李登輝

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李登輝
李登輝

任期: 1988年1月13日2000年5月19日

任期: 1984年5月20日1988年1月13日
元首: 蒋経国総統

出生: 1923年1月15日(86歳)
日本の旗大日本帝国台湾
台北州 淡水郡 三芝庄 埔坪村
(現台北県三芝郷
政党: 中国国民党1971年2001年
無所属(2001年―)
台湾団結連盟の精神的指導者
配偶: 曽文恵
李登輝
職業 学者政治家
各種表記
簡体字 李登辉
繁体字 李登輝
ピン音 Lǐ Dēnghuī
和名表記 リ・トウキ
発音転記 リー・テンフェ
ラテン字 Lee Teng-hui
ポータル テンプレート ノート

李 登輝(り とうき、1923年大正12年)1月15日 - )は中華民国政治家農業経済学者。元中華民国総統1988年 - 2000年)。拓殖大学名誉博士。宗教プロテスタント長老派。日本統治時代に使用していた名は「岩里政男」(いわさと まさお)。

蒋経国の死後、その後継者として中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の民主化本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾澎湖金門馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「台湾中華民国」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の「民主化」を推進させることとなる。また、総統在任中経済発展についても大きな成果を上げている。

総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党「台湾団結連盟」を自ら中心となって結成し、「台湾独立」運動の事実上の指導者と考えられている。

目次

[編集] 経歴

[編集] 少年時代

李登輝(右)と兄の李登欽

1923年1月15日、台北州淡水郡三芝庄(現在の台北県三芝郷)埔坪村の「源興居」で李金龍と江錦の次男として出生した。兄は2歳年上の李登欽(日本名:岩里武則)であり、日本統治時代にフィリピンにて日本軍人として参加し戦死している。このほか弟の李炳男がおり、こちらは貿易業に従事していた。

父・金龍は警察官であり、経済的に安定した家庭環境により幼少の頃から教育環境に恵まれていた。父の転勤にしたがって登輝は6歳から12歳までの間に汐止公学校、南港公学校、三芝公学校、淡水公学校と4度の転校を繰り返した。淡水公学校卒業後は私立台北国民中学(現在の大同高級中学)に入学したが、1年後の1938年には淡江中学校に転校している。淡江中学校では学業に専念し首席の成績で卒業、卒業後は台北高等学校に合格している。

台北高等学校に入学した登輝は、1年次に台湾総督府が推進した皇民化運動の中で展開された改姓名運動の中、岩里政男と改名した。本人も「22歳(1945年)まで自分は日本人であった」と表明している[1](現在も来日時は日本語を使用している)。

[編集] 大学時代

曽文恵と結婚

1943年9月、台北高等学校を卒業。同年10月、京都帝国大学農学部農業経済学科に進学した。農業経済学を選択した理由として、本人によれば幼少時に小作人が苦しんでいる不公平な社会を目の当たりにした事と、高校時代の歴史教師である塩見薫の影響によりマルクス主義唯物史観の影響を受けたこと、農業問題は台湾の将来と密接な関係があると思ったことを理由として挙げている[2]

大学時代の登輝は日々深刻になる食料不足問題に悩みながらも、自ら「農業簿記」を学び、同時にマルクス河上肇などの社会主義関連の書籍に親しんでいた[3]。しかし戦争が激しさを増すとほかの文科系学生と同じように学徒出陣により出征する(農業経済学を専攻している学生は、農学部所属ではあったが、文系として扱われた)。大阪師団に徴兵検査第一乙種合格で入隊し、1944年に台湾に一時帰って基礎訓練を終えた後、日本に戻り千葉陸軍高射学校の見習士官に任命され、終戦を日本軍司令部付き見習士官(陸軍曹長)として名古屋で迎えた。ちなみに、召集された際、日本人の上官から「お前どこへ行く?何兵になるか?」と聞かれ、迷わず「歩兵にしてください」と言い、加えて自分のほうから「二等兵にしてください」とまで要求したところ、その上官から「どうしてそんなきついところへ行きたいのか」と笑われてしまったという[4]。また、1945年3月10日の東京大空襲の際には、超低空で帝都へ侵入するB-29を迎撃、激しく砲撃を繰り返し、かなりの損害を与えたことを述懐している。

