塩川正十郎
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しおかわ まさじゅうろう
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| 生年月日 | 1921年10月13日(91歳) |
| 出生地 | 大阪府布施市(現・東大阪市) |
| 出身校 | 慶應義塾大学 |
| 前職 | 三晃代表取締役社長 布施青年会議所理事長 布施市助役 弘容信用組合常務理事 日本武道館会長 東洋大学理事長 |
| 現職 | 東洋大学総長 前関西棋院理事長 自由国民会議代表 財団法人国民政治協会会長 |
| 称号 | 勲一等旭日大綬章 経済学士(慶應義塾大学・1944年) 大阪府東大阪市名誉市民 |
| 親族 | 父・塩川正三 |
| 公式サイト | 総長メッセージ - 大学紹介 - 東洋大学 |
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| 内閣 | 第1次小泉内閣 第1次小泉第1次改造内閣 |
| 任期 | 2001年4月26日 - 2003年9月22日 |
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| 内閣 | 宮澤内閣 |
| 任期 | 1991年11月5日 - 1992年12月12日 |
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| 内閣 | 宇野内閣 |
| 任期 | 1989年6月3日 - 1989年8月10日 |
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| 内閣 | 第3次中曾根内閣 |
| 任期 | 1986年9月9日 - 1987年11月6日 |
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| 内閣 | 鈴木善幸内閣 |
| 任期 | 1980年7月17日 - 1981年11月30日 |
塩川 正十郎(しおかわ まさじゅうろう、1921年(大正10年)10月13日 - )は、日本の政治家。自民党の政治資金団体たる財団法人国民政治協会会長及び党友組織自由国民会議代表、東洋大学総長、財団法人関西棋院前理事長、特定非営利活動法人武士道協会理事長。愛称は「塩爺」(しおじい)。毎年11月に日本テレビ系列で放送されるベストヒット歌謡祭では大会実行委員会名誉会長を務める。
衆議院議員(11期)、自民党総務会長(第1次橋本内閣時代)、運輸大臣(第52代)、文部大臣(第108代)、内閣官房長官(第50代)、自治大臣(第42代)、国家公安委員会委員長(第52代)、財務大臣(第2代)などを歴任した。
目次 |
来歴・人物 [編集]
生い立ち [編集]
大阪府中河内郡布施村(現在の東大阪市)に生まれた。父は旧布施市市長の塩川正三。大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)出身。父から「田舎の学校へ行ったってしょうがない。都会の、それも慶應へ行け。慶應へ行くんだったら、経済じゃないか。それ以外は、あかんぞ」と言われ慶應義塾大学経済学部へ入学[1]。在学中、学徒出陣を経験し、出征する。大学では高橋誠一郎の講義を熱心に聴講し、登山にも熱中した。終戦後、会社を設立し、経営者となる。その後、青年会議所や信用組合の幹部、市役所の助役を経て1967年の総選挙で大阪4区より当選、衆議院議員となる(当選同期に山下元利・増岡博之・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清など)。当選後は福田赳夫派に入会し、福田内閣の発足時には内閣官房副長官に抜擢された。
政界 [編集]
