リー・クアンユー
| リー・クアンユー Lee Kuan Yew 李光耀 |
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| 任期: | 1959年6月3日 – 1990年11月28日 |
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| 出生: | 1923年9月16日 シンガポール |
| 政党: | 人民行動党 |
| 配偶者: | 柯玉芝 |
リー・クアンユー(Lee Kuan Yew, 李光耀、1923年9月16日(旧暦8月6日) - )は、シンガポールの政治家。現在、顧問相(内閣資政)(en:Minister Mentor)。初代首相、前上級相(en:Senior Minister)などを歴任した。
初代首相就任以降、長期にわたり権威主義的政治体制、いわゆる「開発独裁」を体現し、独裁政権下ながらシンガポールの経済的繁栄を実現した。
目次 |
[編集] 家族
- 妻:柯玉芝 - Lee & Lee法律事務所元共同運営者(1920年12月21日 - 2010年10月2日)
- 長男:シェンロン - 前陸軍准将、首相
- 妻:何晶 - テマセク・ホールディングス元社長
- 次男:シェンヤン - シングテル元CEO
- 妻:Lim Suet Fern
- 長女:ウェイリン(Lee Wei Ling) - 国立脳神経学院en:National Neuroscience Instituteを運営
自叙伝によると、自身は客家系華人の4世にあたるという。曽祖父のボクブンは、1862年に清の広東省からイギリスの海峡植民地であったシンガポールに移民を行った。本人は自分の事を「実用主義者」「マラヤ人」と称している。
英語を話す家系に生まれたクアンユーは、幼くして英語教育を受けた。祖父のフンロンからは、Kuan Yewとともに、Harryという英語名も授けられ、家族や親しい友人からは、現在でも“Harry”と呼ばれている。
柯玉芝とは1950年9月30日に結婚し、二男一女をもうけた。「私より優れた頭脳を持つのは妻だけだ」と冗談交じりに発言している。
2人の息子はいずれも国内の高官の地位に就いた経験がある。前陸軍准将である長男のシェンロンは、2004年より首相兼財務大臣の地位に就き(財務大臣は2007年に辞職)、シンガポール政府投資公社の副議長も務めている(クアンユーが議長)。次男のシェンヤンは、国内最大の通信企業であるシングテルのCEOを務めていた。現在は退任している。シンガポール航空やDBS銀行の様な政府関連企業の持株会社であるテマセク・ホールディングスが、現在シングテルの株の56%を保有しており、そのテマセク・ホールディングスは、長男シェンロン の妻である何晶が社長を務めていた。国立神経学界を運営している長女のウェイリンは、未だに独身を貫いている。妻の柯玉芝は、以前Lee & Lee法律事務所を夫と共同運営しており、クアンユーの弟であるデニス・フレディ・スアンユーの3名は、同事務所のパートナーだった。他にも、モニカという妹がいる。
この様な同族支配体制ともとれる現状に、クアンユー自身は縁戚者に対する持続的な特恵は存在せず、各々の能力に見合った地位に置いているのだと述べている。
[編集] 青年時代
テロク・クラウ小学校、ラッフルズ学院を経て、ラッフルズ大学で学んでいたが、太平洋戦争の勃発に伴う1942年の日本軍によるシンガポール占領に伴い、学業を中断せざるを得なくなった。その間は、タピオカを利用して作った“スティックファス”という接着剤を闇市で売って生計を立てていた。また、同年より日本語と中国語の学習を始め、翌1943年から1944年までの間、日本側と協働して、昭南特別市の報道部において、連合国の通信を盗聴した内容を翻訳する業務に従事した。
大戦後の1945年にはイギリスに留学し、ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジで法律学を専攻し(後に名誉校友となる)、1949年に首席で卒業した後は、短期間ではあったがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通い、同年に帰国した後は弁護士資格を取得し、“Laycock and Ong”という法律事務所に勤務した。
