剣道

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剣道
けんどう
剣道の試合中の鍔迫り合い
剣道の試合中の鍔迫り合い
発生国 日本の旗 日本
発生年 明治大正
源流 剣術
公式サイト 全日本剣道連盟
国際剣道連盟 (FIK)
日本剣道協会
  

剣道(けんどう)は、日本剣術競技化した武道

概要[編集]

古武道剣術のうち江戸時代後期に発達した防具着用の竹刀稽古(撃剣)を直接の起源とする。江戸時代末期(幕末)には流派を超えて広く試合が行われるようになった。明治時代以降、大日本武徳会が試合規則を定め競技として成立した。複数の流派が集まって成立したため、柔道嘉納治五郎のような特定の創始者は存在しない。太平洋戦争後に大日本武徳会は解散し、その後発足した全日本剣道連盟が事業を継承している。

現代の剣道は事実上スポーツにも分類されるが、全日本剣道連盟は「剣道は剣道具を着用し竹刀を用いて一対一で打突しあう運動競技種目とみられますが、稽古を続けることによって心身を鍛錬し人間形成を目指す「武道」です。」としている[1]

歴史[編集]

江戸時代[編集]

幕末に外国人カメラマンF・ベアトが撮影

江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1715年)に直心影流長沼国郷面・小手を製作し、竹刀打ち込み稽古法を確立した。宝暦年間(1751年 - 1763年)に中西派一刀流中西子武が防具を鉄面・具足式に改良した。防具の発達にともない袋竹刀より強固な四つ割り竹刀が作られるようになった。

江戸時代後期から末期には、竹刀打ち中心の道場が興隆し、流派を超えて試合が行われた。幕末の江戸三大道場といわれる鏡新明智流士学館北辰一刀流玄武館神道無念流練兵館や、幕府の設立した講武所が有名である。北辰一刀流の創始者千葉周作は剣術の技を六十八手に分類し、講武所頭取並の男谷信友は竹刀の全長を38と定めた。

当時の竹刀試合はあくまで真剣を使った戦いに勝つための訓練の手段として行なわれ、競技を目的にはしていなかった。審判規則や競技大会はなく、10勝負が通例とされていた[2]

明治・大正時代[編集]

撃剣興行[編集]

明治維新によって武士の身分が廃止され、廃刀令により帯刀も禁じられ、剣術家は失業した。これらの困窮した剣術家を救済するため、直心影流榊原鍵吉明治6年(1873年)、撃剣興行という剣術見世物を催した。

撃剣興行は物珍しさから満員御礼となり、これに刺激された2代目斎藤弥九郎(斎藤新太郎)や、千葉東一郎、千葉之胤、島村勇雄、渡辺楽之助など他の剣術家も争って撃剣興行を催した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋久留米大阪など全国各地に広まった。しかし、この人気は庶民の一時的な好奇心にすぎず、やがて人気は下火になっていった。

撃剣興行によって剣術の命脈は保たれたが、客寄せのための派手な動作や異様な掛声などが後の剣道に悪影響を及ぼした[3]という意見もある。

警視庁剣術[編集]

明治10年(1877年)、士族反乱西南戦争に従軍した警視庁抜刀隊が活躍し、剣術の価値が見直された。大警視川路利良は『撃剣再興論』を著し、警察で剣術を奨励する意向を明らかにした。

明治12年(1879年)、巡査教習所に道場が設けられ、上田馬之助梶川義正逸見宗助撃剣世話掛として最初に採用された。その後も真貝忠篤下江秀太郎得能関四郎三橋鑑一郎坂部大作柴田衛守などが採用された。撃剣興行や地方の剣術家も続々と就職し、明治16年(1883年)には、一道場の師範として通用する警察官の数が二百数十名に達した。

警視庁は警視流木太刀形撃剣級位を定め、弥生神社で全国的規模の撃剣大会を開くなどして、明治前期の剣術の最大の拠点となった。地方の警察もこれに倣って剣術を奨励し、一般社会の剣術の復興を促した。

大日本武徳会[編集]

