裏日本
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裏日本(うらにほん)とは、日本の国土において、本州の日本海側を指す呼称である。
山陰地方、北近畿、北陸地方、旧出羽国(東北地方日本海側)に当たる。尚、北海道及び九州(福岡県、佐賀県)の日本海側は含まれない。
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[編集] 概要
「裏日本」という言い方は、地理的・文化的な繋がりの下に形成された概念ではなく、歴史的・経済的な背景が似通った地方を一括してるだけに過ぎず、各地域間での文化的交流は浅い状態にある。
日本語で「裏」という言葉は、衣服の裏地を指す言葉から派生した表現で、もともとは何ら否定的な意味合いを持つものではない[1]。本来は単に「表」と対比する意味であるが、歴史的背景が絡みながら今日では侮蔑的なイメージを少なからず持つ。かつては、天気予報などで地域を指す言葉として普通に使われていたが、1970年代ごろからNHKを初めとする放送局の大半で、差別的・侮蔑的であるとして「裏日本」という用語が放送禁止用語に指定されるようになり、現在放送されている番組で使用されることは基本的に無い。そのため、老年層においては広く知れ渡った言葉であるが、マスメディアでこの言葉に殆ど接していない現在の若年層においては「裏日本」という言葉に接しても「日本海側の地方」をイメージせず、単語そのものの意味から「日本の裏社会」という別の意味として解釈する場合も多い。
裏日本の対義語に「表日本」という語が在り、九州の玄界灘沿岸 - 山陽地方 - 近畿地方 - 東海地方 - 南関東までの一帯に当たる太平洋ベルトを指すことがある。太平洋ベルトのうち、近畿地方 - 南関東を東海道メガロポリスとされる。
本項では、前述のとおり差別的・侮蔑的な印象を与える可能性があることに慎重に留意しつつ日本海側と太平洋側を、基本的に「裏日本」「表日本」の呼称を用いて解説を行う。
[編集] 地理的・気候的特徴
関口武による日本の気候区分では、裏日本は日本の6種類の気候区のうち、日本海型に分類される。新潟県(特に中越地方)以東はそのうち1b型(東北・北海道型)、新潟県(特に上越地方以西)を含むそれ以外の地域は1c型(北陸・北近畿・山陰型)に分類される。
日本海側気候は、冬の気候が特徴的である。暖流である対馬海流の影響を受けるため、気温は表日本と変わらず、北に移動するに従って表日本よりも暖かくなる。北西から吹き込む冬期モンスーンが対馬海流に由来する熱と水蒸気の供給を受け、恒常的な雲を発生させる。このため、裏日本全域に渡り、1月の1mm以上の降水が観測される降水日数が多くなる。同時期の太平洋側の降水日数が少なく、乾燥した天候が続くこととは対照的である。雪の影響から、鉄道や自動車にとって不利であり、これが裏日本の発展を遅らせた原因の一つでもある。裏日本はこの気候が原因で自殺率がかなり高い傾向である(表日本でも岩手県や福島県は自殺率が高い)。
[編集] 時代背景
「裏日本」という語は、地理学者の矢津昌永が1895年に発表した「中学日本地誌」に最初に登場した。それまでこの地域は裏日本と呼ばれず「内日本」と、表日本は「外日本」と呼ばれていた。裏日本という語が使われ始めた当初は、首都である東京を玄関口であるという意味で「表」とした場合、自然と日本海側が「裏」となる事から単に地理用語として用いられ、侮蔑的な意味合いは持っていなかった。
この語が一般に使われ始めた背景には、日本の近代化が挙げられる。明治時代に行われた殖産興業や鉄道・港湾などの投資が太平洋側に集中しており、日本海側にはあまり行われなかった。この背景には、江戸時代の開国以降、特に欧米との貿易が盛んになり、港の必要性が高まったことが関係する。日本海側の海岸線は単調で大型船が入港できる港をつくりにくい。日本海側の港では土砂の堆積が起こりやすい河口の港が多く、港湾の拡張や維持に多額の費用がかかった。このことが、内湾が多く、良港を作りやすい太平洋側に比べ大変不利な条件となった[2]。