1945年に日本の終戦を迎えた後、1946年春には日本の撤退後中国国民党の支配下になった台湾に帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。帰国して間もない1947年二・二八事件が発生する。それまでの経歴から判るとおり二等国民扱いだった台湾人としてはもちろん、日本人としても非常に高度な知的訓練を受けており、この事件の際は真っ先に粛清される危険性を持っていたため、知人の蔵にかくまわれた[5]呉克泰の証言では、台湾に帰国後間もなく、彼の要請を受け、(中華人民共和国の建国、中華民国の台湾実効支配が行われる1949年の前)中国共産党に入党し国民党による二・二八事件に反発する暴動などに参加したが、2年間で離党したという[6]。このことに関して、共産党員になるには党組織による観察が一年以上必要なので、台湾に引き揚げてから二・二八事件が発生するまでに共産党員になるのは不可能だとする意見がある[7]

1949年、台湾大学を卒業し同大学農学部の助手として採用された。同年、淡水の地主の娘であり、台北第二女子中学(日本統治時代は台北第三高女と称し現在は台北市立中山女子高級中学)の曽文恵と見合いにより結婚している。

[編集] アメリカ留学

1950年に長男李憲文をもうけ、1952年に中美(米)基金奨学金を獲得しアメリカに留学、アイオワ州立大学に於いて農業経済学を研究した。1953年に修士学位を獲得して中華民国に帰国、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任する傍ら、台湾大学講師として勤務することになった。

その後1957年中国農業復興聯合委員会(略称:農復会)に就職、研究職としての職歴を重ねた。同時に台湾大学助教授を兼任した。また、1961年にキリスト教に入信する。

1965年ロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル大学に留学する。同大学では農業経済学を専攻する。1968年5月に農業経済学博士号を獲得。このときの博士論文である Intersectional Capital Flows in the Economic Development of Taiwan, 1895-1960 (1895年から1960年の台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れ)は全米最優秀農業経済学賞を獲得し、1971年にコーネル大学出版社から出版されている。博士号を受けて1968年7月に台湾に帰国、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任している。

この当時42歳で、留学生の間では最年長だった彼は、週末になると若い学生を自宅に招き、ステーキをふるまうことが多かった。そのため、当時のあだ名が「牛排李」(ビーフステーキの李)だったというエピソードがある。また、このころ彼の家に招待されていた者の中に、後に蒋経国暗殺未遂事件を起こす黄文雄鄭自才がおり、このことが後述するバンコクへの出国不許可につながることになる[8]

[編集] 政界進出

1969年6月に登輝は警備総部の取調べを受ける。最初の取調べは17時間にも及びその後1週間拘束された。この経験から李登輝は台湾人を白色テロの恐怖から救うことを決心したと後年述べている。このとき、彼の経歴を洗いざらい調べた警官に「お前みたいな奴なんか蒋経国しか使わない」と罵られたという[9]1970年国連開発計画の招待によりバンコクで農業問題の講演を依頼されたが、同年4月に蒋介石の息子で当時行政院副院長の役職にあった蒋経国の暗殺未遂事件が発生し、犯人黄文雄とアメリカ留学時代に交流があったため政府は「観察中」との理由で出国を認めなかった[10]

この時期農復会の上司であった沈宗瀚は、農業専門家として1971年8月に蒋経国の知遇を得ることになった。そして蒋経国により国民党への入党を勧誘され、同年10月、経済学者の王作栄の紹介により国民党に入党している[11]。入党後は、蒋経国が行政院長に就任すると無任所大臣に当たる政務委員として入閣した。この時僅か49歳であり、当時最年少での入閣であった。それから6年間、農業専門の行政院政務委員として活躍した。

その後1978年、蒋経国により台北市長に任命される。市長としては「台北芸術祭」に力を入れた。また、水不足問題の解決等に尽力し、台北の水瓶である翡翠ダムの建設を行った。さらに1981年には台湾省主席に任命される。省主席としては「八万農業大軍」を提唱し、農業の発展と稲作転作などの政策を推進した。政治家としては順調に出世していったが、私生活ではこの頃に長男の憲文が死去する不幸に見舞われている。

1984年、蒋経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会第7回会議選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。蒋経国が登輝を副総統に抜擢したことについて登輝自身は「私は蒋経国の副総統であるが、彼が計画的に私を後継者として選んだのかどうかは、本当に知らない。しかし、私は結局彼の後を引き継いだのであり、これこそは歴史の偶然なのである。」と語っている[12]

