将棋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
将棋(しょうぎ)は日本将棋、本将棋(ほんしょうぎ、歴史的には小将棋)ともいい、2人で行うボードゲーム(盤上遊戯)の一種である。インド古代のチャトランガが起源と考えられているゲームの一種であり、その中では、世界中で盛んなチェス、中国で盛んなシャンチー(象棋)に次いで競技人口が多いと推定されている[1]。
目次 |
[編集] 概要
将棋は(2007年現在の日本将棋連盟公式ルールを前提とするのであれば)ゲーム理論において二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されるゲームの一つである。日本では特に本項で述べるいわゆる「本将棋」が普及している。また、中将棋もわずかではあるが愛好家によって残されている。
本将棋は持ち駒の観念があることが特徴で、これは諸外国の将棋類似のゲームにも例のない独特のルールである(近年は持ち駒を利用したチェス派生のゲームも考案されている)。[2]
本将棋の他にも、盤のマス目の数や駒の種類を変えたり、将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯が考案されている。本将棋以外の将棋、および将棋に関連する遊戯については、将棋類の一覧を参照されたい。
[編集] ルール
[編集] 基本ルール
- 縦横9マスずつに区切られた将棋盤の上に駒を配置し、それらの駒を動かすことによってゲームが進められる。
- 1つのマス目に複数の駒が存在することはできない。また、1つの駒が2つ以上のマス目に同時に存在することはできない。
- 盤上の自分側の3段を自陣、相手側3段を敵陣という。
- 駒は玉将(玉)・飛車(飛)・角行(角)・金将(金)・銀将(銀)・桂馬(桂)・香車(香)・歩兵(歩)の8種類であり、それぞれ動きが決まっている(駒の動きで後述する)。
- 盤上のある駒が動くことができるマス目のことをその駒の「利き」という。
- 自分の駒の利きに駒がなければ、そのマス目に移動できる。
- 自分の駒の利きに相手の駒があるときは、相手の駒の位置に移動することでその駒を「取り」、自分の持ち駒とすることができる。
- 自分の駒の利きに自分の駒があるときは、そこに移動することはできない。
- 盤上のある駒が動くことができるマス目のことをその駒の「利き」という。
- 競技者双方が交互に、盤上にある自分の駒を1回ずつ動かす(「指す」と称する)か、持ち駒を1つ盤上に置く(「打つ」と称する)か、どちらかをする。
- 玉と金以外の駒は、敵陣に入るとき・敵陣の中で動くとき・敵陣から出るときに「成る」ことができる。
- 成った場合、飛は竜王(竜)・角は竜馬(馬)・銀は成銀・桂は成桂・香は成香・歩はと金になり、それぞれ駒の動きが変化する。
- 成るときには、成る前の駒の動きで指し、指した先のマス目に駒を裏返して配置する。次にその駒を指すときは、成った駒の動きで指す。
- 成った状態の駒を打つことはできない。
- 一度成った駒を元の駒の動きに戻すことはできない。
- 成りは強制ではなく、成らないこと(「不成(ならず)」と称する)を選択することもできる。
- 成らないまま敵陣から出た駒は、もう一度敵陣に入るまで成ることができない。
- 桂は敵陣2段目もしくは1段目、香と歩は敵陣1段目に進んだときには、必ず成らなくてはならない。移動先がなくなるからである。
[編集] 駒の動き
| 元の駒 | 動き | 成駒 | 動き | ||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 玉将(ぎょくしょう) 王将(おうしょう) 玉(ぎょく) 王(おう) |
|
全方向に1マス動ける。 | - | - | - | ||||||||||||||||||
| 飛車(ひしゃ) 飛(ひ) |
|
縦横に何マスでも動ける。 駒を飛び越えてはいけない。 |
竜王(りゅうおう) 竜(りゅう) |
|
飛+銀の動き。 | ||||||||||||||||||
| 角行(かくぎょう) 角(かく) |
|
斜めに何マスでも動ける。 駒を飛び越えてはいけない。 |
竜馬(りゅうめ、りゅうま) 馬(うま) |
|
角+金の動き。 | ||||||||||||||||||
| 金将(きんしょう) 金(きん) |
|
縦横と斜め前に1マス動ける。 | - | - | - | ||||||||||||||||||
| 銀将(ぎんしょう) 銀(ぎん) |
|
前と斜めに1マス動ける。 | 成銀(なりぎん) |
|
金と同じ。 | ||||||||||||||||||
| 桂馬(けいま) 桂(けい) |
|
前へ2、横へ1の位置に移動できる。 その際、駒を飛び越えることができる。 |
成桂(なりけい) |
|
金と同じ。 | ||||||||||||||||||
| 香車(きょうしゃ) 香(きょう) |
|
前に何マスでも動ける。 駒を飛び越えてはいけない。 |
成香(なりきょう) |
|
金と同じ。 | ||||||||||||||||||
| 歩兵(ふひょう) 歩(ふ) |
|
前に1マス動ける。 | と金(ときん) |
|
金と同じ。 | ||||||||||||||||||
上の表では便宜的に成銀を「全」、成桂を「圭」、成香を「杏」と表示している。この表記は、将棋駒の活字がない環境で(特に詰将棋で)しばしば用いられる。成銀を「全」、成桂を「今」、成香を「仝」、と金を「个」で表す流儀もある。
[編集] ゲームの進め方
対局者の棋力の差によって手合割(ハンデ)がある程度決まってくる。
平手戦の場合、開始時には駒を次のように並べる。