20世紀に入ると、裏日本という語は、自然と表日本と対比した際の経済的格差を表す語として使われるようになっていた[要出典]。そして、更にこの意味に拍車を乗けたのは、高度経済成長期に、政府が太平洋ベルトに工業地帯(京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯)を造成したことである。この政策は、人口や産業の重心を東京と名古屋と大阪に移動する政策であり、これによって太平洋ベルト以外の地方から、太平洋ベルトへの人口や産業の流入が起こり、裏日本と呼ばれる地方は一層衰えた。 (表日本と裏日本を繋ぐパイプの役割をしている物として、上越線や上越新幹線といった交通網が挙げられる。高度経済成長期には、「金の卵」と呼ばれた団塊の世代が労働力として、上越線を通じて太平洋側へと大量に移動した。)
1970年代になると、裏日本である新潟県中越地方から、田中角栄が有力な政治家として登場し、表日本に偏った政策を変えようと、「日本列島改造論」を発表した。これは、交通網を日本全国一様に敷設することで地域間格差を解消できるという考えであり、当時の国土開発計画に大きな影響を与えたものの、これを受けて行われた交通網の整備は、逆に東京一極集中を押し進める結果になった面もある(ストロー効果)。
1980年代になると、東北新幹線が表日本側の宮城県・岩手県を通って開通した。これにより太平洋ベルトから外れているために表日本との格差が顕著でなかった東北地方でも格差が意識されるようになる。盛岡市が北東北の交通の要所となり、表日本の仙台市への一極集中が起こった。
[編集] 近代以前
近代以前には「表日本・裏日本」という言葉は無く、「裏日本」に該当する地方は、「表日本」に該当する地方と大きな差はなかった。それどころか、かつては「内日本」と呼ばれ、当時「外日本」と呼ばれた「表日本」以上に盛えていた時代があった。
裏日本の海岸沿いには、港に適した潟が多くあり、裏日本同士の海上交易のほか、日本海を挟んで向かい合う中国や朝鮮半島など、古代の先進文化圏との海上交易が盛んであったため、古代日本では、裏日本はむしろ日本の表玄関であった。
出雲国(島根県東部)は、古くから出雲大社を中心にした神道の拠点であったほか、良港を多く持ち大陸などとも交易し、大和国などに伍する古代日本有数の政治勢力でもあった。
古代の丹後半島には有力な勢力が存在し(→丹後王国論)、日本海沿岸の各地や大陸各地との交易を物語る出土品が多数あるほか、日本でも有数の巨大な前方後円墳が幾つも存在し、ヤマト王権とアジア大陸とを結ぶ富裕な政治勢力だったと見られている。
山陰や北近畿の外にも、北陸一帯には、越(こし)などヤマト王権に伍する大勢力が存在した。継体天皇は、越前国で成長して壮年期まで在住した後、畿内に進出して即位しているが、これをそれまでの大王とは血縁関係のない、北陸を背景にした勢力による新王朝と見る説もある。
人口や経済力の面でも、裏日本は主要な地であった。江戸時代、北前船は蝦夷地から日本海側各地と瀬戸内海を経由して大坂や全国へとつながる物流の幹線であり、米や紅花、木材、織物などの各地の産品が北前船によって大量輸送され、全国に流通した。この時期、太平洋は、海の荒さなどから日本海ほど物流路は大きくなっていない。
裏日本には、能代、秋田、酒田、富山、松江など、新田開発や豊富な水量による豊かな稲作や、北前船による交易を背景に、文化や工芸が発達した都市が多く現れた。特に金沢は、「加賀百万石」の城下町と呼ばれ、江戸時代には江戸と上方(大坂・京都)や、江戸と上方以外で最大の城下町と目された名古屋に次ぐ人口を誇っていた。新潟県は、1888年の総務庁統計局の統計で、東京府(現東京都)を超えて日本一の人口を有する県であった[1][2]。
1900年に初版が出版された鉄道唱歌北陸編で、新潟は「戸数万余の大都会」と歌われ、金沢も「さすが賑わう町のさま」と歌われている。その他の北陸の都市でも、長岡は「町は名だたる繁華の地」、富山は「越中繁華の地」、高岡は「商業繁華の高岡」と歌われた。
[編集] 近代以降
[編集] 交通
[編集] 鉄道
