当世具足

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当世具足を身に着けた侍の手彩色写真。フェリス・ベアト撮影(1860年代

当世具足(とうせい ぐそく)とは、日本甲冑の分類名称の一つ。戦術の変化、武器の進歩、西洋甲冑の影響などのさまざまな要因により、室町時代後期から安土桃山時代に生じたの形式。単に具足とも称す。

概要[編集]

徳川家康の南蛮具足

当世」とは「現代」の意で、戦国時代当時の人々が、伝統的な鎧に比べて「今様」の新しい鎧という含意をもって用いた呼称が形式化したものである。それまで主流であった胴丸腹巻に取って変わった。

胴丸などが皮の小札を色糸で綴った、華美ではあるが大量生産には向かない構造であるのに対し、当世具足は小札が鉄製の大型のものとなり、大量生産向きとなり、また防御力を増した。さらには大面積の鉄板をつなぎあわせた、あるいは一枚板を打ち出した構造に発展した。集団戦や鉄砲戦といった当時の戦法に適した鎧であり、機能性・生産性を重視し、板札(いたざね)や蝶番を用いるなどの工夫が凝らされた。鉄砲の弾丸を反らせるため、曲線や傾斜を多用した工夫も施されている。

胴丸を改良するかたちで発展し、桶側胴仏胴最上胴等その形式は多く、面頬(めんぼお)、佩楯(はいだて)等の付属する小具足も充実した。ヨーロッパの甲冑を輸入・改造した物もあり、それらは南蛮胴南蛮兜と呼ばれる。後にはそれを模して国産化がなされている。にも様々な形式が生じ、実用性とともに当時の武士の気性を反映した華やかで奇抜な装飾性を持ったものも多い。

特徴[編集]

復古調当世具足の例。徳川秀忠ジェームズ1世に贈ったもの。胴丸を模しているが、新しい様式が各所に見られる。ロンドン塔所蔵。
奇抜な装飾をほどこした兜の例

南北朝から室町時代前期にかけての時代には、胴丸・腹巻といった伝統的な形式の鎧が主に用いられていたが、戦国時代に入ると、集団戦や鉄砲戦といった戦法の変化に伴って、大量生産に適しながらも強固さを具える鎧が求められた。それに応じて、当時の下克上の風潮を反映した、従来の伝統にとらわれない革新的改良がなされ、鎧の生産性・機能性が向上し、より簡便で堅牢なものとなった。しかしながら、胴や兜は堅牢なものになったが、手足を覆う部分は従来の形式を踏襲し、鉄の小片を綴ったり鎖帷子形式で動きやすさが重視されていた。

伝統的な鎧ではそれぞれの形式はほぼ一定であり、大鎧胴丸腹巻はそれぞれがほとんど同じ構造であり、個々の具足のバリエーションは綴る色糸の色の変更でつけるしかなかった。しかし当世具足はそれとは対照的に、多種多様な形式を持つ。

また、単なる形式だけに留まらず、付加的な装飾によって見た目のバリエーションも増えた。これは、合戦規模の拡大の影響により、敵味方識別の必要性や戦場での自己顕示を目的として行われたものである。また、意匠が単純化されたことにより、反ってそれぞれの創意工夫によるバリエーションが増えることになった。例えば兜に装着する前立ては、大鎧などでは鍬型一種類しか存在しないが、当世具足においては、文字や、家紋や、あるいはあえて左右非対称にしたものなど、多種多様なものが存在する。鉄の表面に紙を貼って装飾を施して奇抜なデザインを実現したり、あるいは色糸を胴に貼付けて、胴丸と当世具足を折衷したかのようなデザインに仕上げたものも存在する。

一方で仙台藩伊達政宗の黒漆塗五枚胴具足のように、大将から足軽まで、単純な意匠の同一形式の具足に統一して、ユニフォーム化を図った例もあった。

江戸時代には飾り物としての装飾性から、大鎧・胴丸腹巻を模した復古調の鎧が作られるようになったが、それらも当世具足に含まれるほど範囲が広い。

構造[編集]

板札[編集]

板札(いたざね)。平安時代以来使用されてきた胴丸は、小札(こざね)と呼ばれる革製の小さな板を紐等で縦横に綴じて作られており、その作成は複雑で手間のかかるものであった。そこで、生産の簡易化を図るため、小札の横一段を一枚の板で作成する板札が生み出された。板札は制作が比較的容易であるとともに一枚板であるため、小板より強固であり防御性にも優れていた。この板札をなどで縦に繋ぎ合わせたりで留めるなどして、胴本体・袖・錣(しころ)等の各部を構成する。

蝶番[編集]

小さな鉄板を紐で繋ぎ合わせた小札製の鎧と違い、横長の鉄板でできた板札の鎧は柔軟性が無いため、そのままでは脱着がしにくい。そのため、胴本体を前後2- 6枚程度に分割し、それぞれを蝶番で繋ぐことで脱着を容易にした。胴の切れ目は右脇で閉じ合わせるものが多く、これは胴丸と同様である。蝶番で繋いだ板の数により二枚胴~六枚胴等の名称で分類されることもあるが、多くは二枚胴か五枚胴である。