上図のように、盤面を図として表示する場合、下側が先手、上側が後手となる。先手から見て、将棋盤の右上のマスを基点とし、横方向に1、2、3、…、9、縦方向に一、二、三、…、九とマス目の位置を表す座標が決められている。棋譜はこの数字を用いて表現される。また、先手は▲、後手は△(駒の形をした五角形の表記
が本来の形なのだが、コンピュータ上ではフォントがないため三角形で代用する)で示すのが一般的である。
先手・後手は振り駒により決定する。ハンデをつける場合には弱い者が先手をもつ。棋力の差が非常に大きく、平手では勝負にならない場合、駒落ち戦とする場合もある。
上図は二枚落ちの場合である。駒落ち戦の場合、駒を落とした方を上手(うわて)、落とされた方を下手(したて)という。駒落ち戦では上手から指し始める。
相手との棋力の差を考慮し、飛車・角行に加え、金将・銀将・桂馬・香車まで落とす十枚落ちまでの手合割がある[3]。まれに、上手の玉の他に何も駒がなく持駒に歩3枚を持つだけの「歩三兵」や、金落ち、銀落ちといった特殊な駒落ちが指されることもあるが、あまり一般的ではない。
[編集] 勝敗の決め方
- どちらか一方が、自分の手番のときにルール上可能な着手(合法手)がなくなったとき、負けとなる。すなわち、玉を追い詰めて王手の回避ができない状態にすれば勝ちである。この状態を「詰み」という[4]。
- どちらか一方が、自分の手番のときに投了することで負けとなる。自玉が詰まされることが確定的となったときのほか、攻め合いで相手より早く玉を詰ますことができない場合、相手の受けが強くて一連の攻めが続かなくなった場合、相手の攻めを受け切れない場合、攻防に必要な駒を相手にほとんど取られてしまった場合など、自身の勝利がほぼなくなったと思われる場合に投了する。
- 同一局面が4回現れた場合千日手となり、無勝負・指し直しとなる(後述するが、一方が王手の連続で千日手となった場合は、王手をかけていた側の反則負けとなる)。
- 先後両者の玉(王)が互いに入玉し、玉が詰む見込みがなくなった場合、判定により勝敗を決める場合がある。この判定法により引き分けとなる場合があり、これを持将棋という。
- プロの公式戦では持ち時間を定め、ストップウオッチまたは対局時計を扱い、時間切れによる勝敗を厳正に定める。プロの公式戦以外では持ち時間なし(1手ごとに10秒以内に指すなどのルール)の対局もある。
- 対局の終了後、感想戦(局後の検討)を行うことがある。感想戦の結果によって対局の勝敗が入れ替わることはない。仮に感想戦中に反則が見つかったとしても、すべての勝敗は投了優先である。
- 相手の玉が自駒の利き筋にあった場合、その玉を取って勝敗をつけることができる。ただし、これは通常は反則勝ちとなる(後述の通り、相手方が自玉を相手駒の利きにさらす手を指した、とみなされるため)。
[編集] 反則または禁じ手
次に挙げる行為は反則と決められており、着手した場合直ちに負けとなる。反則行為が行われた時点ではそれに気付かずに手が進められても、後になって反則に気付き、指摘された時点で勝敗が決定する。ただし、対局相手が反則に気づかないまま投了、終局した際は投了が優先される。
また、対局中の助言は一切禁止されるが、反則行為が行われた場合に限り第三者がそれを指摘しても良い。
- 二歩
- 成っていない歩兵を2枚以上同じ縦の列に配置することはできない。
- 行き所のない駒の禁止
- 盤上の駒を行き先のない(動けない)状態にしてはいけない。味方の駒に進路を塞がれて一時的に動けない場合はこれにあたらない。打つ場合、不成で進む場合ともに敵陣1段目と2段目の桂馬、1段目の香車・歩兵は配置してはいけない。
- 打ち歩詰め
- 歩を打って玉を詰ませてはいけない。ただし、盤上の歩を突いて玉を詰ます突き歩詰めは反則ではない。また、詰みが成立しなければ、歩を打っての王手は認められる。
- 自玉を相手駒の利きにさらす手
- 自らの着手の後、自らの玉が王手のかかった状態にあってはいけない。すなわち、
- 相手に王手された場合は王手を回避しなければならない。
- 玉を相手の駒の利きに移動してはならない。
- 玉以外の駒を移動させた結果、玉が相手の駒(香車、飛車、角行)の利きにさらされるようにしてはならない。
- 連続王手の千日手
- 連続王手での千日手は王手している側が指し手を変更しなければならない。
その他、基本ルールに反する行為として、2手続けて指す(二手指し)、ルール上移動できない位置に駒を移動する(特に、角を遠い位置に移動させるときに間違えやすい)、成れない状況で駒を成る、成り駒を打つ、などの行為も反則となる。
いったん着手した手を変える行為(待ったと呼ばれる)もまた反則であり、基本的には二手指しなどと同じく即負けである。駒から手を離した時点で着手が完了となるため、一旦駒を動かしても手を離さなければ、その時点では元に戻して別の手を指してかまわない。ただし、仲間同士の気楽な対局や駒落ちなど指導を目的とする対局の場合は、例外的に許可される場合もある。しかし、多くの人は「待った」をマナー違反とみなすため、注意が必要である。
記録に残っている1977年から2005年までに、プロの棋戦で発生した反則のうち、回数が多いものは以下の通り[5]。
| 1位 | 二歩 | 44回 |
|---|---|---|
| 2位 | 二手指し | 22回 |
| 3位 | 王手放置、自らの玉を相手の駒の利きにさらす | 8回 |
| 4位 | 角・馬が移動できない位置へ移動する | 5回 |
| 5位 | 成れない状況で駒を成る | 3回 |
その他、特殊な例として、
- 成銀を金将と間違えて打ってしまった。
- 自分が取った駒を相手の駒台に乗せてしまった。
- 盤上から駒台に移ってしまった香車を持ち駒として使用した。
- 後手が先に指した。
