井伊直政

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井伊直政
Ii Naomasa.jpg
時代 安土桃山時代後期から江戸時代前期
生誕 永禄4年2月19日1561年3月4日
死没 慶長7年2月1日1602年3月24日
改名 虎松、万千代(幼名)、直政
別名 井伊の赤鬼、人斬り兵部(渾名)
戒名 祥壽院殿清涼泰安大居士
墓所 滋賀県彦根市の祥壽山清涼寺
官位 従五位下、従四位下、兵部大輔、侍従
従三位
主君 今川氏真徳川家康
上野高崎藩主→近江佐和山藩
→近江彦根藩
氏族 井伊氏(自称藤原氏)、松下氏
父母 父:井伊直親、母:奥山親朝の娘
継父:松下清景、養母:井伊直虎
兄弟 直政政元
正室:松平康親娘・徳川家康養女)
側室:伊具
直勝直孝、政子(松平忠吉正室)、
德興院(伊達秀宗正室)

井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名井伊氏第24代当主[1]上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩彦根藩)の初代藩主。

徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏鳥居氏と並び、三河岡崎御普代として記載されている(譜代の最古参は、安城譜代)。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となった人物であり、現在の群馬県高崎市滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。

徳川四天王徳川十六神将徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。

大正6年(1917年11月17日、贈従三位。

目次

[編集] 生涯

[編集] 家康の家臣になるまで

永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。幼名は虎松。井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、直政の祖父(または一族)井伊直盛今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松は僅か2歳であったため、新たに直親の従兄妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、中継ぎとして井伊氏の当主となった。

その後、生母が今川氏の家臣である松下清景と再婚したため、虎松は井伊氏の家督相続権を失う。

しかし、やがて井伊氏は井伊谷の所領を失い、虎松も今川氏に命を狙われる日々を送っていたが、新野親矩に救出されて、その後は養母である井伊直虎に育てられた。天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷を与えられ、家康の小姓として取り立てられた。同年、家督を代行していた養母の直虎が亡くなったため、正式に当主となった。

[編集] 安土桃山時代

万千代は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立て、その勇名を轟かせた。天正10年(1582年)、22歳で元服を終え、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。その後、旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝榊原康政の同僚となる。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、無事に滞在先のから三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、天正壬午の乱北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し政治的手腕を発揮、家康が武田氏の旧領である信濃国甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数与力に付属され、家康の命により山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を復活させて井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となった。また、同時に井伊谷4万石に加増された。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは初めて赤備えを率いて武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。まだ小柄な体つきで、顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような前立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。直政の武力・政治的手腕は豊臣秀吉にも高く評され、家康と秀吉が和解すると、従五位下侍従兵部少輔に叙任される。天正13年(1585年)には真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。この後、井伊谷6万石に加増される。

直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年(1590年)の小田原の役では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を天下に轟かせる。奥州仕置九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を務めた。その後、北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪城群馬県高崎市)に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられる。因みに10万石以上を与えられた者は、直政、本多忠勝、榊原康政の3人のみである。慶長3年(1598年)には、家康の命によって箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城とした(地名の由来に関しては高崎市の項目を参照)。この時、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っている。しかし、家康付きの公務が多忙で高崎には腰を落ち付けてはいられなかった。この頃、直政は大阪にあって、反石田三成派の諸将と交渉に携わった資料が多数残されている。秀吉の死後、家康と三成の対立が濃厚になると、僅かな兵のみで上京している家康の身辺に、度々危険が迫る事があったが、その度に直政の機転で難を逃れている、

[編集] 関ヶ原の戦いと戦後処理

関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、また合戦においても初陣となる家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)をよく補佐して忠吉と共に当初、東軍の先鋒を任されていた福島正則を差し置いて先鋒を務めた(本来ならば、直政も忠吉も軍令違反で処罰の対象になるが、家康は直政の駆け抜けを認めたため、処罰を命じなかった)。その後の直政と忠吉の行動に関しては、宇喜多秀家小西行長の軍と戦った、敵中突破退却を図ろうとする島津義弘の軍と戦ったと言う2説があるが、最近では島津軍と戦ったという説が有力であるとされている。この戦いで義弘の甥である島津豊久を討ち取った。しかし、島津軍を追撃している際に敵の銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し、落馬してしまう。

