靖国神社問題
靖国神社問題(やすくにじんじゃもんだい)は、靖国神社(本来の表記は靖國神社)をめぐってしばしば議論の対象となる各種の問題を指す。日本のマスメディアでは「靖国問題」と略称することが多い。
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概要 [編集]
靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。
「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。終戦の日である8月15日の参拝は太平洋戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。
日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった。 他方、戦争被害を受けたと主張する中国、韓国、北朝鮮の3カ国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に反発している。 もっとも、1978年にA級戦犯の合祀がされた後も、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が首相就任中に参拝をしているが、1985年における中曽根康弘の参拝までは、なんらの抗議も懸念も表明されたようなことはなかった。 1985年の参拝に対しては、それに先立つ同年8月7日付で、日本国内の一部新聞記事により『靖国問題』として特集が組まれると、その一週間後の8月14日、中国政府が、史上初めて、公式に靖国神社の参拝への懸念を表明するに至った。
中国、韓国、北朝鮮以外には、靖国参拝に公式に反発する国は一切ない。個人としては華僑出身のいわゆる中国系のシンガポール首相、リー・シェンロンが不快感を表明したことがある[1]。アメリカの在郷軍人会のなかにも批判があるといわれている。また、当時日本領であった台湾(中華民国)からも徴兵による戦死者が多数出ており、一部で批判がある。※靖国問題と批判内容の関連が不明。
一方で、戦没者を慰霊追悼・顕彰するため、外国の元首が多数訪れている(#外国要人参拝)。 なお亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとの誤解が現在だけでなく戦前からも続いているが、神社側としては「日本の独立を誓う場所」との認識が正しいとのことである。[2]
※此処で云う「神社側」とは、戦後に発足して国から土地と施設設備の払い下げ要請してもらって宗教法人として設立された「宗教法人靖国神社のこと。掲げる教義や祭祀基準や靖国神社そのものに対する認識は、戦前の認識や通念上の認識とは関係なく、斎主である天皇の意図や位置付けや戦前に軍部と政府が取り決めた祭祀基準を継承しているものではない。
論点 [編集]
具体的な論点としては以下の三つに大きくまとめることができるだろう。もとより、一つの問題が複数の面を持つ場合もある。
- 政教分離に関する問題
- 歴史認識・植民地支配に関する問題
- 靖国神社は、戦死者を英霊としてあがめ、戦争自体を肯定的にとらえているのだから、そのような神社に、特に公的な立場にある人物が参拝することはつまり、同社の歴史観を公的に追認することになる、とする問題。現在のところ、明確な結論は出ていない。
- 対国内的な問題としては、戦争責任をどのように認識し、敗戦以前の日本の軍事的な行動に対していかなる歴史認識を持つことが適切であるか、というトピックスを中心に展開され、特に極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀が適切か否かの議論が注目を集めることが多い。
- 対外的には、旧日本軍が交戦した、もしくは戦場とした国家、あるいは台湾・朝鮮半島のように敗戦までの期間、植民地として支配されていた諸国・諸民族に不快感を与え、時に外交的な摩擦も生むこともある靖国神社への参拝が、はたして適切かどうか、というトピックスを中心に展開される。また、植民地から徴兵され戦死した人達を、遺族の同意を得ずに合祀することに対する異議も、この分野に含まれると言ってよい。
- 戦死者・戦没者慰霊の問題
※憲法20条を元に云う「政教分離」の定義自体と20条を「政教分離」と要約すること自体に議論があり、結論をみていない。
政教分離 [編集]
靖国神社は大日本帝国時代の陸軍省・海軍省が共管し、戦争遂行の精神的支柱の一つであった国家神道の最重要の拠点であったため、終戦後直ちに廃絶の議論が起きた。このことについては日本を打ち破り占領した連合国においてもかねてから施設自体の棄却も視野に入れて来たが、GHQは安定的に占領を続けるために必要との判断から1945年(昭和20年)10月に存続を決定。同年12月15日に神道指令を発して国家神道を廃止すると共に靖国神社の国家護持を禁じ、神社と国家の間の政教分離を図った。また、翌1946年(昭和21年)に制定された宗教法人法に基づき、靖国神社は同年9月に宗教法人となったことで自ら国家護持体制からの離脱を明確にした。
1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法では第20条において下記のように信教の自由を保障し、政教分離原則を掲げている。
- 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
- 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
- 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
1951年(昭和26年)のサンフランシスコ平和条約締結・翌1952年(昭和27年)の発効によって連合国の占領が終わって日本は独立し、連合国占領期間中は実質的に封印された状態となっていた靖国神社に関する議論は憲法の合憲・違憲を巡る問題へと移行し、主に第1項および第3項に基づいた問題点が賛否両面から指摘されていくこととなる。なお、占領下の1949年(昭和24年)に出された国公立小中学校の靖国神社訪問などを禁じた文部事務次官通達について、2008年(平成20年)3月27日の参議院文教科学委員会で渡海紀三朗文部科学相は同通達が「既に失効している」と明言し[3]、今後第2項を巡る問題が発生する可能性がでてきている。
靖国神社を国家護持による慰霊施設としようとする靖国神社法案が1969年(昭和44年)に議員立法案として自由民主党から提出されたことで神社の政教分離に関する議論が再燃した。これ以降、毎年の法案提出と廃案を繰り返した後、1973年(昭和48年)に提出された法案が審議凍結などを経て1974年(昭和49年)に衆議院で可決されたものの参議院で審議未了の廃案となり、これを最後とする自由民主党による法案上程が止むまで靖国神社法案が靖国神社問題における政教分離の課題で最大のものとなった。
詳細は「靖国神社法案」を参照
この後、政府・地方自治体による靖国神社への公費支出を伴う玉串奉納と、首相をはじめとする政府閣僚や地方自治体首長らの参拝が日本国憲法による政教分離原則に抵触するか否かへと議論の焦点が移っていく。
靖国神社に反対する立場の人物は、靖国神社への参拝は政教分離に反するという見解を示すのが一般的である。総理大臣が他の宗教法人、明治神宮や伊勢神宮に参拝しても、問題がないとは言えないが靖国神社への参拝は「A級戦犯合祀」の問題も絡んでいる。
信教の自由 [編集]
日本では、信教の自由は、「何人に対しても」これを保障するとされているため、政治家であっても宗教および思想について制限を加えることができないとする考え方が一般的である。しかし一部の人々は、政治家は国の機関であり、参拝は同条3項の国の機関による宗教的活動に該当すると主張、政治家が靖国神社に参拝することは憲法違反であるという説を採る。また、政治家が参拝することが、間接的な靖国神社への特権となるという説を採る人々も存在する。
宗教性 [編集]
日本では、宗教性の有無に関して「参拝は宗教的行為ではなく、習俗的行為であるから政教分離原則には抵触しない」とする主張と、「参拝は宗教的行為であるから問題である」とする主張が対立している。首相の公式参拝について、神道形式に則った参拝が「憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」という認識は1980年(昭和55年)の政府見解でも確認されたが、後の1985年(昭和60年)中曽根康弘内閣当時に発足した「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」は「宗教色を薄めた独自の参拝形式をとる事により公式参拝は可能」と判断、その方法であれば「首相の参拝は宗教的意義を持たないと解釈できる」とし、「憲法が禁止する宗教的活動に該当しない」との政府見解が出された[1] [4]。首相の参拝行為の宗教性について幾つかの裁判で争われているが、各裁判の判決は参拝の際に玉串料などを公費で支出したことについてのみに合憲・違憲の判断をしており、参拝自体が違憲であるとする判決は無い。
公人における公私の区別 [編集]
公人においても公私を区別するべきだという論点がある。これは第66代総理であった三木武夫が1975年(昭和50年)8月15日、総理としては初めて終戦記念日に参拝した際に、私的参拝4条件(公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)による「私人」としての参拝を行った以降、特に論じられるようになったものである。靖国神社に対して玉串料などを公費で支出した参拝は、第72代総理であった中曽根康弘による1985年(昭和60年)の参拝が訴訟の対象となり(後述)、1992年(平成4年)の2つの高等裁判所判決で憲法の定める政教分離原則に反する公式参拝と認定され、これらが判例として確定、明確に違憲とされており、これ以降の議論は「私人」としての参拝が許容されるものであるかどうかを巡っての解釈の問題となっている。
「国政上の要職にある者であっても私人・一個人として参拝するなら政教分離原則には抵触せず問題がない」という意見がある。これは、公人であっても人権的な観点から私人の側面を強調視するもので、「首相個人の信仰や信念も尊重されるべきであり、参拝は私人とし行われているものであるならば問題がない」という立場をとっている。「アメリカのように政教分離をうたっていながら、大統領や知事就任式のときに聖書に手をのせ神に誓いをたてることは問題になったことは一度もない」ということも論拠の一つに挙げられている。