[編集] 総統時代

[編集] 総統代行(1988年~1990年)

1988年1月13日、蒋経国が死去。憲法上任期中に総統が死去すると副総統が継承するため登輝が総統に就任する。国民党主席代行に就任することに対しては蒋介石の妻・宋美齢が躊躇し主席代行選出の延期を要請したが、当時若手党員だった宋楚瑜が早期選出を促す発言をしたこともあり主席代行に就任する。7月には国民党代表大会で正式に党主席に就任した。しかし登輝の政権基盤は確固としたものではなく、李煥郝柏村兪国華ら党内保守派がそれぞれ党・軍・政府(行政院)の実権を掌握していた。この後、登輝はこれらの実力者を牽制しつつ自らの政権基盤を固め、民主化を進めていった。

1989年に国民党内の支持が低いことを理由に兪国華が行政院長を辞任すると、国民党秘書長の李煥が行政院長に就任した。この時、後任の秘書長に登輝の国民党主席就任を支持した宋楚瑜を据え、登輝は党の主導権を握った。

[編集] 第8期総統(1990年~1996年)

[編集] 「万年国会」解消

1990年5月に登輝の代理総統の任期が切れるため、同年3月21日総統選挙が行われることになった。国民党内では登輝が党推薦の総統候補になるコンセンサスが形成されており、登輝によって誰が副総統候補に指名されるか注目された。登輝が指名したのは李煥などの実力者でなく総統府秘書長の李元簇だった。これに反発した李煥・郝柏村ら反李登輝派は党推薦候補を決定する国民党臨時中央委員会全体会議で林洋港を総統候補に擁立しようとし、李登輝派との間で「2月政争」が発生した。登輝は多数を確保し、満場一致で同会議において国民党の総統候補に選出された。この後、林洋港は無所属候補としても出馬しないことを表明し、反李登輝派の対抗馬擁立は失敗した。3月21日の総統選挙で登輝と李元簇は信任投票により総統・副総統に選出された。

同時期、台湾では民主化運動が活発化し、国民政府台湾移転後一度も改選されることのなかった民意代表機関である国民大会代表及び立法委員退職と全面改選を求める声が強まっていた。1989年に国民大会で「万年議員」の自主退職条例を可決させていたが、1990年3月16日、退職と引き換えに高額の退職金や年金を要求する国民大会の万年議員への反発から「三月学運」が発生した。総統再任後、登輝は学生運動の代表者や黄信介民進党主席らと会談し、彼らが要求した国是会議の開催と憲法改正への努力を約束した。6月に朝野の各党派の代表者を招き「国是会議」が開催され、各界の憲政改革に対する意見を求めた。国是会議の議論に基づいて、1991年5月に動員戡乱時期臨時条款を廃止し、初めて中華民国憲法を改正した。これにより国民大会と立法院の解散を決定し、この2つの民意代表機関の改選を実施することになった。そして「万年議員」は全員退職し、同年12月に国民大会、翌1992年12月に立法議員の全面改選が行われ「万年国会」問題は解決された。

[編集] 総統直接民選

1991年6月、登輝は李煥に代わって郝柏村を行政院長に指名した。このときシビリアン・コントロールの原則に従って郝を軍から除役させたため、郝の軍に対する影響力が弱まり、軍の主導権も登輝が握ることになる。1993年に郝が行政院長を辞任し、登輝の側近だった連戦が行政院長に就任したため行政院の主導権も握った。この後、登輝はより一層の民主化を推進していくことになる。

1994年7月、台湾省・台北市高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙が実施された。さらに登輝は総統直接選挙の実現に向けて行動した。しかし国民党が提出した総統選挙草案は、有権者が選出する代理人が総統を選出するというアメリカ方式の間接選挙を提案するものであった。それでも登輝はフランス方式の直接選挙を主張し、1994年7月に開催された国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することが賛成多数で決定された。同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定めた。

[編集] 第9期総統(1996年~2000年)