関ヶ原の戦いで大怪我を負ったにも関わらず、精力的に戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和、長宗我部盛親の謝罪の取次ぎ、その後、盛親が家臣の讒言から兄を殺害してしまったことにより所領没収となった際には、部下を土佐に派遣した。山内一豊の土佐入国の援助、徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち(直政自身は和平交渉が完全に終了する前に亡くなったので、その後の和平交渉の仲立ちの役目は本多正信に引き継がれた)などと、抜群の政治センスや外交手腕を発揮している。また、真田昌幸と次男・信繁(幸村)の助命にも進退を懸けてまで尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、ここで恩を売っておけば、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったという。これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられた。

また、この頃家康が直政・大久保忠隣・本多正信・榊原康政・本多忠勝・平岩親吉ら6人の重臣を呼び集め、自分の世嗣を誰にするか尋ねているが、直政はこの時自分の娘婿である忠吉を推している。しかし結果的には忠隣が推した徳川秀忠が世嗣となった。

[編集] 江戸時代

慶長7年(1602年)2月1日に、おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、破傷風が元で死去した。直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の亡霊が城下を彷徨っているという噂が広まって、このことが家康の耳に入り、家康の命によって、佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した。

その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩は廃藩となった。代わってこの地には新たに彦根藩が置かれた。それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。

家康は、非常時に皇室を守るため、京都に近い彦根に代々勤皇の家柄である井伊家を配したと伝えられ、これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。