一方、「公用車を用い、側近・護衛官を従え、閣僚が連れ立って参拝し、職業欄に『内閣総理大臣』などと記帳するという行為は公人としてのそれであり、政教分離原則に抵触する」という意見がある。こちらは、実効的な観点を重く取り上げ、「首相が在職中に行う行為は私的であっても、多少の差はあれ、全て政治的実効性を持つため、私的参拝であっても靖国神社に実質的に利益を与えるものだ」として問題があるとしている。
第87 - 89代総理・小泉純一郎は、2001年(平成13年)8月13日の首相就任後最初の参拝をした後、公私の別についての質問に対し「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心を込めて参拝した」と述べた。これ以降、特にこの論点が大きくクローズアップされている。
利益均衡 [編集]
靖国神社問題の裁判における判決などに見られる、明確な判断を下しやすい利益均衡の考えから靖国神社問題を判断しようという考えもある。利益均衡の考えとは、参拝行為が誰にどれだけ利益や不利益を齎し、それが政教分離の観点から許容できるか否かを、程度を判断した上で計量的に示そうとするものである。
参拝によって政府が、特定の宗教を差別的に優遇しているか否について、もし優遇しているとすれば、それは他宗教の信者や、その宗教を信じていない者を差別していることになり、その判断としては、参拝によってその宗教が利益を得るか、という基準が挙げられる。
例えば、首相や大臣が参拝する事によって、その宗教の好ましい社会的認知が広がり、布教に有利という見方ができる。この見方によれば、首相や大臣の参拝行為は靖国神社や伊勢神宮という個別の宗教法人にとって信者獲得の利益に繋がり、もし参拝が無かったら他の宗教団体へ入信したかもしれない人々を誘導した可能性を上げ、これは差別的優遇に該当すると解釈できるとする一部の意見もある。実際に、小泉純一郎首相による靖国神社への参拝が始まって以降、参拝客が急増している。この現象については、靖国神社問題に関するマスメディアの報道が大きく影響しているとの意見もある[5]。
更に宗教的問題から離れて純粋に利益均衡で見ると、小泉純一郎首相による靖国神社への参拝によって、過去に日本の侵略を受けた中国・韓国との関係が悪化しており、経済や対北朝鮮政策(特に拉致問題)において少なからず損失を招いているという問題もある。とりわけ、中国がA級戦犯合祀を問題としていることが、利益均衡論議の焦点となっている。
首相公式参拝・玉串料公費支出の訴訟 [編集]
この問題を取り上げた主要な訴訟をあげる。参考に玉串料公費支出についても解説する。
玉串料訴訟では1997年(平成9年)、愛媛県靖国神社玉串訴訟における最高裁判所の判決にて違憲が確定した。
中曽根康弘の首相公式参拝には下級審で違憲判決がなされた。一方、小泉純一郎の首相参拝では一部の下級審判決において違憲判断がされたが、判決の結論を導くのに必要がない傍論であるため、政府は上告しなかった(傍論#下級裁判所における「ねじれ判決」を参照のこと)。原告側が上告した裁判では、最高裁が憲法判断を避けたため、合憲判断がされることはなかった。
岩手県の首相公式参拝要請陳情、玉串料訴訟 [編集]
詳細は「岩手県靖国神社訴訟」を参照
1979年(昭和54年)12月19日、岩手県議会が国に靖国神社公式参拝を実現するよう意見書を採択し、政府に陳情書を届けたことと、1962年(昭和37年)から靖国神社の要請で玉串料や献灯料を支出していたことは、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが求めた訴訟である。
1987年(昭和62年)3月5日、盛岡地方裁判所は合憲判決を示し、住民らの訴えを全面的に退けた[6]。1991年(平成3年)1月10日、仙台高裁(糟谷忠男裁判長)は、判決主文にて住民側の控訴に対して被告の岩手県への公費返還請求を棄却したが、公式参拝・玉ぐし料公費支出は違憲であるという傍論を示した[7]。傍論とはいえ政教分離原則により違憲であるとされたのはこの判決が初めてである。
この判決を素直にみれば被告の勝訴であり、訴訟というものはそもそも紛争解決を第一義とするものであるから、勝訴判決にいかなる傍論が付されたとしても、勝訴してしまった被告にはそれを超える解決を求める利益、つまり上訴の利益がない。だから、勝訴判決の傍論に不適切な理由を述べられてしまうと是正を求めることができない。この点については、傍論#下級裁判所における「ねじれ判決」も参照のこと。
勝訴したが違憲とされた県は、違憲とする傍論が示されたのは不利益で、最高裁で判断を仰ぐ必要があるとして上告した。仙台高裁は不適法として却下した。県は高裁の決定を不服として特別抗告したが、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として棄却した。
愛媛県の玉串料訴訟 [編集]
詳細は「愛媛県靖国神社玉串訴訟」を参照
愛媛県靖国神社玉串訴訟(えひめけんやすくにじんじゃたまぐしそしょう)とは愛媛県知事が靖国神社に対し玉串料を「戦没者の遺族の援護行政ために」毎年支出した事に対し、政教分離原則に反するとして、その費用を返還するよう住民らが求めた訴訟である。
1審の松山地方裁判所は違憲判決、2審の高松高等裁判所は「公金支出は社会的儀礼の範囲に収まる小額であり、遺族援護行政の一環であり宗教的活動に当たらない」として合憲判決を示した。最高裁は政教分離原則の一つとなった目的効果基準により違憲判決を出した。
中曽根首相公式参拝訴訟 [編集]
中曽根康弘首相(当時)が1985年(昭和60年)8月15日に公式参拝したことに対する訴訟である。中曽根は首相在任中に10回にわたり参拝しているが、1985年(昭和60年)8月14日に、正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しないとこれまでの政府統一見解を変更した[4]。これを受けて、1985年(昭和60年)の参拝で閣僚とともに玉串料を公費から支出する首相公式参拝を行った[8]。
下級裁判所では違憲判決ないし違憲の疑いありとする判断が相次いだ。1992年(平成4年)2月28日、福岡高等裁判所は、九州靖国神社公式参拝違憲訴訟で、目的効果基準により、公式参拝の継続が靖国神社への援助、助長、促進となり違憲と判示した[9]。1992年(平成4年)7月30日には、大阪高等裁判所が、関西靖国公式参拝訴訟で、公式参拝は一般人に与える効果、影響、社会通念から考えると宗教的活動に該当し、違憲の疑いありと判示した[10]。
中曽根は1985年(昭和60年)8月15日以後は参拝をしていないが、これは訴訟を理由とするものではなく、翌1986年(昭和61年)の終戦記念日前日の8月14日の官房長官談話によれば、公式参拝が日本による戦争の惨禍を蒙った近隣諸国民の日本に対する不信を招くためとしている[11]。中曽根は後に、自身の靖国参拝により中国共産党内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという示唆があり、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」、「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」と述べている[12][13]。
小泉首相参拝訴訟 [編集]
小泉純一郎首相(当時)が靖国神社に参拝したことに対する訴訟。
- 2004年(平成16年)4月7日
- 福岡地方裁判所は、判決理由の中で参拝を傍論とした。主文に於いては原告の損害賠償請求を棄却した。一方、裁判長の亀川清長は小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)について、傍論で政教分離に違反し違憲と述べた[14]。総理大臣の公式参拝を傍論で違憲とする判断は1991年(平成3年)の仙台高裁判決に次いで二例目で、現職の総理大臣による参拝に限れば初の判断となる。もっとも、下級裁判所が傍論で違憲を論じる問題点については傍論#下級裁判所における「ねじれ判決」を参照のこと。
- 2004年(平成16年)10月21日、前述の福岡地裁判決において、主文に於いて原告の損害賠償請求を棄却した一方、判決理由の中で「参拝は違憲である」としたことに対し、国民運動団体「英霊にこたえる会」(会長:堀江正夫元参院議員)が国会の裁判官訴追委員会に裁判を担当した亀川清長裁判長ら3裁判官の罷免を求める訴追請求状6036通を提出した。請求状によれば、訴追理由について、「判決は(形式上勝訴で控訴が封じられ)被告の憲法第32条『裁判を受ける権利』を奪うもので憲法違反」、「政治的目的で判決を書くことは越権行為。司法の中立性、独立を危うくした」としている(弾劾裁判も参照)。
- 2004年(平成16年)11月25日
- 千葉地方裁判所(裁判長:安藤裕子)は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)について、参拝は公務と認定した上で、原告の慰謝料請求を棄却した。その理由として、安藤裁判長は、公用車を使用したり、内閣総理大臣の肩書きを用いたりしているため、参拝は客観的に見て職務であると認定し、その上で公務員個人には国家賠償法における責任はないとした。また、「信教の自由や、静かな宗教的な環境で信仰生活を送るという宗教的人格権を侵害された」として慰謝料の支払いを求めた原告側に対し、判決は「信仰の具体的な強制、干渉や不利益な扱いを受けた事実はなく、信教の自由の侵害はない。宗教的人格権は法的に具体的に保護されたものではない」として退けた。このため、憲法判断はされていない。
- 2005年(平成17年)9月29日
- 「靖国訴訟」東京高等裁判所(浜野惺(しずか)裁判長)は1審の千葉地裁判決を支持、原告側控訴を棄却。
- 小泉首相は、2001年(平成13年)8月13日、秘書官同行の上公用車で同神社を訪れ「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳、献花代3万円を納め参拝した。これに対し、千葉県内の戦没者遺族や宗教家ら39人からなる原告は、この参拝は総理大臣の職務行為として行なわれており、政教分離を定めた憲法に違反すると主張。小泉首相と国に1人当たり10万円の損害賠償を求めていた。
- 判決要旨:1審判決は、首相の参拝を「職務行為」と認定したが、今回の2審判決では、参拝は小泉首相の「個人的な行為」と認定した。また、参拝は職務行為ではないため、原告側主張は前提を欠くとした。このため、憲法判断はされていない。
-