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当世具足の胴は防御する面積を増すため、一般的に、長側(ながかわ、腹部)・前立挙(まえたてあげ、胸部)・後立挙(背部)の段数が胴丸より1段多くなっている。しかし、小札・板札等を用いず前後2枚の鉄板で作られたものなど様々な形式があり、打出、盛上、漆塗金箔押などの技法によって個性的な装飾が施されたものも多い。下部に付く草摺は7枚が一般的である。

襟廻、小鰭[編集]

襟廻(えりまわし)、小鰭(こびれ)。首周囲、肩上部を守る部品として付属する。

合当理、受筒、待受[編集]

合当理(がったり)、受筒(うけづつ)、待受(まちうけ)。戦国時代、戦闘参加人数の増加に伴い、部隊や個人を識別するために目印として指物(さしもの)と呼ばれる幟旗様のものを背中に差して戦闘を行った。そのため、当世具足の背部には指物を差すための装置(合当理、受筒、待受)が付属する。

小具足[編集]

小具足(こぐそく)。顔面とを防御する面頬(めんぽお)・垂(たれ)、肩部には小型で軽快な当世袖(とうせいそで)、腕部に籠手、脚部に佩楯(はいだて)、臑当(すねあて)など、体の各部分を防御するための部品である小具足が付属した。小具足を装着することによって体のほとんどの部分を装甲で防御することができたが、防御性だけでなく着用者に負担を感じさせない軽量で動きやすいことを重視した構造にもなっている。

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兜(かぶと)。付属するにも機能性・生産性の向上が図られた。伝統的な星兜筋兜の他、頭形兜(ずなりかぶと)、桃形兜変わり兜など様々な形式の兜が用いられ、実用性を追求する一方で装飾性も増した。

各部の名称[編集]

当世具足の各部の名称
  1. (どう) - 右図のものは仏胴
  2. 草摺 (くさずり)
  3. 佩楯 (はいだて)
  4. 立挙 (たてあげ)
  5. 臑当 (すねあて) - 右図は篠臑当(篠金物[しのがなもの]を布地に綴じつけた形式の臑当)。
  6. 甲懸 (こうがけ)
  7. (そで) - 「当世袖」とも言う。
  8. 籠手 (こて) - 右図は篠籠手。
  9. 手甲 (てっこう、てこう) - 右図は摘手甲(つみてっこう)。
  10. 兜鉢 (かぶとばち) - 兜の頭部を覆う部位。右図は日根野[1]頭形。
  11. 腰巻 (こしまき)
  12. 眉庇 (まびさし) - 兜の額の庇(ひさし)。帽子の用語「眉庇」(つば)と同じ。
  13. 吹返 (ふきかえし)
  14. (しころ) - 右図は日根野しころ。
  15. 立物 (たてもの) - 右図は水牛の脇立(わきだて)。
  16. 立物 - 右図は日輪の前立(まえだて)。
  17. 面頬 (めんぽお、めんぽう) - を護る。
  18. (たれ)
  19. 襟廻 (えりまわし)

有名な当世具足[編集]

ユニフォーム化を図った仙台藩を代表する具足で、足軽に至るまで同一形式の具足に統一されている。兜の前立が左右非対称の三日月型になっているのが特徴だが、デザインセンスのみならず、刀を振る時に邪魔にならないように右側を小さくするという実用上の意味合いもある。代々の仙台藩主も、同じ形式の具足を所用している。
ウィリアム・アダムスが漂着した事で知られる、リーフデ号に積載された海兵用のプレートアーマーを回収し、当世具足形式としたもの。家康だけでなく、主要な家臣にも分与されている。
  • 伊予札黒糸威胴丸具足 (いよざね くろいとおどし どうまる ぐそく) - 徳川家康所用。久能山東照宮蔵。
  • 金溜塗二枚胴具足 (きんためぬり にまいどう ぐそく) - 徳川家康所用。久能山東照宮蔵。
金箔と漆で仕上げてあり色彩は派手であるが、付加的な装飾は一切無く、意匠は単純である。家康が初陣の際(今川義元の人質として辛酸を舐めていた当時)に着用したと伝わる。それが事実であるなら、後に色だけ塗り直したものと思われる。
肌色に塗った当世具足の上に、胴丸を模して色糸を貼付けており、あたかも胴丸を半脱ぎにしたような意匠になっている。
井伊直政は、配下の兵まで全て朱塗りの具足に統一し、「井伊の赤備え」として知られる。
  • 黒絲威二枚胴具足 (くろいとおどし にまいどう ぐそく) - 本多忠勝所用。個人蔵。
  • 金小札浅葱威二枚胴具足 (きんこざね あさぎおどし にまいどう ぐそく) - 直江兼続所用。上杉神社蔵。
兜の前立が、「愛」の文字になっている事で知られる。

脚注[編集]

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関連項目[編集]