[編集] 政治活動
[編集] 初期
リーの政治家としての初体験は、勤めていた法律事務所の上司であるジョン・レイコックが親英政党である進歩党の候補者として立法審議会の選挙に立候補した際の運動員としての役割だった。しかし、党が大衆、特に中国系の労働者階級からの支持を得ることが出来ず、リーは党に将来性が無い事を直感した。この傾向は、1953年にレンデル新憲法が選挙権をシンガポールで生まれた全ての人々に付与する事を決め、中国語の話者が著しく増加する事となった際に、特に明確なものとなった。
労働組合や学生自治会の法律顧問として雇われていた際、中国系の住民と繋がりを持つ様になり、労働組合の運動指導者にまでなり、この事がリーにとって大きな転機となった(後にリーが創設する人民行動党は、この歴史的な絆を、ストライキの際の交渉手段として利用する事となる)。1950年には、「イギリスを追い出し独立を達成できるのはマラヤ共産党だけである」と演説している。共産主義には疑問を感じていたが、マラヤ共産党の抗日・反英運動への貢献は認めている。
[編集] 人民行動党の創設
1954年11月21日に、“ビールを飲むブルジョア達”と指称した、英語教育を受けた中産階級グループと共に人民行動党を創設した。党は、容共的な労働組合との政略的な連携を通じて創設されたものだが、これは英語教育を受けた層は容共派からの多くの支持が必要だった一方で、共産主義者達はマラヤ共産党が違法だった事から、これをカモフラージュする為の非共産主義政党を欲していた事に起因するもので、この連携をリーは“政略結婚”と称した。両派の共通の目的は、自治に賛成する世論を喚起する事によって、イギリスによる植民地支配に終止符を打つ事だった。
結党式は、ビクトリア記念ホールで開催され、会場は1,500人にも及ぶ支持者と労働組合員達で埋め尽くされた。リーは党事務総長となり、後述する1957年の一時期を除いて、1992年までこの地位を保持する事となる。結党式には、統一マレー国民組織のトゥンク・アブドゥル・ラーマンや、マレーシア華人協会のタン・チェンロクが、新党に信頼を与える為のゲストとして招請された。
[編集] 野党活動
1955年の初当選以降は、野党指導者としてデービッド・マーシャル率いる与党の労働戦線による連立政権に対抗し、ロンドンでマーシャルと彼の後継者であるリム・ユーホクによって二度に亘って開催されたシンガポールの未来に関する会議にも人民行動党代表として参加した。
一方で、リーの容共的な側近達は、しばしば過激な行動に出る集会に参加した事から、リーは彼らから距離を置く様になったが、その一方で事あるごとに政権与党を無能であると批判し続け、この頃からリーは党内外の政敵達と戦わざるを得ない状況に置かれる様になった。
1957年に容共派が偽の党員達を利用して党権を掌握すると、リーは一時的に事務総長の地位を追われる事となるが、幸いにもリム・ユーホクが共産主義者達の一斉検挙を命じたため、リーは事務総長に復帰する事となる。
リーが次の選挙に備える間、党内の共産主義による脅威は一時的に取り除かれたが、これと同時期に、リーは共産主義陣営のリーダーであるフォン・チョンピクと初めて密会の席を設ける事となった。
[編集] 自治政府時代
1959年6月1日の総選挙で、人民行動党は51議席中43議席を獲得した。シンガポールは、国防と外交を除いた国内問題に関する自治権を得るようになり、6月3日にリーは首席長官だったリム・ユーホクに代わって、シンガポールの初代首相に就任した。首相に就任する前には、リム・ユーホク政権下で逮捕されたリム・リンシオンとデヴァン・ナイルの釈放を要求して、実現させている。
リーは教育や住居、失業など様々な問題の解決に取り組む事となり、住宅問題に関しては、住居及び開発委員会(Housing and Development Board, HDB)を設立した。