日本の近代化と工業化の動きにより鉄道が日本全国に敷設されたが、裏日本は表日本に比べて大きく遅れた。例えば、山陽本線と山陰本線を例にとって説明すると、表日本である山陽本線は1888年に最初の区間が開通し、下関駅までの全区間が1901年に開通した。一方裏日本の山陰本線は京都鉄道が1895年に免許を取得。これにより最初の区間が1897年に開通したものの、最終的に全線が開通したのは1933年であった。
このように、鉄道の敷設に大きく遅れをとっただけでなく、山陽本線は1942年に世界初の海底トンネルを開通させ、1944年までには全線の複線化が完了、1964年には全線の電化が完了した。一方で山陰本線は2009年現在も非電化単線区間が多く存在するといったように、その格差は依然変わることはない。
同様に東北本線と羽越本線を比較した場合、表日本の東北本線は、1891年に全線が開通した後、1968年に全線の複線化及び電化が完了している。一方、裏日本の羽越本線は、1924年に各県境区間が接続して全通し、1972年にようやく全線の電化が完了しているものの、2009年現在も多くに単線区間が残る。
路線網の発達の観点では、例えば大阪駅から青森駅への、表日本経由のルートは1891年に繋がっていた一方、裏日本ルートは1924年まで繋がっていなかった。また大阪から下関へは、表日本ルートは1901年に繋がっていた一方、裏日本ルートは1933年まで繋がっていなかった。
新幹線の敷設も表日本を中心にしており、現在建設中の北陸新幹線が北陸地方を貫く形となるほかは、上越新幹線の一部区間が裏日本に該当するのみで、旧出羽国には山形新幹線や秋田新幹線が運行されているが、これらはいわゆるミニ新幹線で在来線である。最高時速はほくほく線より遅い130km/hであり、山陰地方には全く運行していない。フル規格で建設中の北陸新幹線も区間によっては当初、ミニ新幹線やスーパー特急方式での建設計画となっていた。
[編集] 海上交通
明治維新以前、水上交通は、太平洋よりも日本海の方が主流であった。特に北前船と呼ばれる船を利用して、貿易品の地域間での価格差によって利潤を獲得していた北前船貿易が、商人たちによって盛んに行われていた。
日本の近代化が行われている最中である1880年には、日本全体で汽船製造が盛んになっていたが、裏日本では汽船の製造はほとんど行われておらず、伝統的な和船の製造が続いた。中でも、北前船の伝統を持つ石川県やその周辺で、日本全体の2割以上の和船を製造していた。しかし、1884年に大阪で大阪商船が設立され、翌1885年には東京で郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して日本郵船が設立された。これらの商船会社は、近代的な西洋汽船の運航が主であったため、和船から汽船への入れ替わりは益々顕著になって来た。その流れの中、1888年には500石以上の和船の製造が禁止されることとなったが、裏日本では西洋船の製造が進まなかったため、多くが旧式の和船を使い続けることとなった。和船から汽船へと変遷するに伴い、造船業が石川県(日本海岸)から大阪府(瀬戸内海岸)に完全に変遷し、かつて日本海が中心だった船の航路も、次第に太平洋が主流になって行った。
日本海の航路の整備はなかなか進まず、政府の援助を得て、ようやく1892年に新潟と佐渡島を結ぶ佐渡汽船が整備された。その後、日本郵船の汽船が小樽⇔神戸を週1便のペースで定期運航を始めると、地域間価格を利用して個人で商売を行っていた北前船は衰えた。
時代が完全に汽船に変遷し、和船が終わりを迎えていた頃、北陸地方では、日本全体の和船の半分近い47隻がいまだに現役であった。汽船の本格的な造船所は、裏日本には新潟県に1工場が作られたのみで、大部分が太平洋側と瀬戸内海側と東シナ海側、それに北海道に集中していた。
1970年代以降、新日本海フェリーを始めとする長距離フェリー航路が日本海各地を結んでいるが、これらの航路は近畿・関東 - 北海道という物流が日本海を通るだけであるという側面が大きく、純粹に裏日本の港間での需要とは言い切れない面も持っている。[要出典]
[編集] 高速道路
高速道路の整備も、表日本に対して遅れている。裏日本の高速道路は、既に全線が開通し全線4車線化が行われた北陸自動車道を除けば、日本海東北自動車道や山陰自動車道や舞鶴若狭自動車道には、未開通区間があり、開通区間も大半は暫定2車線である。