1996年初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、初めての民選総統として第9期総統に就任した。この選挙に際して中華人民共和国は台湾の独立を推進するものと反発し、総統選挙に合わせて「海峡九六一」と称される軍事演習を実施、ミサイル発射実験を行い、アメリカは2隻の航空母艦を台湾海峡に派遣して中華人民共和国を牽制し、両岸の緊張度が一気に高まり、これが「台湾人」のアイデンティティーを触発して本人の再選を実現したとの分析もある。

総統に再び就任した後、登輝は行政改革を進めた。1996年12月に「国家発展会議」(「国是会議」の名称が変更されたもの)を開催したが、この会議の議論に基づいて1997年に憲法を改正し、台湾省を凍結(地方政府としての機能を停止)することが決定された。これによって台湾省政府は事実上廃止することになった。

2000年の総統選挙では自身の後継者として連戦を推薦し選挙支援を行なうが、この選挙では国民党を離党した宋楚瑜が総統選に参加したことから、国民党票が分裂、最終的には民主進歩党候補の陳水扁が当選し、第10期中華民国総統に就任した。これにより中華民国に平和的な政権移譲を実現したが、野党に転落した国民党内部からは登輝の党首辞任を求める声が高まり、2000年3月に国民党主席職を辞任している。

[編集] 外交・両岸関係

外交は、今までの「中華民国は中国全土を代表する政府」という建前から脱し、「現実外交」を展開した。1989年にシンガポールを訪問した際、シンガポール側が李登輝を「中華民国総統」ではなく「台湾から来た総統」という呼称を用いたが、登輝は「不満だがその呼称を受け入れる」と表明した。また、1990年にGATTには「中華民国」ではなく「台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域」の呼称で加盟し、1991年にはAPECに「中華台北」の呼称で加盟している。

両岸問題では中華民国国家元首・国民党主席の立場から三民主義に立脚した中国統一政策を標榜した。1991年、国家統一委員会に於いて『国家統一綱領』を策定、中華民国は中国の一部であり、中国大陸もまた中国の一部と表明した。しかし1996年に総統に再選された後は両岸関係に対する態度を変え、「台湾独立」を意識した発言を強めていくことになる。1999年7月、ドイツの放送局ドイチェ・ヴェレのインタビュー中で両岸関係を「特殊な国と国の関係」と表現、ここに二国論を展開することとなった。同年12月にも、アメリカの外交専門雑誌『フォーリン・アフェアーズ』の論文で「台湾は主権国家だ」と記述し、台湾独立を強く意識する主張を行った。

[編集] 総統引退後

総統職を退いた後は台湾独立の立場を明確にした。「中華民国は国際社会で既に存在しておらず、台湾は速やかに正名を定めるべき」との台湾正名運動を展開し、2001年7月には国民党内の本土派と台湾独立派活動家と共に「台湾団結連盟」を結成した。形式上では既に政界を引退しているものの、独立運動の精神的な指導者と目されるようになる。このため同年9月21日に国民党中央考核紀律委員会により、反党行為を理由に党籍剥奪の処分を受けた。国民党を離れたため、その後は台湾独立派と見られる民進党と関係を深めていく。2003年9月には「もはや中華民国は存在しない」と発言して台湾独立への意思を鮮明にした。2004年の総統選挙では、選挙運動中の同年2月28日、台湾島の南北約500kmを約200万人の市民が手をつないで「人間の鎖」を形成する台湾独立デモを主催するなど、民進党候補の陳水扁を側面支援した。

しかし次第に陳水扁を批判するようになり、民進党とも距離を置くようになる。2007年1月には、メディアのインタビューを受けた際に、“私は台湾独立とは一度も言ったことがない”と発言して、転向かとメディアに騒がれる出来事もあったが、インタビュー本文には「台湾は既に独立した国家だから、いまさら独立する必要はない。民進党は政治利用に独立を持ち出すのは控えるべき」と発言したことが明記されており[13]、メディアの歪曲報道とされている。

2008年の総統選挙ではなかなか民進党の総統候補である謝長廷の支持表明をせず、痺れをきらせた後援会が勝手に支持を表明する事態が発生したが、2008年3月の選挙直前に謝を「台湾が主権国家であるとはっきり言える人物」として支持表明[14]。しかし、国民党総統候補馬英九の当選後は産経新聞のインタビューで協力する意向を示した[15]

こうした時期、地位によって政治的主張が異なる人物のため、台湾国内では『台湾独立を目指すことに変わりはないが、駆け引き上手な現実主義者』というイメージが強いとされる。