大日本武徳会本部正門(京都旧武徳殿

明治28年(1895年)、平安遷都1100年記念や日清戦争の勝利によって日本武術奨励の気運が高まり、大日本武徳会が結成された。総裁小松宮彰仁親王皇族陸軍大将)、会長に渡辺千秋京都府知事)、副会長に壬生基修平安神宮宮司)が就任した。同年に第1回の武徳祭大演武会(現在の全日本剣道演武大会)が開かれ、優秀な剣術家に精錬証が授与された。

大日本武徳会は、流派を超越した統合組織として毎年の大演武会の開催、各府県支部の設立、武徳殿の造営、武術教員養成所(後の武道専門学校)の設立、段位称号範士教士錬士)の授与、試合審判規則の制定など、現在まで続く剣道の制度を確立し、太平洋戦争敗戦まで剣道の総本山の役割を果たした。

学校剣道[編集]

大正9年(1920年)、学校で稽古をしている様子

学校教育に剣道を採用する議論はすでに明治16年(1883年)から行われていたが、指導が難しく有害であるとして見送られていた[注釈 1]。剣道家の衆議院議員星野仙蔵小沢愛次郎らの請願運動により、明治40年(1907年)に衆議院で可決され、明治44年(1911年)に剣道が中等学校正科の体操の一部として実施されるようになった。

剣道教員の養成機関となったのが、武道専門学校(武専)と東京高等師範学校(高師)である。武専教授内藤高治と高師教授高野佐三郎は当時の剣道界に大きな影響力を持ち、「西の内藤、東の高野」といわれた。従来の個人教授法では多人数の生徒を教えることはできないため、高野佐三郎は集団に一斉に教えるための団体教授法(号令に合わせて集団で動く練習方法)を考案した。また、大日本武徳会は全国から25名の剣道家を選抜し、中等学校剣道教育のための大日本帝国剣道形(現在の日本剣道形)を制定した。

剣道という名称について[編集]

「剣道」という語は江戸時代明治時代にも使用例はある[注釈 2]が、多くは「剣術」、「撃剣」とよばれていた。「剣道」の名称が法規上正式に使用されたのは明治44年(1911年)に剣道が中等学校正科の一部として採用されたときで[4]、明治末から大正にかけて「剣道」という名称が定着した。大正8年(1919年)、大日本武徳会副会長に就任した西久保弘道は「武術」から「武道」への名称変更を主唱し[5]、大日本武徳会においても剣術は剣道と呼ばれるようになった。なお、当時は古流剣術と近代剣道の違いはあまり意識されておらず、流派名を名乗る剣道家も多かった。

昭和前期[編集]

剣道の競技化[編集]

従来の剣道大会は個人ごとの試合のみで、順位を競うものではなかったが、大正13年(1924年)から開催された明治神宮体育大会昭和初期の天覧試合では、リーグ戦トーナメント方式優勝者が決められた。これは当時としては画期的な試みであり、剣道が競技(選手権大会)として確立するきっかけとなった。しかし、これに反対した剣道家もおり、明治神宮体育大会は大日本武徳会が当初不参加を表明、昭和天覧試合は内藤高治が強硬に反対したが、国家的行事であったことからやむなく従っている[注釈 3]

戦時中の剣道[編集]

第二次世界大戦開戦により、日本は戦時体制に入った。太平洋戦争中の昭和17年(1942年)、政府は大日本武徳会を厚生省文部省陸軍省海軍省内務省の共管とする外郭団体に改組し、国民の戦意高揚と戦技訓練のための機関とした。

戦時中の剣道は、戦場での白兵戦を想定して行われ、競技としての剣道とは一線を画したものとなった[6]打突を「斬突」という表現で呼称し、攻撃的な先の技を重視して、軽い打ちや片手技は認めないものとされた。試合は一本勝負が奨励された。

剣道禁止と撓競技の誕生[編集]

警棒

昭和20年(1945年)、日本が敗戦し、連合国軍(GHQ)に占領された。連合国軍は、大日本武徳会が国家と結びついて戦争遂行に加担したとして、大日本武徳会を解散させ、関係者1300余名を公職追放した。剣道の組織的活動は禁止され、明治維新についで二度目の危機を迎えた。

