剣道

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剣道
けんどう
剣道の試合中の鍔迫り合い
剣道の試合中の鍔迫り合い
発生国 日本の旗 日本
発生年 明治大正
源流 剣術
公式サイト 全日本剣道連盟
国際剣道連盟 (FIK)
日本剣道協会
  

剣道(けんどう)は、剣術竹刀稽古(撃剣)を競技化した武道

目次

[編集] 歴史

[編集] 防具と竹刀の登場

剣道の直接の起源は防具竹刀を使用する「打ち込み稽古」である。江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1715年)に直心影流長沼国郷が面・小手を製作し、竹刀による打ち込み稽古法を確立した。宝暦年間(1751年 - 1763年)には中西派一刀流中西子武面・具足式の防具を製作。袋竹刀より強固な割竹刀が作られるようになった。

[編集] 江戸時代後期から幕末

幕末に外国人カメラマンF・ベアトが撮影

江戸時代後期から幕末には、流派を超えて試合が行われる。江戸三大道場鏡新明智流士学館北辰一刀流玄武館神道無念流練兵館)や講武所など竹刀稽古中心の道場が興隆した。北辰一刀流の創始者千葉周作は「剣術六十八手」を分類。講武所頭取並(直心影流)の男谷信友は竹刀の全長を38と定める。防具を装着して竹刀で打ち合う稽古を「撃剣」といい、明治時代には「剣術」よりも一般的な呼称となる[1]

[編集] 明治維新と撃剣興行

明治維新によって武士の身分は廃止され、剣術は衰退する。元講武所剣術師範役(直心影流)の榊原鍵吉は、困窮した剣客を救済するため、明治6年(1873年)に剣術の試合を見世物化した「撃剣興行」を催すが、やがて人気は下火になっていった。明治9年(1876年)、廃刀令により帯刀が禁止。これらの改革に反発した士族が反乱を起こした。

[編集] 警視庁剣道

明治21年(1888年)頃の警視庁武術世話掛

明治10年(1877年)、最大の士族反乱西南戦争が勃発する。この戦争の鎮圧に出動した警視庁抜刀隊が活躍し、剣術が再評価された。明治12年(1879年)、警視庁上田馬之助梶川義正逸見宗助が撃剣世話掛として登用され、剣客が続々と就職。警察において剣術が盛んになる。警視庁は各流派のを「警視流」としてまとめ、撃剣に級位制を導入、全国的規模の撃剣大会を開き、明治維新後の剣術の復興と現代剣道への過渡期の役割を果たした。

[編集] 大日本武徳会

大日本武徳会本部正門(京都武徳殿

明治28年(1895年)、平安遷都1100年記念や日清戦争の勝利によって日本武術奨励の気運が高まり、「大日本武徳会」が結成される。総裁小松宮彰仁親王皇族陸軍大将)、会長渡辺千秋京都府知事)、副会長に壬生基修平安神宮宮司)が就任。同年に第1回の武徳祭大演武会(現在の全日本剣道演武大会)が開催され、剣術では320名が出場。特に優秀な15名に「精錬証」が授与された。大日本武徳会は、毎年の武徳祭の開催、各府県支部の設立、武徳殿の造営、武術教員養成所(後の武道専門学校)の設立、段位称号範士教士錬士)、試合審判規則、統一形(大日本帝国剣道形)の制定など、現代剣道の制度を確立した。

[編集] 学校剣道

大正9年(1920年)、学校で稽古をしている様子

撃剣を心身鍛錬の手段として学校教育(体育)に採用することが建議され、大日本武徳会は明治38年(1905年)に武術教員養成所(後の武道専門学校)を設立する。明治41年(1908年)、東京高等師範学校高野佐三郎を招聘して学校における撃剣の指導法を研究する。高野佐三郎は、学校や軍隊において多人数に一斉に撃剣を教えるための団体教授法を考案した。明治44年(1911年)、撃剣が旧制中学校正課となり、国民に普及する。東京高等師範学校(高師)教授高野佐三郎と武道専門学校(武専)教授内藤高治は「東の高野、西の内藤」と並び称された。

「撃剣」が「剣道」という名称に変わったのはこの頃であり、明治時代後期から大正時代に定着した[1][2](ただし江戸時代や明治時代初期にも使用例はある)[3]興行競技によって堕落した撃剣と区別する意味でも「剣道」という名称が用いられた。当時東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎が自身の創始した柔術を「柔道」と称していた影響もあった。

