倉田百三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
倉田 百三(くらた ひゃくぞう、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、大正、昭和初期に活躍した日本の劇作家、評論家。
目次 |
[編集] 来歴・人物
広島県庄原市出身。1891年(明治24年)、呉服商の長男として生まれる。他は姉と妹ばかりで男児は百三ただ一人であった。西田天香の一灯園で深い信仰生活を送る。
広島県立三次中学校(現広島県立三次高等学校)入学、卒業。生涯の友となる香川三之助と出会う。
第一高等学校へ進む。在学中に一高の文芸部の機関誌に寄稿した論文(『愛と認識との出発』等)が一高内の自治組織による検閲の結果、不適切な単語が含まれるとの理由から鉄拳制裁が行われる事となるが、21歳で肺結核を発祥したため鉄拳制裁に耐え得る身体ではなく、死を予感して寄宿寮を脱する。一高では退寮はすなわち中退であった。
以後40余歳まで闘病生活が続く。また、神経症を患い、森田正馬の治療を受けている。病床で執筆活動を続け、『出家とその弟子』や『愛と認識との出発』など生命力みなぎる青春文学を世に送り出した。また、日蓮宗への傾倒から国家主義者の側面も持っていた。 満51歳没。法名は、戚々院釋西行水樂。
[編集] 著書
- 『出家とその弟子』岩波書店、1918 のち文庫、角川文庫、新潮文庫、旺文社文庫、講談社文庫
- 歌はぬ人 岩波書店 1920
- 布施太子の入山 曠野社 1921 のち岩波文庫、「俊寛・布施太子の入山」角川文庫
- 父の心配 岩波書店 1922
- 処女の死 春陽堂 1922
- 静思 曠野社 1922 のち角川文庫
- 転身 曠野社 1923
- 超克 改造社 1924 のち角川文庫
- 標立つ道 岩波書店 1925
- 希臘主義と基督教主義との調和の道 新しき村出版部 1925
- 『愛と認識との出発』岩波書店、のち角川文庫、岩波文庫
- 一夫一婦か自由恋愛か 岩波書店 1926
- 桜児 日向新しき村出版部 1926
- 絶対的生活 先進社 1930 のち角川文庫
- 恥以上 改造社 1930
- 冬鶯 創作集 先進社 1931
- 神経質者の天国 治らずに治つた私の体験 先進社 1932
- 生活と一枚の宗教 仏教研究叢書 第8 大東出版社 1932
- 大乗精神の政治的展開 大東出版社 1934
- 一枚起請文・歎異鈔 法然と親鸞の信仰 仏教聖典を語る叢書第13巻 大東出版社 1934 「法然と親鸞の信仰」講談社学術文庫
- 祖国の娘 平凡社 1935
- 日本青年の往くべき道 国民協会本部 1935 (国民運動パンフレツト
- 生きんとて 天来書房 1936
- 信仰読本親鸞聖人 大東出版社 1936
- 女人往生集 大東出版社 1936 改題「光り合ふ女性たち」「女人解脱」
- 青春の息の痕 或る神学青年の手紙の束 大東出版社 1938 のち角川文庫
- 大地にしく乳房 能登三四男 1938
- 祖国への愛と認識 理想社 1938
- 日本主義文化宣言 人文書院 1939
- 浄らかな虹 大日本雄弁会講談社 1939
- 法の娘 砂子屋書房 1940
- 親鸞 大東出版社 1940 のち角川文庫、中公文庫
- 光り合ふいのち 新世社 1940
- 共に生きる倫理 大東出版社 1941
- 東洋平和の恋 人文書院 1942
- その前夜 四方木書房 1944
- 『大化の改新』紀元社、1944
- 倉田百三選集 全10巻、大東出版社(1946-51)のち日本図書センターより復刊
- 別巻は「倉田百三評伝」亀井勝一郎
- 瞳ぼとけ 表現社 1949
- 絶対の恋愛 若き恋人への手紙 創芸社、1950 のち角川文庫
- 倉田百三作品集 全6巻、創芸社、1951
- 倉田百三選集、全5巻、春秋社(1953-54)
- 倉田百三歌集 角川書店、1957