[編集] 人物

[編集] 人物像

司馬遼太郎小林よしのりとの対談でも時間を忘れるほど熱心に語る饒舌家である。新婚時代にも農業に関して無知だった夫人に対して遠慮なく喋り続けるため、夫人も話をあわせるために農業を勉強したという。

決して中国の政治家を全面否定しているわけではなく胡錦濤やそのポスト世代の習近平李克強を「地方で鍛えられた優秀な政治家」と高く評価し、日本の政治家を「東京や法律でしかものを考えられない人ばかり」と批判している[16]

[編集] 文学・思想

中学・高校時代に鈴木大拙阿部次郎倉田百三夏目漱石らの日本の思想家や文学者の本に触れ、日本の思想から影響を受ける。また、日本の古典にも通じており、『古事記』・『源氏物語』・『枕草子』・『平家物語』などを読む[17]。宗教に関しては、キリスト教長老派を信奉している。また、台湾総督府民生長官を務めた後藤新平を「台湾発展の立役者」として高く評価している[18]

ちなみに、若手育成のために開いた「李登輝学校」の卒業生らが、李登輝が漫画『魁!!男塾』の登場人物の江田島平八に似ているということで、PR向けに江田島平八のコスプレを行ったことがある。これについて「日本びいきだ」という批判が起きたことがある。

[編集] 言語

台湾の同世代に顕著なことだが、中華民国政府の要人でありながら一番得意とされる言語は日本語と言われる。それについで台湾語英語となり、一番苦手なのは北京語で、非常に台湾訛りが強い。この不得手さを逆手にとって、宋美齢の権力を失墜させた。

上記のように、日本文学を多く読み、岩波文庫の蔵書数を誇ったり、日本のオピニオン雑誌『中央公論』『文藝春秋』を愛読するなど、情報処理や思考の面で多く日本語が介在しているとされる。そのため、記者会見など公の場でも特定の単語を日本で定着している呼称をそのまま現地語で発音することがあり、台湾では「波斯(ペルシア)湾戦争」と表記される湾岸戦争を「湾岸戦争」のまま中国語読みしていた例も確認されている[19]。また、夫人の文恵を日本語読みで「フミエ」と呼ぶこともある。

[編集] 評価

異なる時代に異なる地位で異なる政治主張を行なったため、その政治的評価は現在も定まっていない。

中華民国総統在任期間中(1988年-2000年)に総統及び副総統、台湾省長、台北市長、高雄市長選挙を住民の直接選挙とし、憲政及び国会で多くの改革を行い中華民国の民主化を促進した点については中華民国内外で概ね好意的な評価を受けている。しかしその政局運営では国民党の権力構造を改革するため地方分権を急速に実施した結果、企業や黒社会との癒着が進み、金権政治を発生させたという批判もあり、1990年代の政治風紀の乱れの責任を問う声もあるが、これらは李登輝が民主化と情報公開を推進した結果、それまで隠蔽されていた社会矛盾が暴露されたに過ぎないとの見解もあり、反李登輝の外省人(大陸出身者、或いはその子孫)系マスコミが依然として強いことも考慮する必要がある。

「台湾独立運動」に関する評価では両極に分化している。台湾独立派は伝統的な中国の概念と思想、そして文化体系より離脱し独立路線を採用したものとして好意的な評価を下している。事実総統任期中、中華民国の台湾本土化運動を推進し、伝統的な盟友であるアメリカや日本との強固な連携を確立し、退任後の台湾独立運動推進の基本路線を確定したと相当に高い評価を受け、国民党から除名された後も中華民国政局・台湾独立運動の主要な精神的指導者として確固たる影響力を有している。

また総統就任期間はアメリカ訪問の機会を探り、国際社会の中で中華民国の外交(国交樹立)拡大の可能性を模索し、二国論の主張は「一つの中国政策」を堅持する中華人民共和国政府の強烈な反発を招いた。退任後に台湾独立を明言すると中華人民共和国政府とその影響下の中華人民共和国国民、海外華僑の強い反発を受けている。また台湾国内でも泛藍と称される中華統一派からも政治主張の違いから否定的な評価を受けることとなった。