党内では森喜朗、三塚博、加藤六月らとともに安倍派四天王と称され、安倍晋太郎の総裁就任が悲願だった。税制など経済政策に精通しており、地価税を導入した時の党税調会長として知られる。鈴木善幸内閣で運輸大臣に就任し初入閣を果たしたのを皮切りに文部大臣(第3次中曽根内閣)、内閣官房長官(宇野内閣)、自治大臣・国家公安委員会委員長(宮澤内閣)を務めた。選挙では中選挙区時代に連続10回の当選をはたしたが、小選挙区比例代表並立制導入後初めての選挙である1996年の第41回衆議院議員総選挙では重複立候補を辞退し、大阪13区から出馬するが、自民党総務会長在職中だったにもかかわらず落選。引退も囁かれたが、高齢批判をはね返して4年後の第42回衆議院議員総選挙で返り咲きを果たした。
小泉政権 [編集]
01年自民党総裁選で森派の後輩・小泉純一郎の選対本部長を務める。その後成立した第1次小泉内閣で財務大臣に就任した。若手や民間人、女性の抜擢で「驚天動地」と称された組閣において、最重要職の財務大臣に80歳になろうとする人物が就いたことは逆に大きな驚きを与え、サプライズ人事の一つされた。ところが財務大臣就任時の記者会見での愛嬌ある語り口などが話題となり、若い世代から「塩爺」(しおじい)と呼ばれるなど広く親しまれ、人気を博した。国際的に名の知られた宮澤喜一の後任であったため、「シオカワとシオザキ(塩崎恭久)の間違いじゃないか[2]」と就任時は手腕を不安視する声もあったが、金融実務や党税調会長の経験から手堅く実務をこなし、小泉構造改革の旗振り役をつとめた。
小泉とは「30年来の朋友」(2001年の小泉内閣メールマガジン)という間柄で[3]、青木幹雄と組んで党内融和を説く森とは一線を画し、小泉の後見人として影響力を行使した。
政界引退後は、日本相撲協会運営審議会委員、財団法人尾崎行雄記念財団顧問、財団法人国民政治協会会長、自由国民会議代表、時代を刷新する会会長(三代目)、ベストヒット歌謡祭実行委員会名誉会長を務める。『産経新聞』にてコラム「塩爺のよく聞いてください」(2008年4月 - )毎月第3木曜日を担当。
略歴 [編集]
- 1921年10月21日 大阪府布施市(現東大阪市)にて誕生
- 1944年3月 慶應義塾大学経済学部卒業扱[4]
- 1946年9月 三晃株式会社(代表取締役)[4]
- 1957年8月 布施青年会議所(現、東大阪JC)理事長[4]
- 1958年5月 弘容信用組合常務理事[4]
- 1964年6月-1966年12月 布施市助役[4]
- 1966年3月 東大阪三市合併協議会事務局長[4]
- 1967年1月 衆議院議員(- 1996年9月)[4]
- 1972年12月-1973年11月 通商産業政務次官[4]
- 1976年12月-1977年11月 内閣官房副長官[4]
- 1979年11月-1980年5月 衆議院商工委員長[4]
- 1980年7月-1981年11月 運輸大臣[4]
- 1983年12月 衆議院安全保障特別委員長[4]
- 1986年9月-1987年11月 文部大臣[4]
- 1988年12月-1989年6月 東洋大学理事長[4]
- 1989年6月-1989年8月 内閣官房長官[4]
- 1989年9月-2001年11月 東洋大学理事長 [4]
- 1990年3月 自民党税制調査会長[4]
- 1991年11月-1992年12月 自治大臣・国家公安委員会委員長 [4]
- 1993年8月 自民党憲法調査会長 [4]
- 1995年9月 自民党総務会長[4]
- 1996年10月 第41回衆議院議員総選挙に大阪府第13区から出馬するが落選
- 1998年6月-2007年6月 日本武道館会長
- 2000年6月 第42回衆議院議員総選挙で返り咲き
- 2000年11月 勲一等旭日大綬章を授章
- 2001年4月26日-2003年9月22日 財務大臣[4]
- 2003年10月 第43回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界引退
- 2004年1月 東洋大学総長に就任(現職)
- 2004年3月 関西棋院理事長に就任[5]
- 2004年5月24日 東大阪市から名誉市民の称号を贈られる[6]
- 2004年6月 日本相撲協会運営審議会委員に就任[7](現職)
- 2006年7月 自由国民会議代表に就任(現職)
- 2009年12月 国民政治協会会長就任(現職)
- 2010年9月 関西棋院理事長を退任
発言・エピソード [編集]
- 愛称