- 神社本殿での拝礼は、個人的信条に基づく宗教上の行為、私的行為として首相個人が憲法20条1項で保障される信教の自由の範囲。故に礼拝行為が内閣総理大臣の職務行為とは言えない。
- 献花代は私費負担。献花一対を本殿に供えた行為は、私的宗教行為ないし個人の儀礼上の行為。いずれも個人の行為の域を出ず、首相の職務行為とは認められない。
- 「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した行為は、個人の肩書を付したに過ぎない。
- 神社参拝の往復に公用車を用い、秘書官とSPを同行させた点。総理大臣の地位にある者が、公務完了前に私的行為を行う場合に必要な措置。これをもって一連の参拝行為を職務行為と評価することは困難。
- 控訴棄却後の首相談話: 「私は総理大臣の職務として参拝しているものではないと申しているわけですから。どういう判決かまだ見てないですけど」
- ※ 2005年9月29日付け 『東奥日報』掲載「靖国訴訟判決要旨」(共同通信配信)に加筆修正。
- 2005年(平成17年)9月30日
- (1)参拝は、首相就任前の公約の実行で、(2)参拝を私的なものと明言せず、公的立場での参拝を否定もせず、(3)発言などから参拝の動機、目的は政治的なもの――と指摘したうえで「総理大臣の職務としてなされたもの」と認定した。「国が靖国神社を特別に支援し、他の宗教団体と異なるとの印象を与え、特定の宗教に対する助長、促進になると認められる」とした。高裁で初めて違憲とする傍論がなされた。しかし、判決は賠償の請求を退け国側の勝訴となった。
- 小泉総理は、この判決について同日の衆議院予算会議で「私の靖国参拝が憲法違反だとは思っていない。首相の職務として参拝しているのではない。それがどうして憲法違反なのか、理解に苦しむ」とし、「(今後の参拝に与える影響は、)ま、ないですね、(判決自体は)勝訴でしょ」と述べた。
大阪高裁による合祀協力違憲判決 [編集]
2010年(平成22年)12月21日、合祀された戦没者の遺族が合祀取消と損害賠償を、靖国神社及び国に求めていた訴訟の控訴審で、大阪高裁は原告の控訴を棄却しつつ、合祀に国が協力した行為を政教分離原則違反で違憲であるとの判決を出した[15]。この訴訟は戦没者らの遺族8名が起こしていたもので、判決では合祀への国の関与が検討され、合祀予定者の決定・通報、及び調査経費の国庫負担などから、「合祀の円滑な実行に大きな役割を果たした」とされた[16]。
天皇の親拝 [編集]
昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度(1945年・1952年・1954年・1957年・1959年・1965年・1969年・1975年)靖国神社に親拝したが、1975年(昭和50年)11月21日を最後に、親拝を行っていない。 この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたから等の意見があったものの具体的な物証は見つかっていなかったが、宮内庁長官であった富田朝彦による「富田メモ」及び侍従の卜部亮吾による「卜部亮吾侍従日記」に、これに符合する記述が発見されたとする意見がある。
平成の現在も今上天皇による親拝中止は続いている。なお、例大祭の勅使参向と内廷以外の皇族の参拝は行われている。
推測される原因1:A級戦犯合祀 [編集]
詳細は「A級戦犯合祀問題」を参照
1988年(昭和63年)当時の宮内庁長官であった富田朝彦が昭和天皇の発言・会話を手帳にメモしていた[17]。昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことが明確に記されている。そのメモの記述の該当部分を以下に示す。
私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ
日本経済新聞社が設置した、社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は、富田メモを調査の上、「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。
推測される原因2:三木首相の「私人」発言 [編集]
戦後、歴代総理大臣は在任中公人として例年参拝していたが、1975年(昭和50年)8月、三木武夫首相(当時)は「首相としては初の終戦記念日の参拝の後、総理としてではなく、個人として参拝した」と発言。同年を最後に、それまで隔年で行なわれていた天皇の親拝が行なわれなくなったのは、この三木の発言が原因であると言われていた。
桜井よしこら保守論客の多くが主張しているものであるが、一方では、昭和天皇最後の親拝が三木首相参拝の3ヵ月後の同年11月であり、三木発言の後に昭和天皇が親拝したことと矛盾するため、当時から原因とはならないと指摘され、富田メモの発見により等閑視する議論もある。
しかし、国会で問題視されたのは昭和天皇が1975年(昭和50年)11月21日に靖国神社の親拝をされた後であり、そこで既に言質を取られていた三木発言を引用して天皇親拝が私的か公式か議論紛糾したのが実際のところなので、「三木発言の後に昭和天皇が親拝したことと矛盾」はしない。
御親拝は不定期に数年毎行われていたもの。また勅使社の祭祀継続性と関わりはないとする意見がある。
合祀の問題 [編集]
「#霊璽簿」も参照
日本人遺族の合祀への異議 [編集]
日本人遺族の中で合祀に賛同していない者もおり、靖国神社に対して霊璽簿から氏名を削除し合祀を取り消すよう求めている。しかし、靖国神社は、いったん合祀した霊魂は一体不可分となるので特定の霊のみを廃祀することは不可能であり、分祀(分遷)しても元々の社殿から消えはしないので無意味であると主張し、これに応じていない(A級戦犯に関しても同様)。
※1 思想信条の自由と遺族の祭祀権に対する理解度の低さからこの手の問題が生じている。 神社仏閣その他がそれぞれの思想信条に基づいて故人を如何様に顕彰追悼使用が崇敬祭祀使用が何ら遺族の祭祀権を妨げるものではなく、これらにその祭祀儀礼や祭祀行為を取り止めたり差し止めたり取り消しを要求することは、他者の思想信条を妨げる行為であり違憲である。 また、遺族が財産権として継承できる故人の祭祀権は、故人の葬儀葬祭に関するものに対してであって、これを侵さない限り遺族が告訴したり損害賠償を求める権利はない。 ※2 「宗教法人靖国神社」が云うところの「いったん合祀した霊魂は一体不可分となるので特定の霊のみを廃祀することは不可能であり、分祀(分遷)しても元々の社殿から消えはしない。」は、神社神道の実態とはかけ離れた主張であり、「宗教法人靖国神社」が執り行ってきた祭祀事態とも整合性はない。 「合祀」とは、御霊を合同で祀るという意味でしかなく、御霊を混ぜることではない。 合祀したからといって御霊が合体したり混ざったりするという概念は、神社祭祀には存在しない。 靖国神社も例外ではなく、祭神を3,588柱それぞれに神名を授けて祀っていて、混ぜたり合体させているわけではない。
A級戦犯合祀問題 [編集]
詳細は「A級戦犯合祀問題」を参照
第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)において処刑された人々(特にA級戦犯)が、1978年(昭和53年)10月17日に国家の犠牲者『昭和殉難者』として合祀されている。「国策を誤り、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人びとに対して多大の損害と苦痛を与えた」とした1995年(平成7年)8月15日の村山談話に基づいた政府見解に反するとして問題視する意見がある。(なお、各地の軍事法廷でBC級戦犯とされた者の内の刑死者も1959年に二度にわたり合祀されたが、このことについては問題視されていない。)
旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀 [編集]
第二次大戦期に日本兵として戦った朝鮮や台湾出身の元軍人軍属も多数祀られているが、中には生存者が含まれていたり、遺族の一部からは反発も出ている。
例えば、2001年(平成13年)6月29日、韓国や台湾の元軍人軍属の一部遺族計252名が、日本に対し戦争で受けた被害として24億円余の賠償金を求めた裁判(原告敗訴)があり、原告の内55人は「戦死した親族の靖国神社への合祀(ごうし)は自らの意思に反し、人格権の侵害である」として、合祀の取り消しを求めた。2003年2月17日には、小泉靖国参拝・高砂義勇隊合祀反対訴訟の原告団長として高金素梅・台湾立法委員が代表となり訴訟を起こした[18]。(なお、合祀に対する台湾人内部の見解の相違については、台湾国内の微妙な政治的問題も相俟っているとの指摘もなされている。)
「親族の意に反した合祀は日本によるアジア侵略の象徴である」との批判がある一方、「英霊として日本人と分け隔てなく祀ることは日本だけでなく台湾や朝鮮の元軍人軍属への最大級の敬意の現れであり、日本の台湾や韓国における統治政策が欧州各国による東南アジア植民地政策とは一線を画していたことを示すものだ」とする意見もある。また、合祀しなかった場合、日本人は台湾・韓国人元軍人軍属を平等に扱わなかったと別の面で批判されるとの指摘もある。
解決への模索 [編集]
「日本の立場を説明し、近隣三国の理解を求める事が望ましい」という従来からの意見と、長年理解を得られずに参拝するなという要求が繰り返される事から、「そもそも内政干渉であるから日本はその立場を貫くべき」という意見があり、(後者の立場からは妥協策として)以下のように様々な解決策が模索されている。
A級戦犯の分祀 [編集]
分祀賛成派の意見 [編集]
- A級戦犯合祀問題は、1978年(昭和53年)のA級戦犯の合祀により発生したため、この合祀を取消せば現状復旧できる。取消しの方法としては、A級戦犯のみを個別に、分祀または廃祀するという案が挙げられる。靖国神社側は「神道では分祀では分離できない、神はひとつになっており選別もできない」と主張しているが、そもそも神道には明確な教義は存在せず、歴史的には江戸幕府による豊国大明神廃祀や、明治時代の大量の廃祀も行われている[19]。また、分祀とは「祀る対象から外す」ことであり、可能だという意見もある[20]。あるいは、神は見えないため「合祀した、しない」を目で確認する事はできないが、合祀の際の名簿(霊璽簿など)は存在しており、そこからA級戦犯のみを個別に削除(抹消)する事もできる。このように複数の案はあるが、分祀または廃祀は可能である。
分祀反対派の意見 [編集]