昭和25年(1950年)、全日本剣道競技連盟が結成されたが、剣道という名称が問題視され、全日本撓競技連盟と改称。武道的性格を払拭した「撓競技」というスポーツが生み出され、フェンシングのようにシャツズボン運動靴、軽量の防具を着用して、袋撓で打ち合いポイントを競った。審判員も洋服姿でを持つようになった。撓競技は順調に発展し、昭和27年(1952年)に中学校以上の学校体育に採用され、さらに同年国民体育大会にオープン競技として参加した。同じころ、警察では「警棒術」(警棒操法)と称する竹刀の短い剣道のような練習が考案されている。

剣道の復興[編集]

昭和27年(1952年)、サンフランシスコ講和条約発効にともない連合国軍の占領が解かれると、同年に全日本剣道連盟が結成され、剣道の復興が始まった[注釈 4]。剣道と撓競技はしばらくの間、共存していたが、昭和29年(1954年)に全日本剣道連盟と全日本撓競技連盟が合併し、撓競技は廃止された。ただし一部のルールは剣道に引き継がれた。

全日本剣道連盟は、戦後の剣道を民主スポーツとして実施する方針を示した[注釈 5]が、純粋なスポーツにはなりきれず[注釈 6]、「剣道は武道かスポーツか」という論争は現在に至るまで剣道界が抱えるジレンマとなっている[注釈 7]

昭和後期・平成[編集]

警察剣道[編集]

明治時代からの歴史的経緯により、現在も剣道は柔道と並び警察官必須の術科(武道)とされている。各警察署には道場が設けられ、署員が稽古に使用しているほか、道場を開放して少年剣道教室を開いている。警察官の中でも特に選抜された術科特別訓練員(特練員)は主に機動隊に所属し、豊富な稽古量を保っている。全日本剣道選手権大会世界剣道選手権大会日本代表の大多数は特練員の警察官で占められている。

学校剣道[編集]

昭和28年(1958年)の中学学習指導要領で、剣道、柔道相撲が正科体育とされ、今日に至っている。平成24年(2012年)4月から中学校の第1、第2学年の体育で男女共に武道が必修になった(中学校武道必修化)。授業のほかに部活動があり、日本全国の中学校高等学校大学等で剣道が稽古されている。一方で、宗教上の理由により剣道の履修を拒否して最高裁判所まで争われた事例がある(神戸高専剣道実技拒否事件)。

実業団剣道[編集]

民間企業実業団による剣道部活動も行われているが、職務として剣道を稽古している警察官、教員刑務官に比べると勢力は弱い。柔道オリンピック競技となり民間企業が大々的に参入しているのとは対照的である。

女性剣道[編集]

女性の剣道は、戦後の男女共学や女性の社会進出にともない1960年代から70年代に始まったもので、男性の剣道に比べ歴史は浅い。かつて女性の武道は、なぎなたとされていた。第4代全日本剣道連盟会長の庄子宗光は、「女性が剣道界に進出し、女性の間に剣道愛好者が目立って増加したことは、戦後の剣道界の著しい特徴の一つである。このことは男女同権時代当然のことと言えばそれまでであるが、明治、大正の時代はもちろんのこと、昭和の戦前時代には想像もできなかった現象である」と述べている[10]。ただし男女は体力差があり危険なため、試合は男女別に実施される。

当初の女性剣道人口は極めて少なかったが、現在では女性有段者は全有段者の4分の1を占め、平成9年(1997年)には全日本女子剣道選手権大会皇后盃が下賜された。

国際化[編集]

戦前には、日本人が移民したアメリカブラジルや、日本が統治した朝鮮台湾等で剣道が稽古されていたが、国際的なものではなかった。昭和45年(1970年)、剣道の国際競技団体として国際剣道連盟が発足し、同年に第1回世界剣道選手権大会が開催された。以来3年に1度開催されている。第1回の参加国は17国であったが、近年は40国前後まで増えている。ただし多くの国では剣道具や指導者が行き渡っておらず、世界剣道選手権大会も国により実力の格差が大きい。