マラヤ連邦の首相であるラーマンが、1961年にマラヤ連邦とシンガポール、サバ州、サラワク州を含む連邦の形成を提案した後、リーはマラヤ連邦との合併を実現するべく、イギリスの植民地支配を終える為の運動を開始した。その為に、1962年9月1日に実施された国民投票の結果を利用し、そこでは、投票者の70%がリーの提案を支持したという結果が出されており、住民の大多数がイギリスからの完全独立を望んでいるという事を如実に表していた。
合併に対して強硬に反対し一説では破壊活動にも関与していたとされる容共派のグループを、リーはこれらの運動の間に壊滅させている。
[編集] マレーシア時代
1963年9月16日に、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったが、連邦は短命に終わる事となる。統一マレー国民組織によって支配されているマレーシア政府は、シンガポールの住民の大多数を占める中国系住民の包含と、マレーシアにおける人民行動党の政治参加に懸念を抱くようになった。リーは公然とブミプトラ政策の「マレー人などの土着民を優遇するマレーシア」に反対し、人民行動党のスローガンとして「マレーシア人の為のマレーシア」を主張した(当時シンガポール島の中国系住民もマレー人も含めてマレーシア人であり、マレー人のみへの優遇政策を批判した)。この事から、双方の関係は悪化してしまい、国民組織の中にはリーの逮捕を主張する者もいた。
人種間の対立は激しさを増し、ムハンマドの誕生日である1964年7月21日には、マレー人と中国系住民が激突し、23人が死亡、100人以上が負傷するといった事態も発生した[1]。同年9月には、更に大規模な暴動が発生し、事態の収拾を図る為に、双方のリーダーであるリーとラーマンが、揃って公の場に姿を見せる事を強制させられる事となった。この事態から、食糧を含む物資の輸送に著しい困難を来たすようになった事から、物価が劇的に上昇し、国民の生活に更なる困難を招く事となった。
事態の解決は絶望的な状況になり、首相であるラーマンは「中央政府への忠誠を示さなかった州政府とは、全ての関係を断ち切る」といった方針から、シンガポールをマレーシアから追放する事を決定した。リーは連邦に留まろうと頑ななまでに打開策を考え続けたものの、失敗に終わる事となる。1965年8月7日、リーはマレーシアからの分離に合意する文章に署名した。
この事は、マレーシアとの合併だけがシンガポールが生き残る為に重要な事と考えていたリーにとって大きな打撃となった。そして、8月9日にシンガポールの独立を発表するテレビ中継の中で、
私にとって、今は苦渋の時です。生涯、私は2つの領域の合併と統一を信じてきました。私リー・クアンユーは、自由と正義の原則、多くの人々の福祉と幸福の探求、平等な社会を築く事に基づき、本日1965年8月9日にシンガポールが永久に主権民主主義並びに独立国家である事を宣言致します。
と国民に語りかけた上で、シンガポールの独立を宣言した。また、独立自体が嘗てのマレー独立運動の盟友であったラーマンからの追放宣言に等しかった事もあって、中継の最中には自制心を失って泣き出す場面もあった[2]。
[編集] 首相時代
1965年8月9日に、マレーシア議会は州としてのマレーシアとのシンガポールの関係を断ち切る決議を可決し、この事から国家としてのシンガポールが成立する事となった。天然資源の欠乏や水源の乏しさ、国防能力の脆弱さは、リーとシンガポール政府が取り組まなければならない大きな問題だった。
自叙伝によるとリーは、マレーシア時代は不眠症に悩まされ続け、シンガポールの独立直後は病に倒れた事もあったという。
この事から、イギリスのハロルド・ウィルソン政権で高等弁務官を務めていたジョン・ロブからは、シンガポールの国家としての資質を懸念する主張がなされた事もあったが、その際リーは「シンガポールについて心配する必要はありません。我々は、どんな苦境に置かれたとしても正気でいられる理性的な連中です。我々は、政治というチェス盤の上でどんな行動を起こす際も、可能な結果を全て導き出します」と国家運営に関して自信がある事を述べている。