- 神道における分祀(分霊)とは、全国に同じ名前を冠する神社があちらこちらにあるように、ある神社から勧請されて同じ神霊をお分けする事であり、元の祭神と同一のものがまた別に出来上がること(いわゆるコピー)なので、「分離」にはならない。また、一旦合祀した個々の神霊を遷すことはありえない。仮に全遺族が分祀に賛成しても、靖国神社は分祀しない[21]。そもそも、いわゆるA級戦犯は国内法上の犯罪者ではなく、合祀は国会の決議と政府の対応により行われたものであり、極東国際軍事裁判は不公正な裁判であったので、政府は内外の干渉を排して参拝を続けるべきである。また仮にA級戦犯を外す事ができても、政治問題化が解消しないならば、意味が無い[22]。戦後の靖国神社は一宗教法人であり、国家や政治が介入して分祀を迫るのは、政教分離の原則に反し宗教弾圧である。
※「分祀」とは、「合祀」されていた祭祀を分けて祭祀をする変更を云い、「分遷」とは複数同じ依り代(神座)で祀っていた御霊を分けて遷座することである。従って、「分遷」の場合は遷座した御霊は元の依り代を依り代とはしなくなることを指すので分遷元に御霊は残らない。 「分祀」の場合は、祭祀を分けて行うだけである。勧請などでの「分祀」の場合は、御霊は勧請元と勧請先のどちらの依り代にも依ることになるから勧請元での祭祀は継続される。一方で、同一人じゃないで分祀する場合は祭祀を合祀していた祭祀を別にするということなので、必然として祀る依り代(神座)を別にすることとなり、分遷となるので元の祭祀にも依り代にも御霊は残らない。 靖国神社自体でも分祀分遷を過去に行ってきている。最終的に戦没者の招魂を行った際に、身元が分からないままの推定戦没者に関してはその御霊を一括招魂して相殿に合祀し、氏名及び身元が判明した都度祭神名表を作成して霊璽簿に記載し、春秋の大祭で相殿から本殿へ分祀分遷して合祀することを繰り返して今日がある。
国立追悼施設の設置 [編集]
設置賛成派の意見 [編集]
政教分離に関わる憲法問題やA級戦犯合祀問題をともに回避するため、靖国神社でなく、アメリカのアーリントン国立墓地のような、「特定の宗教に拠らない、首相をふくめ何人でもわだかまりなく追悼できる」とする無宗派の国立の追悼施設の設立が公明党などから提案されている。現在の千鳥ケ淵戦没者墓苑は無名戦没者を追悼する施設であり、全ての戦没者を追悼する施設ではないので新たに建設すべき(あるいは千鳥ケ淵戦没者墓苑を拡充すべき)である。
アーリントン国立墓地の敷地内の複数の教会はすべてキリスト教だが、国家によって選ばれた人物について、埋葬や慰霊・追悼の際には、キリスト教形式に限らずどの宗教形式でも、あるいは無宗教の形式でも、本人や遺族が自由に選択できる。なお靖国神社の場合は、選ばれた場合にはどの宗教の信者でも合祀される事はできるが、合祀の形式や、本殿での参拝は神道形式に限られる(神道以外の形式の場合は、手前の拝殿で参拝できる)。
全国戦没者追悼式と同様の形式の常設施設ならば、政教分離にも抵触せず、靖国神社と異なり民間人被災者も対象とでき、靖国神社の「顕彰」のように戦死者を美化する面も無く、天皇・首相・外国元首などの参拝も可能である。靖国神社は残るので、どちらに参拝する、あるいは両方に参拝する、しないも自由である。
設置反対派の意見 [編集]
『慰霊』や『追悼』といった行為が、すでに宗教的な観念であり、無宗教の『慰霊』や『追悼』は不可能であり、また国がそのような施設を建設することは違憲である。そのような施設としてはすでに千鳥ケ淵戦没者墓苑があり、今さら新たに建設する必要はない。また、そもそも靖国神社とは、全ての戦没者を追悼する為の施設ではなく、アーリントン国立墓地のように国の為に戦い、または殉じた者に敬意を表する為の施設である。諸外国の首脳は戦士の墓苑等に儀礼上、参拝する義務があるが、単なる戦争犠牲者の追悼施設への参拝義務は生じない。
日本の神道とは、過去に仏教との神仏習合があったように、宗派の対立を生じさせないものであり、経典を定めて縛りを掛けているわけでもない[23]。よってあらゆる宗教、宗派の参拝を是とする為、最善の方法として選ばれた施設である。また日本古来からの伝統宗教が外来宗教よりも重視されるのは諸外国においても当然とされ、特に問題ないといえる。また靖国神社は戦前、戦中は陸海軍省から、戦後は厚生省から戦死者名簿を預かり、祭神に祀っているので一方的な選定とは言えない。
国の追悼施設としては既に靖国神社があるため、新しい国立追悼施設を造るのは、遺族や国民の心情にも合わず、税金の無駄である。
霊璽簿 [編集]
霊璽簿の性格 [編集]
靖国神社では、戦没者としていったん合祀されたものの後になって生存していることが明らかになった場合、祭神簿に「生存確認」との注釈を付けるにとどめ、霊璽簿は削除・訂正しない。この処置は、横井庄一や小野田寛郎、そして韓国など海外の生存者についても同様である[24]。また、この記事によれば、「死亡していない以上、もともと合祀されておらず、魂もここには来ていない」と靖国神社は説明している。言い換えれば、とりあえず死ぬのを待ってそれから改めてお祀りする、ということでもある。そういう状態を、A級戦犯の分祀の項目で例示した「廃祀」と見なすことができるかどうか。
霊璽簿を一切変更せずただ名前を追加するのみという靖国神社の態度は、生存者だけでなく内外の遺族の削除要求に対しても一貫している。
霊璽簿に今後追加される可能性 [編集]
「朝鮮戦争#日本特別掃海隊」を参照
2006年(平成18年)9月2日付けの各紙報道によれば、朝鮮戦争中の1950年(昭和25年)10月に米軍の要請で北朝鮮元山市沖で掃海作業中、乗船していた掃海艇が機雷に触れ爆発、殉職した海上保安庁職員(当時21)の男性遺族(79)が、靖国神社合祀を申請していたが、神社側が合祀要請を拒否していたことが明らかになった。神社側は、8月25日付回答書で「時代ごとの基準によって国が『戦没者』と認め、名前が判明した方をお祀りしてきた」、「協議の結果、朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外」とした。海上保安庁は、日本国憲法が発効していたことから、遺族に口外を禁じ、事故記録も廃棄されたという。男性遺族は「戦後の『戦死者』第1号であり、神社には再考を求めたい」と話している[25]。なお、この職員には、戦没者叙勲はされたものの、恩給は支給されていない。
特攻作戦に関与した海軍中枢部の将官のうち、終戦直後の8月15日に「オレも後から必ず行く(死ぬこと)」と言ってそれを実行した宇垣纏は、靖国神社に祀られていない。終戦直後に部下と共に特攻した(特別攻撃隊#宇垣纏)行為が、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法31条に抵触するものであり、また、無駄に部下を道連れにしたことが非難されてもおり、部下も含め戦死者(あるいは受難者)とは認められていない。しかし、特攻作戦の命令を下した人物として自決により責任を取った、と評価する有識者の中からは、靖国神社に合祀すべきとの意見が出ている。そのため郷里である岡山県護国神社の境内には、彼と部下十七勇士の「菊水慰霊碑」が建立されている。
その他の問題点 [編集]
神道における教義上の問題 [編集]
戦後、折口信夫は、神道における人物神は、特に政治的な問題について、志を遂げることなく恨みを抱きながら亡くなった死者を慰めるために祀ったものであり(所謂御霊信仰を指す)、「護国の英雄」のように死後賞賛の対象となるような人物神を祭祀することは神道教学上問題がある、と述べている。ただし、実際には近代以前でも豊国大明神(豊臣秀吉)や東照大権現(徳川家康)のような例があるほか、明治以降には鍋島直正の佐嘉神社や山内一豊の山内神社など、恨みを抱いて亡くなったわけでもない古代以来幕末までの忠臣名将を祀る神社が各地に創建されている。
※折口信夫節では、全国各地にある多くの八幡社や神明社で継承される神社祭祀と縁記と矛盾する。 多くの場合は、創建の由来が地元を救ったり貢献した故人の崇敬の念がその威光に肖りたいという信仰となり祀られている。 故に、古代から存続する神社の中にはその地で英雄と崇められたり厚く感謝された故人の墳墓が社地となっていることも多い。 御霊信仰は、必ずしも無念の内に亡くなった御霊の祟りを恐れて鎮めるために祭祀するわけではない。 何れの場合も、その祭祀の神髄は生前の生き様や死に様に甚く感銘や畏怖を覚えた人たちがその霊威に肖りたくて崇敬祭祀して信仰するという点で、共通している。
祭神となる基準はどこにあるか [編集]
「靖国神社#祭神の内訳」も参照
戊辰戦争・明治維新の戦死者では新政府軍側のみが祭られ、賊軍とされた旧幕府軍(彰義隊や新撰組を含む)や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外。西南戦争においても政府軍側のみが祭られ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外(西郷軍戦死者・刑死者は鹿児島市の南洲神社に祀られている)。戊辰戦争以前の幕末期において、日本の中央政府として朝廷・諸外国から認知されていた江戸幕府によって刑死・戦死した吉田松陰・橋本左内・久坂玄瑞らも「新政府側」ということで合祀されているばかりか、病死である高杉晋作も合祀されている。戊辰戦争で賊軍とされて戦死者が靖国神社に祭られていない会津藩士の末裔で戦後右翼の大物だった田中清玄は、「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と述べている[26]。
軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者が対象で、戦闘に巻き込まれたり空襲で亡くなった文民・民間人は対象外。また、戦後のいわゆる東京裁判などの軍事法廷判決による刑死者と勾留・服役中に死亡した者が合祀され、合祀された者の中に文民が含まれている。なお、「軍人・軍属の戦死者・戦病死者・自決者・戦犯裁判の犠牲者」であれば、民族差別・部落差別等の影響は一切無い。
国内の見解 [編集]
政党 [編集]
- 自民党 - 党としての公式見解は決まっていない。議員の中には賛成派も反対派もいる。過去に11人の首相と多数の閣僚が参拝している。
- 民主党 - 党としての公式見解は決まっていない。議員の中には賛成派も反対派もいる。過去に首相が参拝したことはなく、2人の閣僚が参拝している[27]。
- 公明党 - 党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。靖国神社の廃止や靖国参拝の違法化は主張していない。閣僚が参拝した実績はない。
- 日本共産党 - 党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。靖国神社の廃止や靖国参拝の違法化は主張していない。