剣道の国際化にともない、剣道をオリンピック種目にしようという意見が唱えられるようになった。これに対し全日本剣道連盟は、剣道がオリンピック種目になれば勝利至上主義や商業主義に陥り、剣道の持つ武道的特性が失われるとして、現在まで反対の立場をとっている。また、剣道は有効打突の判定基準が曖昧で、国際競技の場では特に審判が難しい問題もある。

近年問題となっているのが、韓国コムド関係者による剣道の起源剽窃問題(韓国起源説)である。「剣道の起源は日本ではなく韓国である」との、歴史を捏造した主張がインターネット等で繰り返され、全日本剣道連盟は公式ウェブサイトにおいて、剣道の起源は日本であるとの声明を発表し[11]、遺憾の意を示している。2001年に韓国で結成された世界剣道連盟は、役員にテコンドー関係者が多く、剣道(コムド)をテコンドーにならいオリンピック種目にすることを目指している[12][13]。このような状況から、近年の日本では剣道のオリンピック参入の是非とコムド問題が合わせて論じられることもある。国際剣道連盟が国際オリンピック委員会(IOC)傘下のGAISF(現スポーツアコード)に加盟したのは、世界剣道連盟がGAISFに加盟する手続きを取ったため、国際剣道連盟が本当の剣道の国際競技団体であることを公式に認めてもらうために加盟したともいわれている。

年表[編集]

統括組織[編集]

現在、日本には2団体、世界には1団体ある。

  • 日本
全日本剣道連盟
日本最大の剣道団体。日本の剣道界のほぼ全体を統括している。日本武道協議会日本体育協会日本オリンピック委員会(JOC)、国際剣道連盟(FIK)に加盟している。
日本剣道協会
神道無念流系剣道団体。「真の剣道復活」を唱えて設立された。竹刀による打突だけではなく、体当たり足払い、組討ち等も認めている。
  • 世界
国際剣道連盟(International Kendo Federation, FIK)
全日本剣道連盟の国際競技団体として1970年(昭和45年)に設立。以来、3年ごとに世界剣道選手権大会を開催している。2003年7月時点で44ヶ国の剣道団体が加盟している。国際オリンピック委員会(IOC)公認団体スポーツアコード(旧称GAISF)に加盟。IOC承認国際競技団体になることを目指している。

剣道の理念[編集]

全日本剣道連盟は、昭和50年(1975年)3月20日に『剣道の理念』、『剣道修錬の心構え』を制定した。制定委員長は松本敏夫、委員は堀口清小川忠太郎玉利嘉章中野八十二湯野正憲大島功井上正孝小川政之広光秀国笠原利章

剣道の理念
「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」
剣道修錬の心構え
「剣道を正しく真剣に学び
心身を錬磨して旺盛なる気力を養い
剣道の特性を通じて礼節をとうとび
信義を重んじ誠を尽して
常に自己の修養に努め
以って国家社会を愛して
広く人類の平和繁栄に
寄与せんとするものである」

服装・用具[編集]

剣道着の上から、垂・胴・面・小手の防具(剣道具)を装着する。面を着用する際には、頭に手拭い(面手拭い、面タオル)を巻き付ける。垂には通常、名前や所属する道場名などの記されたゼッケン(垂ネーム)を付ける。基本的に裸足であるが、怪我等の理由で足袋サポーターを着用する者もいる。足袋・サポーターは試合のときも許可を得れば使用可能であることが一般的である。また、試合時には識別用として背中(胴紐の交差部)に紅白それぞれの目印(たすき)を付ける(全長70cm、幅5cm)。近年では垂にチョークなどで目印をつける大会もある。

稽古内容[編集]

稽古とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という意味である。剣道の稽古は竹刀稽古形稽古に大別される。

稽古を行う施設を「道場」という。近年では体育館で行う場合もある。

冬季・夏季に行う稽古を寒稽古暑中稽古という。

竹刀稽古[編集]

竹刀打ち込み稽古

竹刀防具を使用する稽古。

形稽古[編集]