当初日本教育を受けていたため、その発言の中に日本に対する好意が見られ、また中華民国の公人でありながら自らを「半日本人」と称するなどその親日的な態度は顕著である。中華民国も領有権を主張する尖閣諸島(中国語名:釣魚台列嶼)を「沖縄県に属する日本固有の領土」と発言をし[20]、2008年9月24日には訪問先の沖縄で再び日本領土だと発言する[21]靖国神社問題では2007年9月に開かれた集会「第6回産経李登輝学校」で「“靖国問題”とは中国とコリアがつくったおとぎ話なんだよ」と発言するなど、日本寄りの主張を行っている。中華民国の公人がこのように過度に親日的な態度を採る事に対して強く反発する勢力も存在する。

これらの評価は現在の政治問題と密接に関連しており、その歴史的評価が定まるまでにはなお時間を要する。

[編集] 訪日

総統職から離れた後も台湾独立派に極めて重要な影響力を持つとされ、特に「一つの中国」を国是とする中華人民共和国政府は「台湾独立勢力の象徴的人物」として危険視している。登輝の来日の希望が取りざたされるたびに、中華人民共和国政府は日本政府に対してビザを発給しないよう要求するなど外交問題化する。

以下のように総統職を退いて以降の訪日が大きな騒動となっているが、戦後政界入り直後に日本の政治家と会談、視察目的で訪日しているどころか副総統時代にもビザ発注にまったく問題が起きず訪日を実現している。

2001年

2001年4月、持病の心臓病治療のために来日・倉敷を訪問している。日本政府は人道的な措置としてビザ発給。この騒動を主な契機として同年12月に日本李登輝友の会が設立される。登輝もインターネットを通じて講演を行った。

2002年

2002年10月、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」が同大学の学園祭「三田祭」において講演を依頼したため、その依頼を受けて来日する意向が伝えられた。当初、講演は問題なく実現するかにみられたが、11月7日に学園祭の実行委員会が講演を却下した。その後、会場を別にして講演が行われるはずだったが、日本政府が李登輝の求めたビザの発給を拒否。訪日と講演は幻に終わった[22]。講演予定だった内容は、11月19日付け産経新聞朝刊で「日本人の精神」と題して全文が掲載された。

2004年

2004年12月から翌年1月にかけて曽文恵夫人や長男の嫁、孫娘の李坤儀らを伴い観光旅行として来日。私人に対するビザを断る理由はないとしてビザが発給された。ただし、政治的行動をしないなどの条件を日本政府は求めたとされる。登輝は名古屋市金沢市京都市を訪れた。京都では母校である京都帝国大学(現・京都大学)時代の恩師である柏祐賢・京大名誉教授と再会を果たしたほか、京大にも訪れたが時計台のある本部キャンパスの敷地へ入ることはできなかった。

2007年

2007年5月から6月にかけて奥の細道を訪ねる目的で来日し、東京仙台山形盛岡秋田などを訪問した。6月7日には、日本兵として戦死した兄が奉られている事を理由に靖国神社を参拝した。その際に登輝は同神社に対し「兄の霊を守ってくれることに感謝している」と述べている。また、登輝は作家深田祐介と以前対談した際、「日本の首相がどうであれ、私は靖国神社に行く義務がある。兄が祀られているのだから」と述べている。

なお日本政府は2005年3月以降、観光目的の台湾居住者の日本入国ビザの免除を行なっているため、今回の訪問ではビザ発給問題は発生しなかった。また訪日や靖国参拝などに対する中国側の反応も、日中関係に配慮してか今回は比較的抑制的であった。産経新聞の報道によれば、ハイリゲンダム・サミットで当初、中国側は登輝の訪日に激しく反発したものの、日本側が強い態度に出たところ矛を収め、何事もなかったかのように予定通り日中首脳会談が行われた。このことに対して朝日新聞は登輝の影響力低下ゆえという旨の記事を載せたが、登輝と敵対する国民党幹部のインタビューのみを具体的な根拠づけとしていたため批判を浴びた。

6月9日、成田空港から離日の際に台湾独立反対派の在日中国籍の男に中身が入ったペットボトルを2本投げつけられたが空港警察官に現行犯で取り押さえられ、本人及び夫人に怪我はなかった。