- 社会民主党 - 党としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。靖国神社の廃止や靖国参拝の違法化は主張していない。閣僚が参拝したことはない。
日本遺族会 [編集]
2005年(平成17年)6月11日、日本遺族会会長で自由民主党の古賀誠ら幹部が、「首相の靖国神社参拝は有り難いが、近隣諸国への配慮、気配りが必要」との見解をまとめる。
2005年(平成17年)6月17日、6月11日の古賀らの見解以後、遺族会会員から「方針転換し、参拝中止を求めるものではないか」と懸念の声が相次いだのを受け、「今後も総理大臣の靖国神社参拝継続を求め、靖国神社に代わる新たな追悼施設は認めない。A級戦犯の分祀は靖国神社自身の問題だ」とし、「総理は中韓両国首脳の理解を得るよう努力するべきだ。」という従来通りの方針を確認した。
新聞社 [編集]
- 朝日新聞社 - 社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。靖国神社の廃止や靖国参拝の違法化は主張していない。
- 読売新聞社 - 社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。靖国神社の廃止や靖国参拝の違法化は主張していない。読売新聞グループ本社会長の渡邉恒雄は、「産経新聞以外の日本のメディアは戦争の責任と靖国神社等の問題について重要な共通認識をもっている」としている。渡邉自身、首相の靖国神社参拝には反対の立場を取っており、「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す」と述べている[28]。
- 毎日新聞社 - 社としての公式見解は、靖国神社に対する批判派、靖国神社参拝は反対派。靖国神社の廃止や靖国参拝の違法化は主張していない。
- 産経新聞社 - 社としての公式見解は、靖国神社に対する肯定派、靖国神社参拝は賛成派。『産経新聞』では、社説「主張」にて首相の靖国神社参拝(特に終戦の日の参拝)を強く要望しており、参拝しなかった歴代首相や参拝に否定的な政治家を批判している[29][30][31]。2009年(平成21年)に麻生太郎首相が終戦記念日の参拝を見送ったことについても批判し、「再考を求めたい」と要望していた[31]。同年8月31日におこなわれた第45回衆議院議員総選挙で自民党が大敗した際には、「麻生首相が靖国神社を終戦の日に参拝しなかったことへの保守層の失望は大きかった」と論評した[32]。また、国立追悼施設の建設に対しても反対の立場を取っている[33][34]。
諸外国の見解 [編集]
国際連合 [編集]
1946年の第1回から2011年の第66回までの全ての国際連合総会において、日本に対して靖国神社の廃止や解散、および、首相、国務大臣、衆議院や参議院の議長などの、立法府や行政府の要人による靖国神社参拝の禁止や自粛を、決議で採択したことはなく、決議案が総会に提案されたこともない[35][36]。
国別の状況 [編集]
政府の公式見解や政策として、靖国神社、および、日本の首相や政府要人の靖国神社参拝を批判し、前記の公職在任中の靖国参拝を自粛するよう要求している国は、中華人民共和国、大韓民国、シンガポールである。それ以外の国は政府や議会の公式見解や政策としては、肯定的・否定的、賛同・反対のいずれの表明や要求もしていない。
中華人民共和国 [編集]
中華人民共和国政府は、「A級戦犯が合祀されている宗教施設に首相が公式参拝すること」を問題視している。中国政府は国際的および国内的に「日本の侵略戦争の原因と責任は日本軍国主義にあり、日本国民には無い。しかし日本軍国主義は極東国際軍事裁判で除去された。」と説明している。また1972年(昭和47年)の日中国交正常化の際の共同声明では「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とも記載されている[37]。このため中国から見て「日本軍国主義の責任者の象徴」であるA級戦犯を、現在の日本の行政の最高責任者である首相や行政府の幹部である閣僚が「美化または肯定」するのは「歴史問題」となり、認めがたいからである[38]。
韓国 [編集]
韓国政府は「A級戦犯が合祀されている宗教施設に首相が公式参拝すること」を問題視している[39]。ただし韓国の場合は、日韓併合から日本の降伏までの間は、日本の植民地であったため、いわゆる戦勝国ではないと同時に、旧日本軍側としての募集や徴用の結果、靖国神社への合祀者が存在する。このため韓国および台湾では、「靖国神社合祀取り下げ訴訟」も発生している[40]。なお、韓国政府は2006年、A級戦犯の分祀だけでは靖国問題の解決にはならないとの認識を政府方針として確定している。
シンガポール [編集]
シンガポールからは繰り返し参拝批判の声が上がっている。
首相リー・シェンロンは「同神社には(第2次大戦の)戦争犯罪人が祭られており、シンガポールを含む多くの国の人々に不幸な記憶を呼び起こす。戦犯をあがめる対象にすべきではない」[41]、「悪い記憶を思い起こさせる。シンガポール人を含む多くの人にとって、靖国参拝は日本が戦時中に悪い事をしたという責任を受け入れていないことの表明、と受け取れる」[42]、「日本が戦争責任の問題を片付けていない」[43]、「戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社の性格から、小泉首相が過去の侵略を反省した談話を十三日に発表したにもかかわらず近隣国の反発が起きた」[43]と繰り返し批判している。
同じく上級相ゴー・チョクトンも「日本の指導者は靖国神社への参拝をやめ、戦没者を祭る別の方法を探るべきだ」と述べた[44]。
またシンガポール外務省は小泉首相の2006年度の参拝を受けて、「小泉首相の靖国神社参拝を遺憾に思う。シンガポール政府は靖国問題に関する立場を繰り返し表明してきたが、それに変化はない」「東アジア域内で緊密な連携関係を築くという大局的な共通利益に助けとはならない」と批判した[45]。
シンガポールの華字紙・聯合早報では「靖国神社は日本のかつての軍国主義の象徴といわれており、彼の行動は、日本の隣国を怒らせるに違いない。靖国神社は、すでに、日本の右翼勢力の精神的支柱と集会の場となっている」と指摘。
シンガポールでの英字紙ストレーツ・タイムズでは「今回の参拝は、アジア近隣諸国との関係より、個人的な儀式への愛着の方が首相にとっては大切ということを再び示した」と批判する解説記事を掲載。
ただし、リー・クァンユー元首相のように「靖国問題は中国が心理的なプレッシャーをかけているだけで、日中友好の底流は変わらない」[46]と述べるものもいる。
靖国神社問題の歴史 [編集]
靖国神社問題にまつわる歴史を以下に取り上げる。訴訟となった事件については「#首相公式参拝・玉串料公費支出の訴訟」の節を参照。
- 1945年12月15日
- 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の国家神道の廃止方針「神道指令」で、靖国神社は一宗教法人に。
- 1946年9月
- 宗教法人靖国神社の登記を完了。
- 1947年5月3日
- 日本国憲法施行(政教分離を規定)。
- 1951年10月18日
- 第49代内閣総理大臣・吉田茂以下、閣僚、衆参両院議長が揃って、靖国神社が宗教法人になって初めて挙行した秋季例大祭に公式参拝。首相の参拝は6年ぶり。この公式参拝は、同年9月8日の対日講和条約(いわゆるサンフランシスコ講和条約)の調印にともなうとされている。
- 1952年4月28日
- サンフランシスコ講和条約発効。
- 1955年11月17日
- 政府統一見解「政府としては従来から、内閣総理大臣その他の国務大臣が国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫してきている」、「そこで政府としては従来から事柄の性質上慎重な立場をとり、国務大臣として靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである」。
- 1959年3月28日
- 国立・千鳥ケ淵戦没者墓苑が竣工。
- 1964年8月15日
- 靖国神社境内で政府主催戦没者追悼式を開催。
- 1969年6月30日
- 自民党、初めて靖国神社法案を国会に提出。(審議未了廃案)
- 1970年4月14日
- 靖国神社法案、2度目の提出。(5月13日、廃案)
- 1971年1月21日
- 靖国神社法案、3度目の提出。(5月24日、提案理由説明の後廃案)
- 1972年5月22日
- 靖国神社法案、4度目の提出。(6月16日、廃案)
- 1973年4月27日
- 靖国神社法案、5度目の提出。(衆院内閣委で継続審議・審議凍結)
- 1973年12月20日
- 衆議院議長・前尾繁三郎、靖国神社法案の審議凍結解除。
- 1974年5月25日
- 靖国神社法案を衆院本会議で可決。(6月3日、参議院で廃案)
- 1975年8月15日
- 第66代内閣総理大臣・三木武夫が参拝。「私人」としての参拝(私的参拝4条件=公用車不使用、玉串料を私費で支出、肩書きを付けない、公職者を随行させない)と明言。首相による終戦の日の参拝は初めて。
- 1978年8月15日
- 第67代内閣総理大臣・福田赳夫が参拝。公用車の使用、公職者の随行のうえ「内閣総理大臣」と記帳しながらも、私的参拝を主張。
- 1978年10月17日
- 極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)におけるA級戦犯14人を国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀(翌1979年4月19日に新聞報道により一般に知られることとなる)。 首相・三木の「私的参拝四条件」(1975年)を政府統一見解として認めたことがないと内閣法制局が言明(参議院内閣委員会)。 合祀されたのは、死刑に処された東條英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章の7人と、勾留・服役中に死亡した梅津美治郎、小磯国昭、平沼騏一郎、東郷茂徳、白鳥敏夫、松岡洋右、永野修身の7人の計14人。
- 1979年4月21日
- キリスト教徒の第68代内閣総理大臣・大平正芳が春期例大祭で参拝(A級戦犯合祀報道の2日後)。
- 1980年8月15日
- 第70代内閣総理大臣・鈴木善幸と共に閣僚が大挙して参拝。
- 1980年11月17日
