馬英九

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馬英九
馬英九

任期: 2008年5月20日 – 現職

出生: 1950年7月13日[注釈 1]
香港 九龍
政党: 中国国民党
配偶: 周美青
馬 英九
職業 政治家
各種表記
簡体字 马英九
繁体字 馬英九
ピン音 Mǎ Yīngjiǔ
注音符号 ㄇㄚˇ ㄧㄥ ㄐㄧㄡˇ
和名表記 ば えいきゅう
発音転記 マー インチウ
ラテン字 Ma Ying-chiu
英語名 Ma Ying-jeou
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馬英九(ば えいきゅう、Ma Ying-jeou、1950年7月13日 - )は中華民国台湾)の政治家法学博士ハーバード大学)。第12代中華民国総統(現職)。

目次

[編集] 出生とアメリカ留学

1950年7月13日香港九龍で出生した(広東省深圳との資料もある)[1]

1950年、両親とともに台湾に移住し、台北市で育つ。台湾大学法律学院法律系(法学部法学科)卒業。中山奨学金の給付生としてニューヨーク大学大学院修士課程及びハーバード大学大学院博士課程修了する。ハーバード大学在学中は、《波士頓通訊(ボストン通信)》という国民党系雑誌の編集長に就任。また「優秀学生」として政府、民主化勢力の従事していた[2]。これについては馬英九側は「当時の政治状況の日で、愛国、民主化台湾を表現したものだ」と説明している。大学院修了後はメリーランド大学法学部研究顧問、ボストン第一銀行法律顧問、ニューヨーク市内の法律事務所で弁護士として活動した。

[編集] 政界進出

1981年、帰台した馬英九は総統府第一局副局長に就任し蒋経国英語通訳を担当した。1984年には国民党中央委員会副秘書長に、1988年には行政院研考会主任委員兼大陸委員会(陸委会)工作匯報執行秘書に、1990年には国家統一委員会研究員、1991年には陸委会副主任委員兼スポークスマンに就任するなど行政経験を積み、同年国民大会代表全国区に国民党候補として選出されている。1993年連戦が行政院長に就任すると馬英九はその要請を受け法務部長に就任する。法務部長在任中は地方の汚職・不正政治資金摘発に力を振るい、死刑執行にも批判的姿勢を示した。

[編集] 台北市長時代

1996年行政院政務委員に就任。1998年の台北市長選に国民党公認候補として出馬。当時の現職・陳水扁民主進歩党公認・前総統)を破り高票当選。2002年再選。2006年12月、任期満了に伴い退任した。

台北市長時代は台北市全域の無線LANの整備、下水道整備の普及、スポーツ施設整備などのインフラ整備に力を注いだ。また、士林官邸七海官邸孫運璿旧邸、李国鼎旧邸、嚴家淦旧邸、錢穆旧邸な文化財保護事業どの保存に力を注いだ。

[編集] 国民党主席

国民党主席の連戦が辞任を表明すると、党内の高い期待を背景に2005年7月16日に行われた国民党主席選挙に出馬(二回目の党員による直接選挙だが、対立候補が出たのは初めて)して37万5056票を獲得、対抗馬の王金平立法院長(14万3268票を獲得)に大差をつけて、第4代国民党主席に選出された。

党主席兼任後2005年末の23県市長選挙では国民党が14、親国民党系も含めると17ポストを獲得するなど地滑り的な勝利を得た。

[編集] 特別費横領容疑

2007年2月13日、台北市長時代の首長特別支出費の一部支出について横領容疑で起訴された。これを受けて馬英九は国民党主席を辞任した。一審の台北地裁(同年8月17日)、同年12月28日、二審の台湾高裁ともに無罪判決が下された。二審までの無罪判決を受け、馬英九は2008年1月3日に起訴した検察官を告訴した。そして同年4月24日、台湾の最高裁が検察の上告を棄却したことにより無罪が確定した。

[編集] 2008年中華民国総統選挙

詳細は「2008年中華民国総統選挙」を参照

特別費横領容疑で起訴された2007年2月13日2008年中華民国総統選挙への出馬意思を表明。同年5月2日、国民党中央常務委員会で総統候補として指名内定。2007年6月23日、国民党大会で正式に国民党公認の総統候補として承認された。承認後、馬英九は副総統候補に蕭萬長を指名した。

2008年1月12日、立法委員選挙では国民党が圧勝した。しかし同年1月27日に総統選挙の候補登録を済ませた翌日以降、民進党の公認候補・謝長廷陣営や一部メディアなどから、1977年に取得したグリーンカードの所持疑惑、馬英九の実姉たちの政治献金不当授受疑惑、暴力団との結託疑惑などが指摘された。