シンガポールは、独立国としての国際的な認知を広める為の活動を開始し、1965年9月21日には国際連合に加盟し、1967年8月8日には他の東南アジア4ヶ国と共にASEANを設立した。また、1973年5月25日にはリーがインドネシアを訪問し、以降インドネシアとは良好な関係を築く事となる。
シンガポールには、移民が同化する事ができた優位な文化が無かった事から、リーを始めとするシンガポール政府は、1970年代から1980年代にかけてシンガポール独自のアイデンティティを創り上げようとする運動を行った。
また、宗教的な寛容性と人種的な調和を維持する事の重要性を強調し、宗教的な暴力や民族のアイデンティティを刺激する言動など、宗教によって引き起こされると考えられるあらゆる脅威に対処する為の法律を制定した。多数の死傷者を出した天安門事件(六四天安門事件)の際には、中国共産党による鎮圧に対して、「私でも同じことをしたであろう」と述べ、個人として「歓迎の意」を表明した。
[編集] 国防政策
「シンガポールの軍事」も参照
建国当初のシンガポールは、共産主義者やインドネシア、シンガポールをマレーシアの配下に置く事を目論んでいた統一マレー国民組織の過激派など複数の脅威によって、他国に比してその立場が脆弱である事を痛感させられる事となる。国防面に関してリーはスイスを手本として、非同盟と武装中立を国是とする事を宣言した。同時に、ゴー・ケンスイに国軍創設の準備を命じ、他国に指導や訓練、軍事施設の設立なでの面での援助を要請した。
1967年に、イギリスがシンガポールならびにマレーシアに駐留する軍隊を撤退若しくは削減する、との宣言をした事に伴い、シンガポール政府は職業軍人以外にも必要兵力を満たす為、2年間の徴兵制度を義務付ける国民役務(National Service)を実施する事を発表した。また、1968年1月にフランス製の戦車であるAMX-13を若干数、1972年には最新式戦車を99台購入した。1969年には、イギリスからBAC 167 ストライクマスターを購入し、テンガ空軍基地でパイロット養成の為の基礎訓練を実施した。
後にシンガポールは、ASEAN諸国や五ヵ国防衛取極め締結国、他の非共産主義諸国などとも強固な軍事関係を築く事となった。
[編集] 経済政策
マレーシアから独立して以降は、共同市場と経済的な後ろ盾を失い、更に10万人以上の雇用を創出していたイギリス軍基地が1971年10月31日は撤退した事は、それに追い討ちをかける結果となった。また、国内に世界に通用する地場企業が存在しない事からシンガポール政府は、外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ちたてた。1961年に、対外投資を誘致する為に設立された経済開発庁は、外資系企業を担い手とするべく、税制面で他国にも劣らない優遇措置を行ったり、安価な熟練工を提供するなど、外資が投資・進出し易い環境を整備した。同時に、政府は経済の厳重な統制を維持し、土地、労働と資本的資源の配分を管理した。
労働と資本、特に労働組合と雇用者側のバランスをとる際に、政府を含めた3者間の協調組合主義の形は、搾取と大規模なストライキ活動がともに終結した時に、安定と一貫した経済成長を導く事となる。
空港・港湾・道路・通信ネットワークなどといった、近代化に必要なインフラストラクチャーは、政府の介入によって向上若しくは新たに建設される事となった。
国外からの観光旅行を誘致する為に観光局が設立され、それに伴い、サービス産業で多くの雇用を創出する事となり、観光はシンガポールにとって重要な外貨獲得の手段の一つとなった。
経済政策に関しては、ゴー・ケンスイやホン・スイセンなど有能な閣僚によってサポートを受け続け、彼らの政策によって、1965年には14%だった失業率が、1975年には半分未満の6.5%にまで引き下げる事に成功した。
[編集] 言語政策
リーは、ビジネスや行政、異なる人種間における共通語として、植民地時代の遺産である英語を使用する事を続けた。一方でマンダリン・マレー語・タミル語も公用語として公認した。公立の学校における授業では、英語が使用されているが、同時に生徒自身の民族語を習得する為の授業も行われている。