[編集] 第二次世界大戦中の剣道

昭和に入り、日本が戦時体制を強める中で剣道は軍国主義に利用されるようになる。昭和4年(1929年)、9年(1934年)、15年(1940年)皇居において盛大に天覧試合が開催された。3度の天覧試合で大日本帝国剣道形を演武した高野佐三郎中山博道は当時の剣道界の双璧といわれる。昭和16年(1941年)、太平洋戦争が開戦。昭和17年(1942年)、政府は大日本武徳会を厚生省文部省陸軍省海軍省内務省の共管とする外郭団体に改組し、国民の戦意高揚と戦技訓練のための機関とする。戦時中の剣道(戦技剣道)は戦場での白兵戦を想定して行われ[4]、「打突」が「斬撃」という表現に変更。攻撃的な先の技を重視し、軽い打ちや片手技は認めないものとされた。

[編集] 剣道禁止と撓競技の誕生

警棒

昭和20年(1945年8月15日日本が降伏(終戦)。日本を占領した連合国軍(GHQ)は、剣道は反民主的なものであるとして、大日本武徳会の解散を命令する。昭和21年(1946年)、大日本武徳会が解散し、関係者1300余名が公職追放される。剣道の組織的活動は禁止された。

昭和24年(1949年)、警察における剣道が禁止され、「警棒術」(警棒操法)と称する竹刀の短い剣道のような練習が考案された。

昭和25年(1950年)、全日本剣道競技連盟が結成されたが、剣道という名称が問題視され、全日本撓競技連盟と改称。武道的性格を払拭した「撓競技」というスポーツが生み出された。撓競技の選手はフェンシングのようにシャツズボン運動靴、軽量の防具を装用して、袋撓で打ち合いポイントを競った。審判員も従来の剣道とは異なり、一つの試合に3人が担当し、紅白で判定表示した。

昭和27年(1952年)、撓競技が中学校以上の学校体育に採用される。同年、国民体育大会にオープン競技として参加した。

[編集] 戦後の剣道

昭和27年(1952年10月14日全日本剣道連盟結成。前列中央初代会長木村篤太郎。隣中山博道

戦後の剣道は、スポーツとして実施することを条件に許された。昭和27年(1952年)、全日本剣道連盟(全剣連)が発足。剣道と撓競技は合併し、体育スポーツとして再出発することが確認された。

昭和28年(1953年)、第1回全日本剣道選手権大会が開催され、剣道日本一を決める大会として現在まで毎年開催されている。

昭和45年(1970年)には全剣連の国際競技団体として国際剣道連盟が発足し、第1回世界剣道選手権大会が開催された。爾来3年に1度世界各地で開催されており、全剣連の剣道は世界に広まっている。

なお、近年、一部の韓国関係者が、「剣道の起源はコムドである」と主張している(世界選手権に選手を送り出す韓国の剣道協会がそのような主張をしているわけではなく、あくまで一部の動きである)が、その根拠がインターネット上にて公開された際、多くの捏造点が認められ、現在では否定されている。この起源剽窃問題は、全日本剣道連盟公式ウェブサイトでも「剣道に関する全剣連の見解」として取り上げられており、日本起源であるという事実を国際的に広報すべく、英語版公式ウェブサイトにも掲載されている。

現在、日本の剣道のほぼ全体を全日本剣道連盟が統括しているが、日本剣道協会という団体もあり、足払い、組討ち、横面、歩み足などを用いる神道無念流形式の剣道を行なっている。

[編集] 年表

[編集] 現在の剣道団体

現在、日本には2団体、世界には1団体ある。

  • 日本
全日本剣道連盟
日本最大の剣道団体。日本武道協議会日本体育協会日本オリンピック委員会(JOC)国際剣道連盟(FIK)に加盟している。
日本剣道協会
神道無念流系剣道団体。「真の剣道復活」を唱えて設立された。竹刀による打突だけではなく、体当たり足払い組み討ち等も認めている。
  • 世界
国際剣道連盟(International Kendo Federation, FIK)
全日本剣道連盟の国際競技団体として1970年(昭和45年)に設立。以来、3年ごとに世界剣道選手権大会を開催している。2003年7月時点で44ヶ国の剣道団体が加盟している。国際オリンピック委員会(IOC)公認団体スポーツアコード(旧称GAISF)に加盟。IOC承認国際競技団体になることを目指している。