日本剣道形の稽古

木刀模擬刀、刃引で行なう形の稽古。

道場によっては直心影流法定一刀流各派神道無念流など古流の形も稽古している。警視庁警視流木太刀形筑波大学東京高師五行之形小西酒造修武館奥之形など、明治時代に制定された比較的現代剣道に近い古流形も存在する。また、全日本剣道連盟は、剣道人が日本刀の操法を学ぶための全日本剣道連盟居合を推奨している。

形稽古と竹刀稽古は「車の両輪」と喩えられ、いずれも体得が必須とされているが、形稽古は軽視されている。

安全性[編集]

竹刀を当てる部分が防具を装着しているという理由で、他の武術と違って比較的安全な武道である。

2003年~2007年度の5年間における高校剣道部での死亡事例は4人。10万人あたり1.406人/年という発生率となっている[14]

2009(平成21)年8月22日、大分県立竹田高等学校剣道部での練習中、同部男子部員(17歳)が熱射病による意識混濁後に錯乱と痙攣起こし、搬送先病院にて多臓器不全で死亡。死亡した部員の両親は学校や病院が適切な対応を怠った結果、死亡に繋がったとして提訴。大分地方裁判所は学校や病院の過失を認め、大分県などに合わせて4600万円余りの賠償を命じた[15] [16]

専用施設ではなく空調設備も無い学校の部室や稽古場等では、夏場になると室温が高くなり練習量の多寡とは関係無く熱射病が発生しやすくなる。屋内競技における熱中症の発生頻度が最も高いのが同競技であり、死亡に至る前に医療機関を受診している例は年間数百件と推定されている[17]

試合形式[編集]

以下は全日本剣道連盟の場合である。

試合は常に1対1で戦う。これは団体戦の場合も同じである。選手は試合場に入り二歩進んでお互いにをし、三歩進んで蹲踞したあと審判員の「始め」の声がかかってから立ち上がり、勝敗が決するか規定の試合時間が経つまでお互いに技を出し合う。原則として三勝負であるが、一本勝負も認められている。

試合場[編集]

張りのに境界を含め19mないし11mの正方形または長方形試合場を作り、試合をする。境界は普通、白のラインテープを貼って分ける。また、試合開始時の立ち位置は試合場中心付近に白のラインテープで示される。

試合時間[編集]

試合時間は小学生2中学生3分、高校生以上4分、延長戦の場合には3分が基準である。しかし、運営上の理由などからこれ以外の試合時間を採用することも認められており、公式大会の決勝戦では、2007年(平成19年)から試合時間が10分に変更された。

[編集]

全ての技は、竹刀防具の決められた箇所を打突するものである。

技一覧表
技の詳細 技名 特記事項
小手を打つ技 小手打ち、引き小手打ち、出小手
面を打つ技 面打ち、引き面打ち、小手面打ち
面の当てを突く技 突き 中学生は原則禁止。高校生以上でも、この技を禁止とする大会もある。
胴の当てを突く技 胸突き 以前は相手が上段の構えを取っている時のみ一本になった。後、相手が二刀流の場合のみ認められていた。
胴の右側を打つ技 胴打ち、引き胴打ち、抜き胴
胴の左側を打つ技 逆胴打ち

これに、技を出す直前までの流れから「相(あい)〜」「抜き〜」「返し〜」「払い〜」「すり上げ〜」「引き〜」などの接頭辞が付く場合もある。

有効打突[編集]

有効打突(一本)とは、

充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心とした部)で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるもの

である。審判員はこれに該当しているかどうかを判断してを挙げる。

反則[編集]

反則を一試合中に2回犯した場合は、相手に一本を与える。

  • 相手に足を掛けまたは払う。
  • 相手を不当に場外に出す。
  • 試合中に場外に出る。
  • 自己の竹刀を落とす。
  • 不当な中止要請をする。
  • 相手に手をかけまたは抱え込む。
  • 相手の竹刀を握るまたは自分の竹刀の刃部を握る。
  • 相手の竹刀を抱える。
  • 相手の肩に故意に竹刀をかける。
  • 倒れたとき、相手の攻撃に対応することなく、うつ伏せなどになる。
  • 故意に時間の空費をする。
  • 不当な鍔(つば)迫り合いおよび打突をする。