1979年からは、中国系住民を対象としたマンダリンを話す為のキャンペーンを開始した。年配の視聴者の為に、ニュース番組とオペラの中継を除く全ての番組でマンダリンが使われるようになった。しかし、方針自体は非マンダリン言語を犠牲とする結果となり、現在では若い世代の大部分は非マンダリン言語を流暢に話す事ができず、祖父母の世代の人間と会話をする際は、若干の困難を伴う事となっている。
[編集] 汚職との戦い
他の多くの国と同様に、シンガポールが汚職に影響されていないという訳ではなかった。中国国民党が汚職によって中国本土で信頼を失った事をよく認識していたリーは、自身が共産主義者達と戦った経験から、清廉な政治体制を貫かなければならないと強く認識するようになった。汚職調査局(CPIB)を設置して、逮捕の実行、捜査、告発者との連携、容疑者に対する銀行口座や所得税申告の調査など、局に多大な権限を付与する法律を導入した。
リーの支援により、調査局はどの様な事件に対しても捜査を行う権限が与えられており、実際に数名の大臣が横領の容疑で逮捕されている。
[編集] 家族計画
1960年代後期には、シンガポールの増大する人口が、発展中の経済に負担を掛ける可能性があるとして、「子供は2人まで」という家族計画を推奨するキャンペーンを展開し、子供を持つ夫婦からは不妊手術が受けられるように主張する声が多く挙がった。
他にも、大卒女性の出産を推奨するなどの優生思想に基づく選別的な教育制度を実践した。また、回顧録では「多民族社会では、ある民族の知能指数(IQ)が他よりも低いというベルカーブ仮説は動かしがたい現実だったからです」と主張している。
[編集] マレーシアとの関係
マハティール・ビン・モハマドが次のマレーシアの首相に就任する事が確実視された1978年に、リーはデヴァン・ナイル大統領(当時)を通じて、マハティールにシンガポールを訪問するよう促した。以降も両者は親密な関係を築くようになり、マハティールは、民主行動党の華人のリーダーとのつながりを絶つようリーに要求し、引き換えにマハティールはマレーシアにおけるシンガポール人の情勢に干渉しないと約束した。
1981年12月に、マハティールは国内を1つの時間帯に統一する為、マレー半島の時間帯を変更し、リーもこれに同調した事から、マハティールとの関係は1982年以降非常に良いものとなった。
[編集] 首相退任後
1990年11月、ゴー・チョク・トンに首相の座を譲り、上級相となる。2004年8月、ゴーが上級相になったことにい、首相府内政顧問となった。人に勧められて警世のために回顧録を著し、また『日本経済新聞』「私の履歴書」に登場した(1999年1月分)。回顧録の邦訳は、日本経済新聞社から出ている。リー・クアンユー回顧録[上]では原爆投下については「広島と長崎に原子爆弾が落とされなければ、数十万人に上るマレーとシンガポールの民間人や、日本人でさえも数百万人が犠牲になっていただろう。」と原爆投下を肯定するような事を述べている。
1994年に「つばを吐いたり、ガムを噛んだり、ハトに餌付けをしたりした、300万人のシンガポール市民を罰することの効果についての30年間の研究に対して。」との名目で、イグノーベル賞心理学賞を授与された。1996年に自らがディスレクシアである事を公表し、以来NPOによるディスレクシアへの支援活動に私財を投じている[3]。
2007年3月に来日し、3月22日には麻生太郎外相と会談した。
2008年のチベット問題では、「一部の国の指導者が中国の人権問題とチベット問題を理由に、北京オリンピックの開幕式をボイコットすると圧力をかけているが、何の根拠もないものだ」と欧米各国の行動に対して批判的な態度を示しており、さらにリーは「チベットに抱く西側の人々のイメージは『ロマンチックな理想郷』であり、『ヒマラヤとダライ・ラマ』の地だ。しかし、中国にとってのチベットは『封建社会』であり、『後進地域』なのだ。中国はチベットを支配して以来、インド的な身分制度や農奴を廃止し、医療施設、学校、道路、鉄道、空港などを作り、少なくともチベットの生活水準を上げてきた」と語ることによって西側メディアの中国批判を牽制した。対中弱腰姿勢への批判を交わすためにチベット問題を非難した台湾の馬英九総統とは正反対である。