井伊氏の跡継ぎ問題に将軍家が口出しをすることもあった。実際、直政の次男である井伊直孝を彦根藩の第2代藩主(記述によっては第3代藩主)に命じたのは家康である。

[編集] 人物・逸話

井伊直政像(彦根駅前)
  • 直政は家康の寵童だったともいわれている。家康は自邸の庭近くに直政の家居を作らせて折々通っていた(『徳川実紀』、『天元実紀』)。「万千代(直政)、近年家康の御座を直す」(『甲陽軍鑑』)[要高次出典]。「御座を直す」は、主君の伽(とぎ)のお相手をする隠語として用いる。また、『甫庵太閤記』でも「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録がある(但し「寵童」の記述ではないため時期不明)。
  • 直政がまだ家康の小姓だった頃、大久保忠世の陣中に招かれて他の若手の武将とともに芋汁を振舞われた。だが、戦場の事であり味噌糠味噌、具はの葉や茎が混ざったものであった。だが、他の若い武将は芋汁を食べているのに、直政の食は進まない。忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「醤油はありませんか」と応じた。このことを聞いた他の武将達は「ここは戦場だと言うのにそのような物があるわけがないだろう」と口々に直政を非難した。忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士達はこのような物でも満足には食べられない。ましてや農民達の中にはもっと苦しい生活をしている者達もいる。一軍の将になりたいのであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。そのためにここへ呼んだのだ」と言った。新参でありながらも若くして選抜され、部下にも厳しかった直政に対する周囲の目は厳しかった。これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていくのである(ちなみに、ここで伝えられる醤油は、味噌を作る際の「たまり」であるため、現在の醤油とは異なる。現在のような醤油が作られるようになったのは江戸時代になってからである)。[要出典]
  • 伊賀越えに直政は小姓組として従ったが、勇壮な働きを見せ、家康を守ったという。この時の働きへの褒美として家康から孔雀の羽で織った陣羽織を授かった。この陣羽織は現在、新潟県三島郡与板町の歴史民俗資料館に保管されている。
  • 美男子として知られ(『太閤記』、『塩尻』、『徳川実紀』)、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女達が、直政に惚れ込んだという(直政のもてなしがとても丁寧だったという理由もある)。
  • また、人質の大政所を豊臣に返す際に、大政所の懇願で警護を任された。直政の手厚い保護に秀吉は大変喜び、自ら茶を立てて直政の疲れを癒そうとした。そこには、かつては家康の家臣であったが、今は秀吉の下に寝返って家臣となった石川数正も同席していた。このことに我慢ができなくなった直政は数正に向かって、「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」と怒鳴った。これはいかに直政が家康に対して忠義を尽くしていたかを伺える何よりの証拠と言える。なお、数正が秀吉の下に去ったのは天正13年(1585年)で、この事件が起こったのはその1年後の天正14年(1586年)である。
  • 天正16年(1588年)に秀吉が聚楽第後陽成天皇を招き行幸が行われた際に、家康の配下として唯一、秀吉直属の大名と同席に参列した。この時に、陪臣でありながら有力大名並の侍従という官職に正式に就いていた事を示す貴重な資料(「聚楽第行幸記」)が残っており、秀吉の信頼の厚さを示している。
  • 小田原攻めの時、秀吉陣営の手薄なのを覗い知り、家康に「いい機会ですから秀吉を討ち取りましょう」と進言したが、「今はまだその時ではない。焦るな」と戒められたともいう(『常山紀談』)[要高次出典]
  • その小田原攻めでは、唯一城内に攻め入り、四百人の北条方を討ち取り「万事にぬきんで合戦し、天下に誉を得後代に名を残せり」(『北条五代記』)と称揚される働きをした。
  • 関ヶ原の戦いの後、直政は石田三成の旧領を家康から賜ったが、三成は善政を敷いていたため、領民の信望が厚かった。直政はこのことを熟知していたため、佐和山城に入城すると、民政は三成のやり方を踏襲すると触れを出し、領民が三成を弔うことも黙認した。そのため、領民の心をつかむことに成功したという。また、三成が処刑される前、直政は三成の面倒を任されており、あまり三成に好感を抱いていなかったが、三成を手厚く保護した。
  • 直政は徳川家中の中では外様でありながら、徳川家臣随一の領国を与えられていた。このため、三河譜代からの家臣から嫉妬、反発されたが、直政はそれに対して常に家康に奉公することで退けたという。ただし、そのあまりに厳しすぎる奉公ぶり、それは自分だけにとどまらず、周囲にも強要するほどのものであったという。そして直政自身は気性が激しく、家臣のわずかな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも称されたという。また、家臣に気安く声を掛けることも殆ど無かったという(元来、寡黙な性格ではある)。しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主の頃は、城下の民衆から慕われていた。
