鄭成功
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鄭 成功(てい せいこう、ピン音:Zhèng Chénggōng、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦十六年5月8日(1662年6月23日))は中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。中国本土では民族的英雄として描かれる。鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。
目次 |
[編集] 人物・来歴
[編集] 誕生
日本の平戸で父鄭芝竜と日本人の母田川松の間に生まれた。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建につれてこられる。鄭芝竜の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために武力を持っていた。
[編集] 明の滅亡
1644年、李自成が北京を陥落させ崇禎帝が自殺、明が滅亡して大順が成立すると、逃れた明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝竜達は唐王朱聿鍵を擁立し、李自成を滅ぼし中国支配を行おうとしていた満州王朝の清に対しての抵抗運動を始めた。この時に元号を隆武と定めたので朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。
父により隆武帝に引き合わされ、眉目秀麗でいかにも頼れそうな鄭森は大いに気に入られ「朕に娘がいれば娶わせるのだが残念ながらいない。その代わりに国姓の朱を与えよう。」と言われたが、恐れ多いと国姓は使わずに鄭成功と名乗る。これ以降鄭成功は国姓爺(爺は老人の意味ではなく、旦那と言う程の意味)と呼ばれるようになった。ちなみに、同時代に活躍した日本の歌舞伎・浄瑠璃劇作家である近松門左衛門の人形浄瑠璃作品である『国性爺合戦』は、鄭成功をモデルとして作られたものである。
隆武帝軍は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝竜はこの軍に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めようとしたが、鄭芝竜は意思を変えず、父と子の道は別れることになった。
[編集] 抵抗運動の継続
その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまずアモイ島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は17万5千の北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に会い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。
[編集] 台湾占拠
鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、台湾を占拠していたオランダ人を追放し、本拠地とする。しかし直後に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。
国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており、中華民国海軍のフリゲートには成功級という型式名がつけられている(1号艦名が「成功」)。
[編集] 関連文献
- 鄭亦鄒ほか『和刻本明清資料集』第2集、汲古書院、1974、ISBN B000J9DSLK
- (白麓蔵書)鄭成功伝(鄭亦鄒撰・木村孔恭点、安永3年大坂木村氏蒹葭堂刊本の複製)を収む
- 寺尾善雄『明末の風雲児 鄭成功』東方書店、1986、ISBN 4497861643
- 長崎鄭成功と同時代史研究会編『鄭成功と同時代史研究-鄭成功生誕370年記念-』1994
- 林田芳雄『鄭氏台湾史―鄭成功三代の興亡実紀』汲古書院、2004、ISBN 4762950378
- 石原道博『明末清初日本乞師の研究』富山房、1945、ISBN B000JB70LM
- Interpreting Zheng Chenggong: The Politics of Dramatizing a Historical Figure in Japan, China, and Taiwan. Chong Wang;VDM Verlag, 2008; ISBN 363909266X