2011年5月14日には上級相のゴー・チョク・トンと共同で閣僚ポストから退く意向を表明した[4] [5]。
リー・クアンユー、ゴー・チョクトン共同辞任声明 日本語訳[6]
"(今回の選挙で)我々は新しい政治的状況を知るに至り、そしてそれが、どのように未来に影響を与えるか考慮しました。 我々はシンガポールの発展に貢献しました。 複雑で難しい状況の中、シンガポールをさらに前進させる若者たちの時代がやってきたのです。 首相や彼を支える若い世代のリーダーは、新鮮でクリーンな基盤を持つべきです。 若い世代は、汚職が無くしかも実力主義(知的エリート階級の)の政府を持つこと、加えて高い生活水準を享受すること以外にも、自分自身に影響を及ぼす決定により多く携わりたいと願っています。 重要な分岐点となる今回の選挙の後、 私たちは、内閣を去る決意をしました。そして、完璧に若返った内閣に、未来のシンガポールを形作りつつあるこの若い世代と前進してもらう事にしました。
しかし、この若い内閣たちは古い世代のためにも存在していることを忘れてはいけません。この古い世代は、シンガポールに貢献してきたのであり、十分に省みられなければなりません。"
[編集] 評価
1990年11月28日に自ら首相を辞任して以降も、同年にゴー・チョク・トン政権の上級相、2004年にはリー・シェンロン政権の顧問相を務める等、未だにシンガポールにおいては絶大な影響力を持っている。
首相時代は、人種差別への反対と男女平等を唱える傍ら、自らの保身と自国の経済的発展を何よりも優先し、学校教育において早期選抜を実施したり、国内における報道や発言の自由を規制した。これらの独裁的な国内統治の方法は内外からの多くの批判を受ける事となったが、シンガポールを大韓民国、中華民国(台湾)、香港と共に「アジア四小龍」の一つに数えられるほど、東南アジアを代表する経済大国にまで導いた功績が大きく、シンガポールの経済成長の恩恵に大きくあずかった中高年層からの支持が厚い。
日経の大林尚記者は、「民主政治は最大限に尊重されなければならない。だが国や国民が重大な危機に瀕している時は、民主的と言えないやり方にも羨ましさを感じることがある。」とシンガポールを評価している[7]。
[編集] 言語
主な使用言語は英語とマレー語である。自伝によるとマンダリン、福建語は演説が可能であるほど話すことができるが、幼少期には中国語はほとんど話す事が出来ず、福建語の入り混じったマレー語で会話していた(本人談)[要出典]が、前述の通り、太平洋戦争中に学習した。この学習体験は、「Keeping My Mandarin Alive」として、一冊の本にまとめられている(和訳なし)。
[編集] 脚注
- ^ 中国系住民が、マレー人の集会に瓶を放り込んだという説が有力とされている。
- ^ 他にも、独裁とそれに伴う言論統制に嫌気がさした若年層を中心とした人材の国外流出が深刻化し、他国に移住する国民に向けてテレビ中継で母国に止まる様に訴える際も泣いている。
- ^ 読み書きのみの学習困難(ディスレキシア)への対応策
- ^ “シンガポール、リー・クアンユー顧問相が辞任へ”. 読売新聞. (2011年5月14日) 2011年5月14日閲覧。
- ^ “シンガポールのリー・クアンユー顧問相、閣僚ポスト辞任を発表”. ロイター. (2011年5月16日) 2011年8月28日閲覧。
- ^ “MM Lee, SM Goh to retire from Cabinet”. ザ・ストレーツ・タイムズ. (2011年5月15日) 2011年8月28日閲覧。
- ^ 『日本経済新聞』2009年2月1日号 『けいざい解読』「民主政治コストと超党派」、大林尚
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: (創設) |
初代:1959 - 1990 |
次代: ゴー・チョク・トン |
| 先代: (創設) |
初代:2004 - 2011 |
次代: (現職) |
| 先代: S.ラジャラタム |
1990 - 2004 |
次代: ゴー・チョク・トン |
| 先代: ホン・スイ・セン |
1983 |
次代: トニー・タン・ケン・ヤム |