ、2008年3月25日。
  60. ^ 松坂、苦い2年目船出読売新聞、2008年3月26日。
  61. ^ 松坂2安打9K無四球、96球余裕残し1勝日刊スポーツ、2008年4月3日。
  62. ^ イチローが松坂の初完封打ち砕いた日刊スポーツ、2008年7月24日。
  63. ^ 松坂日本人最多17勝、次はアジア最多19勝日刊スポーツ、2008年9月17日。
  64. ^ 「野茂さん、超えてない」読売新聞、2008年9月17日。
  65. ^ 松坂18勝「自分の背番号分勝ちたかった」日刊スポーツ、2008年9月22日。
  66. ^ レッドソックスPO進出松坂2年連続歓喜日刊スポーツ、2008年9月25日。
  67. ^ 松坂6回までノーヒッター/プレーオフ日刊スポーツ、2008年10月12日。
  68. ^ 松坂「逆転リーグ制覇」へ救援待機日刊スポーツ、2008年10月19日。
  69. ^ 松坂4位、ファンが選ぶ最優秀先発投手賞日刊スポーツ、2008年12月19日。
  70. ^ 松坂伝説再現!世代チャリティー戦で主役日刊スポーツ、2008年12月22日。
  71. ^ 松坂初回被弾も粘って宿敵倒す/WBC日刊スポーツ、2009年3月8日。
  72. ^ 松坂6回8Kで長男誕生日祝う/WBC日刊スポーツ、2009年3月17日。
  73. ^ 松坂3戦3勝で連続MVP候補/WBC日刊スポーツ、2009年3月24日。
  74. ^ 松坂連続MVP「岩隈に悪いな」/WBC日刊スポーツ、2009年3月24日。
  75. ^ 松坂1回KO 監督は「WBCの影響」日刊スポーツ、2009年4月16日。
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]