しかし「ロングステイ」と銘打って台湾各地の農村などをホームステイに訪れて回り、選挙期間中に、台湾語客家語を積極的に使用して、有権者との距離を縮めることに力を入れた。

同年3月22日に総統選挙が実施され、謝長廷の544万5239票(41.55%)に対し756万8724票(58.45%)を獲得して当選。国民党は8年ぶりに政権を奪還した。

[編集] 政治姿勢

1990年代前半、総統選挙を直接選挙にするか委任選出にするかで国民党内で議論となったとき、一貫して「委任選出制」を主張し、直接選挙制に反対し、同時期、言論・思想の自由を弾圧する法的根拠になっていた「刑法第100条廃止」が議論された際にも反対した。2006年末にはアメリカの雑誌のインタビューで「終極的統一を目指す」と発言し保守的な姿勢をとる人物と見られてきた。

近年はその姿勢に変化が見られる。たとえば、国民党独裁政権下で行われた弾圧事件(二・二八事件白色テロ)について、台北市長に就任以来、毎年二・二八事件の追悼式に参加している。

[編集] 中国政策

総統選挙中の2008年3月18日チベットで発生した大規模暴動について中国当局を批判し、自らが総統に当選した際には北京オリンピックをボイコットする可能性を示唆した。一方でチベットダライ・ラマ14世が訪台の意向を示したところ、同氏の入国を拒否した。

また、総統選挙では「三不」(統一も独立も武力行使もしない)を主張し、党綱領から「統一」の文字を削除して「台湾」の文字を新しく盛り込み[3]、党規約に「台湾主体」を明記している[4]

総統選挙に向けて経済政策重視を打ち出し、中国との間で、欧州連合(EU)加盟国同士並みに関税、資金、労働力の自由流通を目指す「両岸共同市場」を提唱した。現在も「両岸対等、共同協議、市場拡大」を掲げ、総統就任後の2008年12月15日には、中国との間で「三通」を実現させた。

[編集] 日本に対する態度

学生時代に「釣魚島(尖閣諸島還回」を主張する活動を続け、米国留学時代の研究テーマも「釣魚島」の中華民国帰属を主張するものだった。

2002年1月、台北市などの風俗スポットを紹介したガイドブック『極楽台湾』に対して馬英九が交流協会に抗議、また買春目的容疑で日本人を逮捕したりした[5]

尖閣諸島(釣魚島)の問題に対しては厳しい姿勢をとっていた。2005年6月の党主席選挙では、「釣魚島の奪回のために日本とは一戦を交えることもいとわない」「戦う姿勢を見せて日本を対話のテーブルにつかせるべきだ」(2005年の沖縄近海における台湾漁船の抗議行動 参照)と主張した。党主席就任後の2005年8月には、「南京大虐殺や尖閣諸島での日本の言動は、大陸、台湾双方の人々の心を逆なでする」「国民党は将来、尖閣諸島の問題解決に注力する。私は尖閣諸島についての専門的知識を持っている」 と発言した[6]

また、日本の植民地統治にも厳しい態度をとっている。2005年9月高金素梅立法委員が「日本が台湾原住民を強制的に高砂義勇隊に参加させるなど原住民を迫害した」として、ニューヨークの国連本部での反日抗議活動のため台湾を出発する際、見送りに訪れ、3000米ドルの寄付を行った[7]。2006年4月、士林にある「学務官僚遭難之碑」を問題視した。同年秋には国民党本部ビルに「抗日戦争勝利60周年記念」の垂れ幕を掲げた。この一連の姿勢は2006年7月の訪日時に日本側の議員や記者から指摘、非難された。

しかし、総統候補になってからは、従来の強硬な姿勢を軟化させつつある。たとえば、南京大虐殺問題・尖閣諸島問題などの歴史問題については「許せるが、歴史は忘れない」というにとどめている。さらに、総統候補として日本を訪問した2007年11月21日同志社大学での講演では「19世紀、20世紀の亡霊はもう過去のことだ」「過去は白と黒以外にグレーもある」などと述べるなど、日台関係を強化する必要を強調した。また、2006年には一度否定的な意見を述べた日米安保条約も支持すると立場を転換させた[8]

[編集] 脚注

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[編集] 注釈

  1. ^ 10月31日説もあり。

[編集] 出典

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
先代:
陳水扁
中華民国総統
2008年5月20日-
次代:
現職
先代:
呂有文
中華民国法務部長
1993年2月7日-1996年6月10日
次代:
廖正豪
先代:
陳水扁
台北市長
1998年12月25日-2006年12月24日
次代:
郝龍斌
先代:
連戦
国民党主席
2005年8月19日-2007年2月13日
次代:
呉伯雄(代理)