- 「私人」参拝を認める官房長官・宮沢喜一が、衆議院における答弁(政府統一見解)「政府は首相その他の国務大臣がその資格で参拝することは、憲法20条3項との関係で問題があるとの立場で一貫している。違憲とも合憲とも断定していないが、違憲ではないかとの疑いをなお否定できない。そこで政府は、国務大臣としての資格で靖国神社に参拝することは差し控えることを一貫した方針としてきたところである」[47]。
- 1981年3月18日
- 「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が結成される。
- 1981年8月15日
- 鈴木善幸が参拝。
- 1982年8月15日
- 鈴木善幸が参拝。マスコミの「私人」か「公人」かの質問に答えず。
- 1984年1月5日
- 第72代内閣総理大臣・中曽根康弘が参拝。質問に「内閣総理大臣たる中曽根康弘」と答える。現職首相の年頭参拝は戦後初であった。
- 1985年8月9日
- 官房長官・藤波孝生の私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)が、公式参拝可能との報告書を発表。
- 1985年8月14日
- 官房長官・藤波孝生の談話「中曽根首相は、首相としての資格で靖国神社を参拝する。憲法の政教分離原則との関係は強く留意しており、公式参拝が宗教的意義を持たないものであることを参拝方式などで明らかにする。 (かしわ手を打たず、玉串料でなく供花料を公費から支出するなどの)今回の方法であれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しないと判断した」。
- 1985年8月15日
- 首相・中曽根ら閣僚17人が参拝(「二拝二拍手一拝」の神道形式ではなく、本殿で一礼。公費から供花料を支出。これ以後の参拝は、形式上、私的参拝ということになる)。以降11年間、終戦の日の参拝は行われない時期が続いた。
- 1985年8月20日
- 官房長官・藤波「戦没者に対する追悼を目的として本殿または社頭で一礼する方式で参拝することは同項(憲法20条3項)の規定に違反する疑いはないとの判断に至った」ので「昭和55年(1980年)11月17日の政府統一見解をその限りにおいて変更」(衆議院)[4]。
- 1986年8月14日
- 内閣官房長官・後藤田正晴の談話「昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」ため「内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」[11]。
- 1986年8月15日
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会(会長・奥野誠亮)が集団で参拝、首相は参拝を見送った。
- 1988年3月14日
- 赤報隊から、中曽根康弘事務所と竹下登の元に脅迫状が送られた(差出の日付は3月11日)。中曽根には「わが隊は去年二月二七日のよる 全生庵で貴殿を狙った」、「靖国や教科書問題で民族を裏切った」、「もし処刑リストからはずしてほしければ 竹下に圧力をかけろ」、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」という内容だった。全生庵は中曽根が座禅を組みにしばしば訪れた禅寺で、脅迫状の日時には実際に座禅を組んでいたという。参拝を中止した中曽根を標的にし、後継の首相となった竹下に参拝を迫ったもの。
- 1991年1月10日
- 仙台高裁が岩手県の靖国訴訟で合憲判決。(傍論として違憲言及。総理大臣の公式参拝を違憲としたのは初めて)。
- 1991年9月4日
- 1991年3月に傍論を不服とした県が上告し、仙台高裁は「岩手県が判決主文で全面勝訴している」として却下。9月4日に、この仙台高裁の決定を不服とした県の特別抗告について、最高裁第2小法廷は「抗告の理由がない」として却下、確定。
- 1992年2月28日
- 中曽根公式参拝(1985年8月15日)に対する九州靖国神社公式参拝違憲訴訟の福岡高裁判決。
- 1992年7月30日
- 中曽根公式参拝(1985年8月15日)に対する関西靖国公式参拝訴訟の大阪高裁判決。違憲の疑いありと判示。のち確定。
- 1996年7月29日
- 第82代内閣総理大臣:橋本龍太郎が自身の59歳の誕生日に靖国神社参拝。11年ぶり。
- 1997年4月2日
- 愛媛玉串料訴訟で違憲判決。最高裁大法廷判決「たとえ戦歿者遺族の慰藉が目的であっても県が靖国神社・護国神社などに玉串料を公費から支出したことは憲法が禁止した宗教活動にあたり、違憲である」[48]。
- 1999年8月6日
- 官房長官:野中広務、記者会見で個人的見解と断りつつ、「首相はじめすべての国民が心から慰霊できるよう、あり方を考える非常に重要な時期にさしかかっている」、「A級戦犯を分祀し、靖国が宗教法人格を外して純粋な特殊法人として国家の犠牲になった人々を国家の責任においてお祀りし、国民全体が慰霊を行い、各国首脳に献花してもらえる環境を作るべきではないか」と述べた[49]。
- 2001年5月9日
- 第87代内閣総理大臣・小泉純一郎「戦没者にお参りすることが宗教的活動と言われればそれまでだが、靖国神社に参拝することが憲法違反だとは思わない」「心をこめて敬意と感謝の誠をささげたい。そういう思いを込めて、個人として靖国神社に参拝するつもりだ」と衆議院本会議で明言[50][51]。
- 2001年7月11日
- 公明党代表:神崎武法「憲法20条(政教分離)と89条(公費支出)に違反するような(首相の靖国神社)参拝は問題がある」。 自由党党首・小沢一郎「連立を組むなかで、憲法違反を理由にして消極的ならば、首相と議論してきちんと結論を出さなくてはいけない。あいまいにすませるのは許されない」(日本記者クラブでの党首討論で)。
- 2001年7月30日
- 外務大臣:田中真紀子コメント: 「憲法20条にあるように、総理は国の最終的な責任者であり、国家の意思そのものだ。ここは個人だ何だと分けるふうな姑息な手段は使わないでいただきたい」。
- 2001年8月13日
- 小泉純一郎が参拝。参拝に反対する立場からは参拝したことへの、参拝を積極的に支持する立場からは、前言を翻して終戦の日を避けたことへの批判も挙がった。参拝は、8月11日に秘書官を通して「内閣総理大臣小泉純一郎」という名入りの献花料3万円を私費で納入。 靖国への往復に公用車を用いて内閣官房長官・福田康夫と秘書官を随行。 参集所で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳。神社拝殿で身を清める「お祓い」を受け、本殿に昇殿して祭壇に黙祷した後、神道式によらない一礼方式で参拝を行なった。供花料ではなく、献花料としたのは、兵庫県多紀郡篠山町(現篠山市)が、盆に戦没者遺族に線香やロウソクを配布したことをめぐって憲法の政教分離原則に反するかを争った訴訟で、「お盆」、「ご帰壇」、「英霊」、「お供え」、「合掌」などの宗教用語を使った文書が違憲にあたると判断した神戸地裁の指摘を考慮したとされている[52]。
- 2001年8月15日
- 靖国神社に面した通りで、靖国賛成派と反対派の衝突があり、麹町警察署によると双方に負傷者が出たという。斎藤貴男は、賛成派が一方的に負傷させたとしている[53]。
- 2001年11月1日
- 小泉公式参拝(同年8月13日)に対する大阪・松山・福岡の各地裁提訴について、小泉首相がコメント: 「話にならんね。世の中おかしい人たちがいるもんだ。もう話にならんよ」(同日各紙夕刊、翌日同朝刊)。 官房長官・福田のコメント: 「どこが憲法違反なんですかね。内閣総理大臣である小泉純一郎が参拝したんですよ」、「そういうことを言って、小泉純一郎の信仰の自由を妨げるというのは、それこそ憲法違反じゃないですか」。
- 2001年12月14日
- 中国、韓国などから批判が出たのを受け、内閣官房長官・福田康夫は、国立戦没者追悼施設を建設する構想を立ち上げ、私的諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(座長・今井敬)を発足させた。
- 2002年4月21日
- 小泉純一郎、参拝。
- 2002年12月24日
- 内閣官房長官・福田の諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が報告書[54]を提出。「追悼・平和祈念を行うための国立の無宗教の恒久的施設が必要と考えるが、最終的には政府の責任で判断されるべきだ」。その後、懇談会は開催されていない。
- 2003年1月14日
- 小泉純一郎、参拝。
- 2004年1月1日
- 第88代内閣総理大臣・小泉純一郎、参拝。
- 2004年4月7日
- 福岡地方裁判所が小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)で合憲判決。(亀川清長裁判長が傍論で違憲言及。1991年の仙台高裁判決に次いで二例目)。
- 2004年11月25日
- 千葉地方裁判所(裁判長:安藤裕子)は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝(2001年8月13日)について、参拝は公務と認定した上で、原告の慰謝料請求を棄却した。
- 2004年12月8日
- 日本記者クラブでの講演で公明党の神崎武法代表は、小泉首相の靖国神社参拝が日中関係の障害になっていると指摘。「私から見ると解決方法は(1)参拝を自粛する(2)A級戦犯の分祀を検討する(3)国立追悼施設を建設する――の3つしかない」と述べた[55]。
- 2005年4月27日
- 中国の王毅駐日大使は、日中両政府間で、靖国神社参拝に関する「紳士協定」が存在し、首相と外相、官房長官は参拝すべきではないと、自民党の外交調査会での講演の中で発言。中国政府関係者は、「紳士協定」は、中曽根内閣当時に中国側の求めにより口頭でなされたと発言。日本の外務省関係者は協定の存在を否定。翌4月28日、中曽根元首相は「王大使の記憶違い」と述べて「紳士協定」の存在を否定。中国大使館へ電話で抗議したと記者団に語る。
- 2005年9月29日
- 「靖国訴訟」東京高裁(浜野惺(しずか)裁判長)は1審の千葉地裁判決を支持、原告側控訴を棄却。
- 2005年9月30日
- 大阪高裁が小泉靖国訴訟で合憲判決。(大谷正治裁判長が傍論で違憲言及)。
- 2005年11月3日
- 中国の唐家せん(王へんに旋)国務委員(前外相)は、1985年の中曽根首相による靖国神社参拝を受け、首相と外相及び官房長官は参拝しないとの紳士協定を日中両政府間で結んだと、訪中していた大阪府と京都市、兵庫県の各知事との会談の中で発言。