審判員[編集]

3名の審判員(1名の主審、2名の副審からなる)が紅白を持ち、旗を挙げることで有効打突の意思表示とする。2名以上が有効打突の表示をした場合、もしくは1名の審判員が有効打突を表示し2名が判定の棄権を表示した場合、一本となる。また、主審は次のいずれかの場合、「止め」の宣告と同時に紅白両方の旗を平行に挙げ、試合を中断させることができる。

  • 反則の事実
  • 負傷や事故
  • 危険防止
  • 竹刀操作不能の状態
  • 異議の申し立て
  • 合議
  • 試合者から中断の要請があった場合(この場合、主審は要請の理由を質し、不当な要請の場合は審判の合議の上、反則となることもある)

なお、試合中断は副審から申し出ることもできる。その際に副審が「止め」の宣告後、直ちに主審が「止め」の宣告をして試合を中断する。

鍔(つば)迫り合いがこうちゃく(膠着)した場合、主審は 「分かれ」の宣告と同時に両旗を前方に出し、両者を分け、その場で「始め」の宣告と同時に両旗を下ろし、試合を継続する。「分かれ」の場合の試合時間は中断しない。

勝敗[編集]

勝敗は、試合時間のうちに三本勝負の場合二本、一本勝負の場合一本先取した選手を勝ちとする。また三本勝負において一方が一本を取り、そのままで試合時間が終了した場合にはその選手を勝ちとする。試合時間内に勝敗が決しない場合には、延長戦を行い先に一本取った選手を勝ちとする。延長の代わりに判定あるいは抽選によって勝敗を決する場合、または引き分けとする場合もある。判定および抽選の場合には勝者に一本が与えられる。団体戦における代表戦も原則一本勝負である。

二刀流[編集]

二刀流の選手(左)

成年者は原則として二刀流は禁止されていないが、使用者の数は少ない。昭和初期に学生の間で試合に勝つためだけに、団体戦において二刀流の選手を防御一辺倒の引き分け要員とする手段が横行したため、一部の学生大会では二刀を禁止するようになった。太平洋戦争後、剣道が全日本剣道連盟の下に復活した際も、学生剣道界では戦前に倣って二刀を禁止したために、二刀を学ぶ者が非常に少なくなってしまった。

ただし、伝統が断絶するのを危惧する声もあり、1992年(平成3年)に大学剣道(公式試合・昇段審査)では解禁された。しかし、高体連中体連の公式試合・昇段審査においては未だに禁止されており、また小学生・中学生は申し合わせ事項で片手技は有効としないとされているため、高校生以下では事実上禁止されている状況である。

二刀流の竹刀は大刀小刀を用いる。それぞれ長さと重さが決められており、男性の場合、大刀は37以下(一刀の場合は3尺9寸以下)、小刀は2尺以下となっている。長らく二刀流が否定されていたため、また上記の通り竹刀も短く、かつては二刀流の相手に対しては胸突きも認められていたというハンデキャップがあるため、指導者・使用者とも少ないのが現状である。

異種試合[編集]

異種試合とは、異なる武道との試合のことである。高野佐三郎1920年大正9年)に著した『日本剣道教範』(P119-P120)には銃剣鎖鎌との戦い方が解説されている。昭和天覧試合では銃剣術との試合が行われた。現在は全日本剣道演武大会など特別な大会で、なぎなたとの試合がエキシビション的に行われる程度である。

主な大会[編集]