- 相手の駒を取った後、別の場所に駒を動かしてしまった(8八の玉将で7八の相手の馬を取ったが、馬を駒台に移した後玉将を8七に移動させた)。
- いったん不成で敵陣に置いたように見えた駒を持ち直し、成りに変えた。対局はそのまま継続されたが、テレビ放送後の視聴者の抗議を受け、「待った」であるとされた[6]。
という反則が知られている。
[編集] その他
- 「将棋を打つ」という表現がなされることがあるが、将棋は「指す」ものであって「打つ」ものではない。ただし、持ち駒を盤面に配置することは「打つ」という。
- 「王手をするときには『王手!』と言わなければいけない」と思っている人がいるが、そのようなルールは存在しない[7]。
[編集] 戦略と戦術
[編集] ゲームの進行ごとの戦略
一局の対局はおおよそ100手前後(先手・後手それぞれの着手を1手と数える)で勝負がつくが、対局全体を大きく以下の3つに分けることができる。ただし、何手目までが序盤であるかなど、明確な線を引くことは通常はできない。
- 序盤 - 初手から駒組みが完成するまでのおおよその間。
- 中盤 - 駒組みが完成し、両軍の駒のぶつかり合いが始まってから、劣勢の側または両者の玉の囲いが崩れ始めるまでのおおよその間。
- 終盤 - 劣勢の側または両者の玉の囲いが崩れ始めてから、終局までの間。
[編集] 序盤戦
序盤戦はまず戦型を選択するところから始まる。
初手は角道を開ける▲7六歩か飛車先の歩を突く▲2六歩のどちらかが多く、ほとんどの対局はこのどちらかで開始される。しかし、先手ゴキゲン中飛車や藤井システムの登場などにより新しい指し方の研究も進んでいて、▲7六歩や▲2六歩以外の初手についても(まだまだ数は少ないが)いろいろと試みられている。
戦法は、飛車を初期位置から動かさずに攻める居飛車戦法と、左へ動かして展開する振り飛車戦法の2通りに大別され、それぞれに定跡が研究されている。その知識と研究に加えて、相手の動きを見ながら先々の有利を見すえる大局観が重要となる。
基本的には金や銀を使って玉の守りを固め(囲い)ながら、駒を繰り出して敵を攻める体勢を作ることになる。囲いを簡略化してすぐに攻めに入ることを急戦といい、じっくりと守りを固めてから戦いに入ることを持久戦という。双方が囲い合い、駒のぶつかり合いが始まると中盤戦に突入する。
[編集] 中盤戦
中盤戦は、駒を取り合い、敵陣に切り込んで相手の囲いを崩しに行く戦いになる。駒の損得と働きが重要になる。
銀、桂、歩などを繰り出しながら相手の駒を攻めて駒得(「駒の価値」の項を参照)を狙い、敵陣に攻め入って竜、馬やと金などを作って相手玉の囲いを脅かすこと、またそのような相手の攻めを防ぐ(受ける)攻防が主となる。攻めと受けのどちらに主眼を置くかによって個人の棋風が現れる部分である。一方または両方の囲いが崩れ出すと、終盤戦に突入する。
[編集] 終盤戦
終盤戦では、相手の玉を詰ましに行く(寄せる)戦いになる。駒の損得よりも玉を寄せるスピードが重要となり、正確な読みの力が重要となる。
囲いを崩しながら相手玉に迫り、詰めろをかけ続け、最終的には詰将棋のように王手の連続で詰みまで持っていくことになる。お互いに玉に迫りあっている場合、相手への詰めろを1手外すと逆に自玉にかけ返されてしまうので、1手の緩手で勝敗がひっくり返ってしまうこともある重要な局面である。
一方的に攻められている場合は玉が詰まされないよう逃げ道を確保する。入玉を目指し早めに逃げることもある。
[編集] 駒の価値
詳細は大駒・小駒を参照。
玉将、王将は最高の価値を持つ。 駒の価値は次のような順になる。
- 王将、玉将
- 飛車
- 角行
- 金将
- 銀将
- 桂馬
- 香車
- 歩兵
飛車と角行を大駒といい、それ以外を小駒という。ただで相手の駒を手に入れたり、価値の低い駒を捨てるかわりに価値の高い駒を手に入れたりすることを駒得(こまどく)といい、一般的には有利になる。その反対は駒損(こまぞん)という。
角と銀+桂など、大駒1枚と小駒2枚を交換することを二枚替えといい、一般的には小駒2枚を得た側が有利とされる。なお、ここで述べている「小駒」は基本的に歩兵を含まない。例えば、飛車を手に入れたかわりに金と銀を渡した場合、飛車自体は最も強い駒であるが金銀の2枚を失った方が不利になる場合が多い。
これらの駒の価値は序盤から中盤で特に意識される。中盤から終盤にかけては状況に応じて必要な駒が変化し、またそれぞれの駒の働きが重視されるため、単に駒の損得のみで優劣を判断することはできない。最終盤では寄せる速度が勝負を分けるため、攻防に必要な駒があれば損得はほとんど形勢に影響しない。たとえば、飛車や角を捨てて金を得るということも行われる。
[編集] 攻め駒と守り駒
攻めは主に角飛銀桂、守りは金2枚銀1枚と言われている。
[編集] 沿革
[編集] 古将棋
[編集] 日本への伝来
将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるといわれており、ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー(象棋)、朝鮮半島にはチャンギ(장기)、タイにはマークルックがある。
将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った[8]、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えた[9]などといわれているが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。