一方、表日本の東北自動車道、東名高速道路、名神高速道路、山陽自動車道は、既に全線開通済みで4車線となっているだけでなく、東名高速道路と名神高速道路ではそれぞれ平行する2本目の高速道路、第二東名高速道路と新名神高速道路の建設が行われている。
[編集] 空港
空港の整備も表日本と比較して、裏日本は遅れた。それだけでなく、絶対的な人口の差から、表日本の空港と比較して利用者数が少ないため、設備にあまり投資が行われていない。そのため、共用飛行場の小松、東京線に大型機材を投入する必要があった秋田、中距離海外路線を持ち2500m級滑走路整備が必要となった新潟を除けば、ジェット化されていても滑走路長は2000m級の空港がほとんどであり、3000m級滑走路が多くの空港で整備されている九州地方とは対照的といえる。路線網は日本国内便の他、中国や韓国、ロシア極東などの比較的短距離の航空航路が中心で、機体も小型・中型機が多い。
[編集] 産業
1886年に都道府県別で行われた綿作の生産量調査では、富山県が10位、新潟県が14位、島根県が17位、鳥取県が18位であった。それから山陰地方ではますます綿作が発達し、1912年の農商務省による調査では島根県、鳥取県、茨城県の3県が最も盛んであったとされている。
裏日本全域で米の生産が盛んであり、名産物ともなっている。品種としては特に、当初新潟県で交配された後に福井県で品種改良によって生まれたコシヒカリが食味のよさから有名である。
山陰ではたたら製鉄も発達した。1884年では島根県のたたら製鉄工場の数が218工場であり、日本全体の10.3%を占めていた。新潟県中越・下越地方と秋田県では、古くから石油が産出された。その関係で日本のエネルギー産業では、新日本石油やコスモ石油など、中越・下越地方に源流を持つ企業が存在する。 近代的な工業が表日本(太平洋ベルト)に集中した事から、裏日本は表日本に対して農作物や労働力や電力の供給を行っている。電力は効率的な大量生産が可能であるが、放射性物質を用いる原子力発電は、人口が密集していて電力需要が多い表日本よりも裏日本により多く設置されている。若狭湾沿岸の敦賀原子力発電所や美浜原子力発電所及び高浜発電所、中越地方の柏崎刈羽原子力発電所、島根県の島根原子力発電所がこの例であり、長大な送電線を通じて表日本へ電力を供給している。これら原子力発電所が建設されることにより、雇用を確保できる点や、多額の原発交付金を受けられる点などから、自治体によって積極的に誘致される例もある。(表日本にも同様の事情により青森県、宮城県、福島県、茨城県、静岡県に原子力発電所が立地しているが、いずれにせよ太平洋ベルト周辺に多く立地する火力発電所とは立地状況が大きく異なっている)
[編集] 都市
70万人以上の人口を擁する政令指定都市は新潟市だけであり、30万人以上の人口を擁する中核市も金沢市、富山市、秋田市の3市のみである。全体的に過疎地域が多く、村落部では人口減少や後継者不在問題が深刻になっている。
[編集] 教育
日本が国策として教育に力を入れ始めた明治時代に、旧制高等学校(ナンバースクール)という制度が始まった。設立順に番号が付けられた高等学校を指し、裏日本には金沢に旧制第四高等学校が設置された。新潟も旧制高等学校の誘致を積極的に行ったもの、1900年の旧制第六高等学校の誘致で岡山に敗れ、それ以後の旧制第七高等学校と旧制第八高等学校の誘致も失敗に終わった。結果、新潟にはナンバースクールは設置されず、都市名が校名となる旧制新潟高等学校が設置された。裏日本に設置された旧制高等学校としては、他に旧制山形高等学校、旧制松江高等学校、旧制富山高等学校(当初県立、後に官立に移管)がある。
金沢では、北陸帝国大学の設置運動が、第二次大戦前と第二次大戦後に起こった。1911年1月に衆議院議員戸水寛人らが、東京・京都・東北・九州に次ぐ「北陸帝国大学設立に関する建議案」を第27回帝国議会に提出し、翌月可決したが、帝国大学の設置は裏日本には行われなかった[3]。第二次大戦後には、市民レベルで金沢への総合大学設置運動が展開され、1946年6月3日に「北陸総合大学設置期成同盟会」を結成した。結成会には、石川県だけでなく、富山県と福井県の知事、富山市、福井市、敦賀市[4]各市長が出席した。8月には、第90回臨時帝国議会に「金沢市に北陸帝国大学を設置に関する建議案」が提出された。建議書では、太平洋側に帝国大学が偏在することの弊害を述べ、日本海側の帝国大学設置を提案したが、憲法改正草案などの審議などのため、審議に至らなかった[5]。