- “塩爺”はあだ名で、割合古くから使用されていたが、主に財務大臣就任後に広まった。
- 塩爺として愛される所以はその独特の船場言葉(関西弁・大阪弁)にあり、国会答弁などでも船場言葉を連発し、答弁の内容を忘れてしまって「忘れてしまいましたわ」と言うなど、その好々爺然とした外見とゆったりとした船場言葉で許されてしまう所にある。相手をとがめる際は「スカタン」が口癖。本人曰く、以前は孫から「おじいちゃん」と呼ばれていたのだが、『塩爺』というあだ名が有名になるにつれて、最近は孫からも「塩爺」と呼ばれている様である。
- 性格
- 若い頃には、性格は極めて短気ですぐにカッとなることから「瞬間湯沸かし器」と呼ばれていたが、その後、加齢ならびに大病を患ったためか、外見上は温厚になったように見える。しかし、老いてなお、直情的な発言も少なくない。
- 2000年の衆院選において、当時の森喜朗首相の指示で中川秀直が塩川邸を訪ね、塩川に引退勧告をすると灰皿を投げつけ「君(中川のこと)は何を言ってるんだ!帰れ!」と怒鳴りつけたという[8]。議員引退後、テレビ番組にコメンテーターとして出演する機会が増えたが、出演中もしばしば興奮気味の口調で喋ることがある。
- 嗜好
- うどんが好物で、特にきつねうどんを注文することが多く、代議士時代から地元に帰ると必ず馴染みのうどん屋にきつねうどんの出前を頼み、おにぎりまたは稲荷寿司と一緒に食べる時が一番の楽しみだとのこと(TV番組出演時のコメントより)。
- ある時、いつもの様に馴染みのうどん屋にきつねうどんの出前をしたのだが、何時までたっても出前が届かず、怒り心頭に発して電話を掛けて苦情を言うと、うどん屋の主人に「忘れました」と答えられたという。国会答弁の際に塩川が言った発言(下記参照)を真似て返されたのだが、あまりに上手い返答に本人曰く「さすがにこの時は文句言えまへんでしたわ」とのこと。
- 内閣報償費
- 2001年1月にテレビ放送で内閣官房長官時代について触れ「(機密費を)野党対策に使っていることは事実。現ナマ(金)とか、一席設けるとか」「(官邸の金庫に)4,000万- 5,000万円入っていた」と述べていたが、その件について5月15日衆院予算委で日本共産党の穀田恵二が質問したところ、「忘れました」「官房長官は短かったし、思い出せない」という逃げの答弁に終始し、その後もついに明確な答弁はなかった。2009年11月に麻生内閣が総辞職確定後に機密費の支出を受けていた問題が浮上した際にも『ウェークアップ!ぷらす』内で「分からない」「あの世まで持っていく」といった趣旨の発言をしている。
- コメンテーターとしての発言
- 現在でも関西ローカル番組を中心に政治のご意見番としての意見を述べることがたびたびある。
- しかし、日本テレビの『真相報道 バンキシャ!』に御意見番として出演した際、生放送中に奈良騒音傷害事件の加害者を「気違い」と放送禁止用語を用いて評したり、『ウェークアップ!ぷらす』において金大中事件を取り上げた際、金大中をKCIAが日本から拉致したことと北朝鮮の拉致問題を重ねて「(拉致は)朝鮮民族の特徴なんでしょうなぁ」と発言したりと、その大胆な発言で度々話題になる。
- ニッポン放送株大量取得騒動
- 2005年3月6日放映の『時事放談』でライブドアのニッポン放送株大量取得問題で、堀江貴文について「いい悪いを言っているんじゃない」という前提の上で「米国のビジネスのスピードはこんなもの」、「警鐘を鳴らしたという点において、すごいなと思っている」と、同席した後藤田正晴元副総理と共に評価していたが、2006年に堀江が逮捕された後では同年の衆議院選挙で自民党が刺客候補として応援した点について「これはちょっとまずかった」、「やっぱり騙されたっていうことはありますね」と述べている。
- 特別会計
- 「母屋でおかゆをすすっているときに、離れですき焼きを食べている」[1](一般会計が赤字を削っているのに特別会計で浪費していることを揶揄した表現)
- 国民年金
- 「国民年金だけで議員は生活できると思うか?」と質問された際に「ほんなん、できるかいな。ぼくら(議員)はあんたら(国民)と生活のレベルが違うやないか!(毎月)100万かかるよ。みんな、人間平等だと思っていたらとんでもない間違いだ。」と発言している[9]。