日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので6世紀ごろと考えられている[10]。このとき伝来した将棋は、現在のような五角形の駒形ではなく、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。チェスでは古い駒ほど写実的である。ただしこの説の問題点として、現在までそのような形の将棋は発見されていないことが挙げられる。
時期の遅い説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。中国の象棋や朝鮮のチャンギがこの時期に日本に伝わったというものであるが、これらは駒を線の交点に置くことなど将棋との違いは大きく疑問も残る。これに対し、東南アジアのマークルックに銀将と同じ動きの駒があることから、近年はこの系統の盤戯が中国において改良され日本に伝来したとする説もある[11]。当時の造船技術では東南アジアから直接日本へ伝わったと考えることは難しいものの、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられる[12]。いずれにしても物証が乏しく、はっきりしたことは分かっていない。
チェスの歴史も参照のこと。
[編集] 平安将棋
将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、藤原行成(ふじわらのゆきなり(こうぜい))が著した『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年~1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。
考古学史料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒16点[13]で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。
三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年~1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている[14]。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。
これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある[15]。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。
[編集] 将棋の発展
これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。
13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。16世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年-1555年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない[16]。
なお、16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。
将棋史上特筆すべきこととして、日本ではこの時期に独自に、日本将棋では取った駒の再利用できるルール、すなわち持ち駒の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された16世紀ごろであろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。近年有力な説としては、1300年ごろに書かれた『普通唱導集』(村山修一、法蔵館、ISBN 9784831875587)に将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」と駒の交換を示す文句があり、この時期には持ち駒の概念があったものとされている[17]。
持ち駒の起源については、小将棋または本将棋において、駒の取り捨てでは双方が駒を消耗し合い駒枯れを起こしやすく、勝敗がつかなくなることが多かったために、相手の駒を取っても自分の持ち駒として使うことができるようにして、勝敗をつけやすくした、という説が一般的である。
江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。 江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。
将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の発展につながってゆく。
[編集] 本将棋
[編集] 御城将棋と家元
将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となった。1612年(慶長17年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになった。初代大橋宗桂は50石5人扶持を賜わっている。寛永年間(1630年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。
将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。
名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。
[編集] 新聞将棋・将棋連盟の結成