  • 大身になる前の頃、直政がどうしてもとねだるので家康が数ある愛馬の中から、特に栗毛の名馬を直政に与えた。これを聞いた本多重次がわざわざ直政のいるところで、「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」といった意味のことを放言した。年が下って家康が関東に移ると直政は家中一の大身となったのに対し、重次は3000石しか与えられなかった。そして、大身になった直政は重次と顔を合わせた時、「昔、殿が名馬を下さった時に子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬に違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな」と言い放った。このことから、直政は人に言われたことをすぐ根に持つタイプ、すなわち負けず嫌いであったということが分かる(「井伊年譜」[要高次出典])。
  • 毛利家の重臣である小早川隆景は直政の武勇・政治的手腕に関して「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取ることもできるということを意味している。また、隆景だけでなく、地方の武将達も同じようなことを噂していた(『名将言行録[要高次出典])。
  • 関ヶ原の戦いが終結し、西軍に与した立花宗茂征討軍議が佐和山落城後に行われた時に、鍋島勝茂から直政の作法や容儀を称賛され「天下無双の英雄、勇士百世の鑑とすべき武士なり」と評された(『葉隠』)。
  • 井伊の赤備えは、戦国屈指の先鋭部隊として天下に名を轟かせていたが、[要出典]家臣達の中には直政による厳しい軍律に耐えられなくなり、本多忠勝の下に去る者達も多かったという。近藤秀用などのように出奔してしまった例もある。筆頭家老である木俣守勝ですら、直政の下にいるのが怖くなり、家康に旗本に戻してくれるように頼んだ。
  • 直政は家臣に非常に厳しく、少しでも戦で失敗をした者がいれば容赦せず処罰し、一軍の将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格で、短所も多かった。そのため、戦の際に陣に留まって指揮を執ることはほとんどなく、筆頭家老である木俣守勝がその役目を果たしたという。
  • 一時期滅亡していた井伊氏をわずか一代で再興させ、さらに江戸幕府譜代大名の筆頭にまで成長させた。
  • 直政は徳川氏の家臣の中で秀吉から最も気に入られて、厚い信頼を受けていた。秀吉に豊臣の賜姓を打診(「後陽成天皇口宣案」)されているが丁重に断っている(『井伊家譜』)。
  • 関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山18万石を与えられたが、自分が嫌っていた石田三成の旧領であったため、直政自身はあまり納得しておらず、家康に上野国高崎に戻してもらうように頼んだ。
  • 武家社会において、主君が亡くなった時に家臣が殉死することは当たり前であったが、直政の遺言を守った井伊家では殉死者が一人も出なかった。
  • 生涯に参加した57回の戦で軽装備であったにもかかわらず、一度も傷を負わなかった本多忠勝に対して、直政は重装備であったが、戦で常に傷を負っていたという。このように直政と忠勝は度々比較の対象となったりすることがあり、この2人はお互いにライバル同士であったため、あまり仲がよくなかったとされる(記述によっては忠勝だけが直政をライバル視していたとされることもある)。なお、忠勝と同年齢の榊原康政とは、最初はあまり仲がよくなかったとされるが、家康が関東に入国してから共に行動をすることが多くなり、段々と仲がよくなっていったとされている。家康の筆頭家老である酒井忠次も家康と同じように直政に対して暖かい目で見守っていた。ちなみに忠次は直政がまだ一軍の将になったばかりの頃に康政がそのことを妬んだために叱ったことがある(『武功実録』[要高次出典])。
  • また、康政との交流の深さを知る上で、康政の次の様な言葉がある。「大御所(家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」と語り、直政が従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政は安堵したという(『名将言行録』[要高次出典])。
  • ある時、家康は直政の家臣達を1つの場所に集めて、直政の衣服を脱がせて体に残っていた戦傷の一つ一つを涙ぐみながら説明したという。このことを聞いた直政の家臣達も家康を見てもらい泣きをし、自分達も主君である直政のために全力で武功を挙げようという決意をした。[要出典]
  • 関ヶ原の戦いの後、直政は西軍の一員であった島津義弘から家康との和平交渉の仲立ちを依頼された(徳川氏の家臣の中に政治を専門とする本多正信がいるにもかかわらず)ことからその政治的手腕は、他家の者達に知れ渡っていたと思われる。[要出典]
  • 他人を評価することがめったにない家康は、直政のことを「余人がいない時に直政が意見を出してくれる」と高く評価している。[要出典]
  • 直政は石川数正と並んで徳川氏の家臣の中でも数少ない外交官として、大いに力を発揮し、また、家康から見て本多正信と並んで天下取りの知恵袋とされていた。[要出典]
  • 直政は正室である唐梅院に対してはかなりの恐妻家で、誰よりも負けず嫌いであった直政もこの唐梅院だけには頭があがらなかったという。直政の次男である直孝は唐梅院の侍女を母に産まれたとされるが、直政は直孝の誕生後、十年近くも対面しようとしなかった。唐梅院に対し大いに遠慮していたためと思われる。[要出典]
  • 関ヶ原の戦いの後、江戸から離れた領地に移封されて政治の表舞台からも姿を消しているが、直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が元で破傷風を起こしているため病気で出仕できなかったからとの見方が大勢である。[要出典]