顕彰 [編集]
群馬県邑楽郡板倉町にある東洋大学板倉キャンパス内に塩川正十郎の銅像がある。これは、塩川が本大学の理事長を務めているためである。現在は同大学総長を務めている。
家族 [編集]
父は旧布施市市長の塩川正三。大阪大学名誉教授の塩川二朗は弟。TBS元プロデューサーの塩川和則は親戚筋に当たる。官房長官在任当時、甥が大学で一気飲みを強要された挙句、急性アルコール中毒で急死する悲劇に見舞われた。朝日新聞への投書でこの風潮に問題提起している [10]。
著書 [編集]
- 「ある凡人の告白 - 軌跡と証言」(藤原書店) ISBN 9784894346918
脚注 [編集]
- ^ 塩川正十郎-卒業生インタビュー慶應義塾大学経済学部・大学院経済学研究科
- ^ 塩崎は宮澤と同じ宏池会の出身であり、また安倍晋太郎の次男・安倍晋三と当選同期である。
- ^ 前述のメールマガジンの中で、塩川の衆院選初出馬の際、小泉の父・小泉純也が応援演説に駆けつけた話などが語られている。また、塩川は小泉のことを「自己主張が強く、人が考え付かない発想を口にする言動が多かった」と当時を振り返っている
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 塩川正十郎略歴
- ^ “関西棋院の発展に努める 塩川新理事長が就任会見”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年3月6日) 2012年9月29日閲覧。
- ^ “塩川前財務相が名誉市民に 東大阪市、司馬さんに次ぎ”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年5月24日) 2012年9月29日閲覧。
- ^ “塩川、堺屋両氏が新委員 相撲協会の運営審議会”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年6月17日) 2012年9月29日閲覧。
- ^ この一件から、塩川は森に対して距離を置くようになった。また、中川には「後で森に言っとけ!『塩川先生が帰れと言ってました』とな」と激怒したともされる。
- ^ 中京テレビ:プラス1フォーカス 許せない消える年金(2004年5月4日時点のアーカイブ)
- ^ 「酒の無理強い、死を招く怖さ」、『朝日新聞』1991年11月23日朝刊17面「声」欄への投稿(「朝日けんさくくん」2012年7月27日閲覧)。なお、投稿には「知人の息子が苦労して入学した有名大学のコンパで、しょうちゅうの一気飲みをして死亡」とある。
関連項目 [編集]
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代: 橋口隆 |
1979年 - 1980年 |
次代: 野中英二 |
| 官職 | ||
| 先代: 宮澤喜一 |
第2代:2001年 - 2003年 |
次代: 谷垣禎一 |
| 先代: 吹田愰 |
第42代:1991年 - 1992年 |
次代: 村田敬次郎 |
| 先代: 吹田愰 |
第52代:1991年 - 1992年 |
次代: 村田敬次郎 |
| 先代: 小渕恵三 |
第50代:1989年 |
次代: 山下徳夫 |
| 先代: 藤尾正行 |
第108代:1986年 - 1987年 |
次代: 中島源太郎 |
| 先代: 地崎宇三郎 |
第52代:1980年 - 1981年 |
次代: 小坂徳三郎 |
| 先代: 鯨岡兵輔 |
1976年 - 1977年 |
次代: 森喜朗 |
| 党職 | ||
| 先代: 武藤嘉文 |
自由民主党総務会長 第37代 : 1995年 - 1996年 |
次代: 森喜朗 |
| 先代: 西岡武夫 |
自由民主党税制調査会長 第24代 : 1990年 - 1991年 |
次代: 武藤嘉文 |
| 学職 | ||
| 先代: 田中栄次 |
東洋大学理事長 第23-27代:1988年 - 2000年 |
次代: 菅野卓雄 |
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