江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。家元の三家が途絶えたため、名人位は推薦制へ移行した。アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなくなったといわれている。
1899年(明治32年)ごろから、新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成され、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとに将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。
[編集] 将棋禁止の危機
第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より呼び出しがかかった。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と難癖をつけてきた。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥った時にはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた。
[編集] 現代棋界の動向
詳細は棋戦 (将棋)、女流棋士 (将棋)、将棋のアマチュア棋戦、コンピュータ将棋をそれぞれ参照。
連盟結成以降の詳細は各記事にゆずるが、1937年の名人戦を皮切りに7つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている。また、女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の棋戦である女流名人位戦が開催され、現在は5タイトル戦とその他いくつかの公式戦が行われている。この期間に定跡が整備され、とくにプロレベルの序盤は高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。
また、将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されることから、人工知能の対象となり、コンピュータ将棋が発展した。2007年現在、コンピュータ将棋の実力はアマトップ~プロの最底辺に達しているとされている。
[編集] 日本国外への普及
将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯であり、駒の種類が漢字で書かれて区別されているなどの理由で、日本国外への普及の妨げになっていた。囲碁は国際的に(多少の差異はあるが)ルールが統一されていること、白黒の石でゲームを行うこと、他の国の固有のゲームとは類似性が見られない(他国ではチェスやチェス類のゲームがすでに存在していることが多い)ゲームであるなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的である。
しかし、1990年代になると将棋の日本国外への普及活動が本格的に行われるようになった。特に中華人民共和国、中でも上海への普及が盛んで、『近代将棋』2006年1月号によると上海の将棋人口は12万人とのことである。非漢字圏への普及は比較的遅れているが、駒の名前の代わりに方向を示した符号を書いた駒を利用するなどの方策がとられている。
[編集] 将棋人口の推移
『レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上将棋を指す15歳以上のいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1680万人から、2005年度840万人、2006年度710万人と大幅に減少し、漸減傾向が続いている。
将棋人口が半減した上記の期間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かある。代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)などである。しかしいずれも「将棋ブーム」を生むには至らず、取り上げ方によってはファン離れを加速するものとなっているものもある。
2006年版「レジャー白書」では囲碁は60代、将棋は10代に人気があるという結果が出ている。
また、1996年頃からJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及しはじめ、現在は、1998年に運営を開始した将棋倶楽部24や、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などによる対局が広く行われるようになっている。
[編集] 将棋に由来する慣用表現
- 王手(おうて)
- 次に相手の玉将を取ることから転じて、あと1勝で優勝などの場面で用いる。また、相手もあと1勝で優勝という状況になったときには「逆王手」という表現が用いられることもあるが、将棋における「逆王手」とは意味が異なる(将棋の場合、逆王手をかけたことにより先の王手は解消されているが、一般に使う逆王手は双方ともに王手がかかった状態である)。
- 詰んでいる(つんでいる)
- いかなる手を打とうとも最終的に必ず玉将を取られる状態である詰みから転じて、事実上勝敗は決している状態を指す。特に、まだ抵抗の余地はあるが何をしても結局は負ける、という場合に用いられる。
- 将棋倒し(しょうぎだおし)
- 大勢の人ごみがあるきっかけで連鎖的に倒れること(類義語:ドミノ倒し)。駒を立てて並べ連鎖的に倒す遊びに由来する。古くから使用されてきた表現であるが、2001年に発生した明石花火大会歩道橋事故の