大学令に基づく旧制大学として、金沢医科大学や新潟医科大学が設置され、戦後の学制改革の際に、各々金沢大学医学部や新潟大学医学部に改組されている。
1899年の新潟県の就学率は、日本全体で下から数えて沖縄、北海道に次ぎ3番目であった[要出典]。
[編集] 軍事・治安維持
- 最初に近代的な軍の拠点が置かれた都市は、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本と、いずれも太平洋側と瀬戸内海側(九州は東シナ海側)であり、これらのうち熊本以外は中央省庁の出先機関の密集地でもあった。裏日本に最初に置かれたのは日清戦争後の1898年に第9師団が金沢に、それに続いて1908年に高田(現在の上越市南部)に第13師団が置かれた。とはいえ、軍事工場も含めた軍事施設の大部分が表日本にあり、日本軍の中心は表日本であった。
- 1997年のナホトカ号重油流出事故の際、日本全体で11隻あった重油配属船のうち、裏日本には1隻も配属されていなかった。
[編集] 北海道・外地との関わり
裏日本は、江戸時代から海運で北海道と強く結びついていた。さらに、朝鮮・満州といった当時日本が領土・租借地として獲得したばかりの「外地」との関わりを抜きには語れない。
北陸地方からは主に北海道へ、山陰地方からは主に朝鮮へ、近代化や開拓に向けて移住した者が多かった。さらに、北陸地方の地主・商人は北海道開発に多くの資本を提供した。特に「新天地」と呼ばれた北海道へ移住した者は、農地の開拓や商業の設立で成功を収めた例が数多く、現在も札幌を拠点に営業を行っている丸井今井を創設した新潟県出身の今井藤七などが、成功した例であるといえる。
[編集] 「裏日本」という語
「裏日本」という語は、使われ始めた頃から時間が経つに連れ、日本海側の住民にとって侮蔑的に受け取られることが次第に多くなって行った。これは、日本の近代化の傍らで近代化政策から完全に取り残されただけではなく、殊に高度経済成長期以後の東京・名古屋・大阪への集中政策を経て、見る見るうちに表日本と裏日本とで経済的格差が広がって行った。そのため、裏日本に住む住民にとって、「裏日本」「表日本」という名称に不満を持つ者も多かった。
日常的にテレビや新聞と言ったメディアでも使用されていた「裏日本」「表日本」という語であるが、経済格差がピークに達したと言われる1970年代初頭に、住民の苦情によって日本放送協会(NHK)が真先に使用を自粛し、「日本海側」「太平洋側」という呼称に改められた。新潟県選出の田中角栄が政権を握ると、民間放送局や新聞社なども使用を自粛するようになり、社会的に差別用語であるとの認識が次第にされて行った。
北陸本線の敦賀駅から奥羽本線の青森駅に至る路線は、一本の路線としても機能している。これらの路線はかつて、国鉄内部において「裏(日本)縦貫(線)」とも呼ばれていたが、1970年代以降は「日本海縦貫線」の呼称が用いられるようになった。中国や韓国との経済交流を促進する意味合いで、「環日本海」といった呼称も使用されるようになった。
[編集] 参考文献
- 阿部恒久『「裏日本」はいかにつくられたか』日本経済評論社 ISBN 4818809497
- 古厩忠夫『裏日本 -近代日本を問いなおす-』岩波新書、1997年 ISBN 4004305225
- 内藤正中『島根県の百年』山川出版社、1982年
- 日本国有鉄道『日本国有鉄道史 通史』、1974年
[編集] 出典
- ^ 中村明「センスある日本語表現のために」1994年,100 - 102頁
- ^ 日本海側にある天然の良港は敦賀港・舞鶴港・七尾港くらいしかない。
- ^ 「金沢大学十年史」1960年,1 - 2頁。
- ^ 「金沢大学十年史」1960年, p133
- ^ 「金沢大学十年史」1960年, p133