全日本剣道連盟は日本オリンピック委員会(JOC)、国際剣道連盟は国際オリンピック委員会(IOC)傘下のスポーツアコード(旧称GAISF)に加盟しているが、剣道のオリンピック加盟には一貫して反対の立場を取っている。国際剣道連盟のGAISF加盟に関しては、韓国に本部のある世界剣道連盟がGAISFに加盟する手続きを取ったため、国際剣道連盟が本来の剣道の国際競技団体であることを公式に認めてもらうためだけに加盟したともいわれている。この問題に関しては「コムド」、「韓国起源説」も参照のこと。

[編集] 剣道の理念

全日本剣道連盟は、昭和50年(1975年)3月20日に『剣道の理念』、『剣道修錬の心構え』を制定した。

  • 剣道の理念

「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」

  • 剣道修錬の心構え

「剣道を正しく真剣に学び
心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである」

[編集] 服装・用具

剣道着、の上から、垂・胴・面・小手の防具(剣道具)を装着する。面を着用する際には、手拭い(面手拭い、面タオル)を巻き付ける。垂には通常、名前や所属する道場名などの記されたゼッケン(垂ネーム)を付ける。基本的に裸足であるが、怪我等の理由で足袋サポーターを着用する者もいる。足袋・サポーターは試合のときも許可を得れば使用可能であることが一般的である。また、試合時には識別用として背中(胴紐の交差部)に紅白それぞれの目印(たすき)を付ける(全長70cm、幅5cm)。近年では垂に目印をつける大会もある。なお、なぎなた銃剣道異種試合を行う場合は、すね当て等の防具も必要となる。

[編集] 稽古内容

稽古とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ことである。剣道の稽古は竹刀の稽古との稽古に大別される。稽古を行なう施設を「道場」という。近年では体育館で行なう場合もある。

[編集] 竹刀稽古

竹刀と防具を使用した稽古

竹刀防具を使用する稽古。

[編集] 形稽古

大日本帝国剣道形。打太刀高野佐三郎仕太刀中山博道

木刀、刃引(模擬刀)で行なう形の稽古

撓稽古と形稽古は「車の両輪」等と喩えられる。道場によっては直心影流法定一刀流各派、神道無念流など古流の形も稽古している。警視庁警視流木太刀形筑波大学東京高師五行之形小西酒造修武館奥之形など、明治時代に制定された比較的現代剣道に近い古流形も存在する。また全日本剣道連盟では、剣道人が日本刀の操法を学ぶための全日本剣道連盟居合を普及している。

[編集] 試合形式

以下は全日本剣道連盟の場合である。

試合は常に1対1で戦う。これは団体戦の場合も同じである。選手は試合場に入り二歩進んでお互いにをし、三歩進んで蹲踞したあと審判員の「始め」の声がかかってから立ち上がり、勝敗が決するか規定の試合時間が経つまでお互いに技を出し合う。原則として三本勝負であるが、一本勝負も認められている。

[編集] 試合場

張りのに境界を含め19mないし11mの正方形または長方形試合場を作り、試合をする。境界は普通、ラインテープを貼って分ける。また、試合開始時の立ち位置は試合場中心付近に白のラインテープで示される。

[編集] 試合時間

試合時間は小学生2中学生3分、高校生以上4分、延長戦の場合には3分が基準である。しかし、運営上の理由などからこれ以外の試合時間を採用することも認められており、公式大会の決勝戦では、2007年平成19年)より試合時間が10分に変更された。

[編集]

全ての技は、竹刀防具の決められた箇所を打突するものである。

  • 小手を打つ技:小手打ち、引き小手打ち
  • 面を打つ技:面打ち、引き面打ち、小手面打ち
  • 面の当てを突く技:突き(中学生は原則禁止。高校生以上でも、この技を禁止とすることもある)
  • 胴の当てを突く技:胸突き(以前は相手が上段の構えを取っている時のみ一本になった。後、相手が二刀流の場合のみ認められていた。現在は認められていない)
  • 胴の右側を打つ技:胴打ち、引き胴打ち 抜き胴
  • 胴の左側を打つ技:逆胴打ち

これに、技を出す直前までの流れから「相(あい)〜」「抜き〜」「返し〜」「払い〜」「すり上げ〜」「引き〜」などの接頭辞が付く場合もある。

[編集] 一本

一本とは、

充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心とした部)で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるもの

である。審判員はこれに該当しているかどうかを判断してを挙げる。

[編集] 反則

反則を一試合中に二回犯した場合は、相手に一本を与える。

  • 相手に足を掛けまたは払う。
  • 相手を不当に場外に出す。
  • 試合中に場外に出る。
  • 自己の竹刀を落とす。
  • 不当な中止要請をする。
  • 相手に手をかけまたは抱え込む。
  • 相手の竹刀を握るまたは自分の竹刀の刃部を握る。
  • 相手の竹刀を抱える。
  • 相手の肩に故意に竹刀をかける。
  • 倒れたとき、相手の攻撃に対応することなく、うつ伏せなどになる。
  • 故意に時間の空費をする。
  • 不当な鍔(つば)迫り合いおよび打突をする。

[編集] 審判員

3人の審判員(1人の主審、2人の副審からなる)が紅白を持ち、旗を挙げることで有効打突の意思表示とする。2人以上が有効打突の表示をした場合、もしくは1人の審判員が有効打突を表示し2人が判定の棄権を表示した場合、一本となる。また、主審は次のいずれかの場合、「止め」の宣告と同時に紅白両方の旗を平行に挙げ、試合を中断させることができる。

  • 反則の事実
  • 負傷や事故
  • 危険防止
  • 竹刀操作不能の状態
  • 異議の申し立て
  • 合議
  • 試合者から中断の要請があった場合(この場合、主審は要請の理由を質し、不当な要請の場合は審判の合議の上、反則となることもある)

なお、試合中断は副審から申し出ることもできる。その際に副審が「止め」の宣告後、直ちに主審が「止め」の宣告をして試合を中断する。

鍔(つば)迫り合いがこうちゃく(膠着)した場合、主審は 「分かれ」の宣告と同時に両旗を前方に出し、両者を分け、その場で「始め」の宣告と同時に両旗を下ろし、試合を継続する。「分かれ」の場合の試合時間は中断しない。

[編集] 勝敗

勝敗は、試合時間のうちに三本勝負の場合二本、一本勝負の場合一本先取した選手を勝ちとする。また三本勝負において一方が一本を取り、そのままで試合時間が終了した場合にはその選手を勝ちとする。試合時間内に勝敗が決しない場合には、延長戦を行い先に一本取った選手を勝ちとする。延長の代わりに判定あるいは抽選によって勝敗を決する場合、または引き分けとする場合もある。判定および抽選の場合には勝者に一本が与えられる。団体戦における代表戦も原則一本勝負である。

[編集] 二刀流

成年者は原則として二刀流は禁止されていないが、使用者の数は少ない。昭和初期に、学生の間で試合に勝つためだけの二刀流が横行し、団体戦において二刀流の選手を防御一辺倒の引き分け要員とするなど姑息な手段が用いられたため、一部の学生大会では二刀を禁止するようになった。第二次世界大戦後、剣道が全日本剣道連盟の下に復活した際も、学生剣道界では戦前に倣って二刀を禁止したために、二刀を学ぶ者が非常に少なくなってしまった。

ただし、伝統が断絶するのを危惧する声もあり、1992年(平成3年)に大学剣道(公式試合・昇段審査)では解禁された。しかし、高体連中体連の公式試合・昇段審査においては未だに禁止されており、また小学生・中学生においては片手で竹刀を用いての打突は一本として有効ではないとされているため、高校生以下では事実上禁止されている状況である。

二刀流の竹刀は大刀小刀を用いる。それぞれ長さと重さが決められており、男性の場合、大刀は37以下(一刀の場合は3尺9寸以下)、小刀は2尺以下となっている。長らく二刀流が否定されていたため、また上記の通り竹刀も短く、かつては二刀流の相手に対しては胸突きも認められていたというハンデキャップがあるため、指導者・使用者とも少ないのが現状である。

[編集] 主な大会

[編集] 段級位制・称号

剣道の段級位称号の制度は複雑に変遷した。そのため同じ段級位・称号であっても時代によって実態が異なる。

[編集] 警視庁

明治時代に警視庁が級位制を導入したのが最初である。一級から七級まで設定した。このうち三級は上・下に、四級から六級は上・中・下に分かれた。一級は空位で、二級が事実上の最高位であった。主な最高位者に上田馬之助梶川義正逸見宗助真貝忠篤坂部大作得能関四郎三橋鑑一郎下江秀太郎などがいる。のちに大日本武徳会の段級位が剣道を統括するようになっても、警視庁では昭和26年(1951年)まで独自の級位を発行し続けた。