[編集] 直政の忠義

直政は家康に対する忠義心が最も篤かった。直政は常に家康の片腕として彼の下を離れず、戦だけでなく、政治や私生活の面でも全力で家康のために働き続けたことがその証拠と言える。また、家康を裏切り、秀吉の下に寝返って家臣となった石川数正には激しい憎しみを抱いていた。実際に直政は、自分の怒りを数正にぶつけたことがあった(詳細は「人物・逸話」の項目を参照)。なお、家康自身も直政の武力や政治的手腕における才能を高く評価し、見守り続けていた。これらのようなことから、直政は家康に最も厚く信頼されていた家臣だとされている。

[編集] 井伊の赤備え

天正10年(1582年)の後北条氏との講和によって、武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の一部が配属されたことから始まる。この時、直政は兜や鎧を始めとする戦で使用する全ての装備品を赤色で統一させた。これはかつて武田の赤備えの将であった山県昌景の意志を継ぐという意味もあったが、その他に赤色だと目立ちやすく、戦の最中にどこに自分の部下達がいるのかが一目で分かるという意味もあった。初陣の小牧・長久手の戦いでは大いに活躍し、徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵を有していた羽柴軍の総大将である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)やその配下の武将達もこの井伊の赤備えには大変手こずったという。この頃から井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」または、「徳川家臣団最強の部隊」と見なされ、諸大名に恐れられるようになる。以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。

[編集] 子孫

家督は長男の井伊直勝が継いだが、病弱であったため、家康の直命により、直勝は隠居して直勝の弟・井伊直孝が家督を継ぐこととなり、直孝の子孫が彦根藩主を継承することとなる。直勝の子孫は、安中藩主→西尾藩主→掛川藩主→与板藩主として存続した。

直政の死後、佐和山城を廃して彦根城を築き、大坂の役の後に5万石ずつ加増されて35万石の大大名となった直政の子孫は、譜代大名の筆頭として幕政に重きをなし、江戸時代264年間を通じて井伊直弼など5名の大老を輩出した(直孝が大老になったかどうかは賛否両論ある)。しかし、直弼が安政5年(1858年)に安政の大獄を起こし、その後、安政7年(1860年)の桜田門外の変で暗殺された後、10万石の減封を受け、徳川氏から冷遇されるようになった。

その後、第二次長州征伐では彦根藩510人が赤備えを率いて出陣したが、鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり、遊撃隊に狙撃され、鎧を脱ぎ捨てて壊走するほどの大敗を喫したと言う。鹵獲した武具について石川小五郎に「何分甲冑夥しき事数知れず、火砲も十余挺隊中へ奪ひ候、 中ニもアメリカホード拾弐封度弐挺此分ハ余程の名砲乍併ライフルニ而ハ無之候、小銃ハ少く、偶これ有り候もヤーグル又は倭筒にカンを付け候様の物にて無用の品のみ、それ故戦争中にも小銃せり合は余程容易に候得共、大砲は思ひの外能く打ち候様相考えられ」と酷評されている。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の先鋒を務めたが、戦闘の最中に新政府軍に寝返った。この時、井伊隊に属していた兵の全員が井伊氏の象徴とも言える井伊の赤備えの兜や鎧を始めとする全ての装備品を脱ぎ捨てたという。明治時代になると、伯爵となり、華族に列した。

[編集] 家臣

[編集] 脚注

  1. ^ 養母の井伊直虎を入れ数えると25代目だが、中継ぎとされるため直政が24代目にあたる。

[編集] 参考文献

  • 井伊達夫『井伊軍志』(彦根藩史料研究普及会、1988年6月)
  • 井伊達夫『井伊家歴代甲冑と創業軍史』』(宮帯出版社1997年8月)
  • 井伊達夫『剣と鎧と歴史と』(京都戦陣武具資料館、1999年)
  • 高野澄『井伊直政-逆境から這い上がった男』(PHP研究所1999年12月)
  • 羽生道英『井伊直政-家康第一の功臣』(光文社2004年10月)
  • 池内昭一『天下取りの知恵袋-井伊直政』(業文社、1995年11月)
  • 中村元麻呂・中村不能斎『井伊直政・直孝』(彦根史談会、1951年
  • 南原幹雄『徳川四天王(上・下巻)』(新人物往来社2003年9月)
  • 「井の国千年物語」編集委員会『井伊氏とあゆむ 井の国千年物語』(引佐町教育委員会、2005年3月)
  • 津本陽『獅子の系譜』(文藝春秋2007年10月)
  • 井伊達夫『赤備え』(宮帯出版社、2007年5月)
  • 井伊達夫『井伊軍志』(新装版)(宮帯出版社、2007年6月)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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