- 2005年11月5日
- 公明党全国代表者会議で党代表・神崎武法は、「政権の中枢にある首相、外相、官房長官は参拝を自粛すべきだ。今後も自粛を求めていく」、と述べた。神崎はこれまで再三再四、首相に自粛を求めていたが、外務大臣や官房長官についてまで自粛を要求したのは初めて。神崎の発言は、4月27日に中国の王毅駐日大使が、日中両政府間で首相と外相及び官房長官は参拝しないとの「紳士協定」が存在するとした発言を念頭に置いたものとみられている(ただし日本の外務省と中曽根元首相は「紳士協定」の存在を否定)。
- 2005年11月9日
- 靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設を目指す超党派の議員連盟「国立追悼施設を考える会」が発足。会長に山崎拓(自民党、2009年の衆議院選で落選)、副会長は鳩山由紀夫(民主党)と冬柴鉄三(公明党)。設立総会には福田康夫(自民党)や当時の公明党代表の神崎武法ら100人が参加した。
- 2006年8月15日
- 小泉首相は、自身の首相としての最後の夏、「Xデーに参拝するのではないか?」と自民党を中心に内外で推測されていたが、2006年8月15日午前7時40分ごろ、現職総理としては1985年の中曽根康弘以来21年ぶりに8月15日の参拝を行った。午前7時30分ごろ、首相官邸を出発し10分後にモーニング姿で到着。本殿に入り「2拝2拍手1拝」の神道形式ではなく一礼形式の参拝。滞在時間は15分ほどだった。
歴代首相の靖國神社参拝(回数) [編集]
2007年現在、最初の伊藤博文就任以降の歴代首相57人中14人が参拝しているが、最初に参拝したのは戦後初の首相である東久邇宮稔彦王(30人目、重複を入れると43代目)である。戦後に限定すると、28人中14人の首相が62年間で計67回参拝している。終戦の日の参拝は8回。
| 代 | 首相 | 回数 | 参拝年月日 | 在任期間 |
|---|---|---|---|---|
| 第43代 | 東久邇宮稔彦王 | 1回 | 1945年8月18日 | 1945年8月17日 - 1945年10月9日 |
| 第44代 | 幣原喜重郎 | 2回 | 1945年10月23日、 1945年11月20日 | 1945年10月9日 - 1946年5月22日 |
| 第45代 第48-51代 |
吉田茂 | 5回 | 1951年10月18日、 1952年10月17日、 1953年4月23日、 1953年10月24日、 1954年4月24日 | 1946年5月22日 - 1947年5月24日 1948年10月15日 - 1954年12月10日 |
| 第56-57代 | 岸信介 | 2回 | 1957年4月24日、 1958年10月21日 | 1957年2月25日 - 1960年7月19日 |
| 第58-60代 | 池田勇人 | 5回 | 1960年10月10日、 1961年6月18日、 1961年11月15日、 1962年11月4日、 1963年9月22日 | 1960年7月19日 - 1964年11月9日 |
| 第61-63代 | 佐藤栄作 | 11回 | 1965年4月21日、 1966年4月21日、 1967年4月22日、 1968年4月23日、 1969年4月22日、 1969年10月18日、 1970年4月22日、 1970年10月17日、 1971年4月22日、 1971年10月19日、 1972年4月22日 | 1964年11月9日 - 1972年7月7日 |
| 第64-65代 | 田中角栄 | 5回 | 1972年7月8日、 1973年4月23日、 1973年10月18日、 1974年4月23日、 1974年10月19日 | 1972年7月7日 - 1974年12月9日 |
| 第66代 | 三木武夫 | 3回 | 1975年4月22日、 1975年8月15日、 1976年10月18日 | 1974年12月9日 - 1976年12月24日 |
| 第67代 | 福田赳夫 | 4回 | 1977年4月21日、 1978年4月21日、 1978年8月15日、 1978年10月18日 | 1976年12月24日 - 1978年12月7日 |
| 第68-69代 | 大平正芳 | 3回 | 1979年4月21日、 1979年10月18日、 1980年4月21日 | 1978年12月7日 - 1980年6月12日 |
| 第70代 | 鈴木善幸 | 9回 | 1980年8月15日、 1980年10月18日、 1980年11月21日、 1981年4月21日、 1981年8月15日、 1981年10月17日、 1982年4月21日、 1982年8月15日、 1982年10月18日 | 1980年7月17日 - 1982年11月27日 |
| 第71-73代 | 中曽根康弘 | 10回 | 1983年4月21日、 1983年8月15日、 1983年10月18日、 1984年1月5日、 1984年4月21日、 1984年8月15日、 1984年10月18日、 1985年1月21日、 1985年4月22日、 1985年8月15日 | 1982年11月27日 - 1987年11月6日 |
| 第82-83代 | 橋本龍太郎 | 1回 | 1996年7月29日 | 1996年1月11日 - 1998年7月30日 |
| 第87-89代 | 小泉純一郎 | 6回 | 2001年8月13日、 2002年4月21日、 2003年1月14日、 2004年1月1日、 2005年10月17日、 2006年8月15日 | 2001年4月26日 - 2006年9月26日 |
出典・脚注 [編集]
- ^ 『朝日新聞』 2005年5月18日付
- ^ 『偕行』昭和20年7月「靖国神社について」より
- ^ 第169回国会 参議院 文教科学委員会 第3号 平成20年(2008年)3月27日(議事録)
- ^ a b c 内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社公式参拝について 藤波内閣官房長官談話 昭和60年(1985年)8月14日(首相官邸公式ウェブサイト)
- ^ 新田均著『首相が靖国参拝してどこが悪い』(PHP研究所 2005年8月2日 )ISBN 978-4569643656 、p.205
- ^ 盛岡地判昭和62年3月5日
- ^ 仙台高判平成3年1月10日
- ^ 日本労働年鑑によれば、これをきっかけに、信仰上の相違と靖国神社法案に反対する立場から「日本遺族会」に属していない、あるいは脱会していた遺族が「平和遺族会全国連絡会」を結成するに至ったという。日本労働年鑑 第57集 1987版 第四部 労働組合と政治・社会運動 II 社会運動の動向 I 平和・社会運動 7 その他の社会運動
- ^ 福岡高等裁判所 平4年(1992年)2月28日、判時1426・85
- ^ 大阪高等裁判所 平成4年(1992年)4月30日、判事1434・38、判タ789・94
- ^ a b 本年8月15日の内閣総理大臣その他の国務大臣による靖国神社公式参拝について(首相官邸)
- ^ 産経新聞社刊『[[正論 (雑誌)|]]』(平成13年9月号)「私が靖国神社公式参拝を断念した理由」
- ^ 昭和61年8月15日付け、中国共産党胡耀邦総書記宛て内閣総理大臣書簡、世界平和研究所(著)『中曽根内閣史―資料篇』(世界平和研究所 1995年11月) ISBN 978-4895141130
- ^ 福岡地判平成16年4月7日 平成13年(ワ)第3932号 損害賠償等事件 判時1859・76
- ^ “靖国合祀、国の協力は違憲=取り消し請求は退ける-大阪高裁”. 時事通信社. (2010年12月21日) 2010年12月22日閲覧。
- ^ 朝日新聞2010年12月22日付東京版朝刊38面
- ^ 『日本経済新聞』 2006年7月20日
- ^ 平成15(ワ)1307 損害賠償請求事件 平成16年5月13日 大阪地方裁判所 (PDF)
- ^ 高橋哲哉『靖国問題』
- ^ 『毎日新聞』 2006年7月24日付
- ^ 所謂A級戦犯分祀案に対する靖國神社見解
- ^ 聯合ニュース 2006年8月16日 「A級戦犯分祀では靖国問題解決できず、政府方針」
- ^ 細川ガラシャを祭神の一人とする熊本市の出水神社や上杉謙信を祀る上杉神社など、神道以外の宗教を信仰していた人物を祀る神社は各地に存在する。
- ^ 特集: 靖国問題を考える(その1)追悼のかたち、模索 打開策にもハードル(『毎日新聞』 2006年8月15日東京朝刊)
- ^ 『朝日新聞』 2006年9月2日付夕刊 「靖国神社、朝鮮戦争で死亡した元海保職員の合祀を拒否 asahi.com関西」
- ^ 『田中清玄自伝』文藝春秋刊
- ^ “松原、羽田両氏が靖国神社を参拝…民主閣僚で初”. 読売新聞. (2012年8月15日) 2012年8月15日閲覧。
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- ^ “【主張】首相と靖国 堂々と参拝をしてほしい”. 産経新聞. (2009年4月23日) 2009年12月24日閲覧。
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- ^ 阿比留瑠比 (2009年8月15日). “古くて新しい追悼施設構想 「鎮魂を風化させるのか」”. 産経新聞 2009年12月28日閲覧。
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- ^ 「靖国神社の韓国人合祀取下げ等を求める決議案」提出記者会見
- ^ 『共同通信』 2005年5月18日
- ^ 朝日新聞2005年5月18日「靖国参拝「周辺国の視点を」 シンガポール・リー首相」
- ^ a b 共同通信「独に倣って過去清算を シンガポール副首相」2001年8月19日
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- ^ newsclip 2006年8月15日小泉首相の靖国参拝に遺憾表明=シンガポール政府
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- ^ 政府統一見解(首相官邸)
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- ^ 『毎日新聞』 2001年7月30日
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- ^ 『公明新聞』 2004年12月9日