[編集] 大日本武徳会

明治28年(1895年)、大日本武徳会が創立され、警視庁に倣って一級から七級の級位を設けた。さらに毎年の武徳祭大演武会において優秀な人物に「精錬証」を授与し、事実上の称号とした。第1回の精錬証(1895年)を授与された人物は、石山孫六萩原太郎原不二夫得能関四郎奥村左近太香川善治郎吉田勝美高山峰三郎根岸信五郎梅崎弥一郎松崎浪四郎間宮鉄太郎小南易知阿部守衛三橋鑑一郎の15名である。

明治35年(1902年)、「範士」と「教士」の称号を制定した。明治36年(1903年)、第1回の範士号を渡辺昇三橋鑑一郎柴江運八郎石山孫六得能関四郎坂部大作高尾鉄叟の7名に授与した。範士号受有者には終身25以内の年金を贈ったが、大正時代に年金制度は廃止した。

大正6年(1917年)、講道館柔道との兼ね合いから、剣道に段位制を採用した。級位の上に段位を置いたため、警視庁関係者から反発があった。段位は十段まで設定したが、実際は五段までしか発行せず、五段の上は教士、範士とした。昭和9年(1934年)、精錬証を廃止して「錬士」を制定した。昭和12年(1937年)からは六段以上の段位も発行するようになったが、十段は発行しなかった。

昭和17年(1942年)、戦時下において大日本武徳会は政府外郭団体に改組され、段位を廃止して一等から五等までの等位を設定した。教士を「達士」と改称し、一等の上を錬士、達士、範士とした。

[編集] 全日本撓競技連盟

終戦後の剣道禁止中の昭和25年(1950年)に設立された全日本撓競技連盟は、初段から九段までの段位制を採用した[5]

[編集] 全日本剣道連盟

昭和27年(1952年)、全日本剣道連盟が発足。昭和28年(1953年)、初段から五段までの段位と錬士・教士・範士の称号を採用し、五段の上を錬士、教士、範士とした。

昭和32年(1957年)、制度を改正。最高段位を十段とし、称号を段位とは別系統とした(段位と称号を組み合わせる)。同年、史上初となる十段を小川金之助持田盛二中野宗助斎村五郎の4名に授与。昭和37年(1962年)、大麻勇次に十段を授与した。

平成12年(2000年)4月1日に現行の制度に改正し、九段・十段を廃止した(ただし既に取得されたものは有効である)。また、以前は五段から教士の受審資格が、七段から範士の受審資格があったため、「錬士五段」や「範士七段」などが存在したが、現行の制度では取得できない。範士が剣道界の最高峰であることを改めて確立するため、教士八段の上を「範士」とした。

[編集] 現行の段級位・称号

六級から一級までの級位[6]と、初段から八段までの段位、錬士教士範士の称号がある。剣道の技術的力量(竹刀剣道と日本剣道形演武実技試験)および知識(学科試験)の審査会を経て授与される。

審査会の主催団体(規模)は段級位によって異なる。級位は市町村単位の支部剣道連盟が主催して審査する。ほとんどが段位の受審資格がない小学生が取得している。二級以上の受審には、年齢制限及び各種条件がある。中学生以上対象の昇級審査会に受審し、合格するとその時点で一級が授与される。

  • 一級と二級は小学6年生以上が受審資格を有する[7]
  • 初段の受審は満13歳以上である必要があり[8]、さらに支部によっては「中学生は一級受有後6ヶ月以上経過」「一級受有後3か月以上経過」など追加の条件が設けられている。

段位は、初段から五段までは都道府県の剣道連盟が主催して審査する。多くの場合、初段から三段までは、その都道府県をいくつかの地区に分け、その都道府県の下部組織である各支部で合同して審査する形が多い(四段・五段は一か所で審査)。また、三段審査や四段審査に関しては、高等学校剣道専門部や大学連盟で、一般の審査会から独立して行われることがある[9]。六段以上は全日本剣道連盟が一括に主催して行う。六段以上(高段者)になると、合格者名が大手剣道専門雑誌の『剣道日本』や『剣道時代』に掲載される。年間の審査会開催回数は段位ごとに異なるが、六段が8回程度(うち1回は外国人対象)、七段が6回程度、八段が4回程度である。東京京都など主要都市で開かれる。