2008年

2008年9月22日沖縄で講演を行う目的で来日した。翌9月23日に「学問のすゝめと日本文化の特徴」について講演した。講演では、日本は物質的な面での豊かさばかり重視するのではなく、日本文化の伝統の精神的側面である高い道徳心を重視し、福沢諭吉が『学問のすゝめ』の中で説いた道徳観を再構築すべきだと主張した[23][24]。その中で「今の日本と台湾はともに指導者のいない状況だ」と発言し、暗に馬英九政権を批判した[25]

[編集] 略歴

  • 1923年大正12年)1月15日、当時の台北県三芝郷埔坪村に生まれた。父の李金龍は警察官。母は江錦。一つ上の兄は李登欽。 
  • 1929年 - 淡水公学校入学。
  • 1935年 - 淡水公学校尋常科卒業。
  • 1936年 - 淡水中学校入学。
  • 1940年 - 台北高等学校入学。
  • 1943年 - 京都帝国大学農学部農林経済学科に入学。のち、学徒出陣。終戦時の階級は陸軍少尉。
  • 1945年 - 2月15日、兄の李登欽がルソン島マニラ市のマニラ湾において戦死。享年24。大日本帝国軍人として靖國神社に祀られる。
  • 1946年 - 台湾に帰って台湾大学に編入し学業を継続した。
  • 1947年 - 二・二八事件が発生するが、難を逃れる。
  • 1949年 - 2月、曽文恵と結婚。8月、台湾大学で農業経済学士の学位を取得し卒業し、同大学助手に。
  • 1951年 - 中米基金奨学金を受けアメリカのアイオワ州立大学で農業経済学を研究する。      
  • 1953年 - アイオワ州立大学より農業経済学の修士号を取得。帰国後、台湾大学の講師に。
  • 1954年 - 台湾省農林庁技師および農業経済分析係長を兼務。
  • 1961年 - キリスト教に入信。
  • 1968年 - アメリカのコーネル大学より農業経済学の博士号を取得して帰国。
  • 1970年 - 国連よりタイバンコクでの講演依頼をうけるが、要注意人物のため出国できず。
  • 1971年 - 中国国民党入党。
  • 1972年 - 行政院政務委員に就任。
  • 1978年 - 台北市長に就任(当初行政院政務委員兼務)。
  • 1981年 - 台湾省政府主席に就任。
  • 1984年 - 副総統に就任。
  • 1988年 - 1月13日、蒋経国総統の死去により総統を継承。
  • 1995年 - 総統就任後初渡米し、母校コーネル大学で講演。
  • 1996年 - 中華民国史上初の総統直接選挙を実施し勝利。
  • 1999年 - 7月、一つの中国政策についてドイツの放送局によるインタビューに答え、「中国と台湾の関係は特殊な国と国との関係」であると定義し、中国共産党から強い反発を受ける。10月、『台湾の主張』で山本七平賞を受賞。
  • 2000年 - 3月、総統選挙で国民党の連戦候補が惨敗した責任を取り、同党主席を辞任。12月、拓殖大学から日本では初めてとなる名誉博士の称号を贈られた。
  • 2001年 - 4月、心臓病治療のため来日。岡山県倉敷市などを訪れた。7月、台湾団結連盟を立ち上げ、精神的指導者となる。9月、これが反党行為とみなされ、国民党を除名。
  • 2002年 - 10月、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」が同大学の学園祭「三田祭」での講演を依頼したため来日する意向が伝えられる。11月、日本政府が李登輝のビザの発給を拒否したため、訪日と講演が中止になる。
  • 2003年 - 12月12日中央大学の学生主催のインターネット講演会で日本人向けの講演を行った。
  • 2004年 - 12月27日、3年8ヶ月ぶりに訪日。
  • 2007年 - 5月30日、約2年半ぶりに来日。6月1日、第1回「後藤新平賞」受賞(後藤新平の会主催)。
  • 2008年 - 9月22日、1年4ヶ月ぶりに来日。
  • 2008年 - 11月23日中正紀念堂で行われた拓殖大学学友会主催のアジア・ヨーロッパ学友大会で講演を行った。