参考文献 [編集]
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- 年表あり
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- 大江志乃夫著『靖国神社』岩波書店(岩波新書)、1984年3月
- 参照・参考文献: p198 - 202
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- 太田正造著『国家の構築 公式制度・靖国神社・有事立法』ぎょうせい、1981年5月
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- 国立国会図書館調査立法考査局編『靖国神社問題資料集』(『調査資料』76-2)、国立国会図書館調査立法考査局、1976年
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- 沢藤統一郎著『岩手靖国違憲訴訟』新日本出版社(新日本新書)、1992年3月、ISBN 4406020632
- JPC研究調査専門委員会編『キリスト者と靖国神社問題 靖国神社法案の問題点とその背景』日本プロテスタント聖書信仰同盟、1970年4月
- JPC研究調査専門委員会編『聖書信仰と日本の精神風土 : 靖国神社法案の源流をさぐる』日本プロテスタント聖書信仰同盟、1971年2月
- 静岡靖国問題連絡協議会編『静岡・マチのヤスクニを問う 渡辺牧師によってまかれた種』静岡靖国問題連絡協議会、1978年4月
- 渋谷秀樹著『憲法への正体』岩波書店(岩波新書)、2001年11月、ISBN 4004307589
- 「首相の靖国神社参拝はなぜいけないか」について言及
- 真宗本願寺派反靖国連帯会議編『反靖国への連帯 朝枝実彬先生追悼論集』永田文昌堂、1989年4月、
- 内容細目: 遺講 反靖国の精神と行動 朝枝実彬著 ほか31編. 付:朝枝実彬略年譜
- 浄土真宗本願寺派反靖国連帯会議編『真宗と靖国問題』永田文昌堂、1991年9月
- 新宗連編『靖国神社問題に関する私たちの意見』新宗教新聞社、1968年
- 樹心の会編『靖国を撃つ 親鸞・教学・教団』(『樹心叢書』2)、永田文昌堂、1984年12月
- 樹心の会編『靖国を撃つ 続』(『樹心叢書』5)、永田文昌堂、1989年1月
- 副書名: 遺族・女・アジア
- 基幹運動本部事務局編『平和問題・ヤスクニ問題研修カリキュラム』本願寺出版社、1998年4月、ISBN 4894166208
- 菅原伸郎編著『戦争と追悼 靖国問題への提言』八朔社、2003年7月、ISBN 4860140168
- 年表あり
- 『世界』編集部編、雑誌『世界』2004年9月号、岩波書店、2004年8月
- 高石史人編『「靖国」問題関連年表』永田文昌堂、1990年11月
- 高橋富士雄著『キリスト教徒の靖国神社擁護論』大日書房、1982年8月
- 田中伸尚著『靖国の戦後史』岩波書店(岩波新書)、2002年6月、ISBN 4004307880
- 田中伸尚著『自衛隊よ、夫を返せ』現代書館、1980年2月
- 主な参考文献: p252 - 254
- 田中伸尚著『自衛隊よ、夫を返せ 合祀拒否訴訟』社会思想社(『現代教養文庫』1272)、1988年10月、ISBN 4390112724
- 辻子実著『侵略神社 靖国思想を考えるために』新幹社、2003年9月、ISBN 4884000269
- 文献あり
- 土屋英雄著『自由と忠誠 「靖国」「日の丸・君が代」そして「星条旗」』尚学社、2002年4月、ISBN 4860310012
- 角田三郎著『靖国と鎮魂』三一書房、1977年9月
- 主要参考書目: p.285 - 295
- 坪内祐三著『靖国』新潮社、1999年1月、ISBN 4104281018
- 坪内祐三著『靖国』新潮社(新潮文庫)、2001年8月、ISBN 4101226318
- 東京弁護士会編『靖国神社法案の問題点 その矛盾を衝く』新教出版社、1976年
- 戸村政博編『靖国闘争 終りなき自由への戦い』(『今日のキリスト教双書』8)、新教出版社、1970年
- 巻末: 神社問題年表1868-1970年
- 戸村政博編著『日本人と靖国問題 続・靖国闘争』(『今日のキリスト教双書』11)、新教出版社、1971年
- 巻末: 年表と文献
- 戸村政博編著『靖国問題と戦争責任 続々・靖国闘争』(『今日のキリスト教双書』13)、新教出版社、1973年
- 巻末: 年表と文献
- 戸村政博編著『日本のファシズムと靖国問題 新・靖国闘争』(『今日のキリスト教双書』17)、新教出版社、1974年
- 戸村政博編著『神話と祭儀 靖国から大嘗祭へ』日本基督教団出版局、1988年8月
- 戸村政博著『検証国家儀礼 1945 - 1990』作品社、1990年8月、ISBN 4878931566
- 国家儀礼年表: p309 - 332
- 仲尾俊博著『靖国・因果と差別』永田文昌堂、1985年11月
- 中曽根首相の靖国神社公式参拝に抗議する会編『遺族の声とどく 京都・大阪靖国訴訟証言集』行路社、1994年12月
- 仲田民男著『昭和の戦争と靖国神社の問題 蒋介石秘録による』創栄出版、2003年5月、ISBN 4434031538
- 新野哲也著『日本人と靖国神社』光人社、2003年7月、ISBN 4769810962
- 西修著『日本国憲法の40年 「改憲」と「靖国」』(『入門新書』、『時事問題解説』467)、教育社、1986年5月
- 西川重則著『靖国法案の五年 撤回をめざす戦いの記録』すぐ書房、1974年
- 西川重則著『靖国法案の展望』すぐ書房、1976年
- 西村真悟著『誰が国を滅ぼすのか 靖国、憲法、謝罪外交』徳間書店、2001年9月、ISBN 4198614172
- 日本遺族会編『靖国神社国家護持に関する調査会報告書』日本遺族会(非売品)、1966年
- 別冊: 靖国神社国家護持に関する調査会報告書附属文書
- 日本バプテスト連盟靖国神社問題特別委員会編『わかれ道に立って、よく見 ヤスクニ・天皇制問題宣教集』ヨルダン社、1994年10月、ISBN 4842801778
- 野口恒樹著『靖国神社閣僚公式参拝合憲論』古川書店、1983年9月
- 花本淳著『靖国問題への試論』花本淳、1991年
- 塙三郎編『靖国問題をどうすべきか』善本社、1977年8月
- 反靖国宗教者連絡会編『宗教的人格権の確立』法藏館、1987年8月
- 反靖国・反天皇制連続講座実行委員会編『天皇制と靖国を問う』勁草書房、1978年4月
- PHP研究所編『検証・靖国問題とは何か』PHP研究所、2002年7月、ISBN 4569622666
- 土方美雄著『靖国神社国家神道は甦るか!』(『天皇制叢書』1)社会評論社、1985年5月
- 備後・靖国問題を考える念仏者の会・会員著『靖国を問う われらは今、ここに立つ』永田文昌堂、1997年10月
- 福嶋寛隆編集『神社問題と真宗』永田文昌堂、1977年5月
- 文献表・年表: p.479 - 514
- 藤原正信編『反「靖国」の射程. 続』永田文昌堂、1987年5月
- 平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会編『いま「靖国」を問う』(『かもがわブックレット』137)かもがわ出版、2001年8月、ISBN 4876996199
- 三土修平著『靖国問題の原点』日本評論社、2005年8月
- 靖国神社戦後改革時代に的を絞った年表あり
- 三土修平著『頭を冷やすための靖国論』筑摩書房(ちくま新書)、2007年1月
- 宮地光著『あなたが決める!靖国神社公式参拝』チクマ秀版社、2001年8月、ISBN 4805003871
- 民主主義研究会編『靖国神社国家護持をめぐる対立論議と問題点』民主主義研究会、1969年
- 村上重良著『慰霊と招魂 靖国の思想』(『岩波新書』)、岩波書店、1974年
- 村上重良著『靖国神社 1869-1945-1985』(『岩波ブックレット』No.57)、岩波書店、1986年3月、ISBN 4000049976
- 百地章著『靖国と憲法』成文堂(成文堂選書)、2003年11月10日、ISBN 4792303664
- 靖国神社問題特別委員会編『曲がりかどの靖国法案 強行採決から表敬法案まで』日本基督教団出版局、1975年
- 靖国神社問題特別委員会編『国家と宗教 「靖国」から「津」、そして大嘗祭へ』日本基督教団出版局、1978年5月
- 主要参考文献: p258、年表: p263 - 264
- 靖国問題キリスト者の会編『今日の靖国問題』キリスト教図書出版社、1980年1月
- 靖国問題年表・参考文献: p252 - 260
- 靖国問題研究会編『反靖国論集』(『働くなかまのブックレット』7)新地平社、1987年8月
- 靖国問題略年表<戦後>: p84 - 88
- 屋山太郎著『なぜ中韓になめられるのか』扶桑社、2005年
- 文献あり
- 歴史教育者協議会編『Q&Aもっと知りたい靖国神社』大月書店、2002年6月 ISBN 4272520709
- 渡部敬直著『草の根の叫び 町のヤスクニ闘争の記録(岩手県北上市)』愛隣社、1980年11月
- 和田稠著、真宗大谷派宗務所出版部編『信の回復』(『同朋選書』16)、真宗大谷派宗務所出版部、1986年3月、ISBN 4834101525
- 和田稠著、真宗大谷派宗務所出版部編『世のいのり・国のいのり : 続・信の回復』(『同朋選書』20)、真宗大谷派宗務所出版部、1995年7月、ISBN 4834102335
- 靖国問題関係略年表: p374 - 389
- 『教科書に書かれなかった戦争』part 5、梨の木舎、1988年4月
- 各巻タイトル: 西川重則著「天皇の神社『靖国』」
- 参考文献: p184 - 185
- 『教科書に書かれなかった戦争』Pt.5増補版、梨の木舎、2000年2月、ISBN 4816600019
- 各巻タイトル: 西川重則著『天皇の神社「靖国」 有事法制下の靖国神社問題』
- 文献あり
- 『靖国 国民神社と戦争のない国』松文館、1983年2月
- 靖国神社の流れ・引用および参考文献リスト: p131 - 142
- 『靖国公式参拝を批判する 「靖国懇」報告書の問題点』(『新教コイノーニア』2)、新教出版社、1985年10月
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
神社本庁 [編集]
外国要人参拝 [編集]
国立慰霊施設設置 [編集]
在日台湾人の発言 [編集]
- 【論説】高金素梅の来日は台湾人を代表しない(『台湾の声』 2005年6月9日)