段位が高くなるほど合格率は下がる。初段は約80 - 90%、弐段は約60 - 70%、参段は約40 - 50%、四段は約30 - 45%、五段は約20 - 30%、六段は約10%[10]、七段は約8 - 10%、最高位の八段はわずか1%という狭き門となる[11]1997年NHKドキュメント番組において、当時の司法試験より合格率の低い「日本最難関の試験」として紹介された[12]

段位 受審条件 年齢制限
初段 一級受有者 満13歳以上
弐段 初段受有後1年以上修業
参段 二段受有後2年以上修業
四段 三段受有後3年以上修業
五段 四段受有後4年以上修業
六段 五段受有後5年以上修業
七段 六段受有後6年以上修業
八段 七段受有後10年以上修業 46歳以上

称号は指導力や識見などを備えた「剣道人としての完成度」を示すものであるため、六段以上の高段者のみ受審資格があり、いずれも加盟団体会長推薦が必要である。称号を取得した後は、例えば「錬士六段」、「教士七段」というように、段位の上に称号を冠する。

称号 受審資格 受審条件
錬士 五段受有者 五段受有後、10年以上を経過し、かつ年齢60歳以上の者で、加盟団体の選考を経て、特に加盟団体会長より推薦された者。
六段受有者 六段受有後1年を経過し、加盟団体の選考を経て、加盟団体会長より推薦された者。
教士 錬士七段受有者 七段受有後2年経過し、加盟団体の選考を経て、加盟団体会長より推薦された者。
範士 教士八段受有者 八段受有後8年以上経過し、加盟団体の選考を経て、加盟団体会長より推薦された者、および全剣連会長が適格と認めた者。

剣道称号・段位審査規則平成20年6月11日一部改正、平成21年4月1日より施行

[編集] 日本剣道協会

年限を定めず、実力があれば10代の少年であっても十段位を授与するとしている。

[編集] 脚注

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  1. ^ a b 「撃剣」「剣術」から「剣道」への移行に関する史的考察
  2. ^ 「撃剣」「剣術」から「剣道」への移行過程に関する検討 : 永井道明の場合
  3. ^ 寛文7年(1667年)の安倍立伝書に「剣術は日用の術なので剣道という号にする」という記述、弘化5年(1848年)の大石神影流門人渡部直八『諸国剣道芳名録』、明治時代の一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟の書物に「剣道」という表現がある。高野佐三郎は大正4年(1915年)に、「『剣道』という名称が使われたのはここ2、30年以来のこと」と述べている。東京高等師範学校が撃剣部を「剣道部」と改称したのが明治43年(1910年)、大日本武徳会が「大日本帝国剣道形」を制定したのが大正元年(1912年)、武術専門学校が武道専門学校と改称したのが大正8年(1919年)、文部省が学校体育の撃剣を「剣道」と改称したのが大正15年(1926年)である。
  4. ^ 原園光憲『剣道の復活』、大塚忠義『日本剣道の歴史』、牧秀彦『図説 剣技・剣術二』
  5. ^ 是本信義『時代劇・剣術のことが語れる本』、明日香出版社 210-211ページ
  6. ^ 公式では認められてはいないが、地域によっては十級まで存在する。
  7. ^ 地区や支部によって異なる。支部によっては一級の受審資格を二級合格後、一定の日数が経過してからと規定されている場合もある。また、過去においては一級受審条件として、中学生以上とのことになっていた。
  8. ^ 2011年度より改定。それまでは、中学2年生以上とされていた。
  9. ^ 一般会場よりも合格率が高くなる傾向がある。
  10. ^ 六段は剣道家の中では一番の「鬼門」と称され、五段まで順調に一発合格を重ねてきた者、また試合で優秀な成績を収めてきた者でも、10回以上受けても合格できない場合が多々ある。現在の段位制度での最年少六段合格者は29歳であるが、その年齢で合格できる者はわずかである。一般の受験者からは、「40歳になる前に合格できれば相当な存在」とも言われている。
  11. ^ 2006年11月の審査では合格率0.7%という過去最低を叩き出した。
  12. ^ NHK『心で闘う120秒 〜剣道・日本最難関試験に挑む〜』

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 団体

[編集] 資料

[編集] 専門雑誌

[編集] その他

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