[編集] 主な著書

  • 信仰―わが心の内なるメッセージ』 早稲田出版、1989年
  • 『台湾がめざす未来―中華民国総統から世界へのメッセージ』 柏書房、1995年
  • 『これからのアジア』 光文社<カッパ・ブックス>、1996年(共著:加瀬英明
  • 『台湾の主張』 PHP研究所、1999年
  • 『台湾大地震救災日記』 PHP研究所、2000年
  • 『アジアの知略―日本は歴史と未来に自信を持て』 光文社<カッパ・ブックス>、2000年(共著:中嶋嶺雄
  • 『李登輝学校の教え』 小学館、2001年(共著:小林よしのり
  • 『「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは』 小学館、2003年
  • 『李登輝実録―台湾民主化への蒋経国との対話』 産経新聞出版、2006年
  • 『最高指導者の条件』 PHP研究所、2008年

[編集] 関連人物

  • 金美齢(作家。陳水扁政権で総統府無給国策顧問を務める)
  • 黄昭堂(台湾独立運動家。台湾独立建国連盟主席)
  • 司馬遼太郎(作家。『街道を行く 台湾紀行』で李登輝と対談)
  • 小林よしのり(漫画家。李登輝とインタビューなどを通じて交流)
  • 許文龍ABS樹脂生産世界一の奇美実業会長。李登輝の後援者)
  • 許國雄(陳水扁政権僑務委員会顧問。李登輝と同じく国民党内からの改革を推進)
  • 深田祐介(作家)
  • 柏祐賢(農学者。京都帝大時代の恩師)

[編集] 脚注

  1. ^ 司馬遼太郎 『街道をゆく(40)』 朝日新聞社<朝日文芸文庫>、1997年、82頁。
  2. ^ 李登輝 『台湾の主張』 PHP研究所、1999年、28頁。
  3. ^ 伊藤潔 『李登輝伝』 文藝春秋、1996年、42頁。
  4. ^ 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』 小学館、2000年、26頁。
  5. ^ 上原冬子 『虎口の総統―李登輝とその妻』 講談社、2001年、61頁。
  6. ^ "Lee admits to fling with communism", Taipei Times, November 8, 2002.
  7. ^ 伊藤潔 『李登輝伝』 文藝春秋、1996年、50頁。
  8. ^ 本田善彦 『台湾総統列伝 米中関係の裏面史』中公新書ラクレ p144.145
  9. ^ 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・台湾論』 小学館、2000年、29頁。
  10. ^ 伊藤潔 『李登輝伝』 文藝春秋、1996年、66頁。
  11. ^ 鄒景雯 『台湾よ―李登輝闘争実録』 産経新聞社、2002年、39頁。
  12. ^ 李登輝 『最高指導者の条件』 PHP研究所、2008年、40頁。
  13. ^李登輝・前台湾総統の信念は不変」 『台湾の声』、2007年2月8日。
  14. ^謝氏支持を表明―李登輝前総統」 『産経新聞』、2008年3月20日。
  15. ^「中台統一」加速はない―李登輝前総統」 『産経新聞』、2008年3月27日。
  16. ^ 李登輝 「カリスマは人民の幻想。指導者は対話こそ必要だ」 『週刊東洋経済』 2007年12月1日号、東洋経済新報社
  17. ^ 李登輝 『台湾の主張』 PHP研究所、1999年、23頁-24頁。
  18. ^ 李登輝・深田祐介 「2008年台湾総選挙と「海洋国家」日本の運命」 『諸君!』 2008年4月号 39頁、文藝春秋。
  19. ^ 本田善彦 『台湾総統列伝 米中関係の裏面史』中公新書ラクレ p164.165
  20. ^沖縄の海図(64)・メッセージ復帰30年 特別編 李登輝(上) 台湾 「尖閣諸島は日本領土」」 『沖縄タイムス』、2002年9月24日。
  21. ^「尖閣は日本領土だ」 台湾・李登輝元総統」 『産経新聞』、2008年9月24日。
  22. ^中国を気にして自粛促す―独立自尊の建学精神どこへ」 『産経新聞』、2002年12月16日。
  23. ^李登輝元総統が「学問のすゝめと日本文化の特徴」をテーマに講演」 『産経新聞』、2008年9月24日。
  24. ^道徳観再構築 李登輝氏訴え 沖縄・宜野湾で講演」 『西日本新聞』、2008年9月24日付朝刊。
  25. ^李登輝氏:「今の日本、台湾は指導者なき状態」」 『毎日新聞』、2008年9月24日。

[編集] 外部リンク

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