段級位制・称号[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「実習の際に多少の危険がある」、「ややもすれば粗暴の気風を養う」、「道具を要し、かつ清潔に保つことが容易ではない」、「各人に監督を要し、一斉に授けがたい」、「武技と体操は似て非なるものである」などの理由による。
  2. ^ 寛文7年(1667年)の安倍立伝書に「剣術は日用の術なので剣道という号にする」という記述、弘化5年(1848年)の大石神影流門人渡部直八の『諸国剣道芳名録』、明治時代の一刀正伝無刀流開祖山岡鉄舟の書物に「剣道」という表現がある。
  3. ^ 内藤高治は「これで日本剣道は滅びた」と嘆じた。
  4. ^ なお、柔道は昭和23年(1948年)に解禁されている。
  5. ^ 当時の全日本剣道連盟兼全日本撓競技連盟の幹部(庄子宗光中野八十二大島功渡辺敏雄)の座談会において中野八十二は、「今度、剣道連盟が、剣道はスポーツとして行くんだと宣言されたことは、非常に意味があると思う。剣道というものは、御承知のように武士階級の盛んな封建時代に育ったもので、それがだんだんと発展してきて民主的になったといっても、まだそのような気分の抜けきれぬところが多くある。『俺は剣道をやっているのだ、俺はほかの者よりいいものをやっているのだ』という貴族的な、あるいは武士的な気持が多分に残っていたと思うのです。ところが御承知のようにスポーツというものは、本当をいえば民主主義に根ざしたものですから、相手を征服するとか何とかいうことでなしに、本当に相手と共に楽しみながら、剣道を通してお互を磨いていくということが、本当の姿と思うのです。私はスポーツというものはそういうものだと思う。そうした点を剣道連盟がはっきりと明確に打ち出されたということは、結局、剣道というものをある特権階級的雰囲気から大衆的雰囲気にしたともいい得るので、一大躍進と称しても過言でないと思います。」と述べている[7]
  6. ^ 全日本剣道連盟第2代会長の石田和外は、昭和52年(1977年)に『通産ジャーナル』誌上で、「剣道はいまスポーツとして評価されているし、スポーツであることは間違いないことです。スポーツとしても立派に成り立つと思いますが、やはり剣の道ということになると、昔の人の心構えということになりますね。(中略)剣道をスポーツだと考える人からいうと、少しややこしくなりますが、剣道はつきつめていくと、魂のこもった日本刀で、場合によっては、命のやりとりもしなければいけないんだという、一つの奥があるんです。」と述べている[8]
  7. ^ 現在の全日本剣道連盟は、「剣道は剣道具を着用し竹刀を用いて一対一で打突しあう運動競技種目とみられますが、稽古を続けることによって心身を鍛錬し人間形成を目指す『武道』です。」と表明している[9]

出典[編集]

  1. ^ 全日本剣道連盟 | 剣道を知る | 剣道とは
  2. ^ 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』120頁、光文社
  3. ^ 庄子宗光『剣道百年』9頁、時事通信社
  4. ^ 庄子宗光『剣道百年』58頁、時事通信社
  5. ^ 西久保氏武道訓
  6. ^ 大塚忠義『日本剣道の歴史』、牧秀彦『図説 剣技・剣術二』
  7. ^ 庄子宗光『剣道百年』646頁、時事通信社
  8. ^ 『通産ジャーナル』1977年9月号、通商産業省
  9. ^ 全日本剣道連盟 | 剣道を知る | 剣道とは
  10. ^ 庄子宗光『剣道百年』620頁、時事通信社
  11. ^ 剣道に関する全剣連の見解
  12. ^ 月刊剣道日本』2002年4月号88頁、スキージャーナル。
  13. ^ 月刊剣道日本』2003年11月号46-47頁、スキージャーナル。
  14. ^ 内田良「柔道事故ー武道の必修化は何をもたらすのかー学校安全の死角4(pdf)
  15. ^ 竹田高剣道部の熱射病死:「同様の事故防ぎたい」 大分で両親ら街頭署名 /大分 毎日新聞 2013年05月04日 地方版
  16. ^ 朝日新聞2013年10月26日付15面(私の視点)「スポーツと暴力 生徒は何も言えない」(※死亡した兄の事故当時、同部に兄弟で所属していた1学年下の実弟による手記)
  17. ^ 剣道における暑熱環境下の水分摂取 事故を防ぐ・稽古量を増やす (財)全日本剣道連盟 医・科学委員会 2005年

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

団体[編集]

資料[編集]

専門雑誌[編集]