嘉納治五郎
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嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月9日(万延元年10月28日) - 1938年(昭和13年)5月4日)は、明治から昭和にかけての柔道家、教育者。講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれる。
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[編集] 経歴
万延元年10月28日(1860年12月9日)、摂津国御影村(現兵庫県神戸市東灘区御影町)で父嘉納治朗作(希芝)と母定子の三男として生まれる。嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名があった。その長女・定子に婿入りしたのが治五郎の父・治朗作希芝である。初め、治作は治朗作に家を継がせようとしていたが、治朗作はこれを治作の実子である義弟に譲り、自らは廻船業を行って幕府の廻船方御用達を勤め、和田岬砲台の建造を請け負い、勝海舟のパトロンともなった。柳宗悦の義母は治五郎の姉である。ちなみに同じ嘉納家ではあるが嘉納三家と呼ばれる現在の菊正宗酒造・白鶴酒造とは区別される。
1873年(明治6年)、13歳のときに明治政府に招聘された父に付いて上京した。東京にて書道・英語などを学んだ。1874年(明治7年)、14歳のときに育英義塾に入塾。その後、官立東京開成学校(のちの東大)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した。
しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い、非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時であり、柔術は全く省みられなくなり、師匠を探すのにも苦労し、柳生心眼流の大島一学に短期間入門したりもした。この年に天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。窮理の徒である治五郎らしい話である。1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて、7月3日から来日中のユリシーズ・S・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。
1881年(明治14年)東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。1882年(明治15年)柔道場を下谷北稲荷町16(現台東区東上野5丁目)永昌寺のシチトウを使った12畳の居間と7畳の書院に設け、囲碁、将棋から段位制を取り入れ「精力善用」「自他共栄」の言葉を掲げた講道館を設立した。
1886年(明治19年)10月起倒流皆伝。嘉納は柔術のみならず、剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し、香取神道流(玉井済道、飯篠長盛、椎名市蔵、玉井滲道)や鹿島新当流の師範を招いて、講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また、望月稔、村重有利、杉野嘉男などの弟子を選抜し、大東流合気柔術(後に合気道を開く)の植芝盛平や神道夢想流杖術の清水隆次、香取神道流の椎名市蔵などに入門させた。薙刀術は各流派を学んだ。(雑誌『新武道』によると、この薙刀術が昭和16年~17年頃の国民学校の標準となったと記されているが、国民学校令施行より以前に既に大日本武徳会式の薙刀術が学校教育に採用されているため、この記述の正確性には疑問が残る。)
同時に教育者としても尽力し、1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)より通算20年間ほど東京高等師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学)校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めたほか、旧制第五高等中学校(現熊本大学)校長などを務め(部下の教授に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)等がいた)、旧制灘中学校の設立にも関わるなど教育者としても尽力する。
また、中国人留学生の受け入れにも努め、牛込に弘文学院(校長松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、嘉納に師事した。魯迅の留学については2007年(平成19年)、温家宝来日の際、国会演説でもとり挙げられた。また、旧制第五高等学校の校長だった頃、旧熊本藩の体術師範だった星野九門(四天流柔術)と交流している。
また日本のスポーツの道を開き、1909年(明治42年)には日本人初のIOC委員となる。1911年(明治44年)に大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年(明治45年)、ストックホルムオリンピックの日本オリンピック初参加に於いては団長として参加した。1936年(昭和11年)のIOC会議で東京オリンピック (1940年)(後に戦争の激化により返上)招致に成功した。
1938年(昭和13年)のIOC会議からの帰国途上5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去。享年77。遺体は氷詰にして持ち帰られた。
墓は八柱霊園にある。
1978年(昭和53年)より「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」(2007年からは「嘉納治五郎杯東京国際柔道大会」)が開かれ、2007年(平成19年)までに13回(うち「嘉納治五郎杯国際柔道選手権大会」が12回)行われている。
[編集] エピソード
1891年(明治24年)1月、欧米視察の帰船でロシア人士官に挑まれこれを投げた。同年4月10日の讀賣新聞がこの記事を掲載した。
[編集] 弟子
他にもたくさんの弟子が居る。

